非国民通信

ノーモア・コイズミ

国際労働機関が日本を査察

2007-05-31 23:22:08 | ニュース

ILOなど日本に調査団 「指導力不足」教員の認定めぐり(朝日新聞)

 日本の教員の地位は国際的に見て保護されていると言えるのかどうかを確かめるため、国際労働機関(ILO)とユネスコの合同専門家委員会(CEART)が年内にも日本に調査団を送ることがわかった。CEARTは03年、指導力不足教員の認定と教員評価制度について、「教員の反論の機会が十分でない」として、教職員団体と文部科学省が対話するよう勧告したが、政府は「国内の事情を理解していない」と受け入れを留保してきた。

 教員評価はこれまで各地の教育委員会ごとに実施してきたが、その後、指導力不足教員の扱いを盛り込んだ教育公務員特例法の改正案が今国会で成立する見通しになった。勧告に法的拘束力はないが、現地調査に基づき改めて見解を出した場合、安倍首相が提唱する「ダメ教師の排除」の仕組みづくりにも影響を与える可能性がある。

 ついに日本も国際機関の査察を受けるまでになりました。色々な面で感慨深いものがあります。日本のごく一部では歓迎されている安倍内閣の「教育再生」ですが、国際社会の目から見れば随分と危ういものに映るのでしょう。

 まぁ、私の個人的な経験からすればダメ教師には事欠かない、まともに勉強を教える能力を持たない教師が多いと断言できるのですが、そうは言ってもダメなのは教師だけではないわけです。思い起こせばあのときの教師に負けず劣らずダメな上司、ダメな同僚、ダメな自分、ダメな役所の担当者、ダメな歯医者にダメな政治家、盛りだくさんです。教師に変な期待を込めるならいざ知らず、数多の職業のうちの一つだと思えば、別に教職員にだけ例外的に問題のある人、ダメな人が多いとは感じません。

 そもそも、この「ダメ教師」がどういう基準で選定されているのか、その辺の不透明性にも問題はありますし、ILOが指摘したように「教員の反論の機会が十分でない」、すなわち教育委員会が上から一方的に裁定を下すシステムでもあるわけです。基準は曖昧、決めるのは教育委員会、反論は認められない、こんな遣り口で「ダメ教師」のレッテルを貼り付けて排除する行為は、とうてい先進国にふさわしいものとは言えませんね。

 一方で政府は「国内の事情を理解していない」と査察の受け入れを留保してきたそうですが、つまり日本には国際的な基準適用の例外となる合理的な事情があると考えているでしょうか? その国の独自性を協調することで国際的なルールを無視しようとする国はいくつも思いつきますが、日本も仲間入りしたいようです。国際機関からの査察、批判、勧告を受けながらも、他国の人間にはとうてい納得できない(多くの場合、当事国の人間にも納得しがたい)「国内事情」を言い訳に人権弾圧を続ける国や、核開発を進める国が後を絶たないわけですが、そこに日本が肩を並べる日もそう遠くはないのかもしれません。

 

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格差は広がるが、改革は無し

2007-05-30 23:29:40 | ニュース

正規・非正規の給料格差「さらに広がる」74%…読売調査(読売新聞)

 読売新聞社が19、20の両日に実施した「勤労観」に関する全国世論調査(面接方式)で、企業の正社員など正規社員と、パートや派遣社員など非正規社員との給料の格差が今後、さらに広がると考えている人は、「どちらかといえば」を合わせて74%に上った。

 「そうは思わない」は計20%だった。

 非正規社員に限ると、「そう思う」は計82%に達した。

 景気は回復しているものの、必ずしも国民全体がそれを実感できず、正規社員か否かで、格差は今後も広がると見ている人が多かった。

 正社員と同じ仕事をしている非正規社員には同額の給料を支払う「同一労働・同一賃金」を実施すべきかについては、「そう思う」が計74%に上った。「そうは思わない」は計23%だった。パートや派遣社員、契約社員など正規社員以外に雇用形態が多様化していることについて、「望ましくない」は計50%で、「望ましい」計44%を上回った。

 将来的なより一層の給与格差の拡大を予想する人が74%に到達したようです。前回調査など比較対象になるデータも欲しいところですが、ともあれ4人に3人は格差が今後も拡大すると考えているわけで、相変わらず希望の見えない社会情勢が続いていると言えます。技巧を尽くして格差の拡大を否定する御用学者もいるわけですが、仮に彼らの主張が正しかったとしても、国民が将来を悲観する状況であることまでは否定できないでしょう。

