非国民通信

ノーモア・コイズミ

私は神を愛さない

2012-10-30 23:06:37 | 社会

 ……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。

 

 アルベール・カミュは自著『異邦人』の英語版の序文で以上のように書いたわけですが、実際のところ我々の社会でも、お芝居をしないと異邦人として扱われることは珍しくありません。むしろ我々の社会でこそ、と言うべきですらあるでしょうか。例えば母親ならぬ「仕事」に対する態度などを考えてください。仕事は生活の糧を稼ぐための手段、あくまで金銭目的というビジネスライクな態度では通用しないのが日本の会社というものです。仕事に「やりがい」を見出さない人間は、全てこの日本で不採用を宣告される他はない、と。

 あるいは国旗や国歌でも同様、それらへの服従を他人にも理解できるよう定められた形(自己流ではダメです)で表現しない人間は、この美しい国で死刑を宣告されないまでも職務から追放される恐れがある、お芝居をしないと欠格者として扱われる他はない、みたいな状況を着々と現実のものにしてきたと言えます。何を「好き」であるかも個人の勝手では済まされない、その社会の一員として受け入れられるためには、社会が規定する「好き」を共有するべく自らの心を書き換えねばならないわけです。

 最大公約数的なものは「子供」でしょうか。暴れ騒ぐ子供の鳴き声を快く受け入れるべき、とする論調はなかなかに根強いものがあって、子供がうるさいと抗議するような人は即座にモンスター~、クレーマー扱いされてしまいます。熱心に論じられているのはそうした「クレーマー」をいかに黙らせるか、ネット上では「我慢しろ(我慢させろ)」の大合唱ですけれど、まぁ静かなところにお住まいの人は羨ましいばかりです。あるいは子供の鳴き声に快感を覚える人を羨むべきでしょうか。

 性的な要素が表に出ていれば眉を顰めてみせる人も多い一方で、子供であることを売りにした見世物は幅広く歓迎されているところでもあります。子供に黄色い声援を送っている人には立派なペドフィリアの素養があると感じるところですが、ともあれ誰しも子供が好きではないわけです。ネコの鳴き声が好きな人もいれば嫌いな人もいる、同様に子供の鳴き声が好きな人もいれば嫌いな人もいる、しかるに「嫌うことが許されない」ものとして「子供」は仕事や国旗・国歌と肩を並べるどころか、その王座に君臨しているように思います。

 ちなみに自分はとても大人しい子供でしたので、周りから「子供らしさ」を求められるのが大変に苦痛でした。どこでも遠慮なく駆けずり回っては奇声を上げておけば「子供らしくのびのびしている」と周りの大人は歓迎してくれたかも知れませんが、どうにも私は「子供らしくない」子供ゆえに「可愛くない」存在でもあったようです。幼稚園から小学校に至るまで「外で遊ばせようとする先生達」と「部屋の中で本を読んでいたい私」の対立は続いたものですけれど、まぁ「子供に理解がある」風を装う大人ほど、自分の考える「子供らしさ」を子供に強いる傾向が強いような気がします。

 この辺、例えば性表現規制とか脱原発とかで「子供を守れ」と叫んでいる人ほど子供の自己決定権には無頓着だったりするのを思い出すところ、ともあれ当の子供と同様に大人も人それぞれ、「子供」をどう感じるかは本来なら一様ではないはずです。しかし、暴れ騒ぐ子供を「うるさい」を感じる自由はあるのか、子供の鳴き声を「暖かく受け入れる」ことが当然視される中では、どうにも「好きであること」が強要される方向に突き進んでいるように思えてなりません。

 ある種の人々が発達障害の予防になると説くところの「伝統的な子育て」ですが、我が国の伝統では子供を間引きしたり奉公に出したり年長の兄弟姉妹に任せたりと、どうも現代ほどには母親がつきっきりで子育てしていたわけではなさそうです。一方で昨今は自動虐待が取り沙汰されることが増えました。まぁ問題視されるようになったのは実数の増加よりも世間の意識の変化によるところが多いような気もしますが、24時間365日、子供に付き合わされるともあらば「子供が好き」を続けるのも辛くなるものなのではないでしょうかね。

 「時々」子供に遭遇する程度なら、どんなにやかましくとも「かわいい」で済まされるのかも知れません。でも、ずっと一緒にいる人にとってはどうなのかと。真性の子供好きでも、時には「うるさい」と疎ましく感じることもある、それは至って自然なことだと思うのですけれど、しかるに子供の鳴き声を「うるさい」と感じることを許さない人々が我々の社会にはひしめいているわけです。お芝居を続けなければいけません。

 「こうのとりのゆりかご」通称「赤ちゃんポスト」という代物があって、まぁ諸般の事情から子供をひっそり預けていく親もいるわけです。これに対し、「なんでそう簡単に子供を捨てられるのかが疑問です」などと宣う人もいます。実際に子供ができたら、子育てが辛くなることなんていくらでもある、子供が欲しいと思っていた頃には想定していなかった事態に見舞われることなんていくらでもあるはずですけれど、そこまで頭が回らないまま「子供を大事にしろ」と迫っているだけの人が多いような気がします。むしろ子供が嫌になることもあると、最初から織り込み済で動くべきなのではないでしょうかね。とりあえず、子作りするなら「子供が嫌い」と言える人とが良いです。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

給料を下げれば国民からは歓迎されるけれど

2012-10-28 11:11:13 | 雇用・経済

電気値上げ、年収カット条件 経産省「大企業並みに」(朝日新聞)

 経済産業省は、電力会社が家庭向け電気料金の値上げを申請した場合、社員の年収を社員1千人以上の大企業平均(596万円)並みに引き下げるよう求める方針を固めた。電力会社は社員の年収が800万円前後で大企業平均を大きく上回っており、2割を超える給与削減を迫られる可能性がある。

 電力会社は、東京電力福島第一原発事故後に止まった原発の代わりに火力発電を増やしている。このため燃料費がかさみ、原発の割合が高かった関西電力は29日、九州電力は30日にも、来春からの電気料金値上げを表明する見通しだ。値上げ幅はともに10%程度を軸に検討する。

 家庭向け電気料金は、発電や送電に必要な費用に電力会社のもうけを上乗せした「原価」(費用)をもとにはじき出す「総括原価方式」で決める。電力会社が値上げを申請すると、経産省の専門委員会で原価が適正かどうかを審査して最終的な値上げ幅が決まり、経産相が値上げを認可する。

 

 この場合の「平均」が条件を揃えたものなのかどうか、ことによると「官民の給与格差」よろしく片方を大きく、片方を小さく見せかけるために条件の異なるところから抽出した「平均」なのか、ちょっと微妙なところですが、ともあれ電力会社は社員の年収が800万円前後で大企業平均を大きく上回っている云々と朝日新聞は主張しています。ただ、朝日が提示する数値を見るに東京電力の平均年収は既に「大企業」のそれを下回る水準まで低下しているわけです。人員削減や事故対応で一人当たりの仕事量は確実に増えているものとも推測されるところ、むしろ私であれば労働負荷に応じた賃金がしかるべく支払われているかどうかをチェックしたいですが、まぁ労働者の敵・民主党やそれに政権を取らせてしまうような人々からすれば、働く人の権利が侵害されることなどどうでも良いことなのでしょう。

