非国民通信

ノーモア・コイズミ

授業期間中は大会開催を避けてみるのはどうだろう

2018-07-29 22:41:51 | 社会

東京五輪・パラ 「授業避けて」国通知、ボランティア促す(毎日新聞)

 スポーツ庁と文部科学省は26日、2020年東京五輪・パラリンピックの期間中にボランティアに参加しやすいように全国の大学と高等専門学校に授業や試験期間を繰り上げるなど柔軟な対応を求める通知を出した。

 多くの大学は7~8月が試験期間となる。通知では学生がボランティアをすることへの意義を説き、大会期間中は授業や試験を避けることを促した。授業開始時期の繰り上げや祝日の授業実施は学則などに基づき、学校の判断で特例措置を講じることができる。

 首都大学東京は昨夏、期末試験を大会前に終了させるなどして大会期間中に原則、授業や試験を行わないことを決めている。国士舘大も26日、同様の方針を発表した。【田原和宏】

 

 さて日本社会の教育軽視は今に始まったことではありませんが、なんでも2020年にはナショナリズムの祭典へ向けた学徒動員のため「大会期間中は授業や試験を避けることを促した」そうです。せっかくですから赤い紙に印刷して通知を出したりすれば、雰囲気も出るんじゃないでしょうかね。とりあえず首都大学東京が受け入れを決定、国士舘大も同様の方針を発表したそうですが……

 なお「東京五輪・パラリンピック」と、オリンピックは「五輪」と略記される一方でパラリンピックはそのままのようです。なんだか扱いが不公平だと感じませんか? オリンピックの別称がシンボルマークにちなんで五輪なら、パラリンピックは変な曲線ぐらいで良さそうな気もします。苦情はデザイナーに言ってください。

 ともあれ東京五輪・変な曲線の期間中にボランティアを徴集するため、大学や高等専門学校には「柔軟な対応」とやらが求められているわけです。未来を担う学生の教育以上に重要なものなどないような気がしますが、おそらく日本社会は世界中のどこの国よりも、人を安く働かせることに熱意を持った国です。未就労の学生はターゲットとして外せないのでしょう。

 一般的に国民の教育水準の向上は当該国の強みになると考えられるわけですが、日本では不思議と高等教育を受ける人の増加にネガティヴな意見を発する人が多いと言えます。曰く「大学生が多すぎる」云々と。国際的に見れば日本の大学進学率は高くありませんけれど、それでも高等教育を受ける人が増えることに苛立つ人が少なくない、どうにも日本には世界に類を見ない独自の価値観があるようです。

 日本的経営の理想にして目的は、「人を安く働かせる」ことに尽きるのかも知れません。ところが高等教育修了者は相応に賃金を求めるもの、人を安く働かせることを至上命題とするなら、国民の教育水準向上がマイナス要因に見えてしまうわけです。そんなことになるくらいなら、国民から教育を取り上げてしまいたい、そうすれば低賃金労働にも人を集めやすくなる――表だってその欲望を認めることはないでしょうけれど、実質的にそう考えている人も目立ちますので。

 日本的な学校教育への軽視(あるいは蔑視)と、とにかく人に払う賃金を減らすことを改革と呼んできた20年来の伝統が絡み合えば必然的に、冒頭で引用したような教育機会を脇に押しのけての無償労働の奨励になるのだと言えます。まぁ、日本の企業で働こうとする限りにおいて、真面目に勉強するよりボランティアでもしていた方が採用面でプラスに評価されそうな辺りが、一種の救いにもなるのでしょうか。

 とりあえず私が大会開催に向けて「柔軟な対応」を考えるのなら、開催期間の短縮を第一とし、さらには「お金を払ってプロを雇う」ことにしますね。とかく封建社会的な主従関係が色濃い我らが日本の雇用慣習ですけれど、これを機に労働の対価には金銭的報酬が必要なのだという、そういう理解が広まれば東京オリンパリンピックにも意義は出てきますから。

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ここでも韓国の後塵を

2018-07-22 23:33:39 | 雇用・経済

韓国の最低賃金835円に 10年で2倍、日本に迫る(朝日新聞)

 韓国の最低賃金委員会は14日、来年の最低賃金を10・9%増の時給8350ウォン(約835円)に引き上げると決めた。「所得主導」の経済成長を掲げる文在寅(ムンジェイン)大統領の政策があり、日本の最低賃金(全国加重平均)の時給848円に迫る。ただ、コンビニなどの自営業者は「人件費が増えて商売にならない」と撤回を求めている。

 委員会は雇用労働省の所属機関で、雇用労働相が公示すれば来年1月から適用される。労働組合が有力支持基盤の文氏は2020年に最低賃金を時給1万ウォン(約1千円)にすると公約しており、前年の引き上げ幅は16・4%だった。韓国の10年の最低賃金は4110ウォン(約410円)で約10年で2倍となる計算だ。

 今月になって韓国銀行が今年の経済成長率の見通しを3・0%から2・9%に下方修正するなど、経済は停滞気味。経営者側は最低賃金の引き上げの凍結を主張しており、2年連続の2桁台の上昇に猛反発している。コンビニ店主などが加盟する小商工人連合会は、決定を受け入れないとする声明を発表した。(ソウル=武田肇)

 

 先週は「中国の方が(日本より)待遇の水準が良い」と語る中国人の声を取り上げましたが、韓国では最低賃金の抜本的な引き上げが続いており、2020年までには日本を抜き去るであろうと考えられます。最低賃金の大幅な引き上げは故・民主党が政権獲得前に唱えていたことであるものの政権奪取後は完全に沈黙、安倍内閣に変わって僅かに賃上げペースが改善されたながら、日本経済よろしく諸外国の伸びからは取り残される状況が続いているわけです。「韓国の方が(日本より)待遇の水準が良い」もまた現実となるでしょうね。

 同じく労組を支持基盤としながら、日本の故・民主党政権と隣国の文在寅政権、どうして差が付いたのか興味深いところです。ともあれ文在寅大統領は「所得主導」の経済成長を掲げていることが伝えられていますけれど、そもそも日本こそ経済が伸び悩む要因として消費の低迷が挙げられて久しいわけで、可処分所得の増加がより効果的であるのは、韓国以上に日本ではないかと思わないでもありません。国内労働者の可処分所得が増えれば国内消費が増えて当然ながら経済成長を促すものですが、どうも日本国政府には経済成長への意思が――向こう20年ばかり垣間見えませんね。

 国内労働者の賃金は国内消費者の購買力に直結しますから、賃金の抑制はすなわち内需の抑制に他ならないわけです。賃金を抑制してしまえば、経済成長を牽引し得るのは外需ばかりとなってしまいます。資本の蓄積の段階にある発展途上国であれば、外需に重点を置くのは完全に間違いとは言い切れないとしても、先進国がそれをやってしまうとどうなるかを示しているのが、21世紀日本の経済的地位の低下であることは論じるまでもないでしょう。日本経済のネックである消費の低迷を解消するため、やるべきことが何であるかは自明のことです。

 アメリカのような訴訟リスクもなければヨーロッパのような組合の抵抗もない、公的機関も労働関係の違反取り締まりには及び腰と、日本には人員整理が容易となる条件が揃っています。そこに「改革」の名で規制緩和が進められた結果として日本国内の労働者の所得は激減、必然的に消費も低迷して内需は弱含んでいったわけです。結果として作られた氷河期世代は経済基盤の脆弱さから非婚率が急増、少子化を大いに加速させ日本国の将来に地雷を敷設することにもなりました。「改革」によって人を安く雇えるようになった、リストラで人件費が減った、その結果として生き延びた企業は多かったとしても、日本社会の寿命はどうなったのやら。

 韓国でも「人件費が増えて商売にならない」と語る人はいるようですが、しかし「人件費の低さに依存して延命している事業者」に最大限の配慮を続けてきた日本が歩んできた道を思えば、どの声に耳を傾け何を無視すべきかは明らかです。正社員をリストラして非正規に置き換えることでしか利益を上げられないような企業を延命させてきたことが、我が国を栄えさせる結果に繋がったでしょうか? 人件費上昇に対応できない企業を淘汰することこそ真の改革であり、それは日本で行われてきた「改革」とは正反対のものです。

 人件費の上昇が続く国では、それに対応できる優れた事業者しか存続を許されません。企業は生き残りを賭けて効率化とイノベーションを模索することになります。しかし人件費抑制が容易な日本では――人を安く長く働かせることで利益を確保するブラック企業が我が世の春を謳歌してきました。生産性を引き上げることが出来なくても人件費を引き下げることが簡単にできる以上、無能な事業者でも日本という地上の楽園では存続できてしまったわけです。

 その昔、我らが日本のNECこそが名実共に「世界一の半導体企業」でした。時は流れて王座はインテルに譲り渡され、そして韓国のサムスン電子へと移り変わったものですが、今やNECは定期的なリストラ発表くらいでしか存在感を示すことが出来ていません。人件費抑制をソリューションとしてきた日本を尻目に、「所得主導」の経済成長を文在寅政権が貫く限り、両国の経済的地位は逆転するどころか瞬く間に差が付いていくことでしょう。もはや日本は、渡来人を招聘して大陸から進んだ資本主義の考え方を学ばなければいけない段階に来ていますから。

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賃金の上がらない国に未来は無し

2018-07-15 23:02:06 | 雇用・経済

「日本より中国のほうが待遇いい」と中国の介護現場
「外国人の介護人材争奪戦」に「賃金低すぎて集まるわけない」の声(キャリコネニュース)

人手不足の介護現場で、アジア人材の奪い合いが起きている。介護人材は7年後の2025年には34万人不足するとみられており、積極的に外国人を採用する介護施設が急増している。

7月11日放送の「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京)がその現状を紹介すると、視聴者からは「人材争奪戦と言いながら待遇改善しない(できない、やらない)」などと落胆の声が上がっていた。(文:okei)

(中略)

一人っ子政策で高齢化が急激に進む中国は、やはり介護人材は貴重な存在だ。中流層が入所している中国・上海の介護施設では、介護スタッフの月給は8~10万円で、上海市の平均と同じ水準だという。しかも、食事と住居は無料で提供される。中国の施設責任者は、「日本の介護士の給料は低いと聞いている。中国の方が待遇の水準が良いと思う」と語った。耳の痛い話である。福祉の専門家は「貨幣価値の差がだんだん無くなれば、(中国人材の来日は)難しい」とコメント。今後日本は、職場として選んでもらえない恐れがあるのだ。

 

 日本人がやりたがらない低賃金の仕事を負わせようと、外国人労働者の受け入れを企む人々は少なくないですが、その将来はどれほどのものでしょうか。現状を見るに、いつの日かベトナムの日本大使館前に実習生像が建てられたりしてもおかしくないような非人道的待遇も目立ちますし、流石にそれを恥じる人も増えてきました。権力を持った人々ほど外国人労働力の受け入れに積極的な傾向があるものの、上記引用元でも語られている通り「中国の方が待遇の水準が良い」ケースは今となっては珍しくありません。「(日本が)職場として選んでもらえない恐れ」とは当然です。

 かつては中国の「親日派」ブローカーが自国民を騙して日本に売り飛ばすことも多かったのでしょうけれど、そうした人々に取ってすら日本は魅力的な市場ではなくなってきていると言えます。外国人実習生の主要な供給元は中国からベトナムへと既に推移したわけですが、ベトナムにしても経済発展は続いている、ベトナム国内で働くことで得られる給与も増え続けていますから、いずれは「ベトナムの方が待遇の水準が良いと思う」みたいな認識が広まる可能性は高いです。

