非国民通信

ノーモア・コイズミ

噛み合わない議論

2010-02-28 22:53:03 | ニュース

長崎でコンドーム論議、18歳未満への店頭販売(読売新聞)

 全国で唯一、コンドームなど避妊具の18歳未満への店頭販売を条例で規制している長崎県で、条例の是非を巡り熱い論議が起きている。

 県の審議会で撤廃が妥当かどうかを話し合っているが、コンドームは性感染症予防に効果的で規制すべきでないという声が出る一方で、性のモラルの低下を懸念する意見も。若年層の性の問題に結論がまとまらない状態が続いている。

 県こども未来課によると、1978年に県少年保護育成条例が改正された際、「避妊用品を販売することを業とする者は、避妊用品を少年に販売し、又は贈与しないように努めるものとする」との条文を盛り込み、販売を規制した。自動販売機についても、購入をチェックできるよう屋内に置くよう定めている。

(中略)

 厚生労働省によると、全国の若者における性感染症の罹患(りかん)者数は、02年頃のピーク時に比べ減少しているが、08年では、クラミジアが10~14歳で44件、15~19歳で3170件。性器ヘルペスウイルスが10~14歳で9件、15~19歳で336件など、依然として多い。

 県医療政策課の藤田利枝医師は「条例ができた時期は古く、今の状況が反映されていない。高校3年生の約半数が性体験があるとされており、性感染症や望まない妊娠を防ぐには、コンドームが必要」と話す。

 一方、長崎大教育学部の赤崎真弓教授(家庭科)は「10代の若者は、内面はまだ成長段階。条例はそのままにして、性について親子や地域でもっと話し合うべき」と訴える。

 性教育を巡る議論でも概ね似たような議論がなされていると思います。しかるべく知識を持たせるべきとする人もいれば、徹底して遠ざけたがる人もいる、その論拠も同じようなものですね、前者は「性感染症や望まない妊娠を防ぐ」ためには早期の性教育が必要と主張し、後者は「性のモラルの低下を懸念」と称して性教育に否定的、まぁリベラルな立場からすれば前者を推したいところですが、ただ学校で教えられるような「正しい性」なんぞ糞食らえ、という気持ちもないでもありません。

 それはさておき、長崎県内では子供はコンドームを買えないそうです。隣の県まで出かけて買い込んでおけばいいのかも知れませんが、取り敢えず18歳未満の長崎県民は近場でコンドームが買えないことになっています。そこは煙草と同じで、子供相手でもどんどん販売する小売店には事欠かないのではないかという気もしますけれど、とにかく条例上は買えないことになっているわけです。じゃぁ、長崎の子供は催した時にどうしているのでしょうか? 避妊具なしでコトに及ぶのか、それとも避妊具が調達できないから諦めるのか、その辺まで踏み込んだ調査があれば、条例の有効性や害悪も見えてくるはずです。

 性感染症の罹患者数とやらが挙げられ、「依然として多い」などと結論づけられていますが、本当に多いのでしょうか。何でも「高校3年生の約半数が性体験がある」そうです。では15~19歳の約半数が性体験があるとすれば、その分母は300万人弱、その300万人に対してクラミジアが3170件、性器ヘルペスが336件ということになります。性器ヘルペスは1万人に一人強、クラミジアでも1000分の1程度ですから新型インフルエンザとか結核に比べると深刻さは低いようにも見えます。ただそれより問題は「全国」の性感染症罹患者数が提示されているだけで、コンドーム販売禁止の長崎と他県との比較がないことです。性体験にしても同様、コンドーム販売禁止の長崎と他県との比較はなされていません。お客様の中にお医者様は――もとい、県別のデータをお持ちの方はいらっしゃいませんか?

 長崎の未成年は他県に比べて性感染症罹患者の割合が高いとなれば、コンドームの販売禁止が性病予防を妨げていると考えられますので、速やかにコンドームの販売禁止条例を撤廃すべきということになります。逆に長崎の未成年の性体験の割合が低いのであれば、避妊具を手に入れにくい環境が性体験を抑止していると推測されるわけです。果たしてそこまで性体験を抑止すべきなのか、少子高齢化を問題視するならむしろ若い頃から子作りに積極的な人を応援した方が良いのではないかとも思われますので、コンドームの販売禁止が性体験を抑止するからと言って販売禁止を継続すべきとは言えませんけれど。

 上の段落を書きながら気づいたのですが条例撤廃派は性感染症の問題を根拠にしている一方で、規制継続派は性の「モラル」を理由にしているわけです。仮に長崎の未成年は性感染症罹患率が低いとなれば、コンドームの販売禁止が奏功していると考えられるので条例撤廃派の論拠を崩せそうなものですが、規制継続派はあくまでモラルを問うていることに注目してください。しかるに「モラル」は数値では計れない、性体験の有無が「性のモラル」とやらに直結するとは限りませんから、どうしても印象論でしか語れなくなってしまうわけです。異なるものを指標としている上に、そのうちの片方は客観的に判断することがほぼ不可能である、これでは議論は平行線をたどるほかありません。私に言わせりゃ、モラルなんてどうでもいいのですけれどね。

 

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ムラ社会化が進むような気がする

2010-02-27 22:58:58 | ニュース

楽しみにしてちょうよ! 河村“どえりゃー”庶民革命の申し子 無報酬議員が職業議員の特権を奪う日(週刊ダイヤモンド)

 「市がやっている仕事や予算をこれから地域にどんどん切り分けていきます。楽しみにしてちょうよ」

 河村たかし名古屋市長がマイクを握ると、会場内の雰囲気は一変した。緊張ぶりを隠せずにいた各候補の表情も緩み、明るい笑顔が広がっていった。2月21日の午後、中川区豊治コミュ二ティセンターで開かれた地域委員会の立候補者による公開討論会でのことだ。一般席で各候補のアピールに耳を傾けていた河村市長は、会場に詰めかけた住民全員に向かってこう言葉を続けた。

 「皆さんが決めることに一番、価値があります。減税分が地域の公益活動に(寄付金として)集まるように仕組みを整備していきます」

 さて、一度としてマトモな記事が載ったことのない週刊ダイヤモンドですが、当然のことながら今日も例外ではありません。まぁ主として語っているのは引用文中で取り上げられている「たかしくん」なのですが、その中身はどうなのでしょうか。減税分が寄付金として集まるように~とのことですけれど、市民税をそのまま徴収するのに比べると随分、効率の悪い方法です。税制上、寄付が節税を兼ねるアメリカならいざ知らず、日本で多額の寄付を行うのはよほど奇特な人ぐらいのものです。財布を圧迫する小銭を寄付するくらいならともかく、市民税の10%相当の寄付はまず考えられないでしょう。自主的な寄付を強要でもしない限りは。

 地域委員会とは、地域の課題を解決するために投票で選ばれた委員を中心に市の予算の一部の使い道を決める、住民自治の新しい仕組みである。昨年末の市議会で8つのモデル地域での先行実施が認められた。地域委員は公募と推薦の2種類からなり、いずれも投票で選ばれる(公募は選挙、推薦は信任投票)。

 で、この「地域委員会」もたかしくんの目玉政策の一つだそうです。しかし「投票で選ばれた委員」ですか……「投票で選ばれた議員」と何が違うのでしょうか? 地元の課題を解決するために地元から選出された議員が市の予算の使い道を決める、それとは別に投票を行って「議員」ならぬ「委員」を選出しなければならない理由はどこにあるのでしょうか? 少なくともたかしくんをヨイショする週刊ダイヤモンドのこの記事の中では、その理由については一言たりとも触れられていません。

 任期は2年で2期まで。報酬はなく、交通費などの実費弁償として月額2000円程度が支給されるだけ。地域のボランティア議員である。8つのモデル地域の委員定数(7人から11人)は人口比によって決められ、公募委員の総数は40人。推薦委員の総数は32人となっている。今回、公募委員に64人が立候補し、倍率は1・6倍。

(中略)

 無報酬の地域議員が多数誕生し、地域のために奮闘する姿が定着すればするほど、問われるのは75人いる市議会議員の存在だ。報酬が年間1633万円、さらに年間600万円の政務調査費付き。そのうえ費用弁償という名の日当が、1万円。議会の在り方がこれまで通りでよいと思う市民はいなくなるのではないか。河村市長は定数や報酬の半減(817万円)、会派拘束の見直し、政務調査費の見直しといった議会改革案を2月議会に追加提案するはずだ。

 強いて違いを見つけるとしたら、この辺くらいです。「地域委員」は手弁当だけど、「市議会議員」は報酬が出るわけですね。議員報酬は高額に見えるかも知れませんが、単に個人の生活費ではなく議員としての活動費込みですから、まぁこんなものでしょう。金のかかることは何もせず、市議会に通勤するだけの日々を過ごすなら報酬を半減しても何ら問題はないですけれど、マトモに活動するなら相応の資金も必要です。ただし、地元の議員がどんな活動をしているかなど地域住民にとっては大して関心のない分野だと思います。テレビや新聞を賑わす国政の動きならいざ知らず、地元の行政には無関心な人も多いでしょう。そうした人からすれば、市議会議員など「何もしない癖に高給をもらっている連中」でしかない、だから議員を否定して無給の「委員」に権限を委譲するのは良い政策だと、そう思えてしまうのかも知れません。

 これもある種の、偏見に乗じたゴリ押しです。議員はムダ、政治家はムダ、そういう思いは少なからず世間で共有されていると思います。そしてムダ(=議員)を否定するものがヒーローとして扱われるわけで、つまりは新たな「地域委員」が、「市議会議員とは違って」有益なものであると、そう期待されてしまうものではないでしょうか。実態は甚だ怪しいものですが、従来の「議員」をムダと感じている人々にとっては、それを否定するものであるというだけで「委員」が意義のあるものに見えてしまうはずです。

 何はともあれ、議員と違って報酬が出ないとなると、何もかも手弁当でやるしかありません。自分の生活で金銭的にも時間的にも手一杯のサラリーマンには、議員以上にハードルの高い世界です。資産家などの有閑階級であれば、そして無報酬で他人を動かせるような立場の強い人であれば何ら問題はないのかも知れませんし、そもそも従来の議員だって世襲の資産家にして生れながらの特権階級だったり政党丸抱えだったりもしますから、その辺で生じる差は大したものではないのかも知れません。ただ、金をもらってやっている=プロの政治家に比べて、実質無償のボランティア委員が秀でている保証などどこにもありません。PTAとか町内会とか、無償で運営されている世界を思い浮かべてください、PTAや町内会はあなたにとってどのような存在でしょうか?

 名古屋市はもともと、都市部の中では住民活動の盛んな地域といえる。全国の自治体に存在する町内会や自治会に加え、昭和40年代以降、小学校区(236)ごとに区政協力委員や民生委員、消防団などの各種地域団体からなる「学区連絡協議会」(学区連)が組織され、住民自治が進められていた。

 しかし、時代の変化とともに住民自治を取り巻く環境も大きく変わった。町内会への未加入世帯の増加や住民二―ズの多様化、その一方で、NPOの活動など新たな動きも高まっている。地域委員会は、地域のこうした多様な力を結集し、地域課題の解決に取り組もうというものだ。市のまちづくり予算(初年度の今回は人口規模により500万円、1000万円、1500万円の三種)を地域に移譲する「地域内分権」の実行である。これまで行政にお願いする立場にすぎなかった住民が、決定権を持つことになる。つまり、住民への分権だ。

 その辺は人それぞれかも知れません。PTAや町内会の存在を疎ましく思う人もいれば、ありがたく思っている人もいるでしょう。しかしこの住民自治的なものが急激に拡大していけば、相応の軋轢もまた新たに生まれるような気がします。たかしくんの後ろ盾を得た「地域委員」が、町内会長とは比べものにならない強い権限を持って、住民参加を要求してきたらどうでしょう? 住民が決定権を持つ云々と言われても、要は住民が選んだ委員が決定権を持つだけのことです。住民が選んだ議員からなる議会が決定権を持つのと大して変わりません。ただし「地域委員」の方がより住民に近いとしたら、その委員の決定に住民が駆り出される可能性もまた増大すると考えられます。

 市議会議員だったら、市民には納税ぐらいしか要求しないわけです。後は収めてもらった税金で市政サイドがどうにかする、そういう仕組みですから。一方、無償の地域委員はどうなるのでしょうか。町内会費のように半強制の「地域委員会費」でも徴収するのでしょうか、それとも町会活動のように委員会活動への参加を実質的に強制するのでしょうか。地域委員があまり張り切らず、配布されるという「まちづくり予算」の範囲内に活動を収めてくれれば住民の負担は増えません。でも、市議会議員は予算を正しく使えないが地域委員なら住民の望み通りに予算を使ってくれる――そう信じられる根拠などどこにもないはずです。地域委員が前近代の名主のごとく振る舞う可能性だってあります。ある意味、全国各地にプチ独裁者を産み出す地域主権や地方分権と似たようなものなのかも知れません。

 

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大学の役割

2010-02-26 22:56:11 | ニュース

学生への「職業指導」、大学・短大に義務化へ 文科省(朝日新聞)

 学生が自立して仕事を探し、社会人として通用するように、大学や短大の教育課程に職業指導(キャリアガイダンス)を盛り込むことが2011年度から義務化される。文部科学省が25日、設置基準を改正し、大学側もカリキュラムや就職活動などの支援体制の見直しに入る。

 義務化の背景には、厳しい雇用状況や、職業や仕事の内容が大きく変化するなかで、大学側の教育や学生支援が不十分という指摘がある。さらに新卒就職者の3割が3年以内に離職するなど、定着率の悪さも問題になっていた。このため、大学教育のあり方を議論していた中央教育審議会(文科相の諮問機関)でも、学生支援の充実や、職業指導を明確化する方向性を打ち出していた。

(中略)

 具体例として、金沢工業大学では、入学時から4年生まで、必修の科目として将来の進路を考えるカリキュラム「社会で自分を活(い)かして生きていく力」を実施している。また、東京女学館大学では、コミュニケーション能力、IT能力など社会人として必要な10の能力「10の底力」を定めて4年間で基礎、専門科目を通じて伸ばす試みをしている。

 ただ、義務化で、大学の正規授業での職業指導が重点化されると、「就職」が目的化してしまい、本来の学問・研究がおろそかになるという懸念もある。また、もともと就職指導に重心を置いた専門学校との境目がなくなるという指摘もある。

 他所の国の大学だとどうなんでしょうね。日本の大学は先進国中トップクラスの学費の高さを誇るとか、教養人を育成したいのか専門家を育てたいのかどっちつかずで中途半端だとか色々と聞きますけれど、来年には義務化されるという職業指導云々は、日本独自なのでしょうか、それとも他所の国でも似たようなものなのでしょうか。国によっては高校卒業後にある程度働いて、勉強したくなったら大学に通うなんてケースも多いと聞かされていますが、今回の職業指導云々は要するに、「大学卒業→就職」という流れを前提とした話ですよね。社会人入学等々は日本でも一応は存在しますけれど、そういう立場の人からすれば職業指導など余計なお世話のはずですから。「大学とは社会人になる前の段階で済ませておくもの」みたいな認識あっての「義務化」でもあるように思います。

 まぁ理想の追求と現実への対応、両者は必ずしも合致しません。大学教育で言うなら高度な専門的知識を持った教養人の育成が理想である一方で、現実に要求されているのは専門学校的なもの、職業訓練施設的なもののようですから。そして政治の世界は安倍晋三辺りをピークに理想の追求ばかりで現実への対応が疎かになっているケースが目立ちますが、大学教育の場合は逆に現実への妥協ばかりで理想の追求が蔑ろにされている気もします。「ウチは『知』を追求するところであって『社会人』養成施設ではありません、職業指導なんてくだらないことはよそでやってください」ぐらいに反対の声を上げるところが出てきて欲しいものです。

 ともあれ大学側が就職指導に力を入れて就職能力の高い学生を送り出したとしても、採用枠が広がらない限り就職する人の順番が入れ替わるだけで、日本全国で見れば就職する人の数は増えません。競争が激化するだけです。テストで80点以上取れる人を増やすことは可能ですが、テストで上位100番以内に入る人を増やすことは可能でしょうか? 一部の学校だけが頑張れば、他校を出し抜くことは可能です。でも社会全体で見れば、上位100番以内に入る人の数は誰がどう頑張っても100人までです。だから大学がいくら頑張っても、それは「自分のところの学生だけ」が助かろうとする努力にしかなりません。「質」はともかく「量」の問題は大学側で解決できるものではない、そうであるにも関わらず就職指導云々を語るのは単なる責任転嫁と言わざるを得ません。

 では「新卒就職者の3割が3年以内に離職するなど、定着率の悪さも問題になっていた」とも書かれていますが、こちらはどうでしょうか。こちらは「量」ではなく「質」の問題かも知れません。就職者の数を増やすことは出来ませんが、離職しない人を育てることは不可能ではないでしょう。ただ、ちょっとやそっとのことでは離職しない学生/社会人が雇用主にとって好ましいことは違いないにせよ、それが大学教育の理念に照らしてどうかと考えると、それなりに疑問を感じるわけです。

 引用文中で挙げられている「10の底力」とやらはこちらで読むことが出来ます。真っ先に「コミュニケーション能力」が出てくる辺りに凡庸さを感じさせますが、「他人から言われたことを鵜呑みにせず自分で判断する~」とか「物事を多面的にとらえ、十分に情報を集めた上で結論を出す~」なんてのも含まれているようです。しかし、この辺を身につけるとどうなるでしょうか? まず第一に研修屋の嘘に気づいてしまう等々、むしろ「社会人」であるためには弊害も大きいような気がします。批判的精神や検証能力を身につけてしまうと、どうしても会社のお偉方が間違ったことを言っているのがわかってしまう、会社の在り方に疑問を感じてしまうケースも増えるはずですから。そうなれば当然、離職率は下がるよりもむしろ上昇に向かうのではないでしょうか。

 離職率を下げたかったら、会社に疑問を持たないことや、労働環境が劣悪で無理な業務を押しつけられるばかりでも、それを当たり前のことと思って従順に働き続ける等々、そうしたある種の鈍感力が必要になります。自分の頭で考えるのではなく、会社の頭で考える、そうした人でないと立派な社会人にはなれません。だからこそ体育会系の部活動で先輩には絶対服従、上意下達の精神を体に叩き込まれている学生が「辞めないから」などの理由で企業から重宝され続けてもいるわけです(参考)。新卒者の離職率が高いという指摘に対応するためには、大学の理念を捨てて「鈍い」学生を育てる必要が出てきます。曲がりなりにも最高学府たるものが敢えて鈍い子を育てる、それで良いのでしょうか?

 

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成功を恐れるな

2010-02-25 22:58:44 | ニュース

「ジパング」最終巻刊行 漫画家、かわぐちかいじさんに聞く(産経新聞)

 第二次大戦中にタイムスリップした海上自衛隊のイージス艦乗組員らを主人公に歴史の検証を試みた異色漫画「ジパング」の最終巻が刊行された。9年半、全43巻に及ぶ長期連載に挑んだ漫画家、かわぐちかいじさんは「連載開始当初はこんなに長く描くとは想像しなかった」と振り返る。ターニングポイントとなる一作と認めながらも「日本人とは何か? 漫画家として抱くテーマを、まだ描き切れたとは思っていない」と語り、すでに次作の構想を膨らませている。

(中略)

 いかなる戦争への加担も拒否、敗戦の歴史を受け入れる海自の角松副長に対し、歴史を変えようと行動する日本海軍の草加少佐。異なる2人の視点が、現在、そして未来の日本の防衛の在り方を問いかける。「戦後、経済発展など日本が得たものは少なくない。が、その代償として日本人は誇りを失ったかもしれない。どちらが正しいのか。読者にじっくりと考えてほしいですね」

 この人の漫画には全然興味がないのですが、最後の台詞はどうでしょうか。何というか、ありがちな主張でもありますね。戦後批判と言うより、経済的な豊かさ批判のテンプレートそのまんまという感じです。まぁ、漫画家など創作家としてはオリジナリティを発揮していても、社会や日常のことを語ればひどく凡庸、そういう人は別に珍しくありません。それはさておき「戦後、経済発展など日本が得たものは少なくない。が、その代償として日本人は誇りを失ったかもしれない」とのこと、代償が「誇り」であるところに産経新聞的なチョイスを感じますが、ただ「経済発展」と引き替えに「精神的な何か」を失ったという思いを共有している人は決して少なくないのではないでしょうか。その辺は左よりの立場に立つ人でも変わらないと思います。

 経済的な豊かさを得た代わりに、精神的な豊かさを失った――そんな言説は、誰もが何度となく見聞きしてきたはずです。半ば定式化しているとさえ言えますが、それはどの程度まで確からしいのでしょうか。もし経済的な豊かさと精神的な豊かさがトレードオフであるのなら、経済的な豊かさを徐々に失い始めた90年代以降は、精神的な豊かさを取り戻した時代になっていなければおかしいはずです。貧困化の進展とともに若年層の右傾化が顕著になっていったとすれば、産経新聞的な意味での「誇り」を取り戻していったとも言えますが、ただ総じて規範意識の低下云々など、経済的に貧しくなっていっただけではなく精神面、道徳面でも貧困化していったとする言説が目立ちます。規範意識と言った用語には見向きをしない人々の間でも、「精神的な何か」が低下しているかのように語るケースは珍しくないでしょうし。

記録を塗り替えた「息子」に「父」が贈った言葉。~コービーとウェストの師弟関係~(NumberWeb)

「成功を恐れるな」

 これは、コービー・ブライアント(ロサンゼルス・レイカーズ)がルーキーの時から心に留めていたアドバイスである。アドバイスをくれたのはジェリー・ウェスト。1996年、ブライアントが17歳でNBA入りしたときのレイカーズGMであり、彼自身も'60年代から'70年代の頭にかけてレイカーズの一員として活躍した往年の名選手。NBAロゴに彼のシルエットが使われているほどのスーパースターでもあった。

 「成功を恐れるな」、良い言葉です。「失敗を恐れるな」などと言われたら、何を今さら、当たり前のことを言うなという気にもなりますが、「成功を恐れるな」と言われれば、誰しもちょっとは意識が変わるのではないでしょうか。ほとんど自覚されることはないかも知れませんが、失敗を恐れる意識だけではなく、実は成功を恐れる意識も少なからず人々の心の中には漂っているのではないかと思います。成功を全面的に肯定しきれない、成功にポジティヴなイメージだけでなくネガティヴなイメージをも持ってしまう、そして成功が何かとトレードオフであるかのように感じてしまう、そういう意識はないでしょうか? 例えば「エリート」なんて必ずしも肯定的にばかり受け止められる言葉ではないですよね。そして、経済的な成功が精神的な豊かさとのトレードオフであるかのように信じ込んでしまい、経済的な成功を恐れる等々。

 それが成功した結果なのか、それとも失敗した結果なのか、旗振り役の真意を知る術のない傍観者には一概に判断できないものもあります。安倍晋三の北朝鮮外交/拉致問題対策は成功なのでしょうか、失敗なのでしょうか? 国交正常化し拉致問題を解決させるのが真意であったならそれは失敗と言えますが、両国間の対立を利用し、右傾化する世論の支持を取り付けることが本来の目的であったとするなら、一応は成功を収めたと言えるはずです。小泉・竹中の構造改革だって経済発展が目的であったなら悲劇的な失敗でしかありませんけれど、格差の固定こそが真の狙いであったなら、見事に成功を収めたと言えます。

 今の世の中は、失敗した結果なのでしょうか、それとも成功した結果なのでしょうか。経済的な成功を求めながら、先進国の中では日本だけが例外的に10数年以上も失敗を繰り返してきたのか、それとも実は経済的な成功を恐れ、敢えて停滞することを是としてきた、そして狙い通りに停滞することに成功した結果として今に至るのか…… 後者のファクターも、少なからず作用してきたのではないかと思います。「不況で鍛えられる」云々と語る財界人も含めて、総じて精神的な豊かさを重んじるあまり経済的な豊かさ、経済的な成功を否定的に見る傾向にある、それが政策にも影響してきたのではないでしょうか。

 

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与党には許されないこと

2010-02-24 22:57:29 | ニュース

仙谷氏「千葉・秋田で負けた頃と似てきた」 知事選敗北(朝日新聞)

 長崎県知事選で民主など与党3党の推薦候補が敗れたことについて、仙谷由人国家戦略相は22日、「昨年の千葉、秋田(両県知事選)で負けたころと状況が似通ってきた」と記者団に述べた。昨年3月、違法献金事件で当時の小沢一郎代表(現幹事長)の秘書が逮捕された後、千葉、秋田両県知事選で民主系候補が連敗。小沢氏は同年5月に代表を辞任した。

 知事選の敗北について、仙谷氏は「(世論調査の内閣)支持率の動きや現場で感じる風の冷たさからみると、予測された範囲」とも分析した。

 さて長崎県知事選では自民党系候補の勝利と相成ったわけですが、この先はどう展開するでしょうか。土地柄や候補者の資質、競合相手との関係によって左右されるところも大きいとはいえ、与党の候補と野党の候補で結構な差が付きました。それぞれが適切に勝因、敗因を分析して次回につなげることが出来ればいいのですが、選挙戦の敗者が負け惜しみや自己正当化に終始して、同じ過ちを繰り返すのもよくあることです。とりあえず民主党内でも小沢氏と距離があると見なされている議員は、率直に小沢関連の「政治とカネ」問題の影響を認めていますが……

 仙石氏は「千葉・秋田で負けた頃と似てきた」と語ります。ふむ、当時のように、そこから先はまた盛り上がると言うことでしょうか? あの時も熱心に過ぎて周りが見えなくなっている民主党支持層は「国策捜査だ! 小沢潰しだ!」と息巻いていましたが(自民党議員の金銭問題は嬉々として追求するくせに)、あれは民主党にとってはちょうど良いタイミングでしたよね。早めに膿を出しておいて、いざ衆院選が始まる頃にはすっかり疑惑は下火になっている、そして民主党の大勝に終わったわけです。本当に民主党/小沢潰しに動くのなら、切り札はここ一番の勝負段階で――つまりは選挙期間中にでも使わないと意味がありませんから。

 今回の小沢一郎の疑惑も、前回のように形式上のけじめを付けて沈静化に努めれば、参院選の頃にはすっかり有権者の頭から抜け落ちてしまうことでしょう。選挙期間中に疑惑が持ち上がれば対応は至難ですが、今からならどうにでもなります。そういう点では仙石氏の感想はあながち的外れでもないのかも知れません。しかし、根本的に違うこともあります。「千葉・秋田で負けた頃」の民主党は野党で、自民党が自壊していくのを待っていれば自然と支持が伸びていく状態でしたが、今の民主党は与党なのです。自民党が何かアホなことをやらかしても、よほどの好事家でもない限り誰も野党のことなんて気にしちゃいません。「敵失」で民主党が票を伸ばせる時代は過去のものです。

 選挙戦では与党であることで有利になる場面もあれば、逆に与党であることが不利に作用することもあります。野党であれば、政府与党に対する失望感への受け皿となることが出来ますが、与党にその手は使えません。先の衆院選までは反自民党の旗印が有効でしたが、それは自民党が政府与党だったからです。地域レベルではまだしも全国レベルで見れば民主党こそが政権与党である以上、自民党の対抗軸としての民主党への期待感は急速に萎んでゆくものです。今度は、自らが責任政党として実績を積み重ねてゆくしかありません。

民主・石井氏「鳥取、島根は日本のチベット」(読売新聞)

 民主党の石井一選挙対策委員長は22日、都内で開かれた川上義博・同党参院議員(鳥取選挙区)のパーティーであいさつし、「鳥取県とか島根県と言ったら、日本のチベットみたいなもので、少し語弊があるかもわからないが、人が住んでいるのか。牛が多いのか。山やら何やらあるけど、人口が少ない所」と述べた。

 しかるに、こういう発言を聞くと民主党の政権与党としての自覚に疑問が湧いてきます。芸人がジョークでこれを言うなら結構なことですが、与党の選挙対策委員長という責任ある立場にある人間がこのように語るのは大いに問題です。「人が住んでいるのか」とは鳥取県民や島根県民を馬鹿にしていますし、チベットにも失礼でしょう。所得が多いほど税率も高くなる、累進課税というものがあるわけですけれど、立場や権限と責任の関係も同様だと思います。あたかも貧困家庭と資産年千億の大富豪を同列視するような勢いで、国政に絶大な影響力を持つ権力者である小沢一郎をその辺の無力な被疑者と同様に扱えと声高に叫んでいたような人には受け入れがたいことになるのかも知れませんが、やはり普通の人には許されても政治家には許されない行為というものがあるはずです。そして今回のような発言は、与党の政治家として相応しくない、自身の立場に対する自覚に欠ける発言だと言わざるを得ません。

 ちなみに石井一氏、麻生内閣時代に国会で「漢字テスト」をやった人ですね。あの頃なら自民党支持層が「国会でそんなくだらない質問をするな」と非難の声を上げる一方で、民主党支持層からは擁護する声も多かったように記憶しています。逆に今度は自民党から「朝三暮四」の意味を知っているかと問われたりして、今度は逆に民主党支持層が「国会でくだらない揚げ足取りを~」みたいなことを言い出すわけで、「おまえが言うな」という気にもなります。まぁその辺もまた野党には許される範囲だと思いますが。それ以前に石井氏は「1票くらい聖徳太子で」などと放言したこともあるとか。これもジョークではあるにせよ、政治家としては口にしてはならないことでしょう。今や政権与党、責任政党の幹部ですから、こうした「軽さ」はますます以て許されないはずです。民主党と自民党、似たようなことをやっても片方の党だけを非難して片方の党は擁護する、そういう人もネット上では喧しいですが、有権者の大多数は私と同様に自民党か民主党かであるより、「与党」に厳しいようですから。

 

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新卒一括採用の会社と中途採用中心の会社

2010-02-23 22:56:51 | 編集雑記・小ネタ

 日本は新卒至上主義であると、よく言われます。まぁ理念としてはそうなのかも知れません。ただ実際の運用はどうでしょうか。終身雇用とか年功序列型賃金体系とか、ともすると日本企業の特徴と言われるものは、実のところ日本の大企業/優良企業の特徴であって中小ブラック企業には必ずしも当てはまらないはずです。新卒至上主義も然り、大企業/優良企業は新卒一括採用中心だけれど、中小ブラック企業は意外に中途採用が多いのではないでしょうか。そして産業の集約化が一向に進んでいない日本では、大企業よりも中小企業の方が圧倒的に多い、中小企業勤務者の方が多いわけです。

 以前にもちらっと書きましたが、一応は上場している企業に正社員として勤めていたことがあります。フリーターからの中途採用でした。ではなぜ、上場企業にフリーターが中途で入社できたのでしょうか? もちろん、私は何の努力もしていません。ではなぜ? 理由は簡単、とんでもなく離職率の高い会社だったからです。毎日とは言わないまでも毎週必ず退職者が出るため、その度に人員を補充しないと会社が回らない、新卒採用の時期を待っていては会社から人がいなくなってしまう、そういう有様だったのでフリーターにも幅広く門戸を開いていたわけです。

 直近の勤務先もまた、中途採用者の多い会社でした――ある程度、上の世代は。つまり上司は半分以上が中途採用だったのですが、一方でヒラ社員は新卒採用ばっかりなのです。「昔は結構、中途採用も多かったんだけどね、今はもうやらないみたいだけど」と主任から聞きました。そしてこの会社、不況の中でも業績を伸ばし、かなり急速に大きくなった会社でもあります。どうやら、まだ会社が小さかった頃は中途採用にも積極的だったけれど、会社が大きくなるにつれて新卒採用一本にシフトした、そういう流れみたいです。

 そこで順番が前後しますが、2つ上の段落の、私が正社員として勤めていた、ある離職率の高い上場企業の場合です。むしろ忘れたい過去なのですが、会社がその後どうなっているか、ちょっと調べてみました。どうも株価の方は今一つですが、4年間で資本金は4倍、従業員数は2倍に膨れ上がっていたり、より都心の一等地に近いところに本社が移転していたりと、かなり景気は良さそうです。しかるに採用情報を見ますと――中途採用は行っていないとのことでした、なんと新卒採用のみ。半年で社員の半分が入れ替わるあの会社で中途採用廃止は自殺行為にしか思えないのですが、それが可能になったということは、離職率が劇的に改善されていると推測されます。う~ん、ブラックだった頃はガンガン中途採用していたのが、ある程度マトモな会社に成長したら新卒採用一本に限定?

 よくよく考えると、その前にバイトしていた家電量販店も似たようなものでした。ある程度、上の年代ですとバイトから社員になった人も少なくなかったわけです。私がバイトしていた当時は東証二部上場でしたが、バイトからの社員登用に関しては「今はもうなくなっちゃった」とのことでした。未上場の電気屋だった頃はバイトの社員登用にも積極的だったのが、会社としての体制が整備されてゆくにつれ、新卒採用一本にシフトしていったようです。その後の急速な経営悪化でどうなったかは、もう辞めてしまったので知るところではありませんが。

 「紹介予定派遣」なんてのもありまして、これは一定期間、派遣社員として派遣先企業で働き、派遣先企業に気に入られた場合は派遣先企業との直接雇用に切り替えるというものです(半年程度の実質的な試用期間内で派遣先企業からの評価を得られなかった場合は、まるでデリヘル嬢のごとくチェンジされます)。派遣社員から正社員、一見すると「昇格」に見えるかも知れませんが、それが実は微妙なのです。派遣社員から正社員になって給与も上がれば万々歳ですが、逆に給与が低くなるケースが頻繁にあります。私が紹介された限りでも、正社員になると派遣社員時代よりも給与が8万円も下がるところがありました。そんな仕事は受けられませんと断ったら、派遣会社の営業から「でも社員になれば交通費も出ますし……」と食い下がられました。でも交通費ごときで月8万の差は埋められません。

 要するに正社員の待遇が悪い(給料が少ない)、正社員の方が安上がりになる、だから派遣社員を正社員として雇おうと申し出るわけです。ただし、いきなり正社員として雇ってしまうと法律上は安易に「チェンジ」は出来ません。ところが間に派遣会社を挟み紹介予定派遣制度を利用することで、合法的な「チェンジ」が可能になるわけです。気に入った子が送られてくるまで「チェンジ」を続ければ良い――紹介予定派遣ではよくあることです(一時期フランスで導入が検討されたCPEと似ていますね)。それでも新卒で就職できなかった人に門戸を開いている側面もあるわけですが、社員になったら給料が下がるというのでは、少なくとも私は御免被ります。中には社員になれば給料も増える紹介予定派遣の口もありますが、残念ながら多数派とは言えません。待遇の良い会社は、あまり中途採用には積極的ではない、新卒採用だけで必要な人員をまかなえるものですから。

 日本の新卒至上主義を論じる際に留意して欲しいのは、新卒至上主義を実践している会社よりも、新卒至上主義を実践できない会社、つまり中途採用が多い会社の方が実は問題が多い可能性があるということです。新卒一括採用で会社が回るのは、それだけ経営が安定しており、離職率も低いからと推測される一方で、逆に中途採用が多いのは離職率が高く、随時人員補充の必要に迫られているから、簡単に正社員になれるのは実は正社員の給与が派遣社員以下だったりするから等々、ネガティヴな要因が多々疑われます。新卒至上主義の問題と、それぞれ新卒一括採用を続ける会社とでは、また問題の質が異なるわけです。

 

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やっぱり自民党時代と変わっていない

2010-02-22 22:53:45 | ニュース

 まだ民主党が野党で、自民党閣僚の不祥事を追求していたり審議拒否の構えを見せていた頃の話です。当時の自民党は「閣僚の金銭疑惑よりも急を要する政治課題があるはずだ」「国会審議に応じないのは横暴だ」などと民主党の国会対応を批判していました。同様の主張を、通勤途中の駅前でも繰り広げている人がいたわけです。昨日のニュースで見た自民党議員と言うことが全く同じだなぁ、と思っていたら、意外にも民主党の幟を持っての街頭演説でした。まぁ民主党は寄り合い所帯ですし、しかも私の地元議会では自民党系会派と民主党系会派が仲良く手を携えているオール与党状態、ならば自民党と同じことを語る議員がいるのも不思議はないと、当時はそう思ったものです。

 民主党が与党になり、今までとは反対に自民党が民主党幹部の政治資金疑惑を追及する時代になりました。そこで自民党議員が疑惑を追及すると「おまえが言うな」的なことを言い出す人もいるわけです。ついでに自民党側も審議拒否の姿勢をちらつかせたりすると、今度は民主党サイドが自民党の対応を批判する――金銭問題よりも重要課題がある/審議拒否は言語道断だ――等々。これもまた、「おまえが言うな」ということになってしまいますよね。あの日見かけた民主党議員は今頃何をしているのでしょうか。あのとき、民主党の国会対応を口を極めて批判していた信念の人であれば、誰からも後ろ指指されることなく自民党の国会対応を批判できると思うのですが。

小政党「おとなしくして」=福島、亀井氏に不快感-中井国家公安委員長(時事通信)

 中井洽国家公安委員長は20日午後、水戸市のホテルで開かれた民主党茨城県連のパーティーであいさつし、社民党党首の福島瑞穂消費者・少子化担当相と国民新党代表の亀井静香金融・郵政改革担当相が閣議で頻繁に発言していることを紹介した上で「よくしゃべる。党の大きさに合わせもうちょっとおとなしくしてくれたらいいのになと毎日思っている」と不快感をにじませた。

 これまでに米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題や2010年度予算編成などの重要課題で両氏に振り回された場面もあり、つい本音が出たようだ。もっとも、言い過ぎたと思ったのか、即座に「こういうことを言うと連立政権が壊れるので、うまく議論をしながら期待に応えられるように頑張っていきたい」と付け加えた。 

 さて、こんな風に語る人もまた、政府与党内で結構な地位にいるわけです。海千山千の亀井静香は少数政党でも巧みに政権内に食い込んでいくような気がしますが、社民党の先行きには何かと不安を感じますね。民主党への妥協を拒んで政府与党から追い出されるか、民主党に妥協して福島瑞穂が社民党内で居場所を失うか、そのどっちかになりそうです。

「無償化対象、朝鮮学校は除外を」拉致担当相、文科相に(朝日新聞)

 4月に実施予定の「高校無償化」をめぐり、中井洽・拉致問題担当相が、在日朝鮮人の生徒らが通う各地の朝鮮学校を対象から除外するよう、川端達夫文部科学相に要請していたことが政府関係者の話で分かった。拉致問題が思うように進まない状況を踏まえてのこととみられる。

 高校無償化制度では、公立で授業料をとらないようにする一方、私立高校や外国人学校を含む各種学校の生徒にも公立の授業料相当額として年約12万円を支給する方向で予算が組まれている。学校の種類で支援の有無を区別すべきでないという考えからだが、今回の「閣内異論」も踏まえ、文科省は軌道修正も検討している。

 中井氏はこれまでも、サッカーの東アジア女子選手権への北朝鮮参加に反対し、参加が見送られた経緯がある。政府関係者によると、中井氏は17日に参院議員会館で開かれた拉致問題関係政策会議でも、高校無償化について「朝鮮学校を対象としないよう求めている」などと発言したという。

 文科省内には、今後、中井氏のような意見が高まった場合、「外交ルートなどを通じ、授業内容が日本の高校と同等だと確認できること」などを支給条件とすることで朝鮮学校を除外することもあり得るという考えが浮上している。

 ……で、中井氏の2連発です。この辺も自民党時代と変わりませんね。高校無償化は学費を負担する人のための制度であり、この場合は朝鮮学校に通う人に関わってくるわけですが、「朝鮮学校に通う人」を締め付けて拉致問題が解決に結びつくとでも思っているのでしょうか。「朝鮮学校に通う人」ではなく北朝鮮政府と話をしない限り、進展などあり得ないことは言うまでもありません。それなのに「朝鮮学校に通う人」を標的とする――拉致問題が解決しない原因を「朝鮮学校に通う人」に押しつけることで国民向けに「日本政府はやるべきことをやっていますよ」とポーズを取る、自民党時代と全く同じです。あの小泉ですら自ら訪朝して話を進めてきたのに、安倍以降は対岸から相手を罵るだけ、その路線を民主党もまた引き継いでいるようです。

 ちなみにこの中井蛤さん、サッカー北朝鮮代表以前にはマラドーナの入国を阻んだことでサッカーファンから知られている人物でもあります。その辺はさておき、文科相サイドでは中井氏の要請を受けて軌道修正を検討しているとのこと。高校無償化自体は評価できる政策の一つですが、この辺も妙な方向に修正されていくのかも知れません。マニフェストに載っても安心できないのが民主党ですから。そして「授業内容が日本の高校と同等だと確認できること」なんて条件が挙げられていますが、朝鮮学校だけ条件付きになるのでしょうか。日本の公立高校でも、身も蓋もないことを言えば高校レベルの授業が出来ていないところはいくらでもあるはずです。元より勉強よりも人間形成的なものばかりを重んじる日本の学校教育を鑑みた場合、そのコミュニティにおいて高等学校的な社会的地位を占めていれば、それは高校相当と見なされるべきだと思いますけれど。

 

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12歳の子供の国

2010-02-21 22:55:50 | ニュース

海外ユーザーが指摘する「JRPGが変えなければならない7つのこと」(ITmedia)

1:子供のキャラクターをパーティに加えるのをやめさせるべき

パーティに一人はいる、幼い子供のキャラクター。でも生きるか死ぬかのミッションに、9歳の子供を連れていくのはどうなの?

「JRPGを改善する10の方法」-海外からの提言(インサイド)

6.ありがちなキャラクターを止める
「日本の開発者はキャラクターをデザインする際に類型的なものに頼るという不幸な習慣を持っている。魅力的な女魔法使い。孤独な剣士。いらいらさせるが愛らしい子供

5.ローカライズの際、声に配慮する
「日本のアニメやゲームで子供のような甲高い声は、洗練され心地よいトイレと同じくらいに一般的だ。だがこのスタイルは米国では異質だ

 JRPGというのは日本製RPG(ゲーム)のことで、日本国内でしか通用しない、欧米では評価の芳しくないジャンルを指します。日本製RPGに必ずと言っていいほど共通する一方で欧米産RPGには少ない要素、その中でも欧米のゲーマーにとって好ましく感じられない部分がいくつかリンク先にて指摘されているわけです。言語の問題をクリアしてさえ日本製RPGが欧米で通用しにくいのは在野の才能を発掘できていないところも大きいのではないかと思いますが、それはさておき今回は「子供」というファクターに注目してみましょう。日本製RPGではほぼ必ず子供が仲間あるいは主人公として登場するのに対し、欧米のRPGでは大人達だけで冒険するのが普通です。大人と言っても日本製RPGでは高校生ぐらいの年齢設定が標準的なところで、20代後半となると年増キャラみたいな立ち位置でもありますね。逆に欧米産RPGでは濃密なる「おっさん」の世界が展開され、10代のキャラは「未熟なガキ」として登場しがちです。端的に言えば日本製RPGは「子供」を操作して物語を展開させる、欧米産RPGは「大人」を操作してゲームを進めるわけです。

009|「こども店長」に感じる違和感 ドイツのおやじはなぜカッコイイのか(日経ビジネス)

 仕事以外でも日本とドイツは真逆な国と感じることが多くあります。 日本の男性に、「美人と可愛い女性、どちらがいい」と尋ねれば、9割方が可愛い女性と答えるのではないでしょうか。

 私の印象では、ドイツには美人はいても可愛い女性はほとんどいませんでした。 概して独立心が強く、男性に媚びたりしない。男性、女性にかかわらず個人としての意識がとても高い。そこで「女性に優しいデザインです」「女性のためのデザインです」なんて言ったらぶっ飛ばされるのではないかと思うほどです。

 したがってドイツにはかっこいい商品はあっても、可愛い商品はまずないのです。媚びたり、甘えたりたりする商品が許されないのです。

(中略)

 ドイツの父や母は、子どもに媚びたりしない。大人の世界と子どもの世界との間にはしっかりとした境界線があり、明確に分かれているのです。この時代にあってコンサバ過ぎるという声も出てくるでしょうが、それはきっとドイツの何か核心的なものを「守っている」のではないかと感じるのです。

(中略)

 東京は正反対です。常に新しさを求め、いろいろなものが混ざり合った街です。面白くエンターテイメントに富んでいます。 しかし決して大人のエレガントな街ではありません。そのほとんどが子どもや若者のためのエンターテイメントです。

 日本の家族は子どもを中心に動いている。食事中に子どもが携帯電話をいじっても誰も注意しない。正確に言えば注意できないのでしょう。大人は子どもに嫌われることを恐れているのです。

 某自動車メーカーのテレビCMに出てくる「こども店長」はいったい何を意味するのか?

 児童ポルノ規制には(別の思惑もあってか)何かと熱心な日本社会ですが、その一方で子供に黄色い声援を送る社会でもあると思います(参考)。「こども店長」に限らず子供にちやほやする、子供を見せ物にする、そして子供であることを売りにする――日本では当たり前のやり方でもありますが、これはどうなのでしょうか? 性的な要素を含まなければ問題ないものとして扱われがちですが、「子供であること」に熱い視線を注ぐのは、性的な要素の有無にかかわらペドフィリックなところがあるとも言えます。総じて日本は、カマトトぶった小児愛社会なのかも知れません。

「がんばれニッポン」が控えめにした五輪熱(日経ビジネス)

 私は、フィギュアスケートの浅田真央選手を応援している。がんばってほしいと思っている。が、そう考えている一方で、彼女に対して、「真央」ないしは「真央ちゃん」と、名前呼びで語りかけるカタチの放送に、いまだに慣れることができないでいる。あれはアスリートに対する態度ではないと思う。

(中略)

 名前で呼ばれる選手は、それだけ国民に愛されていて、親しまれていて、娘のように扱われている、と、そういうことになるようなのだ。 で、私は、このマナーどうしても好きになれない。どうしてスポーツをパパ目線で見なけりゃならんのだ? ばかばかしい。

(中略)

