非国民通信

ノーモア・コイズミ

日本的人事の行き着く先

2015-01-31 23:10:21 | 雇用・経済

「追い出し部屋」はもう古い! リストラの最新手法(PRESIDENT Online)

一方、ここ数年で明らかになったのが、業績不振の電機大手が社内に設けた「追い出し部屋」の存在だ。指名を受けた人が「事業・人材強化センター」や「キャリアデザイン室」といった部署に集められる。そこで担う業務はさまざまだ。

たとえばTOEIC800点超の40代管理職が、書類をPDFに変換する単純作業を続けた例がある。当初の人事評価ではB2(中の上)だった本人が、それに見合う仕事を与えてほしいと訴えると「CIC(キャリアインキュベーションセンター)」という部署(これが「追い出し部屋」)に配転となり、求められたのは「新たな仕事を会社の内外に探すこと」だった。

1年が経過すると「成果が出ていない」(再就職先が見つからない)として評価はDランクまで落ち、賃金が年間60万円ほど下がった。

実態は退職強要だが、建て前上はそうなっていない。「人事権や配転命令権に基づいて異動させ、『仕事を探す』という業務命令をし、その達成度合いで評価して社内規程や就業規則に基づき賃金ダウンを決めるという、一見合法的な手法をとるからです」(鈴木氏)。

どんな人が、追い出し部屋へ追いやられたか。「まずは45~55歳の中高年。声高に主張する人よりもおとなしいタイプを選び、当人の能力や実績からも、人事部が間違って選んだとしか思えないケースもある」。

指名された中には、社内外で表彰を受けて社屋に金色プレートで名前を飾られたエース級の人もいた。この人たちは子会社の物流倉庫に出向し、20~30kgはあるモニターの箱詰めや製品の仕分けなどを命じられた。「それでも目標は配転前と同じ『市場・顧客の動向・ニーズの把握、革新的な企画立案』(苦笑)。倉庫内作業では実現できないことばかり」(鈴木氏)。

 

 最近は企業自前の追い出し部屋に変わって、退職強要を請け負う人材会社が介在することも増えてきたとのことで「~もう古い」みたいな見出しになったようです。ただまぁ、まぁ実際にやられることに大きな差はなさそうですね。会社の根幹に関わるような業務ですら外注や非正規任せが当たり前、人に払うコストの最小化を追求する日本的経営においては、功績ある従業員の追い出しもまた外部の人材会社に委託されてしまうものなのでしょう。

 さて昔から企業の標的にされるのは引用元でも伝えられているように専ら中高年、東洋経済などに代表される歴史修正主義的な自称経済誌に言わせれば逃げ切った云々みたいな印象操作をされることも多い世代ですけれど、その実は狙い撃ちにされてきた世代でもあります。こういう露骨な年齢による差別は、アメリカであれば訴訟に発展して当然のように企業側が負けて高額な賠償請求に至ることが多いだけに企業側も厭うものと聞きますが、差別的な理由による解雇に制限のない日本ではなかなか歯止めがかかりません。

 追い出し部屋に送られた人の中には「社内外で表彰を受けて社屋に金色プレートで名前を飾られたエース級の人も」とのこと、まぁ過去の功績など省みず次々と新しい人に入れ替えていくことに美学を持っている経営者は多いものと思われます。既存の人材をいかに活かすかを考える頭のない、隣の芝が青く見えているだけの人間も多いのでしょう。スポーツ界でも自前の逸材を放出してはヨソからの選手獲得にばかり力を入れ、その割りに順位の低迷しているチームも多いですが、世界経済の成長から取り残される日本の企業とは、そういうものなのだと言うほかありません。

 あるいは「たとえばTOEIC800点超の40代管理職が、書類をPDFに変換する単純作業を続けた例がある」だそうです。昨今は従業員に高度な英語力を求める企業も増加の一途にあるわけですが、しかるに元から社内にいる「英語力の高い人」を最大限に活用しているかと言えば、むしろ社員の能力を腐らせているばかりの会社も多いのではないでしょうか。英語に強い人を英語力の求められる部門に――そういう人事は、行われないことがわかります。いつでも誰でもどこへでも異動させられるように、社員には全員に英語力を求めるけれど、その英語力を活かせるポジションは多くない、英語力があるからと言って適切なポジションを宛がわれるとは限らない、そんな日本的人事の特性を如実に表わしている一例ですね。

 

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世に出る能力

2015-01-28 22:44:45 | 社会

 2014年の日本の顔の一人としては元・理研の小保方晴子氏が挙げられるでしょうか。結局のところSTAP細胞は再現されることがなく諸々の不正疑惑も相次いで退職という結末になりましたが、そこに至るまでの彼女の輝かしいキャリアを思うに、つくづく日本はアピール社会なのだなと、私などは感じるところだったりします。小保方氏とは違って誤魔化しにもハッタリにも頼らず真面目に研究している人は他にいくらでもいるはず、そうした人の多くは研究者としての職を得られず行き場を失っていたりもするわけです。ところが学生時代の博士論文にまで不正が見つかるなど学者としてどうなのかと思われる小保方氏は、若くして理研のユニットリーダーという地位を得ていました。研究者としての資質と地位を得るための能力は全く別のものだということが、よくわかります。

 実際のところ小保方氏が理研ではなく普通の民間企業に勤めていたら、間違いなく昇進を重ねていたことでしょう。彼女の開発した商品が消費者庁からダメ出しを受けることはあるかも知れませんが、そんなものは委細構わず科学的な根拠の疑わしいグッズを次々と売り込んでいくのが日本の一流企業というものでもあります。その中核に携わり、安倍内閣も掲げる「女性の活躍」を象徴する人物として小保方氏が脚光を浴びるようなこともあったのではないでしょうか。何しろ科学者としては問題のある人物でも、理研という研究者の集まりの中で他の人を差し置いて出世した人です。民間企業で活躍できないはずがありません。

 例えば政治力、という言葉が示すものも一つではありません。行政面で手腕を発揮するのも政治力ならば、政界において権力を掌握するのもまた政治力です。そして天は二物を何とやら、この両方の政治力に秀でた人にはなかなかお目にかかれません。アメリカのオバマ大統領など実績を見ると意外に健闘していますが支持を失っている辺り、前者には強いが後者は不足、逆に北の将軍様は国家はボロボロでも確固たる世襲体制を堅持しているなど、前者はともかく後者の政治力には優れていると言えますね。まぁ総じて権力に近いのは後者の方、日本が例外であろうはずもなく、政策面では弱くとも「当選する力」に長けた人ばかりが議席を手にするわけです。

 「出世する力」あるいは「昇進力」とでも言うべきでしょうか、年功序列という都市伝説を尻目に同期を差し置いて管理職や役員へと階段を駆け上っていく人もいます。ヒラのままでいる人と順調に昇進を重ねる人との違いはどこにあるのでしょうね。会社の幹部があまりにも実態を理解していないことに驚かされることは珍しいことではありません。よくもこんな馬鹿な人が会社には入れたなぁと感心することも頻繁にあります。反対に仕事のできる人が低い地位に押し止められていたりもするわけで、会社で出世する能力と業務を遂行するための能力は全くの別物なのだと痛感させられるばかりです。

 だからといって会社の偉い人が無能かと言えばそうも言い切れません。実際のところ自分の勤務先は業績の悪化が著しく、それは事業計画を立てる人間の愚かさ――非現実的な思いつきを連発しては、部下に「やります」「できます」としか言わせてこなかった結果――が招いたことなのですけれど、それでも我らが部門長の地位は微塵も揺らいでいなかったりします。もし自分が同じ立場だったなら、きっと責任を問われてとっくに失脚していたことでしょう。あれだけ業績を悪化させておきながら自分の責任問題には決して発展させない消火能力、下からの不満の声を封じ込める恫喝力は、とうてい私ごときの及ぶところではありません。

 そして政治の世界でもまた、実績を見れば悲惨なものでしかないのに己の支持率だけは高水準をキープしている、そういう政治力に長けた人もまた多い、政策面では愚劣でも自身の地位を守る能力という面では極めて優秀な人もいるわけです。会社の業績は落としても自身の評価は落とさない、そんなプロ経営者と呼ばれる人々も引く手数多だったりします。理研の小保方氏だって同様、小保方氏よりも研究者としての資質で上回る人は多いかも知れませんが、しかし「出世する力」で小保方氏を上回る人は決して多くないはずです。ある側面において彼女は非常に優秀でした。ただまぁ、当選する力、昇進する力、そういう能力にばかり秀でた人が権限を手にする社会の発展性はいかほどのものなのか、日本の直近の20年ばかりを振り返ると、何かが間違っている気はしますね。

 

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トップの思いつきを叶えてやるのが部下の仕事ではありますが

2015-01-25 22:56:43 | 政治

 最近は全く遊ぶことがなくなりましたけれど、昔は光栄のシミュレーションゲームをよくやっていたものです。そしてゲームにもよりますが、よく作中に「軍師」が登場して、何かを実行しようとする都度に成否を予測してくれたりします。能力によって予測の精度は異なるものの作中で「知力」が最高値の諸葛亮なんかは、100%正しく作戦の成否を教えてくれるわけです。能力の高い「軍師」がいれば何をやるにしても実行前に結果が分かるため、成功すると決まっているものだけを実行し、失敗すると分かっているものには手を出さないで済む、一切のムダのない戦略が可能になります。まぁ、時と場合によっては「何をやっても成功しない」状況に遭遇したりもするのですが、そうなったら守りを固めて好機を窺うだけです。

 

橋下市長、都構想で職員に「できないと言うな」(読売新聞)

 橋下徹・大阪市長は22日、2017年4月の実現を目指す大阪都構想の準備作業に関し、市役所で記者団に「個々の職員が『(目標までに)できない』などとメディアに向けて個人の感想を言うことは許されない」と述べ、職員に対して発言を控えるよう「情報統制」する考えを示した。

 都構想は、5月17日に大阪市民による住民投票で成否が決まる見通し。橋下市長は市内部から構想に否定的な意見が出され、住民投票に影響することに神経をとがらせている。

 市は今後、組織再編を想定した準備を始めるが、橋下市長は「市役所を一から作り直すのだから、無理な理由はいくらでも挙げられる。責任も権限もない職員が、あれやこれやと発言するのは組織としてあり得ない」と述べ、今後は自身が説明するとした。橋下市長は20日の幹部会議でも「職員は『できるように努力します』以上の発言はしないように」と求めたという。

 

 何ともツッコミどころが多すぎて、どこに言及したら良いか迷いますね。まぁ、橋下のこういうところは非常に民間企業的と言いますか、上司の思いつきを実現させてあげるのが部下の役目、それが当たり前だと思っている人が自治体の首長になってしまった結果がこれです。「責任も権限もない職員」と橋下の頭の中ではそういうことになっているものの、実際に失敗の責任を背負わされるのは現場の担当者でもあります。橋下は橋下で、失敗の責任をどこかに見つけてさらなる改革を唱えるだけのことでしょう。偉くなる人というのは、責任転嫁の仕方を心得ているものです。

参考、「やればできる」は破滅の合い言葉

 大阪維新村に限らず、普通の民間企業でも「できない」はNGワードみたいなものですよね。上司の思いつきに「できない」と回答すれば怒られるもの、そこは「できます」「やります」「できるように努力します」などの「前向きな」発言で応えるのが常識のある社会人というものです。結果としては失敗も相次ぐわけですけれど、ここでいかに自分の責任ではないとアピールできるか、原因として自分以外をいかに責められるか、そういう手腕に秀でた人が企業の中で生き抜いていくと言えます。橋下も民間企業に勤めていたら年長者を飛び越して取締役会にでも抜擢されていたことでしょう。そして会社は傾けるかも知れませんが、己の地位は守り抜いてみせるはずです。

 確度に差はあれ、予測できる未来もまた多いわけです。何が可能か、何が不可能かを事前に判断できるものは少なくありません。そこで「不可能な」ことを回避しておけば損失を最小限にとどめることができます。失敗しているとわかりきったことに金と時間と労力を費やして多大な混乱を招くよりは、何も消耗させずに済ますのが賢い選択というものですから。「やればできる」と無責任に断言する政治家をヨイショする政党や新聞も多々ありますけれど、その結果として苦しむのは国民でもあります。安易な「できる」「やれる」に乗せられて失敗へと突き進むのか、それとも途中でストップをかけられるのか、どちらが賢明かは考えるまでもないでしょう。

 

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改革のための改革は、いらない

2015-01-22 22:38:34 | 政治

「農協つぶしではない」稲田政調会長説明におひざ元のJA幹部納得せず(福井新聞)

 農協法改正案の成立を目指す自民党の稲田朋美政調会長は17日、自身の選挙区のJA組合長や農業者との意見交換会を、福井県福井市の福井商工会議所ビルで行った。稲田氏は「農協改革は農協つぶしではない」と、あらためて強調した上で「農業者には創意工夫によって地方創生の核になってほしい」と要望した。

 稲田氏が衆院選後、農業者との意見交換を行うのは初めて。会議は非公開で、自民党の斎藤健農林部会長も出席し、7JAの組合長や農業者合わせて33人と意見を交わした。

 会議後に会見した稲田氏によると、稲田氏らは地域農協が創意工夫し、強くなってもらうことが農協改革の目的であることを説明。全国農業協同組合中央会(JA全中)が担っている地域農協への会計監査部門を分離する案については「一般論として会計監査プラス業務監査というのを一緒にやることによって、中央会の指導権というものはつくられている。その強力な指導権が地域農協の創意工夫を阻害することもあるのでは、という問題意識はあると説明した」と述べた。ただ会計監査の分離は今後、党内で議論するとした。

 出席者からは「農協は単に経済だけでなく、地域のための存在であるという視点が必要」「自民党の農政は失敗だった。その反省が先だ。農協改革よりも農業のあるべき姿を議論してほしい」などの意見が出たという。

 また稲田氏は会見で「中央会が果たしてきた役割は認識しつつ、よりよいものに変える改革であるという共通認識は、ある程度できた」と話した。しかし、あるJA組合長は「協同組合は弱者の集まり。農協改革よりも弱者を、いかに救済するかという議論が大事」と、納得できない様子だった。

 

 先日の佐賀県知事選挙では自民党の公認候補が、自民党の一部県議と自民党の支持団体であるはずの農協が推薦する候補に敗れるということがありました。まず自民党の公認した候補の質に問題があったのではないかと思われるフシもある――「無難な」人を立てておけば他に対抗できる政党などないのですから――のですけれど、ともあれ自民党の掲げる農協改革に地元農協が反発、農協サイドの推した候補が勝利したわけです。それでも自民党側は農協改革を訴える構えですが、いかほどのものでしょうか。

 ここで引用したのは福井での事例です。案の定と言いますか、容易く意見の一致は見られないようです。何でも「(農協の)強力な指導権が地域農協の創意工夫を阻害することもあるのでは」云々と稲田朋美は語ったとのこと、むしろ農協よりも強力な「国の指導権」が地域農協の創意工夫を阻害することもあるのではないかと私には思われます。そもそも農協側から「自民党の農政は失敗だった。その反省が先だ。」と語られているわけで、結局のところ今までが自民党の言うようにやってきて上手く行かなかったのに、また新たに自民党の言うように改革しろと介入される、そこに率直に納得できる人がいるかは大いに疑わしいところです。

 確かに「従来の」農協ひいては自民党政治のやり方において日本の農業界は行き詰まりを見せているのかも知れません。これまで通りのやり方を続けていても先細りは避けられないでしょう。そうは言っても何かを変えれば万事解決するかと言えば、それは良い方向に変わることもあれば悪い方向に変わることもあり得る、得てして政界でも普通の民間企業でも「偉い人」は何かを変えることで自らの業績としたがるものですが、その結果として現場で働く人が多大な苦難を強いられるのは、まぁ日本ではよくあることです。

 まず真っ先に整理されねばならないと私が考えるのは、農業を守るのか、それとも農家を守るのか、ということですね。アメリカなりフランスなり先進国であると同時に農業大国である国家もありますが、どちらも人口に占める農業従事者の比率は日本より低いわけです。少数の「強い農家」による大規模生産によって「強い農業」を作る、それもまたモデルではあるでしょう。あるいはオランダのような農産物の輸出大国もありますけれど、これは輸出用の「金になる」農産物への特化を進めた結果であり日本的な食糧自給の夢を追うのとは正反対のスタイルによって成し遂げられています。いずれにせよ、既存の農家には大規模な統廃合が必須となるでしょうか。逆に既存の農家を守るためには、産業としての農業をある程度までは度外視する必要が出てくる、そう単純に「農業が栄えれば農家も栄える」とは行かないように思われます。

 

農協改革、20日から議論=族議員抵抗も―自民(時事通信)

 農協改革をめぐる安倍政権と全国農業協同組合中央会(JA全中)の対立が激化する中、自民党の党内論議が20日から本格化する。政府は4月の統一地方選前の関連法案提出を目指しており、党執行部は2月中に意見集約したい考え。しかし、農水族議員の抵抗が予想され、調整は難航するとみられる。

 

 一方こちらは時事通信による報道ですが、酷いですね。「族議員抵抗も」「農水族議員の抵抗が」云々と、実に単純な善悪二元論の世界に落とし込まれています。時事通信の報道では正しいのは農協改革を進める安倍政権であり、それに反対するのは悪しき族議員ということになっているようです。こういう、改革バカの描き出す単純化された世界観を鵜呑みにした有権者の投票によって、後先を省みない「とにかく変えるだけ」の愚かな改革が進められてしまうのでしょうか。時事通信記者の頭の中では「反対しているのは族議員」であり、それをいかに切り崩すかだけが課題のようですけれど、本当に問われるのはそこではないですから。

 

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J'accuse…!

2015-01-19 23:14:11 | 社会

黙とう中、一部議員が仏国歌…徐々に大合唱へ(読売新聞)

 【パリ=柳沢亨之】フランス連続銃撃テロ事件後初めての開催となった13日の仏国民議会の冒頭、犠牲者を追悼する黙とうの最中に、議員らの一部が国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌い始め、全員が斉唱する一幕があった。

 

 つまりフランスの国会議員は全員で「武器を取れ、市民たちよ!」と唱和したわけです。起立せず、国歌を歌わないことによってこそが良心が示される場面は多々あるもの、今回もその一つと言えますが、フランスの政治家は理性を放棄する道を選んだようです。

 

仏芸人、「テロ擁護」発言で裁判へ(AFP)

【1月15日 AFP】フランスの男性コメディアンで、その言動がたびたび物議を醸してきたデュードネ(Dieudonne)氏が14日、パリ(Paris)で先週に起きた一連の襲撃事件の実行犯の1人への共感を示唆した発言をめぐり身柄を拘束され、裁判にかけられる見通しとなった。司法筋が明らかにした。

(中略)

 問題の発言は、デュードネ氏が交流サイト(SNS)のフェイスブック(Facebook)に投稿した「今夜はシャルリー・クリバリのような気分だ」というもの。シャルリー・エブド紙襲撃事件の犠牲者を追悼するために世界中に広まった「私はシャルリー」とのスローガンと、8~9日にかけて女性警官1人とユダヤ人4人を射殺したアメディ・クリバリ(Amedy Coulibaly)容疑者の名前を組み合わせている。

 

 そして表現の自由を盾にイスラム教徒への揶揄が許されるどころか英雄視される一方、テロ実行犯への共感を示した――単に嫌みを言っているだけにしか見えないのですが――とされるコメディアンが身柄を拘束されたことが伝えられています。日本に置き換えるならば、在日韓国人を笑いものにするような風刺画は許されるが政府を批判したら逮捕された、みたいなものでしょうか。なにやら一気に日本よりも右に行ってしまったように感じられるところ、このような事態こそフランスの危機であると私には思われます。

 なおシャルリー・エブド氏の最新号は売れ行き絶好調だそうで、表紙には「私はシャルリー」と書かれた紙を手に持つムハンマドの似顔絵と、その上に書き文字で「Tout est pardonné」と掲げられています。これを伝える報道では「全ては許される」みたいに訳されていたわけですが、そうではないと語る人もいました。

 

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 - 関口涼子 / 翻訳家、作家(SYNODOS)

読売新聞の記事は、「Tout est pardonné」を「すべては許される」と訳し、何でもありだ、という、言論の自由(というか「勝手」)を示したものだとしているが、これはまったく逆の意味だ。

「すべてが許される」であれば、フランス語ではTout est permis になるだろう。「許可」を意味するPermissionから来ているPermisと異なり、Pardonné は宗教の罪の「赦し」に由来する、もっと重い言葉だ。そして、permisであれば、現在から未来に及ぶ行為を許可することを指すが、pardonnéは、過去に為された過ちを赦すことを意味する。「Tout est pardonné」は、直訳すれば「すべてを赦した」になる。

しかしこれは同時に、口語の慣用句であり、日本語で一番近い意味合いを探せば、たとえば、放蕩息子の帰還で親が言うだろう言葉、「そのことについてはもう咎めないよ」、または、あるカップルが、深刻な関係の危機に陥り、長い間の不仲の後、最後に「いろいろあったけどもう忘れよう」という表現になるだろう。

これは、ただの喧嘩の後の仲直りの言葉ではない。長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。割れた壺は戻らないかもしれない。それでも、この件については、終わったこととしようではないか、そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。

 

 しかしまぁ、上記の翻訳者の主張の方が訳として正しいのなら、なおさらシャルリー・エブド誌の、ひいてはそれを挙って買い漁るフランス社会の奢りを端的に表わすものであるようにも思います。いったい何の権利を持って「許す(赦した)」とムハンマドに「言わせる」のか、そこは問われるべきものでしょう。日本でも自分の主張を子供に代弁させる、子供に言わせることで自らの正当性を担保しようとする人がいますけれど、シャルリー・エブド誌のそれはより直截です。国内のムスリムではなく、それを笑いのネタにしてきた人々が「ムハンマドもこう言っている」と装うことに疑問が抱かれないとしたら、それは理性と良心の危機です。

 

世界が欲する待望のインタビュー!ムハンマド(マホメット)の霊言(幸福の科学)

このたび、大川隆法総裁は、新たな霊言を行いました。
この霊言は書籍『ムハンマドよ、パリは燃えているか。―表現の自由VS.イスラム的信仰―』と題され、幸福の科学出版より発刊されました。ぜひご一読ください。

(中略)

フランスの週刊紙「シャルリー・エブド」が掲載した、ムハンマドの風刺画が、今、世界的に大きく報道されています。これまで同紙が掲載してきた風刺画が原因で起きたとされるフランス・パリのテロ事件。天上界にいるムハンマド本人は今回の事件をどう見ているのでしょうか。霊言という形でインタビューを行い、世界中の人々が気になる「ムハンマド本人の考え」を訊きました。

 

 ……大川隆法の仕事の速さには常に感心させられますが、これで幸福の科学を標的にしたテロが発生したらどうなるのか、それは不謹慎ながら興味深く思ってしまいます。なにはともあれ大川隆法もまたムハンマドの勝手な代弁者を演じているわけですけれど、それはシャルリー・エブドと大差ありません。しかし、それがキワモノ扱いされるのか、あるいは表舞台で脚光を浴びるのかは社会の健全性を問う上では重要な指標になることでしょう。

 悪趣味もしくは不道徳であったり非人道的であったり、そういう出版物が存在してはならないとまでは言いません。これが(例えばポルノのように)片隅でひっそりと売られているだけ、それを買うのが幾分かでも恥ずかしいことと思われている内は言論の自由です。しかし昨今の日本におけるヘイトスピーチ本のように売り場の最も目立つところに堂々と平積みされている、出版社も書店も積極的に売り込みをかけているような状態に至れば、それは言論の自由を超えた問題があるのではないでしょうか。

 シャルリー・エブド誌も同様、異文化への敬意を欠いた人々が読むダメな雑誌と白眼視されているようであれば、法律や当然ながら暴力によって言論の自由を脅かされるべきものではないと言えます。しかし殉教者として英雄視され国民の幅広い共感を呼ぶような代物としてみると、それはどうなんだろうと私は大いに首を傾げるところです。フランス社会はテロには屈していないようですが、その良心は熱狂の前に押し流されてしまっているように見えます。

 

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文明論という奢り

2015-01-16 23:24:25 | 社会

(弱さの強さ 成熟社会を生きる:2)妖怪と友だちと同調圧力 異質なもの、受け入れる心(朝日新聞)

 だが高度経済成長期やバブル期には、別種の妖怪も現れた。「妖怪人間ベム」(1968~69年)の妖怪は、とがった耳や牙が恐ろしい。漫画「うしおととら」(1990~96年)では強大な超能力を持っていて、人間と対決する。

 それは「西洋の怪物に近い妖怪」だと東さんは考える。西洋は神と悪魔が対峙(たいじ)する一神教だ。絶対悪を定め、人間と容赦なく戦う、と。「経済成長や科学万能主義が背景にある。作者は批判を込めて描いているが、ひたすら強さを追求し、人間の力で自然が思い通りになるとする土壌があった」

 バブルは崩壊。東日本大震災では大堤防が津波にのまれ、人為的な想定の限界が露見した。いま、子どもたちは妖怪と友だちになることで「不可思議な自然に親しみを持ち、折り合いをつける感覚をよみがえらせている」と感じる。

 

 また朝日新聞が意味不明なポエムを載せているわけですが、ここで言及されている「うしおととら」の作者である藤田和日郎が「思ってねーよ」とツィートしたこともあって、ちょっとした話題にもなったようです(残念ながらツィートは削除された模様)。なお引用元の「東さん」とは文芸評論家?の東雅夫さん(56)とのことですけれど、その辺はさておきいかにも「国語的」な発想かなと思いました。

 よく「国語」のテストでは「作者の意図」を問われるものですが、実際に正答と見なされるのは「出題者の意図」であるわけです。勝手に作者の意図を代弁する国語の先生の思惑を察すること――それこそが「国語」の正体と言えます。一方的に作者の意図を理解したつもりになっている国語教師の傲慢さといかに上手く付き合えるか、これは社会人として生きていく上で大いに問われるコミュニケーション能力の訓練でもある、国語とは実は最も実用的な学問だと思いますね。ちなみに私は文学部出身ですが、最大の苦手科目は国語でした。小論文では0点を取ったこともあります。

 なお「うしおととら」はそんな漫画ではないだろうとのツッコミも入っている模様、東雅夫氏の知識と朝日新聞記者のノーチェックぶりには疑問を抱かざるを得ません。「高度経済成長期やバブル期~の妖怪は、とがった耳や牙が恐ろしい。~強大な超能力を持っていて、人間と対決する」「それは『西洋の怪物に近い妖怪』~西洋は神と悪魔が対峙する一神教だ。絶対悪を定め、人間と容赦なく戦う」云々との行も怪しい。一口に西洋といってもギリシャ/ローマ神話や北欧神話など多神教の世界もありますし、一神教で言うならキリスト教世界になるのでしょうけれど、キリスト教で「人間と容赦なく戦う」のは神であり天使ですよね?

 聖書において悪魔が人を殺めるシーンが全くないとは言いませんが、それは例外中の例外であって、作中で人間を殺害しているのは専ら「神」のはずです。聖書の中で悪魔とは人間を喜ばせる(これがキリスト教的な倒錯した世界観においては「堕落させる」)ものであり、神は反対に人間を罰する存在です。まぁ近代に入って創作された各種のファンタジー世界の設定の中になら人間と容赦なく戦う恐ろしいばかりの妖怪も珍しくないとは言えますけれど、そういう類を想定している風には読めませんし、まぁ東氏の想定する「西洋」はよく分かりません。

 どちらかと言えば、この東雅夫氏の世界観はキリスト教的倒錯に満ちているように思えますが、その辺は実のところ日本という非キリスト教文化圏でも広く見られるものだったりします。東日本大震災の際に石原慎太郎は「津波は天罰」「我欲を洗い流せ」みたいなことを宣いました。これは反発を買うこともありましたけれど、震災に言及しつつ下らない文明論を展開するような人の世界観と大きくは変わらないのではないでしょうか。人工的なものを道徳的に断罪し、それが破壊される事態を神による戒めのごときに解釈する、そんな反吐が出そうになる輩は少なからずいたはずです。

 「人為的な想定の限界が露見した」云々と引用元では語られています。人為的なものの「限界」を説く人は数多いるわけですが、そこに私は傲慢さを感じます。どこに「限界」を見出しているのか、それは論者の自意識――自分がどこに立っているのか――を表わすものです。例えば300年後に限界に到達すると説く人は、自分が頂点(分岐点)の300年ほど手前にいると考えている、己の子孫は自分よりも先に進んで行くであろうことを想定していると言えます。逆に「今」の時点で人為的なものの「限界」を説く人は、自身が頂点に立っていると考えているわけです。自分よりも後に生まれてきた人が自分たちの限界を乗り越えていくことを想定しない、自分たちが勝手に引いた線を限界と定め、その先はないと確信している、そんな傲慢な人達であると私は思います。

 

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I'm not Charlie

2015-01-13 23:43:59 | 社会

福島風刺の仏紙、「ユーモア感覚ない」と日本の批判を一蹴(AFP)

 【9月13日 AFP】福島第1原発事故の問題を抱える日本が2020年夏季五輪の開催地に選出されたことを風刺する漫画を掲載し、日本側からの怒りを買っている仏週刊紙「カナール・アンシェネ(Le Canard Enchaine)」は12日、「責任をもってこの風刺画を掲載した。いささかも良心に反するところはない」と述べ、日本人にはユーモアのセンスがないと嘆いた。

 問題の漫画の一つは、損壊した原発の前の土俵で3本の腕や脚がある力士が向かい合い、その横でスポーツ解説者が「すごい、福島のおかげで相撲がオリンピック競技になった」とコメントしているもの。もう一つは、プールの前で防護服を着用し放射線測定器を手にした2人が、ウオータースポーツ会場は福島に建設済みだ、と話している。

(中略)

 菅義偉(Yoshihide Suga)官房長官は記者会見で、「このような風刺画は、東日本大震災で被災した方々の気持ちを傷つける」と述べた上で、「汚染水問題について、誤った印象を与える不適切な報道」とも指摘、同紙に対し日本政府から正式に抗議する構えを明らかにした。

 これに対し、同紙のルイマリ・オロー(Louis-Marie Horeau)編集長は、「われわれには悪意のないように思える風刺画」に対する日本からの反応に「ただただ困惑している」として、「ユーモアを表現しているからといって、被災者の皆さんを侮辱していることにはならない。ここ(フランス)では、悲劇に対してはユーモアを持って立ち向かうものだが、どうやら日本ではそうではないようだ」と語った。

 

 これは2013年の報道ですが、ここで問題となった(自称)風刺画の作者は先日の仏シャルリー・エブド社襲撃事件で亡くなったそうです。疑いようもなく差別的で福島を中心とした被災地への偏見を広めるヘイトスピーチでしかない代物を「ユーモア」と自称した編集長は「ここ(フランス)では、悲劇に対してはユーモアを持って立ち向かうものだ」と語っていたわけですが、著起因の悲劇に対してもユーモアを持って立ち向かっているのでしょうか。フランス社会全体としては9.11以後のアメリカを思わせる盛り上がりを見せており、そこに「ユーモア」を感じる余地は少ないように見えます。

 私としてもヘイトスピーチやテロリズムに「ユーモアを持って立ち向かう」のが適切であるとは思わないところです。そこは毅然として退ける姿勢が求められるものでしょう。逆にヘイトスピーチを言論の自由の名の下に野放しにしていった結果として「実力行使」が発生してしまうケースもあるのではないかと考えられます。フランス社会が単なる偏見の流布や侮辱でしかない類をしかるべく白眼視できていれば、自分の生命を危険にさらしてまで凶行に及ぶ人は減ったのではないかという気もしますね。まぁ、何をやっても通用しない人だっていますけれど。

 

フランスで200万人行進、反テロへ結束 各国首脳らも(朝日新聞)

 連続テロ事件が起きたフランスの各地で11日、テロに屈しない決意を示す大規模な行進があった。仏メディアによると計200万人超が参加したという。イスラム過激主義を背景に、表現の自由を踏みにじり、17人の命を奪った現実に抗議の意思を表明した。オランド仏大統領ら欧州の首脳に加え、イスラエル、パレスチナのトップも顔をそろえた。ただ、ドイツでは11日も新聞社への放火があった。

 100万人に達したとされるパリでの行進は約3キロにわたった。テレビ演説で「団結こそ力だ。国民よ立ち上がれ」と訴えたオランド大統領は、各国首脳らに参加を呼びかけていた。

 独メルケル、英キャメロンの両首相らが腕を組んで行進を始め、イスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ自治政府のアッバス議長の姿もあった。ウクライナのポロシェンコ大統領らも含め56の国・地域・国際機関の代表らが出席者リストに名を連ね、ロシアのラブロフ外相も加わる予定だという。

 

 かつての米ブッシュ政権は9.11テロの結果として支持率を取り戻したわけですが、オランド大統領はどうなるのでしょう。格好の「外敵」を前に社会が「団結」を見せる、高まりつつあったオランド批判が脇に追いやられることもあるのかも知れません。なおテロに屈しないとの名目で行われたデモにはイスラエルのネタニヤフ首相やウクライナのポロシェンコ大統領も参加したとか。う~ん、ネタニヤフ政権時代に、いったいどれほどのパレスチナのジャーナリストが命を奪われたのかを思うと何とも皮肉です。そしてウクライナは、2014年の「報道の自由度ランキング」では180カ国中127位と、イスラエル以下です。まぁ、テロに反対する意思の方は分かります。

参考、French Muslim: 'I'm not Charlie, it's racist'(BBC)

 テロリストを安易に殺すべきではない、殺してしまえば殉教者となり尾を引くものだと主張する人もいます。しかるに今回の件では、まず殉教者となっているのがテロで殺された編集者や風刺画家の方ですね。ただ殺されるのが適切であったはずがないのは確かである一方、逆に殉教者のごとくに祭り上げられるのもどうなのかな、と私などは思うわけです。凶悪なテロリストでも殺されれば殉教者として英雄視されるように、自国内の「異教徒」を(ついでに冒頭の事例では日本在住者をも)傷つけてきた人々が社会の広範な共感を呼んでいる、それは私には納得のいかない話です。

 

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ガラパゴス・スタンダード

2015-01-11 11:09:46 | 雇用・経済

中国人もびっくり、「礼節の国・日本」のはずなのに・・・電車で席譲った相手の高齢者が激怒(サーチナ)

 中国メディアの環球網は5日、日本で電車に乗っていた中学生が高齢者に席を譲ったところ、譲られた高齢者が「おれのどこが年寄りなのか、言ってみろ!」などと激怒したとの話題を伝えた。同記事は日本人は礼節を重んじることで世界的に賞賛されていると論じた上で、車内で高齢者が立っていても、席を譲るのがいやで知らぬふりをする若者が増えいることなども、驚きを込めた論調で紹介した。

 記事は、電車に乗っていたのは70代の男性と妻と紹介。中学生は好意から、席を譲ろうとした。男性は猛烈な勢いで、「おい、小僧!」、「おれのどこが年寄りなのか、言ってみろ!」と怒り出した。中学生は謝って、その場を去ったという。

(中略)

 ただし、記事は最後の部分で「(日本には)しかし、多くの善良で礼節を知る若者が、自ら進んで高齢者や障害者、病人、妊娠している女性に席を譲る」と紹介。さらに日本人の特徴として「さらに多くの高齢者が、若者の行為を婉曲に断る」として、高齢者側は「もうすぐに降りますから」と言うなどと説明。

 さらに、高齢者側の「自分はまだ若い。特別に気づかってもらう必要はない」などといった気持ちも、席を譲られることを断る心理として紹介した。

 

 そう言えばウチでも正月にマッマと伯父上が「電車で席を譲られてショックだった」と話しておりました。二人とも私よりは健康そうではありますが、まぁ還暦をとっくに過ぎてはいますから、第三者から見れば席を譲られても不思議ではないのでしょう。しかるに、席を譲られるのを必ずしも快く思わない人は、今回の引用元で伝えられている以外にも少なくなさそうです。席を譲られて怒りを露わにする人は珍しいにせよ、素直に喜べない人は多いものと推測されます。

 この辺り、日本が「若さ」を絶対視する社会だからとも言えるでしょうか。近年では「若作りうつ」なんて言葉も少しだけ流行りました。「若くあらねばならない」という強迫観念は我々の社会に深く根付いているわけです。結構な齢なのに「○○女子/男子」なんて痛々しいレッテルを喜んで受け入れる人も多いですし、客商売や人気商売でも年齢の「数値」は唯一無二で、見た目なんか以上に年齢の数値の小ささが絶対の価値を持つ世界もあります。若さとは正義であり、年寄りと見なされることは蔑まされることと同義なのです。

 「普通の」就職においても然り、若さは絶対です。日本では「若年層の長期キャリア形成を図るため」などと求人票におまじないの文言を入れておけば年齢による差別が許されますし、アメリカならば訴訟に発展して会社側が確実に負けるような特定の年齢層を標的にした退職の強要も至って一般的です。「若くなくなった人」が就業機会を失っていくのは日本における日常的な風景であり、この辺も「年寄り扱いされること」への強い拒絶感に繋がっているのではないでしょうか。

 よく「若者を使い捨てにしている」みたいに言われるブラック企業や非正規職場でも、その実は誰かを追い出したそばから「より若い人」を次々と雇い入れているのが実態です。これほどまでに「若者に雇用機会を提供している」仕組みはないでしょう。「いずれ若くなくなる人」にとっては希望の見えない時代ですが、若い人にはチャンスが多い――若い間だけは――というのが現実と言えます。結局、日本においては年長者であることは純粋にネガティヴな意味しか持ちません。若くなくなった人間は敬われるどころか疎んじられる、そんな社会では「若くあること」に執心し「年寄り扱いされた」ことに腹を立てる人が増えるのは仕方のないことです。

 

日本と韓国の企業に共通点!?  「巨額の内部留保が経済の足を引っ張る」と英誌=中国メディア(サーチナ)

 中国メディアの産業網は20日、英誌「ザ・エコノミスト」の報道を引用し、「日本と韓国の企業が内部に留保している2兆5000億米ドル(約300兆円)の巨額の現金が両国経済の足を引っ張っている」と論じる記事を掲載した。

 記事は、「慎重になりすぎることは時に致命的な失敗を招く」とし、経済においても「貯蓄のパラドックス」という概念が存在するとおり、過度な現金留保は経済の活力の喪失につながると主張。

(中略)

 さらに、日本企業の内部留保額は2兆1000億米ドル(約252兆円)に達し、国内総生産(GDP)の44%に相当すると紹介、さらに韓国企業の留保額は4400億米ドル(約52兆9263億円)でGDPの34%にあたると伝えた。一方、米国企業の留保額は1兆9000億米ドルでGDPの11%に過ぎないとしたうえで、「アジアの企業が内部留保額の半分を使用するだけで世界のGDPは2%上昇する」と報じた。

 

 ちなみに同じメディアに興味深い記事があったので少しだけ引用します。ここも日本(韓国でも似たところはあるようですが)の七不思議ならぬ不条理の一つで、日本には独特の「内部留保の神聖視」と呼ぶほかない慣習が根付いていると言えます。「内部留保は使えないお金(キリッ」というトンデモ理論が日本では横行しているわけですけれど、ヨソの国の人までは付き合ってくれないのでしょう。ひたすら内部留保を溜め込むばかりの日本的経営は日本で働く人々を苦しめるばかりか、世界経済の足をも引っ張っていると言うことですね。法人税が引き下げられれば日本企業の内部留保はさらに高く積み上げられるであろうことが予測されますが、それは当然ながら日本経済にとって損失でしかない、むしろ資金の使い道を見いだせない企業に代わって日本政府が使ってやるぐらいに気概のある政治家に台頭して欲しいところです。

参考、日本に適した解決策として法人税増税を提案したい

 

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ガバナビリティ ―― 統治「される」能力

2015-01-07 23:39:23 | 社会

 さて色々と問題のある政治家には事欠かないわけですが、会社に行けば「そういうタイプ」の人が要職に就いていたりしまして、まぁ人を選ぶ立場の人が選ぶ人というのは、どこも似たり寄ったりなんだろうなと思いました。人事権を持った人が取り立てる人と選挙権を持った人が当選させる人には共通項が多い、と。もっとも前者と後者では「選ぶ人」と「選ばれる人」の力関係が全く異なるのではありますが。

 いつぞやの「理想の上司」ランキングで大阪市長の橋下が1位に選ばれたことがありまして(このランキングでろくな人が選ばれないのは、ある意味で象徴的です)、橋下は「市の職員に聞いたら、絶対にそんな順位にならない。同じ組織にいないから無責任に言えるんじゃないですか」とコメントしました。橋下を選んだ人よりは橋下自身の方が物事を理解しているようです。ただ付け加えるならば、日本人は下っ端でも経営者目線で考えるのが普通だと言えます。「下」の人間として「自らを率いて欲しい」上司を選ぶよりも、しばしば「上」からの目線に立って「部下を率いさせたい」人物を選択しているのが実態ではないでしょうか。日本人はいつでも経営者目線を忘れません。大阪市の職員だって案外、「橋下みたいなの」を「理想の上司」と考えている人が多いのではと思います。

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 英語教育の早期化論も喧しいところ、では本当に日本人に英語は必要なのかと聞かれれば「個人的に何かを楽しむ上では有用」とは言えます。日本製に限らず英語圏で制作されたコンテンツを楽しめるようになることは悪いことではありません。しかし日本で働く上ではどうなのでしょうか? 少なくはない職場を渡り歩いてきましたけれど、どうにも英語力を活かせる職場というのは決して多くはないわけです。就職の際に求められる頻度とは全く比例しないのですから呆れてしまいますね。

 逆に日本ではなく外国の――英語圏の――会社で働きたいのなら、英語力は役に立つ、というよりは必須になることでしょう。ただし、外国人として制度的な不利がなかろうとも現地出身の人間に比べてスタートラインの時点で大きく後れを取らざるを得ないのは覚悟する必要があります。調子の良い成功体験談ばかりが語り継がれている中、甘い夢を抱いて海外に働きに出ては痛い目を見た人も多いはずです。あるいは、海外から日本に働きに来た人の立場は良き判断材料になることでしょう。出身国で働くよりも稼げる可能性はあるかも知れませんが、現地出身者のように稼げるかと言えば、その可能性は小さいわけです。

 日本企業が海外展開を強めるとしても、現地法人の主体を現地出身者が占めるのならば、英語に堪能な日本人の必要性は大して多くはなりません。海外志向の強い人だけでも十分に必要数は賄えることでしょう。ただ「海外で日本人を働かせる」ことを想定するのなら話は別です。世界の例外と言える日本を尻目にアジア諸国だけでなく世界各地の人件費は上がり続けている、しかもヨソの国では雇用関係を契約関係と考え給料以上の働きは見せてくれない人も多いわけです。日本の労働者相手には通用したことが国外では全く通用しない、それは数多の日本企業が通った道です。

 しかるに中国人なら暴動や経営者の監禁に発展するような事態でも、日本人は従順です。いかなる時でも経営者目線を忘れず、ヒラ社員やアルバイトですら「自分が欠勤/退職したら会社に迷惑がかかる」と組織のことを常に心掛けるなどマネジメントの役割を当たり前のように下っ端が肩代わりしてくれる、そんな都合の良い労働者を日本の外で見つけるのは至難の業でしょう。それでも日本企業が海外でも日本的な労使関係を維持したいと思うならば、解決策は一つです。すなわち「日本人を海外で働かせる」ことですね。そのためには、英語に堪能な日本人労働者が大量に必要になります。

 サービス残業など「外国人がやりたがらないことを日本人にやらせるため」に、これからの日本人労働者は英語力が強く求められるようになるのかも知れません。日本の会社が中国などアジアの現地法人で現地出身者と同等の給与で日本人を募集しているケースも既にありますし、日本人の人件費は今や決して高いものではなくなった一方、世界中の人件費は着々と上昇しているわけです。消費税増税だの法人税減税だの自殺的な経済政策を続けていれば、遠からず「日本人を雇うのが最も安上がり」になってしまうことでしょう。そうなった時、日本企業が海外に展開する際は現地人ではなく日本人を海外に連れて行くことを選ぶようになる、そして英語力は必須となると言えます。もう少し日本人が経営側にとって扱いにくいものであったなら、多少は未来も変わるかも知れませんが。

 

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しがらみのない候補ほど恐ろしい

2015-01-04 23:31:30 | 政治

保守分裂の様相、自民必死の応援…佐賀知事選(読売新聞)

 知事選は、古川康前知事(現・自民党衆院議員)の国政転身に伴い、今月25日に告示された。自民、公明両党は、古川前知事の後継者として、無所属の樋渡啓祐・前佐賀県武雄市長を推薦した。樋渡氏は22日、自民党本部で安倍首相(党総裁)から直接推薦証を受け取った後、「農協全体を見直す必要がある。農政そのものに岩盤規制があると思う」と記者団に語り、安倍内閣の進める農業政策に賛同する考えを示した。

 自民党の支持団体の「佐賀県農政協議会」(県農政協)は今回、樋渡氏の姿勢に反発し、無所属で出馬した元総務官僚の山口祥義氏を推薦し、支援体制を取っている。農協改革や環太平洋経済連携協定(TPP)交渉の推進に不満があるとみられている。自民党の一部県議も「支持者に農業関係者が多いので、山口氏を支援する」と県農政協に歩調を合わせている。

 自民党の危機感は強く、28日には菅官房長官が佐賀県入りし、「安倍政権は農業について様々な改革を行い、付加価値をつける」と訴えた。佐賀県知事選で敗れ、農業票の離反が鮮明になり、来春の統一地方選で追随するケースが出ることを恐れている。年明けには稲田政調会長も応援に入る予定だ。

 

 「保守」分裂云々とは現在は幹事長の谷垣が言っていることのようですが、この「保守」という用語もどうなのでしょうね。近年は専らレイシストの自称として使われることも多いように思われるところ、そして今回の分裂の原因は専ら農協をめぐる改革案にあるはずです。農協の現状を守ることを唱える同士ならば辞書的な意味で「保守」と呼んで差し支えなさそうですけれど、現状を壊してしまおうとする側もまた自らを何の疑問もなく「保守」と位置づけているのは、ちょっと言葉の使い方としておかしいような気がします。

 さて国政や東京都知事選と違って地方の首長選挙ともなると自民党と民主党がガッチリ手を組んで共産党の候補を叩きのめすのが一般的ではあるわけですが、今回は様相が違うようです。自民党の前に立ちふさがったのは恒例の共産党である以前に、自民党の支持基盤や自民党の県議に推された候補であることが伝えられています。ふむ、こうなると自民党も苦しいのかも知れません。民主や維新など恐くも何ともない自民党にとって最大の脅威は内部分裂にこそある、己の敵は己自身ではありませんけれど、自民党に対抗しうるものがあるとしたら自民党内部の反対派である、今回のように自民党同士で割れてしまう事態こそが党を揺るがすものなのではないでしょうか。

 自民党側の候補は前佐賀県武雄市長の樋渡啓祐氏、何だか思いつき市政で色々と問題を起こしていたイメージの強い人です。分裂の背景には、単に農協の処遇をめぐる以外にも武雄市長時代の前科が懸念されたところもあったのではないでしょうかね。諸々の政治資金疑惑の類と同様、勝手にボロを出すタイプを自陣営に引き込めば引き込むほど、野党側につけいる隙を与えるだけです。もし私が自民党の関係者であったなら、もうちょっと隙のない、余計なことをやってボロを出さない人間を擁立するよう提言します。

 それはさておき、農協改革やTPP交渉への態度が陣営を二分していると伝えられています。まぁ国際的な枠組み作りに背を向ける内向きな態度が通用するはずもない、農協だって今のままでは先細りする一方で何かを変えなければならない――ただし変えさえすれば良いものではないにせよ――のは確かでしょう。そうは言っても、反対する人もいる、よりによって自民党の内部に、というのが今回の構図のようです。まぁ自民党と民主党との間で繰り広げられる茶番より、自民党の内部で展開される争いの方が、建設的な結果は期待できるのかも知れません。党の勝利が最優先で言うことが二転三転する民主党を相手にするよりも、ちゃんと利害関係者との間で地に足が付いた人と争う方が政治らしいですから。

 よく「しがらみのなさ」をアピールする政党・政治家もいるわけですが、こういう人々を私は信用していません。その手の人々がやるのは人気取りに終始して、支持者の利害を代弁してくれたりはしない、そして「しがらみ」に縛られないからこそ思いつきのパフォーマンスを連発しては散々な結果を残して去って行くものです。むしろ私には「しがらみ」の多い政党・政治家の方が、信頼できますね。支持層の利害関係に配慮しなければならない、そういう「縛り」のかかっている政治家こそが結局は穏健な結末に辿り着くものです。穏健な政治を望むなら、しがらみの多い政党・候補者を選ぶべきだと思います。

 

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