 そこでさらなる(日本より)賃金水準が低い国を、新たな人材の供給元として開拓していくのが日本の一つの将来像なのかも知れません。未開の地平を切り拓き、より安価な人材という資源を発掘するわけです。実際、中国やベトナムが発展しても、まだまだ貧しい国はあります。ウナギ資源が枯渇する都度、新たな調達先を探し続ける商社マンのように、人的資源をもまた新たな採掘先を見つければ良いのだと、実質的にそう考えている財界人は多いのではないでしょうか。

 90年代以降の日本の「改革」モデルは、人件費削減こそが事実上の終着点となっているわけです。一見すると90年代以降は(日本より)人件費の安い国に急追され(一部は追い越され)た時代ではあります。ならば日本経済が復活するには、「後進国」に負けないように人件費を安くしてしまえば良いのだと、結果的にはそう考えられてきたと言えます。ところが人件費抑制を続けた日本経済はその世界的地位を低下させるばかり、一方で人件費の上昇が続く国は今もなお発展が続いているのです。

 まぁ海外植民地の安い労働力を酷使することで利益を得る、そうしたビジネスモデルが成立していた時代もありました。とはいえ21世紀に発展している国家/経済圏が採用しているモデルは、今や全く別物です。しかし沈み行く日本は――相変わらず安い労働力を求め続けるのでしょうか。その国における賃金水準の低さは、海外から見た魅力の低さでもあります。賃金の上がらない国が優秀な人材を外から確保できることはないでしょう。言うまでもなく賃金の上がらない国では消費者の可処分所得も増えませんから内需も増えません。賃金の抑制がもたらすものは、緩やかな死だけです。

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慎重な対応を求めたって……

2018-07-08 22:38:40 | 雇用・経済

「雇い止め」相談2千件増 無期転換ルール影響か(共同通信)

 厚生労働省は27日、2017年度に各地の労働局などに寄せられた民事上の労働相談のうち、「雇い止め」に関する相談が前年度比約2千件増の約1万4400件だったと発表した。

 同省は、有期契約労働者が5年超働けば無期契約に移行できる「無期転換ルール」が今年4月から本格的に始まったため、事前に契約を打ち切るケースがあったとみており、担当者は「ルールを意図的に避ける雇い止めは望ましくない」と、企業に慎重な対応を求めている。

 

 さて無期契約への移行を回避するための雇い止めが発生する可能性は、以前より指摘されてきたことです。「ルールを意図的に避ける雇い止め」は労働相談件数に表れるのに先だって、随所で事例が挙がってきたものでもあります。ただ、この雇い止めが発生したこともさることながら、悪質な法律逃れを規制するための制度がしかるべく用意されていない、という点もまた問われるべきものがあるのではないでしょうか。

 企業に全面的な自由を与えたまま無期雇用への転換ルールを作った場合、多くの企業は抜け穴を探します(それが日本的経営の倫理観ですから)。穴の空いた瓶に水を注いでも、底から抜けてしまうようなものでしょうか。当然ながら、穴をふさぐことも考えなければ片手落ちになってしまいます。しかし、そこまでやる意識が行政には欠けている、というのが実態と言わざるを得ません。

 非正規社員を永遠に非正規のまま使い倒したがっていた人々にとって、無期雇用への転換ルールは悪夢でしかなく、そのルール導入へ反対するための御為ごかしとして頻繁に語られてきたのが「(無期雇用への転換ルールを作ると)非正規雇用の雇い止めが増えるぞ」というものでした。この御為ごかしによって、非正規社員を非正規のまま使い続けたい人々は、あたかも「非正規社員のため」を思う風を装いながら無期雇用への転換ルール策定に反対してきたわけです。

 そこで厚労省の担当者曰く「ルールを意図的に避ける雇い止めは望ましくない」とのことで、「企業に慎重な対応を求めている」そうです。「慎重な対応」って何でしょうね? 昨今は弱腰の大手労組に代わって総理大臣が賃上げ目標を掲げたりもするわけですが、しかるに企業側には応じる義務もなければ、応じなかったことによる罰則も何もないわけです。政府側も「頑張ってます」というアリバイ作りまでは出来るのかも知れませんが――しかし企業に逃げ道を残したままというのが現実です。

 不安定な非正規・有期雇用は当事者の生活上のリスクであるばかりでなく、その多さは日本社会のリスクでもあります。収入が少なかったり不安定であったりする労働者は当然ながら消費に回せるお金も少なく、必然的に消費低迷の要因となり、日本経済衰退の一因とならざるを得ません。そして生活の安定しない人は、望んだとしても家庭を持たず子供も産まない人が多い、日本社会の少子高齢化を進める原因ともなっています。加えて現役時代の収入が少ない人は現行制度上、生存が可能になるレベルの年金を受給できる見込みもありませんので、未来は良くても生活保護受給者の激増、最悪の場合はスラム化でしょうか。

 日本国のことを考えるなら、日本で働く人を豊かにすることが欠かせない、薄給かつ不安定雇用という二重苦の日本式非正規雇用を根絶することは不可避と言えます。そのために有期契約の労働者を無期契約に転換することは当然の施策なのですが、「ルールを意図的に避ける雇い止め」を行う事業者に「慎重な対応を求め」るだけで罰則も何もないのなら、穴の空いた器に貴重な資源を流し込むようなものです。法の趣旨を逸脱したルール逃れを行う事業者に必要なのは、その自由の尊重ではなく、罰ではなのですから。

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大学は出資者のおもちゃになるか

2018-07-01 23:18:59 | 社会

「僕みたいなトンガリ育てる」 永守氏が大学に託す夢(NIKKEI STYLE)

 資金を出し、口も出し、自分も出る。これが永守流の大学改革だ。18年の入学式で新理事長として訓話した永守氏だが、「年に何回かは理事長訓話の機会を設け、学生に人生訓を語りたい」と話し、学生との対話に意欲をみせる。こうした姿勢は、自身の学生時代の経験から来ているという。

 

 先週は、宗教法人の皮を被った営利組織もあれば、反対に「営利企業を装った宗教団体」もあると書きました。その流れの中で日本電算社長の永守重信を取り上げたのですが、この永守氏、今年の3月より京都学園大学の理事長も兼務しているわけです。教育インフラへの公的投資が望めない日本において、出資のできる人間が大学に関与することには肯定的な側面もあります。しかし、この「資金を出し、口も出し、自分も出る」云々はいかがなものでしょうか。

 曰く「年に何回かは理事長訓話の機会を設け、学生に人生訓を語りたい」だそうです。学生にとっては時間の浪費以外の何物でもないでしょう。もっとも、世の中には説教好きのおじさんのご機嫌を取って金を受け取る仕事もあります。学生時代に、そうした経験を積むのは悪くないのかも知れません。接客業に従事する人材を育てたいのなら、出資者の披露する人生訓に感心してみせる練習は有意義です。普通の会社だって、役員のご機嫌を取る能力は出世に欠かせませんしね。

 

 「まず英語教育に力を入れる」。永守氏がモーターエンジニアの育成と並んで重視するのが、英語を話せる人材の育成だ。中学、高校、大学で学んでいるにもかかわらず、それだけでは世界と渡り合う英語力は身に付かないのが実情で、ビジネス上も大きなハンディとなっている。それを一番肌で感じているのが、グローバル企業である日本電産グループのトップである永守氏自身だ。

 英語力不足の原因は「読み書き偏重の英語教育」と見る永守氏は、聞く・話すを授業の中心に据える方針だ。卒業までに英語能力テストの「TOEIC」で一定の点数をとることを義務付け、それに達しない学生は「卒業させない」とまで言い切る。

 

 ……で、永守大先生が第一に掲げるのがコレです。まぁ、よくある話ですよね。猫も杓子も改革者気取りは英会話重視ですけれど、果たして大学の果たすべき役割は英会話学校の代替なのかどうか。TOEICで高い点を取る能力を求めている企業が多いのは分かりますが、しかし英会話学校で英語をどれだけ学んでも高卒以下では狭き門となる学校も多い、大学で学んだ中身は問われずとも出身大学のネームバリューは問われる日本的採用の矛盾をどうにかするのが先ではないかという気がしないでもありません。大卒者ではなく、英会話学校の生徒を採用すれば良いのにな、と私なんかは思いますね。

 それはさておき、英語力不足の原因は「読み書き偏重の英語教育」と永守氏は見ているそうです。これもまた数十年前から言われてきた紋切り型の批判ですけれど、現実はどうなのでしょう。私が知る限り日本人の英語力は――聞くと話すだけではなく、読み書きもまたレベルが低いわけです。読み書きすら十分に出来ないのに聞くのと話すのを中心に据えても、果たして効果はあるのでしょうか。読み書き偏重への批判は今に始まったことではなく、数十年来の積み重ねがあります。それが意味のある批判なら、日本人の英語力は既に大きく上向いていそうなものですが。

 

 「大学は出たけれど、実務は何もできません、英語も話せません、専門知識もありませんでは、大学でいったい何を学んできたのかということになる。大学進学者が今よりはるかに少なかった数十年前なら、教養中心のカリキュラムにも意義はあったかもしれません。しかし、高校卒業生の半分が大学に進学する現在、大学の役割も大きく変わって当然です。社会に出て即戦力となるような人材を育てることこそ、大学に求められているのではないでしょうか」

 

 そしてこれ、教養否定もまた「読み書き偏重の英語教育批判」と同様に長い歴史があります。教養に乏しい日本の経営者にとってはコンプレックスを刺激されるところでもあるのでしょうか。しかし日本の大学と海外の大学、より教養を重んじているのはどちらなのか、日本だけが教養中心のカリキュラムで、ヨソの国は違うのなら、話は分からないでもありません。ただ学外に漏れ出したカリキュラムを眺める限りでは、外国の権威ある大学ほど教養も高いレベルを要求されているように見えますね。

 それ以上に気になるのは、大学の教育が教養ばかりで実務や専門知識の教育に欠けるかと言えば、むしろ「企業の研修」の方がオカルトばかりで実務や専門知識からかけ離れたものが多いのではないか、ということです。日本電算の社内教育がどれほどのものか私は知りませんので、もしかしたら「大学とは違って」実務や専門知識をしっかり教えてくれるものなのかも知れません。ただ世間一般の企業研修って、コンサル業界のローカルルールに溢れた通俗心理学や精神論ばかりではないでしょうか?

 今も昔も研修として大人気なのは、自衛隊の体験入隊だったりします。先日は元・自衛官が警官を刺殺して拳銃を奪い、市民を殺害するなんて事件もあったばかりですが、それでも自衛隊は「社会人の先生」としての役割を広く期待されているわけです。そうでなくても「無人島でサバイバル生活」「醤油造り」「縦3m×横5m×深さ2mの穴を掘る」「集団の前で自己否定の発言を絶叫」「24キロを5時間以内で歩く」「素手で便所掃除」「社訓を35秒以内に暗唱」等々、企業研修には教養だけではなく実務や専門知識からもほど遠いものが盛りだくさんです。

 「社会に出て即戦力となるような人材を育てることこそ、大学に求められているのではないでしょうか」と私的な理想を述べるのは結構なのですけれど、日本人の教養水準は英語の読み書き能力と同様に十分とも思えません。そして即戦力となるべく実務や特定の知識に一本化した専門学校や英会話学校の卒業者が、大卒者以上に優遇されているということもないわけです。加えて採用した後の企業での社内教育は大学教育以上に専門知識から離れるばかりだったりするのなら、この永守尊師の教えも現実から乖離した妄想でしかなく、ただただ学生を振り回すばかりだと言うほかありません。

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