 犯罪者に人権はない、などと得意げに語る連中と同じように電力会社の労働者としての権利を完全に無視している人も多いですけれど、こういうときこそ労組などは手を携えて立ち上がるべきではないかという気がします。しかるに、労働者のことより脱原発が第一、むしろ電力会社を叩く側に回って世間の歓心を買おうとばかりに振る舞っている組合も目立つだけに、存在意義を大いに疑われるところです。まぁ弱者同士で手を組むより、上手いこと立ち回って強者の側に身を置こうと、そういう振る舞いは別に昨今の労組だけに見られるものではないですよね……

 一般社員にまで経営責任を負わせようとするのが日本の企業文化という気がしないでもありません。自分の仕事さえしっかりやっておけば良い、では日本の社会人として通用しないわけです。日本の社会人たるもの、常に経営のことを考え、たかが有休を使うにもマネジメントの立場からの配慮を欠かさない、そういうものですから。そしてこうした労働慣行に何の疑問も持たず今後とも受け入れていこうとしている人にとっては、会社のために従業員の取り分を減らすのは至って自然なことなのでしょう。ゆえに、この冒頭で引用したようなケースも当たり前のように受け入れられるわけです。

 それにしても、一般に給与削減は経営側が望んで進めてきたものです。これを政府が公に後押ししてくれるとあらば、ある意味で会社にとっては「ご褒美」みたいなものでしょうか。働く人の取り分を減らそうとする人々と、それに抗う人々であれば、あるいはリストラを迫る人々と、それを押しとどめようとする人々であれば、いつだって私は後者の側を支持してきましたけれど、概ね世間は前者に声援を送り後者を罵倒してきたはずです。人員削減や給与カットは世論に添ったものだ、結果的にではあれ経団連などは民意の代弁者として振る舞っているなと、常々思います。

 「東京電力福島第一原発事故後に止まった原発」と朝日報道は書いていますけれど、これはどうなのでしょう。まるで事故のせいで他の原発まで止まったかのようです。そうではなく、国が強引に止めてきた、再稼働の条件も二転三転させて電力会社側ではどうにもできない状況を作ってきたわけです。そこに触れないことで責任の所在を曖昧にしていると言えるでしょうか。電力会社の赤字は政府の無策や脱原発論が招いたものでもあります。そのツケを電力会社の従業員に払わせようとしているのが今回の経産省の案なのです。

 働く人の取り分を減らして価格を抑える、そういう負の経済サイクルに慣れきった人にとっては当たり前のことなのかも知れません。しかし、取り立てて被害のある事故を起こしたわけでもない東京電力以外の電力会社の社員に、いったい何の罪があるのでしょうね。とかく給料が高いとされるところは叩かれる、給与水準が高いのは「悪」――日本で働く人々の賃金を引き下げてきた近年の「改革」が、なんだかんだ言って修正されることなく引き継がれているのも納得するしかなさそうです。

 代替的な補償を、我々の社会では「特権」などと呼ぶことが一般的です。在日外国人や公務員など、一定の権利が制限されている代わりに別の形での保護が付与されていることもあって、これが「特権」などと呼ばれてきたわけです。そして、あたかも「特権」だけが存在して、その特権とやらが何の代替なのかは無視するのもまた一般的と言えるでしょうか。電力会社の場合も然り、例えば電力会社には原則として「売らない」という自由がありません。普通の営利企業なら赤字になってまで製品(サービス)を売ったりはしないものですが、電力会社は需要に応じて供給しなければならない義務があります。もし日本の既存の電力市場が「採算の取れる範囲で発電できた分だけ売ります」みたいに自由化されているのであれば話は別です。しかし、「どんなに発電コストが上昇しても需要を賄わねばならない」という制限が課せられているのなら、その対価となる一定の権限は認められねばならない、それが特権と見なされるのはふさわしくないものと言えます。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日出ずる国の第一人者

2012-10-25 23:27:19 | 社会

尖閣巡り「都知事『戦争辞さず』」 前原氏、明かす(朝日新聞)

 「(中国と)『戦争も辞さず』みたいな話をして、総理はあきれた」――。前原誠司国家戦略相は12日のBS朝日の番組収録で、尖閣諸島の購入問題をめぐって、東京都の石原慎太郎知事が8月19日の野田佳彦首相との会談で発言した内容を、同席者から聞いた話として明かした。

 前原氏は「総理はあきれて、国として所有しないと、東京都に渡したら大変なことになると(判断した)」と述べ、首相の尖閣国有化の最終決断は、石原氏の対中強硬姿勢が理由だったとの見方を示した。

 また「東京都が『尖閣諸島を守ります』と言っても、海上保安庁も自衛隊も持っていない。気合だけで言ってもらっては困る」と石原氏を痛烈に批判した。

 

「中国と戦争辞せず」 石原知事が発言否定(産経新聞)

 石原慎太郎東京都知事は19日の記者会見で、前原誠司国家戦略担当相が沖縄県・尖閣諸島国有化前の今年8月に行われた石原氏と野田佳彦首相との会談についてテレビ番組で「石原氏は(中国との)戦争も辞せずと話した」と発言したことに対し、「そんなことは言っていない」と否定し、「前原ってやつはロクでもない」と激しく批判した。

 

 前原と石原で、「言った」「言わない」と低レベルの争いが勃発しているようです。どちらも同程度に信用できない人ではありますが、どうなんでしょうね。日本の政治家(だけに限りませんが)は基本的にポジティヴな比喩として「戦争」という言葉を好んで使う傾向にあります。「○○は戦争だ」云々の類は、取り立ててタカ派色を売りにしていない政治家の口からも普通に聴かれるものです。その辺に現代の日本人の戦争観が如実に表れているなと感じるところですが、本人は比喩のつもりで「戦争」という言葉を使ったぐらいはあるでしょうか。とりあえず前原が言及する「8月19日」に「戦争も辞さず」との発言があったかは定かでありません。

 

石原慎太郎都知事 独占インタビュー 尖閣侵犯再び!「日本は戦争の覚悟を示せ」(PRESIDENT Online)

 12年8月15日午後5時35分ごろ、中国人の男5人が、沖縄県石垣市の魚釣島に不法に上陸し、現行犯逮捕された。なめられ続ける日本の外交姿勢。尖閣諸島問題の第一人者でもある石原都知事への独占インタビューを一挙公開する。

(中略)

 シナに「戦争する覚悟はあるのか?」と問われているのだから、日本は胸を張って「覚悟がある」と堂々としていたらいいんだ。

(中略)

 自分の家を守るためには、私たちは体を張って戦争する。やるならやるぞ、としっかり言ってやらなきゃいけないんだ。シナが日本の実効支配をぶっ壊すと言って、どういう行動に出るのかはわかりませんが、それに備えるために国が動かないなら東京が率先して尖閣諸島を領有する、ということ。

 

 そしてこれは今月のインタビュー記事。「8月19日」は知りませんが、他の場面では「戦争も辞さず」みたいな発言を公にしていることが分かります。しかしまぁ、石原慎太郎を「尖閣諸島問題の第一人者」とか当たり前のように書けるセンスはどうなんでしょう。この辺は自称経済誌らしいと言えば、そういうものなのかも知れません。お前の世界観に合致しているかどうかを「第一人者」の基準にしているんじゃないかと突っ込みたくなることは、今回に限ったことではありませんから。原発や放射「能」に関して次々と妄想を披露する人を「専門家」と呼んだり、軍事的な手段を唯一無二のものと信じる度合いに応じて「国防に強い」などと評したり、あるいは経済誌の「お約束」に忠実で現実に惑わされない態度によって「経済を理解している」と持ち上げられたり、よくあることです。

 シナ、シナと連呼する人の発言を何の注釈もなしに垂れ流すのもメディアとして良識が問われるように思いますが、これがプレジデントに限ったことではない辺りに色々と問題を感じますね。極右層に媚びれば選挙で勝てるという域にはまだまだ遠いですけれど、一方で差別的、排外的な言動によって有権者から敬遠される可能性は皆無に近いというのが日本の現状でしょうか。差別用語を好んで使う人は「タブーに挑む俺ってカコイイ」と自分に酔っている、しかるに差別発言や排外主義的な振る舞いは現代において反発を買いにくい「無難な」ものになっているように思います。むしろ理性的に国際協調路線を説くことの方が、よほど有権者の反発を買う勇気のいる行動でしょう。

 石原の妄言はさておき、民主党側の対応にも大いに問題があります。あたかも「石原のせいでこうなった」的な責任転嫁が見受けられるのですけれど、むしろ民主党の対応こそ中国との関係を悪化させる上で致命的だったのではないかと私には思われます。かつて被災地のガレキは危険だと事実無根の妄想に基づいてガレキ受け入れを阻もうと抗議や脅迫を繰り返す輩への対応を問われた時、石原慎太郎は「黙れって言えばいいんだよ、そんなの」と一蹴する姿勢を見せました。まぁ、偏見に凝り固まった人への配慮のために被災地復興への協力を拒むよりは、ずっと良かったのではないでしょうか。そして民主党もまた、このような態度を取るべき局面であったのではないかと。

 つまり、なにやら勘違いした自治体の首長や国内の右派が沖縄の土地を購入しようと大騒ぎしていたとしても政府が媚びる必要など微塵もなかった、「黙れって言えばいいんだよ、そんなの」と撥ね付けておくべきではなかったかと私は思うのです。尖閣購入など、しょせんは一部の人間の自己満足に過ぎない話です。中国側から見ても、日本という国ではなく一部の自治体の独断専行であれば、大した火種とは感じなかったことでしょう。中国政府には、現実と妄想の区別が付かなくなった老人のやったこと、ここは敬老精神を発揮して見守ってくださいとでも伝えておけば良いのです。

 しかるに、あろうことか日本国政府が石原に張り合って尖閣購入に踏み切ったために、中国との関係は致命的なものとなったのではないでしょうか。民主党政権には国内の極右層に「毅然と」対応するための強さが致命的に欠けており、右派の勢いに媚びてしまった、その結果として今に至るわけです。前原に言わせれば東京都の姿勢は「気合いだけ」なのだそうで、ならば中国から見ても「バカが対岸で叫んでいる」レベルで済んだかも知れません。しかし、軍事力を保有する日本という国家が購入に踏み切れば、流石に中国側も捨て置くわけには行かないのです。発端は石原だとしても、事態を悪化させる上でより愚かであったのは民主党政権であったと言えます。

 なお前原発言によると、「海上保安庁も自衛隊も持っていない」のであれば、後は「気合だけ」になってしまうようです。まぁ前原の頭の及ぶ限りではそうなのでしょう。しかし、どうなのでしょうか。例えば橋下ですらも、ルール作りを云々と軍事力でも気合いでもない防衛策を述べています。物事を解決できるのは軍事力に限りませんし、軍備増強に力を注いだにも関わらず全く成果を得ないことなど珍しくもないわけです。前原には想像も付かない世界として「外交」というものだってあります。あるいは交渉の席に着くよう説いてきた財界筋も然り、経済の世界では日本と中国は既にお互いに欠かせないパートナー、もはや軍隊の力でどうにかできる世界ではないのです。

 ところが、この領土問題に限っては民主党政権や自民党の現役組に比べて柔軟な立場を取っている橋下は、「外交や防衛が弱点」みたいに言われていたりするわけです。その一方で、単に事態を悪化させることだけしかできない石原慎太郎を「第一人者」などと称揚するメディアもあるなど、根本的に日本社会の評価基準がおかしいと感じることしきりです。あるいは李明博の竹島訪問を「韓国の内政上の要請によるもの」と森本防衛相は評したもので、これまた森本氏にしては例外的に妥当な判断と言えますが、しかるに民主党内からも結構な非難の声が上がったものです。小泉純一郎の唯一と言っていい正の功績として拉致被害者を帰国させたことなんかもありますけれど、拉致被害者とその関係者が第一の信頼を寄せてきたのは拉致問題を何一つとして進展させることのなかった安倍晋三だったりもしました。自国の建前でしかない空疎なイデオロギーにしがみつくばかりで、隣国を罵る「強い姿勢」を国内の有権者にアピールするのが「外交」、軍隊の活躍を夢想することが「国防」、そういう基準が罷り通っている辺りに危ういものを感じますね。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本との違い

2012-10-23 23:01:27 | 社会

ロンドン警視庁、警官入れ墨禁止令…違反は処分(読売新聞)

 英ロンドン警視庁は17日、所属の警察官や職員に対し、顔や首、手など体の露出している部分に入れ墨をすることを禁じ、他の部分の入れ墨は常時隠すよう通達を出した。

 入れ墨が見えると職業的イメージを傷つける、というのが理由で、顔や手などに既に入れ墨をしている者については、11月中旬までに上司に書面で報告するよう義務づける。違反者は処分するという。

 17日付の英紙デイリー・テレグラフによると、ロンドン警視庁は以前から、腕に英国旗の入れ墨をしている志望者は「国粋主義者を想起させる」として採用していない。かつては、入れ墨をしている志望者は応募の際に入れ墨の写真を提出する義務もあったという。

 

 さて日本では非武装の公務員に対して、入れ墨の禁止や違反者への処罰が取り沙汰されているわけですが、イギリスでは警察に対して似たような取り組みが始まったようです。もっとも似たようでいて異なる点がいくつかあります。例えば対象となる職種が日本では公務員一般であるのに対し、ロンドンの場合は警察官及び警察職員と範囲が限られている点はどうでしょう。国民の憎悪に基づいた干渉か、あるいは特別な権限を有している人々への特別な措置なのか、前者と後者では意味合いが大きく異なります。とかく日本では武装した公務員ほど無批判に扱われがちですが、その日本人が無批判な相手こそ本来なら厳しく制限が課せられねばならない層ですし。

 

ロンドン警視庁、制服でかくせない入れ墨あれば採用拒否(オンライン・ジャーニー)

 襟からはみ出す首の入れ墨や顔面に入れられたもの、手の甲などの入れ墨は、今度の規制によって全て禁止される。既に採用されている警官の中で、服では隠しきれない部分に入れ墨を入れている者は正規に申請することにより特別に許可されることになるが、この申請を怠った場合は解雇の可能性もあるという。
 このような厳しい規制を設けるのはロンドン警視庁が英国では初めてとされるが、他の県警等が追随するのは時間の問題と目されている。ただ、一般の署員たちからは「今どき入れ墨と犯罪を結び付けて考えるなんて時代遅れだ」といった声が上がっており極めて評判が悪いという。

