「政治主導」の特徴は政治家が決定し官僚が責任を負うことにあるみたいなことを、政権交代前後には何度か指摘してきました。世間の話題に上っている問題の責を官僚に押しつけ、「だから官僚ではダメなのだ、政治主導にしていかなければならないのだ」と説くことこそ「政治主導」なのですから。ともあれ政治家は有権者の非難が自分たちに向かわないよう、最大限知恵を尽くしてきたと言えるでしょうか。どうやら国民の歓心を買うことこそ、自らの職責と心得ているようです。我が国では、いかなる思想信条の持ち主でも政治家のことは悪く言うのが一般的ですけれど、「国民に調子を合わせる」という観点からすれば、それなりに良い仕事をしているのではとの印象もあります。
枝野経済産業相は28日の閣議後記者会見で、原子力発電所の再稼働について、「安全性について原子力規制委員会からゴーサインが出て、地元の了解を得られれば、原発を重要電源として活用するのは政府方針だ」と述べた。
その上で、地元から了解を得るのは「(電力)事業者だ」と指摘し、政府が再稼働に関する判断を行わない考えを示した。
枝野氏は、再稼働に対する政府の役割が「原発活用の必要性を自治体に説明する」という側面的なものにとどまるとの見解を示した。ただ、立地自治体からは、政府が原発の安全性に責任を持つことを求められる可能性もある。
枝野経産相:未着工原発「自主撤回を」電力会社に促す考え(毎日新聞)
枝野幸男経済産業相は25日、毎日新聞のインタビューに応じ、未着工の原子力発電所の新設計画について、電力会社に計画の自主的な撤回を促す考えを明らかにした。枝野経産相は「(2030年代に原発稼働ゼロを目指す)政府の革新的エネルギー・環境戦略の方針は原子力やエネルギー業界に一定の拘束力がある」と強調。「政府の戦略を踏まえて電力会社に自主的な対応をしてもらうか、法制度上の措置が必要かを今後検討する」と語った。
この読売の記事は端折りすぎですが、毎日新聞によるインタビュー内容と合わせてみれば、概ね見出しにある通りの大意で間違いなさそうです(もっとも言うことが二転三転するのが枝野だけに、日によって全く異なる方向性の発言があっても不思議ではありませんが)。要するに、政府は原発の再稼働に関する判断を行わない、それは政府ではなく電力会社の判断なのだと自分たちに逃げ道を用意しているわけです。再稼働のように有権者からの反発が予測される問題は、政府の責任で行うよりも電力会社に丸投げしてしまえば良い、そう枝野は考えているのでしょう。
たしかに民主党の支持率を落とさないためには、それが最良の判断となるのかも知れません。政府とは違って電力会社は責任感が強いですから、梯子を外された状態でも何とか電力供給を維持しようと踏ん張ってくれることでしょう。そんな電力会社に甘えて、自分は国民の歓心を買うことに専念する、何ともムシのいい話です。電力が生活にも産業にも欠かせない必須のインフラである以上、政府もまたその安定に責任を負うべきものと私などは考えますけれど、全てを電力会社に押しつけてしまえと、そういう路線をとって恥じることのない人間が、行政のトップで幅を利かせていることがわかります。
参考、自主性の強制
往々にして「自主~」とは強制されるものでもあります。お偉いさんの口から「自主的に~」との言葉が出てきた場合、その意味するところは「各自で判断せよ」というものではなく「言うことを聞け、ただしお前らの責任で」というものです。原発の新造が必要と電力会社が「自ら」判断したときに、それを枝野が認めるのか? そうではなく、原発の新造は諦めるという決断を、政府の責任ではなく電力会社の責任において「自主的に」下すことを枝野は暗に要求しているわけです。政治が自らの責任を逃れようとする姿勢は今に始まったことではありませんけれど……
しかしまぁ、政府は注文を付けるだけ、後出しじゃんけんで次から次へと不必要な稼働条件を付け加えて電力会社の仕事を邪魔するだけとあらば、もうちょっと電力会社側に「自由」を許してやっても良いのではないかと思います。政府が電力供給という国のインフラに責任を負おうとしないのなら、電力業界に介入する資格なしと言うほかありません。営利事業なら、商品(サービス)を売りたいときに売りたいだけ売る自由がある、不要なものは買わないでいる自由があるでしょう。しかし電力事業には国民から必要とされるだけの量を供給する義務が課され、必要なくとも太陽光や風力によって発電された電気を強制的に買わされるという足枷まであるわけです。こうした業界に義務だけを課したまま政府が責任をも丸投げするとあらば、もう必要ないのは原発じゃなくて政府だよと言いたくなります。