通局(つうきょく) ― 通と局。広く包括することと、狭く限定すること。
通は、随煩悩という名は煩悩をも含める。
局は、煩悩以外の他の染汚の法をただ随煩悩と名づける。
「随煩悩という名は亦煩悩をも摂めたり、是れ前(さき)の煩悩の等流性(とうるしょう)なるが故に、煩悩の同類たる余の染汙(ぜんま)の法をば、但随煩悩のみと名く、煩悩に摂めらるるものには非ざるが故に。」(『論』第六・三十一右) (随煩悩という名はまた煩悩をも含めているのである。これは前の煩悩の等流性で有ることから、煩悩の同類である他の染汚の法をただ随煩悩と名づける。この随煩悩は煩悩ではないからである。)
文段は二つに分かれます。
(1)「随煩悩という名は亦煩悩をも摂めたり。」
(2)「是れ前(さき)の煩悩の等流性(とうるしょう)なるが故に、煩悩の同類たる余の染汙(ぜんま)の法をば、但随煩悩のみと名く、煩悩に摂めらるるものには非ざるが故に。」
(1)は広範囲で語られます。随煩悩をも含めて煩悩と名づく。
(2)は限定されて随煩悩とは、煩悩を除く、煩悩の同類等流性であう染汚の法を随煩悩と名づくのである。
本科段は、随煩悩の使い方に二種あることを説明しています。これは、多数の煩悩があることや、二十の随煩悩の他にも多数の随煩悩が存在することを示しているわけです。
「 論。隨煩惱名至非煩惱攝故 述曰。自下第五解隨惑名通局。八十八貪等亦名隨煩惱。對法第七亦有此義。煩惱皆隨。隨非煩惱。如彼法蘊足等廣解。謂忿等及六十二説。趣向前行等是煩惱同類。染汚法但名爲隨。煩惱等流故。不名煩惱非根本故 既有多種皆名爲隨。何故此中唯説二十。」(『述記』第六末・八十九右)
(「述して曰く、自下は第五に、随惑の通局を解す。八十八に貪等も亦随煩悩と名づけたり。対法第七に亦此の義あり。煩悩は皆随なり。随は煩悩に非ず。彼の法蘊足等に広く解するが如し。謂く忿等と及び六十二に説く趣向前行(しゅこうぜんぎょう)等は是れ煩悩の同類なり。染汚の法を但名けて随と為す、煩悩の等流なるが故に、煩悩と名づけざるをば根本に非ざるが故に。すでに多種あり。皆名づけて随と為せば、何故に此の中に唯二十を説けるや。」)
『瑜伽論』巻第六十二に「云何が名づけて随煩悩多しと為すや。謂く諂と誑と矯と詐と無慚と無愧と不信と懈怠と忘念と不定と悪慧と慢緩(まんかん)と猥雑(わいぞう)と趣向前行と遠離することを捨つる軛(やく。煩悩の異名)と、所学処に於いて甚だ恭敬せざると、沙門を顧みざると、唯活命のみを希い涅槃の為に出家を求めざるとあり。」
慢緩 - だらけてたるんでいること。
猥雑 - ごとごたと入り乱れているさま。
趣向前行 - 「僧祇或は復た別人の諸の衣服(えぶく)等の所有る利養を受け、或は僧祇及び別人を請するを皆な趣向と名づく、若しくは諸の苾芻(びっしゅ。比丘)は是の如き事に於て最初に前行す、故に趣向前行と名づく。」
六十二巻をみますと、慢緩(まんかん)と猥雑(わいぞう)と趣向前行等といった随煩悩も見られます。このような多数の随煩悩があることが解りますが、『述記』はここに問いを立てています。「皆名づけて随と為せば、何故に此の中に唯二十を説けるや」と。『論』では二十の随煩悩しか説かれていないのは何故であるのか、と。
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