非国民通信

ノーモア・コイズミ

今や本家も形無し

2011-08-30 23:29:33 | 社会

 さて、これまた少しばかり前の話になりますが、フジテレビに対して「韓流」を止めるようにとのデモが行われたそうです。まぁ、こういうのは相手にしないのが大事です。極右層を当て込んで選挙で惨敗した政治家や政党もあったわけで、騒いでいる人を多数派と勘違いして変に気を使ってしまうと、それこそ道を誤る結果になりますから。抗議を受けたフジテレビ側がヘタレるのならいざ知らず、適当にあしらっている限りは我々が憂慮するようなことにはならないでしょう。それにしてもまぁ、コンテンツの売り込みに熱心な韓国の姿勢は、日本も見習って欲しいところですね。製造業では新興国とのコスト競争で身を磨り減らすばかりなんですから、もっと「モノ」以外の商品を国外に売り込む努力が望まれるところです。

 さて、娯楽と言えばテレビしかないとか、受信できるテレビ局はフジテレビだけというのであれば「偏向」報道は問題になるのかも知れませんが、嫌なら他の局を見ればいい、嫌ならテレビ以外のメディアを選べばいいだけの話です。選択の自由は確保されているのですから。そして、この選択の自由が確保された中、「韓流」は市場原理によって淘汰されることなく生き残っています。一定の需要があり、採算がとれるコンテンツということなのでしょうね。だからこそ、反・韓流な人たちが憤るところもあるように思います。単にテレビ局が無理押ししているだけなら、いずれは廃れていくもの、そうならないものだからこそ、ある種の人々に危機感を抱かせるわけです。

 ただ最近は、もう一つ要因があるような気がします。かつて一水会の鈴木邦男が、従来の街宣型の右翼は追いつめられているみたいなことを言っていました。何でも世論が右傾化する中でネット世論がどんどん先鋭化し、街宣右翼よりも過激な主張が当たり前のように飛び交うようになっていった結果として、街宣右翼が焦りを感じるような状況が作られているのだとか。古株の右翼が若いネット世代の右翼の台頭を前に埋没の危機を感じたとしても、確かにそれは不思議ではなさそうです。その結果としてネット右翼に負けてはいられないとばかりに暴発する街宣右翼も出てしまうのだと鈴木邦男は語っていたように記憶しています。

 これと似たようなことが、今度はネット世代の右翼に対しても起こっているのではないでしょうか。つまり、原発事故以前から自分たちに迫る脅威の存在をことさらに大きく強調してきた、偏見に基づく差別意識や嫌悪感を煽り立ててきた人々にとって、今の状況は焦りを感じるものではないかと思えるのです。これまでは自分たちが先頭に立って拳を振り上げていたのに、いつの間にやら拳を振り上げた大集団が後ろから自分たちを追い越し、自分たちを飲み込もうとしているわけです。ネット世論の主流派として隣国への憎悪を駆り立ててきたはずが、電力会社なり原発なりへと憎悪を向け、放射「能」を言い訳に差別や偏見を広めて憚らない人々に主役の座を奪われたと感じているネット世代の右翼も少なからずいることでしょう。そうして埋没の危機を感じた右派が自らの存在を誇示すべく暴挙に出たとしても、これまた不思議ではありません。

 一方こちらは、諸派こと幸福実現党のチラシです。特に問題のあるものではないとも言えますが、一方で少数派の主張でもあります。まぁ、これが単なる政党のチラシであるなら、奇特な人もいるものだと済まされるだけでしょうか。しかるに、実質的には幸福の科学という宗教法人の発行物でもあるわけです。一般に宗教は、とりわけ新興宗教ほど何らかの脅威を説き、それに対する救いの手をさしのべるイメージがありますが、「こわくない」と逆に相手を安心させようとするかの如きメッセージを発信するのは、あまりカルトらしくない、ましてや近隣諸国の脅威を盛んに説いてきた団体の刊行物としては似つかわしくない文面と感じさせてくれます。

 色々と事情もあるのでしょう。核武装論者でも反原発の流行に乗り遅れまいと急ぐ人もいれば、原発と原爆が同一視されて核武装論までもが否定されるのを恐れて原発擁護に回る人もいるわけです。あるいは福島にも少なからず住んでいるであろう信者を慮ってのことでしょうか。本当に計算高く自らの「利」を考えるのであれば、人々の恐怖を煽り立て、そこに救いの手をさしのべる風を装って信者の獲得に繋げてもおかしくないところです。何かしら不安や恐怖に苛まれている人々に、「こうすれば大丈夫です」と真偽の定かではない解決策を提示して自らの「教え」を擦り込むのはカルトの常套手段です。放射「能」への恐怖が吹き荒れる今こそ、信者を増やすには絶好の機会でしょう。しかし、幸福実現党は放射「能」の脅威を煽ろうとはしていない、少なくともその点だけは良心的と言えます。

 むしろ、恐怖と救済をちらつかせる手法もまた反原発論に本家の座を奪われてしまったのかも知れません。大川隆法という教祖の言葉よりも、小出裕章なんかの語る終末論の方が世間的には格段に影響力が大きい、ことによると幸福の科学の信者においてすら、というところもありそうです。教祖でも何でもない人が擬似的な教祖となり、世界の破滅よろしく放射「能」の恐怖を日に日にエスカレートさせながら説いていく中では、本物の教祖である大川隆法ですら焦りを感じることもあるのではないでしょうか。幸福の科学よりも速いペースで「信者」を増やしている人が多々いるわけです。こういう状況で埋没を避けるべく、どこか放射「能」とは別のところで、ことさらに過激なことを言い出すことも増えることでしょう。右翼にとってもカルトにとっても、周りの「一般人」だったはずの人の方がむしろ過激なことを口にし始める時代ですから。

 

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誰でも一緒と言うのなら

2011-08-28 23:13:38 | 政治・国際

「言いなり3人男」民主代表選、福島社民党首がバッサリ(朝日新聞)

 「言いなり3人男」に政治を委ねても、日本の政治がよくなるとは思えない――。社民党の福島瑞穂党首は24日の党常任幹事会で、民主党代表選の有力候補者を皮肉った。

 福島氏は、野田佳彦財務相を「財務省の言いなり」、海江田万里経済産業相を「経産省の言いなり」、前原誠司前外相を「防衛省と外務省、米国の言いなり」と、それぞれ切って捨てた。「『ポスト菅』は、菅さん以下になるのではないかと危惧している」とも語った。

 福島氏は「脱原発を明確に打ち出す人が見当たらないのはかなり危機的だ」とも指摘した。

 この頃は電波発言の目立つ社民党の福島党首ですが、今回は「言いなり3人男」などと宣ったそうです。何ともセンスのない罵倒です。品性を疑わせる発言でもありますけれど、本人は得意になっているのでしょうか。何となく、田中真紀子のことを思い出しました。この頃はすっかり影の薄い政治家の娘ですが、一時期は「凡人」「軍人」「変人」 だの「オダブツさん(故・小渕恵三)」とか「種無し西瓜(安倍晋三)」などなど、諸々のあだ名や悪口で喝采を浴びていた頃もあったわけです。田中真紀子が「言いなり3人男」と言ったとしても、何も違和感はないでしょう? 福島瑞穂の発言も、その系譜に連なるものに見えます。

 まぁ、社会的に嫌われている、あまり好かれていない人を公然と罵ってみせれば世間のウケは悪くないものです。その標的として選ばれるのは公務員や官僚であったり、最近であれば電力会社であったりもするわけですが、政治家もまた古典的な標的であることは言うまでもありません。政治家をネタにした風刺なり悪口なりはいつの時代にもあって、とりわけ与党の政治家が負うべき重責からすれば批判的に見られるのもまた責務ではありますけれど、ただユーモアと単なる悪口は、やっぱりどこかが違うような気がします。本当に誰もが笑うような皮肉もあれば、その対象に悪意を持っている人が快哉を叫ぶだけの罵倒もあるのではないでしょうか。

 福島瑞穂の発言がどちらに該当するかは敢えて言いません。その代わり、じゃぁ誰ならいいんだよと問いたくなります。要するに「○○省の言いなり」はダメとのことで、取りあえず官僚の言葉には聞く耳を持たず、真っ向から否定してみせるような人でないと瑞穂ちゃんのお気に召さないようです。それから、「脱原発を明確に打ち出す」ことも要求されています。この2つの条件を満たす人となると――大阪の橋下府知事などはいかがでしょう。橋下であれば、「○○省の言いなり」にはなりませんし、後先考えず「脱原発を明確に打ち出す」人でもあります。完璧ですね。社民党は今すぐ、橋下との連携を模索すべきです。

 まぁ、小政党でありながら党内での求心力さえ失っている誰かさんが何を言おうと、民主党代表選は粛々と進められていきます。27に告示で29日に開票という、良く言えば政治に穴を空けないけれど、悪く言えば政策を訴えるような時間を省略した代表選の結果はどうなるでしょうか(明日には結果が出ている、というよりこの記事が読まれる頃には既に結果が出ているような気もしますが)。確かに、誰になっても……みたいな感覚は福島瑞穂ならずとも持っているのかも知れません。代表選の結果として小沢一郎の処遇が最も注目を集めているかの如きフシすらあります。まぁ結局のところ民主党の政治には違いないのでしょう。ただ細かい部分を見ていけば最悪の候補と多少なりともマシな候補は分けられそうにも思いますが、それでも「言いなり3人男」と一括りにしてしまう人が、政治の専門家であるはずの人の中にもいるわけです。

 ただ民主党代表選の各候補を誰でも一緒と見なすのなら、表面上は対立を続ける民主党と自民党も大した違いがないと考えるのが筋です。野田と海江田、前原の間に差がないのなら、民主党と自民党にだって大きな差はありません。この際、社民党は自民党との連携も模索すべきですね。しかるに向いている方向がそう大きく異なるとは思えない両党ですが、民主党の一部に連立を模索する動きがある一方で、自民党側は強く反発する姿勢を見せています。野党時代の小沢一郎も当時の与党であった自民党との連立に動いていた頃がありましたが、これも党内、世論共に好意的には迎えられませんでした。結局のところ民主であれ自民であれ、とりわけ野党である間は与党との対決姿勢を露わにしておきたいという思惑があるようです。そういう姿勢を鮮明にして置いた方が、次の選挙での勝利に近づけるとの目算もあるのでしょう。

 ただ不思議なのは、方々の地方自治体では民主と自民が仲良く与党を形成していることです。現に一時は対決路線をアピールすべく自民党との相乗り候補を減らしていた民主党ですが、先の統一地方選では自民党との相乗り候補を大幅に復活させていました。むしろ地方行政を鑑みれば、民主と自民が手を携えるのが「普通」の在り方であって、なぜか啀み合う国会の両党の姿こそ「異常」であるように感じます。もし有権者の多くが自分の住む自治体議会の勢力図を理解しているのであれば、世論は民主と自民の大連立を望んでもおかしくないように思われるのですが、そうなっていないのはなぜでしょうか。まぁ、民主と自民がタッグを組んでしまうと、政策決定がスムーズになる反面、悪い方向に進むのもスムーズになってしまいます。震災から約半年、拙速を尊ぶ場面も減ってきた時期としては大連立で迅速な国会運営より、適度なグダグダで歯止めが掛かってくれた方がマシなのかも知れません。

 

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無理をすれば大丈夫です……って

2011-08-26 23:13:31 | 社会

コスト20%削減すれば80円の円高でも競争可能=トヨタ新美副社長(ウォール・ストリート・ジャーナル)

 新美副社長はコストを20%程度削減できれば、(対ドル相場が)80円でも完全に競争できるとし、この水準で日本で生産した新型車を2013年までに競争可能なものにしなければならないと語った。また、同社は13年には、燃費が向上した、低排ガスの次世代車をどこで生産するかも決めなければならないという。

 トヨタはこれまで、1ドル=90円以上の円高ではコンパクトカーの輸出で利益を上げられないとしていた。同副社長の目標は日本国内の17工場の新しい基準となる。

 トヨタは、世界販売台数の半分近くを日本で生産しているため円高が打撃となる。ライバルのホンダと日産自動車では、国内生産比率は25%程度にとどまっている。

トヨタ自動車の新美篤志副社長は21日、ウォール・ストリート・ジャーナルとのインタビューで、円の対ドル相場が過去最高値近辺にある中で、生産技術の簡素化と支出削減で、利益を確保できるコンパクトカー輸出を行いたいと述べた。

 ちょっと前のニュースですが、相変わらず異常な円高が止まらない中でトヨタの副社長がサラッと凄いことを言っていました。曰く「コストを20%程度削減できれば、1ドル80円でも完全に競争できる」そうです。まぁ、計算上はそうなのでしょう。ただ、それを平然と口に出来るセンスはなかなか真似の出来るものではありません。見方を変えれば「1ドル80円で競争力を維持するためには、20%ものコスト削減が必要になる」ことを意味してもいるわけです。今の段階からさらに20%もコスト削減をしなければ利益が出せないとなったら、普通は「無理」と考えそうなものです。にもかかわらず「コストを20%程度削減できれば、1ドル80円でも完全に競争できる」と言い切れるのは、単に強気とかそういう次元で説明が付くものではないような気がします。

 私だったら、20%ものコスト削減が必要になった段階で撤退を考えるところです。業態の転換を図るか、自動車の需要が高い地域に生産を移転するかですね。モノを大切にするばかりで新しいモノを買いたがらない日本で、ものづくりに固執していてもしょうがないですし。他にやれることがあるとしたら、政府や日銀に異常な円高を是正するべく要請するくらいでしょうか。もうちょっと、円の国際的な信用を失わせるよう務めないといけません。なんだかんだ言ってムーアの法則がスローダウンしつつも生きている半導体業界ならいざ知らず、自動車業界のようにある程度まで完成された世界で20%ものコスト削減に踏み切るのは、各方面に相当な無理を強いることになりますから。

 しかるに、「コストを20%程度削減できれば、1ドル80円でも完全に競争できる」と言い切る人もいるわけです。どうも私には、コスト削減に伴う負担を軽く見ているようにしか思えません。副社長という立場からすればから命令するだけで済むことなのかも知れませんが、しかるに現場では今までと同じ働きを20%少ない取り分で行わなければならないことになります。どこに主だったしわ寄せが行くかは不明ですが、下請けなり部品メーカーなり従業員なり、どこかしら無駄として切り捨てられ、残ったどこかは切り捨てられた分まで働かなければならなくなります。それを我々の社会は「カイゼン」と呼んできましたが、国内で働く人の購買力はますます落ちることになりそうです。

 まぁ、元よりコスト削減に血道を上げ、戦後最長の景気回復局面の中でも一貫して給与所得を下げ続けてきたのが日本的経営です。その辺を鑑みれば円高を背景にした一層のコスト削減は決してやむを得ない選択ではなく、むしろ日本的経営の理想に近づく一歩なのかも知れません。円高で輸出に不利、国内景気が低迷して経営が苦しい、こういう事情があってこそ、より一層のコスト削減を正当化できるというもの、これを追い風に感じている人もいるはずです。ただコスト削減「させる」側は自らの理想に近づくことに精神的満足感を得られるとしても、コスト削減「させられる」側はどうなんでしょうか。まぁ、貧乏人でも心はエグゼクティヴ、庶民も常に経営目線で物事を考えてこそ日本的経済感覚というものです。

 こういう経済感覚は前々から珍しいものではありませんでしたが、震災後は似たような感覚が経営面以外にも幅広く浸透しているように思われます。たとえば、「節電すれば原発無しでも電力は足りる」みたいな奴ですね。確かに電力会社の頑張りもあって、今年の夏はギリギリ電力を賄えていると言えないこともないですが、そのためにどれだけの無理が積み重ねられていることでしょうか。そしてこの積み重ねられる「無理」を何一つとして省みようとしない人も少なくないわけです。「コストを20%程度削減できれば、1ドル80円でも~」と「節電すれば原発無しでも~」に共通するのは、それが「無理」をすることで初めて可能となる窮余の策であるにも関わらず、無理を「させる」立場から安易にそれを他人に要求していることです。

