日々新しき、いのちの奇蹟に、合掌。
第六は、随煩悩を二十とのみ数える理由を説く。
随煩悩の条件は、「一に根本煩悩に非ず。二に唯だ染なり。三には麤なるが故に。」と示されています。随煩悩の定義が示されます。
「唯だ二十の随煩悩のみと説けることは、謂く、煩悩に非ず、唯だ染なり、麤(そ)なるが故なり。」(『論』第六・三十二右)
(前科段で随煩悩は多数を数えると示してきたが、『論』には随煩悩の数は二十とのみ説かれいる。其の理由は、つまり随煩悩は煩悩ではないこと、ただ染であること、そして麤(粗雑)であるといことからである。)
先ず、『述記』の釈を聞きますと、
「論。唯説二十至唯染麁故 述曰。自下第六釋其廢立。謂有三義。貪等雖是隨。此中二十非煩惱故不説貪等。邪欲等法亦雖是隨。是別境法體通三性。此唯染故故不説彼。然失念等是癡分故説之。不爲念分故説也。以有癡分念攝在中無不定過。趣向前行等亦雖是隨。行相細故。此相但麁。是故具此三義。一非煩惱。二唯染。三麁故。唯説二十更不説餘。」(『述記』第六末・八十九左。大正43・462a)
(「述して曰く、自下、第六に、其の廃立を釈す。謂く三義あり。(一)貪等も是れ随なりと雖も、此の中の二十は(根本)煩悩に非るが故に、貪等を説かず。(二)邪欲等の法も亦た是れ随なりと雖も、是れ別境の法にして、体は三性に通ず。此れ(随煩悩)は唯だ染なる故に、故に彼(邪欲等)を説かず。然るに失念等は是れ癡の分なるが故にこれを説けり。念の分と為すが故に説くに非ず。癡の分にして念を中に摂在すること有るを以て不定の過(とが)なし。(三)趣向前行等も亦た是れ随なりと雖も、行相が細なるが故に、此の相は但だ麤なり。是の故に此の三義を具す。一に(根本)煩悩に非ず。二に唯染なり。三に麤なり。故に唯二十のみを説いて更に余を説かず。」
『述記』の釈で随分はっきりします。少し説明を加えますと。
(1)に関しては、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見という根本煩悩も随煩悩と呼べるけれども、随煩悩は煩悩ではないという点から、随煩悩の条件から外されます。
(2)に関しては、随煩悩は「ただ染である」ということですね。ただ染であるということは、三性に通じないことを意味します。従って、邪欲や邪勝解は随御煩悩と言い得るが、この邪欲や邪勝解は別境の心所の悪のものであって、三性に通じるものであるわけで、ただ染と云うわけにはいきません。不定も三性に通じますから除かれます。では何故、失念と不正知が随煩悩の中に入れられるのかという問いが出てきますが、念は別境の心所ですから、三性に通じます。しかし、失念は癡の一分として随煩悩であると説いています。また慧と癡の一分である不正痴も同様です。
(3)に関しては、麤であう、つまり荒々しいことが随煩悩の性格である。細やかな煩悩は随煩悩とはいえないということですね。趣向前行は随煩悩ではあるが、行相が細やかである為に、随煩悩の中には入れられないとされます。この趣向前行ですが、昨日は『瑜伽論』の説明だけを挙げました。どういうことを云っているのかがはっきりしませんでしたのであえて解説しないでおきましたが、私たちが一番わからないところは、細やかに審らかに働く煩悩なんですね、そえがたとえ染なるものであっても、気づくことが殆ど不可能といるような煩悩です。例えば、涅槃と菩提を障える煩悩は随煩悩とはいえないのです。私たちが、経済一辺倒になり、それによって幸せがもたらされるという錯覚も当然なことなんですね。趣向前行の直接的な意味は、僧祇(比丘)や別人(在家者)が衣服などや、諸々の利養を受けたり、比丘や在家者が招待を受けることを趣向といい、この時比丘がこのような事柄に最初に進み出ること、つまり請われもしていないのに最初に進みでるとを前行といい、これが趣向前行の意味するところであろうと思います。布施と関わるようなことかもしれませんね。或は時と機の問題ですね。請われもしないのに、厚かましくも出しゃばるようなことでしょうが、これも随煩悩なんですね、ただ細やかに働いていますから随煩悩の中には入らないのでしょう。
第六は、随煩悩を二十とのみ数える理由を説く。
