唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『成唯識論』は何を教えているのか。(3) 八識の関係

2014-01-03 17:48:23 | 『成唯識論』は何を教えているのか。

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 曽我量深先生 『法蔵菩薩』より 

「この末那識、阿頼耶識というのは、特殊の、深いところにある、一つの働きであると、まあ、こう言うておるのでございますが、この末那識というのは、つまり、言うてみれば、我というものである。「おれが」ということ。それから、「わがもの」ということ。「われ」と「わがもの」ということを始終ふかく思量し、思惟しておるところのはたらきがあって、深層意識と言われているものであります。つまり、私どもがわれ(我)と言い、わがもの(我所)と言うのを、我見・我所見と言う。我・我所を主我・客我とも言いますが、我というのは主我、我所というのは客我である。こういうように、迷いによって、まず、われというものをたてている。われというものをたてて行けば、われ以外の一切のものはわが所有であると、すべてのものを所有して行く。それで、まあ、この末那識が、迷いの根源である。
 意識のもう一つ深いところに、末那という意識があって、これは、ねてもさめても、はたらいているものであります。眠っておっても夢を見るということがありますけれども、しかし、もう夢すらも見ないということもあります。そういうことがありまして、第六意識というものはほとんどいつでも働いているというものでありましょうけれども、第六意識というものは、また、働かない時もある。ところが、第七識は、第六意識のもう一つ深いところにあって、ねてもさめても働いていて、しかも、第六意識のよりどころになるものである。
 いつでも第七識というものが内にあって、そして、それあるが故に、それによって、第六識というものは働いておるものである。第七識の末那というのがなかったならば、第六識は、よりどころを失うのである。まあ、こう言うので、この『成唯識論』では、第七末那識というものをたてて、これが、つまり、我々の迷いの根源である。もっとくわしくお話しなければ意味がはっきりしないんでありますけれども、とにかく、こういうようにしておくのであります。」(『法蔵菩薩』p32~p33)

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    第八阿頼耶識       (種子・現行・熏習) 
       
↑↓       } 我
     第七末那識        迷いの根源(我・我所)
        ↓
     第六意識    
       ↓↑
      前五識

 種子・現行・熏習

 種子は一切万法の因(一切種子識)であり、生きているということが現行、種子が具体化した所の姿でしょう。果が因を証明し、因が果を予測しているということになる。ですから、現行は依他起性である。迷いには、迷いの法則があり、悟りには悟りの法則がある。迷いの根源は末那識ではあるが、任運法爾の種子・現行は阿頼耶識。阿頼耶識にかえれば異熟識になる。迷いを縁として迷いを転ずることが出来る。
 唯識の命題に「人人唯識」が云われているが、一人一人が任運法爾の阿頼耶識をもっていて、他を穢さない。すべてを受け入れておおらかである。そういう阿頼耶識をお一人お一人がもっていらっしゃる。
 本来、阿頼耶識を生きているんだけれども、末那識によって覆っているわけでしょう。覆っているのが我ですね。妄執です。妄は、実体がないのに実体が有るとして執着していることですが、無我を我と執して、無我を固定化し、私有化し、我として縛り付けて阿頼耶識を覆っているわけですね。
 『成唯識論』は、この迷いの相を解明し、迷いを転ずることに於て安楽という、いつ、いかなる状況に於ても不虚作(むなしくすぎることのない)人生を送ることが出来ることを教示しているわけでしょう。これを経典では「現生正定聚・住不退転」といわれ、本願成就の具体性を現しているのではないかと思われます。
 「今、此の論を造することは、二空に於て、迷・謬すること有る者に正解を生ぜしめんが為の故なり。解を生ぜしめることは二の重障を断ぜしめんが為の故なり。我・法と執するに由って二の障、具さに生ず。若し二空を証しぬるときは、彼の障も随って断ず。障を断ぜしむることは二の勝果を得せしめんが為の故なり。生を続する煩悩障を断ずるに由るが故に真解脱を証し、解を礙ふる所知障を断ずるに由るが故に大菩提を得。」

 我執・法執を転ずることにおいて得られる勝果は涅槃と菩提ですが、果は現行として与えられている、因は一切種子識である阿頼耶識です。因は、証大涅槃の真因であり、「これ念仏往生の願より出でたり。」。「出でたり」ですから、「常没の御凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにはあらず」。無上妙果は果として現行していることを暗に教えて下さっているわけでしょう。離言の言としてですね。
 「方便化身土」には「すでにして悲願います。」と教えられ、具体的に、「韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す」とあらわされ、『経』には「教我観於清浄業処」と言えり。「清浄業処」と言うは、すなわちこれ本願成就の報土なり。」と。

 

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