 実のところ私は、正社員から派遣社員になって給与が増えたり、派遣社員から正社員になって給与が下がったりと、そういう経験もしてきました。正規雇用と非正規雇用の格差も問題ですが、実は正規雇用同士でも格差は広がっており、適正な給与が支払われない低賃金の職場もあるわけです。正規雇用と非正規雇用の格差が協調されることで浮き彫りにされる問題がある反面、逆に正規雇用が目的化、美化されてきたところもあるのではないでしょうか。正規雇用でありさえすればいい、というものではなく、正規雇用の「質」も問われなければならないはずです。もっとも、現状はそこに至る以前の問題でして・・・

 さて引用記事後半は「同一労働・同一賃金」の問題です。「同一労働・同一賃金」を実施すべきだと考える人が74%を占めました。そこでブログ検索をしてみましたところ、この「同一労働・同一賃金」に反対する意見の方がやや多い印象でした。今回のアンケート結果に共感した人よりも反発を感じた人の意見の方が活発なようです。

 割と多いのが「実は同一労働ではない」とする主張でした。正社員の仕事には責任が伴う云々などの理由で、正社員と非正社員の仕事は同一ではない、ゆえに同一賃金にすべきではない、と。ただこの考え方は様々な差別の論理と同じもので、順序が逆になっている、すなわち何らかの理由があって処遇に差があるのではなく、先の処遇の差があって、それに後付で理由が考え出されているのではないでしょうか。

 つまりウォーラーステインの言うイデオロギーとしてのレイシズム「普通ある集団が特定の経済活動に関して他の集団より「優れている」という信念が成立するのは、その集団の労働力としての位置づけが決まってしまった後のことであって、それ以前のことではなかった」、この考え方です。正社員の仕事が「優れている」という判断があって、それによって位置づけが決まったのではなく、まず正社員と非正社員の格差という位置づけが決まってから、それを正当化するために「優れている」という信念が成立した可能性も考慮されるべきでしょう。

 そしてアンケートの最後に、雇用形態の多様化を望ましいと思うか否かが問われました。「望ましくない」との回答が50%と、僅差で「望ましい」を上回ったわけですが、この項目だけ僅差になったのはなぜでしょうか? 正規雇用・非正規雇用の分別による給与格差の拡大を感じ、「同一労働・同一賃金」が求められている人々が多数を占める割に、その制度上の源泉である雇用形態の多様化には評価が分かれるようです。

 この項目に関しては正社員・非正社員別のアンケート結果を公表して欲しかったところですが、推測するに非正社員の方がこの「雇用形態の多様化」に表だって反対できない人が多いのではないかという気もします。労働規制を過去の水準に戻し、非正規雇用に制限をかけ直した場合、現在の規制なき非正規雇用の枠の中で働いている人は、自分が失業してしまうような気がするのではないでしょうか。

 たしかに正規雇用を原則化し、非正規雇用は一部の例外的な職種に限定し直した場合、多くの非正規社員が一時的に居場所を失うかもしれません。しかし「痛みを伴う構造改革」を断行するつもりがあるのなら、その一時的な失職のリスクを冒してでも雇用の正規化を推し進めるべきでしょう。しかるに昨今の自民党政権には全くその気がない様子、一時的なリスクを語るばかりで抜本的な構造の見直しに着手する様子はありません。そうする間にも労働規制はジワジワと緩和され、労働者全体の待遇も着実に後退を続けています。

 

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構造改革は何を可能にしたのか

2007-05-29 23:16:25 | ニュース

タクシー値上げ、運転手と消費者にしわ寄せも=大田担当相(ロイター)

 大田弘子経済財政担当相は29日、閣議後の記者会見で、東京地区タクシー運賃値上げ問題について、業界の構造改革をしないままで値上げすると運転手と消費者にしわ寄せがいく懸念があるとして、あらためて疑問を呈した。

 大田担当相はタクシー業界について「しっかりサービスをしない業者が(市場から)退出しなくてもすむ構造があるのではないか」と指摘。その上で「消費者の需要に応じて努力する事業者が伸び、そうでない業者が退出を余儀なくされるという構造を作っていかないと、運賃を上げても運転手と消費者にしわ寄せがいく形でまた同じ悪循環が繰り返されるのではないか」と懸念を示した。

 構造改革の成果が最も端的に表れているのが、このタクシー業界でしょうか。構造改革なるもののお陰で業界の競争は激化、タクシー運賃はちょっとだけ下がりました。消費者としては高いよりは安い方が好ましいには違いないのですが、それほど劇的に安くなったわけでもありませんので、消費者として構造改革の恩恵を受けたと、そう強く意識できるほどのものでもありません。一方、タクシー運転手の労働環境が壊滅的に悪化しているのは言うまでもないわけでして、取るに足らない恩恵のために随分と大きな犠牲を払っているような気がします。一面的に消費者の側からのみ世界を見ているなら別ですが・・・

 今回の記事における最初のツッコミどころは「業界の構造改革をしないままで値上げすると~」というくだりです。この大田担当相の発言から察するに、どうやら構造改革はまだだったようです。じゃぁ、今までは何だったのでしょうか? 今までの路線とは違った、新手の「構造改革」が用意されているのでしょうか? だったらそのビジョンを示していただきたいところです。

 「値上げすると運転手と消費者にしわ寄せがいく」というのも、使い古された誤魔化しです。おそらくは、タクシー運賃を値上げするとタクシー利用者が減って、利用者が減ることでタクシー業界から仕事が減る、運転手にもマイナスになると、そう繋げたいのでしょう。そうして一層の労働条件悪化か失業か、この2択を迫る、他の業種でも国際競争云々を口実によく使われてきた手口です。

 とは言え、値段で公共交通機関を選ぶ人はほとんどいないのではないでしょうか。安いから、高いから、そういう理由でタクシー利用を決める人は滅多にいません。必要があるから乗るのです。たとえば電車賃が値上がりしても、通勤に必要である以上は利用を続けるしかないわけで、値上げによって電車が敬遠されて電鉄会社の経営が悪化したりはしない、そういうものです。ですからタクシー運賃を値上げしても、必要な人は乗りますし、逆に必要がない人は値下げしても乗らない、安いタクシーと高いタクシーが横に並んでいればともかく、一斉値上げであれば利用状況に大きな変化はないでしょう。

 そして大田担当相は「しっかりサービスをしない業者が(市場から)退出しなくてもすむ構造があるのではないか」と語ります。この口ぶりからすると、大田担当相は疑惑を抱いているだけでその構造が見えているわけではなさそうです。ただの思いこみや疑念によって、タクシー運賃の値上げを規制するつもりなのでしょうかね?

 ここで大田担当相が口にした「構造」は実在するのでしょうか? 実在するとしたら、その正体は何でしょうか? この「構造」を形成する要素の一つは、構造改革という規制緩和によって労働条件の「飛躍的な」切り下げが可能になったことです。最低賃金を実質的に大きく下回る、本来であれば違法な労働環境を黙認することで、人件費コストの大幅な削減を実現させる、このコスト削減によって、まともな収益を上げられない業者が退出しなくても済む構造が作られたのだと私は考えます。儲からなくても払わなくても済む、だから問題のある業者も生き延びられるのです。

 「消費者の需要に応じて努力する事業者が伸び、そうでない業者が退出を余儀なくされるという構造を作っていかないと」と、大田担当相は語りますが、それを阻んでいるのが他ならぬ構造改革です。大田担当相の言う「構造改革」が小泉・竹中の路線を引き継ぐものであるならば、「しっかりサービスをしない業者が(市場から)退出しなくてもすむ構造」は変えられない、永遠に痛みを与え続ける悪循環が形を変えながら続いていくことでしょう。

 

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従うだけが忠義ではござらぬ

2007-05-28 22:59:45 | 文芸欄


576 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2007/03/28(水) 22:57:37 ID:d2jOfRgr0
盲導犬の訓練で「渡ってはいけない状況」で主人が「GO」指令を出すのがある。

言う事を聞いて渡りだすと怒られる。

混乱するワンコ、「どうして!?ぼくはご主人の言う事聞いてたのに!?」

繰り返される「渡ってはいけないGO」

やがてワンコは気付く

「ただ主の望むがままに従うだけが忠義ではござらぬ。
 刃向かってこそ示せる忠義もござ候」

577 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2007/03/28(水) 23:00:25 ID:NsWn2YrX0
>>576
何故そこで侍になるw

 

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週休2日制を廃止?

