非国民通信

ノーモア・コイズミ

小日本主義

2010-08-21 23:00:50 | 編集雑記・小ネタ

 19世紀半ば、ドイツという国家の統一方針として大ドイツ主義と小ドイツ主義というものがありました。それまでプロイセンやバイエルンなどに分かれていた国が現在のドイツに近い形にまとまっていく中で、オーストリアをドイツに含めるかどうかを巡り主張の対立があったわけです。ご存じのようにオーストリアはドイツ語圏であり文化的にもドイツと共通する部分が多く(70年ばかり前にはオーストリア出身者がドイツの政権を掌握したりもしました)、諸々の小国家を連合させて新たな国を作る過程で「ドイツ」に含めるべきだという意見も強かったのは想像に難くないと思います。

 そこでオーストリアをドイツに含める考え方が「大ドイツ主義」、オーストリアをドイツに含めないのが「小ドイツ主義」と呼ばれるのですが、当時のオーストリアは現在のオーストリアとは版図が大きく異なり、現在のハンガリーやチェコを含めた他民族帝国でもありました。故に他民族帝国であるオーストリアをドイツに含め、かつ当時の流行である国民国家の理念に沿って「ドイツ人」だけの国家を作るためには、オーストリアを「ドイツ人」と「非ドイツ人」の領域に割らねばならなくなるわけです。その辺の調整は上手く行かなかったようで、最終的には小ドイツ主義によってドイツ統一は進められることとなりました。

 翻って日本の場合です。かつての大日本帝国は多民族国家であり(故に一方的な侵略国家ではないとするわけです)、国定教科書でもそのように教えられてきました。天皇も万世一系が強弁されるばかりではなく、朝鮮王朝などとの婚姻関係や渡来説が普通に語られ、他民族との混血があったからこそ多民族帝国の支配者にふさわしいのだとの主張も強かったわけです。しかるに第二次大戦後は方針が180°転換されます。日本は単一民族国家であり、天皇は万世一系である、と。この辺は大日本帝国の理念を敢然と否定するものでありますが、なぜかこの大日本帝国の理念を否定する世界観の持ち主ほど戦前の支配体制に肯定的だったり……

 ともあれ朝鮮人も中国人も台湾人もアイヌ人も、みな大日本帝国の臣民であるとするいわば「大日本主義」が、戦後は「朝鮮人は日本から出て行け」と言わんばかりの「小日本主義」に切り替えられました。決して大日本帝国時代の臣民の扱いが等しかったわけではないにせよ、建前上は同国人、日本人(大日本帝国人)だったものを一夜にして非・日本人として扱うことになったわけです。敗戦を機に領土を手放すことになったのは外的な要因も大きいとはいえ、どこまでを「日本」と見なすかという点では大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立に似るところありそうな気がします。

 大ドイツ主義ならぬ大日本主義を取るならば、日本人概念は現在の「日本」の国境外にも向かわなければなりません。戦後の「日本」の領域に居住する元・大日本帝国臣民であれば、国境の向こうで生まれ育ったとしても日本人として扱うことは当然あり得たはずです。しかるに「日本」に居住する元・大日本帝国臣民のうち、戦後の新しい国境の向こうにルーツを持つ人は、軒並み国籍を剥奪されてしまいました。大日本帝国臣民でもない、かといって日本人でもない無国籍者を生み出す、そうやって「日本人」の枠を小さく狭めていくことが新たな日本の道として選ばれたわけです。

 オーストリアの住民をもドイツ人と見なすのが大ドイツ主義で、逆にオーストリア人をドイツ人に含めないのが小ドイツ主義なら、旧大日本帝国臣民ならば日本人でもあると見なすのが大日本主義、反対に旧大日本帝国臣民であっても国境外にルーツを持つなら日本人に含めないのが小日本主義と言えるでしょう。大日本主義には大日本主義なりの問題がありますが、とりあえず日本国は小日本主義を取ってきました。そして現代に至るも、単に日本国籍を取得するだけでは日本人として受け入れられるとは限らなかったり、相変わらず「日本人」の枠は小さく狭められたままです。もう小日本主義を奉じる人は小日本人、小日本主義を押し通す国家は小日本とでも呼んだらいいのでしょうかね。

 

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雇い止めそのものへの規制が必要

2010-08-20 22:59:48 | ニュース

日産、事務系派遣社員を直接雇用 でも最長2年11カ月(朝日新聞)

 日産自動車は10月から、事務系の派遣社員を期間を定めた直接雇用に切り替える。労働者派遣法で期間を規制されない「専門業務」として派遣社員を受け入れてきたが、実態は派遣期限に3年という上限がある「一般事務」であるとして、東京労働局が是正指導していた。事務派遣の規制を強化する派遣法の改正が検討されていることも、影響したとみられる。

 日産によると、現在は数百人いる事務系派遣社員を、本人の希望に応じて直接雇用に切り替える。契約期間は半年で、判例などから雇い止めをしづらくなる3年を超えないよう、最長2年11カ月まで更新する。今月から新規採用の募集も始めた。

(中略)

 労働局への申し立てを支援した「首都圏青年ユニオン」の河添誠書記長は「直接雇用への切り替えは一歩前進と評価できるが、契約更新に上限を設けることで、いつでも解雇できる安い労働力として使い続けようとする狙いが明らかだ。安定雇用には程遠い」と指摘する。

ダイキンが215人を雇い止め 継続雇用求め提訴へ(関西テレビ放送)

ダイキン工業が今月末で契約社員215人を雇い止めにすることがわかりました。その代替要員として新たに100人を採用していることから「雇い止めにする理由がない」として労働者が裁判を起こすことを決めました。業務用エアコンを製造しているダイキン工業堺製作所。今月末で215人もの雇用が失われます。このうち8年から20年にわたって働いてきた4人が雇用の確認を求めて裁判を起こすことにしました。3年前、ダイキン工業は請負の労働者を正社員の代わりに安く使う違法な偽装請負だと労働局から指摘されました。このため最長2年半の契約社員として迎え入れましたが今月末で期間満了となることから215人を雇い止めにするというのです。雇い止めされる男性は「なぜ今まで15年近く働いてきて今さら2年半という期間で切らないといけないのか」と疑問を投げかけます。これはダイキン工業が出していた求人です。雇い止めにする契約社員の代わりに100人を新規採用し仕事の引継ぎもさせています。仕事はこれまで通りあるのに労働者の首だけすげ替えるのです。「これからも仕事があるのに、なんで引き継ぎをして我々が去らねばならないのか」と契約社員の男性は訴えます。

 今回は派遣社員ならぬ契約社員の話です。上に挙げた2例とも、一応は直接雇用でありながらも契約期間が限定され、雇い止めが確定しているわけです。これが仮に、労働力が必要なくなったから雇い止めにするというのなら、まぁ企業側の言い分として理解できないこともありません。もちろん雇用側の言い分だけを聞き入れていては社会は機能しなくなってしまうのですが、とはいえ必要なときだけ必要な人数を雇いたいという企業側の思惑は不可解なものではないでしょう。しかるに上記2例の雇い止め理由は「労働力が必要なくなったから」ではなく、端的に言えば「人を入れ替えたいから」です。「仕事はこれまで通りあるのに労働者の首だけすげ替える」わけです。日本では決して珍しいことではないですけれど……

 女房と畳は新しい方がよい、なんて諺がありますが「末端の社員は新しい方がよい」ってのが日本的経営感覚とも言えそうです。不況が始まるや相対的に給料の高い中高年をリストラして、ベテランの仕事を若手に押しつけるなんてのが日常化しましたが、今は年齢を重ねても給料の上がらない時代です。ましてや契約社員ともなれば昇給機会はなおさら限られるはず、在籍期間の長い派遣社員も新たに雇用し直す派遣社員も、給与に大した差はないでしょう(賃金相場の低下分は無視できないにせよ)。ベテラン契約社員を雇い止めにして新しく契約社員を雇い直したところで、取り立てて人件費を圧縮できるわけでもありません。それでも雇い止めを繰り返す、継続雇用を避けようとするのは、実質的な雇用責任の発生を免れるための偽装であろうと指摘されています(判例上は3年間が一つの区切りになりやすい)。そうでなくとも派遣社員の場合であれば、業務改革なり組織変更なり、何か「きっかけ」さえあれば定期的に人が入れ替えられるものです。契約社員の場合も似たようなもの、会社側のカイカクごっこの一環としての入れ替えに付き合わされているフシもあるでしょう。

 このような問題に対する最悪の対応の一つとしては、規制緩和があります。つまり3年以上の継続雇用があるなら、非正規であろうと雇用責任アリとの判決が下されやすいのですが(ただ個人的に頑張って裁判に持ち込む必要があるため、基本的に労働者側は泣き寝入りするしかありません)、この辺の年限を撤廃すべしと主張する人もいるわけです。しかし非正規雇用が非正規雇用のまま、不安定雇用が不安定雇用のまま働き続けられるように制度を緩めたところで、それはただ問題を先送りしているだけ、将来にツケを回しているだけです。むしろ必要なのは日産やダイキンのような純粋に入れ替えを目的とした雇い止めへの厳格な規制でしょう(制度だけではなく、運用面を含めて)。「仕事はこれまで通りある」のなら雇用は継続させなければならない、人の入れ替えの有無に関わらず中長期的に継続して仕事があるのなら、非正規ではなく正規で雇わなければならない等々。「同じ人を3年」だけではなく「同じ職場で3年」以上に渡って労働力需要があるなら正規に人を雇用する義務がある(例によって制度面だけではなく運用面を含めて)、それぐらいの制限を付けないと、増える雇用は不安定なものばかりという状況に歯止めをかけることはできません。

 

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経済効果を高めるには

2010-08-19 23:00:40 | ニュース

 経済や財政のことを考える上で一つ念頭に置いて欲しいのは、お金は使っても決してなくならないということです。皆様お金を使ったことは当然ながらあると思いますが、使ったお金を廃棄箱に放り込んだり「使用済」のスタンプを押したりチケットのように二つに切り離したりとか、そういうケースに遭遇したことは一度たりともないはずです。お金を使ったときはいつも、他の人に渡すだけですよね? お金は使っても使っても、決してなくなることはない、ただ他の人の手に渡るだけなのです。それでいて購入した商品やサービスは残る、使われれば使われるほど富を生み出すのがお金と言えます。

 しかるに、お金が限りある資源か何かのように誤解されているとお金は貯め込まれるようになる、すると金回りが悪くなる、つまり景気が悪くなるわけです。人それぞれの倫理観からすればどうなるのかは知るところではありませんけれど、経済のことを基本に立ち返って考えるなら、お金とは使えば使うほど価値を発揮するものである、逆にお金を使わずに貯め込むこと、すなわちお金を滞留させることこそが最悪のムダなのです。故に景気対策上は、いかにお金を使わせるか=循環させるかが鍵になります。

子ども手当、消費は「3割」(読売新聞)

 政府は今年度から家計支援策の目玉として子ども手当の支給と高校授業料の無償化を始めた。しかし、今回のGDP速報では、「消費の押し上げ効果は薄かった」との見方が大勢を占めている。

 子ども手当は、6月に4、5月の2か月分である1人あたり計2万6000円が支給された。4月からの高校授業料の無償化も、家計で消費に回す金が増える計算だった。

 政府は子ども手当について、支給額のうち、約7割が消費に回るとの試算を国会で示していた。だが、「自公政権での定額給付金と同じ3割程度しか、消費に回らず、多くは貯蓄されている」(農林中金総合研究所の南武志氏)との見方が強い。

 子ども手当などの消費押し上げ効果について、荒井経済財政相は16日の記者会見で、「分析結果が出ていないのでコメントする状況にはない」と述べ、回答を避けた。

 あくまでGDP速報からの推測レベルではありますが、子ども手当の経済効果は薄かったとする見方が大勢を占めるようです。支給額の7割が消費に回るとの試算もあったそうですが、ちゃんとした根拠に基づいた試算だったのでしょうか。とかく政府筋の試算は楽観的に過ぎるところがありますけれど、その辺は民主党政権になっても変わっていません。あまりにも甘すぎる予測に基づいた公共投資で大赤字を生み出すとか、この辺は野党時代の民主党も大いに非難してきたことのはずですが、民主党だって予測が大甘なのは前政権と同じようです。よもや見込みが外れれた時は官僚のせいにすればよいと、気楽に考えているんじゃないでしょうね?

 まぁ子ども手当は純粋な景気対策ではないわけで、とりあえず景気対策「以外」の部分では奏功しているとしましょう。しかし景気対策の側面から見る限り、7割が貯蓄に回されるようでは失敗と言わざるを得ません。せっかく政府が支出を増やしても、貯蓄に回されてしまっては無意味です。金融機関にとって「投資先はたくさんあるのに運用できる資金が足りない」という状況なら、預貯金が有効に使われることもあり得ます。しかるに不況で国内に有望な投資先を欠くにも関わらず金融機関に預けられるお金ばかりが増えると、それはお金を滞留させることになる、せいぜい国債を買うぐらいしかないということになってしまうわけです。

 ではどうやったら公的手当や公的給付が消費に回されるようになるのでしょうか。基本その一は、消費性向の高い所得層に的を絞ることですね。つまり、「ちょっとやそっと収入が増えたくらいでは貯蓄に回す余裕なんてない」人々に集中してお金をばらまくことです。これは福祉や格差是正の面でも好ましいわけですけれど、しかるに経済効率を犠牲にしてでも格差を拡大しようとする政策が、とりわけ小泉時代以降は主流になっているように思えてなりません。あるいは「すぐに使っちゃう人」にお金を配ることです。貯金する習慣がない、後先考えずに給料は全部使ってしまう、そういう人こそが最高の消費押し上げ効果を期待させてくれるわけです。とかく遊興費にお金を使う人には道徳的な非難が浴びせかけられるものですけれど、景気のことを考えるなら、むしろ不道徳な人に程お金を渡すべきでしょう。お金は使う人に配ってこそ意味があるのですから。

 

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新卒扱いが新卒扱いされる保証はありません

2010-08-18 23:00:18 | ニュース

卒業後数年は新卒扱いに…日本学術会議提言へ(読売新聞)

 日本学術会議の検討委員会(委員長=北原和夫・国際基督教大教授)は、深刻な大学生の就職難が大学教育にも影響を与えているとして、地方の大学生が大都市で“就活”する際の宿泊・交通費の補助制度など緊急的な対策も含んだ提言をまとめた。

 17日に文部科学省に提出する。企業側が、卒業して数年の「若年既卒者」を新卒と同様に扱うことや、早い時期からの就業体験も提唱。学業との両立のためのルール作りも提案している。文科省は、産業界の協力も得て、提言を現状改善につなげる考えだ。

 提言は大学教育の質の向上を目的としたものだが、就職活動に労力と時間を取られ、それが学業にも悪影響を与えているとして、就業問題の解決策に踏み込む異例の内容となった。

 具体的には、大学側に、卒業後3年程度は就職先の仲介や相談といった就職支援体制をとることを求め、企業側には、若年既卒者も新卒者と同枠で採用対象とするよう求めた。さらに、平日は学業に集中し、就職活動は週末や長期休暇期間に集中させるルール作りなど、大学と企業側が協力しての対策にも言及している。

 5日発表の文科省の学校基本調査では、大学を今春卒業したが就職も進学もしなかった「進路未定者」が5年ぶりに10万人を突破した。今回の提言では、「新卒優先」の日本の労働市場の構造が大学生の就職問題を一層過酷なものにしていると指摘している。

 ちょっと前にも同様の提言があったように記憶していますが、また出てきたようです。しかし、これが問題を解決できるのかどうかには色々と疑問を感じざるを得ません。何でも「新卒優先の日本の労働市場の構造が大学生の就職問題を一層過酷なものにしていると指摘している」そうですが、この辺はどうでしょう? 確かに日本ではマトモな企業へ就職する機会が新卒時に集中しているわけです。新卒時を逃すとマトモな企業へは入れなくなる、だから在学中になんとしても就職を決めるしかない――このような環境は確かに大学生の就職問題を一層過酷なものにしているのでしょう。

 ただ、同時に新卒者向けに用意される椅子の数もまた多い、既卒者にチャンスがない分だけ、新卒者にはチャンスが多めに提供されてもいるはずです。既卒者と競う必要のない、その年度の新卒者だけの特別枠が用意されているのも新卒採用ならではです。これが本当に「卒業後数年は新卒扱い」になったとすると、既卒者にはチャンスが増える、新卒で就職できなかった人にも再挑戦の機会が出てくる一方で、新卒で就職するつもりの人からすれば競合相手が増えることになります。これもまた、大学生の就職問題を一層過酷なものにする要因となり得ますが……

 そもそも文科省が提言を受けて「卒業後数年は新卒扱いに」と決めたところで、採用を決める企業側が「本当に」新卒扱いとするかは甚だ疑わしいところです。建前上は男女差別禁止、年齢による差別も禁止ですけれど、実質的に男子禁制もしくは女子禁制、採用は若年層だけというケースが極めて多いのではないでしょうか。ですから建前上は既卒者も「新卒扱い」ということで応募を受け付けはするけれど、実際は最初から落とすつもりでいる、結果として選考に残るのは正真正銘の新卒対象者だけになると考えるのが妥当ではないかと推測されます。

 他にも色々と突っ込みたいところはあって、たとえば「平日は学業に集中し、就職活動は週末や長期休暇期間に集中させる」などとも提言されているわけですが、大学生たるもの平日は学部のカリキュラムに沿った勉強、週末や長期休暇期間は自身の趣味に走った勉強をすべきではないかという気もします。「提言は大学教育の質の向上を目的としたもの」との触れ込みながら、これでは要するに「卒業に必要な単位を取らせつつ、いかに滞りなく就職させるか」というレベルに止まってはいないでしょうかね。

 むしろ文科省に働きかける、国内全域に向けたルール作りを視野に入れるというのなら、「いかに競争を抑制するか」を考えて欲しいところです。特定の大学だけが不毛な競争から降りたところで、別の大学が就職活動に没頭するとなると前者が敗れて後者の一人勝ちを許してしまうだけ、個別の大学の努力で競争を抑制することは極めて難しいですけれど、文科省が全体に枠をはめるのなら多少の意義はあるでしょう。どれだけ学生が面接スキルに磨きをかけたところで、それで採用が増えるわけでもない、どれだけ競争したところで上位100人に入れるのは100名までです。競争は参加者の負担を増すだけで合格者の数を増やしてはくれません。ならば競争の負担を低減する、競争を抑制することこそ、所轄官庁に求められる役割だと思います。

 

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もう何度となく参拝してきたじゃないか

2010-08-17 23:01:07 | ニュース

菅首相、全閣僚が見送り=超党派議員ら靖国参拝―終戦記念日(時事通信)

 菅直人首相と17人の全閣僚は終戦記念日の15日、東京・九段北の靖国神社を参拝しなかった。終戦の日に閣僚が1人も参拝しないのは、政府に記録が残る1985年以降では初めて。一方、超党派の「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」(会長・尾辻秀久参院副議長)は、同日午前に集団で参拝した。

 首相は15日午前、静養先の長野県軽井沢町から帰京して公務に復帰。東京・三番町の千鳥ケ淵戦没者墓苑で献花した後、政府主催の全国戦没者追悼式に参列した。しかし、靖国神社にはA級戦犯が合祀(ごうし)されていることを理由に、参拝しない考えを明言していた。

 一方、自民党の谷垣禎一総裁、安倍晋三元首相は同日午前、靖国神社をそれぞれ参拝した。安倍氏はこの後、全閣僚の参拝見送りについて「首相や仙谷由人官房長官の方針としてそう決めたのなら、信教の自由上、問題がある」と記者団に語った。

 同議員の会で参拝したのは、尾辻参院副議長、自民党の古賀誠元幹事長、たちあがれ日本の平沼赳夫代表ら衆参両院の計41人。民主、自民、みんな、国民新、たちあがれ各党の議員が参ったが、菅内閣の副大臣、政務官は加わらなかった。 

 総理大臣時代は終戦記念日の参拝を避けていた安倍晋三が「信教の自由上、問題がある」などと宣っているそうです。じゃぁ靖国って、安倍晋三の定義だと何教なのでしょう。いずれにせよ信教の対象=宗教ですから、靖国が宗教である以上は政教分離の原則に照らして公人の参拝は憚られるべきということになります。そこは嘘でも「靖国は宗教を超えた存在なのだ」と強弁しないと公人の参拝は正当化できないはず、「信教」なんて言葉を持ち出してしまうと靖国の論理を自ら破綻させてしまうのですが、安倍晋三じゃそこまで頭は回らないのかも知れません。

 何はともあれ、今年も靖国に参拝する議員がいるわけです。しかしまぁ、この辺の人たちはいったい何回参拝すれば気が済むのでしょうか。もう過去に繰り返し参拝した、大クンニ中曽根康弘の時代には総理大臣による公式参拝だって済ませたわけですから、もう参拝は終わりにしたっていいのではないかと、そう思わないでもありません。とりわけ韓国にはもう何度も謝った~みたいに言う人であるなら、なおさらのことですよね。何故、何度も何度も参拝しなくちゃならないのでしょう?、っと。

 天皇側の軍隊に所属して死んだ人だけを顕彰する施設に参拝することで過去の行為を反省していないことを世間に対して表明し続けなければ気が済まない人もいる、その辺は信教の自由ならぬ思想信条の自由として、まぁ軽蔑はしますけれど他人が干渉しにくいものではあります。ただ公人たる政治家は個人的な趣味嗜好よりも自らが負う責任を考えて欲しいところです。刑事事件であれば加害者に無限の反省を求める、加害者の親族にまで謝罪を要求するお国柄でありながら、戦争犯罪や侵略行為に関しては「もう謝った」と居直るばかりか過去の行為を正当化しようとする、自らの非すらも認めることができないこのような振る舞いには同国人として深く恥じ入るほかありません。

 

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政治戦線展望なし

2010-08-16 22:55:23 | 編集雑記・小ネタ

 さて、相変わらず経済情勢は振わず、とりわけ雇用に関しては悲惨な状態が続いています。菅総理は「即効性があり、中長期的な雇用につながる対策が必要だ」などと述べたそうですが、これはどういう結果に繋がるのでしょうか。かつて菅が財務相へ就任した際に円安が望ましいと発言したところ、為替介入への期待感から本当に円安が進んで輸出企業を中心に平均株価も上昇するなんてことがありました。その時の菅発言は概ね好ましい影響をもたらしたわけですが、しかるに与野党双方から非難囂々でもあったわけです。前任の財務相である前任の藤井氏の円高容認発言には特に目立った批判がなかったことを鑑みるに、どうも日本の政財界は円安より円高を好んでいると見た方が良さそうです。円高という逆風の中で、骨身を削って利益を出すことこそ経営の理想と信じているのでしょう。そういうわけで、国内雇用は今後も絶望的です。

 菅の言う「即効性があり、中長期的な雇用につながる対策」という方向性には何の不満もないのですが、具体的にはどういうことをやるつもりなのでしょうか。せめて市場に期待感を持たせてくれないと、景気浮揚には繋がりません。即効性と中長期的なビジョンを両立できればまさに理想的ですけれど、昨今の政治にそれが可能とはとうてい思えないわけです。とりわけこの10年は、即効性ばかりが優先されてきた、中長期的な雇用に繋がる政策を提言する人がいれば、即効性を損ねるとばかりに否定されてきたのが実態でもあるはずですし。

 たとえば最低賃金に関しても、最低賃金を欧米先進国の水準まで引き上げると中小企業が潰れて失業が増える、経済が破綻するみたいな脅しが繰り返されてきました。そりゃ最低賃金ギリギリで人を働かせることでしか存続できないような企業は潰れるかも知れませんけれど、そういう企業を存続させることは中長期的に見ればマイナスのはず、本来なら市場原理主義者ほどこうした不採算企業の淘汰を唱えても良さそうなものです。しかるに、我が国の市場原理主義者、規制緩和論者、構造改革論者は軒並み、即効性の部分を強調するばかりで中長期的な視点を拒んできたのではないでしょうか。即効性を考えるなら、最低賃金を据え置く、低賃金労働者が低賃金労働を続けられる環境を残した方がマシなのかも知れません。低賃金労働者の失業という一時的な「痛み」を先送りにすることはできますから。しかし、それは中長期的に見れば明白なマイナスです。その中長期的なマイナスを放置してきた結果が今に至るというのに……

 非正規雇用、とりわけ派遣社員などの間接雇用を巡る議論にも同じことが言えます。現状、雇用に関しては実質的に完全自由化されているわけですが、たとえば派遣規制を(有名無実の制度面だけではなく運用面も含めて)本来の基準に戻すとしたらどうでしょうか。そうなったら派遣社員が一斉に仕事を失うよ、と規制緩和論者はお決まりの脅し文句を口にするものです。もっとも営業活動に必要な労働力が派遣規制の有無で変化するものではないだけに、営業活動を維持するためにはそれまでの派遣社員と同等の労働力を確保しなければならないわけで、トータルの労働力需要が減るわけではありません。別に派遣が雇用を生み出してきたわけではないのですから。「派遣社員を使えないくらいなら廃業する」なんて雇用主が多ければ話は別ですけれど、使えなくなった派遣社員の分は直接雇用で埋めるしかない以上、中長期的に見れば派遣規制の巻き戻しはプラスになります(参考)。

 ただ制度の変更に伴って一時的な混乱は起こりうるでしょう。中長期的に見ればプラスでも、短期的に見ればマイナス、即効性を重視する立場からすればデメリットが多いケースもあるわけです。ですから即効性の側では、非正規雇用が引き続き非正規雇用として働き続けられるような環境作りこそ好ましい=さらなる規制緩和が必要だという結論になりがちです(ただ派遣期間の制限をなくしたところで、遠からず契約を切られる、若い人に入れ替えられるのが派遣社員であり、いくら規制を緩めたところで派遣社員が同じ職場で働き続けられるようにはなりません)。とはいえ、「低賃金労働者が低賃金労働を続けられる環境」「非正規雇用が非正規雇用として働き続けられる環境」を維持することにばかり注力してきた結果として、世界経済の成長から取り残され、給与所得が下がり続ける日本という特異な環境が形成されてきたことに、そろそろ向き合わねばならないのではないでしょうか。何一つ期待できるところのない人間が総理の椅子に納まっている時代でもありますが、いい加減に雇用に関しても中長期的な視点を持って欲しいところです。

 

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いかにもなパフォーマンス

2010-08-15 22:56:35 | ニュース

歳費返納、全議員が申請=対象の59人、正副議長も―「大変だが、筋通す」(時事通信)

 初当選した参院議員らが任期前の歳費を自主返納できるようにした改正歳費法の施行を受け、参議院事務局が対象の59人に案内を出したところ、期限の13日までに58人が手続きをしたことが事務局への取材で分かった。残る1人は16日に申請するほか、新旧の正副議長も、役職で上乗せされている分の返納を申し出た。

 国会議員の月給に当たる歳費は、任期が1日だけでも1カ月分(129万7000円)が支給される。働いていない期間の給料支払いに批判が高まり、国庫への返納を可能とする改正法が6日に全会一致で成立した。

 対象は7月の参院選で当選し、同月26日から任期が始まった新人と元職。返納額は、歳費から税金を差し引いた後に任期前の25日間分を日割りして算出し、事務局が今月10日に通知した。平均は約79万円で、正副議長も合わせた総額は約4800万円となる。

 ただ、歳費とは別に支給される月額100万円の文書通信交通費は返納の対象外で、歳費を日割り支給とする根本的な法改正も秋の臨時国会以降に先送りされた。

 取材に対し、有田芳生参院議員(民主党)は「労働なき報酬はあり得ないと昔から主張していた身。借金を抱えて大変だが、筋は通さないといけない」と強調。文書通信交通費や秘書給与も日割りの対象とするよう訴える議員もいたが、文書通信交通費については、「個人に還元されるものではない」「月末に支払いが集中する事務もある」と歯切れの悪い意見も。 

 歳費を日割りにして任期期間前に相当する分の給与は返納できますよ、という法改正がなされたわけです。その対象額は約4800万円となるそうで、この危機的な雇用・経済情勢の中でたかが4800万円にしか影響しないような法改正に貴重な時間を費やした人々の良識を疑わないでもありません。そんなことより異常な円高の是正策でも論議してもらいたいところですが、昨今の議員にとって重要なのは「いかに国民に媚びるか」なのでしょう。これ見よがしに「公」の支出を削ってみせる、そうしたパフォーマンスを有権者に披露することは、政策上の課題に対処するよりも優先順位が高いのかも知れません。

 ちなみに建前上は「自主返納」とのことですが、既に58人が手続き済みで残る一人も16日に申請予定とのこと、こういう状態に「自主」と付けるのは大概にして欲しいところでもあります。返納したかどうかを逐一監視されており、もし「自主的な」返納に応じなければ晒し者にされることが火を見るより明らかであるにもかかわらず「自主~」と称する、欺瞞もいいところです。「任期が1日だけでも1カ月分を支給」という現行制度に問題があるとしても、こうした時期にこうした形で是正されることには疑問を感じます。

 なお文書通信交通費や秘書給与も日割りの対象とするよう訴える議員もいたそうです。ただ民間企業ですと何かと事務的な処理は月末に集中する、請求・支払い関係の書類も月末に纏めて送られるのが一般的なだけに、民間の感覚としては文書通信交通費を日割りの対象外としたことは妥当であるように思われます。また秘書は雇われ人ですし、その秘書の給与も日割りにするとしたら任期前後の仕事、たとえば選挙運動がタダ働きになってしまうわけです。政治家の選挙運動期間への支払いならいざ知らず、秘書給与には多少、幅を持たせるべきではないでしょうかね。

 ちなみに有田芳生氏は「労働なき報酬はあり得ないと昔から主張していた」とのこと。まぁ、有権者の圧倒的多数も考えていることは同じようなものでしょう。「労働なき報酬はあり得ない、働かざる者食うべからず」、と。ただこういう感覚が蔓延しているからこそ、今の日本があるような気がしてなりません。それだけに私は逆であるべきだと思うのです、すなわち「報酬なき労働はあり得ない!」。まぁ政治家ってのは普通の仕事とは明らかに別の尺度で測られるべき仕事ですけれど、「報酬なき労働はあり得ない」――つまり人を働かせるには正当な対価を支払う必要があるのだということを、政治家にこそ理解して欲しいのです。「労働なき報酬はあり得ない」みたいなことを自慢げに語る政治家は、事情の如何によらず働けない人を切り捨てるロジックを常に抱えていると言えますから。

 

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自立心を克服する必要があると思う

2010-08-14 22:59:10 | ニュース

福祉の「支援」に近づかない母親たち 大阪2児遺棄(産経新聞)

 母親が殺人容疑で再逮捕された大阪市の2児虐待死。事件からどんな課題が浮かんだのか。

 事件発覚2カ月半前の5月18日早朝。現場マンションの近隣住民から「子供が泣いている」と通報があった。児童相談所の職員が訪れたのは約10時間後の午後4時ごろ。通報はその前と合わせ計3回あったが、2児の存在さえ把握できなかった。

 虐待通報は24時間受けているが、夜間や早朝は職員を自宅から呼び出すため対応が遅れがちだった。教訓として市は児童相談所に児童福祉司らが24時間常駐する方針を決め、緊急時は市消防局の救助隊らが急行し強制的に立ち入って安否確認する全国初の制度導入も決めた。市は「消防法の人命救助に関する規定を広く解釈すれば可能」と説明するが、総務省消防庁は「消防法は火災や救急搬送の要請を想定している」と難色を示す。

 一方、児童相談所の職員が4、5月に家庭訪問した際、連絡を求めて集合ポストに残した手紙は室内の簡易キッチンで見つかった。母親は手紙を手にしながら自ら連絡を取ろうとはしなかった。昭和22年の児童福祉法制定以来、福祉的アプローチを基本としてきた児童相談所だが、事件が浮き彫りにしたのは従来の福祉の「支援」にさえ近づかない母親たちの存在だった。

 さて、虐待死事件に関する報道が色々とあるわけですけれど、ここで取り上げた記事では見出しにもあるように母親が「福祉の支援に近づかない」ことに着目しているようです。既存の福祉自体が著しく不十分なものでしかないことも問題ですが、要支援者が福祉の支援に近づこうとしないケースも少なからずあるのかも知れません。ではなぜ母親が「福祉の支援に近づかない」のでしょうか。その辺はとかく個人の責任に帰せられてしまうものですけれど、もうちょっと立ち止まって考えてみる必要がありそうです。

 そこで思い出したのは、生活保護を拒んでホームレスになる人もまた少なからず存在するということです(参考、セーフティネットを拒む自立心)。とかく公的な支援を受けることを否定的に捉え、断固として生活保護を受けようとしない路上生活者もいる、福祉の支援に近づかない貧困層もまた福祉の支援に近づかない母親と同様に存在しています。貧困層に対しても従来の福祉は著しく不十分ですが、それに加えて要支援者が福祉の支援に近づこうとしないという問題が発生しているわけです。自分の首を絞めるか子どもを見捨てるかの違いはあれ、何を思って福祉を拒むのか、という点では共通した問題を抱えているのではないでしょうか。

 とかく「自立」が尊ばれる社会であるだけに親族に頼ることすら否定的に見られる、ましてや公的な福祉に頼るなどとなると、それこそ唾棄すべきこととして扱われがちです。何もかも自分でやるのが大人として当たり前、親や公的支援に頼るのは甘えだ、日本人は自立心が足りない云々と語られるような社会では、必然的に母親が全責任を負って育児を完遂することが当然視され、そこから逸脱すれば母親失格の烙印を押されます。それこそ児童虐待事件が報道される度に「自分で育てられないのに産むな」みたいな言説が撒き散らされるものですが(少子化が進むわけだ!)、この辺はまさに典型的でしょう。自分で育てられなければ母親としての資格はないというのですから。他人の支援を受けずにやっていくことこそが「あるべき姿」だと思っているゆえに、福祉への抵抗感もまた強いわけです。

 そうであるからこそ、極端から極端に走りやすいのかも知れません。当初は有資格者であるために母親として全力を尽くしつつも、ひとたび子育てが上手く行かなくなると、母親失格ということで全てを投げ出してしまうケースが目立つのではないでしょうか。「親を休むことも大切です」と語る人もいる一方で(参考)、母親は休んではいけないのだ、母親は休んだら終わりなのだと思っている人が、当の母親サイドにすらかなり多いような気もします。最初からいい加減な母親であれば適度に「親を休む」、公的な福祉に頼ったりもできる=何とかやっていけるのでしょうけれど、真面目な親ほど「親を休む」ことを拒む、他人に頼ったら終わり=母親失格だと考えがちであり、そうであるからこそ福祉を拒む親がいる、それで亡くなる子どももいるわけです。自立心を克服し、他人に頼れる社会になること、お互いに頼りあうことが当たり前と受け止められるようになること、そして「育てられなくなったら預ければいい」ぐらいに世論が変化しないと、児童虐待の類はなかなか減らないように思いますね。

 

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もうちょっと行方不明者に同情的になるべきだと思う

2010-08-13 22:58:08 | ニュース

不明109歳の年金、月5万円を今も支給(読売新聞)

 神奈川県内で男性最高齢とされていた川崎市幸区の109歳男性が所在不明となっている問題で、埼玉県内に住む孫の女性(53)は10日、読売新聞の取材に対し、男性に現在も支払われている年金は、月額約5万円であることを明らかにした。

 「一部は捜索費用として使った」としている。

 女性は、行方不明の男性に年金が支給されている現状について「良くないことで、問題をこのまま残したくない」と語り、 失踪 ( しっそう ) 宣告の手続きを行うとしている。また、「祖父が生きている可能性が全くないとは思わない」と述べる一方、「(失踪宣告を受けた後)きちんとお葬式を挙げて、家族で見送ってあげたい」とも話した。

 女性によると、男性は86歳だった1987年8月初旬、妻(故人)に「田舎に行く」と言い残して自宅を出て、タクシーで川崎駅に向かった。川崎市内や千葉県内に住んでいた親類宅にも問い合わせたが、行方が分からず、同日夜、家族が幸署に捜索願を出したという。

 先日も取り上げたことですが、100歳以上の高齢者で所在不明者が相次いでいると伝えられています。先週の段階ではかなりヒステリックな報道も目立ち、調査の進展で所在不明者の人数はそれなりに増大するものと思われたものの、1週間が経過した今の段階ではそう目立った動きはないようです(8/13付朝日新聞の報道では既に捜索願が出ているものを含めて全国で279人、うち200人は兵庫県と大阪府に集中/阪神・淡路大震災後に住民票を置いたまま転居して足取りがつかめなくなっている人が多いとも)。例によって「○○県で○人!」みたいな記事は散見されますけれど、よくよく読んでみると元から自治体側では所在不明を確認済み、ただ死亡が確認されたわけではないので住民基本台帳から抹消されてはいないなどのケースばかりです。その辺は役所でも当然わかっているらしく、平均寿命算出の母数からは省かれているとのこと、また年金の不正受給というイメージが勝手に一人歩きしているフシもありますが、やはり記事をよく読むと「○○人のうち1名には祝い金○万円が渡されていた」というレベルに止まっています。今さら騒ぐようなことではなさそうですね。

