非国民通信

ノーモア・コイズミ

根拠はあるのか

2013-11-29 22:55:41 | 社会

都教育委:英語の先生、留学必修 来年度、指導力強化へ(毎日新聞)

 東京都教育委員会は来年度から、都内の公立中学と高校で英語を教える採用3年目の若手教員約200人全員を、3カ月間海外留学させる方針を決めた。2020年東京五輪を控え、英会話などコミュニケーション能力を育てる授業を強化するのが狙い。教員の海外生活を「必修」とするのは極めて珍しいという。

 公立校の英語教員になるのに海外に行った経験は問われず、全国的な留学制度もない。都教委では中堅(31〜42歳)の英語教員と教育委員会職員を対象にした1年間の留学制度があるが、派遣枠は年間で4人分しかなかった。

 しかし、今年4月から完全実施された高校の新学習指導要領は「英語の授業は英語で行うことが基本」と明記。現場は文法重視からコミュニケーション重視への指導法の転換が求められるようになった。そうした背景に9月の五輪開催決定が重なり、留学制度の大幅拡充を決めた。

 都教委によると、留学先は英語圏の大学など。英語を母国語としない生徒を指導するための資格取得を課し、英語だけの授業運びや、活発なディベートを生徒に促す方法などを学ばせる。一般家庭へのホームステイも予定し、英語漬けの生活を徹底する方針だ。

 都の来年度予算案に、留学生の授業料や滞在費など計約6億円を要求した。都内の公立校英語教員は約3300人おり、15年程度で同じ人数が留学する計算になる。派遣期間中は非常勤講師などの配置で対応する。【和田浩幸】

 

 とりあえず年間で6億円ほど投じて英語教師を3ヶ月ほど海外留学させる企てがあるそうです。3ヶ月というのも微妙な話ですが、本人の英語力向上にとってはさておき、「英語を教える能力」についてはどうなのでしょうか? 既に実績として中堅の英語教員と教育委員会職員を対象にした1年間の留学制度があるとのこと、派遣枠が年間で4人しかないと伝えられていますけれど、ともかくこれまでの留学実績がある以上は、その「結果」を問わねばなりません。英語圏に留学した英語教師は、日本の英語教育において十分な成果を上げたのでしょうか? 実績を元に「留学経験によって教員の『英語を教える能力』は顕著に上昇する」と言うのであれば、留学の必修化も意義があるのかも知れません。単純に「英語圏で英語漬けの生活を送れば英語が上手くなるだろう」みたいな安易な思い込みに基づいた決定でなければいいのですが。

 まぁ、留学すれば学力はともかく「箔」はつきますね。留学して何を学んだのかまではなかなか問われない一方で、留学経験の有無がアピールポイントになるのは経験的にもよくわかります。とにかく日本以外のどこかヨソの国に留学してきましたと言えば、格好は付くものです。ただこの辺は日本企業の採用担当者が重んじる学歴――というより「学校歴」のようなもので、雇う側の怠慢を助長するものであるように思います。採用後にグダグダしても、「○○大学の出身だから」と言い訳が立つのと同じで、いざ採用した教師の「英語を教える能力」に問題が発覚したとしても、「英語圏に留学していたので十分だと思った」みたいに弁解できる、そういうものなのではないでしょうか。

 なお新学習指導要領には「英語の授業は英語で行うことが基本」と明記されているとのこと。確かに日本では、広くそう信じられています。でも、本当に「英語で行うことが基本」なのでしょうか。大学ではイタリア人の先生にイタリア語を教わったり中国人の先生に中国語を教わったりもしましたが、授業は日本語でやってました。入門レベルを通り越して本格的に学びたければ話は別なのかも知れませんが、最初からフランス語で授業とか、最初からドイツ語で授業というのでは、むしろ教育の質を落とすのではないかという気がしないでもありません。

 それがどこまで一般的なのかはさておき、研究室で知り合ったロシア人は、ロシア語で英語を教わったそうです。あるいはメキシコで日本語を教えることになった知人もいるのですが、スペイン語で日本語を教えているとのこと。そう言えばアフリカ等の教育では出身部族毎に言語が違うにもかかわらず、強引に統一言語での教育を試みて失敗が相次いだなんて話もありますね。本当に、「英語の授業は英語で行うことが基本」なのでしょうか。日本語(母国語)で英語を教えた方が手っ取り早い、より質の高い教育ができるような気がするところです。

 上述のメキシコに行ってしまった知人ですが、日本国内で日本語講師をやっていた頃もありまして、その当時は「日本語で日本語を」教えていました。メキシコではスペイン語で日本語を教えているのに、です。そしてアメリカでは「英語で英語を」教えているケースが多いとすれば――この理由はなぜでしょう。日本語は日本語で教えるのが最も早いから、英語は英語で教えるのが最も効率的だから、そう言えるだけの根拠があるのなら結構なことですけれど、実際はどうなのやら。

 現実問題として、諸々の母国語を持つ外国出身者に日本語を教えようにも、相手が理解できる言語に教育者側が対応できないわけです。つまり、中国出身、韓国出身、フィリピン出身、ルーマニア出身の生徒に何語で日本語を教えればいいのか、そもそも日本人講師の多くは日本語以外の言語が巧みではないことも多いでしょう。選択肢は一つしかありません。すなわち「日本語で教えるしかない」と。アメリカでの英語教育も然り、英語以外はろくに話せないアメリカ人教師が、メキシコやヴェトナムやイランあるいはロシアから来た人々の雑居する教室では何語で英語を教えればいいのかと考えたとしても、選ぶ余地などあるでしょうか。英語で教える「しかない」のです。

 文法重視からコミュニケーション重視への指導法の転換が求められる云々とは大昔から連呼されてきたことであるように思いますが、そもそも日本の英語教育で文法がマトモに教えられているのかすら怪しいところです。体系的な理解を疎かにして「コミュニケーション重視」などと掲げたところで何を得られるのか、ましてや日本語ネイティヴ同士の間であってさえ、「コミュニケーション能力不足」として就業機会などから排除されてしまう人が多々いるわけです。わずか3ヶ月の「なんちゃって留学」と「英語の授業は英語で行う」ことでコミュニケーション能力が育つなどと、いったい何を根拠に言えるのでしょうか?

 

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福島の報道と、そこからかけ離れた報道

2013-11-27 23:07:57 | 社会

66.3%が1ミリシーベルト未満 伊達市の外部被ばく検査分析 実測値は予測の半分(福島民報)

 伊達市が昨年7月から1年間、全市民を対象に実施した外部被ばく検査で、市は21日、詳細な分析結果を公表した。
  年齢ごとの年間被ばく線量で、国が除染の長期的な目標としている1ミリシーベルト未満だった人の割合は、6歳までは83・21%、7~12歳が81・53%、13~15歳が77・01%、16~20歳が68・49%、21~60歳が65・49%、61歳以上が62・12%。市民全体では66・3%の人が1ミリシーベルト未満だった。
  年齢が高くなるにつれ、1ミリシーベルトを下回る割合が低い傾向が出た。市の担当者は「子どもは学校など放射線量が低い所で生活する時間が長い。被ばく線量も低くなったのではないか」とみている。
  その他、屋外活動8時間、屋内活動16時間を前提に空間線量から年間被ばく線量を割り出す予測値と、実測値との差も分析。実測値は国が示す計算式を用いた予測値の半分ほどの値になった。
  平均空間線量が毎時0・230マイクロシーベルトだった梁川町白根地区では、予測値が1ミリシーベルトだったのに対し、実測値は0・521ミリシーベルト。予測値の約52%にとどまった。空間線量が毎時1・071マイクロシーベルトの霊山町下小国地区では、予測値が5・419ミリシーベルト。実測値は1・893ミリシーベルトで、予測値の約35%だった。
  また、市が当面の年間被ばく線量目標としている5ミリシーベルトを超えた15歳以下の子どもはいなかった。仁志田昇司市長が市役所で記者会見した。
  検査は市がバッジ式積算線量計を全市民に配布。約8割に当たる5万2783人が1年間、測定した。

 

 ……とまぁ、地方紙ではこういう報道も出ているわけですが、朝日とか毎日とか全国紙を読むと全く別な世界が描かれているのですから困ったものです。ともあれ、年間の被曝線量の実測値が予測値を大きく下回ったとのこと。「予測値」の精度も問われるところでしょうか。本当に根拠があっての「予測」であったのか、それとも適当な値を「予測」と称していただけなのか、ここまで予測値と実測値が大きく異なってしまった原因については、不問にされるべきことではないように思います。

参考、それでいいのか

 例えば毎日新聞では、冒頭で伝えられている実測値を「意図的に低くなるよう集められたデータ」と呼んできたわけです。これは毎日新聞の悪意あるデマであって実測値は実際に計られた値以上の何物でもないのですが、ある種の思惑を持った人々にとっては話は異なるのでしょう。端的に言えば「いかに放射線量を高く見せるか」に腐心してきた人々がいて、朝日新聞のように甲状腺等価線量と実効線量を混同させることに努めるメディアもあれば、何かと出所の怪しい計測値を喧伝する市民団体やジャーナリストもいる、放射線測定で適切な装置も持たないのに不安を煽って一山当てようと企む悪徳業者もいれば、そんな悪徳業者の測定結果をそのまま記事に載せる東京新聞等々。

 年間の被曝線量を低く見積もれば、ここで明らかにされた実測値にはもっと近づいたことでしょう。しかし、低く見積もれば見積もるほど実測値に近づく反面、「被曝量を小さく見せかけようとしているのか!」と、何も学ぼうとしない人からの非難が殺到するであろうことは想像に難くありません。その辺の反発を恐れた結果として「高めに見積もった」⇒「実測値を大きく上回る外れた予測だった」と。もし本当にそういう経緯であったなら「日和った」としか言えませんが、どうなのでしょうか。時に予測値は住民の生活を左右するもの、世間の反応を恐れず正確な算出を期してもらいたいものです。

 週刊誌には酷いものが多いですが、最低最悪はやはりAERAに尽きますかね。毎号、正気を疑うトンデモ記事が連発されているわけですけれど、まぁ発想(妄想)の豊かさは褒められるべきなのかも知れません。さて毎回ながらツッコミどころに事欠かない中吊り広告に曰く「原発再稼働でアベノミクスは終わる」「原発停止→代替燃料費が高騰→貿易赤字が拡大→円安→経済好転という矛盾」と。う~ん、とりあえず原発とアベノミクスを批判しておけばOKというのが朝日新聞グループの基本姿勢だというのは分かります。とはいえ、いくら何でも筋の運びが稚拙に過ぎるのではないでしょうか。

 とりあえず「原発停止→代替燃料費が高騰→貿易赤字が拡大」までは間違っていません。代替燃料費が高騰して、原発事故の処理費すら霞んでしまうような巨額の富が燃料調達のために投じられてきたわけです。その結果としてアメリカなどの諸外国に恒常的な貿易赤字を強いてきた貿易黒字国の日本がまさかの赤字に転落するに至りました。脱原発のコストがどれほど高いものであるかを如実に表わすところですが、そこからAERA流の飛躍が始まります。何でも「貿易赤字が拡大→円安→経済好転」とのこと。

 いやいや、円安は貿易赤字のせいじゃないでしょうに。円安方向に動き始めたのは民主党というデフレ政権の終焉からであって、貿易赤字の始まりからは随分とタイムラグがあることぐらい、いかに愚かな朝日新聞グループの記者にだって分かりそうなものです。貿易赤字が円安の原因なら、野田政権時代から為替レートが動いていなければおかしいはず、でもAERAの記者にとって時系列的な推移や整合性など、どうでも良いものなのかも知れません。まぁ金融政策の意義を認めないためには、そうやって現実歪めて解釈しないと無理なのかな、とも。

 ただ今回の見出しを見ると、アベノミクス――どうにもこの呼称は適切でないように思うのですが――の成果をAERAも認めざるを得ないところにまで追い詰められているのかな、という印象もあります。アベノミクスの効果などない、景気は上向いてなどいない、円安で生活が苦しくなった等々と強弁する方を好む人も多いですけれど、そうであるならばアベノミクスの「終わり」は歓迎されるべきもののはずです。ならば散々批判してきたアベノミクスを終わらせてくれる(とAERAが主張するところの)原発再稼働は朝日新聞グループとして賛成すべきものになってしまうのではと言う気がしないでもありません。まぁ、その辺の整合性など気にしない人でも記者稼業は務まるのでしょう。

 

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台湾にも言うべきことは言わなきゃダメよ

2013-11-25 22:52:39 | 政治

日本、台湾漁船に打つ手なし 漁業協定で合意急いだツケ(朝日新聞)

 【台北=冨名腰隆】5月の日台漁業委員会で、日本側が、双方の操業を認める一方で日本による取り締まり権限を放棄していない「特別協力水域」で、具体的なルールがないままに操業する台湾漁船の拿捕(だほ)などを明言していた。協定締結後、台湾漁船が自由に操業する状態が続いており、日本が有効な対抗策を打てない現実が改めて浮き彫りになった。

 日本政府は、中国と対立する尖閣諸島問題で優位に立つため、同諸島の領有権を主張する台湾に接近、大幅譲歩する形で漁業協定を結んだ。首相官邸主導で合意を急いだことが、現場の混乱を招いた。沖縄県の漁業関係者は反発している。

(中略)

 協定締結で、尖閣諸島周辺で抗議活動する台湾漁船には一定の制約ができた。だが、操業ルールが置き去りにされ、沖縄漁船が尖閣周辺へ漁に出ることはより難しくなっている。

 沖縄県与那国町漁業協同組合の中島勝治組合長は「船の数や大きさも違えば、網の入れ方も違う。トラブルを嫌がって誰も行きたがらない」と語る。9月には協定で合意した水域内で、初めて日台漁船同士の衝突事故も起きた。

 

 尖閣諸島周辺海域で台湾との衝突が絶えないのは以前からのことですけれど、国有化だの何だので火に油を注いだバカ政権が終わっても事態はなかなか好転しないようです。中国への対抗上という建前で台湾には譲渡したとのこと、むしろ中国の建前としては「台湾のものは俺のもの」なんじゃないかという気がしないでもありませんが、とりあえず日本政府は台湾と手を組んだつもりでも実際はご覧の有様というわけです。時に外交では譲渡することも必要ですけれど、お互いの利益を最大化するための「手打ち」と、特定の国に対して意地を張った結果として第三国に足下を見られるのとでは全く別ですよね。

