非国民通信

ノーモア・コイズミ

河野太郎と小池百合子のカイカク観

2009-11-30 22:53:33 | ニュース

自民・河野太郎氏「正直うらやましい」 事業仕分け視察(朝日新聞)

 「正直うらやましい。もっと厳しくやって」。自民党の河野太郎衆院議員が27日、行政刷新会議の事業仕分けを視察し、民主党政権の仕分け人にエールを送った。河野氏は自公政権時代に事業仕分けを導入した“元祖・仕分け人”だ。「オレにやらせろという気持ち」と複雑な心境をのぞかせた。

 河野氏は08年に自民党の「無駄撲滅プロジェクトチーム」を率い、事業仕分けの手法で通称「アニメの殿堂」の予算凍結などを求めた。だが、当時の麻生政権では09年度補正予算に盛り込まれた経緯がある。河野氏は「僕らがやったときは反乱軍だったが、今度は正規軍」。報道陣や傍聴人でごった返す事業仕分け会場を「うらやましい」と繰り返した。

 「小泉構造改革路線を忠実にやっているのは民主党だ」と小泉純一郎が語ったのは記憶に新しいところですが(参考)、その小泉路線を最も強く盲信している一人である河野太郎も似たようなことを口にしているようです。まさしくカイカク路線の継続という色合いの強い民主党の事業仕分けを指して「正直うらやましい。もっと厳しくやって」だとか。たしかに今「民主党がやっていること」と「自民党がやりたかったこと」は重なる部分ばっかりで、そうした同質性を理解できている河野氏であるなら、この反応は至って自然なものかも知れません。小泉発言の方は皮肉半分でしょうけれど、河野発言の方は真情の吐露と言えそうです。

 中共の「日本解放工作要綱」にならえば、事業仕分けは日本弱体化の強力な手段。カタルシスを発散させながら、日本沈没を加速させる…。
http://twitter.com/ecoyuri/status/6083239039
(魚拓)http://s04.megalodon.jp/2009-1127-1841-37/twitter.com/ecoyuri/status/6083239039

 一方こちらは小池百合子氏の書き込みですが(ご丁寧なことに、氏の公式サイトからリンクが張ってあります)、いかがなものでしょうか。「日本解放工作要綱」云々は「白いクスリでも決めてるのか?」と突っ込みたくなるところですが(これくらいの妄想癖がないと防衛相なんて務まらないのかも知れません)、後半部分は的を射ている部分もあると思います。事業仕分けそのものはとうてい評価できない部分ばかりで、構造改革同様に日本社会の貧困化を推し進めるものであり、しかもそれが「ムダを排除=悪者退治」のような図式で歓迎されている有様は、まさしく「カタルシスを発散させながら~」と呼ばれるべきものでしょう。妄言の中にも指摘として真っ当な部分もあるような気がします。

 しかし、事業仕分けを「正直うらやましい」と語る河野太郎と、「日本沈没を加速させる」と語る小池百合子の間に、そこまで政治的な隔たりがあるのでしょうか。極右層に媚びるかどうかでは立場が異なるかも知れませんが、社会や経済の在り方を巡っては同じカイカク路線を信奉、称揚してきた「同志」のはずです。外交面で河野太郎と小池百合子の見解が分かれるのなら何も不思議はありませんけれど、こうした内政面で正反対の評価になるのはおかしなことですよね。

 要するに河野太郎の場合、その担い手が自民党であろうと民主党であろうとカイカク路線であればプラス評価な訳です。ある意味、一貫していますね。かつては小泉カイカクを熱烈に歓迎し、今は事業仕分けに喝采を送っている無党派層に近い感性の持ち主なのかも知れません。逆に小池百合子の場合は、自民党の構造改革は良いカイカク、民主党の事業仕分けは悪いカイカク、要するに「どの党が」というのが重要のようです。これはネット上の自民党支持層に近いタイプですね。一方で小泉改革は批判しつつも事業仕分けは擁護する、例えば上杉隆みたいな民主党の太鼓持ちは小池百合子の正反対で自民党がやるなら悪いカイカク、民主党がやるなら良いカイカクみたいに語るわけで(ネット上の民主党支持層はこのタイプが多い)、まぁ両者は鏡のようなものでしょうか。

 一方で私は自民党であろうと民主党であろうとカイカク路線には否定的、河野太郎とは対極にいるわけですが、政権交代後は自民党支持層とおぼしき人から好意的なコメントをもらったり、逆に民主党支持層であろう人から支離滅裂な捨て台詞を吐かれたりと、そういうことも増えました。「今の」カイカク路線に否定的、と言う点では小池百合子や(ネット上の)自民党支持層と意見が「結果的に」一致してしまうことも出てきたのでしょうか(反対する理由は違うと思いますが)。逆に民主党応援団みたいな人からすれば、自公政権を批判したのと同じ理由で民主党を批判されるのは受け入れがたいようです。これまた政権交代が起こって自民党が再びカイカクの担い手になったなら、その辺の評価も再び入れ替わると思いますけれど……

 

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もっと先立つものがあるはず

2009-11-29 10:44:12 | ニュース

軍服海外調達「聞いたことない」=防衛相(時事通信)

 北沢俊美防衛相は27日午前の記者会見で、行政刷新会議の「事業仕分け」で自衛隊の制服購入費が海外調達などによる縮減を求められたことについて「軍服を海外に依存するなんて話は世界中で聞いたことがない。その国と危険な状態になったら、おんぼろ服で事に臨むのか」と批判、「経費削減だけで論じている。論点がずれている」と語った。

 この防衛相の「批判」から察するに、自衛隊の制服は全て国産ということのようです。私なんか安物ばっかりですから着ているものは全てmade in Chinaですけれど、皆さんはいかがでしょうか。人によって重視するポイントは違いますから一概には言えませんが、国産の衣服にこだわるのはそれなりに贅沢ですよね。まぁデフレの時代ですから贅沢はむしろ称賛されるべきであり、割高でも国内の業者から調達してこそ内需拡大に繋がります。「バイ・アメリカン」を打ち出したオバマ政権のように「バイ・ジャパニーズ」とでもやれば???