 

 なお日本では隠せない部位に入れ墨があるなら消せなどと無茶を宣う人が少なからずいたわけです。それに比べればロンドンの場合は一応の柔軟性が見られるところ、ただそれ以上に日本の場合との相違点が目立つのは「極めて評判が悪い」という点かも知れません。警察の「外」にいる住民の受け止め方はどれほどのものでしょうか。とりあえず日本の場合は専ら、これを好機と公務員叩きに邁進する世論に遠慮してか、当の職員サイドでも反発姿勢を見せた人は随分と限られていたように思います。

 ロンドンの警官は拳銃を持たないことで知られていますけれど、ことによると日本の警官も拳銃を持たなかったら、世間の評価ももうちょっと一般の公務員に近いものになるのでしょうか。非武装の公務員への風当たりは、武装した公務員のそれ比べて著しく厳しいものですから。そしてロンドン警視庁は以前から、腕に英国旗の入れ墨をしている志望者は「国粋主義者を想起させる」として採用していないそうです。国旗や国歌への忠誠心を試される日本の公務員とは正反対、ナショナリズムを危険因子として受け止める辺りに日本との違いが鮮明になっています。

 

デモに100万人、自治権拡大求めるカタルーニャの人々(AFPBB News)

18世紀のスペイン継承戦争でカタルーニャ(Catalonia)が陥落した「カタルーニャの日」にあたる11日、同州の州都バルセロナ(Barcelona)では、経済危機にあえぐスペインからの「独立」や自治権拡大を求める大規模なデモに100万人以上が参加した。

 

 一方カタルーニャの自治権拡大を求める動きは今さらのことですが、ここで振られている旗がカタルーニャの旗であってスペインの旗ではないことを日本人は意識すべきではないかと思います。カタルーニャの自治権拡大を求めるのだからカタルーニャの旗を振るのは当たり前だと、そう考える人もいるかも知れません。しかし我らが日本の場合を省みてください。やれ地域主権だの地方分権だのと喧しい時代にも関わらず、その各自治体で権限の拡大を訴える首長やその支持層が、自らの府県や市の旗を第一に掲げたことがあったでしょうか?

 日本において、地方自治の拡大を唱える首長とその取り巻きが掲げてきたのは、あろう事か日本の国旗でした。そして国旗の前に傅くかどうかで職員を選抜したりするのですから、何とも奇妙な世界です。カタルーニャの自治権拡大を要求するデモにスペイン国旗を掲げて参加したらどうなるでしょうね? しかるに日本では国旗への服従を強いるのと同じ口で自治権を要求するスタイルが、何の疑問も持たれることなく受け入れられています。地方自治を叫ぶなら、国旗を引き裂いて代わりに大阪府の旗を掲揚しても良さそうなもの、しかしそうならないところに日本の独自性があるような気がします。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罷免するならまず枝野だろうと

2012-10-21 22:59:56 | 政治・国際

枝野経産相、敦賀3・4号機の建設認めず(朝日新聞)

 枝野幸男経済産業相は19日の閣議後記者会見で、日本原子力発電が計画している敦賀3、4号機(福井県敦賀市)の建設を認めない考えを示した。敦賀3、4号機を含めた未着工の原発9基に対しては、政府が電力会社に建設を認めない仕組みをつくる意向も改めて示した。

 日本原電の浜田康男社長は17日に「本体工事を進めたい」と意欲を示していた。これに対し、枝野氏は「国策に基づいて新増設するものではない」と述べ、認めない考えを示した。「民間企業の自己責任でやってください。我々は事実上、止めるためのさまざまな工夫を進める」とも語り、着工を止める手立てを考える方針を示した。

 枝野氏の発言に対し、敦賀市の河瀬一治市長は19日、「国策に基づいて計画が進められてきたので、国は立地地域の声を十分にくみ取り、地域の実情を踏まえた判断を行う責任がある」とのコメントを出した。

 

 田中法相の辞任だの更迭だのが取り沙汰されているわけですが、上の報道などを見ると本当に切られるべきは枝野だろうと今さらながらに確信させられます。ろくに益も害もない法相より百害あって一利なしの枝野を取り除いた方が、ずっと政治的にはマシになると思うのですけれど、まぁ田中法相の方が野党にとって「責めやすい」類なのでしょうね。政策面での問題となると、民主も自民も大きな差がないだけに動きにくい、かつ国民からの関心も薄いところでもあります。しかし金銭や女性問題、そして交友関係云々とスキャンダル色の強いものであれば一方的に相手を咎められる、世間の支持も集めやすいというもののようです。

 敦賀市の市長が語るように当然ながら原発の新増設はこれまで国策の一環として進められてきたという厳然たる事実があり(アホの枝野にしてみれば、それは自民党のせいであって民主党のせいではないということなのでしょうけれど)、そして国には今後に向けた判断を行う責任があります。そこを「民間企業の自己責任でやってください」と躊躇なく投げ出して恥じることがないのが枝野の枝野たるゆえんなのでしょうか。まぁ、相手が完全な営利企業であって、その企業がどうなろうと住民の生活には影響がない、そういう類であれば枝野の放言も許される範囲かも知れません。しかし枝野ひいては民主党政権が「自己責任で」を責任放棄したその結果に対して誰が責任を負うのか、電力供給に支障が生じたときに困るのは国民です。

 もちろん政府の妨害がある中でも電力会社は国から課せられた電力供給の義務を果たすべく赤字経営を続けているわけですけれど、これがいつまで保つかは微妙なところです。国民の大半は働く人の取り分を減らすことに肯定的、赤字なら電力会社でリストラをすれば良いのだと安易に考えているフシが見受けられますが、いずれツケを払わされることも考えておくべきだと思います。政治家は誰か「悪者(今回は電力会社)」を槍玉に挙げて、「コイツが悪いんです」と責任を負う側ではなく責任を問う側に回れば済む話だとしても、国民はそうも行かないのですから。

 それにしても「民間企業の自己責任でやってください。我々は事実上、止めるためのさまざまな工夫を進める」とは酷い発言です。こんなことを言える人間を党として公認してきた民主党の責任だって十分に問われてしかるべきではないでしょうか。私だったら田中法相なんて相手にせず、枝野の更迭を要求しますね。だいたい「自己責任」と言うからには電力会社側の決定をも尊重しなければならないはず、しかるに「我々は事実上、止めるためのさまざまな工夫を進める」と、事実上の脅迫をかけるわけです。ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッ――――ッ!!

 原発の新増設を止めるのなら、それもまた国策として、政府の責任の下で行われなければなりません。結果として深刻な電力不足や化石燃料の調達競争の激化を招いたなら、当然のこととして政府は責任を負わねばならないでしょう。しかし枝野は「民間企業の自己責任」と言い放つ、その「民間企業」たる電力会社に供給義務を化したままで、です。これは官僚の場合も同様と言えますが、政府がどれほど無策でも電力会社は最低限の仕事を果たす、その結果として我々の社会が維持されているわけです。そして官僚や電力会社に甘えて有権者に向けたパフォーマンスばかりを優先してきたのが近年の政治であり、この象徴が枝野と言えます。政府与党がどれほど好き放題に振る舞っても、電力会社は安定供給の維持のために奮闘することでしょう。だからといって政府が責任を丸投げして人気取りに走るのはどうなのか、そこは有権者の見識が問われるところです。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

働く人の取り分を減らす取り組み

2012-10-19 23:07:17 | 雇用・経済

「高給」現業職員ゼロ目指し、検討始めた政令市(読売新聞)

 福岡市は、警備員や学校用務員といった現業職員約950人について、今後は退職者が出た後の補充を行わず、段階的に民間委託を進め将来的にゼロを目指す方向で検討に入った。

 2013~16年度の4年間で約850億円の財源不足が見込まれる厳しい財政下で、民間の2倍前後の給与を払い続けるのは市民の理解が得られないと判断した。現業削減は全国的な流れだが、ゼロを打ち出すのは異例。ただ組合側の反発も予想され、曲折もあり得る。

 現業職員の内訳(5月現在)は、調理業務員332人、学校用務員250人、清掃職員111人、自動車運転手80人、船舶職員33人、警備員31人――など。年齢構成は20~30歳代が約3割、40~50歳代が約6割、60歳代が約1割となっている。

 市によると、昨年4月現在の現業職員の平均月給は約38万7000円で、人件費の年間総額は約56億円。民間の類似職種と比べると、警備員が約47万8000円で民間の2・48倍、用務員が約39万2000円で1・87倍などとなっており、市議会でも削減の必要性がたびたび指摘されてきた。

 

 大阪の橋下に限らず、公務員の中でも現業職を狙い撃ちにした人件費削減は全国的に見られる現象です。人件費即ち働く人の給料を下げようという取り組みは有権者の強い支持の元に幅広く推進されているわけで、さながら日本は所得半減計画の真っ最中と言ったところでしょうか。ともあれ橋下のような全国へ向けての派手なアピールこそないものの、福岡市は民間委託を進めることで、将来的に現業ゼロを目指すと伝えられています。

 今さらながらのことですが、一般に「公務員の給与が民間のそれに比べて高い」と言われる場合、「非現業の正規職員の平均」と「パートタイムなど非正規を含めた民間企業全体の平均」がベースになっていることが一般的です。もちろん事業規模、構成員の学歴や年齢、勤務年数、雇用形態や勤務時間などの条件が異なるものを並べても意味がないことは言うまでもありません。しかるに「非現業(≒ホワイトカラー)」の公務員は「同じ条件の下で」民間企業と同等の水準に給与が固定されている一方、現業職となると明らかに公務員の方が給与が高い、これは諸々の誇張を差し引いても確かなことです。

 報道によれば警備員が約47万8000円で民間の2・48倍、用務員が約39万2000円で1・87倍とのこと、勤務年数や雇用形態等の条件を揃えているかは大いに疑わしいところですけれど、疑いようもなく官民の給与格差は存在します。では、適正な給与を払っているのは官民のどちらなのでしょうか? 人件費は少なければ少ないほど良いとばかりに、日本で働く人の取り分を減らすための政策に何の疑いも持たない人々からすれば、正しいのは民間の現業職の給与水準の方なのかも知れません。有権者の支持を得て当選した人々が下そうとする結論もまた、その線に沿ったものなのですから。

 逆算すると、警備員なり用務員なりの現業職の民間での給与は20万程度ということになります。若い間の一時的な給与としては問題ありませんが、将来的にも同等の給与水準となると「家族を養えない&老後の蓄えが作れない&消費に回すお金がない」わけです。人件費削減のためなら少子化が進んでもいい、高齢化した元・現業職が生活保護に頼るようになっても構わない、消費が低迷して景気悪化に拍車がかかっても気にしない、というのなら現業公務員から民間への委託というのもありと言えますが、その辺の長期的なビジョンがあるかどうかは大いに疑わしいところです。

 現業職と非現業職、ブルーカラーとホワイトカラー、現場作業員と本社勤めで給与に大きな差があるとして、これをあるべき姿と考えるのか、それとも是正されるべきものと考えるのか、全国の自治体の取り組みから察するに、どうも日本では前者が正しいものとしてコンセンサスができあがっているように思います。つまり、現業の人間が薄給で使い捨てにされることは正しい、現業の人間に非現業の人間と同等の賃金を支給している役所のやり方は間違っている、そう判断されているわけです。

 原発周りでは現場作業員の取り分が少ないと大騒ぎする人もいたものですけれど、果たしてその内の何割が、この現業職の人件費をカットしようという全国的な傾向に反対の声を上げているものか、大いに首を傾げます。現業の給与が非現業と同等なのはおかしい、是正されるべきだというのなら、原発作業員の給与水準とは「是正済」の姿のはずです。電力会社のやることなら何でも非難の対象である一方、同じことを各地の自治体や人気者の首長が行ったときは全く反対の意見を表明する、そういう人が多数派を占めているのが実情ではないでしょうかね。

 公務員の警備員は平均で約47万8000円の給与だそうで、まぁ深夜や休日などイレギュラーな時間帯の勤務に対してしかるべく手当を支給していけば、自然と結構な給与になるものです。そうならないとしたら、基本給がそれ単独では生活できないレベルにまで抑えられているか、時間外手当をごまかされているかのどちらかですね。いずれにせよ、日本の労働環境を悪化させるのが目的でなければ、そういう自治体に対して「公」が契約を結ぶべきではないと思いますが、人件費削減こそ正義、働く人を貧しくしている雇用主こそ我々の社会では民意の体現者なのでしょう。所得半減計画は順調に進行中です。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(/-_-\)どうして経済系の論者はこんなに

2012-10-17 22:57:57 | 雇用・経済

お上主導で祝日だらけ 効率の悪い日本の“休み方”

日本は休みが多いと言われても、実感がわかない人がほとんどだろう。
実は祝日のような「一斉休み」の多さが、逆に長期休暇の取得を妨げている。
個人の判断で、休むときは大いに休み、働く時は大いに働く。
そんな生産性を上げる効率的な働き方を追求する時代が来ている。

(中略)

 実は、休みとなる祝祭日の数も日本が抜きん出て多い。英国は8日、ドイツ、フランス、米国は10日だが、日本の祝日は15日ある。しかも正月は休日である元日だけでなく、2、3日を加えた三が日を慣例的に休む会社が多い。一斉休業日が日本は多いのである。

(中略)

 なぜか。日本では“お上主導”の労働時間短縮だったため、週休2日の導入や祝日の増加といった「一斉休業日」を増やすことに力点が置かれてきた。国民の祝日には「海の日」や「みどりの日」が加わり、さらに増やすべきだ、という議論もある。
 
 この「一斉休業」重視が、長期休暇の実現を阻害しているのだ。日本人の横並び意識も指摘されるが、「休みは全員一斉が当たり前」ということになると、他の人が働いている時にひとりだけ有給休暇を取ることは精神的に難しい。日本は欧米諸国に比べて有給休暇の取得率が極端に低いと言われる。

(中略)

