「国は何のためにあるのか?ほんとうに必要なのか?」・・・
パンデミック、経済格差、「機能不全の民主主義」の渦中に置かれ、日々暮らし辛さを感じている中にあって、私たちの脳裏には、漠然とではあるが、こうした根源的な疑問が常に付きまとっている。
その疑問を前にして、文化人類学者である村松圭一郎氏が、著書「くらしのアナキズム」の中で、人類学的事例や歴史的・社会的史実を例示しながら、「公共」を作り直し、暮らしに根差した「政治」を再生していくためのヒントを、示してくれている。
例えば、災害などで政府が一時的にせよ機能しなくなる事態が起きた時、人々は自然発生的に互いに支えあおうとする。その底力を、鶴見俊介(「方法論としてのアナキズム」)の『人間の社会習慣の中になかばうもれている、人間がたがいに助けあって生きてゆこうとする、人間の伝統』という言葉や、花森安治の「内閣は、3日や1週間なくても、別にそのために国が亡びることもない。ところが、暮らしの方は、そうはゆかない。たとえ一日でも、暮らすのをやめるわけには、ゆかないのである」(『灯をともす言葉』)の言葉で、説明している。
また、コロナ・パンデミックに関しては、台湾の政治家オードリー・タン氏が「暴力や権力で威圧できる、既得権益などを独占している、ただそれだけの理由で他者を従わせてはならない」の言葉と共に、『だれもが安全だと感じる居場所作り』『「透明性」と「説明責任」の政治』の実現に尽力し、成果を上げてきたことを紹介。
一方、今回の衆院選もそうだが、選挙に勝ちさえすれば、反対意見に耳を傾けず、なにをやってもよい、という現在の政治状況により、ほとんどの有権者は自分の意見が「完全に無視された」状態におかれ、選挙自体が政治への無力感や絶望感を増幅させる仕組みになっている。
この問題を考える参考として紹介されているのが、エチオピア陶国境付近に暮らす牧畜民の『「胃のちがい」という論理をとおして最大限に受容しあう態度の共有と、ゆるやかなまとまりの保持』(佐川徹『暴力と歓待の民族誌』)、『皆がそれぞれの考えや知っている出来事を口にだす。機が熟すのを待って、受け身の黙諾を与える気になるように計らう』(宮本常一『忘れられた日本人』)、『なんのために人とかかわり、社会をつくってきたのか。それは共に楽しく生きるためだ』(きだみのる『にっぽん』)、『骨肉を争った町民同士の『けんか』をここらでやめんと、久保川の町がだめになる』(猪瀬浩平『むらと原発』)など、とことん話し合い納得しようとする社会の知恵である。
こうした豊富な事例を提示した後、松村氏は、国家などのシステムにたよらず、下からの民主的な「公共」の場をつくる、国家や市場のなかにアナキズム的なスキマをつくりだす鍵は、なにげない日常に埋もれている、と言う。
そして、「不完全さこそが実は正常な状態だと再認識すること」「人々が他者と環境とのあいだで自立的で創造的な交わりを持つこと」、「相互依存のうちに実現された個的自由」の重要性を指摘する。
最後に松村氏は、コロナ・パンデミックの中で、例えば「クラウドファンディング」や「応援消費」などの形として見えてきた、「宛先のある経済」の可能性について、以下のように語っている。
『自分の生活が、物をつくって運ぶだれかの働きによって支えられ、自分の支払うお金が多くの働き手の生活を支えている。「わたし」の消費が「だれか」の生活を支えている。』
『開かれた無数の市場(いちば)からはじまる「宛先のある経済」が、そこにかかわる人たちを固有の価値をもつ「人間」として結び付け、場や関係を耕すためのスキマをつくりだすはずだ。』
経済格差、機能不全の民主主義に追い打ちをかけたコロナ禍の渦中に置かれて、「この無力で無能な国家のもとで、」なす術を失い、呆然とし続けることから脱出し、「もう一度自分たちの手で生活を立て直す」ことを“出発点”として、前向きに進んでいこうという気持ちになれた、皆さんにも是非お勧めしたい「一冊」でした。
「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽・美術」より
笹井明子
パンデミック、経済格差、「機能不全の民主主義」の渦中に置かれ、日々暮らし辛さを感じている中にあって、私たちの脳裏には、漠然とではあるが、こうした根源的な疑問が常に付きまとっている。
その疑問を前にして、文化人類学者である村松圭一郎氏が、著書「くらしのアナキズム」の中で、人類学的事例や歴史的・社会的史実を例示しながら、「公共」を作り直し、暮らしに根差した「政治」を再生していくためのヒントを、示してくれている。
例えば、災害などで政府が一時的にせよ機能しなくなる事態が起きた時、人々は自然発生的に互いに支えあおうとする。その底力を、鶴見俊介(「方法論としてのアナキズム」)の『人間の社会習慣の中になかばうもれている、人間がたがいに助けあって生きてゆこうとする、人間の伝統』という言葉や、花森安治の「内閣は、3日や1週間なくても、別にそのために国が亡びることもない。ところが、暮らしの方は、そうはゆかない。たとえ一日でも、暮らすのをやめるわけには、ゆかないのである」(『灯をともす言葉』)の言葉で、説明している。
また、コロナ・パンデミックに関しては、台湾の政治家オードリー・タン氏が「暴力や権力で威圧できる、既得権益などを独占している、ただそれだけの理由で他者を従わせてはならない」の言葉と共に、『だれもが安全だと感じる居場所作り』『「透明性」と「説明責任」の政治』の実現に尽力し、成果を上げてきたことを紹介。
一方、今回の衆院選もそうだが、選挙に勝ちさえすれば、反対意見に耳を傾けず、なにをやってもよい、という現在の政治状況により、ほとんどの有権者は自分の意見が「完全に無視された」状態におかれ、選挙自体が政治への無力感や絶望感を増幅させる仕組みになっている。
この問題を考える参考として紹介されているのが、エチオピア陶国境付近に暮らす牧畜民の『「胃のちがい」という論理をとおして最大限に受容しあう態度の共有と、ゆるやかなまとまりの保持』(佐川徹『暴力と歓待の民族誌』)、『皆がそれぞれの考えや知っている出来事を口にだす。機が熟すのを待って、受け身の黙諾を与える気になるように計らう』(宮本常一『忘れられた日本人』)、『なんのために人とかかわり、社会をつくってきたのか。それは共に楽しく生きるためだ』(きだみのる『にっぽん』)、『骨肉を争った町民同士の『けんか』をここらでやめんと、久保川の町がだめになる』(猪瀬浩平『むらと原発』)など、とことん話し合い納得しようとする社会の知恵である。
こうした豊富な事例を提示した後、松村氏は、国家などのシステムにたよらず、下からの民主的な「公共」の場をつくる、国家や市場のなかにアナキズム的なスキマをつくりだす鍵は、なにげない日常に埋もれている、と言う。
そして、「不完全さこそが実は正常な状態だと再認識すること」「人々が他者と環境とのあいだで自立的で創造的な交わりを持つこと」、「相互依存のうちに実現された個的自由」の重要性を指摘する。
最後に松村氏は、コロナ・パンデミックの中で、例えば「クラウドファンディング」や「応援消費」などの形として見えてきた、「宛先のある経済」の可能性について、以下のように語っている。
『自分の生活が、物をつくって運ぶだれかの働きによって支えられ、自分の支払うお金が多くの働き手の生活を支えている。「わたし」の消費が「だれか」の生活を支えている。』
『開かれた無数の市場(いちば)からはじまる「宛先のある経済」が、そこにかかわる人たちを固有の価値をもつ「人間」として結び付け、場や関係を耕すためのスキマをつくりだすはずだ。』
経済格差、機能不全の民主主義に追い打ちをかけたコロナ禍の渦中に置かれて、「この無力で無能な国家のもとで、」なす術を失い、呆然とし続けることから脱出し、「もう一度自分たちの手で生活を立て直す」ことを“出発点”として、前向きに進んでいこうという気持ちになれた、皆さんにも是非お勧めしたい「一冊」でした。
「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽・美術」より
笹井明子