 しかるに、北沢防衛相の「批判」の根拠は随分とずれているようです。「経費削減だけで論じている~」は事業仕分け全般に対する批判として適切なものですが、一方で「軍服を海外に依存するなんて話は世界中で聞いたことがない。その国と危険な状態になったら、おんぼろ服で事に臨むのか」とは、何ともリアリズムを欠いた話です(軍隊好きにはありがちなことかも知れませんが)。

 だってほら、軍服に限れば100%国内調達かも知れませんが、それ以外では「海外に依存」しているものばかりでしょう? そこに配備されているミサイルは純国産ですか? 食料や燃料は全て日本産ですか? どれも「海外に依存」していますけれど、それによって生じた問題など何もないわけです。調達先を海外に変えることで生じる影響など、せいぜい国内の業者が売り上げを落とすくらいではないでしょうか。そもそも軍服だって最終的に国内事業者を通るだけで布地など素材まで全て日本産というわけでもないはずです。まさかの「国産木綿100%」ならいざ知らず、そうでもなければ海外に依存している現状は変わりませんから。

 ましてや、軍服なんて自衛隊の装備品の内でも最も民生品から転用しやすいものの一つではないでしょうか。例えば核弾頭の調達先は限られてますけれど、「服」ぐらいはどこでも手に入りますよね? ある国から調達できなくなったからと言って、それで服が手に入らなくなるような自体などあり得ないわけです。いったい何が起こったら「おんぼろ服で事に臨む」事態に陥るのでしょうか? 世界中を敵に回せばあるいは……と思わないでもありませんが、そんなことになったら軍服なんかよりもっと重要なものが枯渇しているでしょうし。

 まぁ少なくとも日本において軍隊とは聖域ですから、歪んだ特権意識の1つも抱えていたとしてもおかしくはありません。公務員叩きで喝采を浴びる政治家が今や主流を占めるにも関わらず、自衛隊という組織への批判が僅かにある程度で「自衛隊員」叩きなんてのは皆無、それだけ自衛隊は特別な存在なのです(参考)。企業の新人研修先としても自衛隊人気は高まるばかり、それだけ愛されているのでしょう。しかし、自衛隊も少しくらいは世間の冷たい風を浴びても良いのではないかと思いますね。

 コスト削減のために向上を海外移転なんてのは今や全く珍しくない話、時にはコールセンターまで海外移転したりと、人件費の安い国へのシフトは止まるところを知りません。そして我々の社会では高付加価値産業への移行ではなく、発展途上国とのコスト競争(とりわけ人件費の面での!)に走りつつあるわけですが、そうした流れから最も無縁なままでいられたのが自衛隊のような気がします。福祉分野ですら外国人労働者の「輸入」が始まる中で、なぜか軍隊関係だけは全て日本人が担うのが当たり前みたいな感覚が根付いてはいないでしょうか? どこか安価で請け負ってくれる国に「国防」を委託しようなんてことは誰も言い出しません。だけど軍隊だけがいつまでも特権的な立場でいられるとしたら、それはそれでおかしな話です。内需拡大という面では軍服の国内調達継続を支持しますけれど(理解力に乏しい仕分け人の相手をしなければならないことにも同情します)、北沢防衛相の掲げる理由では納得できませんね。

 

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シリーズ・バブル以降 第三章

2009-11-27 22:55:34 | 非国民通信社社説

 第二章の末尾では流行の「ムダ削減」と、「合理化(効率化)」に言及しました。ともすると似たような意味合いを持つかに見える言葉ですが、前者が批判らしい批判もなく肯定的に受け止められがちな一方で、後者に関しては意見が分かれているのではないでしょうか。一般論として右派(改革論者)は効率化という言葉には否定的でないが、労働強化に熱心なだけで実は効率化に背を向けている、左派は効率化というものを人間性とトレードオフになるものとして負のイメージで描き出す、そういう傾向があるような気がします。

 しかし、ムダ削減と効率化、何が違うのでしょうか? 言葉自体を冷静に眺めてみれば、ほぼ重なる範囲を指すのではないかと、そう思い至るはずです。それなのに、方や全面的に追い求められ、方や賛否両論だとしたら、これまた奇妙な話です。なぜ「ムダ削減」は、かくも批判らしい批判もなく歓迎されてしまうのでしょうか。(断じて左派ではありませんが)民主党が財源確保の目玉として「ムダ削減」を掲げ、かの小泉元首相は「小泉構造改革路線を忠実にやっているのは民主党だ」と語って自民党側にもさらなるカイカクとして「ムダ削減」を求める等々、ここでも自民と民主は意見の一致を見ているわけです。お互いに、相手を「不十分」と非難こそすれ、その方向性には微塵もズレがありません。

参考、誰かさんのお墨付き

 民主党支持層には多少の左派も含まれていますが、せいぜいがムダの中身を問うくらいで、「ムダ削減」路線そのものに懐疑的な声はなかなか出てきません。企業経営者やエコノミストが合理化や効率追求を唱えれば批判的に応じる人々でも、「ムダ削減」となると何の疑問も感じないようです。たしかに日本の財界人や御用学者の訴える効率化とは単なる労働強化であってむしろ労働生産性を引き下げるもの、字義通りの効率化とは少なからぬ齟齬があります。しかし経営のムダを省く、ムダな人員を削減する、こうした「ムダ削減」と、経営合理化云々は何が違うのでしょうか? 片方の誤りに気づくことができる人であるなら、もう片方の誤りにも敏感であるべきです。

 勧善懲悪的な世界観の持ち主にとって、物事を解決する唯一にして絶対の手段は誰か「悪い奴(=ムダ)」を退治すること以外にないのでしょう。そこでしばしば矢面に立たされるのが官僚/自治体職員など公的資金の投入先だったりするのですが、その辺を「罰する」ことで世の中が良くなると、そう信じている人も少なくないと思います。そしてこうした懲罰感情を満たしてやることが、昨今では何よりも政治家に期待されることのようです。そこで国民(有権者)の期待に応えようとする政治家が続出しているわけですけれど、もたらされた「結果」はいかが?

 自身が必要と感じる分野に十分な予算が振り向けられないのは、どこか他の分野で無駄に使われているからだ、そういう前提に基づいて行動した結果が今に至るのかも知れません。その「ムダ」と見なされるのは例によって公務員の人件費だったり、あるいは地方の公共事業だったり、金銭的なリターンなど望めない各種の研究予算だったりするわけですが、こうした仮想の「ムダ」を排除すれば、その分だけ浮いた予算が何か「有効に」使われるようになるのでしょうか。どこかの予算を削ればその分が必要な箇所に回るはずだ――安易にそう信じ込んでいる人も多そうです。

 ムダを省けば世の中が良くなると思っている人は、ゲーム機を取り上げれば子供が勉強すると思っている人と同じようなものです。子供が遊んでばかりで勉強しない、ならば遊び道具を取り上げてしまうべきだ、そう考える親は多いですよね。しかし、それで子供が勉強するようになったケースはどれだけあるのか考えてください。往々にして、子供に(ゲーム機を取り上げるという)懲罰を下しただけに留まっているのではないでしょうか。人を罰したことへの満足感こそ味わえたかも知れませんが、当初の目的はどこへやら……

