第二章の末尾では流行の「ムダ削減」と、「合理化(効率化)」に言及しました。ともすると似たような意味合いを持つかに見える言葉ですが、前者が批判らしい批判もなく肯定的に受け止められがちな一方で、後者に関しては意見が分かれているのではないでしょうか。一般論として右派(改革論者)は効率化という言葉には否定的でないが、労働強化に熱心なだけで実は効率化に背を向けている、左派は効率化というものを人間性とトレードオフになるものとして負のイメージで描き出す、そういう傾向があるような気がします。
しかし、ムダ削減と効率化、何が違うのでしょうか? 言葉自体を冷静に眺めてみれば、ほぼ重なる範囲を指すのではないかと、そう思い至るはずです。それなのに、方や全面的に追い求められ、方や賛否両論だとしたら、これまた奇妙な話です。なぜ「ムダ削減」は、かくも批判らしい批判もなく歓迎されてしまうのでしょうか。(断じて左派ではありませんが)民主党が財源確保の目玉として「ムダ削減」を掲げ、かの小泉元首相は「小泉構造改革路線を忠実にやっているのは民主党だ」と語って自民党側にもさらなるカイカクとして「ムダ削減」を求める等々、ここでも自民と民主は意見の一致を見ているわけです。お互いに、相手を「不十分」と非難こそすれ、その方向性には微塵もズレがありません。
参考、誰かさんのお墨付き
民主党支持層には多少の左派も含まれていますが、せいぜいがムダの中身を問うくらいで、「ムダ削減」路線そのものに懐疑的な声はなかなか出てきません。企業経営者やエコノミストが合理化や効率追求を唱えれば批判的に応じる人々でも、「ムダ削減」となると何の疑問も感じないようです。たしかに日本の財界人や御用学者の訴える効率化とは単なる労働強化であってむしろ労働生産性を引き下げるもの、字義通りの効率化とは少なからぬ齟齬があります。しかし経営のムダを省く、ムダな人員を削減する、こうした「ムダ削減」と、経営合理化云々は何が違うのでしょうか? 片方の誤りに気づくことができる人であるなら、もう片方の誤りにも敏感であるべきです。
勧善懲悪的な世界観の持ち主にとって、物事を解決する唯一にして絶対の手段は誰か「悪い奴(=ムダ)」を退治すること以外にないのでしょう。そこでしばしば矢面に立たされるのが官僚/自治体職員など公的資金の投入先だったりするのですが、その辺を「罰する」ことで世の中が良くなると、そう信じている人も少なくないと思います。そしてこうした懲罰感情を満たしてやることが、昨今では何よりも政治家に期待されることのようです。そこで国民(有権者)の期待に応えようとする政治家が続出しているわけですけれど、もたらされた「結果」はいかが?
自身が必要と感じる分野に十分な予算が振り向けられないのは、どこか他の分野で無駄に使われているからだ、そういう前提に基づいて行動した結果が今に至るのかも知れません。その「ムダ」と見なされるのは例によって公務員の人件費だったり、あるいは地方の公共事業だったり、金銭的なリターンなど望めない各種の研究予算だったりするわけですが、こうした仮想の「ムダ」を排除すれば、その分だけ浮いた予算が何か「有効に」使われるようになるのでしょうか。どこかの予算を削ればその分が必要な箇所に回るはずだ――安易にそう信じ込んでいる人も多そうです。
ムダを省けば世の中が良くなると思っている人は、ゲーム機を取り上げれば子供が勉強すると思っている人と同じようなものです。子供が遊んでばかりで勉強しない、ならば遊び道具を取り上げてしまうべきだ、そう考える親は多いですよね。しかし、それで子供が勉強するようになったケースはどれだけあるのか考えてください。往々にして、子供に(ゲーム機を取り上げるという)懲罰を下しただけに留まっているのではないでしょうか。人を罰したことへの満足感こそ味わえたかも知れませんが、当初の目的はどこへやら……
「ムダ削減」も似たようなものだと思います。どこかの予算を削ったところで、浮いた分が何でも思い通りに使われるとは限りません。何にも使われず滞留することもあれば、よりムダなものへとつぎ込まれることもある、あるいは現場や関係者を混乱させるだけに終わるでしょうか。しかし、その結果よりもまず(気に入らない予算という)ムダを削ってやる、当初は手段であったことそのものが目的化し、追求されてしまうような気もします。元より削減可能な予算規模と別の政策に必要な予算規模の根本的な違いを考えなければ話にもならないのですが、その辺を差し引いてもなお、ムダを削減すれば万事上手く行くかのごとき論調は、あまりにも夢見がちに過ぎるでしょう。まぁ、ムダ削減の段階で大半の人が満足してしまう可能性は否定しませんけれど。
参考、ムダ削減こそが目的であり、手段ではないようです
ともあれ「ムダ」と聞けば「削っても問題ないもの」と、そう思われがちです。字義的にはまぁ、必要がないからこその「ムダ」ですから。しかし「誰にとってもムダ」かというと、そうは限りませんし、あるいは「今の時点ではムダ」というものもあるわけです。例えばノーベル物理学賞を受賞したことで一躍脚光を浴びたニュートリノ検出装置のカミオカンデなんかはどうでしょう。今となってはノーベル物理学賞受賞という実績によって評価されていますが、もし受賞がなかったとしたら? あるいは文学や芸術なんて、今の事業仕分けの基準からすれば完全に「ムダ」です。しかし、こうした「ムダ」を削った先は?
そもそもムダを削って「必要なものを」「必要なだけ」という配分の仕方は本当に好ましい結果を生むのでしょうか。一見するとそれは、効率的な予算の配分方法に見えます。だから自分の好きなように予算(あるいは社会的リソース)をコントロールできるだけの強大な権限を握った政府は、「必要なものを」「必要なだけ」分配しようと企てるわけです。ムダなことには予算も人的資源も割り振らない、必要なところに必要なだけ、計画的にリソースを振り分けていく……
これって要するに、計画経済の発想ですよね? 社会主義国で失敗したアレです。一見するとムダを省いて必要なところに必要なだけリソースを割いていけば、最も効率よく国(社会)を発展させていくことができるように見えるわけですが、その実績は甚だ芳しからぬものです。だから計画経済という言葉自体は否定的に受け止められるのが通例ですが、しかるに近年の政府が追い求めているもの、政権与党が変わっても追い求めているものは、実は計画経済的な発想に著しく近似しているのではないでしょうか。
自民党系の政治家や御用学者は時に民主党政権を指して「社会主義的」などと言います。それはネトウヨが朝日新聞を左翼と呼ぶのと同レベルの誤りですが、しかるに民主党政権は理念上の社会主義とは甚だしく遠い一方で、社会主義「国」的な要素を濃密に感じさせる体制でもあります。三権分立を公然と否定し(司法への介入を示唆、立法府としての国会の否定など)、一元化の名の下に党幹部に権力を集中させようとする、その自民党以上の強権体質はまぎれもなく社会主義「国」的ですし、「持てるもの」への課税ではなく「ムダ削減」を第一に掲げる計画経済的な発想も実に社会主義「国」的ではないでしょうか。もっとも、この後者の部分は自民党譲りの部分であり、与党と最大野党で同じ性質を共有している部分でもあるわけです!
必要が発明を生む、需要が供給を生む、そう思われている限り、社会が発展することはありません。そうではなく、発明が必要を生み、供給が需要を生むのです。その当時には必要の無かったものが、新たに発明され供給されることによってこそ新たな需要が生まれ、新たな市場も生まれる、そうすることで社会は拡大していくのです。携帯電話だってテレビだって初めから必要とされてきたのではなく、供給されることによってニーズが喚起されてきたのであり、こうした「必要のないもの」を生み出すエネルギーこそが社会の発展を支える原動力となっているのです。
例えばそう、新しいパソコンを買うとしましょう。人によっては「必要最低限」の機能に収めたがるかも知れません。一方で「せっかくだから良いものを」買う人もいるでしょう。そうすると、従来の目的には必要ない高性能が手に入るわけです。もちろん新しいパソコンの高性能をムダに眠らせておく人も多いのですが、中には「せっかくの高性能を生かすために」新しい用途を探してくる人もいるはずです。そうして、パソコンの用途が一つ増える=新しいニーズが生まれるわけです。カイカク原理主義者や、「清く貧しい」道徳主義者(両者はしばしば同じ結論に達するものです)は「今」の用途を基準にしてムダを抑えつけようとしますが、これは要するに、新たなニーズの誕生を封じ込める行為に他なりません。
ムダを省いたはずの計画経済が一見すると効率的なようでいて、その実は成功を収めた実績に乏しいのはこうした理由もあるからでしょう。ムダを省いた社会主義国が停滞したのは、必要のないものを作り出すことで新たな需要を産み出すことができなかったから、だから一時的に成果を上げることはできても、長期的に見れば停滞を招いたわけです。いつまでもその当時の水準で切り盛りしていくつもりなのか、新しい時代へと一歩を踏み出すつもりがあるのか――後者を選ぶのであれば、今の段階ではムダにしか見えないもの(「呪われた部分」とでも呼ぶべきでしょうか)でも生かしておかなければなりません。それが見返りを生む可能性は低いでしょうけれど、「今」必要なものだけにしか目を向けないのであれば、必然的に「今」に留まることを強いられるですから。「ムダを省く」ことには民主、自民に留まらぬ衆目の一致が見られるようですが、ムダを許容するゆとりを持てない限り、今の停滞状況から抜け出すことはできないでしょう。
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