 各所で照明や空調が落とされ、色々と不便にもなりました。この辺は健常者であれば耐えられる範囲で「今までが便利すぎたのだ」と言えるのかも知れません。健常者であれば。ただ視覚に障害を持つ人の中には、健常者にとっての「過剰」な明るさを必要とするケースもあると聞きます。そうでなくとも操業時間を昼から深夜にシフトさせた企業も少なからずあるわけです。ホワイトカラーで安定した仕事に就いている人にとっては他人事なのでしょうけれど、節電を理由に深夜勤務を強いられる人は大変です。あるいはトヨタなどの自動車業界は軒並み勤務する曜日が変更になって、今までのように土日を休むことが出来なくなりました。シフト勤務の仕事の人気の程や、民主党の休日分散化案の評価を鑑みれば、子供や世間の多数派と異なる休日シフトが本来であれば歓迎されない代物であろうことは想像に難くありません。でも、節電のためなら嫌なことでも呑まざるを得ない状況が続いているのです。

 大企業は節電のためと勤務日をシフトさせる一方で、それに付き合う中小企業は振り回されるばかりです。操業日がバラバラになってしまった各取引先に合わせるべく、逆に休日無しで対応にかけずり回ることにもなりかねません。私の勤務先でも、少しばかりズレた時期に夏期休業を設定した取引先が多かった、つまり自分の会社の休業期間に顧客が営業しているケースも多々あったわけです。その結果、休日出勤して顧客対応に当たる人も少なくありませんでした。このような「無理」の積み重ねがあってようやく15%超の節電が出来ているのです。たしかに、節電すれば原発無しでも(と言っても全停止すればもっと厳しいことになりますが)電力は足りるように見えるのかも知れません。でも、それがどれほどの無理を随所に強いているのか、少しは考えてほしいものです。

 しかるに、トヨタの副社長が「20%コストを下げれば済む話」と言い切るのと同じような勢いで「節電すれば済む話」と電力不足のリスクを切って捨て、そのコストカットなり節電なりのしわ寄せを受ける人々のことなど微塵も考えない、そういう恐るべき強者目線の人が激増しているように思います。脱原発の熱狂の中、かつては弱者を守るべきという立場を装っていた人々が、原発事故後は徹底した強者目線、健常者目線で節制を説くばかりで、弱者への配慮などかなぐり捨てている時代です。左派と目されていた人の説くことが石原や橋下の類と大差ないケースも今や珍しくなくなりました。進め一億火の玉だとばかりに、色々と節約や無理を強いられることも今後はますます増えていくのかも知れません。

 

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性表現規制を語る前段階として

2011-08-24 23:26:12 | 社会

 さて、今日は性表現規制を語る前段階として、性犯罪統計の見方を考えてみようと思います。まず性表現規制を訴える側は、さも純粋な創作を含む「非実在」のポルノまでもが「現実の」性犯罪に影響しているかのごとく語りがちです。これに対する至極当然の反論として、現代の日本における性犯罪の少なさが挙げられます。一部の規制論者が語るように日本が児童ポルノ大国であり、それが現実の性犯罪にも影響を与えるのであれば、もうちょっと性犯罪が多くなければおかしいはずですが、少なくとも統計を見る限り現代日本における強姦の認知件数は非常に少ないわけです。

 ただ、この認知件数の「少なさ」を語る際には、一つ注意してもらいたい点があります。日本国内における時系列的な推移を提示するのは適切なのですが、国際比較を持ち出すのは墓穴を掘るだけだから止めていただきたいのです。というのも性犯罪には刑事事件として認知されない「暗数」が大きく、その基準は国によって異なります。国際比較を持ち出して日本の性犯罪件数は少ないと言っても、それは暗数の度合いが不明確である以上、客観性を欠いた主張を連呼するだけになってしまうのです。原発を批判するのにECRRや上杉隆の説を引用すれば知識人から見放されるべきであるように(必ずしもそうなっていないところに日本の知的貧困が現れているのかも知れませんが)、性犯罪を語るのに国際比較を持ち出せば、それは知的に誠実であろうとする人々の離反を招くだけでしょう。

 そもそも統計上で日本よりも強姦認知件数が小さい国というものも多々ありまして、データのあるものを少ない方から挙げていくとエジプト、アルメニア、アゼルバイジャン、シリア、レバノンと、アルメニアを除いてイスラム教国が並びます(2003-2008年の国連調査による)。同時期のデータがないので除外しましたが、少し古い資料ではイランの強姦認知件数も極小です。統計上の強姦認知件数の少なさを持ち出して「日本は性犯罪が少ない」と主張してしまうと、究極的にはイスラム社会の性文化を理想とすることになってしまいそうなのですが、これはいかがなものでしょうか。意外にネット世論とイスラム的な性文化、とりわけ女性の性に対する考え方は相通じるところがあるような気がしないでもありませんが、私は御免です。

 じゃぁコーランは性犯罪を抑制する効果があるのかと言えば、そんなことを真顔で信じられる人はいないと思います。そうではなく、抑制しているのは「認知件数」の方ですよね。国の社会情勢や文化によって、「認知」するかどうかの基準は大きく異なります。むしろ強姦認知件数の統計が指し示すのは、性犯罪の多寡であるより、「認知されやすさ」「性犯罪に対する感度」といったものではないでしょうか。そこで性犯罪と違って、概ねどこの国でも定義が揺らぎにくい犯罪として「殺人」を比較対象にした視点から考えてみたいと思います。

データ引用元、国際日本データランキング明治大学国際日本学部 鈴木研究室

 さて、全ての国を列挙すると数が多すぎますので、OECD諸国に加えて各地域から同時期のデータがある国で人口が多い順に数カ国をピックアップしてあります。右端の「レート」は「強姦認知件数」を「殺人認知件数」で除算した数値です。このレートの順に並べてあるわけですが、レートが高い=「殺人が少ない割には強姦認知件数が多い」ことを意味し、レートが低い=「殺人が多い割には強姦認知件数が少ない」ことを意味します。そして我らが日本は中位ですが――OECD諸国で考えると下の方でもありますね。ともあれ、この「レート」が意味するところは何なのでしょう。

 国によっては「治安は良いのに性犯罪だけは多い」とか「治安は悪いのに性犯罪だけは少ない」と等々の特殊事情もあるのかも知れません。ただ、「レート」に現れているような最高と最低とで500倍もの差があるとは考えにくいところです。やはり性犯罪といえど、その実数は治安にある程度まで比例するものでしょう。そこで定義が明白な「殺人」の件数を治安の尺度として捉え、これを「強姦」認知件数と比べてみた場合、「強姦として認知する敷居が高い国/低い国」というものが浮かび上がってくるように思います。総じて裕福な国ほど強姦として「認知」されることが多く、一方で経済的に貧しい国やイスラム教国は強姦として「認知」されることが少ない、そして日本は経済水準の割に……

 アメリカは誘拐事件が多くて、その犯人は「親」が最も多いなんて話も聞きます。何でそうなるかと言いますと、「離婚して親権のとれなかった親が無許可で子供を連れ出すケース」が誘拐としてカウントされているからなのだそうです。犯罪の「認知」件数が多いように見えても、国や社会によって定義が異なるわけです。強姦「認知」件数の場合も同様、上記レートの高い国では「妻(夫)に強引に迫って喧嘩になった」みたいなのまで強姦事件として認知する一方、レートの低い国では「誘惑した女性の罪であって強姦ではない、女性に鞭打ちの刑を言い渡す」みたいなことにもなっていると考えるべきであり、単純な認知件数の多寡と性犯罪の深刻さを混同してしまうと、実態を見誤ります。

 上記リストを見れば気になった人もいるかと思いますが、メジャーな国がいくつか抜けています。これは同時期のデータが揃わなかったためですが、参考値として2000年のオーストラリアを挙げますと、人口10万人当たりの強姦認知件数は驚きの「81.41」です。これを殺人件数の1.31で除算するとレートは「62」となります。ノルウェーを抑えて堂々のチャンピオンですね。ちなみにオーストラリアでは、おっぱいの小さい女性は児童扱いということで大人でもポルノ出演禁止なんてお笑い規制が出てくるなど、性表現規制には熱心な国のようです。

 また、上記リストでは日本の遙か下で発展途上国の仲間入りをしているカナダですが、例によって2000年のデータでは人口10万人当たりの強姦認知件数は「78.08」です。これを殺人認知件数1.64で除算するとレートは「48」、暫定銅メダルです。カナダもまた性表現規制が厳しいことで有名で、どうも私には「性表現規制は認知件数を過剰に引き上げる」意味合いを持つように思われてなりません。コーランは性犯罪を女性のせいにし、経済的貧困は被害者を泣き寝入りさせ、性表現規制は家庭の寝室にまで警察の目を光らせる――そういうものなのではないでしょうか。家庭の寝室と言っても中には警察の介入が必要な場合もあって、むしろ日本はもう少し認知件数が増えた方が適正なところもありそうですけれど、何事にも行き過ぎというものはありますから注意が必要です。

 カナダの強姦「認知」件数は奇妙な激減を見せていますが、おそらく認知基準が一変したのでしょう。夫婦間の話し合いで解決できるレベルのものまで「強姦」として認知していたものを、見知らぬ第三者に襲われたものだけ、それも未遂では済まなかったものだけをカウントするようになったとか、そういう変化があったものと推測されます。強姦「認知」件数なんてそんなものなのです。ただ、日本の場合は極端な認知基準の変更がない中で強姦認知件数は30年前や40年前と比べて大幅に減っているわけで、この辺は「性犯罪は減っている」と主張する上で間違いのない論拠となります。ポルノメディアの流通量は増えましたが、別に性犯罪が増えたりはしていません、と。

 ちなみにコーランは強姦「認知」件数を抑制すると書きましたが、これには噛みついてくる人もいるでしょうか。まぁ、そもそもイスラム教国はデータが揃っていないところも多いので、多少の例外も出てくるかも知れません。あるいは「誘惑した女性の罪」みたいに扱う人々はコーランを誤読しているのだみたいなことを言う人もいると思います。でも、ポルノを読んで性犯罪に走る人と、コーランを読んで「誘惑した女性が悪い」みたいに考えるようになる人、どっちが多いのでしょう。叩きやすい、問題視しやすいのは前者なのでしょうけれど、本当に深刻なのはどちらなのか、その辺は考えてみる余地があるように思います。もしポルノを規制すれば性犯罪が減ると考えるのなら、被害者女性の泣き寝入りを減らすためにはコーランも規制対象ということになりそうなものですが、それは正しいのでしょうか。

 

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21世紀型の公共事業

2011-08-22 23:04:17 | 雇用・経済

 さて、お盆休みも終わってしまいました。次のまとまった休みまでを思うと早くも憂鬱です。ともあれ、まとまった時間があるときこそ転職活動に精を出さざるを得ないわけですが、たぶん結果は芳しくないでしょう。現在の仕事よりも条件の悪いところへの転職はともかく、今より条件が良いところへ転職しようとなると、それは私に限らず誰にとっても難しいと思います。とはいえ形式上は正社員でも、どう見ても短期間で社員が続々と辞めていった(辞めさせられた)結果であろう妙に平均年齢の低い(ついでに給料も低い)会社に入ったところで、状況は余計に悪くなるばかりですし……

 まぁ、なかなか仕事を選べない時代です。それだけに国や自治体も雇用対策を打ち出すものですが、実態はいかほどのものでしょうか。以前にも述べたことですが、こういう時代に栄えるのは「就職ビジネス」です。就職予備校であったり、就職コンサルであったり、人材紹介であったり。雇用情勢が厳しくなればなるほど、「人を就職させる仕事」の需要は高まるわけです。実際のところ、国や自治体の行う就労支援もまた「人を就職させる仕事」を作り出すばかりで、本当に雇用を創出しているかと言えば、甚だ怪しいところです。

 雇用を増やす上で最も単純で確実なのは、自治体で直接雇用してしまうことです。実際、そういうケースも見受けられるものの、この場合は非正規の一時的な雇用でしかない場合が普通です(しかも薄給)。自治体が仕事にあぶれて困っている人に「アルバイトをさせてやる」ぐらいの感覚なのかも知れません。一時しのぎのための軒先は貸すけれど、早めに自分で仕事を見つけて出て行ってくださいと言ったところでしょうか。そうではなく、公務員の正規採用数を増やせば安定した仕事に就ける人が増えるのですが、残念ながらそれは世論が許しません。今は公務員人件費の削減を至上命題とする政党や政治家が支持を集めてしまう時代、雇用対策プロジェクトのための予算を組むのは許されても、同額を人件費として積み上げることは許されないのです。

 だから自治体が「アルバイト」を提供する以外には、民間企業に「雇わせる」よう働きかけを行うしかなくなります。そういう経緯で「求人開拓業務」という新たな仕事――自治体側からエリア内の民間企業に「求人を出してください」とお願いする――仕事が出てくるわけです。これがどういう結果を生むかというと、「断り切れずに求人は出したけれど、採用するつもりはない」いわゆる「カラ求人」の増加に繋がります。その辺の具体例としては、下記リンク先で紹介されているエピソードをお読みいただければと思いますが、ともあれカラ求人が増えた分だけ「(数値上は)中小企業は採用に積極的」という都市伝説ができあがったりして、なおさら雇用環境は混迷の度合いを深めるわけです。

参考、空求人

 上記リンク先のエピソードは企業側から見たものであるため触れられていませんが、実のところ「求人開拓業務」に携わっているのは自治体(ハローワーク)職員とは限りません。自治体が直接、求人開拓を行うのではなく、自治体が人材紹介会社(派遣会社など)に求人開拓業務を委託しているケースも多々あります。ある意味、公共事業ですね。自治体が金を出して発注し、その業務を請け負った派遣会社が求人開拓に乗り出すわけです。まぁ、ある意味ではノウハウを活かす形に見えるのかも知れません。しかし、派遣会社が求人開拓に従事しているのかというと――

 確かに派遣会社の社員が担当エリアの企業に求人を出してくれと要請して回ることもあるでしょう。ただし、それだけではありません。派遣会社が、自社に登録している派遣スタッフへ、「求人開拓業務」を斡旋するケースもまた多いのです。自社が開拓した求人を派遣スタッフへ紹介するのではなく、自社が請け負った求人を開拓する業務を紹介するわけですね。ある意味、多重下請けみたいなものです。往々にして末端で求人開拓に携わるスタッフの取り分は、普通に派遣社員として働く場合より少なかったりするのですから笑うしかありません。しかるに、そういう仕事の斡旋が割と多いのですから困ります。私自身、つい先日そういう仕事を紹介されたばかりですし。

参考、失業者に紹介する仕事か?

 実のところ、似たような仕事は去年にも何度か紹介されたことがあります。その当時に感じたことは上記リンク先でお読みいただければと思いますが、懲りずにまた来たかという感じです。去年の段階であれば私は失業者でしたし、今だって転職活動中の派遣社員ですから、とても「他人を就職させる仕事」に携わる資格があるとは考えられないのですけれど(でも去年は応募してみました。不採用でしたが)、派遣会社側はそこまで気を回さないものなのでしょう。雇用情勢が大変だからと国や自治体が「求人開拓業務」のために予算を組む、でも実際に「求人開拓業務」の実働部隊は就労支援が必要な非正規雇用層だったりする、何とも虚しいサイクルです。

 ちなみに昨年と今年とで紹介された内容は微妙に違うものではありますが、昨年の募集要項によると「人材紹介会社や学校の就職課、あるいはハローワークで3年以上働いた経験がある人」など、割と厳しい要件が多めでした。一方、先日紹介されたばかりの仕事は「興味と意欲がある方なら、営業未経験でもOK。」とのことです。ふ~む、敷居が低く設定されているのは悪いことではないですけれど、それで求人開拓業務が務まるのでしょうか。偶々なのかも知れませんが、実際に求人を開拓しようという意識、他人を就職させようとする意識の多寡が窺われる気がしないでもありません。派遣会社からすれば自治体から業務を請け負った時点で終わり、自治体も競争入札で安い金額で請け負ってくれる業者を選ぶしかないので結果は問いにくい、みたいなことになっていたら目も当てられない話です。