 「ムダ削減」も似たようなものだと思います。どこかの予算を削ったところで、浮いた分が何でも思い通りに使われるとは限りません。何にも使われず滞留することもあれば、よりムダなものへとつぎ込まれることもある、あるいは現場や関係者を混乱させるだけに終わるでしょうか。しかし、その結果よりもまず(気に入らない予算という)ムダを削ってやる、当初は手段であったことそのものが目的化し、追求されてしまうような気もします。元より削減可能な予算規模と別の政策に必要な予算規模の根本的な違いを考えなければ話にもならないのですが、その辺を差し引いてもなお、ムダを削減すれば万事上手く行くかのごとき論調は、あまりにも夢見がちに過ぎるでしょう。まぁ、ムダ削減の段階で大半の人が満足してしまう可能性は否定しませんけれど。

参考、ムダ削減こそが目的であり、手段ではないようです

 ともあれ「ムダ」と聞けば「削っても問題ないもの」と、そう思われがちです。字義的にはまぁ、必要がないからこその「ムダ」ですから。しかし「誰にとってもムダ」かというと、そうは限りませんし、あるいは「今の時点ではムダ」というものもあるわけです。例えばノーベル物理学賞を受賞したことで一躍脚光を浴びたニュートリノ検出装置のカミオカンデなんかはどうでしょう。今となってはノーベル物理学賞受賞という実績によって評価されていますが、もし受賞がなかったとしたら? あるいは文学や芸術なんて、今の事業仕分けの基準からすれば完全に「ムダ」です。しかし、こうした「ムダ」を削った先は?

 そもそもムダを削って「必要なものを」「必要なだけ」という配分の仕方は本当に好ましい結果を生むのでしょうか。一見するとそれは、効率的な予算の配分方法に見えます。だから自分の好きなように予算(あるいは社会的リソース)をコントロールできるだけの強大な権限を握った政府は、「必要なものを」「必要なだけ」分配しようと企てるわけです。ムダなことには予算も人的資源も割り振らない、必要なところに必要なだけ、計画的にリソースを振り分けていく……

 これって要するに、計画経済の発想ですよね? 社会主義国で失敗したアレです。一見するとムダを省いて必要なところに必要なだけリソースを割いていけば、最も効率よく国(社会)を発展させていくことができるように見えるわけですが、その実績は甚だ芳しからぬものです。だから計画経済という言葉自体は否定的に受け止められるのが通例ですが、しかるに近年の政府が追い求めているもの、政権与党が変わっても追い求めているものは、実は計画経済的な発想に著しく近似しているのではないでしょうか。

 自民党系の政治家や御用学者は時に民主党政権を指して「社会主義的」などと言います。それはネトウヨが朝日新聞を左翼と呼ぶのと同レベルの誤りですが、しかるに民主党政権は理念上の社会主義とは甚だしく遠い一方で、社会主義「国」的な要素を濃密に感じさせる体制でもあります。三権分立を公然と否定し(司法への介入を示唆、立法府としての国会の否定など)、一元化の名の下に党幹部に権力を集中させようとする、その自民党以上の強権体質はまぎれもなく社会主義「国」的ですし、「持てるもの」への課税ではなく「ムダ削減」を第一に掲げる計画経済的な発想も実に社会主義「国」的ではないでしょうか。もっとも、この後者の部分は自民党譲りの部分であり、与党と最大野党で同じ性質を共有している部分でもあるわけです!

 必要が発明を生む、需要が供給を生む、そう思われている限り、社会が発展することはありません。そうではなく、発明が必要を生み、供給が需要を生むのです。その当時には必要の無かったものが、新たに発明され供給されることによってこそ新たな需要が生まれ、新たな市場も生まれる、そうすることで社会は拡大していくのです。携帯電話だってテレビだって初めから必要とされてきたのではなく、供給されることによってニーズが喚起されてきたのであり、こうした「必要のないもの」を生み出すエネルギーこそが社会の発展を支える原動力となっているのです。

 例えばそう、新しいパソコンを買うとしましょう。人によっては「必要最低限」の機能に収めたがるかも知れません。一方で「せっかくだから良いものを」買う人もいるでしょう。そうすると、従来の目的には必要ない高性能が手に入るわけです。もちろん新しいパソコンの高性能をムダに眠らせておく人も多いのですが、中には「せっかくの高性能を生かすために」新しい用途を探してくる人もいるはずです。そうして、パソコンの用途が一つ増える=新しいニーズが生まれるわけです。カイカク原理主義者や、「清く貧しい」道徳主義者(両者はしばしば同じ結論に達するものです)は「今」の用途を基準にしてムダを抑えつけようとしますが、これは要するに、新たなニーズの誕生を封じ込める行為に他なりません。

 ムダを省いたはずの計画経済が一見すると効率的なようでいて、その実は成功を収めた実績に乏しいのはこうした理由もあるからでしょう。ムダを省いた社会主義国が停滞したのは、必要のないものを作り出すことで新たな需要を産み出すことができなかったから、だから一時的に成果を上げることはできても、長期的に見れば停滞を招いたわけです。いつまでもその当時の水準で切り盛りしていくつもりなのか、新しい時代へと一歩を踏み出すつもりがあるのか――後者を選ぶのであれば、今の段階ではムダにしか見えないもの(「呪われた部分」とでも呼ぶべきでしょうか)でも生かしておかなければなりません。それが見返りを生む可能性は低いでしょうけれど、「今」必要なものだけにしか目を向けないのであれば、必然的に「今」に留まることを強いられるですから。「ムダを省く」ことには民主、自民に留まらぬ衆目の一致が見られるようですが、ムダを許容するゆとりを持てない限り、今の停滞状況から抜け出すことはできないでしょう。

 

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継続は力なり?

2009-11-26 22:57:36 | ニュース

「長妻流」で巻き返し 強権「一匹オオカミ」(毎日新聞)

◇年金機構の職員採用、連合をバッサリ

 20日朝、平野博文官房長官は閣議を利用して国会内で長妻昭厚生労働相を捕まえ、懸念を伝えた。

 「総理(鳩山由紀夫首相)も心配している。社会保険庁職員の分限免職を決める前にはよく相談するように」

 数々の不祥事を引き起こした社保庁は、来年1月1日、非公務員型の「日本年金機構」に移行する。長妻氏は先月、過去に年金記録のぞき見などで処分を受けた職員を新機構に移さない方針を示し、身内の民主党を刺激した。対象者の大半は同党の支持団体、連合の有力構成組織である自治労傘下の労組員で、約500人に及ぶ。

 彼らは年末までに職を見つけられなければ、解雇と同じ分限免職となって路頭に迷う。そこで労働分野に詳しい弁護士で、連合との関係を重んじる細川律夫副厚労相は11月中旬、連合側に懲戒処分を受けた職員を厚労省の非常勤職員として雇う案をひそかに打診していた。ところが長妻氏は17日の記者会見で、「(非常勤採用を)自動的にできるという意識は持っていない」と切り捨て、平野氏を慌てさせたのだ。

 懲戒処分者の不採用は、自民党政権下の08年に決まった。野党時代から連合と距離を置き、「労組に甘い民主党」との世評とは一線を画すことを狙う長妻氏は、あえて前政権の意向を引き継いだ。

 「ほんまか? 本当に言ったんか?」。10月23日朝、部下から携帯電話で報告を受けた連合の徳永秀昭会長代行(自治労委員長)は耳を疑った。長妻氏が「懲戒処分を受けた者が、今後(年金機構で)記録問題にかかわるのはいかがなものか」と発言したと聞いたためだ。

 見出しからも明白なように結構な長妻ヨイショ記事なんですが、本当に褒められたものかどうかは甚だ疑わしいところです。以前にも取り上げましたが、そもそも過去の処分歴を理由に分限免職という実質上の解雇処分を下すのは二重処分に当たるため、もし裁判になれば国が負ける可能性が高いわけです(行政への不介入を貫く最高裁判所ならいざ知らず!)。厚生労働行政の長たる人物が、自ら不当解雇に踏み切ろうとしている、これが称賛されるべきことなのでしょうか。

 何より、首切り予定の社保庁職員を不適格者に見せたくて仕方がない人たちでさえ、「年金記録のぞき見」程度の軽微な違反しか持ち出せないわけです。整理解雇を正当化させるための口実としても些細に過ぎますし、少なくとも「本業」に悪影響を及ぼすであろう行為とも思えません。とはいえ、やはり事業仕分け同様で、カットすればカットしただけ称賛を浴びるのが今の世の中なのかも知れません。

 まぁ年金行政を立て直すのではなく、国民の支持をつなぎ止めることが目的であるならば、官僚だけでなく労組をも敵に見立てる方が手っ取り早い、それで行政が滞ったとしても「抵抗勢力(この場合は官僚や労組)」のせいにすれば済むわけです。これぞ小泉に始まり長妻の前任者である舛添が体現していた路線ですが、いかがなものでしょう。「あえて前政権の意向を引き継いだ」と引用元の記事では書かれていますが、どうも私には楽な道を選ぼうとしているだけにしか見えないのですけれど。

 各種の世論調査や事業仕分けへの歓迎ぶりからも明らかなとおり、国民が求めているのはムダ削減そのものであり、ムダ削減によって浮いた予算で何か別のことを云々というところにはロクに関心が払われていません。年金行政でも同様なのでしょうか、記録の紛失という失態を犯した社保庁職員の「処分」「懲罰」そのものこそ国民の望むところで、制度の立て直し等々には考えが及んでいない部分もあるような気がします。

 職員を一斉に解雇すれば支持率は上がるでしょうけれど、そこはヒステリックな懲罰感情に安易に迎合せず、不当解雇はしない、二重の処分はしないという「茨の道」を選んで欲しいところです。舛添のように官僚を避難するばかりで自分だけ「国民の側」を気取ってみせる用なのは最悪ですから。今や責任を追及すべき立場ではなく責任を負うべき立場にいることを長妻大臣は自覚しなくてはなりません。いつまでも野党気分じゃ困る、と。

 11月2日。連合の古賀伸明会長と同じパナソニック労組出身の平野官房長官は、長妻氏を首相官邸に呼び出し、強い口調で問いつめた。「分限免職を受けた者による訴訟も起きているんだぞ」

 柔軟な対応を求める平野氏に、長妻氏は平然と切り返した。

 「それなら、長官の範囲でも雇用が見つかるようにしてください」

 平野氏は平野氏で色々と問題のある人物ですが、少なくともこのケースでは長妻氏の方に問題があります。「それなら、長官の範囲でも雇用が見つかるようにしてください」とは逆ギレもいいところ、しかも長妻氏は厚労相なのですから本来であれば最も雇用の問題には繊細であるべきでしょうに。前任者の舛添は労働法が守られていないと嘆くふりをしていましたが、実は中央省庁で最も残業時間の長かったのは舛添の責任区である厚労省であり、残業代の不払いが発生しているなど労働法が守られているとは言い難い有様でした。長妻も同様でしょうか、不当解雇や非正規雇用への置き換えなどを問題視するフリをしつつ、自分の足下でやっていることは???

参考、隗より始めよ

 そもそも「非常勤職員として雇う案」が温情措置のように見られてしまうのってどうなんだろうと思うわけです。過去の処分歴を口実とした二重の処分自体がまず問題外ですし、そうでなくとも「記録のぞき見」程度の違反に対する罰として「非正規雇用への切り替え」は重すぎるのではないでしょうか。しかも初めに「解雇」という極刑を見せることで、あたかも「厳刑」しているかのように演出されていますが、非常勤への切り替えだって過剰な処分として認識されるべきです。例えばどうでしょう、軽微な違反(勤務時間中にサボってたのがバレたとか)で処分された経歴を理由にして、解雇を突きつけられたとしたら? そして解雇を突きつけられた後で、「(解雇は可哀想だから)バイトで良ければ継続して雇用してあげよう」などと言われたとしたら? あるいは派遣切りの場合を考えてみましょう、雇用側が雇い止めを通告した後で、「給料が下がっても良いなら雇用を継続する」などと言い出しとしたら? これが温情措置に見えてしまうとしたら、何かがおかしいと思います。

 

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そしてインテリは嫌い

2009-11-25 22:58:44 | ニュース

「科学技術の基盤崩壊」=予算削減に反対声明-9大学トップ(時事通信)

 科学技術予算の大幅削減を求めた政府の行政刷新会議の事業仕分けを受け、9大学の学長らが24日、東京都内で記者会見を開いた。この場で、学術・科技予算縮小に反対する共同声明を発表。「日本の大学への公的投資は経済協力開発機構(OECD)諸国中で最低水準だ。さらに削減されれば、科学技術立国の基盤の崩壊に至る」と強い危機感を訴えた。

 出席したのは東京、京都大など旧7帝大の学長と早稲田大総長、慶応大塾長の9人。国私立の有名校トップがそろって会見するのは異例だ。

 東大の浜田純一学長は「わたしたちはこれまで世界と激しく競争し、成果を還元するよう全力で努力してきた」と強調。予算削減の動きを「見過ごすことはできない」と批判した。

 慶大の清家篤塾長は「気候変動、少子化などで人類社会の持続可能性に赤信号がともる中、日本の発展だけでなく、世界に貢献しないといけない。長期的な基礎研究は非常に重要だ」と力説した。 

 何が来ようが問答無用で切り捨てるとばかりの勢いで事業仕分けが進められ、結構な喝采を浴びているとのことですが、とりわけ割を食いやすそうな業界からは当然の反論も出てきたようです。言うまでもなく大学でやっているような研究なんて、直接の経済的利益に結びつくようなものは少数派ですから、現行の仕分け基準では分が悪い、必殺仕分け人のご機嫌を取れるような回答など出せるはずもないだけに正念場です。元より日本の場合、教育と経済的な成功との関連性が薄い、下手に大学院など進学しようものなら就業機会が激減してしまうなんて事情もあるくらいですし。

 大学に限らず日本の教育予算の少なさはつとに有名ですが、教育はムダだという考え方も強いのかも知れません。学歴や学校歴はそれなりに重視されますけれど、何を学んだかまでは問われない、むしろ「学校で学んだことなど役に立たない」という感覚こそ日本の企業社会において定説化しているのではないでしょうか。「社会人」に「なる」に当たって「いつまでも学生気分ではダメだ」と良く言われるものですが、それだけアカデミックな領域は軽んじられているということです。

 個人にとって教育を受けることが経済的な成功を約束しないのはまだしも(そればっかりが目的ではないですから)、社会にとってその構成員に教育を受けさせることが経済的な成功を約束しないと考えられているとしたらどうでしょうか? つまり、国民に高度な教育を受けさせることは「国」「社会」にとってプラスになると考えられているのではなく、教育などムダだと考えられているとしたら?

 往々にして国家主義者ほど教育を軽視する傾向にあります。貧乏人は公立へ行け、中卒で働け、みたいな主張が幅を利かせ、国民の教育水準を引き上げることには全く興味がないようです。国の教育水準は彼らにとって誇らしいものではないのでしょう。国民の教育水準が上がれば、彼らの愛する日本にとってもプラスになる、そうは考えられていないわけですから(高付加価値産業向けの高等教育を受けた人材よりも単純労働向けの低賃金労働者を欲しがる辺り、カイカク論者、御用エコノミストも似たような傾向にありますし、政権交代後は民主党支持層にも似たような考えが広まりつつあります)。

 今現在、削減の危機にさらされているのは教育よりも研究色の強い部分ですけれど、根底にあるものは変わりません。「知」そのものへの尊重の欠如であり、極めて短期的な視点での「有用性」によって物事を「仕分け」仕様とする態度は、いずれ専門研究だけではなく高等教育へ、そして基礎教育へと及ばないとは限らないはずです。そうでなくとも最先端たる研究部門なくして、何のための高等教育、そして基礎教育でしょうか。高等教育の目的が単に「大卒の肩書きで就職活動するため」で終わってしまい、その先の研究者が育っていかないようであれば、まぁ日本の「知」は先細りするほかありません。

国立大運営費に厳しい指摘 事業仕分け(朝日新聞)

 来年度予算要求の無駄を洗い出す行政刷新会議の「事業仕分け」は25日、東京・市谷の国立印刷局市ケ谷センターで、後半戦2日目の作業に入った。文部科学省が所管する国立大学の運営費交付金(概算要求額1兆1707億円)については、「大学の経営改善の余地は大きい」として、「予算のあり方の見直し」を求めた。環境省が所管する地球温暖化対策の関連事業は、「廃止」の判断が相次いだ。

 国立大学の運営費交付金は文科省が増額を求めているが、仕分け人は各大学に多数の文科省OBが「天下り」していることを問題視。「経営努力が足りない」「削減努力の余地は十分ある」などと指摘した。

 どうやら「天下り」という「瑕疵」を足がかりにして削減に踏み切る構えのようです。1兆円を超える予算規模において「天下り」のために費やされるマイナス分など誤差のレベルであって大した問題とは思えないのですが、どうなんでしょうね、「天下り根絶」という錦の御旗もしくは葵の印籠があれば、何でも押し通せるですから。私に言わせれば、ちょっと虫が食ったくらいで樹木を丸ごと捨て去るような行為こそ愚の骨頂なんですけれど。

 

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やっぱり体育会系が好き

2009-11-24 22:55:25 | ニュース

ウオーキング、体操…運動しても「不足感じる」7割超(朝日新聞)

 運動をする人は増えているが、7割を超える人が自らを運動不足と感じている――。内閣府が21日公表した「体力・スポーツに関する世論調査」で、そんな結果が出た。

 この1年間、何らかの運動を行ったと回答した人は、前回06年調査から3.2ポイント増の77.7%で過去最高。一方、運動不足を「大いに感じている」「ある程度感じている」と答えた人は計73.9%で、前回から6.3ポイント増えた。運動の内容(複数回答)では、トップは散歩などの「ウオーキング」(48.2%)。ラジオ体操やエアロビクスなどの「体操」(26.2%)、ボウリング(15.7%)が続く。

 今回の結果について、文部科学省スポーツ・青少年局の担当者は「健康情報が多くなり、国民の運動への意識が高くなっている」と指摘する。

 調査は79年以降、ほぼ3年ごとに行われ、今回は9~10月に全国の成人3千人を対象に実施。回収率は64.2%だった。

 運動をしていると回答した人は3.2%増加して過去最高を記録したのに、運動不足と感じている人は6.3%増なのだそうです。運動している人が増えたのなら運動不足を感じている人が減っても良さそうなものですが、逆の結果になっていますね。凶悪犯罪が減れば減るほど「治安が悪化している」と考える人が増えるのと同じようなものでしょうか。自分の状態を正しく把握できないのはいつものこと?

 まぁ「運動不足を感じる人が増えた」から、「運動する人が増えた」とも言えるわけですが、何故そこまで運動不足を感じるのでしょうか。「運動しなきゃいけない」みたいな強迫観念に駆られている部分もあるような気がします。そもそも運動したかどうか、運動が不足しているかどうかに関わらず健康であれば問題なさそうなものですけれど、それでもとにかく運動しなきゃ、と言う思いが強いようです。

 学力調査の結果なんかですと、しばしば諸外国との比較が引き合いに出されるのですが、体力テストの結果が他国と比較されたケースは寡聞にして見たことがありません。探せば見つからないことはないのかも知れませんが、それがレアケースであることに異論はないと思います。そこで学力は外国と比較したがるのに、体力に関しては日本国内で話が完結しがちなのは何故なのでしょうか?

参考、体育会系社会だし

 上記リンク先のエントリで、いくつか仮説を立てたことがあります。「日本以外では全国レベルの体力測定なんてやらない=比較できるデータがないから」「(体力低下という)危機を煽るには都合の悪い結論(=日本人は体力がある)が導き出されてしまうから」などと推測してみたのですが、いかがなものでしょう、日本だけが突出して「運動しなきゃ」という強迫観念に駆られているとしたら、日本だけが体力テストに熱心という可能性も高そうですよね。

 こちらでは2007年時点での意識調査を取り上げました。何でも中国や韓国と比較して日本の子供は勉強に対する意識が低いそうです。その代わり以下のような回答が日本の子供には目立ちました、すなわち……

あなたはどんな友達が好きですか? 
                    ―――スポーツがよくできる人
あなたは学校の授業が終ると、だいたい何をすることが多いですか? 
          ―――学校で友達とスポーツをしたり、遊んだりする
あなたは休日にはたいていどんなことをしますか? 
                    ―――スポーツをする
この夏休み、あなたは次のことをしましたか? 
                    ―――スポーツクラブに参加した
あなたはどのような人間になりたいですか。 
                    ―――スポーツのよくできる子になりたい

 まぁ子供相手の調査ですけれど、大人になったら逆転するということもないですよね。むしろ日本人は運動不足であるよりも、過度に運動を重んじているだけなのではないでしょうか。「健康情報が多くなり~」ということですが、誤った健康情報に踊らされているだけのような気もしますし。治安悪化神話に基づいて誤った対策を立ててきたように、「運動不足神話」に基づいて怪しげな民間療法に狂奔するような羽目になっていなければいいのですが。

 

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無党派なら無党派なりの一貫性があるが……

2009-11-23 11:23:25 | 編集雑記・小ネタ

 今日は「一貫性」の話です。だいぶ以前に右派には右派なりの一貫性があるみたいな話を書きましたが、左派や「与党」民主党(支持層)の場合はどうでしょうか。先日のエントリでは、民主党が官房機密費の使途を公開しない云々を取り上げました。野党時代には公開を主張していたものを、与党になったら非公開と言い出すのはどうかと思うわけですが、ともあれ民主党の態度としては自民党が使い込んだ分も、これから民主党が使う分も公開しないとのことです。ふ~む、自民党が使った分だけ公開して、自分たちが使う分は非公開とするよりは筋が通る、のか?

 まぁ、見方次第です。自民党が結んだ密約は公開するけれど、これから民主党が結ぶ密約は公開しないと言ったら素晴らしいダブルスタンダードですよね。だからある意味、官房機密費のように「自民党時代だろうが民主党時代だろうが使途は公開しない」というのは一貫性のある態度と言えます。そんなところで一貫性を発揮されても肩をすくめるほかありませんけれど。

 有権者の動向はいかがでしょう、かつて小泉カイカクに熱狂して自民党に票を投じた人の多くが、先の衆院選では民主党に票を投じました。ともすると選挙時点での流行廃りに流される人々に見えるかも知れませんが、そうした人々なりの「一貫性」もまた見いだせると思います。例えばほら、こちらこちらで世論調査の結果を取り上げましたが、民主党がマニフェストに掲げてきた目玉政策に関しては賛否両論で内閣支持率に比べると実に心許ない賛意しか集まっていない、そんな中で例外的に内閣支持率を上回る圧倒的多数の賛同を得ているのが「天下り根絶」であり、「行政のムダを減らす取り組み」でした。

 つまり、「無党派」「浮動票」などと呼ばれる人々の選択基準は小泉時代から何も変わっていない、微塵も「ブレ」がないと見ることができます。「天下り根絶」と「行政のムダを減らす取り組み」こそ、小泉以降の自民党と現在の民主党とで共有している部分であり、「浮動票」の担い手達は決して流行に流されたわけではなく、一貫して同じものを要求し続けているのです。たまたま投票先の政党が変わっただけであり、政治に対して期待するものを変えたわけではない、その当時の政治情勢に応じて、自分たちの理想を実現させてくれる可能性の高い政党を選んでいるのですから。

 一見するとバカにされがちな「浮動票」の持ち主ですが、実は筋の通った行動をしているとも考えられる、むしろ「何が何でも民主党」の人の方が問題とすら言えるのかも知れません。特に小沢一郎の不正献金疑惑あたりから顕著になりましたが、自民党議員の「カネ」の問題には容赦なく追求する姿勢を見せていたのに民主党の大物に同類の疑惑が及ぶや、政治には金がかかる云々と態度を翻した人も目立ちました。カネの絡まないクリーンな政治を是としていたくせに、民主党議員に追求が及べば政治信条を180°ひっくり返す、これでは筋が通らないでしょう。

 私なんかは政治とカネの問題には関心が薄い方ですから、自民党政治家の「カネ」の問題にもあまり突っ込まない、むしろ「政策上の過ち」よりも「カネ」や「女」の問題の方が政治家として致命傷になる現状を批判していたくらいです(この辺とかこの辺とか)。だから今もくすぶる鳩山や小沢の金銭問題にもとやかく言う予定はありませんが、自民党議員の金銭問題を批判してきた民主党支持層が鳩山や小沢の疑惑に知らんぷりを決め込むとしたら、それはどうかと思うわけです。むしろ疑惑の渦中にいる政治家当人より、その支持層にこそ不信を抱いてしまうぐらいですね。

 まぁ時と場合で判断を変えるのが一概にダメとは言いません。経済情勢の如何に関わらず一貫してインフレの心配をするのではなく、インフレ傾向の時はインフレの心配を、デフレ傾向の時はデフレの心配をする、そうした「使い分け」も必要です。バブル期ならば過剰投資を警戒すべきですし、今のような状況ならば安易な予算カットをこそ警戒すべきなのです(この冬の時代、一度でも凍結されたら凍死確定ですから!)。好況だろうが不況だろうが緊縮財政路線を取られては堪ったものではありません。

 ……そうはいっても、最低限の一貫性がないと信頼できないわけです。元から緊縮財政にも強行採決にも金銭問題にも取り立てて否定的でなかった人が自民党から民主党に鞍替えするのはまだ許せるとして、構造改革を批判するような立場を取りつつ民主党を一貫して支持し続ける人ってのは昨今の「事業仕分け」辺りをどう見ているのでしょうか。財務省ってのは中央省庁の内で最も小泉カイカクとの親和性が高かった部署だと思いますけれど、脱官僚を唱えながら(小泉カイカクを支えた)財務省とは堅く手を組み、不採算部門(=カネにならない部門)は容赦なく切り捨てていく、こういう手口は今に始まったものではないはず、自民党がやるなら批判するけれど、民主党がやるならOK、なんてことは勘弁願いたいものです。

 

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野党時代の主張を捨てないで

2009-11-21 23:07:12 | ニュース

野党時代の透明化主張、機密費公表迫られる(読売新聞)

 平野官房長官が20日、2004年度以降の官房機密費(内閣官房報償費)の月別支出額を公表したのは、民主党が野党時代に使途の公開や機密費の廃止を主張していたため、一定の公開姿勢を示す必要性に迫られたためだ。

 ただ、公表されたのは情報公開請求で入手可能な一部情報のみで、使途の公表は拒否した。公開に消極的と見られ、政権のイメージダウンにつながるのを避けようと、苦しい対応を迫られた格好だ。

 民主党は01年、国会に「機密費公表法案」を提出した。〈1〉支払い担当者や金額を明示した支払記録書を作成・保存する〈2〉支払記録書のうち、機密性の高いものは25年後、それ以外は10年後に公表する――ことを政府に義務づける内容だ。当時の党代表は鳩山首相で、代表質問で「機密費の使い道について国民に説明する義務がある」と森首相を厳しく追及していた。

 さて、この官房機密費については周知の通り「野党時代の」民主党が公開を強く要求していたものです。そして「与党時代の」民主党が使途は公開しないと言いだしたものでもあります(参考)。まぁ野党時代と与党時代で態度を違える、言を翻すのは今になって始まったことではなく選挙前から予測されていたことのはず、選挙で民主党に投票した人なら、これくらいは覚悟の上ですよね?