随煩悩の条件は、「一に根本煩悩に非ず。二に唯だ染なり。三には麤なるが故に。」と示されています。随煩悩の定義が示されます。
「唯だ二十の随煩悩のみと説けることは、謂く、煩悩に非ず、唯だ染なり、麤(そ)なるが故なり。」(『論』第六・三十二右)
(前科段で随煩悩は多数を数えると示してきたが、『論』には随煩悩の数は二十とのみ説かれいる。其の理由は、つまり随煩悩は煩悩ではないこと、ただ染であること、そして麤(粗雑)であるといことからである。)
先ず、『述記』の釈を聞きますと、
「論。唯説二十至唯染麁故 述曰。自下第六釋其廢立。謂有三義。貪等雖是隨。此中二十非煩惱故不説貪等。邪欲等法亦雖是隨。是別境法體通三性。此唯染故故不説彼。然失念等是癡分故説之。不爲念分故説也。以有癡分念攝在中無不定過。趣向前行等亦雖是隨。行相細故。此相但麁。是故具此三義。一非煩惱。二唯染。三麁故。唯説二十更不説餘。」(『述記』第六末・八十九左。大正43・462a)
(「述して曰く、自下、第六に、其の廃立を釈す。謂く三義あり。(一)貪等も是れ随なりと雖も、此の中の二十は(根本)煩悩に非るが故に、貪等を説かず。(二)邪欲等の法も亦た是れ随なりと雖も、是れ別境の法にして、体は三性に通ず。此れ(随煩悩)は唯だ染なる故に、故に彼(邪欲等)を説かず。然るに失念等は是れ癡の分なるが故にこれを説けり。念の分と為すが故に説くに非ず。癡の分にして念を中に摂在すること有るを以て不定の過(とが)なし。(三)趣向前行等も亦た是れ随なりと雖も、行相が細なるが故に、此の相は但だ麤なり。是の故に此の三義を具す。一に(根本)煩悩に非ず。二に唯染なり。三に麤なり。故に唯二十のみを説いて更に余を説かず。」
『述記』の釈で随分はっきりします。少し説明を加えますと。
(1)に関しては、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見という根本煩悩も随煩悩と呼べるけれども、随煩悩は煩悩ではないという点から、随煩悩の条件から外されます。
(2)に関しては、随煩悩は「ただ染である」ということですね。ただ染であるということは、三性に通じないことを意味します。従って、邪欲や邪勝解は随御煩悩と言い得るが、この邪欲や邪勝解は別境の心所の悪のものであって、三性に通じるものであるわけで、ただ染と云うわけにはいきません。不定も三性に通じますから除かれます。では何故、失念と不正知が随煩悩の中に入れられるのかという問いが出てきますが、念は別境の心所ですから、三性に通じます。しかし、失念は癡の一分として随煩悩であると説いています。また慧と癡の一分である不正痴も同様です。
(3)に関しては、麤であう、つまり荒々しいことが随煩悩の性格である。細やかな煩悩は随煩悩とはいえないということですね。趣向前行は随煩悩ではあるが、行相が細やかである為に、随煩悩の中には入れられないとされます。この趣向前行ですが、昨日は『瑜伽論』の説明だけを挙げました。どういうことを云っているのかがはっきりしませんでしたのであえて解説しないでおきましたが、私たちが一番わからないところは、細やかに審らかに働く煩悩なんですね、そえがたとえ染なるものであっても、気づくことが殆ど不可能といるような煩悩です。例えば、涅槃と菩提を障える煩悩は随煩悩とはいえないのです。私たちが、経済一辺倒になり、それによって幸せがもたらされるという錯覚も当然なことなんですね。趣向前行の直接的な意味は、僧祇(比丘)や別人(在家者)が衣服などや、諸々の利養を受けたり、比丘や在家者が招待を受けることを趣向といい、この時比丘がこのような事柄に最初に進み出ること、つまり請われもしていないのに最初に進みでるとを前行といい、これが趣向前行の意味するところであろうと思います。布施と関わるようなことかもしれませんね。或は時と機の問題ですね。請われもしないのに、厚かましくも出しゃばるようなことでしょうが、これも随煩悩なんですね、ただ細やかに働いていますから随煩悩の中には入らないのでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます