非国民通信

ノーモア・コイズミ

君が代

2006-06-30 21:54:36 | 文芸欄
kiss me, girl, and your old one
a tip you need, it is years till you're near this
sound of the dead "will she know
she wants all to not really take
cold caves know moon is with whom mad and dead

僕にキスしたら君のその古臭いジョークにもキスをしておやりよ
君に必要な忠告をあげよう
死者たちのこの声が君に届くまで何年もかかったんだよ
「国家ってのは本当に奪ってはならないものを欲しがるけど
そのことに気がつく日が来るんだろうか?
冷たい洞窟だって知ってるんだ
気が狂ったり死んでしまった人たちを
お月さまはいつも見てるってことを」
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歳出削減案

2006-06-26 21:19:24 | ニュース

基礎的収支黒字化への歳出削減、11.4─14.3兆円=政府・与党 (ロイター) - goo ニュース

 政府筋が歳出削減案を出してます。内訳は 分野別の削減額は、社会保障が1.6兆円程度、人件費が2.6兆円程度、公共投資が3.9兆円程度─5.6兆円程度・・・

 まずは社会保障と公務員人件費ですね、やはり嫌われている階層ならば犠牲を強いても大丈夫という算段でしょう。むしろ過半数の国民からは歓迎されることと思われます。各種社会保障の受給者や公務員への粘り強い誹謗と中傷の甲斐もあって彼らは日本社会に巣くうダニのように蔑まれています。こういった層への締め付けは制裁として国民の強い支持を得られることでしょう。

 その他が公共事業関係、さすがにここが最大ですね。これをもっと削れば社会保障を削る必要もなさそうですが、蔑まれるべき弱者への制裁は国民へのパフォーマンスとしてやらねばならないとの判断があるのでしょうか。ちなみに私の家の前の道路は毎年12月に新しく造り直しています。毎年、新年を新しい道路とともに迎えていますが、それにもかかわらず駅への道中には未舗装の道路が続いています。少なくとも道路工事関係の配分は適当なもの、これなら5割くらい削減しても結果は同じに思われます。

 政府案には上がっていませんが、米軍への思いやり予算を減らせばいくらでも歳出は削減できますね。岩国の移転費用だけでも3兆円ですか、社会保障削減分の2倍ですね。米軍に思いやりなど必要あるはずがありませんし、そもそも竹島や北方領土ならいざ知らず岩国や横須賀や横田は国際的にも承認された日本の領土です。いつまでもみかじめ料を献上していないでさっさと追い出してはいかがでしょうか。

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組織への片思い

2006-06-25 17:25:17 | 非国民通信社社説

 サッカーW杯ですが、日本代表はあっさり敗退してしまいました。日頃から目にする機会の多い選手で構成された日本代表、それなりに応援もしていましたがやはり強豪国と比べれば色々な点で見劣りしたのもやむを得なかったかと。さて私が日本代表を応援したのは日頃テレビでも見かける、よく知った選手がたくさんいるチームだからでしたが私以外の方々はいかがでしょうか。

 愛国心の起源は決して一つではありませんが、しかしその中でも現在において主流になっているのは自己との同一視ではないでしょうか。つまり、国家と自身を混同するところから愛国心が芽生える、と。スポーツの対戦には代理戦争的な側面もあって、競技としてのサッカーが好きで観戦する場合もあれば自分の応援しているチーム=自分たちの代表の勝利を見届けるべく応援する場合もあります。例え低レベルな試合であっても仮想敵国との試合が盛り上がるのはそれが競技としての価値は低くとも代理戦争として重要だから、すなわち自国の代表=自分たちの代表=自分たち、の仮想敵国に対する勝利を目指すものだからではないでしょうか。そして、今回の日本代表の敗北を自分たちの敗北と感じる人も多いかと思われます。

 サッカーが好きでもないのに日本代表を応援できるのは日本と自分を同一視できるから、或いは先日のニュースのように国宝損傷の件で怒りを感じるのは国の財産と自分の財産を同一視しているからといえます。国と個人の境を曖昧にして、同一視する、区別をなくすこと、そうして愛国心は育まれ、国の利益と自身の利益を混同するようになります。

 ただここで注意したいのは、そこに序列が存在しているということです。国の利益は個人の利益と勘違いされますが、個人の利益が国の利益と勘違いされることはありません。どうしてこうなるのでしょうか? この国と個人との一方通行の関係はいかにして維持され続けているのでしょうか?

 愛国心の強い=国の利益を個人の利益と勘違いしている=国家への奉仕心の強い階層はどの辺りにあるでしょうか? 政府自民党の支持層は貧困層、若年層、女性に多いわけですが、言うまでもなく若年層は小泉自民党政権の最大の被害者であり、社会的弱者へと追い落とされ続けている階層です。女性も社会的地位はともかく経済的にはたしかに弱い、そして元よりの貧困層は言わずもがなですね。

 この社会的弱者達、個人としては大切にされていない階層に顕著な右傾化が見られるわけでもありますが、どうやら個人として大切にされない経験が重なることで自らも個人を軽視するようになるようです。虐待されて育った子供は虐待を受けるのは自分が悪いからだと思いこむそうですが、それは社会的な側面でも同じです。社会的に憎悪され蔑まれながら育った階層は、蔑まれるのは自分達が悪いからだと信じこみ、そして自らを蔑んだ社会に積極的にすり寄っていきます。

 さて、虐待によって自分たちが悪いと信じてくれる階層が作られます。労働環境の悪化が進む中で、逆に社畜とか企業奴隷といった用語が衰退していくのも同様でしょう。虐待を加えれば加えた分だけ、虐待される側が反省してくれるものです。それに反攻するような輩は、社会性が欠けている、社会人としての常識がない、コミュニケーション能力が不足していると、そう罵っておけば済まされるのです。そうして居残った、虐待された子供達が愛国心、社会性すなわち会社への順応を身につけたとき、上述の一方向の勘違いが確立するのではないでしょうか。

 国の利益と自分の利益、会社=社会の利益と自分の利益が混同されたとき、虐待された子供達は必ず自分の側を蔑みます。そんな彼らが胸を張って追求できるのは自分の利益ではない方、すなわち国の利益、会社の利益です。だから生活保護受給者がいれば彼を国の利益を奪うものとして憎み、会社側に要求を突きつける被雇用者がいれば会社の利益を損なう不届きものとして憎むのです。決してそのような状況へと至った経緯、そこに至るまで追いつめた国家や社会=会社の責任を問うようなことはせず、ひたすらに国家や会社社会に尽くすことを正しいと信じ、そうあるべきだと信じ続けるのです。

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日銀総裁インサイダー取引

2006-06-21 21:27:14 | ニュース

福井総裁は「続投・早めの政策対応」で信認確保狙う (ロイター) - goo ニュース

 日銀総裁と村上ファンドの問題です。内情を知るどころか内情をコントロールできる立場の人ですから、インサイダー取引どころではありませんがどうなるでしょう。

 政策上の失態には国民は寛容です。日銀総裁がどれだけの愚挙を繰り返し経済を崩壊させてもそれで地位が危うくなるということはないでしょう。それは小泉政権がどれほど国内情勢を悪化させ、対外関係を絶望的な状況に追い込んでも決して国民の支持を失わないのと同様です。

 しかし、他人の懐が温かくなるのを国民は決して許さないでしょう。権力者を重んじ、その失政でどれほど苦しめられようと忠誠を誓い続け疑いを持つことのない国民ですが、金と女のこととなれば話は別です。他人がいい思いをすることを国民は決して許しません。

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文化庁長官が国民におわび

2006-06-19 21:00:22 | ニュース

文化庁長官が国民におわび 高松塚調査委が報告書提出 (共同通信) - goo ニュース

 文化庁長官が国民におわび、と言われましても、何でおわびされなきゃいけないのかよくわかりません。問題は国宝の損傷云々なのですが、どうして国宝の損傷で我々がおわびされなければならないのでしょうか。

 国宝→国の財産→国民の財産→我々の財産、と国家主義者であれば考えるのでしょうか。公私混同が日本の文化的特徴とすれば、公=国と私=国民自身を混同してしまうのも無理はないでしょう。国家と自分を同一視しがちな国家主義者にとってはなおさらのことかと。

 ドライに公私を区別している私にとっては、国宝なんてものはどう見ても他人のもの、私には何の関係もありません。私には何の関係もない壁画がどこか私のあずかり知らないところで損傷していたからといって、それで謝られても対応に困ります。そんなことは私には関係ありませんよ、と。

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人間と、サイズの合わない棺桶

2006-06-18 14:32:42 | 非国民通信社社説

 何かの寓話だったかホラー小説だったか記憶が定かではありませんが、死体のサイズが大きすぎて棺桶に入らない、そこで死体の足を切断して棺桶に収容する話が思い出されます。結局、足を切断して棺桶に押し込められた死者が蘇り、墓守だったか棺桶職人だったかは罰が当たったということでやられちゃう訳です。こういう話の前提には死体のサイズに合わせて棺桶を作り直すのが筋だろうとの考え方があるわけですが、でもどうでしょうか? 現実には棺桶に合わせて死体を小さく切り詰めるものではないでしょうか。

 日本人の精神的故郷である旧日本軍では、支給される靴のサイズが合わないなんてことはよくあったようです。で、靴のサイズが合わないなどと言おうものなら「足を靴に合わせるんだ馬鹿者!」と。この明治期以降に確立された武士道精神は今もなお脈々と受け継がれています。人間とそれを取り巻く社会環境の間に不適合があれば、誰もが迷わず人間を環境の側に適応させる方法を選びます。切断されるべきは人間の側であってそれを収容する器ではないのです。まさに武士道ですね。

 山田昌弘氏に『希望格差社会』という著書があります。この著書はかなりマシな代物です。ひたすらに願望ばかりを投影している新聞やテレビ番組と比べれば遙かに現実的、事実に基づいた分析が中心となっています。この著書の中で山田氏は若年層を取り巻く環境の変化、付随的に若年層の変化を取り上げており、それは概ね現実に即したものとなっており、一定の信頼が置けます。ただし限界もあり、とりわけ最終章である9章の内容はあくまで会社=社会側の要望に沿った結論となっています。

 具体的なことは上述の著作にあるので省きますが、要するに若年層を取り巻く会社環境が大きく変化している、この変化のために若年層と会社社会の間に深刻な齟齬ができている、と。そこまでは正しいのですが限界を感じさせるのは最終章における問題解決のための提言にあります。要約すれば、若年層は身の丈にあった職に就け、と。クズであるところの若年層はその身の丈にあったクズ職に就くべきである、と。この主張は新聞や御用学者のそれと同じものですが、山田氏の主張に一定の評価ができるのはそのためのシステムを作ろうと具体的なプランまで用意しているところです。新聞や御用学者の場合、ただそうなることを願い、そうならない怒りをメディアを通じてまき散らすだけですが山田氏は自分の側の願望をただ投影するだけではなく実現のためのプランを用意しており、それは評価に値します。

 もう少し表現を変えて言い直してみましょうか。要は雇用情勢が悪くなっている、企業が低賃金労働者を必要としている、会社勤務で成功する人数がどんどん限られてくる、そういった中で若年層が新規にまともな仕事にありつくことは難しくなっています。そこで生まれた若年層と会社社会との齟齬をどうすべきか? 新聞と御用学者は若年層に憎悪のまなざしを向けることで問題から目をそらします。では山田氏は? 現実を見据えている山田氏は著書の中で若年層に希望を捨てることを説きます。若年層に希望を捨て、まともとは言えないクソ仕事への就業を説きます。そしてそれを補助するための施設の運営も視野に入れています。いくら若年層がまともな仕事を望んでも求人に限りがある以上、まともな仕事に就ける人の数は限られるのであり問題は永遠に解決しません。だからここは若年層を諦めさせ、クソ仕事に従事させる、そのための施設も運営する、と。山田氏の現実へ立ち向かおうとする姿勢は夢見がちな新聞や御用学者などのメディアとは一線を画すものであり、それなりに評価できるわけです。

 もちろん、根本的なことは変わりません。人間と環境、この両者を適合させるために人間の側を矯正するという発想では山田氏も大手メディアも同じです。死体を棺桶に収めるため、死体の足を切断した棺桶職人と考え方は何一つ変わりません。もちろんこの考え方にもいいところはあります、それは、簡単だということ。誰しも安易な方法を選びたがるものです。棺桶を作り直すより死体の足を切った方が手っ取り早いのと同じで、環境を変えるよりも人間を矯正した方が簡単なのです。

