非国民通信

ノーモア・コイズミ

日本も負けてない

2017-04-30 22:40:58 | 社会

(ゆがむ事実:1)虚偽拡散、気づけば「真実」(朝日新聞)

 昨年の米大統領選で、トランプ旋風とともに全米に広がったフェイクニュース。「火付け役」の一人に会おうと、アリゾナ州フェニックスを訪ねた。男性は、半袖シャツ姿で待ち合わせ場所のレストランに現れた。

 ポール・ホーナー(38)。株のネット取引などで稼ぐかたわら、abcnews.com.co▽cnn.com.de▽nbc.com.co――といった、大手メディアに似せたサイトを次々と開設。でっち上げのニュースを選挙序盤から発信した。

(中略)

 トランプが大統領選で勝利すると、米内外のメディアから取材が殺到。「トランプをホワイトハウスに入れた男」などと報じられた。だが、ホーナーは「俺はトランプが嫌いだ。後押しするつもりはなかった」と主張する。

 では、なぜフェイクを広めたのか。自らの発信を「Artwork(芸術作品)」と言うホーナーに動機を聞くと、「トランプの言葉をうのみにする人も批判するメディアも、自分たちの信じたいことのみを受け入れ、伝えている。何が真実なのか、みんなに突き詰めてほしかった」。

 ホーナーは発信後に「実はフェイクだ」と明かしたこともあったという。だが、「一度本当だと信じた人の考えを変えることはできなかった」と振り返る。

 

 さて偽ニュースを流してヒラリー陣営のネガキャンに努めていた人がいたわけですが、殺到する取材に恐ろしくなったのか、苦しい言い訳に努めている様子が伝えられています。日本の政治家が言うところの「誤解を招いた」「真意が伝わらなかった」みたいなものですね。もちろん、問題視されてからの釈明に真実など微塵もあろうはずはなく、日本でもアメリカでも真意が伝わったからこそ世間で大きく取り上げられるのです。このホーナー氏が(相対的にではあれ)トランプ支持であることに疑いの余地はないでしょう。

 本人の言い訳はさておき、「実はフェイクだ」と明かしても「一度本当だと信じた人の考えを変えることはできなかった」とのコメントは聞くべき価値があるかも知れません。日頃からブログやTwitter、2ちゃんねる等々でデマの発信に努めている人も多いと思いますが、自分の発言(デマ)が拡散して自分の手の届かないところまで行ってしまう、そんなリスクは考えた方が良いのではないでしょうか。それが問題視されてから「何が真実なのか、みんなに突き詰めてほしかった」などと言い訳しても、それを信じる人などいないですので。

 往々にして、人は事実よりも信念で動くものです。どんなに事実を突きつけられようとも、そんなことは意に介さず自分の信じたいものを信じ続ける、これは珍しいことではありません、むしろ「普通の」こととすら言えます。史実をねじ曲げるために情熱を捧げる人もいれば、科学的根拠のない健康食品を愛用し続ける人もいる、とりわけ原発事故の後では事実を力強く無視してデマの発信に努め、「福島」がモノだけではなく人までも排除、差別されるよう努めてきた人がいたわけです。彼らの信じる世界観を否定する材料はいくらでもある、むしろ彼らの根拠には妄想しかないと言えますが、それでも多く人にとって信念は事実よりも重いのではないでしょうか。

 利益よりも理想を追い、全く成果の上がらない改革を追い求める政治家や財界人、財務官僚には枚挙にいとまがありません。誰しもが「モノ」よりも「こころ」を重視すると言いますか、現実的な利益よりも精神的な満足感を得られる方を選びがちではないでしょうか。それが虚構に過ぎなくとも、「そうあって欲しい」と願う気持ちの前では妄想と事実の境界は容易く揺らいでしまいます。「嘘も百回言えば真実になる」という言葉の起源には諸説ありますが、確かに嘘も百回言えば「真実として受け止められる」という実態はあるわけです。