2007-05-27 22:38:22 | ニュース

学校週5日制を事実上廃止 教育再生2次報告最終案(共同通信)

 政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)が6月初旬に安倍晋三首相に提出する第2次報告の最終案全容が26日、判明した。「ゆとり教育」見直しの具体策として、土曜日の授業を実施可能とすることで公立小中高校の「学校週5日制」の事実上の廃止を提唱。大学間の国際競争激化や少子化を踏まえ、国立大の大胆な再編統合や、入学定員減など、国立大改革案も盛り込んだ。28日の合同分科会で詰めの調整を行う。

 週5日制が廃止の方向だそうです。逆に言えば週休2日が廃止。どうしたものですかねぇ。

 とりあえずこれは、小中学校の話。とっくに小中学校は卒業して、子供がいるわけでもない私には一見すると関係のない話です。

 ・・・と、そうは言ってみたものの、今の自分の置かれた環境が小中学校に随分と似ているような気もします。あの頃と同様、私は名札を付けて、毎朝の朝礼、毎日同じ服を着て、建物の中に籠もっては机に向かっているわけです。私が初めて会社に入ったときは、自分が中学校に逆戻りしたかのような錯覚を覚えたくらいでして、そう思うと中学校で週休2日制が廃止なら、中学校と似たような組織でも週休2日制が廃止、「ゆとり」の見直しが起こっても不思議ではないような気がしてきます。

 数日前にも書いたばかりですが、日本で嫌われているのは「非効率」ではなく「ゆとり」なのでしょう。効率を追求するのではなく、無駄なく使い切ること、すなわち「ゆとり」をなくすことを追い求めているように見えます。生徒や社員に休みを与えることに「あぁ、もったいない」そういう感情が働いて、その「ゆとり」の中に受け容れがたい無駄を見いだすのかもしれません。

 そもそもどうして「ゆとり教育」を見直さねばならないことになったのでしょうか? その理由としては学力低下が挙げられます。そうですね、学力低下は好ましいことではありませんし、仮に現状を維持できていたとしても、もっと上を目指すための改革案があってもよさそうなくらいです。では学力低下を克服するためにどうすべきなのでしょうか?

 ラディカルな改革案としては、学校そのものを廃止する。週に5~6日もだらだら学校に通っていたところで、そこで行われる教育の中身が薄いものである限り、いくら時間をかけても無駄です。学校を止めて塾に通いましょう。週に3~4日、夕方の3時間程度を集中して勉強するだけで、学校に通うよりも遙かに高度な学力を身につけられることは既に実証済みです。競争社会云々を語るのであれば、より教育能力の高い組織へと役割を移行させていくのは当たり前の考えです。

 そもそも学校には余計なことが多すぎるわけです。日本の学校は、勉強をするところ、としての機能が弱すぎます。体育や道徳、学校行事や各種式典、ホームルームや給食など、勉強とは関係のないことばかりに時間が費やされていきます。この辺の無駄を省いて、純粋に勉強をする場所である塾に近づけていくことが学力向上の早道ではないでしょうか。

 逆に穏健な方法としては、教員数の増加が挙げられます。教員一人当たりが受け持つ生徒数を減らして、生徒一人一人に目が行き届くようにする、きめ細かい指導が出来るようにすることです。これは教員数を増やすためのコストが必要になってくるやり方ですが、ちょうど良いことに少子化が進んでいる、教員数を維持しながら少子化の進行を迎えれば、相対的な教員の数が増えるわけで、それによって教育の質のある程度の向上は期待できるでしょう。

 しかるに、教育再生会議が選択したのは週5日制の廃止でした。「ゆとり」がいけないのだと。ではこの「ゆとり」を減らせば学力は向上するのでしょうか? 私的な経験を元に言わせていただけば、余暇の減少が学力の向上に結びつくことは考えられません。週6日にすることで学校にいる時間を増やす、すなわち週休1日で学校にいない時間を減らすことが、ストレートに学力向上に結びつくでしょうか? あるいは、それだけが唯一の方法なのでしょうか?