 一方、ここで引用したのは例外的なケース、年金受給が続いているケースです。詳細はお読みいただければと思いますが、要するに行方不明になってしまい、捜索を依頼したも所在がつかめないまま年月が経過してしまったわけです。今に至るも死亡が確認されたわけではないだけに家族側としては一縷の望みを持ち続けたい、生きているものとして扱い続けたいところでしょうけれど、諸々の騒動で新聞社の取材までやってくるに至り、失踪宣告の手続きをすることにしたと伝えられています。家族としては、辛い決断だったでしょう。

 家族の所在がつかめなくなったからといって、そう簡単に死亡扱いにする=台帳から抹消するというわけにはいかないものです。どこかで生きている可能性があるのなら、できるだけ生存扱いにしておきたい、安易に死亡とはしたくない、そうした結果として所在不明の高齢者が増えてきたところもあるはずです。しかるに拉致被害者であれば遺骨の鑑定結果を捏造してまで行方不明者は生きているものとして扱い続ける、かつそれが世間の理解を得ているにも関わらず、普通の失踪者に対して世間は随分と冷たいのではないかという気がします。いつまでも生存扱いにはできない、どこかで区切りを付けなければいけないわけですけれど、もうちょっと行方不明者の家族に対して同情的な視点があってもいいのではないかと思います。

 

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隣の国からは来ないようです

2010-08-12 22:57:14 | ニュース

欧州議会の極右議員団が訪日へ、靖国参拝も(読売新聞)

 欧州議会(仏ストラスブール)の極右政党議員団が、12~18日、訪日する。

 日本の右翼団体との交流が主目的だが、仏国民戦線のブルノ・ゴルニシュ副党首によると、ジャンマリ・ルペン国民戦線党首を含む代表団は、靖国神社への参拝などを予定しているという。

 代表団には、英国の国民党、オーストリアの自由党、スペインのファランヘ党など欧州連合(EU)9か国の出身議員が含まれる。

 こんな報道があるわけですが、各代表団はいったい何を思って来日するのでしょうね。そもそも左翼と違って右翼は国際的な交流が難しいところがあるはずです。左翼の理念は概ね国境を越えて共有できるもので、それだからこそ国際的な連帯が(破綻を繰り返しながらも)形成されてきたものですが、右翼の場合はどうでしょうか? そりゃ考え方は似たようなところがあるかも知れません。ただ移民排斥を訴えるにしても、ある国の右翼団体が排斥しようとしている移民とは別の国にとっては自国民であったりするわけです。あるいは自国の過去を美化するような歴史観にしても、これまた隣の国からすれば受け入れがたい、とりわけ右翼からすれば許し難い歴史観にもなるでしょう。その辺を「他国の事情」とスルーしたり尊重したりするような性分であれば、敢えて右翼である必然性もありませんし。

 報道によると「日本の右翼団体との交流が主目的」とのことで、具体的には一水会が主催しているようです(参考)。一水会の最高顧問を務める鈴木邦男氏は右派の割には道理の通じる人でガチガチの排外主義者というわけでもなく、左派からもそれなりに尊重されている一方で昨今の右派からは異端視されがちな人でもあります。単なる修正主義者、排外主義者の集まりというわけでもないのでしょう。ただ、排外のための集まりではないとしても、ここで集まったメンツからはいくつか問題が見えてくるような気もします。

 巨大な仮想的の存在が、平時なら対立するであろう組織をまとまらせることがあります。かつてなら共産主義がその役割を果たしており、反・共産主義 国 でさえあれば軍事独裁政権であっても民主主義陣営の一派として認められていた時代もあったわけです。そこで今回、日本に招かれたヨーロッパの極右政党が協調できているとしたら、それはおそらくイスラム系移民の存在が大きいのではないでしょうか。イスラムという共通の敵があるから、右翼団体同士で話が通じる、価値観を共有できていると言えます。しかし、非イスラム文化圏の右翼団体同士は連帯できても、イスラム文化圏の右翼団体とはどうでしょう?

 日本に集ったのは、フランスにイギリス、スペインなどいずれもヨーロッパの団体です。端的に言えば、歴史問題や移民問題で日本と直接の関わりがない国の右翼に限られているわけです。国際交流に意味がないとは言いませんけれど、ある意味では対立点がない、乗り越えなければならない壁のない相手との会合は、あまり実りを期待させてくれるものではないように思います。これがせめてアメリカ、願わくは韓国や中国の右翼団体や右翼政治家との交流であれば、趣は随分と変わってきたでしょう。原爆投下は正しかった云々と語り続けるアメリカの右派や、お互いにいがみ合う間柄である中韓の右派との交流が実現されれば、それは凄いことですけれど、ヨーロッパの極右政党とでは特にどうということもない、話しやすい相手を選んでいるように見えなくもありません。まぁ、あくまで民間団体のやっていることですからね。

 

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