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老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

日本的集団主義への思想史的アプローチを読んで

2018-10-18 09:19:22 | 社会問題
「日本的集団主義」について、名無しの探偵さんが「13日のコラム」で見事なアプローチをされています。特に、【世間】の解釈についての阿部謹也氏の所論の紹介は大変参考になりました。

丸山真男、加藤周一、網野善彦三氏については、わたしも彼らの著作をある程度読んでいますが、阿部氏については読んだことがありません。探偵さんの説明を読みながら、大変鋭い指摘をされていると感心しました。

・・「主に近代日本の歴史的位相に注目して、日本の社会が西欧近代の思想を受け継いだものの、西欧近代の基底にある「市民社会」は受け継いでおらず、近代(つまり明治時代)以前から存在していた「世間」という伝統的な集団と意識を頑強に残存させていると明らかにする。

そして、近代以降の「日本」では、建前では西欧起源である権利意識や個人主義的な観念(戦後では「基本的人権」と呼ぶことになった)を表明するが、それは学校などの公的な場所に限られている。実際になにか人権問題が起きた場合には「建前」の権利意識ではなく、「本音」としての集団意識が全面に出てくると言うのだ。これが「世間」という伝統であり、現代でも間違いなく根強く存在していると言う。」・・

鋭い指摘です。わたしは同和教育に携わってきましたが、同和対策審議会の答申が出された後でも、世間の人々から【本音】としての【集団意識】が消える事はありませんでした。

例えば、こういう「集団意識」が理論的形態をとって現れたのが、「逆差別」論です。被差別の人々が行政の手厚い保護を受けたり、様々な優遇措置を受けているのに、そうでない人々はそんな優遇措置は受けられない。こういう行政のありようは、一般の人々に対する【逆差別だ】という議論です。

われわれ教師は、地区の公民館に週三回くらい(学校・地域によって違います)夜出かけ、勉強を教えました。塾と家庭教師の混合みたいなものです。地区の子供たちの学力を上昇させ、上級学校の進学率を上げる事により、地区生徒への蔑視や差別的感情をなくしていこうという取り組みです。同時に、社会へ進出するためには学力向上が必須である、という認識から行っていました。

しかし、この種の取り組みの意義を全ての保護者に理解してもらうのは、至難の業です。「なんで、地区の子供だけがそんな優遇措置を受けられるの。家の子供にも教えてほしいわ。」

バートランド・ラッセルが「幸福論」の中で「エンビイ=嫉妬」の感情が人間を不幸にする、と指摘していますが、そういう冷静な議論が通じる事は滅多にありません。

わたしたちが同和教育の研究授業や懇談会や研究会などに参加するたびに、この種の議論が絶えることはありませんでした。わたしが「日本的集団主義」と【世間】の問題に関心を持たざるを得ない最大の動機でした。

ではわたしが【世間】をどう理解していたかについて少し書いてみます。

教師生活を続けている間中、わたしは、上で触れた【嫉妬、妬み】の感情は、一体全体何に起因しているのか、と考えてきました。そしてそれが非常に悪い側面で発揮される場合と、非常に生産的側面で発揮される場合があると言う事に気づきました。

結論的にいいますと、【日本的集団主義】と並んで日本人の特徴である【横並び平等主義】がない混じった形で表現されるため、「功罪あい半ば」する状況が生まれるのではないか、と考えたのです。これに加えて、山本七平が主張する【空気】が支配する場合が多いため事態はさらに複雑になるのです。

差別問題のようなセンシティブな問題を話し合う場合は、問題は必ず自分自身に跳ね返ってきます。「自分ならどうするか」。この問いは重いものです。教師はその最前線に立たされます。保護者もそうです。自分の内心をのぞき込んで、内なる差別意識を克服する。言うは易く、行うは難し、の典型です。

だから、「日本的集団主義」とか【横並び平等主義】とか「空気」を読むとかいう日本人や日本社会の特性が際立って現れます。わたしが「日本的集団主義」の克服を課題にした最大の動機です。

【差別・偏見】という側面で捉えると以下のような五つの日本人の生活像が要因ではないかと考えられます。

①社会的地位を追い求める特性
②連帯性(感)欠落の特性
③恩と義理による自己満足の特性
④欺瞞、虚偽性を容認する特性
⑤外交的な性格構造   ・・・・・・・ 今野敏彦(偏見の文化)

例えば、①の社会的地位を追い求める特性を考えてみます。社会には、(1)全体社会と、(2)部分社会の二通りあると考えられます。

(1)の全体社会
人々が彼(彼女)に与えている社会的尊敬や威信に応じて全体社会のヒエラルヒーの中での占める位置である。
※(例えば、入学式・卒業式での挨拶順とか会合や宴席での席順などで示される序列に顕著に表れる)
   ↓
この中から、社会的地位を同じくする人々の社会階層(階級ではない)が形成されます。⇒(例) 士農工商(江戸)、上流・中流・下流(下流)
   ↓
段階的構造を持ちます

(2)部分社会
家族⇒夫、妻、親、子供(兄、弟、姉・妹) 親族 
職階⇒社長、専務、部長、課長、係長、平社員
職人などでの経験年数の序列など、様々あります。

日本社会のヒエラルヒーをどのように決めるかについては、二通りあると考えられます。

(A)出自に基づく地位(帰属的地位)⇒生まれながらにして決定される地位⇒性、年齢、容貌、人種、家柄,家格など⇒前近代ではこれが主流。
(B)獲得的地位⇒業績の結果としての地位⇒自己の才能、努力により築き上げられた地位⇒近代社会ではこれが主流

では、日本人の特性はどのように考えられるでしょうか。

今野氏は、【日本人ほど高い地位を求める事に汲々としている国民は他に類を見ない】と分析し、その理由を以下のような日本社会の特性にあるとしています。

★偉いもの、良いものは上にあるか高いところにあるのが常
●劣るもの、悪いものは下にあるのが常

この思想の表現が日本語や日本文化を規定していると考えられます。  

例えば、第一人称、第二人称の呼称の多様性(時と場所で使い分ける)・死者に対する位階(戒名の多様性)・上座、下座など上下、尊卑、高低の二者択一の環境、そこで醸成される思考形態。

このような特性がどのように形成されたかを考察しているのが、探偵さんが指摘されている丸山真男、加藤周一、網野善彦などの碩学です。阿部謹也氏の所論については、不勉強なので、明確な事は申し上げられませんが、探偵さんの解説を読む限り、大変納得できる論を展開されていると思います。

・・「ライトが保障されていない「集団」(阿部氏の言う「世間」)で、そこの個人に対して「責任」だけはお前にあると言われても、困惑するだけである。こうした集団主義が支配する社会でそのポジティブな側面が衰退して、ネガティブな側面だけになった場合に「全体主義」が顔を出すのである。

それを丸山氏が「無責任の体系」として分析されたのである。そして、阿部氏は『世間論』でこの丸山氏の論理を発展させて「世間」という伝統的な日本の集団主義の母体を論理的に展開されたのである。」・・・・

この議論は非常に鋭く日本人の思考の流れを分析していると思います。

わたしは同じような問題意識で、「日本的集団意識」と「横並び平等主義」の混在が最大の問題だと感じていました。

同和問題で触れたように、何百年にわたって差別され続けた被差別の人々の生活環境も生活それ自体も劣悪そのものでした。戦前には、小学校に通学できない子供が多数いました。今では当たり前のようになっている【学校給食】も、その始まりは戦後被差別の子供たちが弁当を持参できないのを助けるために始まったのです。

被差別の人たちを差別された厳しい環境や、生活から少しでも抜け出せるように行政が援助するというのが、同和対策審議会の答申でした。

原因・理由を考えずに、援助だけを取り上げれば、「あの人たちだけがなんで良い目を見るの」という理屈も分からないではありません。しかし、その背後にある積年の差別とその厳しさをきちんと学習すれば、そんな意見を発言するのが恥ずかしくなるはずなのです。

しかし、現実は、そんなに簡単なものではないのです。わたしの教師時代、同和教育に携わった多くの教師たちは、その現実に悩み続けたのです。

こういう意見の背景には、【横並び平等主義】という牢固とした考え方があります。戦後の【集団主義】の背景には、この【横並び集団主義】が貼りついていると思います。

「いじめ」の最大の要因の一つに、【同調圧力】があります。髪型、服装、肌の色、言葉使いなど他者と違うものを「いじめ」の対象にする背景にこの【横並び平等主義】があります。これを背景にして、【日本的集団主義】が加わります。

これに差別的で強権的体質の教師が加わると、阿部氏が指摘する【ファッショ】体制そのものが現出するのです。わたしは、そのようなクラスをいくつも見てきました。

【いじめ】問題の難しさは、日本の教育体制⇒各県の教育体制⇒各校の教育体制⇒各教師の理念や体質が問われなければ、本質的な解決ができないところにあります。

日本と言う国の特質ですが、こういう根本的で本質的な問いを如何にして回避して、手練手管で解決しようとしがちです。これが問題を長引かせるのです。

西欧流民主主義の根底に流れる【個人の尊重・個人の自立】がなければ、【平等思想】もただの【横並び平等主義】に陥ります。それでいて、今野氏が指摘するように、【連帯感】の薄さも日本人の特性として牢固として存在します。

今野氏が想定している連帯感というのは、個人の自立を前提にした連帯感なのです。日本人は集団で行動しがちのように思われていますが、本音で語らなければならないシビアな問題に対しては、意外とバラバラなのです。理由は簡単明瞭です。自分が傷つくのが厭なのです。傷つくことを怖れない「自立した個人」ではないのです。

ありていに言えば、戦後民主主義が強く意識した【個人の尊重・個人の自立】も、結局【個人の無視・個人の孤立】に陥る場合が多いのです。

私自身の教師生活は、この「日本的集団主義」と「横並び平等主義」との戦いだったといって過言ではないかもしれません。一番難しかったのは、生徒との戦いではなく、教育委員会や学校・教師との戦いでした。

名無しの探偵さんのように「日本的集団主義」そのものをきちんと理解できる人は、本当に少数です。おそらく、現在でも多くの場所で多くの人がその戦いを強いられていると思います。ひさかたぶりにこのような議論ができたことをうれしく思います。名無しの探偵さんに感謝いたします。

「コラムの感想」より
流水

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