靖国合祀訴訟:神社への遺族の取り消し請求棄却 大阪地裁(毎日新聞)
第二次世界大戦の戦没者遺族9人が「同意なく肉親をまつられ、故人をしのぶ権利が侵害された」として、靖国神社への合祀取り消しを同神社に求めた訴訟で、大阪地裁は26日、原告の請求を棄却した。村岡寛裁判長は「原告の主張する権利は、合祀という宗教行為による不快や、神社への嫌悪の感情と評価するしかなく、法的利益と認められない」とした。同神社が被告となった訴訟の初の司法判断で、東京、那覇両地裁で係争中の同様の訴訟にも影響しそうだ。
判決は合祀について「遺族らの同意・承認を得ることが社会的儀礼としては望ましい」と指摘したが、「合祀行為には強制や不利益がなく、原告の求める権利に法的利益はない」と結論付けた。
靖国神社が大好きな人は往々にして創価学会が大嫌いなようですので、この記事の「靖国神社」を「創価学会」に置き換えて読んでみるといいのではないですかね。たとえば自公政権の肝煎りで建てられた学会の宗教施設に、国の情報提供の元で自分の親族が同意なく祀られたとしたらどうでしょうか。まぁ、その筋の人の超理論にかかれば、「創価学会はNGだが靖国は栄誉」となりそうですね、そういう問題ではないのですが。
それはさておき、今一つ納得のいかない判決です。これが最高裁の決定なら、「最高裁だから行政を守るのは当たり前」となるわけですが、地裁でこの判決というのも随分と酷い話です。曰く「合祀行為には強制や不利益がなく」だそうですが、この点だけでも議論の余地があるのではないでしょうか? たしかに、靖国に勝手に合祀された結果として、遺族が会費を請求されたり、宗教行事への参加を強要されることはないかも知れません。どこか知らないところで見知らぬ誰かが勝手に祀っているだけですから。でも、例えば規制論議の賑わしい児童ポルノだったら、法的な扱いはどうなっていたでしょう?
既に撮影された児童ポルノがあるとしましょう。撮影時に諸々の人権侵害があるかも知れませんが、その後はどうでしょうか? ビデオなり写真が出回るかも知れません。しかし、ビデオや写真が出回ったからといって、それが直接「強制や不利益」をもたらすわけではありません。どこか知らないところで見知らぬ誰かが勝手にに鑑賞している、それだけのことです。ならば被撮影者が裁判に訴えても「法的利益はない」として棄却されるのでしょうか。さすがに、そう言うことはないと思いたいですね。直接的な加害/被害がなくとも法的な介入が必要な部分はあるはずです。
神社は、護国神社への合祀を巡り、キリスト教徒の遺族が敗訴した自衛官合祀拒否訴訟で最高裁が「宗教的人格権は法的利益と認められない」とした判決(88年)を根拠に、「原告の求める権利は最高裁が否定した宗教的人格権と同一」と反論。さらに、戦没者の氏名を記入した霊璽簿などの名簿は「合祀手続きに不可欠で、神社にも信教の自由がある」と主張していた。
……で、被告の主張するには「神社にも信教の自由がある」のだとか。なんでしょうね、ネトウヨの屁理屈みたいな、微妙な自己陶酔感が漂っている気がします。とりあえず個人には信教の自由がありますが「神社」にはあるのでしょうか? 個人が何を祀ろうと、そこまでは介入できるものではないにせよ、宗教法人である靖国神社が組織として祀る場合は話が違ってくるはずです。個人に認められる権利が法人にも認められるなら、会社にも「生存権」があるとかそういう話になりそうです。まぁ、確かに日本では個人よりも法人に対してこそ、手厚い社会保障が用意されているだけに実質的にはその通りなのかも知れませんが。
そう言えば以前にNHKが安倍晋三と中川昭一の要請を受けて番組を改編して、それで出演者から訴えられたことがありました。結局、最高裁がその役目を遺憾なく発揮、原告の主張を退けるに至ったわけですが、勝訴したNHKは「最高裁は、NHKの主張を認め、「編集の自由」は軽々に制限されてはならないという認識を示したものと考えます。NHKは、今後も、自律した編集に基づく番組制作を進め、報道機関としての責務を果たしていきます。」とコメントしました。NHKの用語では「編集の自由」=「政治家の介入を許す自由」だったわけです。では、靖国神社の用語で言う「信教の自由」はどういう意味なのでしょう?