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life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「厭な物語」(著:アガサ・クリスティー 他/訳:中村 妙子 他)

2021-07-29 00:48:22 | 【書物】1点集中型
 そういえばソローキンとか久しく読んでないなあ、でもソローキンの長編は気合が要るんだよなあ、と思っていたところ見つけたアンソロジー。タイトル通り、いわゆる「イヤミス」的なやつ。クリスティとかフレドリック・ブラウンの名前があったし、そういや実はカフカもちゃんと読んでないぞ、ということで借りてみた。
 結論から言うとどれもこれもかなり、素晴らしく厭な物語である。後味最悪なんだけれども読み返さずにはいられない。秀逸。これだけの面子が揃えられただけあって、流石としか言いようがない。

 嫉妬や保身や悪ふざけといった自らの行動によって、人間は思いがけなく追いつめられていく。他人、あるいは家族であっても、自分以外の人間の心理などそう簡単に量ることなどできないのだと思い知らされるのがクリスティー、ハイスミス、ランズデールあたり。オコナ―もかな。ルヴェルは「孤独」の本質をおそらく誰もが身につまされる形で描いている。あり得るかもしれない、と思わせるところがこれまた「厭な物語」である。
 一見普通の世界の日常を描いているように見えて、実は想像するだにおぞましい世界だったりするのがソローキン(やっぱりな)と、ジャクスンにマシスン。マシスンのは家族が絡むだけになお恐ろしい。カフカとブロックは、前者が父親と息子、後者が犯罪被害者家族と加害者の「心理戦」といったところか。
 トリのブラウンは、そのストーリーに合わせて「解説」のあとに置かれるという心憎い演出。読み終わるはずのこの本の中に、最後の最後で引きずり込まれるのである。「厭な物語」の登場人物として。

「朽ちていった命 被曝治療83日間の記録」(著:NHK「東海村臨界事故」取材班)

2021-07-18 16:39:16 | 【書物】1点集中型
 ずっと読むつもりでいたけど何故か延び延びになっていた本。99年9月30日の茨城県東海村、JCOの事業所でのウラン燃料加工作業の際に起きた臨界、つまり中性子線による被曝という事故。そこで被曝した大内氏の、まさに想像を絶するその後の記録である。
 福島の原発事故は震災絡みだったのでこれでもかというくらい目に入ってきていたけど、こちらはそれに比べると当時の自分からの距離が遠くて、恥ずかしながらかつて事故があったことしか記憶になかったのだが、テーマの重さにしては想像したよりも薄い本で、それをまず意外に思った。だがいざ読んでみると、文章量と内容の厚さは比例しないという当たり前のことを思い知る結果になった。

 話はまさに被曝のその瞬間から始まる。そもそもこの臨界事故がどういうものだったのか、何故起きたのか。「何故」の部分を知ったときには信じられない思いだった。被曝の恐ろしさを重々知るはずの「唯一の被爆国」で何故、ここまで放射線の危険を軽視することができたのか。効率を求めたことや安全への過信などあるだろうが、何よりも「自分のこと」として捉えていなかったからだろう。大内氏の症状の経過を追っていくにつれ、そのあまりにも壮絶な、そして人間に無力感を突きつける現実に、そう思わざるを得なかった。
 大内氏は被爆直後に嘔吐、そして半日も経たずリンパ球が通常の1/10以下に激減した。しかしぱっと見では重症のようには感じられないほど、見た目も意識もしっかりしていたという。けれど放射線は確実に、かつ急速に被曝者の体内を蝕んでいく。1週間も経たずにリンパ球が完全になくなり、白血球自体も、血小板も大きく減少。免疫力がなくなるどころか、血を造ることもできなくなる。染色体が破壊されていたのである。血液のみならず細胞を造ることもできなくなり、最初は体表面には出てきていなかった異変が次第に、かつ加速度的に表れ始める。
 「放射線被曝の場合、たった零コンマ何秒かの瞬間に、すべての臓器が運命づけられる」。運命とはこの場合、臓器が最終的には破壊されてしまうしかないということである。造血幹細胞移植をしても、人工呼吸器をつけても、放射線障害を食い止めることは叶わない。放射線を浴びた皮膚は徐々に水膨れになり、それが破れて体液や血液がしみ出し、細胞を造れなくなった身体から新しい皮膚も生まれない。それがどれほどの痛みを伴うものなのか、想像がつかない。原子爆弾で被爆した人々に生じた放射線の影響もこういうことだったのではないかと考えると、慄然とした。