参考、Japan is Dreaming

 しばしば、どこの「国」に属しているかで反応は大きく異なります。単に日本と「外国」で扱いを隔てるばかりではなく、ある「外国」と別の「外国」とで全く受け止め方が違ってくるわけです。例えばアメリカの軍隊が日本国内を闊歩していても何ら意に介さない一方で、隣国の軍隊が国境付近に近寄っただけで大騒ぎする人もいる等々。今回の尖閣諸島を巡る問題でもそう、中国への譲歩は絶対に受け入れられないとする一方で「台湾なら良いか」と安易に考える人が政府筋にもまたいたのではないでしょうか。もっとも、それは「中央」においてのみ通用する話で、現地の人にとっては全く異なる、アメリカ軍が駐屯しても中央の人間は気にしないけれど地元住民は違ったり、台湾への大幅譲渡を中央の人間は軽く見ていても現地の漁業関係者はやはり――なんてことは珍しくありません。

 先のIOC総会で日本のプレゼンテーションを担当した芸能人が、珍妙なアクセントで「オモテナシ」と称しては、合掌してお辞儀するという、これまた日本に育った人間からすると奇妙なパフォーマンスで好評を博しました。ハリウッド映画に出てくるようなエセ日本人の真似でもしているつもりだったのかも知れません。どうせなら、中国あたりの映画に出てくる日本人の真似をしたパフォーマンスでも良かった、日本人とフランス人のハーフではなく日本人と韓国人のハーフを代表として出席させても良かったのではと私などは思うところですが、そうではなかったのはなぜなのでしょうか。

参考、蝶々夫人と日本人

 プッチーニという作曲家がいまして、代表曲の中に日本を舞台とした「蝶々夫人」や中国を舞台にした「トゥランドット」などがあります。どちらも筋金入りの「ヨーロッパから好奇の目で見たアジア」色が濃厚であり、曲のすばらしさとは裏腹にリアリティもなければ舞台となる世界(つまり日本及び中国)への敬意など微塵もないのですけれど、日本人は「蝶々夫人」をありがたがって好んで演奏してきました。一方で中国は、西洋人による典型的なアジア人蔑視の作品だとして「トゥランドット」を長らく演奏禁止としてきたわけです。

 中国の対応は野暮とも言えますが、そっちの方が「普通かな」と思わないでもありません。自国を馬鹿にした筋書きのオペラをありがたがるより、程度はあるにせよ反発の一つもあった方が自然でしょう。ところが日本の場合、「西洋」からのカリカチュア化をむしろ喜ぶという不思議な文化があるように思います。蝶々夫人の需要がそうであるように、名誉白人の国として、白人から戯画化されることを歓迎してきた歴史があるわけです。なかなか人の良い話ではありますけれど、しかるに同じことをアジアの隣人からされた場合に日本はどう反応してきたでしょうか?

 IOCの総会に出席した「日本代表」が日本人と中国人もしくは韓国人あるいは朝鮮籍とのハーフで、それが日本語とは明らかに異なったアクセントでしゃべる、日本では見られない仕草でカリカチュア化された日本人像を披露したなら、世間の反応はどうであったか興味深いところです。日本人は、どこの国に対してでも等しく接することができたでしょうか? 特定の国には媚びへつらい、特定の国には安易に譲渡し、特定の国には過去の歴史的経緯を都合良く忘れ去る、特定の国には差別的措置を取る――国によって対応に違いがありすぎると、国際的な信頼を損ねることにもなるでしょうし、色々とつけ込まれることもあるのではないかと思いますね。

 

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ローカルルールの達人

2013-11-23 11:15:40 | 社会

 世の中には「かけ算の順序」問題ってのがあるわけです。何でも出題者の意図した通りの順番に数値を並べていかないと、答えが合っていても×を付けられてしまうのだとか。例えば「6人に7個ずつEM団子を配るときの生ゴミEM団子の総数」を問われたとしましょう。6×7でも7×6でもどっちも答えは同じですが、出題者の意図次第で片方が正解、もう片方が間違いとされるのだそうです。6×7≠7×6になってしまったら算数の世界なんて根底から崩壊してしまう気がしますが、それでも「かけ算には正しい順序がある、順序が変わったら意味が変わってしまう」云々と奇妙な信念を持つ人が、あろう事か教育関係者にも多いようです。

 ……まぁ、結果は同じだろうなんて合理主義は日本では通用しにくいのかも知れません。どのような経路であれ結果を出すことが大事と考えるよりも、プロセスをこそ問いたがる人の方が多いのでしょう。経済政策にしても然り、要するに景気が回復すれば良いのだと考える人はむしろ少数派で、自身が「正しい」と信じる方法を貫くこと――例えば雇用側にのみ徹底して便宜を図り、労働者側から雇用側への所得移転を進めるなど――を優先してきたのが我が国の政治であったわけです。景気が回復さえすれば痛みを伴わない金融政策でもOKとか、そう考える経済系の論者や政治家は至って少数派でしたから。

 あるいは、合理性からは絶対に導けないローカルルールを鵜呑みにできる人材を育成する、という観点では学校教育と「社会」との間で整合性はとれているとも言えます。会社に入れば、それこそ鼻で笑いたくなるような馬鹿げた社内ルールが盛りだくさんです。ところが、いかに下らない社内ルールであろうとも上から教えられたものを信じ切って遵守する、そんな人材が求められているとすれば「かけ算の順序に拘る教育」は社会のニーズに合致しているのではないでしょうか。研修と称して新人に穴を掘らせたり自衛隊に体験入隊させたり、そんな馬鹿げた世界に疑問を持たない人材を養成するためには、かけ算の順序に違いがあると教え込むことにも意味が産まれてしまうのかも知れません。

 例えば50円の商品を2個販売した場合の消費税額って、いくらだと思いますか? 販売者が納税する金額はさておき、顧客に消費税分として提示する金額は、果たしていくらが正解でしょう? 5円、というのは必ずしも正しくありません。会社によっては「社会人の常識に欠ける」と罵倒されてしまうところです。あなたの勤務先では、いくらですか? 正解は、経理の人もしくは事務でも売掛金の管理ぐらいは担当している人を捕まえて聞いてみてください。

 

 ・・・・・

 

 消費税率5%で単価50円の場合、計算上の消費税額は2円50銭です。しかし50銭は取り扱いできませんから、消費税端数をどうするか「会社によって扱いが分かれます」。端数切り捨てで消費税を2円とする会社もあれば、端数を四捨五入もしくは切り上げで3円とする会社もある、そして単価50円の商品を2個売った場合もまた会社によって違いが出るのです。すなわち「合計金額(この場合は100円)を基準として消費税額を顧客に提示する会社」もあれば、「単価毎に算出した消費税を合算して顧客に提示する会社」もあるわけです。単価50円、消費税額2円(もしくは3円)の商品を2個販売した場合の合計は、本体価格100円に対して消費税額4円(もしくは6円)になったりする、なんだか変な話に見える人もいるかも知れませんが、会社によってはそういう計算が「正しい」のです。

 実際、税抜き合計金額が100円で、消費税込みの金額として105円、集金してきた営業さんがいました。ところがその会社の計算方法では税込で104円が正しい請求額だったのです。1円、客から余分に金を受け取ってしまった、これは会社の管理上まずいとのことで「1円を返金してこい」みたいな話になったことがあります。とりあえず営業さんに会社の計算方法を私が説明したわけですが、流石に首を傾げて「そういう考え方って一般的なんですかねぇ?」と。そこで私は「○○さんの考え方で特に間違ってはいないですよ。100円で消費税が4円になるのは単純に社内ルールの話ですから」と回答しました。これを聞き咎めた上司に呼び出しを食らって私は説教されることになったのですが、間違ったことを言ったとは思っていません。

 「社内ルールの達人」が幅を利かせている職場も多いのではないでしょうか。その社内でしか通用しない独自のルールを守らせようと、社内ルールの達人が同僚を毎日のように咎め立てしている、こんな姿を見ると私などは大いに萎えてしまうところですけれど、社内ルールの「正しさ」に微塵も疑いを持たない人も多くて、「達人」があれこれと口出しをするばかりか、周りの人も「達人」に「社内的に正しい処理手順」かどうか伺いを立てるようになっていくわけです。まぁ社内でルールを統一する必要はあるのでしょうけれど、それは会社の外では通用しない「非常識」であることも理解して欲しいな、と。でも特定の組織でしか通用しないローカルルールを「正しいもの」として押し通す自分に何の疑問も持てない人がいて、それが偉い人になって権力を持っていくことも普通にあるんですよね。

 

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確かに共産党は小泉に考え方が近いのかも知れない

2013-11-20 22:55:49 | 政治

共産、小泉元首相と連携も 脱原発の姿勢評価(産経新聞)

 共産党の市田忠義書記局長は13日の記者会見で、脱原発に向け安倍晋三首相に政治決断を迫った小泉純一郎元首相との連携に前向きな姿勢を示した。「考え方が大変近く一致点が多い。どういう形の力の合わせ方があるかはこれからの研究課題だ」と述べた。

 小泉氏が12日の講演で原発の「即時ゼロ」に踏み込んだことを「積極的な発言だった。われわれは(個別政策ごとに党派を超えて連携する)『一点共闘』で政治的立場が違っても力を合わせる」と評価した。

 

 「即時ゼロ」なんてのは、それこそ国民の生活を何とも思っていない無責任な人間にのみ可能な発言であるわけで、小泉純一郎にはこれ以上ないほど似つかわしい言葉ですし、脱原発が第一の共産党にとっても共感できるものなのでしょう。他にもまぁ、現実に対処するよりも理想を追うことを優先するという点では、小泉と共産党は「考え方が大変近く一致点が多い」のかも知れません。そして共産党は「(個別政策ごとに党派を超えて連携する)『一点共闘』で政治的立場が違っても力を合わせる」とのこと。やれやれ。

 アメリカの映画監督、マイケル・ムーアは「自由貿易を推進する幼児性愛者の会」とか「ジョン・ウェイン・ゲイシー(猟奇殺人鬼)・ファンクラブ」「ドールを応援するサタン崇拝者の会」といった名義で各候補に寄付として小切手を送ってみたそうです。平然と小切手を現金化する候補もいたものの、丁重に送り返してきた候補もいたようで、まぁ「変なのと付き合えば自身の良識が疑われる」ことぐらいは理解していたのでしょう。では共産党は?

 歴史的な流れを見れば潔癖主義と言いますか、独裁政権化した一部諸外国の共産主義政党等とは徹底して距離を取ってきたのが日本の共産党でしたけれど、昨今は風向きも変わったのかも知れません。中核派みたいな左翼崩れに対しても共産党は全否定の姿勢であったはずですが、中核派からの支持を歓迎する候補ともよろしくやりたいようですし、まぁ時代は変わったのでしょう。しかし、たまたま見解が一致したからと言って「朝鮮労働党と『一点共闘』で政治的立場が違っても力を合わせる」などと宣言し出す党があったら、まぁ首を傾げますね。

 小泉改革は、飲酒やギャンブルなどの悪癖に似ていると言えます。それを楽しむ人は多いが、結果は歓迎されない、と。つまり酒を飲むのが好きな人でも、アル中になったり肝臓を壊したりするのまで好む人はいない、煙草を吸いたがる人でも、肺ガンになりたいと願っているわけではないのと同じように、小泉改革もまた然りで改革に精神的な満足感を覚えながらも、その結果までを喜ぶとは限らない、そういうものではないでしょうか。朝日新聞とか典型的ですよね、あれだけ小泉ヨイショを続けてきたのに、その後に現れた小泉改革の結果には逆に否定的な記事が多い、呆れるばかりです。

 「自民党をぶっ壊す」とは小泉の発言ですけれど、この流れを多かれ少なかれ「野党」は汲んでいる、小泉が敵視したものと同じものを民主党もみんなの党も社民党も共産党も敵視している、そうした面では小泉時代の決定を徐々に改めつつある今の自民党よりも、国政上に限っては野党である民主党や、地方議会でも野党である共産党の方が「自民党をぶっ壊す」の路線に近い、共産党の書記局長が明言するように「考え方が大変近く一致点が多い」のかも知れません。

 その残した「結果」について小泉を糾弾するのが本来であれば役目ではないかと思うところですが、非科学的な脱原発を掲げれば「全ては許される」というのが共産党の見解のようです。レイシストでも猟奇殺人鬼でも、あるいは不祥事を起こして党を追放されたような人でも過激派でも、威勢良く原発を否定しておけば「一点共闘」と叫んで共産党は手を組みに行くのでしょうか。そして反対に、共産党が「手を組もうとしなかった」のは何なのかを考えると、党の現在の立ち位置が見えてくるように思います。

参考、一部では反発も、恐らく結果は

 例えば安倍政権の注力してきたデフレ脱却に関して、共産党は「一点共闘」などとは言わなかった、「政治的立場が違っても力を合わせる」素振りなどは見せてこなかったはずです。現内閣の景気刺激策の元で株価は上昇、これを受けて公的年金の運用益が21世紀に入って最高の11兆円と大幅な改善を見せたりもしました。共産党的には、これは良いことなのでしょうか、それとも苦々しい事態だったのでしょうか。社会保障を重んじるなら、ここで共闘があっても良さそうなもの、しかし専ら政府与党の経済政策に否定的であったのが実態で、まぁ「政治的立場が違っても~」とは行かなかったわけです。

 デフレ脱却には共闘の姿勢を見せなかった共産党が小泉のケツを舐めに行く――まぁ共産党にも優先順位があるのかも知れません。まず第一は脱原発であり、そのためなら犠牲を厭わないし、国民の生活を犠牲にしてきた人の罪も全て「なかったこと」にする、と。あるいは小泉と共産党とですら、なんだかんだ言って根本的なところでは似たような経済観があるのかなと、そんな気もします。

 「ボールを動かせ、ボールは疲れない」と言ったのはヨハン・クライフですが、応用すれば「お金を動かせ、お金は疲れない」とも言えそうです。まぁ、お金を動かす金融の世界は実際は激務だろうというのはさておき、ユダヤ人に対してと同じくらい「金融」への蔑みが、日本にはあるのではないでしょうか。お金を動かすことで「豊かさ」を生み出す、そういうやり方への道徳的な拒絶感が根付いているが故に、現内閣の金融政策に(現段階では)重きを置いた景気浮揚策を全否定せずにはいられない、と。

 少なくとも、お金を動かす「アベノミクス」は小泉改革と違って国民に「痛み」を強いるものではないのですが、それ故に道徳的な拒否感も強い、「お金は疲れない」が故にそこに「うしろめたさ」を感じる人が多いのではという気がします。つまり、「疲れる」やり方の方が正しい、「汗をかいて」成長するのが正しいと信じている、小泉の唱えたように「痛み」に耐えながら進むのが「正しい」のだと、そういう世界観に生きている人が多いのではないでしょうか。小泉と共産党とでは、その「痛み」の振り分け方が違うとしても、「お金を動かす」疲れないやり方ではなく「人が汗をかく」方を選びたがるという点では「考え方が大変近く一致点が多い」のかも知れません。ゆえに、デフレ脱却では「一点共闘」できなくとも、小泉なら尻尾を振れるというわけです。

 

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年は取りたくないもの

2013-11-18 23:21:03 | 編集雑記

 職場に、これまた凄いぶりっ子ちゃんがいるわけです。アラフォーの。40歳と言ったらアレですよ、早婚多産なヤンキー家系なら孫が産まれている人がチラホラ出始める、そんな年齢です。そんなおばちゃんがかわいこぶった中学生みたいな口調でしゃべるのですから、なかなかキツイものがあります。まぁ、他人がとやかく言うものではないのかも知れません。その面影はとうの昔に消え去ったとはいえ彼女にも若い頃はあったのでしょうし、望んで年老いたわけでもないでしょうから。

 彼女が今より25歳くらい若ければ、そういう振る舞いが可愛らしく見えることもあるのかも知れないなとか、最近は年増のおばさま方を○○女子などメディアが煽っているので同性間ではアリなのかなとか思いつつ、やっぱりアラフォーのぶりっ子はキツイなぁと、そう感じるのを禁じ得ないところでもあります。まぁ、傍目に見れば自分も大差ないのかも知れません。アラフォーのゲーマーってのも、世間的にはアラフォーのぶりっ子と同じくらい、特に異性から見ればキツイのではないかと。やはり他人にとやかく言われたくはないものです。

 アラフォーちゃんにも、あのキャラが似つかわしい年頃があったことでしょう。かつて私にもゲーマーであることが何らマイナスにならない年代があったように、アラフォーちゃんのぶりっ子キャラも年相応と周囲に好意的に迎えられていた時期があったはずです。過ぎ去った若さを懐かしんでどうにかなるものではありませんけれど、まぁ寂しいものです。アラフォーちゃんは、子供の頃からずっとあんな感じだったのでしょうか。あのキャラのまま大人になって、ヤンキー家系なら孫がいてもおかしくない齢にさしかかっても子供時代のキャラのまま、時の流れは残酷です。

 自分は保守的な人間だと――昨今では「保守」という意味がレイシズムや歴史修正主義を指すようになっているのでアレですが――思います。異動、転勤、席替え、ジョブローテーション……みんな大嫌いです。あまり生き方を変えることが好きではなくて、若い頃から趣味志向を変えていないまま年を重ねてきた、文学少年は文学青年を経て文学中年になり、いずれは文学老年になることでしょう。子供の頃からずっとゲーマーで、食べ物の好みも昔からあまり変わっていません。それが傍目には、アラフォーのぶりっ子と同じようなものなのかも知れないな、と。

 「年齢相応」の「生き方」や「趣味志向」は暗黙裏に要求されるものではないでしょうか。アラフォーのオバハンが10代前半の娘がかわいこぶったような口調で話していれば、「これはキツイ」と感じる人は、なんだかんだ言って多いと思います。婆臭いしゃべり方が求められるわけではなくとも「その年齢でこのしゃべり方は流石にないだろう」と。これと同様、休日(余暇)の過ごし方にしてもアラフォーのオッサンが「ゲームに費やしてます」というのは世間体が悪いことは認めざるを得ません。

 その昔、自民党総裁候補の「好物」がタブロイド紙に取り上げられていたことがありました。そこで安倍と麻生は所謂「お子様メニュー」を挙げていたもので、やはり生まれながらの特権階級は違うなぁと痛感したわけです。しかるに何の後ろ盾もない小市民が「人並みに」生きようとすれば加齢に応じて「年相応の」趣味志向へと自分を書き換えていかなければなりません。子供の頃からずっとゲームが趣味なんてのはアラフォーになってもぶりっ子キャラと同じようなものです。もうちょっと周りから評価されるように生きるためには、色々と「変わる」ことが必要になるのでしょう。でも自分は、この「変わる」こと、生き方を変えることに嫌気を感じてならないもので、まぁ年は取りたくないなと思います。

 

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脱原発無罪な人々

2013-11-16 23:07:42 | 社会

甲状腺がん「地域差見られず」(NHK福島放送局)

福島第一原発事故を受けて福島県がすべての子どもを対象に進めている「甲状腺検査」で、これまでにがんがみつかったりがんの疑いがある子どもの割合が、原発周辺の避難区域などとそのほかの地域とで大きな差がみられないことがわかりました。

原発事故で放出された放射性物質は甲状腺に蓄積してがんを引き起こすおそれがあるとされ、福島県は、事故当時18歳以下だったおよそ36万人を対象に検査を進めています。

12日開かれた「県民健康管理調査」の検討委員会で、県立医科大学の担当者は、これまでの検査でがんがみつかったり、がんが疑われる子どもが59人にのぼることを明らかにしました。

これについて、政府が避難指示を出すなどした原発周辺の13の自治体と、福島市や郡山市などそのほかの13の自治体を比較すると、がんやがんの疑いのある子どもの割合はいずれも全体の0.03パーセントで、担当者は、これまでの検査結果からは、地域によって大きな差はみられないとしています。

一方、甲状腺がんは通常、自覚症状が出てから検査を受けるケースがほどんどで、今回のように症状の有無に関わらず実施した検査の統計は過去にありません。このため、調査を行った県や県立医科大学では、これまでにがんのみつかった子どもの数について、「原発事故が影響したものかどうか判断ができない」としています。

 

 まぁ、NHKもドキュメンタリー番組となると酷い歪曲報道も目立つところですが、上記は「普通」にメディアとしての役割を果たしていると言えるでしょうか。原発事故の影響が大きく避難指示が出された地域の子供も、避難指示を出す必要がなかった地域の子供でも「がんやがんの疑いのある子どもの割合はいずれも全体の0.03パーセントで、~地域によって大きな差はみられない」ことが伝えられています。まぁ、癌が見つかるレベルに育つまでには年数がかかるもので、この時期に発見された癌であれば原発事故「以前」に起因するものと考えるのが当たり前ですし、幾重にも測定された被曝量を鑑みれば今後も有意な差が現れることはないと言って間違いはなさそうです。

 

子の甲状腺がん、疑い含め59人 福島県は被曝影響否定(朝日新聞)

 【野瀬輝彦、大 岩 ゆ り】東京電力福島第一原発事故の発生当時に18歳以下だった子どもの甲状腺検査で、福島県は12日、検査を受けた約22・6万人のうち、計59人で甲状腺がんやその疑いありと診断されたと発表した。8月時点より、検査人数は約3・3万人、患者は疑いも含め15人増えた。これまでのがん統計より発生率は高いが、検査の性質が異なることなどから県は「被曝(ひばく)の影響とは考えられない」としている。

 県は来春から、住民の不安にこたえるため、事故当時、胎児だった約2万5千人の甲状腺検査も始める。

 新たに甲状腺がんと診断されたのは8人、疑いありとされたのは7人。累計では、がんは26人、疑いが33人。がんや疑いありとされた計58人(1人の良性腫瘍〈しゅよう〉除く)の事故当時の年齢は6~18歳で平均は16・8歳。

 甲状腺がんはこれまでで10万人あたり12人に見つかった計算になる。宮城県など4県のがん統計では2007年、15~19歳で甲状腺がんが見つかったのは10万人あたり1・7人で、それよりかなり多い。ただし、健康な子ども全員が対象の福島の検査の結果と、一般的に小児は目立つ症状がないと診断されないがんの統計では単純比較できない。

 ただ、チェルノブイリでは、原発事故から4~5年たって甲状腺がんが発生しており、複数の専門医は「被曝から3年以内に発生する可能性は低い」と分析している。県は被曝の影響とは考えにくい根拠として、患者の年齢分布が、乳幼児に多かったチェルノブイリと違って通常の小児甲状腺がんと同じで、最近実施された被曝影響の無いロシアの子どもの検査でも4千~5千人に1人がんが見つかっていることなどを挙げている。

 

 ……一方、マトモではない報道機関の手にかかるとどうでしょうか。報じている対象は同じなのですが、随分とニュアンスが異なって見えると思います。署名記事の著者は大岩ゆり、一貫して甲状腺等価線量と実効線量を混同させる記事を書き続けてきた人です。見出しにもあるように甲状腺癌の(疑いを含めた)数を強調したいようですけれど、事実は冒頭のNHK報道が伝える通り、被曝量が多かったはずの地域と、そうでない地域とで差はないことが分かっているわけです。ただ朝日新聞が、それを伝えることを嫌がっているだけで。

 比較対象を出さない、あるいは不適切な比較対象を並べるのは日本のジャーナリズムの鉄則です。典型が「非現業の正規職員(公務員)の給与平均」と「パート・アルバイトを含めた全業種(民間企業)の給与平均」の比較あたりですね。そして今回の朝日記事では、福島県の調査結果と「宮城県など4県のがん統計」を並べています。有無を言わさぬ全数検査で発見された件数と、自ら検診を受けに行った結果として発見された件数を比較することに意味があるのやら。典型的な印象操作の臭いがぷんぷんします。

 もっとも最後の段落は、一応の良心がそうさせたのか、甲状腺癌が発生するまでの期間やチェルノブイリとロシアでの事例も触れられています。結局、「被曝影響の無いロシアの子どもの検査でも4千~5千人に1人がんが見つかっている」とのこと。例によって比較しにくいように単位がバラバラになっていますが、福島の調査では「10万人あたり12人」そしてロシアでは「4千~5千人に1人」、どのレベルの個体差を「疑い」の対象にするかの差はあるにせよロシアの調査では「10万人あたり20~25人」ということになるわけです。少なくとも福島で有意に癌が増えているとは考えられない、とだけは言えるでしょうか。

 

無断放置のセシウム木材チップ「クリスマスプレゼントで東電前に」と嘉田知事…市長「冷静さ欠いている」(産経新聞)

 放射性セシウムが検出された木材チップが滋賀県高島市の鴨川河川敷に放置されている問題で、嘉田由紀子県知事は13日、早期の撤去を求めた福井正明市長に「クリスマスプレゼントとして、トラックに積んで東京電力に持って行きませんか」と持ちかけた。福井市長は「冷静さを欠いている」と批判しており、嘉田知事の発言は波紋を呼びそうだ。

 福井市長はチップの撤去について今月25日までに具体的な工程を示すよう要請したが、嘉田知事は「関係法令の中でどんな手続きがあるか探っているが、出口がみつからない」と説明。さらに「排出者に処理責任がある。(原発事故を起こし)セシウムをばらまいた東電に責任があるのは明らか」と怒りの矛先を東電に向けた。

 木材チップは県外から持ち込まれて無断放置された。福井市長は会談後、「市民は不安に思っているのに、県では真剣な議論がなされているのか」と困惑した表情で話した。

 

 産経は朝日に比べればかなりマトモな部類ですけれど、今回の見出しは酷いですね。曰く「セシウム木材チップ」だそうで。ではこの「放射性セシウムが検出された木材チップ」とは、どういうものだったでしょうか。

参考、中日新聞社のカレンダーの1年は何日あるんだろう?

 何でも9月に琵琶湖湖畔に放置されているのを発見されたもので、最大で1キロ当たり3千ベクレルの放射性セシウムが検出されたとのこと、なお国の放射性廃棄物処理基準は1キロ当たり8千ベクレルであり、まぁ放射性物質に関しては問題のない範囲と言えます。例えばヒジキはヒ素を多く含む食品ですが、小鉢のヒジキを食べたからと言って健康を害する虞がないのと同じことです。また廃棄物付近の平均の空間線量は毎時約0・24マイクロシーベルトだったそうで、材質次第では石畳の上の方が放射線量は上回るレベルであって、特に懸念される範囲ではないでしょう。この線量で健康被害が出るなら、放射能の強い花崗岩で作られた国会議事堂で働く方々は被曝で深刻な事態に陥っているはずですから。

 まぁ結局のところセシウム云々は話題作りの域に止まると言いますか、要するに単純な不法投棄の問題なのですけれど、ちょっと頭の沸いている人の手にかかると事態はあらぬ方向へ動き出すようです。なんでも滋賀の嘉田知事曰く「クリスマスプレゼントとして、トラックに積んで東京電力に持って行きませんか」「セシウムをばらまいた東電に責任があるのは明らか」だそうで、お得意の被害妄想を披露しては現地の福井市長を大いに困惑させていることが伝えられています。

 もちろん前述の通り、放射線量の面では何も問題がないのは既に明らかなことで、セシウム云々は気にかける必要がない、ただ不法投棄物をどう処理するかの問題なのですけれど、どうにも現実に向き合えない人が、あろう事か県のトップに居座っているわけです。検出された基準値を大きく下回る放射性セシウムをネタに東京電力を罵っておけば、有権者のウケは悪くないのかも知れません。しかし、そこに精神的な満足感を覚える人がいたとしても不法投棄された木材チップがどうにかなるはずもないのですが――往々にして上にいる人ほど責任感に乏しいようです。

 この頃は脱原発論に関して小泉純一郎が幼稚な精神論を連呼しており、それに社民党や共産党が尻尾を振っているわけですが、トップの下らない思いつきに振り回されて困窮するのはいつだって現場の人間です。上の人間が威勢の良いことを打ち上げて、それを実現するために現場の人間が無理難題を押しつけられる――会社で働いていれば誰もが経験のあることではないでしょうか。小泉は「方向性が決まれば、誰かが知恵を出してくれる」と無責任なことを宣い、それを社民党や共産党が拍手喝采していますけれど、そこで責任を負わされる、お調子者達の面倒を見る「誰か」って誰ですか? 小泉改革のツケを払わされたのがどの層であるのか、社民や共産のバカどもは思い起こすべきでしょう。

 嘉田知事としては、東京電力のせいにすればいい、東京電力のせいにして、それでお終いという魂胆なのかも知れません。全てを東京電力のせいにせよ――そんな姿勢を貫いた民主党政権の悪夢が終わったとはいえ、とりあえず東京電力が悪いと言ってさえ置けば許される、そんな風潮はまだ続いているのでしょうか。しかし、東京電力を罵って「そうだ、そうだ」と取り巻き連中が賛同してくれたとしても不法投棄物が消え去るわけではありません。残された不法投棄物の処理に直面するのは県知事ではなく市長や現地の職員達の方、知事の無責任の結果を負わされそうになっている市側には同情するばかりです。

 

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「企業」が知っていれば済むものではないと思う

2013-11-14 22:51:49 | 雇用・経済

労使協定無い中小企業、6割が「違法残業」 厚労省調べ(朝日新聞)

 【山本知弘】残業や休日出勤を従業員に命じるときに必要な労使の協定が、中小企業の半数超で結ばれておらず、このうち6割弱で「違法残業」があることが厚生労働省の調査で分かった。また、協定のない企業の4割弱が「協定の存在を知らない」と答えていた。

 4月1日時点の状況について、労働基準監督官が全国1万1575事業所(大企業4267、中小企業7308)を実地調査したデータをもとに推計した。

 企業が1日8時間を超えて従業員を働かせたり、休みの日に仕事をさせたりするには、労働基準法36条に基づく「36(さぶろく)協定」を労働者の代表とあらかじめ結び、労働基準監督署に届け出ないといけない。

 ところが、協定を結んでいるのは、大企業では9割を超えたものの、中小企業では4割台だけだった。

 結んでいない中小企業に複数回答で理由を尋ねると、「残業や休日労働がない」が43・5%で最多。ただ、残りの企業では協定がないまま、残業や休日労働をさせていた。また、結んでいない企業の36・2%が「協定の存在を知らなかった」と答えた。

 法違反が見つかった企業には、すでに監督官が是正を求めた。厚労省は「36協定について、ここまで知られていないのは驚き。周知を徹底したい」(労働条件政策課)としている。

 

 「企業の4割弱が『協定の存在を知らない』と答えていた」「中小企業に複数回答で理由を尋ねると」などと引用元では書かれていますが、「知る」という行為の主体として「企業」が出てくるのも微妙な印象ですね。企業の社長なり人事の偉い人なり、とにかく権限のある人が調査対象になっているものではないかと推測されますが、その辺をハッキリさせる必要性を朝日新聞記者は感じないのでしょうか。そして厚労省――の担当者――によれば「36協定について、ここまで知られていないのは驚き」とのこと。「誰に」知られていないことを問題視しているのでしょう? そこは重要なポイントのはずです。

 確かに、36協定について知られていないことは大いに問題と思われますが、そこで驚かれてしまっては困ります。むしろ周知の事実であり、今まで放置/黙認してきたことへの反省の弁の一つも出てしかるべきではないでしょうか。ともあれ「周知を徹底したい」と厚労省は、どこまで本気かはさておき口にしているわけです。誰に周知を徹底したいのかは意識されないままで、ですね。

 よく、大学を卒業しても職種としては「営業」になる人が多いのだから、「営業学部」こそ必要なのだと白面で説く人もいます。ちょっと笑っちゃう話ですが、既存の商学部や商業高校で教えられるようなこととは別の枠組みを設けようと言うからには、例えば営業として半ば必須の自動車免許の取り方でも大学でレクチャーしようとでも考えているのでしょうか。それとも企業の新人研修と似たようなこと――例えば自衛隊に体験入隊させるとか――でもやるのでしょうか。まぁ、履歴書の書き方や面接の受け方等々、大学が実質的に就職学部化しているところも多いだけに営業学部も笑い話では済まないのかも知れません。

 むしろ大学で経営側の立場からの経済を教えられることで、雇用側に都合の良い社畜が作られている、それは企業側のニーズに合致していると私などは思うところでもあります。まぁ、それはさておくにしても大学を「卒業した先」のことを考えて教育を行うなら、営業よりも必要なものは別にあるはずです。いかなる職種に就くにしても、仮に大学で働くにしても「雇われる」以上は必要なものがある、つまり「労働者として知っておくべきこと」をこそ教えられるべきではないでしょうか?

 その一つとして、冒頭で取り上げられている36協定などに関わる知識があるわけです。どのような「働かせ方」が違法であるか、それは学校を出て務めるようになる人の全てに周知徹底されるべきことのはずです。厚労省は「36協定について、~周知を徹底したい」と厚労省はコメントし、「誰に」徹底したいのかを朝日新聞はスルーしていますけれど、それはどこかに就職しようとする人であれば誰もが知っておく必要のあることです。まさか経営者側にだけ独占的に知らせておけば良いとでも思っているのでしょうか。「周知を徹底したい」と語るのが本気であるなら、労使協定の知識を義務教育に組み込むこと、労使協定の知識を問う試験に合格しない生徒は卒業させないぐらいのことを考えてもよさそうなものです。

 

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政府の介入が必要な段階に来ているのは確かだが

2013-11-12 22:55:19 | 雇用・経済

「限定正社員」で火花=賃金上げでは一致―政労使(時事通信)

 政府、労働界、経済界の代表が10日、NHKの番組で「限定正社員」の雇用ルールをめぐって火花を散らした。「限定正社員」は、正規労働者並みの待遇を維持しながら、地域や労働時間を限定する新制度として、6月に政府が取りまとめた成長戦略に盛り込まれた。

 政府の甘利明経済再生担当相は「正規と非正規の二者択一ではなく、『この時間、この場所で正規並みの待遇で働きたい』というニーズがかなりある。多様な働き方ができる環境を整備したい」と理解を求めた。

 これに対して労働界の古賀伸明連合会長は、企業が社員を解雇しやすくなる新たな仕組みにつながる懸念を示した上で「労使で話し合うべきであり、国が一律に制度として確立するものではない」と指摘。経済界の宮原耕治経団連副会長も「企業にとっても多様な働き方、多様な社員がいるのは非常に重要だ」としながらも、古賀氏に同調し、政府の役割は環境づくりにとどめるべきだとの認識を示した。 

 

 やっぱり、連合は自民党政府よりは経団連の方にメンタリティが近いんだろうなと、改めて認識させられる一幕です。政府の賃上げ要請という、まぁ口頭レベルで強制力を伴わない代物ではありますが前政権時代にはとうてい望めなかった動きがある中、一貫して自民党政府の動きに異議を唱えてきたのが連合で、その主張は「労使で話し合うべき」すなわち「政府は口を出すな」というものだったわけです。もっとも、連合の望み通りに労使での話し合いに任されてきた民主党政権時代に誇れるような成果が僅かなりともあったのか、連合の幹部には胸に手を当てて考えて欲しいものです。

参考、誰が音頭を取ろうと賃上げとは良いものだ――が、連合にとっては違うらしい

 こうした連合の姿勢は経団連サイドとしても好ましいだけに、当然ながら(連合サイドに)同調の姿勢を見せているところ、まぁ連合にとって最重要なのは民主党の勝利であり、民主党と選挙で――ただし国政に限る――競合する自民党とは組めない、むしろ乳繰りあいを続けてきた経営側との方が馴染みやすいものなのかも知れません。そして連合と経団連、労使でプロレスごっこを演じてきた結果として昨今の労働者の置かれた地位があるわけです。労働者にとって、連合とは別の何か、「労使で話し合う」以外の新たな道が必要だろうと感じる有権者が増えたとしても、少しも驚くには値しないと言えます。

参考、「普通」の働き方

 ……で、「限定正社員」云々については上記リンク先でも書きましたが、「限定~」という「留保付正社員」と「限定~」が付かない留保なしの「正社員」という枠組みでは、せいぜいが旧来の一般職/総合職に近い位置づけにしかならない、概ね「限定正社員」は定年まで「働かない」ことを前提とした女性限定の採用窓口ぐらいにしかならないであろうと予想されます。「正規と非正規の二者択一」を解消し、「この時間、この場所で正規並みの待遇で働きたい」とのニーズに応えようとする方向性自体は正しいものと言えますが、その手段として「留保付き正社員」が有効かどうかは大いに疑わしいです。

 留保なしの「正社員」という「普通」の枠外に留保付きの「限定正社員」を設けるのではなく、例外としての「無限定正社員」を設けた方が目的には適うことでしょう。例えばフランスには「カードル」と呼ばれる労働時間の規制適用を除外されるエリート層がいます。日本なら公務員の「キャリア層」に近いでしょうか、幹部候補生として出世コースが用意されている代わりに激務が求められる「普通ではない」働き方もあるわけです。ところが日本では男性正社員には軒並み「カードル」的な働き方が押しつけられる、時間も勤務地も職種も雇用側の思うがままの働き方を強いられる、にも関わらず出世できるのは一握り、頭角を現せないまま年齢を重ねると「無能な中高年」とレッテルを貼られて退職を迫られたり、「若者のため」云々と掲げる論者から誹謗中傷されたりする――これが日本における「普通の」すなわち留保なしの「正社員」だったりします。

 人口減少に向かう時代、率いるべき後進は減っていくのが当たり前の時代です。出世するのは一握りで十分、ならば無限定の働き方を求められるのは地位を以て報われる「一部の」人だけでもよさそうなものです。そこをカードルもしくはキャリア層、無限定の例外的な社員と位置づけ、「残り大勢」を留保なしの正社員=「普通」として勤務時間や勤務地、職種の面で労働者側の意向を尊重される形に持っていく必要があるでしょう。キャリア層のような働き方を「正社員」に要求し、その付随的なものとして「限定正社員」を設けてしまっては、甘利明経済再生担当相の語る「正規並みの待遇」が得られるのかどうか。限定正社員が「普通でない社員」として位置づけられている限り、その目指すところにたどり着ける日は果てしなく遠そうです。

 

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コミュニケーション能力云々の補足

2013-11-10 22:45:54 | 非国民通信社社説

 職場になかなか強烈な「かまってちゃん」がいまして、オトモダチのそばを通る度に毎回、周りに聞こえるようにわざとらしくため息を吐いていくのです。邪魔だからヨソでやってくれないかな、と思うところでもありますが、まぁ他人がとやかく言うことでもないのでしょうか。で、昨今は猛烈に臭い柔軟剤が流行っているわけです。高残香タイプだか強残香タイプだか、製品によっては「ナワバリをもっと主張したい香りをもっと楽しみたい時は好みに合わせて使用量を増やして」 とか書かれているのもあるとのこと。そこで我らがかまってちゃんは、半年ほど前から激烈に柔軟剤を臭わせるようになりました。花粉症で鼻の調子が悪くても半径10m以内にかまってちゃんが近づけば、強烈な臭気で居場所が分かるようになりました。とりあえず私は、かまってちゃんが近づいたら空気清浄機を「強」にして「ちゃんと気づいていますよ」とサインを送ってあげているのですが、どうにも向こうに気づかれていないようです。

 少し前に、コミュニケーション能力とはなんぞやみたいな話を書きました。話のとっかかりとして、まずは「自信家とはなんぞや」と。結果を出しているときには自信を持てるけれど、結果が出ないときに自信を失ってしまうようでは自信家とは言えない、根拠などなくとも自信を持てるのが真の自信家である――そこからコミュニケーション能力を考えると、興味深い話題が上がっているときには話の輪に入って行けたとしても、どうでも良いような話には加われない、これではコミュニケーション能力があるとは言えない、そうではなく「内容のない話でも盛り上がれる」のが真のコミュニケーション能力強者であろうと、そんな風に書いたわけです。

参考、コミュニケーション能力の高い人、とは

 この辺の補足としまして「内容のない~」とはなんぞや、と考えてみましょう。ある人にとっては内容のない話でも、その話の輪の中にいる人にとっては違うのではと、そういう想定もあると思います。では何をもって「内容のない~」と捉えればいいのか、それは「一過性の流行」のごときものと考えると筋が通りやすいかも知れません。つまり世間の人々を少なからず追随させて止まない流行が巻き起こる一方で、あれだけ流行っていたはずのものが、いつの間にやら人々の記憶からすっかり忘れ去られてしまう、そういうことも多いはずです。内容のない云々とは、そういうものではないかと。

 そこで冒頭に挙げました、臭い柔軟剤です。世の中にはワキガの臭いが好きな人だっていますし、世界に目を向ければ納豆の臭いはおろか米を炊く臭いだって悪臭と感じる人の方が多いくらい、まぁ臭いの好みは人それぞれですけれど、流行の柔軟剤をガンガン臭わせている人の内、本当にあの臭いが好きで付けている人ってどれくらいいるのでしょう。柔軟剤の臭いの強さに気分が悪くなると訴える人も多いと伝えられていますけれど、ブームが去ったら「たまごっち」や「ナタデココ」のように急速に忘れられていくような気がしないでもありません。臭いが好きと言うより「流行そのもの」が好きな人も多いと思います。

 流行のファッションは、「モテないタイプの異性」からは総じて不評と言えるでしょうか。まぁ、本当に誰が――ちょっと変わった性癖の持ち主以外の誰が――見てもカッコイイものは時代の変遷にも耐えるもの、一過性の流行とはやはり「内容がない」故に一過性であり、それは「モテないタイプの異性」からは冷ややかな目で見られる運命を背負っているのだと思います。じゃぁ、モテないタイプではなく、異性にモテるタイプならどうなのか、ここでモテるタイプの人間は「流行に合わせる」という一種の「コミュニケーション能力」を発揮できる、そこが「モテ」と「非モテ」を分ける一要素になっているのではないかと、私は考えるわけです。

 流行が過ぎれば、その流行に浸かっていた人からさえ過去の遺物として切り捨てられてしまうような、そんな一過性の――言うなれば使い捨ての――流行があって、そんな虚しい流行のファッションには初めから関わろうともしない、「内容のあるものしか」評価しない/できない人もいます、一方で内容がなかろうとも「流行していることそのもの」に価値を見出す人もいるはずです。ここでコミュニケーション能力があるのは、いわゆる「モテ」に属するのはどちらでしょうか? いかに空疎なものであろうとも、流行に「乗れる」のは一種の能力であり、それは内容のない話でも盛り上がれる能力と同質の、コミュニケーション能力を測る指針であろうと思います。

参考、自分に鑑みるとこう思う

 以前にも軽く触れましたが、どこかで「(女性が男と)付き合うなら茶髪の男を選んでおけばハズレは少ない」みたいな話を見かけたわけです。少し昔の話ですけれど、今もそんなに変わらないような気がします。つまり茶髪が流行っている時代なら、茶髪の子を選んで置いた方が無難だと。茶髪の子の方が「周りに合わせる意識」が高い、付き合う相手に調子を合わせてくれる期待値が高い一方で、黒髪の子の方が「我が強い」もしくは「周りに合わせるのを面倒くさがる」傾向が強いだろうと考えられます。会社の採用でも「元は茶髪で、就職活動に合わせて黒髪に戻した」ぐらいの子が、最も「周りに合わせるタイプ」として面接官のウケも良かったのではないでしょうか。

 まぁ髪の色なんて一見するとどうでも良い、無価値なことですけれど、こういう無価値すなわち内容のない部分でこそ「周りに合わせる能力」が問われるケースも多いように思います。つまりこれもまたコミュニケーション能力の一つの指標であろう、と。会社で唱えられるお題目なんて、だいたいが下らないものばっかりです。本当に夢と意義のあるプロジェクトであれば、コミュニケーション能力不足の人だって付いてくることでしょう。しかし偉い人の思いつきに過ぎないゴミみたいな目標にも適応できる人材が必要であるのならば、「内容がなくとも盛り上がれる」「周りに合わせる能力が高い」人が求められるわけで、そういう点では昨今のコミュニケーション能力一辺倒の評価基準は変なところで整合性がとれているのかも知れません。

 

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