 自分を変えるなんてのは簡単なことです。自分が変わればいいのですから。でも自分を取り巻く環境を変えるのは難しい。そしてつい安易な道を選ぶ、人間に合わせて環境を変えるのではなく環境に合わせて人間の側を変形させてしまう。でも、それでいいのでしょうか? 私は足を切るより棺桶を作り直したい。大切なのは人間であって会社じゃない。足を靴に合わせるのではなく、靴を足に合わせたい。棺桶の中の足を切られた死体が望むのは、たぶんまだ足を切られていない人が自分たちと同じように足を切られること、小さな棺桶に押し込められることかも知れません。それでも私は棺桶の中から立ち上がれと呼びかけたい。どれほど憎悪され、蔑まれようと、そして待ち受けているものが確実な敗北であろうとも、棺桶に収めるべく足を切り落とそうとする相手との戦いを呼びかけたいのです。
 当サイトでは社会に合わせてそこに生きる人間を変形させようとする願望と戦い、人間に合わせて社会を変形させるために戦うことを訴えます。

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Strange Meeting

2006-06-14 21:23:55 | 文芸欄

Wilfred Owen

It seemed that out of battle I escaped
Down some profound dull tunnel, long since scooped
Through granites which titanic wars had groined.
Yet also there encumbered sleepers groaned,
Too fast in thought or death to be bestirred.
Then, as I probed them, one sprang up, and started
With piteous recognition in fixed eyes,
Lifting distressful hands as if to bless.
And by his smile, I knew that sullen hall,
By his dead smile I knew we stood in Hell.
With a thousand pains that vision's face was grained;
Yet no blood reached there from the upper ground,
And no guns thumped, or down the flues made moan.
'Strange friend,' I said, 'here is no cause to mourn.'
'None,' said that other, 'save the undone years,
The hopelessness. Whatever hope is yours,
Was my life also; I went hunting wild
After the wildest beauty in the world,
Which lies not calm in eyes, or braided hair,
But mocks the steady running of hour,
And if it grieves, grieves richlier than here.
For by my glee might many men have laughed,
And of my weeping something had been left,
Which must die now. I mean the truth untold,
The pity of war, the pity war distilled.
Now men will go content with what we spoiled.
Or, discontent, boil bloody, and be spilled.
They will be swift with swiftness of the tigress,
None will break ranks, though nations trek from progress.
Courage was mine, and I had mystery,
Wisdom was mine, and I had mastery;
To miss the march of this retreating world
Into vain citadels that are not walled.
Then, when much blood had clogged their chariotwheels
I would go up and wash them from sweet wells,
Even with truths that lie too deep for taint.
I would have poured my spirit without stint
But not though wounds; not on the cess of war.
Foreheads of men have bled where no wounds were.
I am the enemy you killed, my friend.
I knew you in this dark; for so you frowned
Yesterday through me as you jabbed and killed.
I parried; but my hands were loath and cold.
Let us sleep now...'

戦場を逃れて、どこか深く暗いトンネルに入り込んで
しまったらしかった。そこは恐るべき戦火のために
穿たれた花崗岩の内部に、以前に出来た所らしかった。
だが、そこにも所狭しとばかり眠っている連中が唸っており、
それが考え事をしているのか死んでいるのか身動ぎ一つしない。
調べていると、その中の一人が飛び起きて、僕を見つめた。
眼に、ああ君か、といった憐憫の色を示しながら、僕を
祝福するかのように、両手を不気味に上げたのだ。
僕はその微笑から、ここが例の恐ろしい広間であることを知った。
その死の微笑から、僕たちが今地獄にいることを知ったのだ。
その亡霊の顔には無数の苦痛のあとが染みこんでいたが、
もうここまでは地上から血も滴り落ちることはなかったし、
砲声も呻き声も、通風管から伝わってはこなかった。
「誰だか知らないが、君、ここでは悔やむことは何もないな」と僕は言った。
「そうだ」と彼は言った、「但し、空しく過ごした、
あのやるせなかった歳月は別だ。君の希望が何であるにせよ、
僕も昔は希望をもっていた。誰も経験したことのない、
強烈な美を死にものぐるいで追い求めていたのだ。
その美は静かな眼差しや、束ねた金髪とは無縁で、
時間の静かな流れを嘲笑するほど烈しいものだった。
悲しみとなって現れると、その凄さはここの凄さよりも激しかった。
何しろ、僕という人間は、陽気になってみんなを笑わせようと思えばそれもできたんだ、
そして、泣き叫ぶと……。だが、叫び残したことがある、
今となっては無駄かもしれぬが。つまり、真実を、
戦争の悲哀を、戦争から滲みでる悲哀を叫びそびれた。
もう世間の連中も、僕らのやった殺戮に満足していると思う、
或いは満足せずに、流血になお狂奔し続けるかもしれない。
その獰猛なこと、まるで雌虎さながらで、
各国民が進歩から道を踏みはずしかけているのに、戦列から離れようともしない。
僕には勇気が、異様な予感が、
そして、知恵が、推移を見る目が――防壁のない城砦へ、
泥沼へと陥ってゆく世界の歩みを拒否する勇気と知恵が、
なくはなかった、だが……。
そのうちに、連中も残虐の限りを尽くし、血に染まるだろうが、
そうなれば、僕はここから地上に出て行き、清らかな泉の水で彼らを洗ってやり、
魂の深いところに秘められ、戦火も汚すことのできない真実で浄めてやるつもりだ。
僕は、――惜しみなく自分の心を注ぎこんでやりたい、
それも傷口や、戦争の汚物の溜り場などに対してではない。
傷を受けていないのに、額から血を流している人々に対してなのだ。
君、僕は君に殺された君の敵兵なんだ。
この暗闇でも、すぐ君だとわかったんだ。ほうら、そんな風に、
昨日僕を銃剣で刺殺した時も、君は渋面を作っていたな。
実は撥ねつけようとしたが、冷えた手がそれを嫌がったんだ。
僕たちも、そろそろ眠ろうじゃないか……」

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多様な雇用形態

2006-06-11 18:21:17 | 非国民通信社社説

 正社員、契約社員、派遣社員、パート、アルバイト、期間従業員・・・ 日本の雇用形態は実に多様です。この多様な雇用形態が世界的に見ても低い日本の失業率を支えています。例え不況でも日本の失業率はフランスの半分程度、内外に向けて経済政策の正しさをアピールする上ではまあ成功しているのではないでしょうか。

 言うまでもなく日本の失業率が低いのは派遣社員やアルバイトなどの非正社員を就業者としてカウントするほか、若年求職者をニートと呼んで失業率計算の分母を減らすなどの努力の結果です。そしてフランスの場合ですが、フランスでは法律上、短時間労働者は存在しても非正社員が存在しない、学生などの片手間のアルバイトはあっても日本のフリーターのようにアルバイト専業という雇用形態が存在しないため、日本のような失業率計算のトリックが使えません。多少のごまかしはあるでしょうが、正社員の数ばかりを分子に失業率を計算せざるを得ないため、どうしても統計上の失業率は日本のそれに比べると大幅に高いものになってしまうのです。

 多様な雇用形態は企業に選択の自由を与えるもので、現に日本は企業に多様な雇用形態を与えることで、企業が派遣社員やパートなどの非正規雇用を利用しやすくなるよう便宜を図ることで企業業績の回復を目指してきました。そしてフランスでも考えることはそんなに変わりません。フランスでは26歳以下の労働者を雇用開始から2年間、自由に解雇できるようにと政府が企業に便宜を図りました。日本であればここから企業の景気回復が始まるわけですが、フランスでは暴動に繋がったのは周知の通りです。

 日本の例を見る限り、雇用形態の多様化は企業に自由を与え、企業の景気を回復させる上で有効なようです。では反対に、企業ではなく労働者の景気を回復させるためにはどうしたらいいのでしょうか? 雇用形態の多様化は推し進められる一方で、生き方の多様化は失われていきます。会社のために生きるか貧困層として蔑まれて生きるか、会社に行って、帰ったら寝るだけの人生を送るか、それとも会社不適合者として一生を低賃金労働者として過ごすか、資産家でもなければ二択に近い状態です。

 私は格闘技が好きなのですが、格闘技の選手名鑑を見ていたら国内選手の副業にフリーターが多くてう~ん、と。後は、公務員も多かったですね。要するに、格闘技の練習に時間を割ける職業というと、正社員ではなくフリーターになってしまう。試合中にヅラが外れそうになって有名になったボクサーの小口雅之氏は、会社には内緒でボクシングをやっていたとか。それがカツラの件で有名になって会社にばれて、クビになったとか。日本の会社は公私混同が特徴の一つ、社員のプライベートにも積極的に干渉してくるものです。

 その他には社会人の野球部もどんどん廃部になっていきますねぇ。プロになれば野球を続けられますが、そうでなければ卒業と同時に野球も卒業しなくてはいけません。ま、少ない休日を利用してレジャーとして野球をやるくらいはできますが、本気で上手くなるために野球やるのであれば、卒業後は絶望的ですな。本気になることが許されるのは仕事に対してのみ、仕事とは何の関係もない趣味に没頭するなど、いつまでも学生気分じゃ困るよ、と。あくまで会社のために生きるのが一人前の社会人というものです。ついでに言えばこれは学問、何らかの研究でも同じことです。一応は私もかつては研究者志望で、当時は毎日8時間くらいは研究活動に当てていました。1日に8時間も勉強してれば大したものと思う人もいるかも知れませんが、これが仕事ならたいしたことはありません。1日に8時間の仕事など、まして好きで選んだ仕事なら楽なものです。で、卒業して、就職してしまうと研究活動も卒業しなければなりません。休日限定で続けることはできますが、週に2日なんてのはお遊びの領域ですよと。

 とりあえず今回、問題にしたいのは日本企業の拘束時間の長さです。日本においてフルタイム、特に男性のフルタイムというのは8時間ではありません。正社員限定で平均すれば12時間は拘束されるでしょう。おかげさまで、会社から帰ったら寝る時間しかない。自分の時間が持ちたければごく一部の恵まれた職を目指すか、非正規雇用で過ごすしかありません。派遣社員やアルバイトなら時間に余裕は持てそうですが、今度は低賃金、不安定な社会保障、将来不安・・・

 しかも、一度でも非正規雇用の期間、失業期間を作って経歴に穴を開けてしまうと、正規雇用には戻れません。いちど会社に背を向けてしまうと、例え気が変わっても会社はあなたを絶対に許しません! もしあなたが夢を追って、卒業後も何かあなたの夢のためにフリーターとして過ごしていたのであれば、あなたはもうまともな会社には就職できません。卒業すれば会社に入って社員として働く、そんな当たり前のことができない人間など雇用できない、と。例え一度でも会社社会に背を向けた人間は危険分子であり、絶対に受け入れられない異端分子なのです。ですからまともな会社に入りたければ夢を捨てて卒業と同時に就職しなければなりません。

 夢を追えない社会、夢を諦めなければならない社会、うんざりしますがそういう社会が支持されています。例えばオランダは格闘技大国でもあるのですが、それはオランダがワークシェアの先進国で、格闘技をやりながらでも働けるからかも知れません。日本でも労働時間を週35時間に限定して正社員でも夜は自由に過ごせるようにしたり、週4日勤務を取り入れて余暇日数を増やしたり、学資を貯めるために腰掛けでも働けるような社会環境を作ればもう少し生き方の自由も広がるのですが、残念ながらそんな見込みはありません。ある程度の自由な時間を確保するためには低賃金低社会保障の非正規雇用しかありません。そして一度非正規雇用の期間を作ってしまえば、二度と引き返すことはできません。

 もちろんワークシェア型の社会は企業にとっては不都合、低賃金労働者に依存している企業にとっては死活問題で、企業側の賛意は得られないでしょう。証券取引法違反は取り締まっても労働基準法違反はほぼ無視している行政サイドにも全く期待は持てません。そして労働者サイドですが、とりあえず労組は基本的にワークシェアには反対のようで。もちろん先週まで取り上げたルサンチマンの働きもあって、より良い社会を築きたくない、自分の荷を軽くしなくていいから、他人にも必ず重荷を背負わせたいという欲望もあるでしょう。後は、全体主義ですね。組織の利益を自分の利益と勘違いしている、させている、組織のために自分を犠牲にするのが当たり前の社会ができあがっています。例え自分たちに利益があるとしても会社に負担をかけるようであればそれを選択しない、労組は労働者ではなく企業を支えます。労使双方に加えて政府も態度が一致するのであれば、日本の会社社会は当分は変わらないでしょうね。

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ルサンチマンvsスーパーマン

2006-06-04 20:34:18 | 非国民通信社社説

 先週はロバの話で終わりましたが、この例をもう少し掘り下げてみてみましょう。荷を担うロバたちはルサンチマンの働きによって荷を担うことを肯定するわけです。荷を担わされているロバは荷を担わされることが正しいことであると考えることで自らを正当化するわけですね。この状況下ではロバが荷を振り落とそうとすることはありませんし、荷を担わそうとする主に牙を剥くこともありません。なぜなら荷を担わされるという状態こそが正しいのであり、それを否定するような動きは正しくない、そうして積極的に荷を担おうとします。主の望むがままに。

 では荷を担うロバたちが最も憎悪する対象は何でしょうか。それは荷を担っていないロバです。ロバたちにとってあるべき正しい状態とは荷を担わされている状態であり、それとは反対の状態、すなわち荷を担っていない状態こそがもっとも許し難い不正な状態なのです。そしてロバたちは自分たちに荷を負わせた主に反抗する代わりに、荷を担うことを拒むロバたちに憎悪のまなざしを向けます。

 今、日本では保守系の政党が過半数を占め、リベラルと呼べる政党は存在せず、大手メディアはいかに自らが保守的であるかを競っています。かつて社会運動は政府や企業が先頭に立って鎮圧しなければならないものでしたが、今や政府や企業が動かずとも国民が社会運動を潰してくれます。メディアが世論を操作しなくとも、国民が先んじて憎悪の炎を燃やすのです。

 フランスでCPE法(26歳未満の若者を2年間自由に解雇できる、企業向けの雇用対策)に対する反対のデモが起こったとき、国内メディアは総出を上げてこのCPE法が若者向けの雇用対策であると現実を歪曲して報道し、CPE法が撤回されるやフランスは古い欧州にしがみついている、国民が暴徒化していると一方的に、そしてしばしば感情的に非難しました。もちろんフランスで起こったことは企業を中心とした景気回復を推し進める日本の方針にも、臣民が国家に奉仕する国家主義を推進したいメディア各社の方針にも反するものでイデオロギー面では絶対に許せなかったのでしょうが、しかしそんなことはするまでもなかったのではないでしょうか。

 労働者の権利が侵害されたとき、日本でフランスのようなデモが起こるでしょうか? その可能性は皆無です。権利が侵害されたとき、怒りの矛先はその侵害から免れているところに行くのがルサンチマン=キリスト教精神=苦痛至上主義の帝国ではないでしょうか。ルサンチマンの影響下にある限り、ロバが荷を担うことを拒むことはありません。どんなに重荷を背負わされようとも、主を恨まず、荷を担うことを正しいと信じ、憎悪は荷を担わぬ他のロバに向かいます。失業者、失業者の中でも若年層でニートと呼ばれ特に蔑まれている人々、時間労働者など、企業に心身を捧げ尽くしていない人々がこの社会でどれだけ憎悪され、蔑まれているのかをおそらくメディアは理解していないのでしょう。日本で労働者の権利が侵害されたとき、その怒りは決して企業には向かわず、企業に隷属していない階層へ向かいます。メディアが誘導するまでもないのです。

 現在主流となっているストを押さえ込む方法は、世論を操作してストへの社会的な反感を高めることです。CPE法の際に日本のメディアが一致団結して採った手段もそうです。ただ日本国内においてはもはやメディアが出てくる必要すらありません。ストへの反感は十分に育っているのです。現に日本において、企業支配に対抗するような社会運動で一定規模の世論の支持を受けているものなど何一つ存在しません。社会を良くしようという意志がないのでしょうか? そうではなく、社会が良くなってその恩恵を享受することが許せないのです。ロバにとって最も許し難いのは荷が増えることではなく、他のロバが荷を担わないこと、他のロバの荷が軽くなることです。だから時代の変遷とともに暮らし向きが良くなったりすると、「我々の世代では~だったのに、今の世代は~だ、けしからん!」とばかりに怨嗟の声が聞こえてきます。望んでいたのは荷が軽くなることではなかった、そうではなく、他のロバたちが同様に重荷を担わされることを望んでいたのです。たとえ自分の荷が軽くなろうとも、他のロバの荷が軽くなるなど絶対に許せないのです。

 ルサンチマンに駆られ価値観が倒錯した人々が望むのはより悪い社会の輪廻でしかありません。そればかりかより良い社会を敵視します。それゆえにもし企業支配や国家主義に立ち向かい、リベラルな社会を目指すのであれば、その前に立ちふさがるのは企業や政府だけではなく、奴隷の道徳であるルサンチマンに駆られたロバたちなのです。彼らをつなぎ止める鎖を断ち切ろうとしたとき、それに敵対するのは誰でしょうか。もし自分の背に負わされた荷を振り落として走り出そうとするのであれば、荷を担わそうとする主だけではなく周囲の荷を担うロバたちと戦わねばなりません。我々が戦わなければならない相手は我々を隷属させようとする企業や政府だけではないのです。

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