ジーノの家(内田洋子 文春文庫)
イタリアに通信員として長年滞在する著者の、イタリアでの経験を書いたエッセイ。
と、書いたけれど、読んでいて「これは本当にエッセイなんだろうか? フィクションではないのか」という疑問を抱かせるほど、著者の経験は波乱に満ちている。
「リグリアで北斎に会う」は、イタリアの片田舎で、まるで日本の浮世絵師にとり憑かれたような老人の話。
「僕とタンゴを踊ってくれたら」は、キャリアウーマン(この言葉も最近聞かなくなったような・・・作中では使われていません)が、中世の貴族の家(買ったときは朽ち果てていた)を少しずつ修繕していって、やがてその庭で友人を招いてダンスパーティーを開催する話。
「黒猫クラブ」は、ミラノで住んでいた高層アパートの最上階で火事が起きて、住民同士が助け合い・・・という話。私としては、この話が一番気に入った。
「ジーノの家」は、イタリアの南端の貧困地域出身者の質素な家を著者が借りた話。ちょっと湿っぽいというか、陰惨な感じに読後感だが、心の揺さぶれ度合はナンバーワン。
「犬の身代金」は、知り合いの犬が誘拐されていまい、その身代金を深夜の公園に届ける話。イタリアの良いところと悪いところが綯交ぜに描かれている。文明が習熟すると人は犬を飼い、家族同様(あるいはそれ以上に)扱うものなのか。
「サボテンに恋して」と「初めてで、最後のコーヒー」は、南仏の苦悩を描いたもの。苦悩のように感じられるのは、私が日本人だからで、ナポリに住む人にとっては、私にとって苦悩と思われるものが、もしかしたら幸福のタネなのかもしれないが。
「私がポッジに住んだ訳」は、教会しかないような田舎の幼稚園の近くで暮らした話。かなりせつない。
「船との別れ」は、これは、あとがきと相まって、さずがにフィクションなんですよね、と言いたい内容。
多くの場面で、イタリアのバールでコーヒーを飲む光景が描かれる。とても魅力的で、日本の画一的なコーヒーショップ(私はほぼ毎日通っているのだが)が色褪せて感じられた。
イタリアに通信員として長年滞在する著者の、イタリアでの経験を書いたエッセイ。
と、書いたけれど、読んでいて「これは本当にエッセイなんだろうか? フィクションではないのか」という疑問を抱かせるほど、著者の経験は波乱に満ちている。
「リグリアで北斎に会う」は、イタリアの片田舎で、まるで日本の浮世絵師にとり憑かれたような老人の話。
「僕とタンゴを踊ってくれたら」は、キャリアウーマン(この言葉も最近聞かなくなったような・・・作中では使われていません)が、中世の貴族の家(買ったときは朽ち果てていた)を少しずつ修繕していって、やがてその庭で友人を招いてダンスパーティーを開催する話。
「黒猫クラブ」は、ミラノで住んでいた高層アパートの最上階で火事が起きて、住民同士が助け合い・・・という話。私としては、この話が一番気に入った。
「ジーノの家」は、イタリアの南端の貧困地域出身者の質素な家を著者が借りた話。ちょっと湿っぽいというか、陰惨な感じに読後感だが、心の揺さぶれ度合はナンバーワン。
「犬の身代金」は、知り合いの犬が誘拐されていまい、その身代金を深夜の公園に届ける話。イタリアの良いところと悪いところが綯交ぜに描かれている。文明が習熟すると人は犬を飼い、家族同様(あるいはそれ以上に)扱うものなのか。
「サボテンに恋して」と「初めてで、最後のコーヒー」は、南仏の苦悩を描いたもの。苦悩のように感じられるのは、私が日本人だからで、ナポリに住む人にとっては、私にとって苦悩と思われるものが、もしかしたら幸福のタネなのかもしれないが。
「私がポッジに住んだ訳」は、教会しかないような田舎の幼稚園の近くで暮らした話。かなりせつない。
「船との別れ」は、これは、あとがきと相まって、さずがにフィクションなんですよね、と言いたい内容。
多くの場面で、イタリアのバールでコーヒーを飲む光景が描かれる。とても魅力的で、日本の画一的なコーヒーショップ(私はほぼ毎日通っているのだが)が色褪せて感じられた。