 石原晋太郎を都知事に据えた日本は、トランプを大統領に選んだアメリカよりもずっと先を行っていると感じるところですが、そんな我が国では「安全」とは別個に「安心」が論議されていたりもします。そして「安全」が証明されても「安心」が得られていなければ物事を進めることが許されない、「安全」とは切り離された「安心」のためにコストを費やす社会でもあります。安全という「事実」が何ら力を持たない、そういう人が闊歩する社会なのです。そして根拠のない、妄想まみれの危険論が「真実」として少なからぬ人々の間で――時には政治家、首長にまで浸透していると言えます。アメリカの事例は対岸の火事どころか、日本でこそ症状が深く進行した問題ではないでしょうかね。

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コミュニケーション能力社会の帰結

2017-04-23 23:50:39 | 雇用・経済

誰に対しても当てはまる! 札幌市の発達障害「虎の巻」が話題に(withnews)

 職場編では、虎夫さんのパン作りの例を紹介。先輩から「適当にクリーム塗っといて」と指示されて作業したところ、塗りすぎて注意を受けてしまいます。

 「クリームをあんなに塗るなんて『普通に考えて』ありえない」という先輩と、「『どれくらい』塗るかおしえてくれなかったのに」と感じている虎夫さん。

 その後、先輩が手本を見せながら作ることに。先輩が作業しながら「こうやって塗ってください」と伝えると、虎夫さんは正確かつきれいに塗れるようになり、褒められるという内容です。

 他にも「手順が決まれば効率アップ」「期限がわかれば集中力倍増」「聞く人決まれば迷わない」といった例が掲載されています。

 発達障がい支援情報のページ/札幌市

 

 先週の記事で軽く触れた話になりますが、札幌市が配布している「発達障がいのある人たちへの八つの支援ポイント」と題された冊子が、ちょっとした話題になっていたりもしたわけです。職場編を要約すれば「具体的に指示を出しましょう」という、たったそれだけのことなのですけれど、これが「誰に対しても当てはまる!」と共感を呼んだりもしたようです。しかし、「誰に対しても当てはまる」と共感した人がネット界隈に少なからずいたとしても、具体的に指示を出すことは「障害のある人のための特別な配慮」として位置づけられているのが現実です。「健常者」であろうとするなら何をやるべきか明示されなくとも察して行動することが求められる、それが日本の職場ですから。

 ……毎年毎年、似たような「新人への不満」がメディアに載ることがあります。曰く○○が出来ない、○○を知らない云々。しかし求人広告を見る限り企業が求職者に求めているのは一貫して「コミュニケーション能力」の類いであり、具体的に何かが出来ること、何かを知っていることではないわけです。「仲間と力を合わせて仕事を進めたい方」「内外の方と円滑なコミュニケーションが図れる方」「自ら積極的な関係づくりができる方を歓迎します」等々、こういう基準で選別された日本の労働者ですから、そのスキルや知識が不揃いとなってしまうのは、致し方のないことではないでしょうかね。

 あるいは「学生が勉強しない」云々も昔から言われていることですけれど、それは日本社会(日本の会社)が勉強する学生を求めていないからです。どこの国でも勉強のために勉強する物好き以外は、「良い仕事に就くために」進学します。しかし大学で何を学んだかが問われないのなら、卒業後の進路を真面目に考えている学生ほど「勉強以外」のことを考えるものです。そして日本の会社が学生に求めているのは、至って具体性に乏しい代物ばかりではないでしょうか。「会社の役に立つ人間になるために」何が必要なのか、我が国の企業は学生に明示していません。それはたぶん、発達障害でもなければ(言わなくても)分かって当然、と考えられているのでしょう。しかし大半の大学(就職課)や学生達は採用側の求めを具体的に理解できず迷走している、そして会社側も結果に不満を持っていると言えます。明らかに何かが間違っていると思わないでもないですが……

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言われなくてもやるのが日本人、言わずにやらせるのが日本のリーダー

