民主党の経済政策への批判として、分配のパイを増やすという発想に欠けるというものがあります。これは外れていないと思いますが、しかるに相対する自民党はと言えば、新総裁である谷垣氏が「右肩上がりの社会ではないから~」と言明するなど、やはりパイを大きくする発想には乏しいようです。両党とも限られた予算枠内で「いかに」分配するかを争う一方で、原資となるものを増大させていくことには熱心でない、それが結果的なものであれ必然的なものであれ、向いている方向にそう大きな違いはないようにも見えます。したり顔の自称エコノミストもまた緊縮財政による財政再建を求めるばかりですから、日本経済の向かおうとする方向性は既に定まっているのでしょうか。
経済そのものが好調ですと、諸々の問題が自然と覆い隠されてゆくものです。働き口に事欠かず、時代とともに給与水準も上がっていくような状況下では、セーフティネットの欠落や給与格差といった問題はなかなか表に出てこなくなりますから。だからといってセーフティネットや格差の問題を放置したままにしておくと、いざ不況になったときに右往左往することになるわけですが、とにかく好景気はそれ自体が住民の生活を支えるもの、経済成長もまた社会保障と同様に国民の生活を支える重要なファクターだったのです。
「古い自民党」が曲がりなりにも一定の成果を上げてこられたのは、すなわち経済成長のおかげだったはずです。今となっては明らかなように欠陥だらけの社会システムであっても、国全体の経済水準が順調に上がっていく中では、その欠陥に嵌ってもがき苦しむ人は少数派であり、多くの人にとっては意識せずに済むレベルだったのではないでしょうか。ところが、何事も壁に突き当たる時が訪れます、いわゆるバブル崩壊後は経済成長がすっかり止まり、放置され続けてきた社会的な欠陥が誰の目にも顕在化したのが今日です。では、どうすればよいのでしょうか。
もちろんセーフティネットの不備は是正されなければならないわけですが、片方の車輪だけで走るよりも両輪で走った方が好ましいはず、分配の在り方を見直すことと分配のパイそのものを増やすこと、両方とも必要なのです。ところが後者にはこぞって否定的に見えるのが昨今です、どうして? 元より日本の左派には経済的な豊かさを否定するところがあるような気もします。「古い自民党」への反動もあるでしょうか、経済的/物質的な豊かさを道徳的に批判し、精神的な豊かさの方を好むところがあって、その帰結が清く貧しくという方向に進んでしまうのかも知れません。貧困は問題視するけれども、かといって経済的な豊かさを肯定しきれない人もいるのではないかと。
精神的な豊かさを語ることで経済的な豊かさを否定する傾向は極右サイドも有してきたところで、その辺も急激に伸張してきた気がします。ただ貧困を問題視する視点が抜け落ちているという違いはありますが、道徳論で社会を語りがちなところは変わりません。ある意味では右も左も「道徳家」は経済成長を好まない、限られたパイを譲り合う、助け合うことで問題を解決させようとするところがあると思います。その際に政府(自治体)が役割を果たすべきとするか、個人個人の責任でどうにかすべきと考えるか、そうした違いはあるにせよ両者に共通する部分もあり、これが世論を形成してきたフシもあるはずです。
あるいは、経験から学んでしまったのかも知れません。つい最近まで「戦後最長の景気回復」が続いていたわけですが、この結果はどれほどのものだったでしょうか。どれほど長く景気回復が続いても、その恩恵にあずかれる人はごく一部に限られていました。その筋の人が語る「トリクルダウン効果」など机上の空論に過ぎず、景気回復は国民に何ももたらさなかったわけです。だから、国民が景気回復/経済成長の意味を忘れたところで仕方がないとすら言えます。景気が回復しても暮らしは良くならない、それは紛れもない実体験であり、真実だったのですから。
この辺は財政再建論者にとっても同じなのかも知れません。自分の生活よりも政府や自治体の財政を心配する殊勝な人ばかりが目立つわけですが、「戦後最長の景気回復」の前後で政府/自治体の財政はどうなったかを考えてみましょう。赤字国債の額は――膨らむばかりでしたよね? この辺は取れる時に取るべきものを取らなかった政府の責任が大きいですが、ともあれ経済成長は財政再建に結びついてはこなかったわけです。この経験だけから学ぶと結論はどこに至るでしょうか、経済成長では赤字は減らせない――ならば「ムダを削る」しかない、と。
ただこの「戦後最長の景気回復」にしても、期間こそ長かった一方で「微増」ばかりが続いた感も否めません。しかも国内に限ってみれば死屍累々だったわけです。景気回復をもたらしたのは輸出企業の好業績で、それは海外の「お客様」が日本製品を買ってくれたから、すなわち日本以外の国の経済成長に支えられ、そのおこぼれに預かる形で記録したのが「戦後最長の景気回復」でした。当然、景気回復の上げ幅は小さく、世界経済の中で地盤沈下の著しいのが日本経済、相変わらず先は暗いです。
「戦後最長の景気回復」期間を支えた小泉カイカク路線を「結果」から考察すると、それは経済成長ではなく「分配」の戦略であったように見えてきます。分配のパイを増やすのではなく、限られたパイをいかに分配するか、向いていた方向はそっちではなかったのかと。なにしろ景気回復は中国やアメリカの経済成長のおかげであり、国内市場に目を移せばデフレ一直線だったわけですから。これでもし、外的な要因(日本以外の国の経済成長)が無かったとしたら……
分配のパイは増えない、増やそうという気にもならない、後はどのように分配するか――これが小泉以降の日本の経済方針なのかも知れません。そして小泉の場合は、分配のパイが増えない中でいかに企業や富裕層の取り分を増やすかを考えた結果なのでしょう。諸々の規制緩和で労働者側の地位を弱め、中間層以下の取り分を減らすことで企業や富裕層の取り分を確保する、これもまた分配の在り方の1つです。政府の本来の役目からすれば、「負の分配」とでも呼ぶべきものでしょうけれど。
持てるものから持たざるものへ、これが所得の再分配の基本です。小泉/竹中の場合はこれが逆だっただけです。では民主党の場合はどうでしょうか、子ども手当がその象徴とも言えますが、給付は持てるものも持たざるものも平等で、その財源となると「ムダを削る」であり、決して累進課税ではないわけです。もし財源が不足すれば国債発行、将来的な消費税増税という逆進課税が計画されていますが、これでは「持てるものと持たざるもの」から「持てるものと持たざるもの」への分配にしかなりません。小泉路線とは、せいぜい90度くらいしか違わないわけで、まだまだ別の道を探る必要がありそうです。