 さて「情報公開請求で入手可能な一部情報のみ」が公開されたそうです。隠せない部分に関しては自分から公開するしかないという判断だったのでしょう。例によって使途の公表は拒否、今後も使途は公表しないとの方針ですから、自民党時代も民主党時代も例外なく使途は非公開、それはそれで(民主党らしからぬ!)一貫性があると言えなくもありませんが、こういう面で一貫性を発揮されても……

 民主党に期待しうる部分があるとしたら、それはすなわち自民党と対決する都合上で生じた部分にこそあると思うわけです。自分たちは自民党とは違うと主張するため、自民党とは反対の方向を向いてきたところもあって、そういう部分に限っては民主党にも良いところはあります。もっとも「古い」自民党の反対方向を向いてばかりで、「小泉以降の」自民党の反対方向を向いているかというと甚だ微妙ですが。

 ともあれ自民党を乗り越えようとする都合上、自民党とは逆の道を選んできた側面があるわけです。自民党が官房機密費を隠そうとするなら民主党は公開を方針に掲げ、自民党が規制緩和一直線なら民主党は規制緩和見直しを主張する等々。しかるに実態はどうでしょうか、野党時代は「与党=自民党」と反対側に立つこともあった民主党ですが、与党になったら自民党の代わりに収まっている、これでは政権交代すら茶番と言わざるを得ません。先の衆院本会議では民主党が強行採決に踏み切り、批判には「(野党の)審議拒否だ」と応じる――これって自民党と民主党の立場が入れ替わっただけですよね? 自民の強行採決は悪い強行採決、民主の強行採決は良い強行採決だと、そう思っている支持層は少なくないのかも知れませんけれど。

自衛隊イラク派遣「違憲でなかった」 官房長官(NIKKEI NET)

 平野博文官房長官は19日の参院内閣委員会で、イラクへの自衛隊派遣について「現政権として違憲との考えに立っていない」と述べた。民主党は野党時代の2004年、当時の菅直人代表が派遣を憲法違反と批判していた。官房長官は「非戦闘地域が事実か野党の時は十分に分からなかった。(現在は)非戦闘地域という認識なので、活動が違憲とは考えていない」と説明した。公明党の山本香苗参院議員への答弁。

 もう一つ平野官房長官ネタです。野党時代は違憲と批判していたイラク派遣ですが、与党となった今は「違憲とは考えていない」そうです。まぁ民主党らしいと言えば民主党らしいですが、いかがでしょうか、どうも民主党は前政権に対して「手ぬるい」印象を拭えません。官僚相手なら何でもかんでも乱暴に切って捨てるのに、自民党相手には随分と手心を加えているような気もします。

 まず官僚主導の政治がダメなのであって、自民党がダメなのも官僚主導から脱却できないからだ、みたいなことを選挙前の鳩山現首相は繰り返していました。あたかも、官僚が「主犯」で自民党は「従犯」に過ぎないかのような語り口だったのではないでしょうか。そして政権交代後、官僚は一方的に断罪される一方で自民党の扱いはどうでしょう? 自民党が使い込んだ官房機密費を全部ばらすとか、自民党が無理を通して派遣に踏み切ったイラク派兵を全否定するとか、それくらいやってもよさそうなものですけれど、現状は正反対です。今のままでは、むしろ自民党をかばい立てしているようにすら……

 

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最低の発明であることが理解できない日本

2009-11-20 23:10:30 | ニュース

スマイル測定「今年最低の発明」 米タイム誌「独断で」(朝日新聞)

 米タイム誌は最新号で、今年最高の発明1~50位と最低の発明五つを掲載した。最低の発明には「ガスマスクとしても使えるブラジャー」などと並び、オムロン(本社・京都)が開発した笑顔をチェックするシステム「スマイルスキャン」を選んだ。

 接客サービスの向上などが狙いのシステムで、カメラ映像の中から顔を認識して「笑顔度」を0~100%で測定する。オムロンによると、鉄道会社の駅員や病院の看護師らに利用が広がっており、同誌電子版は「最高の表情を作るため、ソフトウエアに顔をスキャンされる日本の大手私鉄社員」の写真も掲載した。

(中略)

 タイム誌は10年ほど前から毎年、最高の発明を選び、今年は最低も選んだ。その基準を広報担当は「編集者の独自の判断」と説明した。

 オムロンの広報担当者は「残念な選出ですが、世の中に笑顔を増やすという製品の意図を理解してもらっていたら、評価も変わっていたかもしれません」と話した。

 たぶん「化石賞」とか「ビドーネ・ドーロ」みたいに不名誉な賞として受け止められているのでしょう。イグノーベル賞みたいな揶揄がありつつも好意的な評価とは違う、だから引用記事では日本製品の受賞に際し、「編集者の独自の判断」などと強調することで、なんとかして選定基準にミソを付けてやろうとしているようにも見えます。私には妥当な選考だとしか思えないですけれど。

 まぁ「最低の発明」はどこの国でもあり得ることです。日本だから、と言うものでもないわけです。しかしどうでしょう、「最低の発明」がその「母国」においても最低の発明として評価されているのか、それとも「外国」では最低の発明と評価されているのに「母国」では全く評価が違うのかを考えてください。「ガスマスクとしても使えるブラジャー」は、母国であるアメリカでもネタグッズとして笑いの対象でしょうけれど、「スマイルスキャン」を最低の発明と見なす発想は、アメリカを初めとする諸外国にはあっても、日本にはないのではないでしょうか。もしかしたら、日本人だけが例外的にありがたがっているとしたら……

 カラオケとかotakuとか、世界で歓迎されている日本の発明は多々あります。その一方で、日本国内では広範に普及しているのに、世界には全く波及しない日本の発明もあるわけです。たとえばカプセルホテル(東京都知事選出馬で政治ブロガーの知名度も高い黒川紀章氏の発明)なんかですね。これはたぶん日本限定、探せば見つけられるかも知れませんが、カラオケやスシバーと違って世界中に広まってはいません。日本ではこれだけ広まっているのに。

 その昔、知り合いのロシア人留学生が「アレはホテルではなく死体安置所だ」みたいなことを言っていました。生きた人間をああいう空間に押し込めるなんて信じられないとか。そりゃそうですよね、人間をモノとして扱う発想がないと、カプセルホテルなんて思いつかないでしょう。アレと似たようなものと言えばまさに死体置き場だったり、せいぜいが暗めのSF映画の宇宙船でコールドスリープ状態の乗組員を収納するスペースくらいですよね?