 

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読者を不安に陥れる罪深い見出し

2011-08-20 23:22:04 | 社会

福島の子ども、半数近くが甲状腺被曝 政府調査で判明(朝日新聞)

 東京電力福島第一原子力発電所事故をめぐり、政府の原子力災害対策本部は17日、福島県の子ども約1150人を対象にした甲状腺の内部被曝(ひばく)検査で、45%で被曝が確認されていたことを明らかにした。17日、同県いわき市で開かれた説明会で発表した。すぐに医療措置が必要な値ではないと判断されているが、低い線量の被曝は不明な点も多く、長期的に見守る必要がある。

 検査は3月24~30日、いわき市と川俣町、飯舘村で0~15歳の子どもを対象に実施した。原子力安全委員会が当時、精密検査が必要だと決めた基準は甲状腺被曝線量が毎時0.20マイクロシーベルト以上。1150人のうち、条件が整い測定できた1080人は全員、0.10マイクロシーベルト以下だった。

 この日、説明会には、検査を受けた子どもの保護者ら約50人が参加した。対策本部原子力被災者生活支援チームの福島靖正医療班長は「問題となるレベルではない」と説明した。

 「福島の子ども、半数近くが甲状腺被曝」だそうです。見出しだけ読むとなにやら重大事のように思われますが、しかるに大々的に伝えているのは朝日新聞だけで他の有力紙は朝日のような騒ぎ方はしていないようです。その辺はweb公開分を流し読みした程度ですので、もしかしたら紙面の方などで大きく取り上げているところもあるのかも知れませんが、ともあれ朝日新聞に言わせれば福島の子供は半数近くが甲状腺被曝しているとのことです。ただ詳細を読むと「測定できた1080人は全員、0.10マイクロシーベルト以下」とも伝えられています。これは言うまでもなく「問題となるレベルではない」と考えるのが一般的な範囲であって(だから他の新聞でも大きく取り上げてはいない?)、にも関わらず「被曝」と見出しに掲げるのは、ちょっとばかり事態を派手に描きすぎではないでしょうか。

 基本的に新聞は嘘を吐かないものと考えていますが、その一方で情報の偏った部分だけをピックアップすることで読者に誤った印象を与えるケースが多々あるわけです(特に酷いものとして、以下リンク先の読売新聞のケース、神奈川新聞のケース、共同通信のケースを挙げます)。健康への影響が確認できるのはどの程度の放射線量からか理解があれば、今回の朝日新聞の記事を読んでも驚くことはないでしょう。しかし「0.10マイクロシーベルト」というのが、現時点でどの程度の影響が見込まれるのか、何も知らない人は見出しの「被曝」という言葉で踊らされてしまうこともあるような気がします。

 街に出れば「カロリーゼロ」とか「ノンカロリー」という触れ込みの商品が並んでいます。知っている人は知っていると思いますが、この手の食品や飲料に含まれるカロリーは「0」ではありません。何でも食品100mlあたり5カロリー未満であればカロリーゼロ、ノンカロリーと表示できるそうで、看板に偽りアリと言えばそうなのでしょうけれど、本当にカロリーが「0」でないからと言って特に問題が起こったかと言えば、もちろんそんなことはないわけです。そして「被曝」の扱いはカロリーのそれに似ているのかも知れません。政府や放医研などは「実質0」は「問題なし」として扱います。ところが市民団体ですとか自称ジャーナリストの多くは「実質0」を「0ではない」と言い張るわけです。

 ただ「0ではない」ことを問題視することには様々な弊害を伴います。言うまでもなく自動車事故で死ぬ危険性は0ではありませんが、自動車事故のリスクを0にするためには自動車を全廃しなければならなくなってしまいますし、隕石の直撃を食らって死ぬ確率ですら0ではありませんけれど、この確率を0にしようとすると頑丈な屋根の外には出られなくなってしまいます。たしかに低い線量の被曝に関してありとあらゆることが明確になっているわけではないとしても、だからといってリスクを無限に高く見積もってしまうのは好ましくないはずです。過去に影響があったと確認できた試しがないレベルの代物を避けるために採るべき対策となると、そこはバランス感覚が問われるのではないでしょうか。

 本当に被曝量を0にしたければ、それこそ放射性カリウムすら危険視しなければならなくなりかねませんし、飛行機には乗れない、温泉には入れない、総じて自然放射線量の高い西日本には足を踏み入れることすら出来ないということにもなります。そこまで徹底せずとも、「被曝」を避けるために住民の生活に過剰な制限をかけ、それが「被曝」そのものの負荷を大きく上回るようでは意味がないどころか逆効果なのです。どんなに低い線量でも被曝は被曝と考えるなら、今回の朝日新聞の報道は別に間違っていないのかも知れませんが、その「被曝」の程度を読者に勘違いさせることで過剰な対策を強いる結果になれば、まぁ罪深い報道だとは思います。

 ちょっと前は母乳からセシウムが検出された云々と大騒ぎにもなっていましたが、もう少し時代を遡れば、今度は母乳からダイオキシンが検出と、これまた大問題になっていた時期もありました。これまた昨今の放射「能」同様にパニックを巻き起こしたこともあったようです。このダイオキシンも今となっては話題になることがめっきり少なくなりましたが、別に母乳中のダイオキシンが「0」になったわけではありませんよね? もちろん一時期に比べれば減っている、検出できても特に影響のない「ほぼ0」なのでしょうけれど、しっかり検査すれば決して「0」にはならないはずです。そこでダイオキシン「0」を目指すとなると、母乳は一切ダメということになってしまう等々、これはこれで色々と弊害が出てきます。しかるに幸か不幸か「流行」が去ったのか、母乳中のダイオキシン問題は忘れられ、良い感じに落ち着いて見えるのは気のせいでしょうか。結局は放射「能」の問題も、流行の終焉と共に時間が解決してくれるのかも知れません。

 微量の化学薬品で殺菌された水と、見た目は綺麗だけど実は雑菌がウヨウヨしている「無添加」の水、我々の社会が好感を抱くのはどちらでしょう。往々にしてゼロリスクを追い求めている人ほど、何か特定のリスクを過大視するあまり、他のリスクを見落としがちです。食品添加物のリスクは見えても、腐敗した食品のリスクは見えなかったり等々。放射線の影響を懸念するのは間違ってはいないのかも知れませんが、その過大視もまたリスクを高める要因です。被曝量が「0ではない」ことは伝えるべき事実であるとしても、では0ではないがどの程度なのか、被曝の程度を正しく伝えることもまた求められます。ましてや、まだまだ社会が十分に落ち着きを取り戻しているとは言えない中、見出しに大きく「半数が被曝」と掲げられてしまうと、それは煽りに近いのではないかと……

 

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せめて建前は守るべき

2011-08-18 23:19:14 | 政治・国際

靖国参拝 首相と全閣僚、見送り 谷垣氏らは参拝(朝日新聞)

 菅直人首相と菅内閣の全閣僚は15日、終戦記念日に合わせた靖国神社への参拝を見送った。首相と全閣僚は昨年も参拝を見送っている。ただ、副大臣・政務官では森田高(国民新党)、浜田和幸(無所属)両総務政務官が昇殿参拝した。

 首相は靖国参拝について「A級戦犯が合祀(ごうし)されているといった問題などから、首相や閣僚が公式参拝することには問題がある」と語り、在任中は参拝しない考えを表明している。

 一方、自民党では谷垣禎一総裁や森喜朗、安倍晋三両元首相らが参拝した。

 超党派でつくる「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・古賀誠元自民党幹事長)の計53人も参拝。同会によると、参加者は衆院28人、参院25人。政党別では自民32人、民主13人、たちあがれ日本3人、国民新2人、無所属3人だった。

 さて、毎年恒例の話題ではありますが、「首相や閣僚が公式参拝することには問題がある」とのことで今年も首相の参拝はナシです。首相になる前と辞めた後は何かと猛々しい安倍晋三も、首相在籍中の参拝は見送っていたくらいですから、それも当然でしょう。参拝の是非はさておくにしても、首相なり与党の閣僚なりという影響力の大きい立場の人間には、自らの行動が招くであろう結果への責任を意識してもらわねばなりませんから。靖国参拝で中途半端に右派層にアピールしていると思われる谷垣氏も、与党の一員に返り咲いたらどうするつもりでしょうかね? 民主党側からは大連立なんて話も出ているようですが。


首相参拝問題なし 野田氏「認識変わらず」(産経新聞)

 野田佳彦財務相は15日の記者会見で、野党時代に提出した質問主意書で「戦犯の名誉は回復されており、『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」として、首相の靖国神社参拝は問題ないとした認識について、「基本的に考えは変わらない」と述べた。

 ただ、野田氏はこの日の会見では、首相が靖国神社を参拝することの是非は「首相になる方の判断だ」と述べ、自身が首相に就任した場合の対応については「仮定の話だ」として明言を避けた。野田氏はこの日、参拝しなかった。

 野田氏は平成17年、党国対委員長時代に提出した質問主意書で「サンフランシスコ講和条約と4度の国会決議などで、すべての戦犯の名誉は法的に回復されている」と強調。小泉純一郎首相(当時)が国会答弁で、靖国神社に合祀(ごうし)されている「A級戦犯」を「戦争犯罪人だと認識をしている」と述べたことを批判している。

 一方、民主党の次期代表として最有力視されている人の発言がこれです。発言の当時はまだまだ民主党が与党になることを想定した人が少なかったのか大きく取り沙汰されることはなかったように記憶しています。しかるに野田氏が次期民主党代表すなわち次の総理大臣となる可能性が出てきただけに、色々と過去の発言にも注目が集まってきたのでしょう。次の選挙で民主党が勝つのが確実視された途端に小沢一郎の政治資金問題がクローズアップされるようになったのと同じようなもので、責任あるポジションが近づけば近づくほど、世間の注目は強まるものです。

 上記の発言は他紙でも報道され、当然のように韓国側から反発が出ているとのことですが、ここで注目したいのは野田氏の批判対象が、かの小泉純一郎だったと言うことです。小泉もまた中国と韓国との関係を冷え込ませるなど日本の外交にも大きな爪痕を残しましたけれど、その小泉を野田氏は明らかに「右から」批判しています。周辺諸国に対して挑発的な態度を取りつつも小泉は最後の一線を越える気まではなかったのか、A級戦犯については政府の従来の見解に踏みとどまっているわけですが、野田氏の批判は小泉が越えなかった一線を越えるものです。もし、この発言を撤回しないまま首相になるということがあれば、戦後の日本が守ってきた反省の「建前」すら危うくなってしまうことでしょう。

 まぁ原発事故でも、発生した状況が特に変わったわけでもないのに、それをメルトダウンと呼ぶことになった途端に大騒ぎし始めた人もいました。そしてA級戦犯がやったことが今から変わるはずもないのですが、それを「戦争犯罪人」のカテゴリから外しさえすれば正当化できると考える人もいるわけです。仮に日本のローカルルールでA級戦犯を「戦争犯罪人」の枠に含めないことにしたしても、結局のところ日本を戦争に駆り立て、アジア諸国諸々に甚大な被害をもたらしたことには変わりはないですし、それを主導した人々を顕彰する神社に首相が参拝しようものなら、日本は先の大戦を反省していないと世界にメッセージを発することになるのも変わりがないのですが、野田氏はその辺が理解できていないようです。

 政権交代前後、鳩山時代の民主党は野党時代の主張を次々と取り下げていったものですが、まさか野田氏はこのまま突っ走るつもりなのでしょうか。内心ではどう思おうと、せめて「建前」を維持するだけの良識は望まれるところです。韓国や中国だって、日本が「建前」を守っていれば事を荒立てようとはしないもの、しかし日本側が過去の侵略行為を反省するポーズをも捨てるとあらば、向こうも相応の態度を取らざるを得なくなってしまいます。そこは「大人」として「宜しくやる」だけの知恵を発揮してほしいのですが、望むべくもないのでしょうか。どうにも政治の役割が利害調整的なものから、その人なりの「正しさ」を主張することの方にシフトしていると思えてならない昨今、野田氏もまた国際関係が悪化して日本の損になろうとも、自分なりの「正しさ」の方を追うのかも知れません。

 

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こうなったらダム建設ルネサンスだ

2011-08-16 23:10:06 | 社会

太陽光、強引商法…玄関居座り・即日契約強要(読売新聞)

 東京電力福島第一原子力発電所の事故や中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の全面停止で再生可能エネルギーが注目を集める中、訪問販売業者による住宅用太陽光発電システムの強引な営業が相次いでいる。
 
 この間、国民生活センターと地元の消費生活センターに愛知、岐阜、三重、静岡の東海4県から寄せられた相談件数は前年同期の約1・9倍に上った。即日契約を強要するなど悪質なケースもあり、国民生活センターは注意を呼びかけている。

 求人の多さを見る限り、やっぱり押し売り業界の二本柱はマンション投資と通信回線のようですけれど、ソーラーパネルの押し売りもまた昔から根強く生き残っていますね。昨今の電力危機に加えて、太陽光発電に妙な期待が寄せられていることを鑑みれば、まぁ将来有望な世界なのかも知れません。あまり良心に悖る仕事はしたくありませんけれど、あまり仕事を選んでもいられない身としては視野に入れておかねばならない分野でしょうか。ともあれ強引な営業は元より、営業の売り文句通りの性能を発揮しない、実際の発電量が事前の説明と大きく異なるなどと震災前から消費者センターに苦情が寄せられることも少なくなかったのが家庭向け太陽光発電というものです。消費者センターや国民生活センターの仕事も増えそうですね。

 家庭向け太陽光発電もさることながら、もっと規模の大きい風力発電でも期待通りの結果が出ることは稀なようで、これまた「事前の説明と違う!」と訴訟に発展することもありました(参考)。適度な日照が得られるか、適度な風が吹くかは原子炉と違って人間がコントロールできるものではありませんので、ほとんど運任せにならざるを得ないところもあるわけです。まぁ不安定な発電手段でも、これまでの常識を覆すような革新を期待して投資を続けるのは悪いことではないのかも知れません。ただ将来に期待ができるかどうかと、「今」の段階でアテに出来るかどうか、その辺は分けて考えてほしいと思います。

 一年中を通して同じような風が吹いていれば、もうちょっと具合は良くなるのでしょうけれど残念ながら日本の気候は変動が激しいです。あるいは多国間で送電網を共有することで「風が吹いている地域」と「風が止んでいる地域」をトータルで扱うことができるのなら安定性は格段に増すはずですが、困ったことに日本は東日本と西日本ですら電力の融通が難しい地産地消型となっています。最後の手段として隣の原発大国から電力を送ってもらうことで不安定な発電をカバーするという手がありますけれど、日本の隣の原発大国とは海によって隔てられています。結局のところ、お天気任せの発電手段は日本には向かないと考えざるを得ません。

 そもそも、風力や太陽光などの「再生可能エネルギー」は不安定さの故に必然的にバックアップとなるべき安定した発電手段を要求するため、化石燃料発電を減らす役には立っていないとの指摘もあります。「再生可能エネルギー」はビジネスチャンスにはなっても化石燃料発電の代替にはならない、風が止んで日も射さなくなったときでも電力を賄うためには、結局のところ火力や原子力などの安定したエネルギー源を残さなければならないわけです。輸出向けの「商品」として電力を扱うなら、発電できたときに売却して利益が上がれば良しということにもなるのかも知れませんが、国内の住民や産業にとってのインフラとして電力を見るのなら「常に必要量を賄えること」が求められます。そのためにはどうしても、安定したエネルギー源を選ぶ他ないのです。

 俄に太陽光や風力が持ち上げられている昨今ですが、むしろ思い出されるべきは水力発電ではないでしょうか。何も「新エネルギー」に拘る必要はありません。むしろ従来からある確立された技術を再評価してみるべきです。水力であれば、大規模かつ安定した電力が得られますし、水資源が豊富で河川の落差も大きい日本の地域特性にもバッチリ適合します。もう開発され尽くして水力発電所を建てる余地は少ないとの意見もありますが、その辺は石油やレアメタルと同じで、投入可能なコストに応じて開発の余地は増えるはずです。ちょっと掘るだけで出てくる石油資源が枯渇して石油価格が上昇すると今度は地中や海底深くから汲み上げた石油が市場に現れたように、たとえ低コストな水力発電所の立地が開発され尽くしていたとしても、原子力発電「以外」の発電手段であれば高めでもコストをかけることが許されるようになれば、水力発電所に使える用地は増えることでしょう。

 そんなわけで、原子力ルネサンスがダメというなら今度はダム建設ルネサンスを提唱したいところです。少しばかり高コストでも(太陽光発電のコストを考えれば何だって安いものです)脱原発のため、新たにダムを造って水力発電所を建てましょう。今後ますます争奪戦が激しくなるであろう化石燃料への依存度を減らし、かつCO2排出量も減らし、加えて原発まで減らすというのなら水力発電の増強は避けて通れません。これからは、ダム開発ルネサンスです。

 でもまぁ、ダム開発みたいな大型公共事業を伴う政治は今なお国民の最も嫌うところだとしたら、先行きはなおさら難しく思えます。「(古い)自民党をぶっ壊す」と称して小泉が喝采を集め、その後に台頭した民主党もまた「古い自民党」を敵視することで支持を得てきた、そういう時代にダム開発を進めて古い自民党の象徴とも言える大型公共事業・土建型再分配を再開しようなどとあらば、どの政党であれ次の選挙で惨敗を喫するであろうことは想像に難くありません。まぁ土建型の再分配だって非効率であったり、不平等な部分もある、批判の余地は相応にありましたけれど、かといって「不十分な分配」を批判した結果として「再分配の否定」みたいな状況に陥っているのが現在ではないでしょうか。それに比べれば「不十分な分配」に立ち戻るだけでも少しはマシになるように思うのですが……

 加えて八ッ場ダム建設でも原発の誘致でも、今は反対派に譲渡してもらう対価として補助金などの「旨み」を持たせてやるようなやり方が「札束で頬をひっぱたくやり方だ!」と言って声高に糾弾される時代でもあります。その代わりに、反対の立場を抵抗勢力だの利権を守ろうとしているだのとレッテルを貼り、相手の意見には一切耳を傾けないような振る舞いが好まれてはいないでしょうか。反対派を悪玉として一蹴する、ある意味で「正義の拳を振りかざす」手法が近年の主流だとすれば、まぁダム開発を進めるにしても近隣住民との軋轢は過去のそれと比しても大きなものになりそうです。もうちょっと上手に利害調整しようと、そういう志向を持った政治に転換してくれないと可能なものも不可能になってしまいます。もっとも反対派にも旨みを持たせるような、そういうやり方に対する反動勢力が政権を握って久しいだけに、今さら望みを抱くのすら贅沢なのかも知れません。

 

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就職難は、少なくともミスマッチの問題ではなさそう

2011-08-14 22:53:26 | 雇用・経済

 さて、ツッコミどころに事欠かない妄言といえば昨今では原発がらみが多いですけれど、トンデモの罷り通る元祖とも言うべきは雇用や経済分野でしょうか。とりわけ近年は、雇用の問題から何とかして雇用主を免罪すべく、「雇用主以外の何か」に原因を求める言説が盛んに称揚されてきました。超・買い手市場の元で主導権を握っているのは誰なのか、人事権を有しているのはどこなのか、最も影響力を行使しうる立場にいるのが誰なのかは考えるまでもなさそうですが、そこは何とかして守りたいものがあるのでしょう。自身が「雇われる側」の人間であっても、「雇う側」の目線で物事を語ることで、エグゼクティヴ気分に浸っている人も多いように見えますし。


「就活負け組」はコミュニケーション能力が欠如している(週刊プレイボーイ)

8月4日、今春に大学を卒業した約55万人のうち、およそ5人にひとりにあたる10万人以上が進学も就職もしていない「進路未定者」であることが、文部科学省が公表した学校基本調査でわかった。
 
人材コンサルタントの常見陽平氏によると、こうした状況のなか、今年は深刻なある傾向が見られるという。それが学生たちの“就活格差”。常見氏はこう説明する。
 
「内定をいくつも取る“内定長者”の学生と、まったく内定を取れない“無い内定”の学生、その2極化がますます進んでいるのです。環境の変化により、企業はますます厳選採用をしていて、実際、求めている人材のレベルも上がっています。でも、企業が欲しがる学生のパターンなんてどこも似たり寄ったり。だから、一部の学生に内定が集中してしまうのです」
 
その割合は、勝ち組が2~3割で、負け組が7~8割という。大学ジャーナリストの石渡嶺司氏も、学生の格差拡大の傾向が年々強まっているとうなずく。
 
「結局、どんな業界も学生に求めるのは『机を並べて一緒に仕事ができそうか』とか『マジメに働いてくれそうか』といった点。ひと言で表すなら『コミュニケーション能力がある学生』ということ。でも、厳しいことを言わせてもらえば、今の学生の多くはこれがほとんど崩壊しています」

 雇用問題を巡る疑わしい主張の一つに「ミスマッチ」論があります。就職難の原因は、採用する側と就職する側のミスマッチが問題なのだと、まことしやかに語られているわけですが、果たして本当にそうなのでしょうか? もしブラック企業と「ホワイト」企業があって、学生側にもブラック企業に就職したい人もいればホワイト企業に就職したい人もいる、しかるにブラックを望みながらホワイトにしか出会えない学生や、反対にホワイトを望みながらブラックにしか出会えない学生が多数いるというのなら、それは確かにミスマッチの問題と言えます。一方で学生の大半が「ホワイト」企業を望んでいるのに求人を出しているのはブラック企業ばかりだとすれば、それをミスマッチと呼ぶことは出来ないはずです。

 非正規雇用を望む人もいる、と真顔で言い張る人もいます。それはまぁ人それぞれなのですけれど、実際の需要と供給の多寡を無視すべきではないでしょう。たとえば8割の就業希望者が「年金受給年齢まで働ける仕事」を必要とし、残る2割が「一時的な仕事」を必要としているとして、この場合は確かに非正規雇用を望む人もいるには違いありません。しかし求人がそれに釣り合うかどうかは別問題で、求人の6割が「一時的な仕事」で、「年金受給年齢まで働ける仕事」が4割しかなかったとすれば、必然的に「年金受給年齢まで働ける仕事」を巡る熾烈な争いが発生するわけです。その分だけ「一時的な仕事」には空きが出ますけれど、この「空き」に「年金受給年齢まで働ける仕事」を望む人を当てはめることを以て「ミスマッチの解消」などと考えているのなら、欺瞞もいいところですよね。

 あまり鵜呑みにすべきではない人々の語ることではありますが、「内定をいくつも取る“内定長者”の学生と、まったく内定を取れない“無い内定”の学生、その2極化がますます進んでいる」「企業が欲しがる学生のパターンなんてどこも似たり寄ったり。だから、一部の学生に内定が集中してしまう」「どんな業界も学生に求めるのは『机を並べて一緒に仕事ができそうか』とか『マジメに働いてくれそうか』といった点。ひと言で表すなら『コミュニケーション能力がある学生』ということ」だそうです。この辺は私も同意せざるを得ないところで、結局のところ採用側が欲しがる人材はどこも変わらないわけです。どこでも「コミュニケーション能力」の一言に集約されてしまう、同じタイプの人材しか必要とされていないのです。

 これがもし、企業側で「コミュニケーション能力の高い人」だけでなく「コミュニケーション能力の低い人」のニーズもあるのなら、ミスマッチ云々も成り立つのかも知れません。コミュ力の高い学生をコミュ力の高い学生を求める企業へ、コミュ力の低い学生をコミュ力の低い学生を求める企業に引き当てていけば、まぁミスマッチの解消と言えないことはないでしょう。しかるに、どこの企業もコミュニケーション能力の高さを追い求めているのなら、就職難の原因となっているのがミスマッチなどでないことは明らかです。主導権を握っている側が多様性を失っている以上、マッチングによって解決できる問題などたかが知れています。

