「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」とは、ダーウィンを騙るコンサルの言葉で、政治家や企業経営者からも何度となく引用されてきたものです。とかく「変化」とは良いものとされ、それに適応することが正しい在り方として無条件に扱われてきました。しかし稀に逆転現象も起こる、世を挙げて「変化」を拒絶して「昔に戻る」ことへと舵が切られることもあるように思います。
それがすなわち新型コロナウィルスの感染拡大によって生じた変化で、日頃は変化そのものを追い求めて内容の良し悪しを考慮できないような人々すらも、コロナによって生まれた変化については例外として扱い、変化に適応するよりも変化を拒絶して昔に戻ることを正常化として認識しているのが現状ではないでしょうか。リモートワークを止める会社は続出し、公衆衛生の水準も着々と低下しているわけですが、それでも「日常を取り戻した」との声が巷には溢れています。
たとえ業務効率を悪化させるような類いであろうとも、「やり方を変える」こと自体が私の会社では評価されてきました。皆様の勤務先でも、概ね似たようなものではないかと思います。たとえ結果が良いものであっても、従来通りのやり方を続ける、そんなルーチンは誰にでも可能なものと見下されることこそあれ、評価されることはありません。だからこそ、要否に関わらず新たな仕組みを導入すること、やり方を「変える」ことが社員としての役割と、どこの会社でも期待されているわけです。
ところがコロナによって生じた変化についてはどうでしょうか? リモートワークにも抵抗勢力は存在しました。これがもし経営者やコンサルタントが旗を振っての変革であったなら、それに適応することが社員には求められ、背を向けることは許されなかったはずです。しかし実際はリモートワークに適応できない社員には何の責も負わされることなく、リモートで働くことの方が断罪されてしまったと言えます。
リモートワークで成果を出せない、リモートで業務効率が悪化する、そんなものは社員の資質の問題であって、リモートに適応できない社員はリストラ要員として切り捨てる判断もあり得たわけです。少なくとも経営者やコンサルタント主導で行われた「改革」であったなら、そこに付いてこられない人が配慮されることはあり得ません。しかるにリモートで成果を出せないのも業務効率が下がったのも本人の問題ではなくリモートという働き方の問題なのだと、そう判断する会社は後を絶たず、出社回帰の傾向は止まるところを見せません。
社員がOA化に対応できないからと言って、OA化を放棄してアナログ環境に踏みとどまろうとする会社を想像することは出来るでしょうか? 時代の変化に適応できない人を安易に切り捨てることは出来ないにせよ、社会全体の進歩のためには受け入れなければならない変化もあります。ところがリモート化に関しては例外で、対応できない無能が多かったので無能に合わせて昔のやり方に戻す──というのが社会の主流派になっているわけです。
新型コロナウィルスの感染症分類の引き下げもあり、公衆衛生の水準低下も止まりません。マトモに感染症対策を行っていれば流行はほぼ完全に防ぐことが出来ると証明されたインフルエンザですら、数百人単位の集団感染が冬場でなくとも発生する有様です。コロナのおかげでようやく、周囲の人間からウィルスをまき散らされない衛生的な社会が実現されたにも拘わらず、我々の社会は躊躇なくその果実をゴミ箱に放り込んでしまったのでしょう。
コロナの感染拡大は、日本にとって敗戦以来の社会変革をもたらす契機たり得たと私は考えています。しかるにGHQが去っても一応の民主化を維持したのとは裏腹に、コロナ後に関しては「復古」が国家方針となってしまいました。GHQが去ってもアメリカによる支配権は及び続けているのと同じように、コロナだってウィルスが消えてなくなったわけではありませんが、かたや進歩を受け入れて定着したかと思えば、進歩を拒んで反動勢力が勝利を収めてしまうこともあるようです。