- 護法正義を述べる、その(3) -
「諸の杖託する所をば、皆説いて依と為す。王と臣と互いに相依る等の如し。」(『論』第四・十九左)
(諸々の杖託するものすべてを依とする。それはあたかも王と臣とが互いに相依るようなものである。)
所依は依であるが、依は必ずしも所依ではない、という。所依には四義が備わっていなければ所依とはいわれない、といわれていますが、依は「すべて有為の諸法が因に杖し縁に託して生じ住する(因に杖するから生といい縁に託するから住という)その所杖託のものを皆依という。」故に依とは広く四縁に通ずるのである、と。喩えとして「王と臣と互いに相依る」といわれています。存在の更互相依性を言い当てているのです。唯識の命題でもある「唯識無境」ですね。無境ということは、境といわれる対象が私と無関係に存在するということではなく、存在は境との関係性の中でしか存在を証明することはできないのですね。ですから四縁との関わりの中で存在が証明されていることになります。
「こだまでしょうか」という金子みすずの詩が大反響をよんでいますが、「金子みすず童謡集」(JALA出版局)第一集の表題が「わたしと小鳥とすずと」、この中の初めの詩が「お魚」・「大漁」という非常に眼差しの強い、そして、心に響いてくる詩が二題綴られています。
お魚
「海の魚は かわいそう。
お米は人につくられる、
牛はまき場でかわれてる、
こいもお池でふをもらう。
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうしてわたしに食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。」
大漁
「朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう」
私たちが日常の生活の中で見失ってしまっている、つながりのなかで命が支えられ、生かされてある命の大切な眼差しを、私に訴え続けています。人は恒に傲慢に自己中心的に生きざるを得ないのかもしれませんが、「ごめんなさい」という視線を見失ってはいけませんよ、と、そして「みんな ちがって みんないい」という世界が本当なんですよ、と。「ありがとう・ごめんなさい」が人を人として生きていく大地なのでしょう。諸行無常とは、こういうことを言い表しているのでしょうね。
「述して曰く、其の喩は知るべし。此れは即ち所依をも亦名づけて依と為す。依の義は通ずるが故に。諸の無為法は有為法が與に能く縁と為るが故に。亦是れ有為の諸法の依なり。彼に託して生ずべきが故に。諸の有為法は無為の依には非ず。此れ等に託して生じ住せざるが故に。」(『述記』第四末・八十六右)
『述記』にはこの喩えは「王と臣が互いに相い依るようなものである」というのであるが、これは有為法同士の場合にはこの喩えでいいが、有為法と無為法のばあいには「相依」という喩えには問題があると指摘しています。それは「無為法は有為法のために依となるが、有為法は無為法のために依とはならない」から「相依」とはいわれない、と説明されてあります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます