非国民通信

ノーモア・コイズミ

政府は責任を負いません、と枝野は語る

2012-09-30 23:04:59 | 政治・国際

 「政治主導」の特徴は政治家が決定し官僚が責任を負うことにあるみたいなことを、政権交代前後には何度か指摘してきました。世間の話題に上っている問題の責を官僚に押しつけ、「だから官僚ではダメなのだ、政治主導にしていかなければならないのだ」と説くことこそ「政治主導」なのですから。ともあれ政治家は有権者の非難が自分たちに向かわないよう、最大限知恵を尽くしてきたと言えるでしょうか。どうやら国民の歓心を買うことこそ、自らの職責と心得ているようです。我が国では、いかなる思想信条の持ち主でも政治家のことは悪く言うのが一般的ですけれど、「国民に調子を合わせる」という観点からすれば、それなりに良い仕事をしているのではとの印象もあります。

 

原発再稼働、政府は関与せず…枝野経産相(読売新聞)

 枝野経済産業相は28日の閣議後記者会見で、原子力発電所の再稼働について、「安全性について原子力規制委員会からゴーサインが出て、地元の了解を得られれば、原発を重要電源として活用するのは政府方針だ」と述べた。

 その上で、地元から了解を得るのは「(電力)事業者だ」と指摘し、政府が再稼働に関する判断を行わない考えを示した。

 枝野氏は、再稼働に対する政府の役割が「原発活用の必要性を自治体に説明する」という側面的なものにとどまるとの見解を示した。ただ、立地自治体からは、政府が原発の安全性に責任を持つことを求められる可能性もある。

 

枝野経産相:未着工原発「自主撤回を」電力会社に促す考え(毎日新聞)

 枝野幸男経済産業相は25日、毎日新聞のインタビューに応じ、未着工の原子力発電所の新設計画について、電力会社に計画の自主的な撤回を促す考えを明らかにした。枝野経産相は「(2030年代に原発稼働ゼロを目指す)政府の革新的エネルギー・環境戦略の方針は原子力やエネルギー業界に一定の拘束力がある」と強調。「政府の戦略を踏まえて電力会社に自主的な対応をしてもらうか、法制度上の措置が必要かを今後検討する」と語った。

 

 この読売の記事は端折りすぎですが、毎日新聞によるインタビュー内容と合わせてみれば、概ね見出しにある通りの大意で間違いなさそうです(もっとも言うことが二転三転するのが枝野だけに、日によって全く異なる方向性の発言があっても不思議ではありませんが)。要するに、政府は原発の再稼働に関する判断を行わない、それは政府ではなく電力会社の判断なのだと自分たちに逃げ道を用意しているわけです。再稼働のように有権者からの反発が予測される問題は、政府の責任で行うよりも電力会社に丸投げしてしまえば良い、そう枝野は考えているのでしょう。

 たしかに民主党の支持率を落とさないためには、それが最良の判断となるのかも知れません。政府とは違って電力会社は責任感が強いですから、梯子を外された状態でも何とか電力供給を維持しようと踏ん張ってくれることでしょう。そんな電力会社に甘えて、自分は国民の歓心を買うことに専念する、何ともムシのいい話です。電力が生活にも産業にも欠かせない必須のインフラである以上、政府もまたその安定に責任を負うべきものと私などは考えますけれど、全てを電力会社に押しつけてしまえと、そういう路線をとって恥じることのない人間が、行政のトップで幅を利かせていることがわかります。

参考、自主性の強制

 往々にして「自主~」とは強制されるものでもあります。お偉いさんの口から「自主的に~」との言葉が出てきた場合、その意味するところは「各自で判断せよ」というものではなく「言うことを聞け、ただしお前らの責任で」というものです。原発の新造が必要と電力会社が「自ら」判断したときに、それを枝野が認めるのか? そうではなく、原発の新造は諦めるという決断を、政府の責任ではなく電力会社の責任において「自主的に」下すことを枝野は暗に要求しているわけです。政治が自らの責任を逃れようとする姿勢は今に始まったことではありませんけれど……

 しかしまぁ、政府は注文を付けるだけ、後出しじゃんけんで次から次へと不必要な稼働条件を付け加えて電力会社の仕事を邪魔するだけとあらば、もうちょっと電力会社側に「自由」を許してやっても良いのではないかと思います。政府が電力供給という国のインフラに責任を負おうとしないのなら、電力業界に介入する資格なしと言うほかありません。営利事業なら、商品(サービス)を売りたいときに売りたいだけ売る自由がある、不要なものは買わないでいる自由があるでしょう。しかし電力事業には国民から必要とされるだけの量を供給する義務が課され、必要なくとも太陽光や風力によって発電された電気を強制的に買わされるという足枷まであるわけです。こうした業界に義務だけを課したまま政府が責任をも丸投げするとあらば、もう必要ないのは原発じゃなくて政府だよと言いたくなります。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Japan is Dreaming

2012-09-28 22:57:46 | 政治・国際

台湾漁船団が領海侵入=40隻、当局船も―海保が放水、退去・尖閣沖(時事通信)

 25日午前6時ごろ、沖縄県石垣市の尖閣諸島・魚釣島沖で、日本の領海のすぐ外側の接続水域を、台湾の旗を掲げた40~50隻の漁船団が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。付近に台湾海岸巡防署の巡視船約10隻がおり、漁船約40隻と巡視船8隻は午前9時ごろまでに、同島の西南約22キロで領海に侵入した。

 海保は退去を命じるとともに、巡視船が漁船への放水や進路規制を行った。漁船と台湾巡視船はいずれも正午までに領海を出た。

 政府は同日、首相官邸内の危機管理センターに情報連絡室を設置。間もなく官邸対策室に格上げした。台湾の巡視船が尖閣諸島沖の日本領海に入ったのは7月4日以来。

 第11管区海上保安本部(那覇市)によると、漁船団は「釣魚台(尖閣の台湾名)防衛を誓う」などと書かれたのぼりや横断幕を掲げている。漁を行う様子は見られないという。

 海保は接続水域で無線などを通じ、領海に入らないよう警告。台湾の巡視船からは「釣魚台(尖閣の台湾名)防衛を誓う」で、正当な業務を行っている」と無線で応答があった。 

 

台湾がここまでするとは…すぐ近くの与那国町長(読売新聞)

 「親日的な台湾の人たちがここまでするとは」。沖縄県与那国町の 外間(ほかま)守吉(しゅきち)町長は驚きを隠さない。

 

 プレスター・ジョン伝説というものがあります。東洋(アフリカを含む)のどこかに、伝説上の人物プレスター・ジョン(ヨハネ)の建てたキリスト教の王国が存在すると、そう語り継がれてきたものです。中でも十字軍の時代などキリスト教国家とイスラム教国家が争い合うような場面では、このプレスター・ジョンの国からの援軍を待望する気運も高かったようです。もちろん、プレスター・ジョンの国とは想像上の産物に過ぎなかったことは言うまでもありません。けれど、その存在を信じる人は少なからずいたのです。

 「親日(国家)」という言葉を聞くと、このプレスター・ジョン伝説が頭に浮かびます。ある種の期待を込めて、どこかに「親日国家」が存在して日本の味方になってくれると、そう夢想している人は現代日本には割と多いのではないでしょうか。しかし、最も「親日」とカテゴライズされがちな台湾ですら現実はこんなもの、「釣魚台(尖閣の台湾名)防衛を誓う」「釣魚台(尖閣の台湾名)防衛を誓う」と掲げて、この時期に乗り込んできたわけです。「親日的な台湾の人たちがここまでするとは」と与那国の町長は驚いているそうですが、夢を見るのも大概にすべきでしょうね。

 「敵の敵」として、贔屓目で接してくれる国はあるかも知れません。反共の旗さえ掲げておけば軍事独裁政権ですら民主主義の同胞として扱われていた時代もあるくらいです。対立する国を同じくする縁が別の国家同士を結びつけることもあるでしょう。あるいは単に愛想が良い、自国の利害の絡まない場面では誰にでも好意的に振る舞ってくれる国(国民)もあるかも知れません。しかし、自国の利害が問われるような場面ですら日本側の一方的な主張に頷いてくれる、そんな都合の良い「親日」国家など地球上のどこにも存在しないことは、いい年をした大人なら弁えておくべきだとは思います。

 

尖閣、国際司法裁で争わず=外相(時事通信)

 玄葉光一郎外相は21日の閣議後の記者会見で、沖縄県・尖閣諸島をめぐる中国との対立を国際司法裁判所(ICJ)で争うかどうかについて、「尖閣は国際法上、歴史上疑いのないわが国固有の領土だ。現時点において必要性は考えていない」と述べた。日本政府は尖閣諸島の領有権問題が存在しないとの立場で、裁判は不要との認識を示したものだ。

 

外相、国際裁判の重要性訴える 国連で領土紛争巡り(朝日新聞)

 国連総会に出席するため米ニューヨークを訪れた玄葉光一郎外相は24日夕(日本時間25日朝)、国連本部での関連行事「法の支配に関するハイレベル会合」で演説し、領土、領海などをめぐる紛争について「平和的に解決する手段の一つとして国際裁判の重要性を強調したい」と訴えた。

 竹島の領有権問題で日本が提案した国際司法裁判所(ICJ)への共同提訴を韓国が拒み、裁判が始まらないことが念頭にある。玄葉氏は、他国から訴えられた場合に裁判に応じる義務が生じる強制管轄権について「より多くの国が受諾するよう求めたい」と強調。日本は受諾しているが、韓国は受け入れていない。

 その後、韓国の金星煥(キムソンファン)外交通商相も演説。ICJを「法による統治を奨励してきた」と評価しつつ「絶対に政治目的で利用すべきではない」と述べ、共同提訴を提案した日本を暗に批判。法の支配への配慮がなければ「弱者にやりたいことを押しつける口実に乱用される」と主張した。

 

 そしてこちらは、玄葉外相の発言を追ったものです。尖閣に関しては領有権問題が存在しないとの立場で、裁判は不要と力説、一方で竹島に関しては国際司法裁判所に提訴、国際裁判の重要性を訴えたことが伝えられています。これはまぁ、玄葉個人の見解と言うよりは、自民党政権時代から続く日本政府の見解として扱った方が適切でしょうか。尖閣は領土問題ではなく、竹島は領土問題である、竹島/独島を領土問題として扱わない韓国はケシカラン、と。

 前にも書きましたが、例外的なのは竹島の方で、尖閣を含め北方領土など基本的には「領有権問題は存在しない」というのが一貫した日本の建前であるわけです。むしろ尖閣や北方領土を領有権問題として扱おうとすれば、それは右派だけではなく左派政党からも叩かれるのが日本の政治風景でもあります。この辺、むしろ昔の自民党はハト派色も強くて隣国との揉め事を好まずナアナアで済ませたがるところも多かった、その自民党に真っ向から立ち向かう共産党などの左派政党の方が外交面では強硬な立場だったりもした名残ですかね。近年の極右化した自民党しか知らない人には不思議に映るところもあるかも知れませんが。

 ともあれ、日本は竹島/独島問題で国際司法裁判所に提訴、しかし「領有権問題は存在しない」との立場から韓国は拒否の姿勢を貫いています。これに日本政府は良い顔をしていないわけですけれど、一方で竹島以外では「領有権問題は存在しない」との立場を崩していないのが我が国だったりするのです。自分(自国)の言うことは全て正しい、と信じ切っている人にとっては、それでも問題ないのでしょうか。傍目には滑稽に見えますが、韓国の拒絶は不当な拒絶、日本の拒絶は正当な拒絶と、そう信じて疑わない人もいるようです。これで国際的な支持が得られるとも思えませんけれど、どこか「親日」の国が理解してくれるはずだと、そう夢見ているのでしょう。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校から生徒を守ることを考えなきゃ

2012-09-26 22:57:30 | 社会

 一時はどうなることかと思いましたが、結局のところ自民党総裁は安倍晋三に。石破の狂気に付き合わされる事態だけは避けたかっただけに、まぁ実行力に欠ける安倍晋三ならば良しとしておくべきでしょうか。でも、あの状態から復活を果たすとは意外に安倍もタフだし、将来的には石破が閣僚起用される可能性があるので何とも……

 

いじめ、警察に無断通報しないで…一貫校の校長(読売新聞)

 東京都内の私立中高一貫校で、中学時代に同級生からいじめを受けたとして、警視庁に被害届を出した高校1年の男子生徒(15)が、進級面接で学校側から相談なく警察に通報しないよう求められたことが18日、分かった。
 
 男子生徒は進級の条件として口止めされたと理解し口外しなかった。だが、高校に進級後もいじめが続き、改善は不可能だと判断し、8月に警視庁に暴行容疑で被害届を出した。
 
 男子生徒の母親によると、母親と男子生徒は1月下旬に行われた進級面接で、校長から「(学則を守るなど)誓約書に書かれている事項をふまえて、具体的に守ってもらいたいことがある」と告げられたという。
 
 その際、校長から「生徒にボイスレコーダーを持たせ、校内の人の発言を録音しない」「学校で解決されるべき問題について、学校に相談することなく、警察などへ通報しない」など4項目について守るよう求められた。その後、学校側は、校長が求めた4項目を文書にし、男子生徒側に郵送した。
 
 男子生徒は、中学1年生の頃から、同級生らに更衣室やトイレで暴行を受けるなどのいじめに遭っており、その都度、学校側に相談していたが、解決することはなかった。
 
 いじめを訴え続けたことで昨年9月頃から、学校側が「そういう態度だと進級できない」などと進路への影響を言及していた。そのため、進級面接の際、学校側が求めた4項目について、男子生徒の母親は「進級を条件に『口止め』を要求されたと理解した」と話す。

 

遺族が学校を潰そうとしている~教諭が発言(日本テレビ系 - NNN )

 兵庫・川西市でいじめを受けていた高校生が自殺した問題で、この高校の教諭が20日の授業中に、生徒に対して「遺族は学校を潰そうとしている」などと発言していたことがわかった。
 
 関係者の話によると、2年の男子生徒が自殺した川西市内の県立高校で、生徒指導部長を務める男性教諭が20日の授業中、生徒に対して、「遺族は学校を潰そうとしている」「体育祭や修学旅行があるが、それもどうなるかわからない」「遺族には申し訳ないが、同情する気はない」といった発言をしたという。
 
 男性教諭はNNNの取材に対し、この発言をしたことを認めており、「生徒が動揺しているので、通常の学校生活に戻したいという思いで話した」と答えている。

 

 いじめに関する報道は、まだまだ続くようです。それだけに学校側も神経を尖らせているところでしょうか。もっとも今さら問題の隠蔽を計ったところで、ちょっと探られれば無尽蔵に出てくる類でもあります。むしろ問題のない学校の方が少ないと言った方が正しいかも知れませんね。あくまで自分は勉強を教えるのが仕事と割り切れるような環境ならいざ知らず、授業より学校行事が優先で勉強よりも人格形成が重んじられがちな日本の学校であるなら、こうしたいじめなどの問題に素知らぬふりは許されないところもあるでしょうか。まぁ、いじめを放置することを以て教育と考えているのではと思わせられるフシもありますが。

 少し前のエントリにも書きましたが、教師は学校を守るものです。特別に贔屓されている子でもなければ、教師が特定の生徒を守るために動くことはありません。いじめられる生徒なんて、学校から見れば何百人もいる内の一人に過ぎない、いずれは学校から出て行く存在であるのに対し、学校は唯一無二、退職するまで続く職場です。特定の生徒のために教員が動く、学校組織が動くようなことなど、むしろ「あってはならないこと」と考えられているのではないでしょうか。だからこそ、「遺族は学校を潰そうとしている」みたいな発言も平然と出てくるわけです。

 学校側が「問題児」として認定する基準と、いじめ被害者にとっての基準は全く異なります。おそらく学校の「外」にいる人間から見た「問題児」像は、いじめ被害者側から見た場合に近く、それは学校側の見ているものとは異なるものです。だから、学校側の対応が不可解にも見えてしまうように思います。でもまぁ、企業経営者が従業員より会社を守ろうとする、軍隊が国民より国家を守ろうとしたり改革論者が住民の生活より国や自治体の財政を守ろうとするのと同じです。特定の組織や枠組みの中にいる個人ではなく、組織そのものを守ろうとする、これは我々の社会においては決して珍しいことではありません。あくまで学校を守ろうとする教師の態度は、世間の理解とは裏腹に「普通」のことなのです。賛成であろうと反対であろうと、この点は理解される必要があります。

 では学校組織を守るという観点から見た「問題児」とは何でしょうか? それは問題を顕在化させる生徒です。結局のところ、暴行や傷害、窃盗や恐喝が日常茶飯事であっても、被害者が泣き寝入りしている限り問題にはならない、学校組織の安定は保たれます。ところが、被害者が泣き寝入りせず学校側に解決を訴える、あるいは警察など学校外の組織に相談するなどの行動に出れば話は別です。まさに被害者の訴えによってこそ学校の平穏は壊されてしまうわけです。ここで引用した以外にもいじめの報道は後を絶ちませんが、目立つのはいじめの「被害」生徒にまで停学などの処分が下されているケースが多いことです。なぜ被害者が罪に問われるのか? しかし、教員側からしてみれば被害を訴えた生徒こそ学校を脅かした加害者なのです。

 そう言えば中学の頃、珍しく教師からボコボコに殴られていた生徒がいました。あれは学校行事で「他所の」学校の施設を借りていたときのこと、ある生徒が「他所の」学校の花壇や鉢植えを壊し始めました。これ自体はいつものことで、校則にはうるさい学校教師も器物破損などの刑法には至って鷹揚なのか、「自分の」学校の中で行われている限りは特に問題視されてはこなかったものです。ところが、このときばかりは烈火のごとくに怒り狂った体育教師が飛んできて、花壇を壊していた生徒を人目も憚らず(他の教師が止めに入ることはありませんでした)、かつ容赦なく殴り倒したわけです。

 「自分の」学校の中で処理できる限りは、教師にとっては特に大きな問題ではないのでしょう。「自分の」学校で誰かの鉢植えが壊されたところで、被害生徒を黙らせれば済む話ですから。ところが、「他所の」学校となると話は違う、「自分の」学校だけでは処理できなくなってしまいます。これは教師にとって大問題、決して看過できないものでした。殴られている生徒はなぜ殴られているのか理解できないままノックアウトされてしまったようですが、ある意味で社会勉強だったな、と今になって思うところです。

 いじめそのもので困るのは被害者だけです。しかし、いじめが顕在化されると学校そのものが危うくなります。だから、そのいじめを訴える生徒こそ学校にとっての問題児であり、ましてや警察という「外」の組織にまで被害を届け出るとあらば、たちどころに学校の敵として扱われてしまうものなのでしょう。この結果として、冒頭に引用したような事例にも繋がっているわけです。被害者という特定の生徒ではなく学校組織を守る、そのために問題を顕在化させる生徒の押さえ込みを計る、これは教師にしてみれば至って自然な判断なのだと考えられます。

 ……で、一昔前から体罰容認論とか割と盛んです。いじめ問題がクローズアップされるようになってからは、出席停止などの厳しい措置を執る権限を教育現場に持たせるべきだとの提言も少なからず見られます。でも、どうなんでしょうか。その権力を行使するのは学校の先生です。学校を守るという目的のためには正しく権力を行使してくれるかも知れませんが、いじめ被害者を守るために新規に与えられた権限を使ってくれるかと言えば、甚だ疑問です。色々と制限の多い公立の小中学校だけではなく、その気になれば生徒を退学させることもできたはずの私立の学校でだって、結局は深刻ないじめ問題が発生しているわけですし。

 むしろ教員に体罰や出席停止などの権力行使を認めることで、より追い詰められるのは学校から嫌われるタイプの生徒であり、それは必ずしもいじめの加害者ではないように思います。むしろ、いじめ被害を訴える生徒=事を荒立てる生徒を学校から排除するために権力が用いられることもあるでしょう。機能しているかはさておき、内部告発を行った労働者を保護する法律があります。企業の不正を告発した社員はしばしば左遷されたり解雇されたり減給されたりと不利益な取り扱いを受けるもの、そのような取り扱いから通報者を保護する法律が、一応は存在するわけです。これの学校バージョンが必要だな、と私は考えます。いじめの問題を告発した生徒が学校から不利益な取り扱いを受けないように、学校から生徒を守るためのルール作りも必要なのではないでしょうか。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危険性よりも話題性が優先

2012-09-24 22:57:30 | 社会

原発作業員から違法天引き 健診費、厚労省が実態調査へ(朝日新聞)

 東京電力福島第一原発の下請け会社が全額負担すべき作業員の健康診断費を給料から天引きしていたことがわかり、厚生労働省は19日、労働安全衛生法に違反するとして返金するよう指導した。この会社の関係者は「この辺りの業者はみんなやっている」と証言。厚労省は違法な天引きが横行している可能性があるとみて、実態調査に乗り出す。

 関係者によると、この作業員は6月、福島県いわき市の下請け会社に日給1万3千円で雇われた。法律で義務づけられている健康診断を受けたが、会社が全額負担すべき健診費約1万1千円を給料から天引きされた。さらに一人ひとりの被曝(ひばく)線量を記録する放射線管理手帳の作成費用として約6千円も引かれたという。

 作業員は天引きに加えて違法派遣で働かされたなどとして18日に厚労省福島労働局に指導を求めた。厚労省は悪質な事例とみて下請け会社から事情を聴き、翌日に指導するという異例の早さで対応した。同省の担当者は「事故後、このような天引きが発覚したのは初めて」としている。

 

 色々と考えさせられる出来事です。私の勤務先でも工事案件を下請けに振ることが頻繁にありますが、下請け会社の内部管理がどうなっているかなんて把握できていないだけに、明日になれば自分の会社も指導対象に――みたいなこともあるでしょう。引用元では「関係者」が「この辺りの業者はみんなやっている」と証言しているそうです。まぁ、よほど対象を具体的に絞り込まない限り、この手の不正や法に触れる行為なんて日本中のどこでも見られるものですよね。労働者を守るための法律なんて守られていないのが当たり前、それが我々の住む国ですから。例外的に社会的な監視の厳しい原発周りだからこそニュースにもなる、それだけの話です。

 こういう違法状態が是正されようとしているのは好ましいことですけれど、そもそも対処の必要がある事例など存在しないのが最良でもあります。でも、それ以上に「妬ましい」と思いました。何で原発がらみの労働問題ばかりが特権的に注目されるのか、原発と関わりがないところの労働問題はいつも蔑ろにされているのに、と。伝えられるところによると「厚労省は~翌日に指導するという異例の早さで対応した」そうです。そんなにすぐに動けるのなら、原発とは無縁の分野でも本気を出してよ!

 ともあれ、作業員の健康診断費は下請け会社が全額負担「すべき」なのだそうです。職務上で必要なことであれば、確かに雇用側が負担すべきものなのでしょう。でも、原発周り以外の仕事ではどうなのやら。職務上で求められる要件を満たすために、労働者側が自腹を切らされているケースって、割と頻繁に見られる気もします。あるいは、電力会社社員とかNHK職員とか公務員(自衛隊を除く)とか、世間の風当たりが強い人々のために雇用側が諸々の費用を負担していたりすれば、それこそ「特権」と呼ばれてバッシングの対象になるものではないかとも思いますね。雇用側の負担を減らすことを以て「改革」と称してきた国で、その改革を称えてきた新聞に今回のようなニュースが載る、世間の反応はいつだって勝手なものです。

 

「自殺は避難が原因」と提訴=東電相手取り、浪江町男性遺族-福島(時事通信)

 東京電力福島第1原発事故で避難していた福島県浪江町の男性=当時(67)=が自殺したのは、避難による心理的ストレスでうつ状態になったことが原因だとして、男性の妻(63)ら遺族3人が18日、東電を相手取り、総額約7600万円の損害賠償を求める訴訟を福島地裁に起こした。

 訴状によると、男性は昨年7月23日、避難先の二本松市のアパートを出て、飯舘村のダム近くで自殺した。避難後に睡眠障害や食欲衰退に悩まされ、「浪江に帰りたい」と繰り返していたという。 

 

 原発事故に伴う放射線による健康被害で亡くなった人は幸いにして一人もいませんが、原発事故のために避難したことが原因と遺族が訴える事案はあるわけです。これはチェルノブイリなどの先行する事例からも当然、予測されてしかるべきことだったはずです。むしろ過剰な避難が住民の生活を崩壊させ、被害を拡大させる――このことはチェルノブイリの失敗から学んでおかなければならなかったことです。しかし、何も学んでいない人が政策決定の主導権を握っていた、何も学んでいない人が世論を形成し、それに政治が媚びてしまった、結果として被害を拡大させてきたところもあるのではないでしょうか。被害が発生しても訴えられるのは東京電力、何でも電力会社のせいにすれば良いのだからと気楽に構えている連中もいるようですけれど。

 避難生活や意に沿わぬ移住というものは、決して住民にとって負担の軽いものではありません。だからこそ、行政が強制的に避難を命じるときには最大限の慎重さが求められるように思います。しかし、菅政権にそれがあったのかは大いに疑わしいところです。放射線のリスクと、長期避難生活のリスク、双方を比較した上でリスクを最小限にとどめるよう対策されなければならないと私は考えますが、一方のリスクのみを無制限に誇張するばかりで、もう片方のリスクを完全に無視してきたのが実態ではないでしょうか。その結果として、自殺者が出たりもするわけです。ここまで対策されれば放射線による健康被害が出ることはないでしょうけれど、それを避けるための負担が過剰なものになってはいまいか、もう少しバランスを取ることも今後は考えられるべきです。

 労働関係の法律に触れたところで「普通は」厚労省が動いたりしません。動いたとしても、個人レベルで見れば「手遅れ」と言えるぐらいの時間をかけるものです。それが原発関係など世間の注目が悪い意味で高い場所となるや、上述の通り「翌日に指導するという異例の早さ」が披露されたりもします。我々の社会において基準となるのは、重大性やリスクの高低ではなく、専ら話題性にあるのでしょう。だから、放射線の健康リスクと言った話題性の高いものは「いかなる犠牲をも省みず避けるべきもの」として扱われ、避難生活のリスクなど相手にもされなくなってしまうと言えます。こうした話題性基準のリスク評価は世間の共感を得やすい反面、我々の社会を危うくするものでもあるのですが、まぁ民意を大切にする政治家の多いこと……

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人でどうにかしなさい

2012-09-22 23:33:08 | 社会

 先日の記事では、保育園の騒音問題と、一方の側にのみ肩入れする区長の問題を取り上げました。どうしても我々の社会では子供こそ正義で、子供を盾にされるとNOとは言いづらいところもあるでしょうか(子供から逃れられるスペースが欲しいな、と思います。子育て中の母親にとっても。子供を盾に忍耐を強いられるのはたくさんです)。もちろん、少子高齢化が急速に進む時代ですから色々と下駄を履かせてやる必要もある、今まで以上に子供(及び子育て中の親)を優先してやらねばならないところもあります。そして保育園の騒音問題であったり、あるいはベビーカーの電車への乗り入れの問題なりが取り沙汰されることも出てくるわけです。

 子供をベビーカーに乗せたまま電車に乗るのはどうなのか、ベビーカーを畳んで子供は抱きかかえるべきではないか云々と、それが喧々轟々の議論になることもありました。ベビーカーに乗せたまま電車に乗ることを容認すべきだ、周りの人はそれに理解を示すべきだとの意見も相当に強いようです。まぁ、どうせベビーカーを畳んだところで子供は迷惑ですからね。人混みに興奮した子供が延々と絶叫を続けたり、混雑する車内で泥だらけの足をばたつかせては周囲の乗客の上着を汚したりとか、よくあることです。親は気まずそうに黙っていることが専らですけれど、もう子供は袋か何かに包んでおいてくださいとでも言いたくなります。

 たぶん、都市部のサラリーマンと、通勤ラッシュとは無縁の生活を送っている人で意見が分かれるところなのではないかとも思います。実際に電車の中で子供に迷惑をかけられることをリアルに想像できる人と、あくまで他人事でいられる人とでは全く想定が異なるのでしょう。傍目には、子供(子連れの親、特に母親)のために配慮するのは至って当然のことに見えます。ところが、現実にその場に居合わせる通勤客の大半は、どうやって子供連れのための優先席を作れというのかと逆ギレするほかないような日々を送っているわけです。

 保育園の騒音問題も電車とベビーカーの問題も、共通しているのは負担の偏在です。保育園の騒音に関して「多くの人は温かく~受容しています」と問題のある区長は主張していたのですが、ただ「多くの人」は専ら保育園とは一定の距離がある、園児がいかに奇声を張り上げようと生活に影響のない人々なのではないでしょうか。その一方で保育園周辺に住む人々「だけ」が我慢を強いられる。ベビーカーも然り、ベビーカーのためにスペースを空けてやるにしても、そこで負担を強いられるのは、たまたまその場に居合わせた通勤客です。外野は無責任に子連れの(母)親への配慮を求めるけれど、実際に負担を余儀なくされるのは、不運にして子供連れに乗り込まれてしまった車両の乗客なのです。

 もっとマクロの対策が要求されるべきだと言えます。現状では保育園周辺の住民や、ベビーカー周辺の乗客へ「我慢」や「配慮」を要求する声も強いですけれど、それは対立を煽るばかりでもあり、不公正でもあるでしょう。もっと負担を分散させるよう社会全体が動かなければならないはずです。保育園であれば防音壁の設置や周辺住民への補償、電車のベビーカーであれば運転本数の増加や時差通勤の支援、電車を利用することなく子供を預けられる場所の確保等々、一部の人間に我慢を求める以外にもやれることはあります。もちろん相応にコストのかかることではありますが、子供(子育て)に配慮すべきというのであれば、そのコストを社会全体で負担することへの合意もあってしかるべきではないでしょうか。少なくとも私は、たまたま保育園の近所に住んでいる人、たまたまベビーカーと同じ車両に乗り合わせてしまった人、そういう人々に我慢を強いることで解決とするような意見には頷けません。

 でも日本の全般的な傾向として、ミクロの努力を推奨するばかりでマクロの対策を取りたがらない、みたいなところがありそうな気がします。小さい単位での問題解決を後押しする一方で、大本となる部分に手を付けることは厭う、と。例えば、規制を緩和して個別の企業が好き勝手に動けるようにする、これは社会全体として見ると足の引っ張り合いになっているわけですが、それでも個々の企業が業績を伸ばすことを期待するばかりで、日本全体としての釣り合いを取ろうとしないのが日本の経済政策なのではないでしょうかね。合成の誤謬なんて言葉がありますけれど、個別の企業から見れば最適な手段でも、その「個」が積み重なると好ましからぬ結果になってしまう――にも関わらず、これを放置し続けてきたのが日本政府と言えますし、そういう政府を産み出した我々の社会の性質なのかも知れません。あくまで個人に「理解」を求め、個別の会社の業績向上に期待し、全体を見ない……

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹島の方は話題にもならなくなりましたね

2012-09-20 22:54:37 | 政治・国際

尖閣上陸の日本人は地域政党員 石垣島に帰港、思い語る(朝日新聞)

 尖閣諸島の魚釣島には18日午前9時半ごろ、日本人2人が上陸した。この2人などを乗せた漁船が18日午後6時すぎ、石垣島に戻った。乗船していたのは船長と船員の2人のほか、船をチャーターした鹿児島市の会社役員男性(60)と、東京都の45歳、42歳の男性3人。沖縄県警は3人から事実関係の説明を受けている。

 3人は会社役員が代表を務める鹿児島県の地域政党「薩摩志士の会」のメンバー。会社役員と45歳男性が島に泳いで上陸した。

 

 日本側の見解では、尖閣諸島は沖縄県ということになっています。その沖縄の土地を東京が買おうなんて計画が持ち上がったのは記憶に新しいところ、話は二転三転して結局は本土の政府が沖縄の土地を購入することで国内的には決着が付いたのですが、まぁどうなんでしょう。そして尖閣諸島が対立の火だねとして活用される中、今度は「薩摩志士」を称する一団が警備をかいくぐって島に上陸したとか。400年の時を超えて、今再び薩摩が襲来するとは沖縄も災難ですね。非国民通信社は沖縄県警を応援しています。

 もし政権を握っているのが自民党であったなら、別の展開もあり得たでしょうか。「保守」という言葉が指し示すところも大きく変わった時代です。往年の「保守本流」であれば無用な対立は回避されていたものと思われますが、近年の「真正/真性保守」は全く別物だけに、何をしでかすか分からない危うさはあります。もっとも野党でいる現在は何かと猛々しい安倍晋三も、総理大臣としてあらゆる局面で矢面に立たされていた頃は、威勢良く振る舞えるのは国内に対してだけ、外国に対してはそこまで無茶はしなかった、というより「できなかった」印象です。そういうものなのかも知れません。

 むしろ民主党の方が、国内の右派、タカ派に媚びるモチベーションを強く持っているようにも思います。民主党の特徴は、とりわけネット上で顕著ですが、党の性格と支持層の主義主張に極端な隔たりがあることです。本来なら民主党は自民党とともに「右」から支持されるべき党のはずが(少なくとも保守本流時代の自民党よりは確実に右寄りの党です)、国内の極右層は何があっても自民党から離れず、専ら脳内の虚像に基づいて民主党を毛嫌いしています。そうであるだけに、民主党には自民党以上に「右」に支持を訴えたくなるところがあるのではないでしょうか。

 自民党であれば、ちょっと平和的、理性的に振る舞ったところで右派の支持を失うリスクは負いません。それでも自民党しかない、と考える盲目の人ばっかりですから。しかし民主党であれば話は違います。穏健な対応には国内からの囂々たる突き上げが待っているわけです。右派から毛嫌いされる民主党であるからこそ、右派の声に応えなければという意識が強く働いているように思います。だからこそ、都知事の妄論に張り合って見せたりもするのでしょう。自民党だったら無視してもあまり党の評価は変わらないかも知れませんが、民主党は「強い姿勢」を披露しないと、声のでかい連中に色々と責められるのです。そして、これを無視する強さが民主党にはないですから。

 

中華料理店へ投石相次ぐ…中国系企業入居ビルも(読売新聞)

 18日深夜から19日朝にかけ、福岡県志免町や福岡市博多区で、中華料理店や中国系企業が入るビルに石が投げ込まれ、ガラスを割られる被害が4件相次いだ。

 県警は、反日デモに不満を抱いた犯行の可能性があるとみて、器物損壊容疑で捜査している。

(中略)

 県内では17日、在福岡中国総領事館に火の付いた発炎筒2本が投げ込まれる事件が発生。県警が政治団体構成員の男を威力業務妨害容疑で逮捕した。

 

 さて中国では大規模なデモが発生、一部が暴徒化していることも伝えられています。野田総理は中国政府に邦人や日系企業の安全を守るよう要請云々と語っていましたけれど、まず自らが日本国内で中国人や中国系企業の安全を守ることで範を示すべきではないかと思います。でも、政治家として有権者の支持を集めることを最優先とするなら、ひたすら相手国に要求するばかりで自分たちは何も支払わない、ひたすら自国の建前ばかりを連呼して相手側の事情は考慮しない、そういう強い姿勢を国内にアピールすることの方が大事なのでしょう。

参考、タカ派は国境を越えて助け合う

 以前にも書きましたけれど、とかく周辺国との啀み合いを好むように見える右派、タカ派、排外主義者は、その一方で密接に協力し合っているところもあります。その協力とは「互いに大義名分を与え合うこと」ですね。お互いに隣国を刺激するような行動を取り、それぞれの国で相手国への反発が強まるような状況を作り合う、国境を越えた共同作業が続いていると言えます。中国の右派にとって日本政府の尖閣購入は格好の火種であったでしょうし、今回の反日デモの存在も日本の極右勢力にとっては好都合でこそあれ、必ずしも早期に収束して欲しいものではないのかも知れません。北朝鮮のミサイル実験で内閣支持率が上昇し、「金正日に感謝~」と述べた外務大臣もいました。原発事故を天からの啓示と喜んだ反原発論者もいました。自分たちの強硬論が支持を得やすい状況の到来を、表向きは憤慨しつつも裏では歓迎している、そんな人も多いのではないでしょうか。

 暴動が長期化して中国からの部品の入荷が遅れると、私の勤務先の仕事にも支障が出ます。私の勤務先の仕事が止まれば、工事に必要な物品の供給も止まり、大手企業の事業にもじわじわと影響が出てくることでしょう。そうでなくとも大手だって中国との関連なしで済むところはない、拠点は国内だけの中小零細だって取引先の仕事がストップしてしまえば自分のところの仕事も無意味になってしまう、現代社会においては自国だけで完結できることなど、もはやあり得ないのです。だから、財界筋は最終的なところでは国際協調路線を維持しようとするものですが、でも日本の原発がらみの時のように経済への悪影響を懸念する声が道徳論で一蹴されるようなこともあるのかも知れませんね。

 当たり前のことですけれど、中国国内でも冷静な対応を求める人はいるわけです。それがどの程度まで影響力を持てるのかは経緯を見守るほかありません。でもどうなのでしょう、日本の原発事故の時、理性的な対応を呼びかけた人は、主としてネット上で暴徒化した人々から随分と罵倒の言葉を浴びせられていたように記憶しています。まったく、日本人がネット弁慶で良かったと思わないでもありませんが、中国の場合が心配です。奇しくも冷静な対応を訴える以上、それは沈静化を図る中国政府と方向性を同じくするものでもあります。「御用~」とかレッテルを貼られていたりしなければ良いのですが。たぶん中国でも、日本と同じように沸騰する世論を相手にするのは簡単なことではないと思いますから。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若くなくなったら終わりだ

2012-09-18 22:40:02 | 雇用・経済

転職限界年齢の平均は43.4歳!(R25)

終身雇用が期待できない昨今、転職を考える人も多いだろう。が、その際に気になるのが自身の年齢。一般的に年齢が上がるほど採用のハードルは高くなるといわれ、「35歳転職限界説」という巷説もある。

もちろん、表向きは「年齢不問」をうたう求人が多い。2007年より、労働者の募集・採用において、年齢制限を設けることが原則として禁止されたからだ。だが実際の採用現場では事実上、年齢による「足切り」が行われるケースも多いと聞く。果たして実態はどうなっているのか? 中途採用経験のある人事担当経験者100人に匿名でアンケートを実施した。

「“年齢不問”で募集したにもかかわらず、年齢による足切りをしたケースがあるか?」を調査したところ、「ある」と答えたのはなんと3分の2にあたる66人。その際に「足切りライン」とした年齢をたずねると、「40歳」がもっとも多く、次いで「35歳」、「50歳」という順。「足切り年齢」の平均は43.4歳だった。「35歳」限界説は大げさにせよ、「年齢不問」は単なるタテマエという企業も多いようだ。

足切りはしないにせよ、年齢の高さがネックになると考える人事担当者は多い。前述の100人に「年齢が高い応募者は不利になるか?」と聞いてみると、83人が「不利になる」と回答。さらに「何歳を超えると不利になると思うか?」とたずねてみると、こちらも「40歳」がもっとも多く、以下「35歳」、「50歳」という結果に。全回答の平均は40.7歳なので、やはり40歳を超えると転職が難しくなるのは間違いない様子。なかには「30歳」と答えた人事担当者も相当数おり、企業側の「年齢重視」姿勢がうかがい知れる。

 

本社スタッフにメス、それでも開けないNECの展望(東洋経済オンライン)

NECは8月28日、募集していた希望退職に2393人の応募が集まったと発表した。2009年にも1万5000人規模の人員削減を実施したが、前回は海外子会社が中心。対して今回のリストラは、本社スタッフに本格的にメスを入れた格好だ。

希望退職者は、会社側が事前に想定していた2000人を大きく上回った。追加費用として28億円が発生する見込みだ。希望退職者のうち、1940人は人事や総務などの間接部門、残りは不採算の携帯電話部門で300人、サーバーなどのプラットフォーム部門で150人。40歳以上・5年以上勤続した社員が対象で、退職金に上乗せとなる特別加算金は最大で34カ月支払われる。

 

パナソニック、30代も希望退職対象 本社スリム化(朝日新聞)

 電機大手のパナソニックが、本社をスリム化するために、30代の若手社員も対象に希望退職を募ることがわかった。約7千人いる大阪府門真市の本社社員のうち、研究開発部門に所属する約1千人を配置転換し、これとは別に、定年退職者と希望退職者を合わせ約1千人を削減する計画だ。

 

 この十数年来の経済政策が一向に見直される気配のない中、着々と日本経済は衰退を続け、大規模なリストラの話題には事欠きません。海外の好景気の「おこぼれ」に与ることのできた幸運な時代も今や昔、一日でも早い方針転換が求められるところです。まぁ、日本の政治に限らず我々の社会全体の傾向として、経済的、物質的な利益を追い求めるよりも理想に殉じることの方が好まれるものなのでしょうか。いかに結果が伴わずとも現行のカイカク路線が根本的に修正されることはないだろうなと悲観的な予測ばかりが頭をよぎります。

 さて、NECでは40歳以上、そしてパナソニックでは30代までをもリストラ対象として早期退職を迫るわけです。安穏としていられるのは20代の若者だけということですね。そして今は優遇されている若者も齢を重ねるにつれ周囲からリストラ対象者として扱われるようになることでしょう。雇用側からすれば、それでも良いのかも知れません。経営状態が悪化すればトウが立った従業員を切り捨て、人が必要になれば新たに若者を雇い直す、その過程で人件費も圧縮してしまえば一石二鳥です。しかし、それを許すことで日本社会が被る影響も考えられなければなりません。

 冒頭に引用した記事からも分かるように、日本では年齢による差別が黙認されています。建前上は年齢不問でも実際には年齢による足切りが行われている、あるいは「若年層の長期キャリア形成を図るため」と求人票におまじないを書いておけば、年齢を理由とした門前払いをしても構わないことになっているわけです。実質的に行政公認の年齢差別が罷り通る中、30歳以上、35歳以上あるいは40歳以上と、とにかく年齢が上がるにつれて転職あるいは再就職の難易度が飛躍的に向上するのが我々の社会でもあります。その一方で企業がリストラの標的とするのは、専ら「○○歳以上」と年齢の高い人から順番となりがちです。

 例えばアメリカの場合、日本とは異なって差別的な理由による解雇が厳しく制限されています。決して雇用側の好き勝手を許すような仕組みにはなっていません。訴訟のハードルの低さも相俟って解雇の理由が差別的なものと認められる恐れがあれば、なかなか雇用側も無茶はしづらいものです。この結果として、反対に解雇の理由が差別的なものとは認められにくい立場の人の方が先に人員整理の対象にされる傾向があると言われます。有色人種より白人、女性より男性、中高年より若者――建前上は差別に敏感なアメリカでも、差別を受けやすい就職弱者と差別とは無縁な就職強者がいるわけです。ただ、そこで優先的に解雇されるのが差別を受けにくい就職強者であるならば、社会的な影響は最小限に抑えられます。すぐに、次なる就職先を見つけられますから。しかるに日本のように年齢による差別が強固で、かつその年齢差別の対象となる中高年を先に人員整理の対象とした場合はどうでしょう? 当然、次なる就職先は簡単に見つかりません。失業者が街に溢れることにもなる、それは社会全体にとっても大きな損失です。

 中高年のリストラの場合、その影響は失職する人だけに止まりません。当然のこととして扶養される家族の生活をも直撃します。父親の失業で進学を諦め、子供が高卒で働きに出るともなれば貧困の連鎖にも繋がることでしょう。一方、若く健康で扶養家族もいない若者にとって失業が即座に困窮に繋がるケースは希です(問題は若い内ではなく、やはり中高年になってから、いざ仕事を探そうという段になって若い内の職歴が問われる点にあります)。現代の日本では中高年を切り捨てて若者に雇用機会を提供するのが一般的ですけれど、社会全体のことを考えれば、やるべきことは正反対であるように思われます。

 しかるに中高年層に比べれば絶対的に若者が優遇されているにも関わらず、就職難が問題視されるようになって久しいのも事実です。なぜでしょうか? 新卒者を対象とした求人倍率は1倍を超え(羨ましい限りです!)、選り好みしなければ仕事はいくらでもある、必ず見つかると語る人もいます。確かに統計上はそうなのでしょう。では、なぜ求職者が仕事を選ぶのか、最低限そこまでは考えられるべきです。求職者、特に新卒の若者がどのような職を望み、どのような職を敬遠しているかを考慮せず、ただただ求人倍率を持ち出すだけでは何の解決にもなりません。

 いわゆるブラック企業や、派遣社員にアルバイトなどの非正規でも構わないのであれば、若年層が就職先に困ることはないだろうと私も思います。確かに「選ばなければ」仕事が見つからないということは、若者である限り考えにくいところです。しかし、目先の仕事より先は考えたくもないと自堕落な生き方をしている人間ならいざ知らず(私とか?)、ちゃんと将来のことを頭に描いている真面目な若者であれば当然、自分が若者でなくなったときも働ける職場であるかどうかにも気を使うものではないでしょうか。そうなると、いかに採用意欲が旺盛な業界であっても、いずれ切り捨てられるであろうことが明白なブラック企業や非正規雇用の世界は避ける、そして中高年になっても働けるであろうと期待される優良企業を目指す、その結果として就職活動が熾烈な競争と化しているところもあるはずです。

 しかるにNECにパナソニックと言った超有名企業ですらもが40代、あろう事か30代からのリストラを始めようとしているのですから世知辛いものです。現代の若者も10年後、20年後には退職を迫られることを覚悟しなければなりません。そしてリストラの対象に選ばれるような年代は、企業の採用担当者から年齢を理由に一蹴される年代でもあります。むしろ転職や再就職が容易で扶養家族もいない20代の内にリストラの対象とし、その代わりに中高年以降の雇用は保障した方が、いずれ中高年となる若者にとっても優しいと言えるでしょう。あるいは、特定の年齢を人員整理の対象にした場合は、新たに若い人を雇うのではなく同年代の人間を優先的に採用することを義務化するなど、リストラの対象とされる人間の再就職先を作るべきと考えられます。そうしない限り、失業者が街に溢れるばかり、失業した中高年の子世代にまで貧困が引き継がれるばかりですから。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サティアンとは「真理」の意

2012-09-16 11:15:40 | 政治・国際

福島原発は「サティアン」=自民・石原氏(時事通信)

 自民党の石原伸晃幹事長は13日のTBSの番組で、東京電力福島第1原発事故による汚染土の処理に関し「福島県郡山市の校庭では、放射能を浴びた土の表面が取り除かれ山のように隅に置いてある。それを運ぶところは福島原発の第1サティアンしかないと思う」と述べた。オウム真理教が猛毒サリンの製造などを行った施設の名称を引用したもので、原発事故で避難を強いられている被災者の心情を逆なでしそうだ。

 

 石原Jr.の発言も微妙ですが、ここで引用した時事通信に限らず、報道するメディア側だって福島への偏見や差別を煽り立てるような記事を今まで散々書き散らしてきたではないかとツッコミたくもなります。まぁ、同類だからといって妄言政治家を批判する資格がないとしてしまえば、なおさら政治家が野放しになってしまいますから、致し方ないのかも知れませんね。ともあれ、石原Jr.は福島第一原発を指して「サティアン」という言葉を使いました。サティアンか……何もかも皆懐かしい……

 もう10年来、耳にすることがなかったサティアンという単語に、思わず希望に満ちた青春時代を思い出してしまいました。地下鉄サリン事件で一躍、世間を賑わせたオウム真理教はある意味で空前のブームを巻き起こし、私の仲間内でも「ポア」「尊師」「マハー~」などのオウム用語が頻繁に使われていたものです。皆で座禅を組んだままジャンプの練習をして、その飛び上がった瞬間を写真に納めようと悪戦苦闘していたのも懐かしい思い出です。そうそう、自分たちの部室のことを「サティアン」と呼ぶ人もいましたっけ。

 しかし時代は移りゆくもので、オウム用語もネタの定番の座を失っては死語と化していったわけです。大半の人からは、すっかり存在を忘れられていたのではないでしょうか。しかるに石原Jr.は公共の電波で福島第一原発を指して「サティアン」と語る、その無神経さもさることながら、時代錯誤な人間との印象もまた強く抱かせられるものです。この人の頭の中では、15年くらい時計の針が止まっているのかも知れません。とりあえず原発を罵っておけばOKみたいな風潮もあって、そこからは外れていない一方、今時「サティアン」なんて言葉が出てくる感覚には色々と時代とのズレを感じます。

 

もんじゅ廃炉へ、30年代に原発ゼロ…政府原案(読売新聞)

 政府が14日にもまとめる「革新的エネルギー・環境戦略」の原案がわかった。

 将来の原子力発電の比率について、民主党の提言を踏まえ、「2030年代に原発稼働ゼロ社会を目指す」ことを掲げるとともに、日本原子力研究開発機構の高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の実用化を事実上、断念する方針を盛り込む方向だ。

 政府は12日、原案をもとに関係閣僚会議を開き、最終案の策定に向けた協議を行った。原子力協定を結ぶ米国に政府関係者を派遣し、米国の反応を見極めたうえで最終決定する。

 原案では、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、原発に依存しない社会の実現に向け、〈1〉(原発の)40年運転制限制を厳格に適用する〈2〉原子力規制委員会の安全確認を得たもののみ再稼働する〈3〉原発の新設・増設は行わない――ことを基本原則とした。

 

 一方、遠からず野に下るであろう民主党の「戦略」には2030年代の原発稼働ゼロが掲げられるようです。遠いようで近い年代ですが、実現性はどれほどのものでしょう。この十数年来の経済政策を改めない限り、日本の経済的衰退は加速するばかり、日本から工場が続々と海外に移転することで電力需要が減少して脱原発達成――みたいな未来なら予想できないでもありませんけれど、とりあえず現実問題として原発なしなら火力発電所を大幅に増強しなければならないわけです。化石燃料の調達コストをどうするのか、化石燃料の奪い合いに日本が火を付け国際社会に迷惑をかけることにはならないのか、CO2排出量を増やすばかりで地球環境問題への配慮はないのか等々、色々と疑問が浮かんできます。

 文明論とは自分たちが文明の最高到達点に立っているとの奢りがあって初めて成り立つ代物だと、私は書いてきました。そして反原発論にも文明論に似通った性質を少なからず感じるわけです。特に自然エネルギー礼賛論者には、太陽や風などの自然現象こそ(原子力とは違って!)人間には制御できないものとの認識が欠けている等々の印象もあって、なおさら「奢りだな」とも感じるところです。そして未来のことを「今」決められる、未来の最適解を「今」の人間が決定してしまおうというのもまた奢りであるように私には思われるのです。

 果たして今から20年後に、何がベストの選択肢なのか、それを今の段階で分かっているかのように振る舞うことには少なからぬ疑問があります。20年後のエネルギー需要はどれほどのものなのか、20年後の化石燃料のコストは、20年後のCO2排出量は、20年後の発電技術はどうなのか――しばしば脱原発論者は、風力や太陽光などの発電技術が飛躍的に向上することを自明の心理のごとき前提として論を進めがちです。それは御都合主義にもほどがあると言えますし、むしろ原発の安全性や核燃料の再処理技術の方が飛躍的に向上することだってあり得るでしょう。とりあえず原発を否定しておけば、有権者のウケは悪くないのかも知れません。そこでは「原発稼働ゼロ社会を目指す」云々と威勢良く掲げておくのが再選を目指す政治家にとっての最適解と言えます。しかし、未来に生きる人にとってそれがベストなのかどうか、いたずらに選択肢を狭め、次世代の人間を縛り付けるだけのことにはなるまいかと危惧するばかりです。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そろそろ野党のこととも言っていられないかも

2012-09-13 23:42:06 | 政治・国際

谷垣総裁が出馬断念=執行部分裂「よくない」―石破氏は正式表明―自民総裁選(時事通信)

 自民党の谷垣禎一総裁は10日午前、党本部で緊急に記者会見し、党総裁選(14日告示、26日投開票)への不出馬を明らかにした。谷垣氏は再選出馬を目指す考えを繰り返し示していた。しかし、派閥の実力者らに推された石原伸晃幹事長(55)が反旗を翻す形で立候補に意欲を示したことで劣勢が伝えられており、出馬断念に追い込まれた。

 一方、石破茂前政調会長(55)は10日午前、衆院議員会館で自らを支持する中堅・若手からの出馬要請を受けて会見し、出馬を正式表明した。総裁選には石原、石破両氏のほか、町村信孝元官房長官(67)、安倍晋三元首相(57)の出馬が確実で、林芳正政調会長代理(51)も立候補に必要な20人の推薦人集めに全力を挙げている。

 

 さて、次の選挙では民主党より自民党の方が多数の議席を確保することが有力であるだけに、自民党総裁選の重要度は否応なく高まってくるところです。そして民主党のトップが次々と入れ替わる中、相対的には長期政権を維持してきたはずの谷垣氏ですが、与党への返り咲きが見えてきた段階になって出馬断然と、ちょっと可哀想な気がしてきました。自らの失策で次々と民主党に塩を送ってきた先代の総裁達や次の総裁選に出馬する顔ぶれと比べれば、まずまず許せる人だとも思うのですけれど、そういう人だからこそ支持が集まらないのかも知れませんね。

参考、所詮は野党のことだけど(←2009年の自民党総裁選の時に書いた記事です)

 谷垣という政治家を一言で表すなら「煮え切らない」人でしょうか。新自由主義カイカク路線にも、ポピュリズムにも極右路線にも、どの路線にも一定の親和性は窺われるのですがあまり徹底しておらず、それぞれの理念を信奉する人からすれば物足りなさを感じさせるタイプだったように思います。まぁ、変な方向に突き抜けている政治家に比べれば「害の少ない」政治家であったと私は評価していますけれど、それで票が集まることはないのでしょう。だからこそ次の選挙を視野に入れる自民党執行部は、もっと人気取りの上手そうな人へと看板を掛け替えたがっているのかも知れません。昔年の保守本流ならいざ知らず、近年の真性保守の自民党に復権して欲しくはないところですが、まぁ躍進が予想される維新の会に対する防波堤の役目が務まりそうなのは自民党しかないのかなとも……

  一方こちら、たまたま見つけただけの政治家でも何でもない人の言葉ですが、色々な意味で痛いツィートです。このツィートでは、ワンピースのファンにワンピースの作中人物のような手段での問題解決を提案していますが、まぁ現実とフィクションの区別が付かない人らしいと言うべきでしょうか。ちなみに私はポルノが好きですが、日々の主張に「お前の好きな作品の中ではこうやってるじゃないか」ポルノにありがちな手段を奨められたら、どう反応したらいいか困惑しますね。ミステリーの著者や愛好家だからといって殺人犯でないのと同様のことです。ワンピースのファンだからといってその作中人物のような武闘派として振る舞うことを求められても、肩をすくめるほかありません。速やかにブロックしたとされる16歳JKは賢明です。

 もう一つ、このツィートには現実とフィクションを区別できていない点があります。つまりワンピースの作中で暴力による問題解決が可能だからといって、現実世界にもそれを応用することが可能とは限らないのですが、それを理解できていないわけです。現実とフィクションの区別が付けられない人は、自分の好きなフィクションの世界で頻繁に繰り返される手段が現実でも可能なものと思い込んでしまうのかも知れません。しかし、現実とフィクションは違うのです。漫画やゲームの中では暴力(軍事力、武力行使等々)による問題解決が有効だったとしても、現実世界はそう単純ではありません。暴力による解決が可能なのは漫画の中だから――これを理解できないと上のような痛いツィートに繋がってしまうと言えます。

 そして自民党総裁選ですが、あろうことか最有力候補として石破の名前が挙がっています。世界観を共有できているからか、上の痛いツィートをしてしまうような人々、軍隊を信奉する人々からは随分と好まれている人物です。自らの「夢」の対象への贔屓目が過ぎて現実を直視できないタイプでもありますね(石破の語る軍事や国防論は、例えるなら阪神ファンの順位予想といったところでしょうか)。もう3年ほど前のことになりますが、北朝鮮による粗大ゴミの打ち上げ実験が取り沙汰される中、石破はミサイルによる迎撃が可能なのかと疑問を呈する声に「それは信じようよ」と答えました。氏の人柄を象徴する一言だと思います。石破と信仰を同じくする人からすれば話は別なのかも知れませんけれど、石破の下らないロマンチシズムと国民が心中させられるような事態だけは勘弁願いたいところです。

 ともあれ、次の選挙で第一党の座を獲得する最有力候補は自民党です。二番手は維新でしょうか。民主は大きく議席を減らしそうですが、それでも自民と維新「以外」に後れを取ることはなさそうです。いずれも単独過半数は無理で、この3党のどことどこが手を組むかが問われることになると予想します。維新からすると、安倍晋三辺りが御輿として最適な軽さなのかなとも思えるだけに、将来的な維新との連携を視野に入れた票が増えると自民党総裁選の結果に多少の影響もあるかも知れません。後はまぁ、生活と公明は立ち回り次第でキャスティングボートを手にできるかどうか、社民と共産は一層の埋没、維新と支持層が最も重なるみんなの党は存亡の危機と言ったところでしょうかね。そんな先を予測してみたところで、何かができるわけでもありませんけれど。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クレーマー!クレーマー?

2012-09-11 22:03:06 | 社会

 昨年末はノロウィルス「とか」に感染して久々に医者にかかりました。近所の内科医は「キョエェェェ!」「ホキェエェェ!」と子供の鳴き声が響き渡る動物園状態、すっかり具合が悪くなりながらも3時間ほど待って3分程度の診察を受け、「ノロウィルス『とか』だね」と診断されたわけです。高齢者の頻回通院がどうこうだの、とかく世代間対立への落とし込みを好む論者は騒ぎ立てるものですが、医院を占拠していたのは専ら子供達でした。そう言えば夜の7時過ぎとかでもなければ歯医者でも目立つのは子供ばかりだし、最近は行く機会がないですけれど地元の図書館も完全に子供の運動場です。思わず少子高齢化なんてどこに行ったんだろうと首を傾げてしまうところ、まぁ我が町のお年寄りは滅多に外に出てこないのでしょう。統計上は私の住む自治体でも子供の数は多くない、減少傾向にもあるはずですが、それ以上に子供を注意する大人が少なくなったのかも知れません。私自身、何も言えないでいますし。


 さて、こちらは現・世田谷区長のツィートです。いわゆる「モンスター~」がいかにして作られるのか分かるような気がします。何かを求めて訴える人は即座にクレーマー扱い、モンスターペアレンツだの何だのと蔑称が付けられてしまうのですから。そしてこのような風潮の中では何事も黙認して抗う声など上げないのが良識となってしまうわけです。こうした状況下で大半の人は「我慢する」ことを選びます。たぶん、それはいじめの構造とも似たところがあるような気がします。小中学校等において「いじめ」の問題を表沙汰にすることは決して教職員サイドから歓迎されないものです。むしろ対処を訴える生徒には「どうして我慢できないのか」と迫るのが普通の学校教師でしょう。いじめられる生徒が「我慢」してくれれば全ては丸く収まるのに――大津市の事件でも、被害者生徒が自殺するまでは、被害を訴える生徒こそが問題児であり、解決を求める被害者の両親こそ学校の秩序を脅かすクレーマー扱いだったのではないですかね。

 学校教師にせよ自治体首長にせよ、生徒や住民が何も言わずに黙っていてくれれば楽ができます。だから、内に不満はあっても我慢するばかりで声を上げない生徒/住民こそ望まれるものであって、逆に声を上げる生徒/住民は問題児でありクレーマーなのです。実際のところ、何の行動も起こさないからといって不満が鬱積していないわけではありません。世田谷区長の頭の中では保育園の騒音が「温かく」「受容」されていることになっていますが、本当にそうなのでしょうか? 単に我慢しているだけの優等生を、都合良く解釈してはいないででしょうか? 本当は不満がある、だけど子供に文句を言えば非常識なクレーマー扱いされかねない、それを恐れて口をつぐんでいるだけの人も相当数いるはずです。

 何かにつれ日本では「子供を守れ」と喧しいですけれど、子供をダシにすれば何でも許されるような風潮を感じないでもありません。子供のやることに文句を付けるなと、そういう発想があるからこそ騒音被害を訴える人がクレーマー扱いされることにも繋がるわけです。まぁ少子化の時代、「子供」に多少の優遇措置はあってしかるべきとは思います。しかし、「子供」のために周囲が忍従を強いられる、それが当然視された最終到達点はどこにあるのでしょう。それは母親への過剰な責任感の押しつけにも繋がっているような気がします。子供のために周辺住民が我慢するのは当たり前――子供のために母親が自分の私生活を犠牲にするのは当たり前――それはどちらもおかしいです。子供を大切にするからといって、子供「以外」の人間を蔑ろにすることが正当化されるものではありません。

 性的な要素が前面に出ていれば、これ見よがしに憤ってみせる人が多い一方で、ハアハア言いながら子供に黄色い声援を送って憚らないカマトトぶったペド野郎もたくさんいて、そうした人にしてみれば子供の鳴き声はある種の快楽を感じさせるものなのかも知れません。ただ、これは誰にとっても同じものではないはずです。人によっては不愉快に思う人もいるでしょう。あるいは生活サイクルによっても然りです。原発事故後に節電の必要に迫られる中、新たに深夜シフトを導入する企業も増えましたが、夜に働いて昼間に休息を取るような人にとって、昼の騒音は深刻な問題です。世田谷区長の言う「多くの人」には無関係な少数派の都合であろうとも、決して「執拗なクレーム」云々と安易に切り捨てられるべきものではないと思います。区長には快い声であっても、誰もが同じ感性を持っているわけではないのですから。

 あるいは、立場が異なればどうなのか。社民党が推すエセ科学にまみれたデモだって、傍目に見れば「執拗にクレームを連発する人」の集団でしかありません。そういう人々を「まあまあそう言いなさんな」と宥めにかかる人がいたとしたら、社民党出身のこの区長はどう感じるのでしょう。だいたい原発の再稼働だって、わざわざ反対の声を行政府に届けようと行動している人なんて、本当にごく一部です。大半の人は自分から何かを訴えてきたりはしません。ならば「多くの人は温かく原発の稼働を受容しています」と反対派をクレーマー扱いして一蹴したって良さそうなものです。しかし、この区長もまたダブルスタンダードには躊躇いがなさそうですね。自分が肩入れする立場とそうでない立場を相手にするときとで、全く扱いも異なってくるのでしょう。

 子供に好き勝手させる自由か、住民が静かに暮らす権利か、どちらか一方に軍配を上げれば済むものではない中で、区長が明らかに一方の側にのみ立っていることは非常に大きな問題です。保育園が保育園側に、住民が住民側に立つのは当然としても、行政には両方の言い分を聞く責務があります。しかし一方にのみ共感するばかりで、もう一方の主張はクレーム扱いして退ける、一部の少数派を悪者扱いして排除するのは最も簡単な手段ではありますけれど、それは政治手法としてどうなのでしょうか。この区長には明らかに、保育園の騒音によって被害を被る人々への想像力が欠如しています。近年、子供を預ける場所の必要性は増すばかりで、それを大切に扱うのは間違っていませんが、だからといって周辺住民の迷惑を顧みないことが正当化されるものではないはずです。

 「多くの人は温かく~受容しています」と、この区長は一方が「多数派」であると強調しています。逆に「たった一人でも~クレーム」と、被害を訴える声が少数派であることもまた強調しているわけです。まぁ日本は多数決主義の国であり、保坂展人氏も少数派の切り捨てには躊躇いを感じないタイプなのでしょう。この都知事ばりに驕り高ぶった区長に、いかに他者への想像力と共感力が欠如しているかが窺われるところです。少数派(あくまで声を上げる人が少ないと言うだけ)の意見だからといってクレーム扱いして退けて良いのか、「多くの人」が受容しているからといって少数派にも「我慢せよ」と迫るようなやり方が許されて良いのか、主張の是非は単純な多数決によって押し切られるべきものではないと私は考えます。仮に「多くの人」の支持があろうともデマや偏見に基づいたものであれば、それに行政が媚びてはなりませんし、「たった一人」の声であろうとも切実なものもあるはずです。少なくとも私は、「多くの人」の正当性の根拠に持ち出して反対派を押し切ろうとする、このような政治姿勢の持ち主を支持することはできません。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする