非国民通信

ノーモア・コイズミ

民から官へ!

2007-09-30 18:02:28 | 非国民通信社社説

 みなさん、民間企業で働いたことはおありでしょうか? そんなもの、あるに決まっていると思う人の方が多そうですが、しかるに民間企業で働いた経験のある人の発言とはとても思えない意見もしばしば耳にします。例えばありがちな公務員批判の中で、「民間企業ではこんな事はない~」と、よく民間企業がそれに対比されるものとして引き合いに出されるわけですが、これには大いに疑問です。民間企業って本当にそんな大したものか?と。私には目糞鼻糞の部類に見えるのですが、たまたま私の働いたことのある民間企業に問題が集中していたのでしょうか、それとも、「今自分が在籍している民間企業」はダメだけれど、他の民間企業は素晴らしいのだと、そう考えているのでしょうか。

 明日から(これを書いているのは9月30日です)郵便局が民営化されます。我々は民営化の弊害をリアルタイムで見せつけられることになるでしょう。公務員批判が盛り上がる中で、とにかく「官から民へ」移行させれば物事が改善されるかのような錯覚も生じるのかも知れません。「官」への漠然としたネガティブイメージを抱き続けている人にとって民営化は改革に見えるのでしょう。ところが現実はさに非ず……

 地方を中心にして、既に各地で簡易郵便局の閉鎖が相次いでおり、住民の生活に必要なインフラが失われつつあります。これは郵便局だけではありませんね、ローカル鉄道も医療機関も相次いで廃止され、移動手段や通信手段、医療など生きるために欠かせないはずのものが次々と失われているわけです。これらの廃止や閉鎖の理由は概ね経済的な理由によるもの、採算がとれないからと言うもので、それはたぶん民間企業としては正しいのでしょう。不採算部門を維持して経営を破綻させることはよくないこととされていますから。

 逆に「官」の世界では全くの不採算部門でありながら、税金を投入することでそれを維持しているケースも目立ちます。例えば、自衛隊ですね。設立以来、一度たりとも黒字なんて出したことはない完膚無きまでの不採算部門ですが、それでも公的資金を投入し続けることで維持されているわけです。少なくとも税金の使い道を決めている人にとって、自衛隊はいくら赤字でも必要なものだから、と言うことなのでしょう。

 別に自衛隊だけではありません。警察も消防も、大赤字で採算なんて全くとれていないわけですが、それでも採算性は度外視して税金を投入して維持しています。経営面では負担であってもそれが必要とされているから、そういう判断が働くわけです。この辺りは納税者からの理解があるのかそれとも自覚がないのか、いずれにせよ赤字部門への資金注入を批判されることはありません。

 ところが、公共交通機関あたりになってくると話が違ってきます。赤字の市バスや市電の経営を税金で穴埋めしようとすると結構な非難がわき起こるものです。教育や福祉部門にも似たようなところがあるでしょうか、その赤字を税金で補填しようとすると、色々と否定的な意見が出てきます。赤字を埋める対象が自衛隊だったら何ら問題視されないところですが、この差は何なのでしょうね?

 中途半端に利用者から料金を徴収すると、その料金だけで独自に採算をとって経営すべきだと、そういう発想が出てくるのかも知れません。逆に最初から無料にしておけば、公的資金を投じるのが当たり前のこととして受け容れられるのかも知れません。そして前者に位置づけられるのが医療や教育、福祉や公共交通の分野で、後者に置かれているのが軍隊や警察、消防など概ね公安関係でしょうか。税金の使い道を決める人が何を重視しているかが分かるような気もします。

 国によっては教育や医療が無償であったり、その他各種の公共サービスが無料であったりします。逆にそうしたものがことごとく有料で、無料で国民に提供する行為を社会主義的だとして時代錯誤のレッテルを貼ろうとする国もあります。ではどうでしょう? いっそのこと、あらゆる公共サービスを有料のものとして考えてみたらどうなるでしょうか?

 例えば警察が有料になった場合です。暴漢に襲われて、助けを求めたら出張費用及び事務手数料として代金を請求される、保険未加入者はさらに自己負担が増えたり、サービス利用資格がないとして追い返されたりするとしたらどうでしょう。あるいは消防の場合ですが、自宅が火事になって消防隊が出動、その出動に対して料金を請求される、支払えなければサービスが受けられない、消火活動の前にサービスの受給資格を審査される、保険未加入者は全額自己負担で数百万円お支払いを求められる、どうしたものでしょう?

 無茶苦茶? しかし、医療や福祉、教育の面ではこの無茶苦茶が当たり前のこととして受け容れられているわけです。受給資格を問われ、自己負担を求められ、応じられない人は切り捨てられる、我々がそれに慣らされているだけです。

 「官から民へ」というスローガンの目指すところは何なのでしょう。莫大な利益を上げている企業のように採算性を高めて国庫負担を減らすことでしょうか。むしろ私にとって目指すべきは「民から官へ」、モデルとすべきは企業ではなく消防のようなものではないかと思われるのです。つまり、支払い能力や受給資格の有無とは関係無しに誰もが必要なサービスを受けられるモデルです。

 利用者からの料金徴収によって経営する場合ですと、どうしても利用者を増やす必要性に迫られます。利用者を増やして売り上げを増やす、そうやって利益を増やさないと経営が成り立たないわけです。だから十分な利用者が見込めない、利益が見込めない地方の郵便局や鉄道、医療機関が次々と切り捨てられていくのであり、それを防ぐためには利益を増やさねばなりません。しかし、そのためには何が必要なのでしょうか?

 現場に負担を押しつける、現場の人件費を切り詰めるというのは誰でも思いつく最も安易な方法です。福祉の場合、特に介護の場合はこの対応が中心ですが、決して褒められたものではありません。他には? 利用者を増やし、売り上げを増やすことでしょうか? しかし郵便や鉄道はそれでも良いかもしれませんが、医療や福祉の面でこれを行っていいものかどうか? 医療や介護の売り上げを増やすためには、医療や介護を必要とする人を増やす必要がありますし、そうであるならば傷病者や自立が困難な人が増えることを願わねばなりません。それは人として許されませんよね?

 患者の確保がままならず、廃業する医院も少なくないわけですが、でも患者の数が少ないと言うことは別に悪いことではないような気がします。それはたぶん、火事が少なかったり泥棒が少なかったりするのと同じことです。そうなのですが、医者は患者を増やさねば収入に深刻な影響を受け、消防や警察は災害や犯罪の数とは関係なく収入を得られます。どっちが良いのでしょうか?

 採算性を無視していいというものでもありませんが、その採算性を口実に住民にとって必要なインフラが次々と切り捨てられているとしたら、それは憂慮されるべきことです。そしてどうしても採算がとれない、維持が困難であるというなら、それは民間企業ではなく「官」がやらねばならない義務です。その義務を「官から民へ」「小さな政府」「構造改革」などの空疎なスローガンで誤魔化しているとしたら、そんな為政者は国民にとって害悪でしかありません。

 

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なんでもためしてみるのさ

2007-09-29 23:17:51 | ニュース

「妻は家庭」に反対、初の過半数=離婚否定派は大幅増-内閣府調査 (時事通信)

 内閣府は29日、男女共同参画社会に関する世論調査結果を発表した。「夫は外で働き、妻は家庭を守る」との伝統的家庭観に反対と答えたのは2004年の前回調査比3.2ポイント増の52.1%で、初めて半数を超えた。賛成は0.4ポイント減の44.8%。内閣府は「性別による固定的な役割分担意識は弱まり、多様なライフスタイルを尊重する傾向が強まっている」としている。

 一方、結婚観をめぐる「相手に満足できないときは離婚すればよいか」との質問には、反対が47.5%と前回比7.4ポイントの大幅増で、逆に賛成は4.6ポイント減の46.5%。離婚容認派は1997年調査の54.2%をピークに減少傾向で、今回84年以来23年ぶりに否定派が多数に戻った。 

 なにしろ結婚している自分というものを想像したことがないもので、自分がどっちの立場なのかもわからないのですが、とりあえずこの世論調査の結果はいかがでしょうか? 「夫は外で働き、妻は家庭を守る」との伝統的家庭観には反対の立場をとる人が過半数に達した一方で、離婚に関しては否定的な立場をとる人が大幅増だそうです。伝統的な性別役割分担への意識が弱まり、多様なライフスタイルが認められるのなら、むしろ離婚を許容する人が増えそうなものですが、どうしたものか結果は逆でした。

 「相手に満足できないときは離婚すればよいか」? この「満足」をどう捉えるかによっても違うのかも知れません。夫婦と言っても他人である以上、決して相手が思い通りに動いてくれることはありませんから、誰と結婚しようと何もかも満足とは行かないでしょう。それでも乗り越えられるものは乗り越えて何とかやっていくのが家族というものなのでしょうけれど、中にはどうしても我慢ならないところもあって、結婚生活の維持が困難に感じられることもあるわけです。その困難を離婚によって解決すればよいかどうか? それでも離婚すべきでないと答える人が増えたようで、パッと見た感じでは伝統的家庭観が強まっているような気もします。

 そもそも、離婚以前に結婚件数が急激に減少しているわけです。この世論調査に回答した人の既婚率、独身率はどんなものでしょう? 見ると聞くとでは大違い、戦争ほどではないでしょうけれど、夫婦生活もまた、外から想像していたのと実際に暮らしてみたのとでは全く印象が違います。ですから独身者と既婚者では当然のように家庭観も違ってくる、既婚者による回答と独身者による回答では大きく異なった傾向を見せるのではないでしょうか?

 それが悪いことだとも思いませんが、今の若い世代は結婚へのハードルが高くて、妥協を織り込みながら結婚するよりも理想的な条件が整うのを待つ傾向があります。そうすると必然的に条件が整わず結婚できないまま月日が流れるわけですが、ともあれ結婚への理想が高く吟味して行おうとするタイプは基本的に離婚を想定しないのではないでしょうか。結婚を一回限りの決断と考え後戻りできないものと考えるからその条件にも拘るわけです。逆に、ダメだったらもう一度やり直せばいい、ぐらいに考えるタイプですと、結婚へのハードルも低く既婚率が高い、そして再チャレンジとして離婚を選択肢に入れておくのかもしれません。

 薄利多売、と言ったら変化も知れませんが、値段を下げて数をさばくという発想もあるわけです。結婚へのハードルが低い文化圏もあって、気軽に結婚しては離婚して、またやり直す、そういうライフスタイルもあります。結婚してダメだったらまた離婚してやり直せばいい、そういう考え方はどうでしょうか? それはそれで問題もあるわけですが、日本だと結婚のイメージが重いと言いますか、離婚による再スタートを選択肢に入れていないために結婚という選択が非常に慎重さを要するものになっているような気もします。まぁ、別に結婚しなくても良いのですがね。

 

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「妻は家庭」反対が52% 内閣府調査で初の過半数(共同通信)

 内閣府が29日付で発表した男女共同参画社会に関する世論調査で、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」という固定的な考え方に反対する人が52%となり、1992年以降の調査で初めて半数を超えた。79年に政府が実施した同様の調査では賛成73%、反対20%だった。ただ今回の調査でも、妻が食事の支度をしているとの回答は85%に上り、理想と現実がかけ離れていることが浮き彫りになった形。

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そのくらい調べるのが常識

2007-09-28 23:17:28 | ニュース

伊吹氏側団体に違法な寄付=3年以上赤字の京都ホテルから (時事通信)

 自民党の伊吹文明幹事長=衆院京都1区=の秘書が代表を務める「自民党京都府明風支部」(京都市)が、3年以上にわたり累積赤字を出していた京都ホテル(同)から7年間寄付を受けていたことが28日、分かった。

 政治資金規正法は3事業年度継続して欠損を計上した企業が政治活動に寄付することや、それを知りながら寄付を受けることを禁じている。違反した場合、50万円以下の罰金が課せられる。 

赤字か聞かないのが常識=寄付の違法性を否定-自民・伊吹氏 (時事通信)

 自民党の伊吹文明幹事長は28日午後、国会内で記者会見し、秘書が代表を務める「自民党京都府明風支部」(京都市)が3年以上にわたり赤字のホテルから7年間寄付を受けていた問題に関する報道機関向けの回答書を公表した。この中で伊吹氏は「一般社会の常識として『あなたの会社は3年続けて赤字ですか』と問い合わせることはまずないのではないか」と指摘し、事前に把握するのは困難との考えを示した。 

 普通の会社の場合ですと領収書をなくしたり勝手に書き換えたりしたら始末書ものなのですが、自民党はその辺が実におおらかなようで、無くしたり書き換えたり複写したりが日常茶飯事、その辺の処理の不適切さを次々と突っ込まれています。さらには福田新総裁や渡海文科相が選挙期間前後に国と請負契約を結んでいる企業からの献金を受けていたこと(公職選挙法違反)が明るみに出るなど、相変わらず金銭面では叩けばいくらでも埃が出る有様です。類は友を呼ぶと言いますが、そうした金銭面の汚さを拭い去れないのは、すなわちそういう体質が不正な金銭のやりとりを招き寄せるからでしょうか。

 さて、今回取り上げるのは伊吹幹事長のケースで、累積赤字の企業から寄付を受けていた問題です。3年以上累積赤字を出している企業からの寄付、及び寄付の受け取りは禁止されているわけですが、これに伊吹幹事長は何とも苦しい言い訳をしています。曰く「一般社会の常識として『あなたの会社は3年続けて赤字ですか』と問い合わせることはまずないのではないか」と。

 とりあえず、伊吹幹事長サイドが相手の経営状態を知らなかったと仮定して、では寄付する側はどうだったのでしょう? 当然、自分の会社の懐具合は周知しているわけです。累積赤字を抱えており、この状況での寄付は法律で禁止されている、それも当然、知っていなければなりません。それでもなお、経営状況の苦しい中で寄付をしました。違法ですが、受け取ってくれる、見返りを得られると、そう判断した結果でしょうか? 少なくとも献金する側にとって伊吹幹事長とはそういうイメージだったのでしょう。

 「あなたの会社は3年続けて赤字ですか」と聞く人はいませんが、普通の会社であれば相手の会社のことを調べてから取引を始めます。たいていの場合は帝国データバンク辺りに照会して経営状況を確認した上で上長の決裁を経て取引が始まるわけです。そうでなくとも、相手企業の会社概要やホームページを見て、公開情報だけでも最低限のチェックをするものです。

 そこで伊吹幹事長が寄付を受け取った京都ホテルですが、なかなかしっかりと情報公開されています。平成14年以降の賃借対照表や有価証券報告書など、誰でも閲覧できるようになっています。これさえ見れば3年続けて赤字かどうかなんて簡単に調べられるわけですが、伊吹幹事長の事務所には財務情報の見方がわかる人がいなかったのでしょうか? それとも、パソコンが無くてウェブサイトが見られなかったのでしょうかね?

 まぁ民間企業でも、その場で現金支払いしてくれるのなら相手の経営状況を問わずに取引することもあるわけですが、政治家事務所の場合はどうなのでしょう。貰えるモノなら相手を問わず、誰からでも金を受け取る心構えなのでしょうか。しかし、寄付する側にも何らかの思惑があってこその寄付です。そこで相手を選ばずに、何ら調査するでもなく金を受け取るとしたら、その姿勢には強い疑問を抱かざるを得ません。ましてや、合法か違法かに関わってくるのですから、ねぇ?

 

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角界の掟

2007-09-27 22:40:09 | ニュース

時津風部屋17歳力士へ金属バットで暴行(日刊スポーツ)

 大相撲の時津風部屋の序ノ口力士、時太山(当時17=本名・斉藤俊さん)が、兄弟子らから暴行を受けて死亡した問題で、兄弟子の1人が金属バットを使って暴行を加えていた疑いが26日、明らかになった。愛知県警では、金属バットの一撃が致命傷にはならなかったとみているが、集団による暴行がエスカレートし、時太山の死亡につながったと判断している。また、同県警は暴行を指示したとされる師匠の時津風親方(57=元小結双津竜)を傷害容疑、暴行を与えた兄弟子たちを傷害致死容疑で立件する方針を固めている。なお時太山の父正人さん(50)が今日午後、都内で会見することになった。

 愛知県警の調べによると金属バットの使用は、時太山が死亡した6月26日当日の、しごきや暴行の際だったとみられる。6月に3度も部屋から抜け出していた時太山は、25日に部屋に連れ戻されたが「反省のない態度」とみた時津風親方が激怒。力士らとの夕食の席上、ビール瓶で時太山の額を殴り切り傷を負わせた。その際、兄弟子らに「かわいがってやれ」などと指示し4人前後が、けいこ場の裏手で時太山を取り囲んで暴行を加えていた。

 翌26日午前7時半からの朝げいこに時太山は起きてこなかった。師匠と兄弟子の怒りは増し、午前11時10分ごろから、約30分間もの兄弟子とのぶつかりげいこが行われた。この際、兄弟子の1人が金属バットで時太山の体の数カ所を殴打。この力士が後日、警察に自ら足を運び事情を説明したことで、捜査は一気に拍車がかかったという。

 どういう訳かこのところは殺人事件を続けて取り上げている気がします。無職男性等3人が契約社員を殺したりスーパー店長が無職の爺さんを殺したり、そして相撲取りが17歳の少年を殺したり、と。私は競技としての相撲は好きなのですが、生き方としての相撲は嫌いです。スモウレスリングは好きですが、相撲道は嫌い。

 稽古の名を借りて、ただ相手を痛めつけるだけのシゴキや暴行には以前から批判もありました。ある親方に曰く「下の力士にけいこをつけてやる、という気持ちはない。若手を壊して恐怖感を与えることしか考えていないように見える。悪意に満ちたけいこだ。今度、もし来て同じことをやろうとする気配を感じたら「帰れ!」と言うよ。断ります。マイナスになるだけだから。」と。

 これは、当の時津風親方が5月に朝青龍を評して述べた言葉ですが、このような批判はむしろ時津風親方にこそ向けられるべきだったのでしょう。時津風親方は鏡を見たことがなかったのか、それとも朝青龍はダメ、自分はOKと、そんな風に考えていたのでしょうか。隣国が核兵器を持つのは許せないが自分は核兵器を持とうとするようなものですかね。

 いずれにせよ、あの閉鎖的な相撲界では起こるべくして起こった事件のような気もします。野球部でもないのに部屋に金属バットを部屋に備えている辺り、角界という社会から隔絶されたムラの常識は推して知るべきではないでしょうか。そもそも辞めようとして「職場」を抜け出した人を力ずくで連れ戻そうとする、そんなことがまかり通るのは角界と刑務所くらいのもので、外の世界では重大な人権侵害にしかなりません。凶器を用いた集団での暴行、傷害、監禁、こうした常軌を逸した暴力もまた「外の世界」では犯罪でしかなく、これは監禁を除けば刑務所ですら本来は許されていないはずです。

 相撲界には、外の常識が及びませんし、それを気にする様子もなさそうです。「外」の常識と角界の常識のどちらが正しいか云々はさておくとして、自らの「常識」を振りかざすばかりで決して外の世界を学ぼうとしない、頑なに自らの常識にしがみつくことを「伝統を受け継ぐ」と言って自画自賛してきたのが角界です。角界は自らの正当性を信じるだけで、決して外からの批判や内からの懐疑を受け容れようとしませんでしたし、そして角界を取り巻く我々もまたそんな角界を許容してきました。これもまた、今回の事件の一因となったのではないでしょうか。

 あれだけ煽られていた朝青龍騒動ですが、あれは相撲界の体質と、それに対する我々の態度を示す好例だったのかも知れません。あれは朝青龍を角界のローカルルールによって裁こうとした典型的なムラ社会の裁きでしたが、そんなやり口を批判する声は決して多くはありませんでしたし、その小さな声を相撲協会は完全に黙殺しました。相撲協会が朝青龍に課した軟禁は不当な人権侵害に当たりますし、協会がちらつかせた「解雇」ですが、もし実行に移されていればそれは不当解雇に当たったでしょう。たぶん外の世界―――例えば法廷など―――で争ったならば勝訴するのは朝青龍です。

 法廷で争えば朝青龍が勝つような気がするのですが、結局は相撲協会のローカルルールで朝青龍が一方的に裁かれてお終いでした。これを批判する人もいましたが、多くの人は相撲協会を支持しました。つまり、外の世界のルールに沿った裁きではなく、外の世界のルールと矛盾した相撲協会のローカルルールによる裁きが外からも支持を得たわけです。この一件で角界の側はより一層、自信を深めたのではないでしょうか。我々は外の世界のルールではなく角界独自のルールで動くことを認められている、と。

 感覚的には、治外法権みたいなものなのでしょう。要するにその国のルールが適用されない、自分達のルールで動くことが許されている、そんな錯覚です。外の世界では許されないこと、日本では許されないことが、相撲部屋という閉鎖空間の中では許される、相撲部屋で適用されるのは外の世界のルールではなく角界のルール、そんな錯覚が今回のようなリンチに繋がったのではないでしょうか。

 

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 ちなみに時津風親方は犯行当初、遺体を遺族に届けず火葬しようとしていたようです。

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「制裁」の心理

2007-09-26 23:15:56 | ニュース

「3回目は制裁」元店長供述=万引き暴行死で起訴-千葉地検 (時事通信)

 千葉県船橋市のスーパーで万引きした男性が暴行を受け死亡した事件で、逮捕された元店長の岩沢雄一容疑者(40)=懲戒解雇=が「3回目の万引きには制裁を加えていた」と供述していることが25日、分かった。千葉地検は同日、傷害致死罪で岩沢容疑者を起訴した。

 岩沢容疑者は、同店で万引きした人の氏名や顔写真などを記録したリストを作成。万引き回数を確認した上、3回目の万引き犯には制裁と称して暴行を加えていた。死亡した男性以外に対しても暴行した事実を認めているという。 

 大局的に見れば凶悪犯罪は減少傾向にあるわけで、そういう面では遵法意識が高まっていると言えそうです。しかるに一方では自分達に都合良く憲法を作り替えようとする政府与党、同じく自分達に都合良く法律を作り替えようとする、ハナから守る気すらない経団連、法の定めるところを越えて他人を罰せよと熱狂する一部の国民など、また一面では遵法意識の著しい低下を見ることも出来ます。そして今回は制裁と称して暴行を加えていた、要するに私刑を繰り返していた人の話です。

 以前にも書きましたが、一時期店員をやっていたこともありまして、当然のように万引きもある訳なのですが、これを真面目に警察に届けていると時間が掛かる、店長など責任者が半日連れ出される羽目になって業務に支障が出ることもあるわけです。そして問題になっている事件で被害者は缶ビール2本を盗もうとしていたとか。缶ビール2本ごときのしょぼい万引きのために店長が警察の事情聴取のために連れ出されたとあっては、もう確実にそっちの損失の方が大きい、警察の前で証言するために店長が店を留守にしたり、その間に溜まった事務処理のために残業が長引いたり、そうなった場合の損失の方が万引きの被害よりずっと大きいのは確実です。だから、面倒くさがって警察に届けなかったというなら大いに理解できるのですが……

 逮捕された店長の場合、わざわざ万引き犯の顔写真付き名簿まで作って(この時点で個人情報保護の面で違反がありそうです)独自に犯行回数をカウント、3回目の万引き犯には制裁と称した暴行と言うことですが、死人が出るくらいですからこれはもう「ケツを蹴り飛ばして放り出す」というレベルではなく、かなり念の入った、ある意味では手間暇をかけた私刑が執行されていたようです。そんな暇があったら仕事をした方が良いのではないかと忠告したいところですが、たぶんこの店長にとって「制裁」は仕事を滞らせてでも実行したい事だったのでしょう。

 人を殺せと主張したり、人に暴行を加えたり、そういうことはもちろん今でも決して歓迎されることではないのですが、ただ昨今はそれが正当化される機会に人が飛びつくようになったような気がします。つまり相手に非があるとき、その非が重いものであれ軽いものであれ、いずれにせよ何らかの罪を犯した人を見つけたとき、これぞ好機とばかりに嬉々として飛びつく人が増えているのではないでしょうか。相手に罪があればそれを罰することが正当化される、そんな機会を待ち望む心理が強まっています。

 犯人と被害者のどちらが悪いかは揺るぎようもないわけですが、ともするとその関係を良いことに裁く側がエスカレートしがちです。相手が悪いのだから、何をしてもいいと、そんな錯覚も生まれるのでしょうか。それはもう万引き犯の方が悪いのは天地がひっくり返っても変わりませんが、だからと言って何をしてもいいというものではありません。ですが、こうなったのは相手が悪いのだと、常に相手に責任を負わせ続け、自らが振るう暴力を免責しようとする人もいるようです。店長が万引き犯を殴る、そうなったのは相手が悪いことをしたから、万引きをしたからいけないのだと、そうやって私的に暴行を加えることの責任を相手に負わせ、暴行犯としての自分を免罪する、こういう精神構造があるように感じます。

 ともすると相手の「悪さ」を主張していれば、自分を免責できる、相手の「悪さ」を周囲に認めさせれば、自分を「正義」の側に置くことができる、単なる暴行傷害も相手の「悪さ」を周囲に認めさせれば、それは途端に勧善懲悪の物語になるのかも知れません。相手が「悪いことをしたから」という事実を免罪符に使って人が人を傷つけることを正当化している、そんな時代です。

 

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民の声? 党員投票だけど?

2007-09-25 22:47:12 | ニュース

民の声 「YES!麻生」ネット見てファン熱狂(産経新聞)

 330票対197票-。3度目の自民党総裁選挑戦で、またも夢かなわなかった麻生太郎幹事長(67)。選挙戦では福田康夫元官房長官に終始リードを許し、敗戦の瞬間には顔をゆがめ、悔しさをにじませた。一方で、総裁選中に注目されたのが若い世代を中心にふくれ上がった麻生ファンの存在。23日も東京・永田町の自民党本部前で「麻生さんを総理に」「民意は麻生にあり」などと熱く訴えた。

 この日正午過ぎから集まり出した麻生ファン。投票が始まる午後2時前には数百人に。10~20歳代のジーンズにリュックサックを背負った大学生や会社員らが多く、中にはスーツ姿のサラリーマンもいた。インターネットの掲示板に掲載された呼びかけを見て参加したといい、「YES!麻生」「信念より派閥なのか」などと書かれたプラカードや麻生氏の著書を掲げ、「麻生コール」を繰り返した。

 参加者の女性会社員(24)は「いい加減に政治家だけが作る政治ではなく、国民の声に耳を傾けるべきだ。だからここに来た」と民意が反映されない総裁選にいらだちを隠さない。男子大学生(19)らは「今回の総裁選はかつての自民党のやり方。民意は絶対に麻生さんだ」と派閥の論理が優先された総裁選を批判。「これだけの人たちが集まっている。この声はきっと届いているはず」

 選挙前の予想では福田氏の圧勝でしたが、意外や票を伸ばした麻生氏、議員票では大差を付けられながら、党員票では相当な善戦だったようです。小泉純一郎が総裁選を制した背景には党員票での圧勝があったわけですが、いやはや自民党党員って何を考えているのでしょうか。小泉なり麻生なりを選ぶ党員に比べれば橋本なり福田なりを選ぶ自民党議員が随分とまともな人に見えてしまいます。

 さて、一部に熱狂的なファンがいるのが麻生氏です。別に漫画好きだったら私でもよさそうなものですし、レイシストが好きならもっと他に人はいるわけですが、何で麻生氏なんでしょう? 政界随一の名家の生まれだから?

 なんでも「10~20歳代のジーンズにリュックサックを背負った大学生や会社員ら」が麻生氏の応援に駆けつけたとのことですが、しかし今回はあくまで自民党内部の党内人事であって、党の外の人間がどうこうできるものでもありません。なんと言っても、党員でなければ投票できないわけですから。この麻生氏を熱烈に支持する人の中に果たしてどれだけの「党員」がいたのかどうか、本当に麻生氏を応援したいのなら妄想を膨らませる前にまず党員になるべきでしょうね。

 「民意は絶対に麻生さんだ」などと言った人もいるようです。繰り返しますがこれはあくまで自民党内の役員人事であって民意を問うものではない、民意を問うたのは先の参議院選挙であって、それを基準にするなら民意は自民党の外にあるわけですが、その辺はどうなんでしょう? 総裁選どころか国政選挙の投票権も持たない19歳の言葉に突っ込むのもアレですが。

 「政治家だけが作る政治ではなく、国民の声に耳を傾けるべきだ」と言った人もいるようです。ともすると敵の敵は味方に見える、従来の政治家を敵視している人にとって、その政治家と敵対する人は味方に見えるのかも知れません。例えば小泉純一郎や石原慎太郎など、既存の政治家を敵に見立てるタイプは「敵の敵」としてあたかも国民の側に立っているかのような錯覚を与えてきました。翻って麻生太郎はどうでしょうか? そもそも、敵の敵が味方とは限らないわけですが。

 それ以前に、安倍がダメで麻生ならOKという感覚が私には分かりません。どっちも名家のボンボンで復古趣味の排外主義者という点では変わらないように見えるのですが、漫画好きが決定的な差を生んでいるとでも言うのでしょうか。安倍晋三だって、総裁就任直後までは今の麻生太郎と同じくらいの期待を支持者から集めていたはず、支持者は移り気ですね。

 中には麻生支持よりも「反・福田」で盛り上がっているところもあるようです。周辺アジア諸国に対して僅かなりとも協調姿勢を見せるとそれだけでも大騒ぎの排外主義者にとって、自民党の基準からすれば穏健派で協調路線の福田氏はどうしても許容できないようで、それが高じて対立候補への支持に繋がった節もあります。とは言え、そんな排外主義は日本の首を絞めるだけ、下手に支持者の声に追従しようものなら自らの寿命を縮めてしまいます。その辺の計算がまだできたからこそ、自民党議員は福田氏支持で固まったのではないかと、そんな風に思います。

 

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人生迷走中

2007-09-24 22:42:00 | 編集雑記・小ネタ

 2週続けて3連休だったわけですが、それも終わって明日から待た仕事です。なんかもう、目眩がしてきました。また明日から仕事が始まると思うと何もかもやる気がなくなってしまいますね。日付の変わる前から絶望感が漂ってきます。


 突然ですが、マリリン・マンソンの歌詞が好きです。

これとか
And when we were good you just closed your eyes
So when we were bad we'll scar your minds

こんなの
You want me to save the world I'm just a little girl

 マリリン・マンソンって音楽面ではメタルに分類していいのかちょっと分からないところもありますし、かなり歌いにくいタイプにも感じるのですが、歌詞を読んでみるとなかなかおもしろいところがあります。アメリカで最高の詩人は誰かと問われたらマンソンを挙げたいですね。

 一方、音楽は好きだけど歌詞はどうでもいい場合もあります。ジューダス・プリーストとかドラゴンフォースとか好きですけれど、歌詞はくだらないというか恥ずかしいと言いますか、安っぽいロボットアニメみたいだったり中学生が授業中に考えた必殺技の名前みたいだったり……

 適当にかっこよさそうな単語を並べてある歌詞もあれば、プロテスト色の強い歌詞もあり、あるいは反社会的なものだったり、感情を爆発させるものだったりするわけです。中には共感できるものもあれば空々しく響くものもありまして、とりわけ「日はまた昇る」「また明日がやってくる」みたいな歌詞はメタルでも割とよく見かけるのですが、それが私には実に虚しく聞こえたりもします。

 何か辛いこととか苦しいことがあって、そういうときでもまた日は昇る、今日がダメでも明日があるさと、そういう意味で歌われているのでしょう。ですが、それは未来に希望の持てる人の話で、そういう人ばかりでもないのではないかと。日が昇って朝がやってくれば、それは会社に行かなければならないわけで、是非とも避けたいことでもあります。もうずっと夜のまま、明日なんてやってこないで欲しいと思うのですが。

 そういう意味では No future, no future と言われた方が共感できるところがあります。明日になっても事態は好転しませんし、むしろ状況は悪くなるばかり、今の仕事そのものが苦痛ですし、頑張って続けたところで昇給するわけでもなし、いずれは首が飛んで新たな就職口は見つからないかも知れない、そんなものです。

 そんなわけで最近の休日はいつも、もっと他に何かできることはないかと考えて、いつもそれだけで終わってしまいます。今の状況を抜け出すために何かしなければと思いつつ、何もできないまま時間ばかりが過ぎていく始末です。どうせ何もできないなら、攻めてパーッと「今」を楽しんだ方が良さそうな気もしますが、なかなかそうも行きません。昨日は朝からカラオケに行って、昼はジャンクフードに炭酸飲料、午後はゲームセンターでグダグダ、こういう過ごし方は割と好きですし安上がりでもあるのですが、心のどこかで「何かしなくちゃ」という思いが引っかかって遊びに没頭できなかったりもします。まだまだ人生迷走中です。

 

 ←また明日から仕事が始まるお

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それは誰のため?

2007-09-23 22:48:58 | ニュース

極刑求め、署名呼び掛け=無念を晴らしたいと母-HP開設、女性拉致殺害・名古屋 (時事通信)

 名古屋市の契約社員磯谷利恵さん(31)が拉致された上、殺害された事件で、磯谷さんの母富美子さん(56)ら遺族は22日までに、強盗殺人などの容疑で再逮捕された無職川岸健治容疑者(40)ら3人の極刑を求め、ホームページ(HP)を立ち上げた。

 富美子さんら遺族はHPで「利恵にしてやれることはこれくらいしか思い付きません」と言及。「敵を討ちたいと思っても、司法の壁に阻まれ苦悩しています。この壁を乗り越えるためにも、1人でも多い署名が必要です」と記し、3容疑者の極刑を求める陳情書への署名を訴えている。

 手記の抜粋も公表し、「泣き明かすだけの弱い母では利恵も心配すると思い、一生懸命我慢していますが、つい利恵を思い涙が止まらなくなります」と悲しみを吐露。その一方で「何の関係も落ち度もない人に、これほどの行為ができるのでしょうか。凶悪犯罪を二度と繰り返させないためにも、協力をお願いします」とつづっている。

 政治家でも企業経営者でもない人を個人として取り上げることは基本的にしないのですが、いくら何でもこれはどうかと言うことで、いくつか私の見解を述べようかと思います。まぁ、個人とは言っても昨今では良くも悪くもありがちな姿であり、個人の問題と言うよりも社会や世相の問題でもあるわけですが。

 しばしば、権力よりも民衆の方が、そのヒステリックな性情故に危険な存在になることもあります。かつてドイツではゲシュタポが人員不足で調査能力を欠くのを良いことに、虚偽に基づく密告や讒訴が横行し、これによって数知れない無辜の人が処刑されていきました。あるいは日本でも関東大震災の混乱に乗じて何の罪もない人を民間人が自発的に虐殺して回ったこともありました。何の関係も落ち度もない人に、どうしてこれほどの行為ができたのか、私だったらその時点で疑問に思いますね。

 そこで今回の場合ですが、「壁」として名指しされているのが司法であるところに注目してください。その主張するところは司法が「壁」として立ちはだかっている、我々の「敵討ち」を司法が阻んでいると、そのように司法を否定するものです。もちろん日本の司法にも問題は少なくないのですが、だからと言ってそれは乗り越えられるべき「壁」なのでしょうか? 司法を無視して私的な判断で人を殺めようという発想は、少なくとも法治国家においては危険視されるべきものです。

 まぁ、被害者の悲しみは想像に余りあるわけで、それ故に感情的になるのも致し方ない、敵意ばかりが勝ることにも同情の余地はあると思うのですが、問題はそれを取り巻く我々が被害者にどう向き合うかにあります。我々は被害者のために何ができるのか、何をすべきなのか、その辺りを誤っている人が多いのではないでしょうか。ただ被害者の主張に「乗る」事が被害者のためなのか、被害者の怒りの声に便乗していればそれが被害者のためになるのか、その辺をもう少し考えて欲しいのです。

 被害者が復讐心を持つのはどこでも当たり前のことで、日本とは全く異なった文化圏でも同じ事、例えばイスラム諸国でも家族を殺された遺族が爆弾を体に巻き付けて「敵討ち」をしたり、あるいは他人に訴えて「敵討ち」を実行させているわけです。とは言え、「敵討ち」を果たしたところで遺族が元の幸せを取り戻せるものでもありませんし、被害者が戻ってくるものでもありません。

 今回の事件も同様で、犯人が極刑になろうがなるまいが被害者はもう戻ってきません。犯人をどのように罰したところで、もう取り返しは付かないのです。「無念を晴らしたい」と遺族は語ります。もしかしたら極刑によって遺族の無念は晴れるのかも知れませんが、それで問題は解決するのでしょうか?

 遺族の復讐勘定を満たしてやることが、遺族への救済なり回復なりに結びつくのか、遺族と一緒になって犯人への憎悪を煽り立てることが本当に遺族にとってプラスになるのか、その辺はロクに考えられていないような気がします。「被害者の側に立って~」などと口にしつつも、実際は他人を罰することにばかり熱心で被害者や遺族のことなど顧みていないとしたら愚かなことです。あるいは、本当は他人を血祭りに上げたいだけなのに、被害者感情に便乗することでその欲望をあたかも義憤であるかのごとく装おうとする、被害者の悲しみをリンチに参加するための大義名分として利用しているだけだとしたら、それは卑劣なことです。

 

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フランスはどこへ行く?

2007-09-22 23:54:37 | ニュース

家族呼び寄せにDNA検査制度 仏、移民規制を強化(朝日新聞)

 仏国民議会(下院)は20日、国内に定着した移民が出身国から家族を呼び寄せる際、遺伝子レベルのDNA検査で血縁関係を証明できる制度などを盛り込んだ改正案を可決した。検査はビザ申請者に血縁関係の疑いを晴らす手段を与えるが、「200~600ユーロ(約3万2000円~9万6000円)かかる」(ルモンド紙)ため、呼び寄せを抑制する効果があると見られている。

 改正はサルコジ政権が進める移民の受け入れ規制強化に沿ったもの。DNA検査を提案した与党「民衆運動連合」(UMP)の議員によると、セネガルなどのアフリカ諸国ではビザ申請の3~8割で身分証明を偽っているとの調査がある。改正はこうした現状への対応だが、審査を迅速化する利点もあるとしている。

 親日派だの知日派だの、とってつけたように言われることもあったシラク大統領から親米右派のサルコジ大統領にバトンが渡って以来、どうも私にはフランスが急速に日本化しつつあるように思われてなりません。外交方針もさることながら、国内においても急速に企業重視、人権軽視の方向に傾きつつあり、何とも他人事とは思えない有様です。

 今回、取り上げるのは移民規制とDNA鑑定の話です。移民が出身国から家族を呼び寄せる際に、FNA検査で血縁関係を証明させようというものらしいのですが、さてどうしたものでしょう? 一部の人々が主張するところに拠ると身分証明を偽る、すなわち家族を装っての入国が多いようですが、それをDNA検査で防げるのか、あるいは防ぐことに意味があるのかを考えてみましょう。

 素朴な疑問として、夫と妻の関係はどうなるのでしょうか。本物の夫婦であろうと偽装の夫婦であろうと、どのみちDNA検査は意味がありません。あるいは、配偶者の兄弟や親戚の場合も同様で、やはりDNA検査は意味がありませんね。当たり前のことですが、夫婦は家族ではあっても血縁関係はないわけで、血縁関係の証明など初めから関係のないことです。それとも、呼び寄せられる家族は血の繋がっている家族だけに限定しようという計画でもあるのでしょうか。

 親と子の場合だって、必ずしも血縁関係があるとは限りませんし、それが絶対に必要なものでもありません。それはもう、今の日本では養子縁組なんて代物は絶滅危惧種、伝統的な「イエ」を継ぐことよりも「遺伝子」を継ぐことの方を圧倒的に重視する社会です。そういうケダモノ社会に生きていると親と子で血が繋がっているのが当然であるように考えがちですが、それでも親と子の関係を作るのはDNAの繋がりだけではないわけで、血は繋がっていなくとも紛れもない親子はいくらでも存在します。そこにDNA検査を持ち込んで「血縁関係がない!」と騒ぎ立てるのは野蛮というものです。

 ミッテラン大統領に婚外子がいたのは有名な話で、別に隠されてもいませんでしたし、それを問題視する人もいませんでした。ジスカール=デスタン大統領にも愛人がいましたし、ついでに言えばサルコジ大統領の奥さんにも愛人がいる、しかし日本のように女性問題で首が飛ぶことはありませんし、そもそも問題視されないわけです。だから他人のプライベートな部分にはみだりに踏み込まない、侵害しないのがフランスの文化なのだと思っていたのですが、さて今回のDNA検査云々はどうでしょうか? 「家族」として暮らしている人に対してその「血の繋がり」を問うのはフランスの精神に反しているような気もします。

 もう一つは、フランスは「出生地主義」だったはずでは?と言うことです。これは日本の「血統主義」とは逆の代物で、どこの「血」を継いでいるかではなく、どこで生まれ育ったかを問うものです。どこにいようと日本人の血を引いていれば日本人扱い、逆に日本人の血を引いていなければ日本国籍があっても外国人扱いするのが血統主義の最たるものですが、そうではなく生まれ育った国、文化や価値観を問われるのが出生地主義です。ところが、「同化政策」を掲げ、血ではなく文化によって「フランス人であること」を規定しようとしてきたはずのフランスが、正に「血」を問うDNA検査を持ち出してきました。どういう風の吹き回しでしょう?

 正直、従来の「同化政策」にも色々と問題はあるわけですが、一応は誰にでも門戸が開かれている点で評価はできます。移民でも上手くすれば「フランス人」になれるわけです。血統主義ではこうはいきません。しかるに今回のDNA検査はフランス人と「そうでない人」を分けることが目的のものではありませんが、それでも文化を問うのではなく血統を問おうとする発想は従来のフランスのやり方には馴染まないのではないか、他国の事ながらフランスの変貌には危惧を感じます。

 

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校則違反で減点、持ち点失うと給食なし 仏の小学校(朝日新聞)

 フランス中部リヨン郊外の小学校が交通違反と同様の減点方式で児童の素行を採点し、持ち点「ゼロ」になると給食を取り上げる制度を導入した。「教育の理念を逸脱している」との批判が出ている。

仏大統領、年金改革と公務員削減を明言(オーマイニュース)

 さらに、サルコジ大統領は19日、西部ナントで学生向けに行った講演で、定年を迎えた公務員の補充を半数に抑えるとした大統領選挙の公約を履行すると言明した。サルコジ氏は「公共部門の規模を縮小することで、待遇や将来性を改善する(切り下げる)」と述べ、公共部門の合理化や、公務員の定数削減、民営化といったサルコジ流構造改革を断行すると発表した。

<サルコジ仏大統領>ドイツに核兵器共有提案 即拒否される(毎日新聞)

 ドイツの週刊誌シュピーゲルは17日発売号で、サルコジ仏大統領(52)が10日の独仏首脳会談でメルケル独首相(53)に、フランスが持つ核兵器の共有を持ちかけたと報じた。ドイツは核兵器所有を国として認めておらず、メルケル首相はその場で断ったという。

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財源の議論

2007-09-21 23:02:43 | ニュース

額賀財務相「財源の議論を」 高齢者負担増の凍結案で(朝日新聞)

 額賀財務相は21日の記者会見で、自民党総裁選に立候補した福田康夫元官房長官が高齢者医療費負担増の凍結検討を公約に掲げていることについて「2千数百億円の負担増を軽減することになるので、どの財源で補うかの議論がなされなければならない」と指摘した。

 70~74歳の医療費窓口負担は来年4月から1割から2割に引き上げられる。仮にこの負担増を停止すれば、その分は税金を新たに投入する必要があるが、福田氏はその財源を明示していない。

 来年4月から高齢者の医療費負担が倍増します。保険財政側から見れば9割から8割への削減ですが、患者から見れば1割から2割はすなわち倍増、大きな話です。この辺の改正には自民党内でもそれなりの反対はありまして、総裁候補の福田氏も凍結を公約に掲げているとか。ところが、この凍結によって生じる「負担」の財源を問う声があるようです。

 色々疑問はあります。たとえば、この2千億という負担が大きいのか小さいのか、個人から見れば膨大な金額ですが、80兆の一般会計から見れば400分の1でしかありません。果てしなく大きな金額でありながら、国家予算の400分の1という数値、グラフにしてみれば差など見えない数値でもあります。2千億の使い道を誤ることは大問題ですが、しかし一般会計の400分の1の財源を明示しなかったからと言ってそれが非難に値するかどうかは疑わしくもあります。

 高齢者の窓口負担の倍増を防ぐために必要とされる2000億円ですが、これと同程度の支出として思いつくのは「思いやり予算」です。アメリカ軍に支払うみかじめ料のことですが、これが2006年度は2326億円となっています。私の知る限り、この「思いやり予算」の財源を明示した政治家はいません。

 そもそも、日本で財源を問われるのは福祉分野に限られるような気がします。「思いやり予算」の財源が問われたことはありませんし、昨年11月の減価償却制度の見直しで生じた6000億円の企業向け減税の財源が問われたこともありませんでした。証券優遇税制の財源だって問われてきませんでしたし、自衛隊の海外派兵や給油活動などの米軍支援の財源だって問われていません。財源が問われるのは、福祉の時だけなのです。

 日本の高齢者と米軍のどちらが「思いやり」を必要としているのかは私には疑問の余地がないことに感じられるのですが、一方では金に糸目をつけず、一方ではあれこれと理由をつけて財布のひもを締める、これはどうしたものでしょう。そもそも、新たな福祉政策を追加するためならともかく、現行の制度を維持するコストを「負担増」と呼ぶのはどういう発想かと、その辺も問いたいものです。

 米軍や大企業、資産家へのバラマキは後先考えずに強行する一方で、福祉に関しては妙なコスト意識を持ち出すのがこの国の通例です。米軍や企業にばらまく金は借金してでも捻出しますが、福祉のための金は出そうとしない、あろう事か福祉のコストを口実に無関係の消費税増税を持ち出す始末、本来ならば逆進性の高い消費税と社会保障は最も相性が悪いはずですが、何故かこれがセットで持ち出されます。挙げ句の果てには消費税を「福祉目的税」などと呼ぼうとする人も出てくるわけですが、それを言うならばまず先に「法人税減税目的税」とか、「米軍支援目的税」などと改称すべきでしょう。

 福祉に金がかかるのは当たり前です。金はかかりますが、それは国民のためなのだから惜しんではならないのが福祉予算です。福祉予算を増額して国の財政が苦しくなったとしても、それで国民の生活が良くなればそれこそ必要な犠牲と呼ぶべきものですし、福祉予算を削って国の税制が「健全化」したとしても、それで国民の健康が失われたとしたら、それは間違いなく失敗なのです。

 

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