2017-04-16 23:01:54 | 社会

 いつの時代からか日本には「泣く子と地頭には勝てぬ」なんてことわざがありまして、それが現代に入ると「地頭力」なんて言葉が流行ったり(そして消えていったり)もしました。地頭力とは何だったのか、今になって思うと「泣く子」と同質の力だったんだろうな、と。言葉や道理が通じないからこそ、接する相手の方が折れざるを得ない、そういう関係を作り出す力はまさに、我々の社会でリーダーシップや交渉力などと呼ばれて評価されるものでもあります。そして地頭≒泣く子力の高い人に仕える部下は、相手の欲するところを言われる前に察して行動することが求められるのです。

 ほとぼりが冷めつつあるようにも見える森友学園問題ですが、これを巡っては「忖度」というキーワードが飛び交ったりもしました。まぁ、日本的リーダーシップとコミュニケーション能力の間柄にあっては、政治家や官僚組織に限らず普遍的に存在するものなのではないでしょうかね。とにかく日本社会においては「言われたことしかやらない」ことは絶対的な悪として何ら疑問を持たれることなく認識されているわけです。日本の良き社会人であろうとするなら「言われる前に」「自主的に」行動することが必須なのです。もちろん、己の意思ではなく上長なりの意図を察して、ですが。

 あるいは札幌市が配布している「発達障がいのある人たちへの八つの支援ポイント」と題された冊子の中身が話題になったりもしました。端的に言えば「具体的に指示を出しましょう」というだけのことなのですが、しかし「言われたことしかやらない」ことを絶対悪とする日本社会では、言われなくてもやるのが健常者であり、具体的な指示を出されないと行動しない(=上長の意図を察して「自主的に」行動しない)人は、まさに発達障害と同質の扱いになってしまうのかも知れません。似たようなものでは、指示されなかったことを「やらなかった」従業員をアスペルガー症候群の典型例として書いている本なんかも見かけたことがあります。

 「忖度」も然り、日本社会で選別されたエリート官僚ともなれば、「言われなくとも」上長なり権力者なりが心の中で欲しているものを察して、指示される前に行動を起こすのが常識になるわけです。総理大臣の身内が明確な指示を出さなくとも、その周りには「言われたことしかやらない」人なんていないでしょう。我々の社会のエリートたるもの、「自主的に」行動するのが常に決まっています。忖度した、忖度しない云々と論議する人もいましたが、忖度できないような人は発達障害なりアスペルガーなりと同等の扱いで就業機会から排除されている、少なくとも官邸周辺の権力に近いところで採用されているはずがない、そう思いますね。

 ちなみに普通の会社勤めでも、「制度上」残業は上長の指示・命令に基づいてやることになっていたりしますが、実際に上司から残業を命じられた経験がある人って、どれくらいいるのでしょうか。私は、記憶にありません。そして私の職場には残業せずに定時で帰った社員のことを延々と罵り続けているような人が複数名いますが、しかし上司として残業を命じている場面を見たことはありません。まぁ「言われなければ(残業を)やらない」のは社会人として失格、言われなくとも「察して」残業をするのが当然のことと、そう考えられているのだと推測されます。

 こういう日本の文化のメリットとしては「権力を守ることが出来る」辺りが挙げられるでしょうか。上長が明示的に指示を出したわけではない以上、その結果として問題が発生しても言い逃れが出来る、会社が守られるわけです(日本によくある「追い出し部屋」を使っての退職強要なんかも、この辺に起因すると言えます)。官邸周辺も然りで、明示的に指示を出さずに忖度させることで権力者を追及から守れるようになっているのですね。権力者が己の責任において人を動かすのではなく、意図を察することを求める、そんな関係を押し通せる力こそが、我々の社会で高く評価されています。

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ヤミの小田原方式

2017-04-09 22:32:33 | 社会

生活保護担当職員の「意識弱かった」 小田原、検証報告(朝日新聞)

 神奈川県小田原市の生活保護担当職員が「保護なめんな」などとプリントしたジャンパーを着ていた問題で、有識者らの検討会は6日、「生活困窮者への支援者としての意識が弱かった」とする検証報告書を市長に提出した。信頼を回復するため、市の他部署や地域と連携して困窮者に寄り添うよう提言した。

 市内では2007年、生活保護の支給を打ち切られた男が担当職員を負傷させる事件が起きた。報告書では、この事件後、受給者とのやり取りなど職員の負担が重く、改善の必要があるのに他部署に認識されず、「組織的な孤立につながった」と指摘した。

 市職員へのアンケートで、生活保護担当への配属を望まない職員が66%に上った。改善策は「異動したくなる職場」「女性も働きやすい職場」に変える目標設定も提言。報告書は今回の問題の犠牲者は、屈辱的な思いをした受給者だとした。1月末までに市に届いた批判は1138件、擁護も956件。「不正受給を許してはならないという考えは理解できる」という声も寄せられたという。(村野英一)

 

 さて市職員がヘイト文言の入ったグッズを作成、頒布していた小田原の問題ですけれど、検証報告と称して幕引きを計ろうとしていることが伝えられています。問題の発覚当初、職員を処分しないと緊急記者会見で明言していた小田原市ですが、その後も方針は変わらないのでしょうか。生活保護受給者を貶めても無罪放免、差別や偏見を煽り立てる行為を10年ばかり職場で繰り返していてもお咎め無しというのなら、公務員とは起立して君が代さえ歌っていれば許されるポジションなのかも知れませんね。

 なんでも「市に届いた批判は1138件、擁護も956件」とのことで、ほぼ同数に近いです。各紙の報道の踏み込みの甘さを鑑みるに、マスコミ関係者の中にも小田原市を擁護したい人もいるのでしょうか、ここに引用した記事も「伝える箇所が選ばれているな」という印象が拭えません。例えば発端とされる「生活保護の支給を打ち切られた男が担当職員を負傷させる事件」について詳細を伝えた新聞はどれだけあるのでしょう?

 2007年の事件は、アパートを追い出されて連絡が付かなくなった受給者への生活保護支給を市が打ち切ったことに始まります。この後、保護費が振り込まれていないことに気づいた受給者が市役所の窓口に抗議し、悶着が起こったそうです。住居を失った生活保護受給者に打ち切りという追い打ちをかければ、文字通り「窮鼠猫を噛む」という事態に発展しても不思議はありません。暴力で解決しようとするのは許されないとしても、情状酌量の余地はあります。

 しかるに事件後の小田原市の対応と言えば、なんとヘイトグッズの作成でした。「保護なめんな」と書かれたジャンパーを着て生活保護受給者宅を訪問し、マウスパッドや携帯ストラップまで市役所内で配り出す始末、そんな行為が10年ほど問題視されることなく続けられてきたのですから、いかに小田原市役所という組織が自浄能力のない腐りきった代物であるかが分かるというものです。

 言うまでもなく2007年の事件、不正受給云々とは全く無関係です。しかし「不正受給を許してはならないという考えは理解できる」という、事実関係をねじ曲げた解釈で小田原市を擁護する人もいて、それを無批判に伝えるメディアもあるわけです。もし仮に小田原市(の職員)が不正受給によって何らかの損害を受けた、それによって苦しんだというのなら、「不正は許さない」と主張するのも流れとしては分かります。しかし、不正受給とは関係ないところで起こった事件を契機に「不正受給は~」と言い出すのなら、それは屁理屈にすらなっていません。

 そもそも今回の報告書では「問題の犠牲者は、屈辱的な思いをした受給者」とされていますが、「犠牲者」の声は聞いたのでしょうか。実際の生活保護受給者が小田原市職員からどのような扱いを受けてきたのか、この辺の被害状況だって調べられるべきです。もちろん、そんなことをすれば問題は間違いなく大きくなる、早期に幕引きを計りたい小田原市の思惑とは真っ向から対立してしまうのかも知れません。しかし、だからこそ第三者による踏み込んだ調査が望まれると言えます。

 もう一つ、今回の報告書で誤っているのは生活保護担当者の「組織的な孤立~」云々ですね。これはむしろ孤立ではなく「独立」ではなかったのか、と。つまりは悪い意味での「自治権」が与えられていた、だからこそヘイトグッズの作成・頒布という異常行動が許容されていたところもあるのではないでしょうか。第三者の監視の目が適切に機能していれば、もう少し事態は違ったはずです。しかし現実には野放しにされていた、好き放題が許されていたのですから。

 問題の職員達は「私たちは正義」とも掲げていたわけです。この辺、名高いスタンフォード監獄実験を思い出させます。つまりは被保護者の生殺与奪の権を握った職員達は、その役割に瞬く間に酔いしれていったのでしょう。自分たちこそが「裁く」立場なのだ、と。理性の歯止めは失われ、生活保護受給者という「容疑者」の中に「不正」を見出す、それこそが彼らにとって「正義」であったと言えます。「生活困窮者への支援者としての意識が弱かった」などと、そんな次元ではありません。もっと別の独善的な欲望が強かったからこそ、職員達は審問官ごっこを続けてきたのです。

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アリバイ作りのコスト

2017-04-02 23:49:14 | 雇用・経済

 今年も4月になりました。勤め人にとっては異動の季節ですけれど、皆様の職場はいかがでしょうか。私の勤務先では例年以上に大幅な人員のシャッフルが行われることになり、職場は大混乱です。部門の実権を握っている人と、その取り巻き連中こそ不動である一方、東京の本社勤務の人間が一斉に地方へと飛ばされ、入れ替わりで地方の人が東京にやってきます。要するに「東京と地方で人を入れ替えただけ」ですので人員数としてはどこの拠点も増減はありません――が、人を入れ替えるのにも時間やコストは当然ながら、かかるわけです。

 男性正社員は必ず転勤させる、という日本社会の常識に染まりきっているところもあるのでしょうけれど、それが奏功しているかどうかは今以て判然としません。それはもう、特定エリアの拠点にテコ入れするため、あるいは撤退するときなどは転勤も必要にはなるのでしょう。しかし、東京の人間を名古屋に移動させ、名古屋の人間を東京に移動させる、この人事が会社に何か利益をもたらすのか、そこは人事権を持つ人の希望的観測や思い込み以上のものはないように思います。

 特に私の勤務先なんぞは給与以外の福利厚生が親会社の水準に合わせてあるせいか、転勤関係の手当はムダに手厚かったりします。もちろん転勤する人にとっては転居に伴うコストが埋め合わせされるだけですが、会社が費やす費用は大きく増大するわけです。社員を転勤させればさせるほど、会社のコストは嵩みます。ならば経営合理化の一環として転勤を減らす、それでコストカットを計るのも合理的ではないかと、そんな風に自分は感じました。

 私の勤務先で異動が例年以上に多かったのは、たぶん会社の業績が悪いからです。会社の業績が悪いから、役員は親会社への言い訳を用意しなければならない、そのためには東芝風に数値を膨らませることもさることながら、「改革しています」というポーズを取る必要も出てくるのでしょう。「経営改善に向けて大幅な組織変革を行いました」と、そうやって将来に向けて対策を採っているフリをするわけです。しかし、そのアリバイ作りのために要するコストは決して小さいものではありません。

 前にも描きましたけれど、気象予報士に「明日は晴れです」と「言わせる」事は出来ます。しかし、明日の天候を晴れにすることは誰にも出来ません。会社経営も然り、お偉いさんが部下に「(目標達成)できます」と言わせてはいるのですが、それが現実になることは滅多にないわけです。東芝よりは規模が小さくとも、似たようなことをやっている会社は日本中いくらでもあることでしょう。しかし、「明日は晴れです」と言わせたところで明日が晴れになったりはしないのです。むしろ必要なのは、明日の天気が悪くなることを受け入れて適切に対策を立てることの方でしょう。しかるに会社で偉くなるような人ほど、青い鳥なんていないという現実を受け入れたがらないようです。現実を直視できない人に権力を与えるのが日本的経営なのだと考えるほかありません。

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