 小売業も年中無休が当たり前になって、交代制でシフトを組み、休みを取るケースが増えている。市役所なども土曜日に開庁する自治体が増えている。全国民が一斉に休む日、というのはもはや幻想かもしれない。

 

 とかく経済系の記事というものはツッコミどころが多すぎて逆に迷うものが多いのですが、これなどはいかがなものでしょうか。まず第一に「祝祭日の数も日本が抜きん出て多い」と語られています。祝祭日の数「も」って何なのでしょうね。祝日の数以外の何が「抜きん出て多い」のか、引用元の全文を読んでも、それを指すものがはっきりしません。なにはともあれ日本より祝日の少ない国がピックアップされているわけですけれど、祝日+有給休暇「付与日数」を合算して「休みが多い」と強弁されても、ちょっと無理があります。元より祝日+有給休暇「付与日数」の合計自体が日本は少なめですし、ピックアップされた国の中で日本の有給取得率はダントツの最下位なのですから。

 厚労省の調査によると、80年代から90年代にかけて有給取得率は50~56%程度を推移していた一方、21世紀に入ると一貫して50%未満に収まり続けるなど、有給取得率は緩やかに低下を続けています。そしてパートタイマーなど非正規雇用の飛躍的な増大により、被雇用者の労働時間の算術平均値は大きく下がりました。これで「労働時間短縮が進んだ」と言い繕う人も多いのですが、実際のところはどうなのでしょう。元から長時間労働の人は引き続き長時間労働、かつては会社勤めではなかった人々がパートや派遣などの非正規で働くようになった、そうした人の労働時間全てを平均してしまえば時短が進んだように見えるのかも知れませんけれど……

 引用元の著者が強調するのは、「お上主導」の休日が多いということです。では「お上主導」の何がダメなのか、著者によるとそれが「一斉休業」に繋がっているから長期休暇の実現を阻害しているそうです。へー。しかしどうなんでしょう、日本の場合は「日」という単位では一斉休業が多いとしても、「時間」という面では逆に見えます。つまり、ヨーロッパでは規制が厳しくて深夜営業が少なく、夕方以降は「お上主導」で一斉休業状態、しかし日本は規制が緩いので24時間化が進むばかり、昨今では節電のためのシフト操業として工場の夜間操業にも一段と拍車がかかっているわけです。夕方以降は一斉に休むのはOKで、祝日に一斉に休むのはNGというのでは、何だか訳が分かりませんね。

参考、ベールをはがせ

 「お上主導」のいいところは、個人の責任を問われにくいところです。例えば近年のヨーロッパでは公共の場でのブルカを禁止する国が増えています。この禁止規定が成立する過程にはイスラム文化排斥など悪意ある動機が全くないとは言えない一方、ブルカを脱ぎたかったムスリム女性には朗報でもあるでしょう。別に自分の意思でブルカを脱いでも良いのですが、そうしてしまうと自身の出自であるムスリム・コミュニティから咎められる恐れもあります(「イスラムの習俗に従わない売女め!」云々と)。むしろ法律による禁止の方が言い訳ができる、「自分の意志でブルカを脱いだのではなく、法律に従っただけ」と逃げ道があった方が良いでしょう。

 休日の場合も然り、現状の有給休暇という「個人の意思」で申請する休暇と、政府が定める祝祭日という個人の意思の介在しない休暇、後者には融通の利かない面もあるにせよ、現代の日本社会に適しているのはどちらなのかは考えられるべきです。有給取得率が半分にすら届かない日本において祝祭日を減らして有給に置き換えた結果はどうなるのか? 単に「取得されない休暇」が増えるばかり、即ち休日は減るばかりで、にも関わらず有休を取得しないのは個人の自由と言うことで素知らぬ顔をして済ませようというのが、冒頭に引用した類の記事を書くような人の思惑なのかも知れません。

 交代制でシフトを組み、休みを取るケースとして小売業が挙げられています。では小売業の現実はどうなのでしょう。そもそも祝日があれば休日が増えるかと言えば必ずしもそうではありません。祝日のある週は土曜日出勤と定められているなど、「完全週休2日制」を唄いつつも要するに「週に2日までしか休ませない」会社も珍しくないわけです。小売りや飲食などシフト勤務の世界は尚更で、祝日の多寡に関わらず「休日は月に8日」などと決められている求人も多く、他業種以上に「休みにくい」環境が作られていると言えます。

 厚労相の2009年調査では、 全業種平均の有給取得率47.4%に対して「宿泊業・飲食サービス業」が29.4%、「卸売業・小売業」が34.3%、「医療、福祉」が36.3%とワーストを争っています。いずれも、祝祭日だからといって一斉に休むわけには行かない業種ですね。少なくとも日本では、シフト勤務の業界ほど有給取得率が有意に下がっていることが分かります。有給休暇を付与されても、その権利を行使しない/できない、これを「個人の判断」で済ませて良いものなのか。あくまで「個人の判断」であって「お上」が関与すべき問題ではないと考えるのなら、まぁ経済誌の中では識者として振る舞えることでしょうね。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

むしろ分別と言える

2012-10-15 23:00:24 | 社会

大江さん「内閣、世論を侮辱」 日比谷公園で脱原発集会(朝日新聞)

 脱原発を掲げる市民集会「さようなら原発集会」が13日、東京・日比谷公園であり、約6500人(主催者発表)が集まった。大間原発(青森県大間町)の建設が1日に再開されたことへの反対表明が狙い。

 呼びかけ人の一人、作家の大江健三郎さん(77)は「内閣も、次を担おうとしている政党も、明らかに原発を続けていこうとする人たち。世論に対する侮辱だ」と訴え、「そこになかった道を作っていくことが反原発の行進であって、それが私たちの希望を作ることになる」と脱原発へ向けた粘り強い活動を呼びかけた。

 高橋哲哉・東京大学教授は「今こそ経済よりも命と尊厳を優先する国に変えていかなければいけない」と力を込めた。

 

 中国での反日デモと同じくカジュアル化の傾向が指摘されると同時に、その辺を高く評価する向きもある反原発系の運動ですけれど、これまた反日デモよろしくメディアの注目も着々と低下している感じでしょうか。例えば参加人数など、かつては外部からカウントした数字なども併記されていたものですが、今はもう主催者発表をそのまま垂れ流しているだけです。報道する側の、やる気のなさが伝わりますね。ニュースとしては「賞味期限切れ」の扱いなのかも知れません。

 呼びかけ人の大江健三郎曰く「内閣も、次を担おうとしている政党も、明らかに原発を続けていこうとする人たち」なのだそうです。それはお前の被害妄想じゃないのか?と思わないでもありません。「次」の最有力候補である自民がどう転ぶかはさておき、少なくとも現政権は再稼働に関する判断を行わない云々と明言してきたわけで、要するに責任を電力会社に丸投げしているだけ、どういう結果になろうと電力会社のせいにしてしまおうという姿勢こそはっきりしているものの、原発を続けようとする姿勢が明らかかと言えば、それは違うでしょう。むしろ判断を放棄することで世間の非難から逃れようとしているのですから。

参考、政府は責任を負いません、と枝野は語る

 これに続けて大江健三郎は「世論に対する侮辱だ」とも語ります。世論に阿るという点では、日本の政治は世界の最高水準にあると私は思いますけれど、ただそれが正しいことであるかは微妙なところです。果たして大江にとって、世論はいつだって絶対のものなのでしょうか。世論が死刑制度の続行を望み、世論が雇用破壊と賃金引き下げを望み、世論が周辺国との衝突を望んだとき、政府がそれを無視するのも大江の論理では「世論に対する侮辱だ」と言うことになります。それは愚劣なことですし、あるいは自分の説に都合が良いときだけ世論を引き合いに出し、不都合なときは世論を無視するというのなら、それは卑劣なことです。

 高橋哲哉の発言は大江健三郎以上にアホらしい、私が雇用主であれば能力不足を理由に解雇を検討するレベルです。曰く「経済よりも命と尊厳を優先する国に変えていかなければ」と、これで大学の教授職だというのですから恐れ入ります。いったい何を根拠に、今の日本が経済を優先していると言えるのやら。経済的な豊かさを追求するばかりで精神的な豊かさが蔑ろにされてきた云々は保守系の論客にも好まれる語りですが、まずその固定観念を疑うところから始める必要があるように思います。本当に日本は経済を優先、追求してきたのか、少なくともこの十数年来、日本で働く人は一貫して貧しくなり続けてきたという現実に目を向けるべきです。

参考、本当に日本は経済成長を追ってきたのだろうか?

 どうにも私には日本が経済を優先してきたとは思えない、むしろ構造改革なり政治主導なり諸々の「理想」のために経済を犠牲にしてきたように見えてなりません。労働者から企業への所得移転を進めること、経済格差を広げることを「経済」と呼ぶなら確かに日本は経済優先と言えますが、流石にそれは違うと考えたいです。そして高橋哲哉に限らず、しばしば「経済」は「心」なり「命」なりと背反するものとして語られますけれど、これが正しいなら日本人が貧しくなり続けたこの十数年来は精神的に豊かになった時代でなければならない、命と尊厳を優先する国とやらに変わっていなければならないはずです。しかし現実はいかばかりでしょう?

 確かに経済を慮るなら原発を使い続ける、もう少し増やすという判断が合理的とは言えます。しかし、反対に原発を止める、新設を止めることで「命と尊厳を優先する国」へ向かうかといえば、それは明らかに違うわけです。高橋哲哉の脳内ではいざ知らず、そこには何の必然性もありません。むしろ脱原発によってこそ脅かされる命や尊厳の方が多いとすら言えるのではないでしょうか。経済的な困窮によって命や尊厳を奪われる人は元より、電力不足によって生活を脅かされる人もいれば、節電のための操業シフトに巻き込まれて深夜や休日労働を強いられる人もいる、火力発電をフル稼働させることで二酸化炭素排出量も増えれば世界の化石燃料争奪戦に拍車をかけることにもなる、脱原発がもたらす負の影響は深刻です。

 結局のところ大江健三郎や高橋哲哉は自分の頭の中のユートピアに思いを馳せているだけで、脱原発が何を傷つけているのか、そこから目を背けていると言えます。「私たちの希望を作ることになる」と大江は語りますが、その「私たち」に含まれるのは大江と信仰を同じくする人だけでしょう。そして高橋哲哉のように原発=経済/脱原発=命という、なんら必然性もなければ現実に符合するでもない稚拙な二項対立を、あたかも自明の真理のごとくに考えている人も少なくなさそうですけれど、これもまた高橋と信仰を同じくする人の頭の中でしか成り立たない脳内設定でしかないのです。信じるものを共有している人同士では話が通じるのかも知れませんが、「外」の世界では何の意味もない、耳を傾ける必要性がないと言い切れる代物です。どんなに信者が真剣になったところでハルマゲドンは訪れません。それを無視したところで侮辱でも何でもないでしょう。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社畜になるよりは健全

2012-10-13 23:01:48 | 社会

睡眠2時間、百万円使う…重症ネットゲーム依存(読売新聞)

 若者を中心に“オンラインゲーム依存症”が深刻化している。

 「どうしてもゲームをやめられない」「高額の金を使ってしまう」などと病院に相談する件数は急増。ネット依存の専門外来を設ける病院も現れた。

(中略)

 ゲームは原則無料だが、100~1000円の有料アイテムを使えば、キャラクターの体力や攻撃力を高めることができる。ゲームで知り合った「仲間」から、「強いね」とほめられると心地よかった。

 高校に入ると、アルバイト代など毎月8万円前後をつぎ込み始めた。お年玉の10万円は10日間で消えた。5万円の督促状が自宅に郵送され、親に発覚した時には、既に100万円以上を投じていた。寝不足で遅刻を繰り返すようになり、体重も数キロ減っていた。

 家族に連れられて民間団体のカウンセリングを受けたのは高校2年の冬。一時的にゲームから離れたが、今春、専門学校に入学すると再び別のゲームにはまってしまった。「もう限界。このまま死んじゃうんじゃないか」と不安を口にする専門学校生だが、やめられない。「将来に希望がもてない。でも、ゲームの中では着実にキャラクターが成長していき、現実社会にはない達成感がある」と話す。

 

 似たような話を目にする機会も決して珍しくはありませんけれど、深刻さの度合いとしてはどれほどのものなのでしょうね。一般的なケースではなく選りすぐりの事例として出てきたのが「100万円以上」というのなら、まぁ大人しい方ではないかとも思います。車やオーディオなど、もっとお金のかかる趣味も多いですから。ましてや接客業のおネエさんやおニイちゃんにはまりこむとなるや、時には数千万円単位の横領事件に繋がったりするなど規模は飛躍的に拡大しますし、これが投資やギャンブルともなれば経理上の誤魔化しを駆使して会社の金を秘密裏に注ぎ込み、挙げ句の果てには無辜の従業員をも危機的状況に追い込む場合だって出てきます。その辺を鑑みれば、ゲーム依存は可愛い方だな、と。

 まぁ、伝統というか普及度合いというのは大事だな、といつもながらに痛感させられます。モチよりも蒟蒻ゼリーが規制されるのと同じで、より新しいもの、馴染みのないものにこそ我々の社会は警戒感を持つわけです。食中毒は甘く見られる一方で放射性物質に関しては、およそ日常生活を困難にさせるレベルで気にする人もいる、アルコールやニコチンより毒性や依存性は弱くともドラッグに分類される限りは大騒ぎされる、そういうものなのでしょう。そしてゲームはまさに典型と言えます。例えば囲碁や将棋、あるいは野球にサッカーなど一定の社会的ステータスのある趣味であれば、それこそ学校生活に支障が出るレベルではまり込むことがあろうと世間は理解があるかも知れませんけれど、「ゲーム」は別なのです。

 「ゲームの中では着実にキャラクターが成長していき、現実社会にはない達成感がある」と取材を受けた人は語っています。この辺は、過去の記事で私も触れてきたところで繰り返しになってしまいますが、ともあれ現実社会よりもゲーム内の方が努力が報われる世界になっていて、それがモチベーションを高めることにもなっているわけです。ゲームの世界の中に入って、ずっとそこから出て行きたくないって思う人は割といるんじゃないでしょうかね。まぁ、私の場合は「他のゲームもやりたいから」という理由から、一つのゲームにはまり込むことは割と少なかったりしますが。

 ニンジンの質が悪くなっている、と言えるでしょうか。現実の日本社会における「ニンジン」がゲームなどの仮想世界のニンジンに劣るからこそ、現実社会でのやる気を失い、ゲームの方により強い魅力を感じる人も増えるわけです。これはゲーム以外でも同じ、例えば大学生が勉強しない云々と言われて久しいですけれど、では大学生にとって勉強する動機となるニンジンは存在するのでしょうか? 日本の大学は「入るのが難しい」と言われます。そして昨今こそ沈静化傾向にあるものの、一昔前は過酷な受験戦争云々と盛んに言われたもの、概ね日本の受験生はしっかり勉強しているように思います。それは何故でしょうか?

 名の知れた大学への入学というニンジンがあればこそ、受験生は勉学にも励むわけです。ところが大学に入ってから先はと言えば、大学の成績なんてそれこそケツを拭く紙にすらならないのが近年の日本です。大学の成績を問われるよりも、むしろ血液型を問われる機会の方が多いくらいでしょう。大学で勉強することで知的好奇心は満たされるかも知れませんが、それだけの話です。昨今の就活生が就職にかける並々ならぬ熱意には驚嘆させられるところも少なくありませんけれど、この情熱を誘導するニンジンはどこにあるのか。大学で優秀な成績を収めれば就職で有利になるような社会であれば、就活生は必死で勉強します。でも、勉強しても就職できない社会であれば、学生はより就職に当たって求められる別の何かのために力を注ぐのです。

 あるいは、過去には就職活動を有利にしてくれるものであったとしても、それが競争の中で陳腐化してしまう場合も少なくありません。資格の類は特にそうで、頑張って資格を取得しても、周りの人間も続々と資格を取得することで「持っているのが当たり前」レベルにまで資格の価値が暴落してしまうことは珍しくないわけです。こうなると資格取得へのニンジンも失われてしまう、そのために努力することに希望が持てない人も増えるばかりです。そして念願叶って就職しても、やはりニンジンの質の悪さは変わりません。必死で働けば将来が保証されるかと言えばさにあらず、いずれは無能な中高年だのノンワーキングリッチだの既得権益だのとそしられ、若者の雇用機会のためと称して会社から追い出される日が待っています。このような状況下でモチベーションを失った人をカウンセリングにかけたりするのが我々の社会なのですが、もうちょっと他に直すべき点はあることでしょう。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠いところから得た知識

2012-10-11 23:02:11 | 社会

 福島で実際に原発事故が起こるまで、原発事故が起こったらもっと大変なことになると思っていました。今回の程度でも十分に大変だよと言う人はいるかも知れませんが、少なくともチェルノブイリの場合に比して影響は桁違いに少なくて済んだわけですし、そして「私が事故前に想像していたより」もまた、直接的な被害は小さいものでした。事故前に私の頭の中にあった漠然とした原発事故のイメージと現実のそれがかけ離れていて、今は本当に良かったと思います。恐れていたことが現実のものにならなくて、本当に良かった!

 事故後はともかく事故「前」の、自分の頭の中の原発/放射線のイメージはどこから来ていたのでしょうか。原発事故発生直後の早い段階から、事故の影響範囲をほぼ狂いなく推定できていた人もまたいたわけです。それは別に機密情報でも何でもない、公開された情報からでも十分に知ることはできたはずです。もちろん、私は原発や放射線関連技術とは全く無関係な分野の人間ではあります。しかし、ただ「知らない」だけではなく、原発(事故)に関する誤ったイメージを持っていたことも事実です。現実とはかけ離れた原発や放射線のイメージを、私はどこから仕入れていたのでしょう?

 ほとんどの人にとってもそうだと思われますが、事故前に原発や放射線の「現実」を注視する機会など滅多になかった、その必要性に迫られることもなかったわけです。そして元・文学青年でゲーマーのオッサンである私が原発(及び核関連技術)や放射線云々に接する機会があるとしたら、専らSF小説やSF映画、各種ゲームの中でした。だから自然と、SF世界の――つまりはフィクションの――原発/放射線像が頭の中に擦り込まれていたと言えます。そしてSF的なイメージでは、事故が起こったらもっと大変なことになると危惧していたものです。総じてSF作家とか映画監督、ゲーム制作者とかは、用途の如何に関わらず原子力技術の類を好きではないのでしょう。

 フィクションなどの作られたイメージを通して、現実を錯覚してしまうパターンって割と多いのかも知れません。上述の放射線関係もそうですし、経済然り、国防然りです。例えば日本で働く人の給与所得の平均が一貫して下がり続ける中、役員報酬は反比例するかのごとく上昇を続けてきました。これに反発する人もいれば、意にかけない人もいるわけですが、逆に高額の役員報酬を強く肯定する人もまた少なくありません。日本の役員報酬は少ない、もっと支払われて良いのだ云々と。

 ところが高額の役員報酬に理解を示す人ほど、その同じ口で人件費、とりわけ正社員なかでも中高年層の給与には「高すぎる!」と叫んでいたりするものです。役員以上の経営層は報酬に見合った以上の働きをしているのだと居丈高に説く一方で、中高年正社員は「働いていない」「無能」とレッテルを貼っては追い出そうと躍起になっていたりします。一見すると矛盾した話ですけれど、ダイヤモンドなどの自称経済誌のフィクションにはまり込んでいると、そういう世界観が身につくものなのでしょう。経済誌で描かれる、会社を守ろうと奔走する経営者のイメージと、会社を食いつぶす中高年正社員のイメージ、これをそのまま現実に投影してしまう人もいるわけです。

 役員の仕事ぶりには理解を示してみせる、そうやって自分は経済を心得ている風を装うのと裏腹に、もっと身近なはずの中間管理職の働きには全く理解がない、そんな人が例によってネット上では非常に多いです。経営者の仕事は「分かったフリ」をして擁護するけれど、中間管理職や中高年の仕事は経済誌の受け売りで一方的にダメ出しするばかり(ただし陰から!)、何とも良いお笑いです。お笑いですが――それに媚びるのが近年の政治でもあります。

 そして政治もまた、完全なフィクションとは言いませんが、身近な現実よりも遠くで作られたイメージによって左右されがちであるように思います。やはりネット上で顕著ですけれど、国家レベルの政治を偉そうに語る人ほど、地元の政治を知っているかは疑わしいのではないでしょうか。世論調査では民主と自民の連立政権を望む人が割と多くて、実は自治体レベルでは民主と自民が手を組むのは当たり前、相乗りで当選した首長を民主党系の会派と自民党系の会派が手を携えて支えているなんてのも、よくあることです。その民主党と自民党が連立与党で自治体に住みながら、自民党(あるいは民主党)の対抗馬として民主党(自民党)を推したりする人って、どういう神経をしているんだろうなと。

 ともあれ大新聞で伝えられる国政の話には関心が強くととも、自分の自治体の小さな動きには、さして関心がない人も多いような気がします。そりゃ国政は誰にとっても重要ですが、自分の身の周りの政治はどうなのやら。メディアを通して情報を得る機会が増え続ける現代において、むしろメディアを介さないところから得られる地に足の付いた知見の重要性が増しているのではないか、そう思います。しかし我が国の有権者が自ら選択するのは……

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする