― 所依について ―
所依という場合には、四義を備えなければならないといい、依と区別をしています。依は一般的な法則。存在するものはすべて縁に依って生じているものでしたが、所依と言う場合には一般的な法則ではなく、心の問題を捉えて主体的に「自己」の問題を考えていくのです。
「若し法が決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、乃ち是れ所依なり、即ち内の六処ぞ、」(『論』第四・二十右)
(もし法が決定し、境を有し、主となり、心心所に自の所縁を取らせるならば、これが所依である。即ちこれらの条件を備えているものは内の六処である。)
護法の正義が述べられます。前三師の説は依と所依の区別をつけていないので誤りであると批判していました。この科段では所依について説明されます。所依とは倶有依を指します。
諸識の倶有依(所依)には四義が備われなくてはならないとし、その四っの条件とは
- 決定 - 法(存在一般)が決定している。
- 有境 - 境を有するもの。
- 為主 - 種となるもの。
- 取自所縁 - 心・心所をして自らの所縁を取らしめるもの。
で、本文では「決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、」と述べられています。そして具体的には「即ち内の六処」である、といわれています。内の六処とは五根と意根ですね。『論』には具体的な内容は示されていませんが、『述記』・『演秘』・『樞要』・『了義燈』に詳細が示されています。
(参考文献は大正43-385a13~b21・『述記』第四末八十六右)及び (大正43-894c29~895a08・『演秘』第四本三十四左です。)
『論』の一段は所依の体と所依の義とを解釈するもので、その理由は、ここに述べる四義を具するを所依と名づけるのである、と。そして四義について説明されます。
第一義 - 決定の義。
おおよそ所依となるものは能依の法が起こる時は、いかなる場合でも決定して所依となるものでなければならない。不定の場合には所依とはいえない、と。 「時として此れに依らずして生ずること無し、故に決定という。」 この決定の義において安慧等・浄月等の説を批判し論破します。
(1) 「第六識は五識を以て依とすということを簡ぶ。彼は定まらざるが故に。第六生ずる時(独頭の意識のように)は五定んで有るにしもあらざるをもって、五を以て依とは為さず。」(安慧・浄月等は五識は第六識に対して倶有依となると主張していたが、五識は間断がある為に、必ず第六識の依とはなるものではない、また独頭の意識は五識に依って生起するものではない。これらの点から五識は第六識に対して決定の義を欠くことになる。)
(2) 「第八は五根を以て依と為すを簡ぶ。設ひ五根なけれども(無色界の第八識)亦生ずるを得るが故に」(浄月等の説を批判し論破します。浄月等は五根は第八識に対して倶有依であると主張していました。「有色界の中に在る時は能く身を執受するから五色根をその不定依とする。」、と。しかし無色界では五根が存在しないけれども、第八識は存在するので、五根は第八識に対して決定の義を欠くことになる。また、第八識の種子は第八識に任持されるから第八識の現行を以て定依とするが、能熏の七転識は生長の依となるから七転識をもって不定依とする、と主張していました。しかし間断する不定依である為に決定の義を欠くことになる。)
(3) 「又、七と八とは五と六とを以て依と為すということを簡ぶこと、七と八とは恒転なり、五と六とは間断するが故に。」(第七識と第八識は五識と第六識を以て倶有依にはならない。第七識と第八識は恒転であり、定依であるが、五識と第六識は間断がある為に不定依である。即ち決定の義を欠くことになる。)
(4) 「即ち一切の種子、能熏の現行に望むるに、彼(現行)は種子の所依に非ず。後に現行なくして種子自相続するが故に、決定の義に非ず。」(種子を能熏の現行に望めたりすることは不定であって、決定の義を欠くことになる。)
(5) 「並びに別境と善と染との等は但自在を闕くのみには非ず、亦決定をも闕きたり。唯遍行と及び色・行蘊の少分とを除く。」(心所の中では別境・善・煩悩・随煩悩・不定も心王が生起する時に必ず存在するというものではなく、決定の義を欠く。しかし、遍行と五色根と行蘊の一部である命根・衆同分と、種子・無為法等は諸法に対して決定の義を備えるが、他の義で除外される為に倶有依とはならないのである、と。)
以上が決定の義の説明になります。
第二義 - 有境の義
問いを設けて除外される理由をのべています。「(問)若し爾らば、四大種と及び五根の扶塵と四大をばまさに五識が與に而も所依と為すべし。命根と種子と及び無為との等をもまさに諸法が與に亦所依と為すべし。並びに決定するが故に。(答)爾らず、即ち五蘊の中に識蘊の少分を除いて相望して云う。」と。決定の義は備えているけれども、有境の義によって倶有依ではないと除外されるわけです。即ちこれらは境を有しないので倶有依ではない。五根を造っている四大種と五根と扶塵根を造っている四大種・種子・意の命根等の不相応行・無為法が除かれるわけです。また遍行は決定の義を備え、有境の義を備えるのですが、為種の義によって除外されます。 (つづく)
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