 大量出血、体液の浸出、それを補う大量の輸血と点滴、24時間透析、心停止、そして蘇生。ありとあらゆる治療と処置が施されたが、もはや誰にその苦痛を直接訴えることもできない壮絶な闘いの中で、大内氏の身体は確実に滅びに向かっていた。結果が変わらないかもしれないという思いに捕われながら治療にあたる医療スタッフの方々の葛藤もまた、心身ともに極限状態を強いるものだっただろうと思う。看護師の花口氏の「大内さんの声が聞こえないかぎり、ずっと自分がやってきたことが正しかったのか、大内さんにたいしてものすごく重大なことを強いてしまったのか、わからない」という懊悩も、「どっちかの答えを大内さんからもらいたい」という言葉も、とても悲痛だ。
 そして大内氏ご自身も、その傍にいつづけたご家族も、「何故こんなことになったのか」という思いや怒りや悲しみや、じわじわとしかし確実に終末へ向かっていることへの恐怖をずっと抱き続けなければならなかったのではないかと思うと、到底言葉は見つからない。また、この本(番組)の「85日間」は大内氏のものだが、この事故ではもう1人、大内氏とともに作業にあたっていた篠原氏がいる。大内氏の死を知ったあとの篠原氏の心情も、とても想像が及ばない。ただひとつ確かなのは、これはオブラートに包むことなく語り継がれるべき過ちだということだ。単に同じ核がかかわるからというだけでなく、戦争の記憶を語り継ぐことの大切さもまさしくそこにあるのだろうと、これほどに納得したことはない。

「凶悪 ある死刑囚の告発」(編:「新潮45」編集部)

2021-07-11 21:44:56 | 【書物】1点集中型
 「『新潮45』編集部編」シリーズには、興味があったものの全然読めていなかった。たぶん久々に寄った本屋で見かけて思い出したのではないかと。
 副題の通り、上告中の死刑囚から別の死刑囚を介して雑誌編集者の宮本氏に届けられた犯罪の告発文書から話が始まる。死刑囚・後藤良次が、死刑判決を受けた事件のことではなく余罪を自ら開示する形で共犯者――その事件の主犯である不動産ブローカーの“先生”――を告発したのだ。のちに、死刑囚を新たに別の殺人事件で裁くという前代未聞の事態ということもあり「上申書殺人事件」と呼ばれることになるいくつかの事件のことである。

 「上申書殺人事件」のことは知らなかったが、ご多分に漏れず読み始めると止まらなくなる迫真のノンフィクション。弱みを持った人を食いものににし、その命を金に変わるものとしてしか見ていない”先生”。暴力を以てそれに加担する後藤。表題通り「凶悪」以外の何ものでもない。サイコパスとはこういう人物を指すのだろうか、と読み進めながら思う。
 他に類を見ないほど狡猾な”先生”が、既に証拠隠蔽工作を進めてしまって久しい事件。しかも、被害者の名前すら定かではない。それを宮本氏は批判的精神を持ちながら地道で丹念な取材によって少しずつたぐり寄せていく。こういうノンフィクションを読むたび、「事実は小説よりも奇なり」という言葉の本質を思い知らされる。

 その取材が実を結び、いよいよ茨城県警が動く。そして遂に”先生”を被告人席につかせることを果たす。
 だが話はそれで終わりではない。”先生”三上静男に相応の報いを受けさせるためには、事件の真相を明るみに出さねばならない。「家族の同意を得て」保険金目当てに栗山裕氏殺害に及んだ事件の詳細は、目を覆わんばかりの残虐である。「助けてください」と懇願する相手に罵声を浴びせ、文字通り浴びるほど酒を飲ませ、さらにはそれに覚醒剤まで混入し、挙句の果てには何度も感電させていたぶる。これが現実とは到底信じられず、何故そこまでできるのか、常人の理解の及ぶところでは到底ない。
 後藤は、自分が逮捕されたときに弟分の後事を託したにもかかわらず、“先生”がその弟分を見殺しにしたことから”先生”と決裂し、復讐のために余罪を告発することを選んだ。そこには贖罪の意識も加わっていたことは確かだが、復讐に懸ける怨念の印象がどうしても拭えなかった。その怨念が世に果たした功績は決して小さくはない。だが、だからこそこの事件をどう捉えるべきか考えてしまう。宮本氏が「あとがき」で述べたように、そして後藤自身が認識しているように、後藤はその告発を以てだけ償いを終えられるものではないのだろう。

 「文庫版あとがき」で宮本氏は雑誌ジャーナリズムの衰退に触れ、この報道は「雑誌にしかできない仕事だった」と述べている。ジャーナリストとしての矜持、雑誌というメディアに対する矜持がひしひしと感じられた。それだけにその後、当の「新潮45」が事実上の廃刊といえる休刊となったことに痛恨の念を禁じ得ない。しかも常識では考えられない、まるで自殺行為のような記事によって。
 「ジャーナリズムは死なない」。こうした本に出合うと、その志を持った人々があり続けてくれることを、切に願う。

「書き下ろし日本SFコレクション NOVA+ バベル」(責任編集:大森 望)

2021-07-04 22:57:20 | 【書物】1点集中型
 大森氏によるアンソロジーシリーズは、NOVAに限らずずっと気にしつつも手を出せずにいるうちにどんどん巻が重なってしまうのだが、やっと思い切って手を出すに至った1冊。「+」からになっちゃったけど。
 なので実は初読じゃない作品も混じっていて、ああ、これ読んだのは覚えてるな~と思いながら中身を覚えていない(笑)というのが円城塔「Φ」でした。「シャッフル航法」買っちゃってたんだもんねえ。いかにも円城作品らしい、「文字」を駆使したSF。筒井康隆的実験性もありますね。
 あともう一つ、月村了衛「機龍警察 化生」。短編集で読んだ作品。こっちは誰が主人公のやつだったっけ、と読み始めた(やっぱり中身は覚えていなかった)。夏川主任(と沖津部長)の話。ようやっと特捜が戦うべき相手がはっきりしてきたあたりの話ということになるかな。まあ、そんなこんなでこの2作品も初読と大差ない。

 で、正真正銘の初読だった諸々について。
 巻頭は安定感の宮部みゆき「戦闘員」。宮部氏のSF作品はいかにもSFって感じではないんだけど独特な雰囲気がある。SFは苦手だけどミステリは好き、みたいな人に勧めてみるのもいいかもしれないな、と思った。酉島伝法「奏で手のヌフレツン」は物語世界の独特さかな。こうやって見るとやはりSFとファンタジーって相当近いというか境界が曖昧なんだなと思う。ただファンタジーの世界観って理解できるまでにものすごい時間がかかることが多いので、実は結構苦手だったりする。これも私にとってはその口だったかなあ。でもこの世界の描き出し方はすごいと思う。創造力を見せつけられた感じではあった。
 藤井太洋「ノー・パラドクス」宮内悠介「スペース珊瑚礁」。藤井太洋は「銀英伝列伝」で読んだばかりだったが、この2つはおおもとのネタがとっつきやすいというのもよかったけど、キャラクターが面白かった。SF推理小説って感じですね。「スペース金融道」シリーズをちょっと読んでみたくなった。アニメ化とかもできそうだけどね。
 表題作「バベル」は、なるほどなーと思わされた。ハリムが作る羽目になった退職予測システムは、なんだかどっかの人材紹介会社とかが入れてそうな気がする。その予測システムが世界の人々のストレスとリンクするという、ぶっ飛んでるけどこうして説明されると「こんなに日々ストレスにさらされていたら、こういうこともなんかあり得そう」と納得してしまう不思議。それが現代的な社会問題とも絡み合うという面白さとスケール感は表題作として相応しい。舞台づくりという意味では、野崎まど「第五の地平」も、チンギス・ハーンとSFかー! と思うとそれだけでわくわくする感じ。それが次元の話だからなあ。スケール感と爽快感がある。

 かように、アンソロジーは新規開拓したいときには手っ取り早いのだが、その反面手を出したいものが増えすぎるという欠点もある。だからなかなか手を出しにくかったのかもしれない(笑)。でもあらためて「NOVA」シリーズの執筆陣を見るとやっぱこのシリーズは(相当今さら過ぎるが)読んどかないとなあ、と思ってしまうのだった。

「銀河英雄伝説列伝1 晴れあがる銀河」(監修:田中 芳樹)

2021-06-25 21:48:34 | 【書物】1点集中型
 石持浅海、太田忠司、小川一水、小前亮、高島雄哉、藤井太洋の6氏による、「銀英伝」の公式トリビュートだそうである。
 アニメやってれば今でもつい観てしまうし、観てれば台詞も普通に頭に浮かんできてしまうくらいである。空気感に浸りたいんだろうな、たぶん。なので、読まないわけにはいかないだろうということで借りてみた。藤井太洋まだ読めてなかったし。

 いわゆる二次創作だが、本編の中の時間軸の隙間を補うものもあれば、歴史以前を描くものもある。以後がないのは意外ではあるが、でも以後は書くの難しそうな気はする。
 といいながら巻頭作「竜神滝の皇帝陛下」は以後の記録の体で書かれてはいる。実体はラインハルトのオフモードエピソード。エミールがラインハルトを偲ぶのあの言葉は確かに印象的で、そこからインスパイアされる気持ちはわかる気がする。書く人が書くとそこからこんな微笑ましいけどラインハルトらしいお話ができるんだなあ、と感嘆させられた作品である。

 敢えてお気に入りを挙げるなら「士官学生の恋」と「晴れあがる銀河」かな。前者はキャゼルヌ夫人という目のつけどころがいいし、ヤンとの絡め方が秀逸。この2人って本質的にかなり同類だったんだね、そりゃあキャゼルヌもヤンをかまってあげたくてしょうがなくなるわけだ(笑)と。で、後者はキャラクターの造形と、何といってもオチがいい。そういえばラープって名前、あったよなあ……とは思いながら読んでたんだけども、だから最後の最後で言われる前に読んで気づけよ、って感じかもしれないけど(笑)。藤井太洋氏は前々から気になっている作家さんではあったのだが手をつけられていなくて、やっぱり早く読んだ方がいいなと思った次第。
 「ティエリー・ボナール最後の戦い」は、ヤンがこういう「最後の戦い」をできる時代だったらなあ、と思いながら読んだものだった。まあ、それではそもそも銀英伝が成り立たなくなってしまうんだけれども(笑)。ウランフ提督が絡んでくるあたり心憎い演出である。「レナーテは語る」は本編で垣間見えたオーベルシュタインのプライベートな世界をその由来として描き出した形。軍人でなければ杉下右京になれそうなオーベルシュタインであった。女性の目を通したオーベルシュタインというのもかなり新鮮。「星たちの舞台」は、ヤンと演劇という普通に考えて馴染みそうにないものを意外とあっさり結びつけてくれた。しかも異性装まで(笑)。でも、プライベートでは流れに無理に逆らわずに生きていたヤンらしいといえばそうなのかも。

 小川一水氏以外は初読だったけど、どれも面白く読ませてもらった。このクオリティで「1」を出してもらえたわけなので、ぜひ「2」も出してもらって、もっといろんな作家さんの銀英伝を読んでみたいとも思う。

「ブラック・ダリア」(著:ジェイムズ・エルロイ/訳:吉野 美恵子)

2021-06-10 22:59:12 | 【書物】1点集中型
 ルメートル「わが母なるロージー」解説より。1947年1月にLA市内で実際に起きた、若き俳優志望の女性の惨殺事件「ブラック・ダリア」に取材したフィクションである。
 あのルメートル作品に出てくる話とあって期待して読み始めたんだけれども、ボクシングが苦手なので、冒頭のボクシング話長いしなかなか事件が見えないし、で危うく事件に入る前に挫折しそうになった(笑)。とはいえ、ボクシングは主人公バッキーとその刑事としてのパートナーになるリーの関係構築とそれぞれの人物像にあって重要な要素なので、否定はしないんだけども。ちょっと流し読みみたいにはなりましたね。

 事件捜査に移ってからも、物語は事件よりも、事件を介して生まれる人間模様が主に描かれているように見えた。ちっとも事件の核心に近づかないのである。謎を解くには情報があまりに遠回り。「ブラック・ダリア」が誰なのかにたどり着くまでも長い。そして犯人を追うために彼女の人生をひもといていく中で、バッキーはエリザベスへの感情移入をどんどん深めていく。さらにリーがいなくなってからが本番という感じだったな。人脈とそれぞれの物語が見えすぎて、いったいこの事件にはどう収拾がつくのかと思っていたら、最後は怒涛のようにいろんなものが全部つながって、なるほどお見事、という謎解き。
 「ロス暗黒史」と呼ばれるうちの初回作だけあって、何もかも一見落着というわけにはいかない。社会の暗部が闇を残したけれど、「ブラック・ダリア」の人生を追うバッキーの旅路は、出会いと別れと再生の物語になった。ミステリだけど、ただのミステリでは終わらなかった。ブライチャート家に幸あれ。そして遂に解かれることのなかった謎、現実に生きていたエリザベス・ショートその人の魂の安らかならんことを。

「烏有此譚」(著:円城 塔)

2021-05-22 22:20:02 | 【書物】1点集中型
 読了した円城作品の中では最もわけがわからなかった。だからこそ円城ワールド全開という感じもすごくしたわけで。円城作品は単行本では「オブ・ザ・ベースボール」が初読だったが、それでもまだあの話は筋がまあまあつかめたものの、こっちは全然……(笑)。なので、こっちが初読じゃなくてよかったかもしれん。

 なんでこれ文庫になってくれないんだろうとずっと思っていたんだけどそれは単行本を開いたこともなかったからで(笑)、今回、本文を開いた瞬間に文庫になってない理由もわかった気がした。注でかいよ! しかものっけから意味わかんないよ!(笑)って話である。文庫になったらびっくりしてしまう小説という意味では、「後藤さんのこと」もある意味、この仲間かも(こっちは文庫になったけど)。
 小説の暗黙のお約束事、むしろその根底にある常識をさらっと無視する、人を食いまくった幕開け。そして注の入れ子やら独立した注やら、当然本文と関係あるのに気を抜くとだいぶ遠くまで行っちゃう注やら。どうやって読めばいいのか苦労した。おまけに本文(のはずだ、一応)の物語は物語で、一見普通の人間同士の会話と見せかけて、灰が降ったり何やら百人万人単位の人間を「引き受け」たり、「口に銜えた草を燃やし」たり。そして灰が穴に降り、穴は人型である。
 ここまで来るとなんとなくトポロジーをイメージすればいいのかなとは思うけれども、だからといってその世界の法則をすべて理解はできない。けれど物語は続く。後半は「穴である僕」自身についての内面語りになっていく。人間がパーツに分かれてしまっても、実体がなくても、人の言葉を話せたら人間と認識される。外見がどうあれ人間は穴だ、と言うこともできる。穴に雨が降り、「僕」は溺れ死ぬ公算が高い。そして「竜骨を持たぬ四角い船をつくりはじめることになるのだろう」。と言われて、船の話どこかで出てきたような、どこだったっけ……と思い巡らせつつも茫洋としたままなのである。

 結局この本の読み方はわからないままだった……上に、話がどこから始まってどこに行ったのかすら掴めないまま終わった(笑)。なんつーか、妄想する人の頭の中を「お好きにどうぞ」と見せてもらっているような気分にもなった。烏ぞ此の譚有らんや。この問答無用なシュールさ加減、おそらく作者の意図を1割も理解していないだろうけど、ただ感覚として癖になる。コンテンポラリーアートを見るときのような感覚かもしれない。何か1つでも心に引っかかれば、それだけでも自分にとって読む意味はあると思うのだ。

「画狂其一」(著:梓澤 要)

2021-05-05 17:36:43 | 【書物】1点集中型
 日本画好きなので、見かけてからずっと興味を持っていた本である。ものすごく前に、飛鳥井頼道氏の光琳の物語を読んだことがあったのもあったし。表紙が朝顔図屏風だし。其一だから当たり前っちゃ当たり前だけど、でもこれ見て手に取らないわけにいかないよねえ(笑)。←とか言いながら図書館本

 タイトル通り其一の物語なのは確かだが、抱一が大きすぎて物語全体がその存在感に圧倒され続けた感じ。とはいえ、其一の目から見る「夏秋草図屏風」という描かれ方はなるほどとは思った。あとやはり雲龍小袖を描くことができなくて懊悩したり、井伊直弼の依頼が自分を見つめ直すような機会になったり、「朝顔図屏風」を描いてるときの鬼気迫る其一の姿もよかったと思う。ここでやっと「画狂」になったということかな。北斎と同じく、そこまでの長きにわたる年月の話だったということなんだろう。ただそのぶん、最後はあんまりにもあっけなさすぎたような……。最後だけ突然史実の話か? みたいな淡白さだったし。無常感の演出なのかな。
 個人的には、其一自身の作品にかかわる話がもう少しあったらもっと楽しかったかなという気はする。「群鶴図屏風」とか「芒野図屏風」とか、あのあたりもすごく其一らしくて大好きなので。抱一以外の人たちとの人間関係は面白かったけどね。特に鶯蒲とは、抱一の子を思う気持ちと絵師としての其一の今後を思う気持ちとの相克みたいなものが感じられはしたし、其一がそんな師とその家族に微妙に釈然としていないことも自覚しながら、しかしそのうえで懸命に両立をめざす苦労がよくわかった。望んで一緒になったわけではない妻、りよの内助の功もすごいものである。その姿は物語中ではほとんど伝聞形式でしか書かれていないので、それでも其一を文字通り陰ながら支え続けた裏で、りよが其一のどんなところを愛したのかは推し量るしかないが。あと、其一と河鍋暁斎との縁も初めて知った。これはまったく知らなかったので意表を突かれたというか、最後の最後で面白い驚きだった。そういうつながりを知るとまた新鮮な目で作品を鑑賞できそうな気もする。

「アウシュヴィッツの地獄に生きて」(著:ジュディス・S・ニューマン/訳:千頭 宣子)

2021-04-30 22:38:48 | 【書物】1点集中型
 題材の重さに比して意外にコンパクトな頁数だけれども、記されているのは目を覆いたくなる苛烈と残酷と悲しみと麻痺。タイトルそのままである。ナチスのいわゆる絶滅収容所に送られた人々は、そこに送られる前から過酷な迫害を受けていた。にもかかわらずそれに飽き足らず大量虐殺へとエスカレートした中で何が行われていたのかを、体験者がつぶさに語っている。

 人としての尊厳を根こそぎ奪われ、死ぬために生きていた、あるいは殺されるために生かされていた人々。虐殺のための場に送られるのだとわかっていながら、焼却炉やガス室に向かって歩くしかなかった人々がいる。辛さのあまり、自らガス室行きを申し出た人もいる。ともに収容所に連れて来られながら引き離され、殺されてしまった家族が、いつ死を迎えたのか知ることもできなかった人々がいる。著者の語るひとつひとつががあまりにもリアルで、けれどだからこそこの地獄を生きた人々に自分を重ね合わせることができない。自分だったらどうだっただろうか、と考えることすらできない。それほどに、本当にこんなことがあったとは信じたくないできごとばかりである。
 フランクル「夜と霧」にもあったと思うが、虐殺された人々の髪や皮膚や骨を使って作られた家具などの話などは怖気をふるうもの以外の何ものでもない。その話がこの本にも出てきて、やはりそれが現実だったのだと改めて認識させられ、人間が何故人間に対してここまで感覚を麻痺させられるのかとやっぱり考えてしまう。そしてやっぱり答えは得られない。収容者にとって救済者でもあったロシア軍兵士の蛮行も然り。

 また、話は収容所にいたときのことばかりではない。ロシア軍侵攻によりアウシュヴィッツから撤退することになって以降のことも記されている。ラーフェンスブリュックという別の収容所に向かうこの撤退はナチスドイツの劣勢を示すものではあったが、それもまた死の行軍である。そこからまたマルコフへ移っていくことになり、さらにライプチヒへ。空襲を受ける危険の中での移送でもあったが、収容所での環境は次第にましになっていく。たた行軍は終わりを見せず、歩けなくなれば殺されてしまうことには変わりなかった。肉体に限界の来ていた著者が、ここで脱出を決心しなければこの本は世に出ていなかっただろう。
 それでも「悪をもって悪に報いてはならない」。復讐や憎しみを連鎖させてはならない。頭ではそれを理解できても、それを本当に実践するのは簡単なことではなかったはずだ。そう思うと、信仰が人を支えることの実例をも示している記録でもあるようにも思う。著者が家族をすべて失い、婚約者も亡くなった。友人とも別れ、独り戻った故郷で、それでも同じ境遇の伴侶を見つけることができたことをただ祝福したいと思う。

 社会から未だ差別やヘイト行動はなくならない。それが暴力に発展することすらも。人間が過ちを繰り返さずにいられないのだとしたら、なおのことこうして生き抜いた人々の言葉を世界中が受け継いでいかねばならない。

「現実入門―ほんとにみんなこんなことを?」(著:穂村 弘)

2021-04-12 00:09:57 | 【書物】1点集中型
 エッセイと言えば私の中ではタマキングと、安定のほむらさん。編集者サクマさんの企画で、自らを「経験値が低い」というその「人生の経験値」を上げていく体験エッセイなのだそうである。
 諸々の「初体験」に向かう心境は、どこかファンタジックでしかしたまに生々しい。そして読む方はと言えば、自分も経験していないことはほむらさんを通して疑似体験し、経験済みなことはちょっと微笑ましく眺めたり共感したりしつつ、ほむらさん独特の視点と言葉にはっとさせられる。

 最後にはパラサイトシングルを卒業するらしいほむらさんが部屋を探しに行くのだが、そこにはサクマさんがいない。ということは今までの「連載の企画」ではない、ほむらさんだけの「現実」ということになるのか? 何か今までと少し違う空気感を覚えながらほむらさんを追っていくと、それまでの人生最大かもしれない節目の場面の赤裸々さに出会うことになる。木製の重力に囚われたまま、魚を食べ、彼女の両親に結婚の承諾を願い出る。そしてその答えにほっこりさせられたかと思えば、不思議なあとがきが待っている。
 彼女は、本当に現実だったのか? はたまた例の「天使」だったのか。幸せを語る言葉の中に浸りながら、最後にはおなじみのほむらさんの「天使」。今の今までほむらさんの現実が記されていたはずなのに、こうして最後に煙に巻かれてしまう。よく見れば「虚虚実実」と書かれているから、結局はそういうことなのか? と、語り終えられたその世界に読み手はぽつんと取り残される。

 見たものすべてを信じるな。でも、そこにある世界を楽しむことは自由だ。騙されているとわかっていてもいなくてもそのことすらを楽しめる、それが文字や映像を通して触れるものの醍醐味だ。それをあらためて思い出す1冊でもあった。