 男子選手でも、年齢が非常に若い場合は、名前で呼ばれるケースが無いわけではない。ゴルフの石川遼選手は「遼君」と呼ばれるのが普通だし、西武ライオンズのルーキー菊池雄星選手は、登録名からして「雄星」を名乗っている。つまり、アレだ。期待されている役割が「息子」のそれなのだね。全国民の息子。若いというのはそういうことだ。

(中略)

 が、石川遼君をはじめとする現代のアスリートは、むしろ大人の玩具になっている。だから遼君と一緒に写真におさまる面々は、財界人や政治家や有名司会者だったりする。彼のオーラは、おそらく、そういう人々にとって利用価値のあるものに見えるのだね。

 いずれにしても、平成ニッポンのメディアとアスリートの間には、相手を子供扱いにすることを、すなわちサービスであると受け止めるみたいな気持ちの悪いなれ合いが介在している感じはある。それが私には気持ちが悪いのである。

 ここでは五輪ネタと言うことでアスリートの場合が取り上げられていますが、この「大人(親)としての観客」と「子供としての競技者」の関係はスポーツ界に限られたことではないでしょう。冒頭のJRPGの例で言えば、「プレイヤー=大人」が「ゲームの中のキャラクター=子供」を玩具にする、まさにそのものの構図が繰り返されているわけです。大人っぽい性格よりも子供的な要素の強いアスリートがメディアひいては視聴者に好まれるのと、大人ではなく子供を主人公とした物語ばかりが歓迎される国産RPGの世界も、要は同じなのです。大人なんてのは全く魅力がない、その代わりに子供遊ぶことに熱狂する――そこに性的な要素などなくとも、私には十分に変態的に見えます。

 

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被害者遺族はそこにいる

2010-02-20 22:39:11 | ニュース

2歳虐待死、父に懲役11年判決「監禁法、極めて悪質」(朝日新聞)

 東京都練馬区で2008年12月、長男(当時2)をゴミ箱に閉じ込めて窒息死させたとして、監禁致死などの罪に問われた父親の建築作業員菅野美広(かんの・よしひろ)被告(35)の裁判員裁判で、東京地裁(井口修裁判長)は18日、懲役11年(求刑懲役12年)の判決を言い渡した。被告の妻も共犯の罪に問われており、裁判員の1人は判決後の取材に「被害者の気持ちを代弁する人がいないのがつらい」と語った。

 菅野被告は15日の初公判で起訴内容を認め、刑の重さが争点となった。判決は、菅野被告と共犯の罪に問われた妻理香被告(35)=公判分離=による長男優衣(ゆい)ちゃんへの虐待がエスカレートし、今回の犯行につながったと認定。「監禁の方法は危険性が高く極めて悪質で、死に至るまでの恐怖と苦しみは察するに余りある」と指摘した。

 菅野被告は公判で、優衣ちゃんをオーブンや洗濯機に入れていたことも認めた。

 検察側は「常軌を逸した虐待」として懲役12年を求刑していた。これについて、判決後に取材に応じた裁判員は、「人が亡くなっており、私の中では軽いと思った」(30代女性)、「求刑を出発点にするのが嫌だったので素人なりに計算したが、求刑は自分の想定より短かった」(40代男性)、「素人的に言えば15年とか18年ぐらいと思った」(男性)などと、求刑は軽いとみる意見が目立った。

 裁判員のコメントはいつも変わり映えがありませんね。検察側は「常軌を逸した虐待」に相応しい量刑として懲役12年を要求し、地裁側も悪質性を認めてほぼ求刑通りの刑期が言い渡したわけですが、裁判員は口を揃えて「軽い」「短い」というわけです。この辺の厳罰志向はもう好き嫌いの世界ですからどうしようもないとして(これに政治家が媚びるようになると大変なことになりますが)、それより冒頭の段落に登場した裁判員の台詞はいかがなものでしょうか。曰く「被害者の気持ちを代弁する人がいないのがつらい」と。

 未遂ではない殺人事件の場合、必然的に被害者本人は死亡していますから、その気持ちを代弁する人が駆り出される傾向にあります。そしてこの「代弁する人」の「気持ち」に全面的に添うこと(より踏み込んで言うなら代弁者の「気持ち」を押し出して被告の刑を重くすること)こそ是であるとされがちです。だから取材を受けた裁判員氏も、そうした流れを当然のものと考えて発言した部分もあったのでしょう。しかるに被害者感情ばかりを重視した裁判となりますと、身寄りのない人や社会的に孤立した人を殺した場合と「代弁する人」に恵まれた人を殺した場合で量刑に大きな差が出ることになってしまうわけです。そして今回は「被害者の気持ちを代弁する人がいない」結果として懲役11年に落ち着いたのでしょうか。「代弁する人」さえいればもっと量刑は重かったはず――つまりは裁判員の感覚に近い罰が下されていたのに――そういう思いがあるのかも知れません。

 しかし殺人事件において「被害者の気持ちを代弁する人」とは一般に誰を指すのでしょうか。大半のケースでは、被害者の遺族です。そこで私には思われるのですが、この取材を受けた裁判員氏は代弁者たる被害者の遺族と向き合っていたばかりのはずです。つまりは被害者の父親である、被告と。被告は加害者であると同時に紛れもない被害者の遺族であり、「被害者の気持ちを代弁する人」の立場でもあります。全ての肉親が代弁者に相応しいとは限りませんが、何かと持ち出される遺族感情云々を重んじるなら、今回の事件でも被害者遺族の声はそれなりに尊重されなければならないはずです。その被害者遺族と法廷で対面した直後に「被害者の気持ちを代弁する人がいない」と語るのは、ある意味で被害者遺族を蔑ろにした発言でもあるでしょう。厳刑(復讐)を望むばかりが被害者遺族ではありませんし、何の罪もない無垢な被害者遺族ばかりでもない――裁判員や世論の期待する被害者(遺族)と実際のそれとはしばしば食い違うものです。

 

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普通の上司は意外に貴重

2010-02-19 23:25:46 | 文芸欄

460 名前:なまえをいれてください[sage] 投稿日:2010/01/21(木) 13:14:31 ID:19S3QZpj
普通の上司の場合。
上司「おーい!これやってないの誰だーー!!」

バイト「すいません!俺です!」

上司「ちゃんとやっとかないとダメだろ!」

バイト「はいっすいません!」

糞上司の場合
糞上司「おーい!これやってないの誰だーー!!」

バイト「すいません!俺です!」

糞上司「なんでやんないの?これ、なんか意味あんの?」

バイト「いえ・・・すいまえん・・・」

糞上司「いやいや、怒ってるんじゃなくてね、○○君なりに意図があって
わざと仕事してないのかなぁって思ってさ。」

バイト「・・・・(う、・・うぜぇーーーー!!!!)

 

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