 日本以外の文化圏の人間からすれば悪夢の産物でしかないものを、しれっと日常に紛れ込ませているのが現代の日本社会なのかも知れません。その一つがカプセルホテルであり、今回の「スマイルスキャン」だったのではないでしょうか。笑顔とは自然に出てくるもののはず、それを機械で作り出そうなんて企てに戦慄しないでいられる社会は日本くらいであり、日本以外の文化圏の住民からすれば、まさしく機械が人間の感情をも支配する悪夢のような未来を想起させるものだったのでしょう。

 刑務所跡地が観光スポットになっているところもあって、中には「刑務所一泊ツアー」みたいなネタ色の強い催しもあるそうです。そういうものを「娯楽」として消化するような人にしてみればカプセルホテルもスマイルスキャンも話のタネとしては喜ばれるのでしょうけれど、日本のすごいところはこれがネタではなくマジだというところです。「ディストピアごっこ」の舞台装置としてカプセルホテルやスマイルスキャンがあるのではなく、各地の職場で導入されるなど「日常」に組み込まれている――つまりはアトラクションとして幽霊屋敷が作られているのではなく、幽霊屋敷で生活することを強制しているようなものであり、まさに気が狂っていると見なされても不思議ではないと思います。

 「世の中に笑顔を増やすという製品の意図」などとオムロンの広報担当者は宣うわけですが、機械による測定で増やされた笑顔に何の意味があるのでしょうか。独裁国家の「将軍様」の支持率と同じです。忠誠心を測ることで「不合格」な人間をあぶり出し、脅しを掛けることによって見せかけ上の支持を作り上げる、それと同じことです。人に笑顔を強制する、喜ぶことまでを強制しようとする国家では人権が守られているとは言えないでしょう。

 なぜスマイルスキャンが最低の発明に選ばれたのか、その理由が理解されないよう社会が次に産み出すのは何でしょうか。笑顔の測定器の次は、「仕事へ取り組む真剣さ」を測る機械でも作られそうですね。スマイルスキャンの前で必死に笑顔を作ることを強いられた次は、測定器で勤務態度を監視される……こうなっても不思議ではありません。その最終形態は「思想/信条スキャン」でしょうか? とかく「心」を支配したがる国ですから。

 

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ムダ削減こそが目的であり、手段ではないようです

2009-11-19 22:56:34 | ニュース

内閣支持率62%、ムダ削減「評価」76% 世論調査(朝日新聞)

 朝日新聞社が14、15日に実施した全国世論調査(電話)によると、鳩山内閣の支持率は62%で、前回調査(10月11、12日)の65%からやや下がった。不支持率は21%(前回16%)。個別政策への評価は必ずしも高くはないものの、行政のムダを減らす取り組みを「評価する」人が7割を超えるなど、内閣の基本姿勢は高い評価を受けている。

 内閣支持率は、民主支持層では9月の内閣発足直後の調査(前々回)以降、9割以上の高さを保っているが、無党派層では55%、50%、39%と下落傾向が顕著だ。

 個別分野での内閣の取り組み評価では、年金・医療政策では「評価する」48%、「評価しない」28%だが、景気・雇用対策は37%対38%、外交・防衛政策は36%ずつと、いずれも意見が分かれた。

 これに対し、行政のムダを減らす取り組みは「評価」76%、「評価しない」14%。政府の行政刷新会議による事業仕分けが進行中なのも影響しているようだ。官僚に頼った政治を改める取り組みも「評価」が69%で「評価しない」の18%を大きく上回る。

 民主党がマニフェストに掲げた政策は「必ず実現すべきだ」との答えは16%にとどまり、「柔軟に見直してもよい」が77%と圧倒的多数だ。

 以前から指摘してきたことですが、民主党政権はその内閣支持率の高さに比して、個々の政策への賛意を十分に集めていません。鳩山内閣は支持するけれどマニフェストに掲げた○○や××には反対、みたいな人が多いわけです。唯一の例外として「天下り根絶」だけは内閣支持率を上回る世論の支持を受けていましたけれど。

 そこで今回の調査結果はいかがでしょうか。ご祝儀相場が終わりつつあり、内閣支持率も緩やかに下がっていますが、それでも十分に高い数値です。例によって内閣支持率が高い割に個々の政策への評価は意見が分かれる、内閣は支持するけれど政策は評価しないという人が多いのは相変わらずです。そんな中で、「天下り根絶」同様に一つだけ抜きん出て高い評価を得ているのが「行政のムダを減らす取り組み」だとか。個別政策への評価の低さにも関わらず、「行政のムダを減らす取り組み」に関しては内閣支持率を上回る7割超の賛意を得ているようです。おそらく民主党支持層と自民党支持層とで、思いを共有できている部分なのでしょうね。

 やはり国民が民主党に期待しているものは「ムダ削減」であって、ムダを削減して云々という「その先の」話ではなさそうです。一応の大義名分として、民主党が自身の公約を実現するため、その財源を捻出する手段として「ムダ削減」が位置づけられているわけですが、国民の関心は何よりも「ムダ削減」であって、その先ではないのでしょう。「ムダ削減」自体には7割を超える支持があるのに、ムダ削減によって捻出された財源で実現させようとしている諸々の政策に関しては、むしろ反対意見の方が強いくらいですから。国民は「ムダを削減して公約を実現させて欲しい」と民主党に期待したのではなく、「とにかくムダを削減して欲しい」と願ったと見て間違いなさそうです。

 一昔前は手段と目的が云々という話をよく書いていました。より良い社会を作るという目的があって、その手段として政権交代がある、政権交代という目的を達成するための手段として民主党に票を集めるという手段がある、こうしたルートを経る内に「民主党の勝利」こそが至上の目的となり、最初の目的すなわち「本来の」目的が見失われていると、そう主張してきたわけです。そこでムダ削減の議論はいかがなものでしょうか? 少なくとも国民の半分くらいは、かつて手段であったはずのものを今や目的として追求しているように見えます。ムダを削減せずとも当初の目的を達成できればよいのではないかと私なんかは思うわけですが、どうやらムダを削減すること自体が政府の評価を左右することになりそうです。そしてムダを削減することによって捻出した財源で何をするかまでは、たぶん深くは追求されないでしょう。むしろ「何か」に使えばそれこそ新たなムダと呼ばれかねないくらいです。国債発行が論議された際に鳩山首相は「国民の意思として伝えられたら、そういう(公約を見送る)方向もある」と語りました。ではムダ削減そのものが国民の意思であると告げられたなら……

 

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