非国民通信

ノーモア・コイズミ

「評価高い系」と囚人のジレンマ

2018-05-27 21:59:40 | 雇用・経済

 いわゆる「主人のジレンマ」は有名な話ですので今更ともなりますが、モデルケースとして囚人2名が自白を迫られているわけです。

・両方の囚人が共に黙秘を貫けば、証拠不十分なため2名とも懲役1年
・両方の囚人が共に自白すれば、2名とも懲役5年
・片方の囚人が自白して片方の囚人が黙秘した場合、
 自白した囚人は司法取引により釈放、黙秘した囚人は罪を一身に負わされ懲役10年

 ……と。

 この辺はゲーム理論云々とも呼ばれて広く知られるところでもあり、双方の利益のためには共に黙秘した方が良い、ただし個人として最大の利益を得るためには自白した方が良い、しかし両者が揃って自白してしまうと共に黙秘した場合よりも悪い結果に繋がる、そうしたシチュエーションが想定されているのですね。

 囚人のジレンマは色々と応用されるものですが、では会社組織に当てはめて考えてみましょう。「社員が共に協力して仕事をこなせば業績向上」「社員がお互いに足を引っ張り合えば業績低迷」、これは自然な流れです。では「片方の社員が協力して片方の社員が足を引っ張れば」? このパターンは「囚人のジレンマ」で言えば2人合計で懲役10年と、両者が自白した場合と同じですから、お互いに足を引っ張り合った場合と同様に業績低迷であろうとは言えます。しかし個人が得るものは?

 先週は「年功序列ならば有能も無能も等しく出世するが、能力主義は無能を選りすぐって昇進させる」みたいなことを書きました。この辺も、囚人のジレンマのモデルが綺麗に当てはまるような気がします。まぁ営業のように明白な数値が出る職種であればいざ知らず(とはいえ名選手が名監督になるとは限らないように、売れる営業マンが良き管理職になるかと言えば完全にバクチですが)、そうでない部門の人事評価ともなると色々と怪しいものですから。

 社員が共に協力して仕事をこなせば――業績は向上するかも知れませんけれど、これだと社員間の評価には差が付きにくいわけです。同様に社員がお互いに足を引っ張り合えば――業績悪化が予測されますけれど、これもまた社員間の評価には差が付きにくいと言えます。しかるに片方の社員が協力して片方の社員が足を引っ張った場合を想定してみましょう。果たして高い評価を得るのはどちらなのか?

 他人の足を引っ張る同僚と仕事をしていれば、当然ながら自身のパフォーマンスにも悪影響は及びます。逆に協力的な同僚と仕事をしているのなら、自身のパフォーマンスには好ましい影響が期待できます。そこで「足を引っ張る同僚と仕事をしている協力的な従業員」と、「協力的な同僚と仕事をしている足を引っ張る従業員」がいた場合に、個人として高いパフォーマンスを発揮できるのはどちらになるでしょうか?

 もしここで「同僚に足を引っ張られている人」の評価が低くなり、「同僚の協力を得ている人」の評価が高くなるようであれば、昇進するのは即ち「他人の足を引っ張る社員」の方です。囚人のジレンマにおいて自白した囚人が黙秘した囚人よりも相対的に利益を得るように、会社組織においては足を引っ張る社員が協力した社員よりも高い評価を得がちではないでしょうか。かくして他人の足を引っ張る行動特性が称揚され、社員が互いに足を引っ張り合う組織が作り上げられる、そんな会社を何度となく目にしてきました。まぁ人事権を持つ人は、目の付け所が違いますからね……

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日本の会社で評価される能力とは

2018-05-20 23:33:41 | 雇用・経済

 よく紋切り型の経済言論では「(日本企業は)年功序列だからダメ」と語られます。この空疎な批判ごっこは少なくとも四半世紀ほど続けられているように思いますが、果たして年功序列が実在している会社は現存するのでしょうか? 往々にして経済誌の類では架空の設定に基づいた日本的経営批判が展開されますけれど、現実世界に向き合うには、もっと別の視点が必要なはずです。

 まぁ、会社に長く勤めているだけの男性正社員が昇進しているケースも、一昔前まではあったのかも知れません。そんな「年を取っているだけ」の管理職が有能か無能かと言えば、玉石混淆と言ったところでしょうか。能力よりも勤続年数を条件に人を昇進させれば、有能も無能も出世するわけです。では、年功序列批判が常態化してン十年の現代において昇進している人は?

 現代は「年下の上司」なんて珍しくありませんし、とりわけブラック企業であれば入社して日の浅い20代の若者が課長、部長と大層な肩書きを持っているのも普通です。もうちょっとマトモな企業でも、同年代の同僚を差し置いて一足飛びに昇進を重ねていく人は、どこの組織でも見られることでしょう。年功序列批判に塗り固められた日本では成果主義、能力主義で年齢問わず若い人でも昇進していくわけです。

 ところが、この「若くして出世する人」が有能かと言えばさにあらず、玉石混淆の年功序列世代とは裏腹に、驚くばかりの無能揃いだったりはしないでしょうか。よくもまぁ、こんな粒選りの馬鹿を揃えたものだと逆に感心させられるのが能力主義時代の管理職達で、ある意味では確かに「選別」されたのだとは理解できますが――日本経済が発展しなくなった要因はこの辺にあるんじゃないかと、そう思えないでもありません。

 

日本とヨーロッパの違い。中島翔哉のブレイクも不思議ではない【林舞輝インタビュー/第1回】(GOAL.com)

よく日本人の選手は、言われたことしかできないとか、自分で考えないとか言いますが、実はこれ長所でもあるんです。こちらで長くプレーしていて評価されている日本人の選手って、言われたことをすごくきっちりやる選手なんですよね。例えば長谷部誠選手(フランクフルト)や岡崎慎司選手(レスター)。

長谷部選手って、やれって言われたことを、どのポジションでもすごいクオリティでやるじゃないですか。今リベロやってるし、ボランチもサイドバックもやっていた。「今このチームに必要だから、これをやれ」と言われた時に、言われたことをきちっとやるのが、一番評価されているところ。逆にそれができない日本人選手は、どんなに才能があっても長くできないし、使ってもらえない。

言われたことしかできないけど、言われたことをきちっとやるのもすごく大事なサッカーの要素で、その部分で今評価されているのが日本人です。「言われたことしかできない」っていうのは一概に悪いことだと思いません。だから、別にヨーロッパがいいとか、全部見習えとか言う気は、全然ないんです。

 

 こちらはポルトガルでサッカーのコーチをしている日本人へのインタビュー記事ですが、「言われたことしかできない」「自分で考えない」云々は、サッカーに限らず日本の労働者に対する紋切り型の評価として定着しています。もっとも、この種の自画像は往々にして実態とは真逆を指すもので、むしろ「言われたことしかできないのはダメだ」「自分で考えないのはダメだ」という日本人の狂気じみた固定観念をこそ表すものだと考えるべきでしょう。

 一方、「言われたことをきちっとやるのもすごく大事なサッカーの要素」であり、海外のチームで高く評価されているのも、それが出来る選手だと伝えられています。この辺は、至極もっともな話ですね。翻って日本の職場ではどうでしょうか。「言われたことをきちっとやる」人が正当な評価を得ているかどうか、そこが重要な点ではないかと思います。

 大体において「言われたことをきちっとやる」だけなら非正規でも十分と軽んじられ、「言われもしないことをやる」人を重用しているのが日本の会社の当たり前であるように感じています。だから私の勤め先でも、「若くして出世する人」は軒並み「言われたことが出来ない」人だったりします。そして言われたことを言われたとおりにやらない代わりに、言われもしないことを勝手にやる、余計なことをやって事態を混乱させる、こうした人たちが「主体性がある」「自分で考えて行動している」と評価され、昇進を重ねているわけです。

 先人の知恵に「船頭多くして船山に登る」との言葉があります。日本の会社の偉い人が意識すべきは、コンサルの戯れ言よりもこの言葉でしょうね。人材を大事にしているつもり、社員の教育に力を入れているつもりで、結局は「船頭多くして船山に登る」ような状況を主体的に作り出している職場も多いように思います。正社員は全員が船頭候補、漕ぎ手は非正規で十分――そうやって船を山に登らせようとしているのです。

 サッカーで考えるなら、ピッチに司令塔は一人で十分です。場合によっては複数の司令塔が共存することもあるかも知れませんが、大体において司令塔が複数いれば混乱を招くだけです。そして司令塔が一人であっても、その司令塔が無能であればやはり混乱しか生まれません。ならば命じられた戦術的役割を「言われた通りにきちっとやる」方が結果は好ましいものが得られるでしょう。

 チームあるいは組織において司令塔が務まるほどの有能は、そうそう見つかるものではありません。「普通の」給与水準の会社であれば尚更のこと、特別な才能の持ち主などいるはずもなく、「平凡な」人を使ってなんとかやっていくしかないわけです。そんな「平凡な」人の集団から、単に意識が高いだけで能力の低い人を「主体性がある」「自分で考えて行動している」と評価して昇進させ部署の指揮を執らせようものなら、待っているのは混沌だけです。

 しかるに多くの日本の職場では、問題意識が不変である、相も変わらぬ年功序列批判と「言われたことしかできないのはダメ」という信仰に凝り固まって現実に対処できていないと言わざる得ません。結果が出ていれば、その方法論は正しい、日本経済が世界を牽引しているのなら日本における経済言論の指摘も正しいと考えられますが――実際は真逆なのですから。

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平成よ永遠なれ

2018-05-13 22:51:17 | 編集雑記

改元後も「平成」利用へ 納税や年金システム、混乱回避(朝日新聞)

 税金や社会保障などに関わる行政システムの一部について、政府は新しい元号となる来年5月1日以降も「平成」の元号を一定期間使い続ける検討に入った。行政機関と民間の金融機関など複数がネットワークでつながっているシステムが対象で、納税や年金支給などで混乱を避ける狙い。こうしたシステムを利用する場合には、改元後も「平成」を使う必要がある。

 

 来年は元号が変わることになっています。官民問わず合理化をネガティブに受け止めがちな我が国においては、公文書を中心に西暦ではなく元号を使う風習が根強いところ、その元号が変わるともなれば混乱は不可避です。しかるに次の元号については直前まで公開されることはないようで、カレンダー業界ならずとも色々と苦労させられる人は多いと予想されます。

 次の元号がまだ決まっていないのなら、適当に案でも出してみましょうか。私の一押しは

 「平成三十……ですね。

 どうにも元号は漢字2文字という固定観念が根強いわけですが、奈良時代には「天平感宝」「神護景雲」など4文字の元号が普通に使われていました。この時代には女性が天皇に即位するなんてこともありましたので、ある種の人々にとっては黒歴史なのかも知れません。しかし、それもまた紛れもない日本の歴史の一部です。

 あるいは2006年に安倍総理大臣が「今年の一文字」を問われて「変化」「責任」と答えた故事もあります。首相の権力を持ってすれば従来は漢字2文字で表していた言葉でも「一文字」とすることが出来るようです。ならば従来であれば漢字4文字に該当する「平成三十」も、安倍総理大臣の力で2文字と見なすことだって不可能ではないでしょう。

 ともあれ新元号を「平成三十」とすることで、従来の元号との断絶による混乱を最小化することができます。2018年は平成三十年、2019年は平成三十一年にして平成三十元年ですが、その次は平成三十二年、2021年は平成三十三年、2022年は平成三十四年です。元号が切り替われば「今年は(和暦で)年々だっけ?」と迷いがちですけれど、新元号が「平成三十」ならば今までの延長線上のままで10年間は大丈夫です。その間に次期元号「平成四十」に向けて議論進めていけば良いでしょう。

 ついでに平成天皇の引退スピーチも考えておきました。宮内庁の方は遠慮なく参考にしてください。

 

平成元年、栄光の日本国天皇に即位以来、今日まで30年間、日本国ならびに明仁のために絶大なるご支援をいただきまして、誠にありがとうございました。

皆さまから頂戴いたしましたご支援、熱烈なる応援をいただきまして、今日まで私なりの天皇生活を続けてまいりました。今ここに自らの体力の限界を知るにいたり、生前退位を決意いたしました。

振り返りますれば、30年間にわたる天皇生活いろいろなことがございました。
その時代を一つ一つ思い起こしますときに、好況時は皆さまの激しい大きな拍手を、この第125代を、さらに闘志をかきたててくれ、また不況のとき皆さまのあたたかいご声援の数々の一つに支えられまして、今日まで支えられてきました。
不運にも我が大日本帝国は八紘一宇を目指し陸海軍以下、一億火の玉となり、死力をつくして最後の最後までベストを尽くし戦いましたが、力ここに及ばず大東亜共栄圏の夢は破れ去りました。(←失礼、この行は昭和用でした)

私は今日、退位いたしますが、我が平成は永久に不滅です。

今後微力ではありますが、平成の新しい歴史の発展のために、栄光ある平成が明日の勝利のために、今日まで皆さま方からいただいたご支援ご声援を糧としまして、更に前進していく覚悟でございます。長い間皆さん、本当にありがとうございました。

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財政の引き締めばかりが好まれますが、財務省の引き締めの方はいかがでしょう

2018-05-06 22:59:54 | 政治

減給理由は「役所に迷惑」麻生太郎財務相 「セクハラ罪という罪はない」(産経新聞)

 麻生太郎財務相は4日、女性記者へのセクハラを報じられ財務事務次官を辞任した福田淳一氏について「役所に迷惑を掛けたとか品位を傷つけたとかいろんな表現があるが、(そういう理由で)処分した」と述べた。マニラでの記者会見で語った。

 セクハラ行為を認定した上で減給とした財務省の対応とは食い違う説明になる。麻生氏は「『セクハラ罪』という罪はない。殺人とか強制わいせつとは違う」とも発言した。

 その上で、福田氏がセクハラを否定していることを踏まえ「(福田氏の)人権を考えないといけない。言い分を聞かないと公平を欠く」と、これまでの主張を繰り返した。

 

 産経新聞なら独自に政府関係者を擁護する記事に仕立て上げることを読者から期待されているように思うのですが、この件は流石に無理があるのでしょうか、共同配信記事がそのまま掲載されています。曰く「セクハラ罪という罪はない」のだとか。まぁ、そういう罪状は現存しないのかも知れませんね。法律の隙間を狙った「節税」行為や危険ドラッグの売買が何ら問題のない行為であると考えられるのなら、麻生の言うことにも一理あります。

 「(福田氏の)~言い分を聞かないと公平を欠く」と、これまでの主張を繰り返したとも伝えられるところですが、問題が政局になってから結構な日数が経っているのは周知のことです。にもかかわらず、言い分とやらは聞けていないのでしょうか。今なお「言い分を聞かないと公平を欠く」と言い続けて判断を保留にしようとするのなら、疑われるのは福田氏を通り越して財務省トップの怠業の方になりそうなものです。

 ともあれ麻生大臣の語るところでは、セクハラ案件については事実関係を把握できていないことになります。しかし「役所に迷惑を掛けたとか品位を傷つけたとか~(そういう理由で)処分した」わけです。要するに財務省トップとして、しかるべく調査できていないけれど、野党やメディアがアレコレうるさいのでトカゲのしっぽ切りを計った、と言うことになるでしょうか。やはり仕事ぶりが疑われるところです。

 「説明の付かないカネ」の問題で失脚した政治家は枚挙にいとまがありませんが、そうした人々が法律に触れる行為をしていたかと言えば、大半は違います。小沢一郎なんて強制起訴まで行きましたけれど、法律的には無罪でした。では受け取った金が「シロ」かと言えば、ほとんどの有権者にとっては限りなく黒に近いグレーでした。政治の中枢にいられるかどうかは、刑事罰の基準とは違います。刑法に触れなければ「シャバ」にはいられますが、政治の舞台は事情が異なるのです。

 財務省でも末端のヒラ職員であれば事情は変わってくるところもあるのでしょうけれど、事務次官ともなれば国政への影響力も小さくありません。ましてや選挙によってふるい落とされるものでもないとなれば、誰かが厳しい目を向ける必要があります。果たして財務省のトップは身内を甘やかしたいのか、それとも引き締めを計りたいのか、どちらなのでしょうね。

 前々から書いてきたことですが、安倍内閣は「緩い」内閣です。強面の派閥のボスが党内に絶えず目を光らせ、野党に攻撃材料をプレゼントする愚か者は即座に切り捨てるような、そんな強権的な組織とは対極にあります。安倍は麻生をトカゲのしっぽには出来ないだろうとも書きましたが、今回のような発言が続いてもその辺は変わらないのだろうな、と。だからこそ、似たような放言、妄言も続くわけです。

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