 こちらは日経新聞からの切り抜きですが、新入社員の今と昔の姿が描かれています。企業側の選別基準が十数年で随分と変化してきたことが一目でわかります。ジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれたほんの十数年前は、日本でも多様性を認める形で採用が行われてきたはずなのに、今やスーツの色から髪型に靴まで、規格に合わせた人だけが採用される時代になってしまったようです。少しでも規格から外れた人には機会がない、コミュニケーション能力という統一規格の基準を満たさなければどの企業からも歓迎されない、そういう状況に拍車が掛かるばかりであるとしたら、いよいよ以てミスマッチ云々などと寝言を抜かしている場合ではないと思います。

 

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この頃つとに思うこと

2011-08-12 23:22:11 | 編集雑記・小ネタ

今日はちょっと気になりつつも、独立したエントリにまとめるほどではないことを列記してみます。
そのうち、ここで書いたことをもう少し掘り下げて取り上げることもあるかも知れません。

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日本でも色々と公害問題が発生してきたわけですが、公害を発生させない方向に努力してきた結果として多少はマシな未来に繋がりました。

もし、公害を発生させた産業(化学工業とか)を「人間と共存しない(キリッ」などと言って全否定に走っていたら、たぶん日本の経済衰退は半世紀前から始まっていたことでしょう。

露わになった問題点を解消していこうとするのではなく、発覚した問題点を格好の攻撃材料として対象全体の否定に走るのは、極めて事業仕分的な発想でもあります。

その事業仕分的な発想が歓迎される時代と、「科学の子」がヒーローであった時代、世間の考え方変わっているとしたら、たぶんその辺も大きいと思います。

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日本食が他国の食文化に比べて優れていると考えるのもまた排他的優越意識の表れだと思いますが、取りあえず日本食は低カロリーでヘルシーということになっています。

しかるに、低カロリーでヘルシーなはずの日本では、基本的に肉や魚は「脂」が多いほど上等です。日本で上等とされる肉や魚は高カロリーで不健康だと思います。

ちなみに牛肉だけからセシウムが検出されたのは管理の不適切な稲わらが餌として与えられていたからですが、なぜ稲わらが与えられるかと言えば、牛を太らせ脂を増やすためです。高カロリーで不健康な肉を作るためにやったことです。

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「原発労働者の3人に1人は癌で死んでいます」と、批判めいた口調で語ったら、世間はどう反応するでしょうか。

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ゲーム感覚、と言うのはゲームに理解のない人が使う慣用句の一つですが、では今どきのゲーマーの感覚とはどういうものでしょう。

攻略サイトを見ながら取りこぼしのないようにゲームを進める、完璧に自分の狙い通りにゲームを進めるというのも、昨今はありがちなスタイルとして批判的に語られることもあります。

何かアクシデントが起こってゲーム内の世界や人物が自分の思い通りにならなくなったとき、「完璧な進め方」をしている人ほどゲームを続ける気を失いがちです。

こういう「ゲーム感覚」ですが、実はゲームに対してだけではなく、もしかしたら子育てにも見られるのではないかという気がしますね。

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栄養失調で死にそうなのに太ることを気にして食事を減らし続ける人は病気です、心の。それでも、とにかく太ることは害悪だと信じ続ける人はいます。

デフレの真っ最中なのにインフレを警戒し続ける金融政策は狂気の沙汰です。それでも、とにかくインフレは絶対に避けなければならないと信じ続けている人がいます。

状況によって必要なものは異なります。民間企業が余剰資金を有効に活用して雇用の拡大にも務めている状況であれば減税が、逆に企業が内部留保を積み上げるばかりで資本の活用先を見いだせない状況であれば、増税して国が代わりに金を使うことが経済政策として有効です。

何でも高ければいいとか、低ければいいとか言うものではありません。状況によって何が「適切」かは異なります。状況を無視して(法人税は)低ければ低いほど良いかのように言う人は、栄養失調で死にそうになっても太ることを恐れるような人と同レベルです。

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原発を止めたら弱者にしわ寄せがいくから原発を止めるべきではない、という主張に対する批判として、ふだんは弱者のことなんてどうでもいいのに、原発を維持したいがために「原発を止めたら弱者が困る」というように、別のことを主張するためのダシとして他人を利用している云々と、ふざけたことを抜かす輩がいます。

その人が過去にどういった立場を取ってきたかはさておき、現に電力不足のしわ寄せを受けて苦しい思いを強いられる弱者には事欠きません。こういう立場を慮るのは当然のことです。

むしろ批判されるべきは、かつては弱者を守るべきという立場を装っていた人々が、原発事故後は徹底した強者目線、健常者目線で節制を説くばかりで、弱者への配慮などかなぐり捨てていることの方です。

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林業は目立って死亡災害の多い産業です。仕事にあぶれているだけの素人に林業を勧めるのは非人道的極まりないことです。

業務とは直接関係しない要因に依るものであっても、作業員に死者が出れば全国レベルで報道されるのが原発労働ですが、林業で人が死んでも世間は全く気にしません。

国際線のパイロットや客室乗務員、宇宙飛行士はバリバリの被曝労働です。一部の温泉で働く従業員も被曝労働です。

子請け、孫請けと連なる中で現場作業員の取り分が著しく少なくなるのは珍しくありませんが、なぜかこれを原発に特有のことであるかのごとく見せかけたがる人がいます。

なぜ多重下請けや中抜きが発生するのか、それが「原発の構造的な問題」にされてしまうと、原発は消えて搾取は残る、みたいな結果になりそうで今から憂鬱です。

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エアコン止め深夜の残業…被災地の節電努力「もう限界」(産経新聞)

 東北6県の畜産農家向けに配合飼料を製造する「北日本くみあい飼料」では宮城県石巻市などの3工場の運転ピークを深夜帯にシフト。約270人の作業員は、エアコンの設定温度を28度にした蒸し暑い工場内で残業を続ける。

何度も指摘してきたことですが、電力不足は深夜労働へのシフトを余儀なくさせます。全員が一斉に電力を使うような生活は、実は贅沢なのです。そしてこういう贅沢を可能にすべく力を尽くしてくれる政党や政治家にこそ、次の選挙では票を入れたいと思います。

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スマートグリッドは魔法ではありません。単に調節がしやすくなるだけです。それは良いことですが、過剰な期待を寄せると失望します。今の内に等身大の認識に改めておきましょう。

スマートグリッドとは、要するに通信網を張り巡らせた電力利用状況の監視でもあります。「納税者番号」や「住基ネット」に反応するくらいセキュリティやプライバシー保護に敏感な人は、今の内からスマートグリッドに反対しておいた方がいいと思います。

ちなみに、ストリートビューなどの「のぞき見」を厭わないGoogleもスマートグリッドへの参加に積極的だそうです。ソフトバンクも(社長が)積極的ですね。通信関係の事業者にとっては大きなビジネスチャンスですから。

 ―――――――――――――――

日本の夜は明るすぎるとも言われます。節電で暗くなっても、かえって良かったとの声も聞かれます。でも日本の格別の治安の良さには、夜道の過剰な明るさも一役買って来たのではないかという気がします。

昔は今ほど電気を使わずとも生活できていたという人もいます。しかし、昔に比べると日本人の寿命も随分と延びました。「過剰な便利さ」のおかげで命を長らえている人もまた少なくないのではないでしょうか。

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電力不足に対応すべく、自動車業界では土日に操業して代わりに木曜と金曜を休日にするなどの動きもあるわけです。その他諸々の業界でも、夏期休業を従来の期間からずらしたところも多いと思います。私の勤務先も同様ですが取引先と休業期間がずれると、何かとやりづらいです。

そう言えば民主党が唱えた休日分散化は概ね不評でしたけれど、民主党案に反対していた人は今の状況をどう思っているのでしょうか。結果的にではあれ、休日が分散化しつつあるのですが。え? 悪いのは原発? 要は気持ちの持ちようですからね!

 

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