 たしかに、学校にいない日が週に2日ある、週に2日、生徒に勉強を教えていない日がある、全力を尽くしていない、余力を残しているように見えるのかもしれません。もったいない、この余力を使い切れば、もっとよい結果を残せるのではないか、そう考える人もいるでしょう。ですが小中学生だって勉強が全てではありませんし、大人だって会社が全てではありません。誰しもそれぞれの人生があるわけで、自由な時間が必要なのです。そしてこの自由な時間をどれだけ与えられるか、それも社会の豊かさを示す一つの尺度ではないでしょうか。この自由な時間を無駄と切り捨てて使い尽くすことを考えるのではなく、組織によって拘束される時間(学校の時間、会社の時間)をいかに効率化するか、効率化して短いものにする、それによって余暇を与える、個人の裁量で動ける時間をいかに増やすかを考えて欲しいものです。

 

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被害を受けるのは日本国民

2007-05-26 22:49:00 | ニュース

「クラスター爆弾は防衛に必要」 空幕長が明言(朝日新聞)

 クラスター爆弾について、防衛省の田母神俊雄(たもがみ・としお)空幕長は25日の定例会見で、「日本は島国で海岸線が長く、クラスター爆弾は防御に有効」と述べ、防衛手段として必要だという考えを示した。

 クラスター爆弾は親爆弾の中に多数の子爆弾を含んでおり、不発の子爆弾が地元の市民に被害を及ぼすと指摘されている。自衛隊では現在、航空自衛隊と陸上自衛隊が保有している。

 日本では、クラスター爆弾を上陸してくる敵を海岸線で防ぐために使うことが想定されている。田母神空幕長は「クラスター爆弾で被害を受けるのは日本国民。国民が爆弾で被害を受けるか、敵国に日本が占領されるか、どちらかを考えた時、防衛手段を持っておくべきだ」と述べた。

 クラスター爆弾で被害を受けるのは日本国民なんだそうです。だったら日本国民としてクラスター爆弾に反対した方がよさそうな気がするのですが、いかがなものでしょうか?

 まず第一にこの田母神空幕長の汚いところは、初めから選択肢を搾っているところです。「国民が爆弾で被害を受けるか、敵国に日本が占領されるか」この2つしか選択肢を与えないのは酷い話です。「ウンコ味のカレーを食べるか、カレー味のウンコを食べるか」国民にそう訴えかけるようなものです。もっとも「労働条件の悪化を受け容れるか、それとも失業するか」の2択を国民に迫ってきた政権の一員として一貫性のある言動ではありますが・・・

 囚人のジレンマという話があります。
 共犯の容疑者AとBがいると仮定しましょう。

Aが自白してBが黙秘した場合、
 Aは司法取引に応じた形となり懲役1年に減刑
 Bは罪を一人でかぶる形になり懲役15年。

Aが黙秘してBが自白した場合は、ちょうど逆になります。
 Bは司法取引に応じた形となり懲役1年に減刑
 Aは罪を一人でかぶる形になり懲役15年。

AもBも共に自白した場合、
 犯罪の全容が明らかになり、両者共に懲役10年

AもBも共に黙秘した場合、
 証拠不十分のため、両者共に懲役3年

黙秘した場合は、相方の対応如何によって懲役3年もしくは15年、
自白した場合は、相方の対応如何によって懲役1年もしくは10年です。
黙秘するのと自白するのとどっちが安全でしょうか?

自白した場合は、相方よりも短い刑期で済ますことが出来ます。
逆に黙秘すれば、相方よりも刑期が長くなる可能性があります。
では自白した方が安全でしょうか?

しかし自分が考えつくことは当然、相方も考えます。
自分が自白を選ぶ、相方も自白を選ぶ、この場合の刑期は10年です。

では、お互いが信頼し合い、共に黙秘したとしたら?
この場合の刑期は3年です。黙秘した方が安全ですね。

 この辺りは色々な分野に応用が利くわけですが、軍拡レースも同じです。軍拡を自白に、軍縮を黙秘に当てはめて考えてください。確かに軍拡を推し進めれば、他国よりも優位に立てるように見えるかもしれません。しかし、他国も同様に軍拡に乗ることで、両者を併せたリスクは飛躍的に増大します。逆に勇気を持って軍縮という小さなリスクを冒した場合、他国が同様に軍縮路線を採ることで両者を併せたリスクは激減します。

 相手がいなくては喧嘩など出来ないところですが、昨今では仮想敵を相手に独り相撲を取るのが流行っているようです。わざわざ敵を考え出して、その妄想を相手に防衛の名で軍備を拡張、全く妙な生き様です。元より戦争にしたところで相手との関係があって初めて成り立つもの、常に相手との関係の中でそのリスクを考えなければ意味がありません。自国の側のリスクを相手国より小さくしたところで、両国合わせたリスクを増大させては全くの逆効果なのです。相手に「勝つ」ことではなく自国を「護る」ことが望みなら、両国合わせたリスクの低減のために何が必要かを考えねばならないはずです。

 最後にもう一つ、田母神空幕長が微妙なニュアンスで「日本国民」と「日本」を使い分けているところにも注目すべきでしょう。田母神氏が天秤にかけたのは「国民が被害を受けるか」「日本が占領されるか」でした。そして田母神氏が選択を迫るのはクラスター爆弾、すなわち「国民が被害を受ける」方の選択肢でした。「日本」を護るために「国民」の被害は度外視される、防衛省が防衛しようとしているものが何なのか、それを考えさせられる発言でもあります。

 

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自分が大学生の頃は結核が流行ってました

2007-05-25 23:03:38 | ニュース

はしか10人発症 兵庫の高校、大学(神戸新聞)

 関東以外にも拡大が指摘されている麻疹(はしか)の流行で、兵庫県内でも、高校と大学合わせ、四月末から少なくとも十人が発症していることが二十四日、神戸新聞社の電話調査などで明らかになった。七人発症した高校もあった。異例の事態に各大学では対応策の検討を急いでおり、「一人でも発症すれば全学休講」と決めた大学も出ている。

 最も発症が多かった阪神地区の県立高校では、四月二十四日-五月十日に、一年生二クラス三人、三年生二クラス四人が発症。学級閉鎖はせず、今は全員登校している。神戸地区の県立高校では二十四日に確認された。

 麻疹が流行っているそうです。検索してみたら方々の地方紙で麻疹の流行が報じられており、どれをピックアップしようかと迷うほどでした。

 何気なく聞き流すテレビのニュースでも麻疹の流行は報じられるわけですが、奇妙だと思われたのはいつも大学が舞台だったことでしょうか。どこどこで麻疹が流行り、○○大学が全面休講になった云々と・・・麻疹って大学生のかかる病気なんでしょうかね?

 確かに大学には比較的年齢層の近い人が集まっているわけで、この特定の年齢層の人々が幼少時に受けた麻疹ワクチンが欠陥品であったと考えることも出来ます。そうであるならば大学生世代に限定される形で麻疹が流行することも考えられるのですが、なにも20歳前後の人々がことごとく大学に集まっているわけはありません。20歳前後の人は大学の外にもいくらでもいるわけです。まさか、アカデミックな空気に触れると麻疹に感染するわけでもないでしょう?

 で、色々と見てみると麻疹を発症しているのは大学生だけでもなければ20歳前後の人だけでもない、子供も大人も麻疹にかかる人が増えているようです。まぁ、増えているとは言っても1週間に53人とか、自殺者が1週間に500人以上いることを考えればそれほど深刻な気にはならないのですが、とりあえず麻疹にかかる人が多いよりは少ない方が確実に好ましいには違いありません。

 さて今回取り上げた記事で注目して欲しいのは、例示された大学と高校の対応の違いです。兵庫県内の大学に限らず、全国各地の大学で休講が相次いでいる中で、中学や高校、あるいは会社が麻疹の流行を防ぐために休校あるいは休業になったという話は寡聞にして耳にしません。なぜか麻疹のために全面的な対策を採るのは大学だけなのです。

 多くの人々にとって、大学時代とは人生で唯一の、無許可で休むことが許される時期です。高校までの間なら学校を休むには何らかの届け出が求められますし、会社に入ればやはり会社を休むには届け出が要求されるわけです。しかし大学は概ね、休むのに届け出を必要としません。自分の意思で出席するか休むかを決める、それを咎められない唯一の時代が大学時代なのです。

 そしてこの自主的に休むことが認められた大学だけが、麻疹の感染拡大を受けて休校を決めました。その一方で逆に許可なく休むことが許されない小中学校や会社は、麻疹の感染などお構いなく通常通りのカリキュラム、業務が進められているわけです。むしろ逆ではないでしょうか。

 大学では休むか否かを自分で判断して良いのですから、それは学生の判断に任せればよい―――麻疹が心配な学生は自主休講、気にしない学生は出席すればよい―――はずなのですが、なぜか大学側が休みを決めました。一方で休むためには組織の許可が求められる高校や会社では、どこも麻疹に備えようなどとはしない、麻疹に備えることが許されないようです。麻疹が心配な高校生は会社員はどうしたらいいのでしょうか? 「麻疹の流行拡大を食い止めるために休みます」とか申請してみたいところですが、認められないでしょうね・・・

 会社に入って、久々に朝礼をやるようになりました。私にとっては中学校以来のことです。会社に入って、久々に名札を付けることになりました。これも中学校以来のことです。あるいは毎日、決められた服装で過ごすことになりました。これは高校以来のことです。そう言えば20代も半ばくらいまでは「もう社会人なんだから、いつまでも学生気分でいるなよ」と、方々でよく言われたものですが、おそらくそういう人にとって大学と会社、大学生と会社人というものは相容れない、相互に排他的なものなのでしょう。会社という中学校じみた組織にとって、大学のように自主的な判断が許される世界は絶対に認められないのかもしれません。

 ともあれ、自主的に休むこと―――麻疹の流行から避難することが可能であるはずの大学において、大学側が対策を採る一方で、自主的に休むことが許されない―――麻疹の流行から避難することが許されない小中高等学校や会社は委細構わずの姿勢を取る、不思議なモノです。

 

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何のための削減なのか?

2007-05-24 22:34:42 | ニュース

県職員ランチ異変 昼休み短縮で飲食店悲鳴(神戸新聞)

 兵庫県が今春から昼休みを一時間から四十五分に短縮したことで、県庁(神戸市中央区)の外でランチを取る職員が減っている。売り上げが激減した周辺飲食店は「死活問題」と“悲鳴”を上げ、県に改善を求めて署名を集め二十二日午後、提出する。一方、せわしい昼休みを見込んで、新たに出店した弁当屋も。わずか十五分の時間短縮が、波紋を広げている。

 職員の昼休みは、労働基準法で保証された四十五分だが、これまでは、有給で十五分間の「休息時間」を加え一時間だった。しかし、自治体職員の厚遇批判を受け全国で見直しが進み、県も四月一日から休息時間を廃止した。

 まぁ、なんですかね、よくある公務員叩きに迎合して休み時間を減らしたものの、当の公務員ではなく周辺の飲食店から苦情が来たと。昼休みが45分ではゆっくり外食するのは難しいですから、こういう事態も当然あり得るのでしょう。

 例によって「公務員は恵まれすぎ」「昼休みは45分が当たり前」「ウチはもっと少ない」、こういう意見が多数を占めるわけですが、ふむ、労働条件を低い方に合わせようと企んでいる人たちにとっては相変わらずの追い風のようです。「学校教員は毎日に約2時間の残業」なんてニュースもありましたが、これも同じく「何か問題なの?」「民間で2時間残業なら楽勝もいいところ」「何を贅沢言っているのだ」と、判で押したような意見が続々と寄せられています。御用学者も問題ですが、こういう「下」を基準として労働条件を考える人たちを何とかしないと展望は開けないような気がします。

 それはさておき気になるのが、休みを15分間短縮した意義がどこにあるのか?と。昼休みを15分削ったことで業務の効率が上がったのでしょうか。それとも、ただ公務員叩きに血道を上げている人を一時的に喜ばせただけでしょうか? 市民のことを考えるのと市民に媚びるのでは意味が違います。

 例えば、誰が支払ったか不明のまま「宙に浮いた年金記録」が5000万件あるそうですが、これはどうしようもありませんね。普通の会社で不明入金を放置したままにすることなど考えられないわけで、公務員批判がされるべきはこの辺の杜撰な仕事ぶりでしょう。

 請求書を発行する部署で働いたこともあるわけですが、役所、官公庁を相手にするのは大変です。ほとんどの役所は旧態依然とした紙ベースで業務をこなしているのでしょうか、どこも指定の請求書があって、一枚一枚手書きで項目を埋めて、会社員や社長印を押さねばならないわけです。「普通の」会社相手なら機械出力の請求書を自動発送するだけで手間も何もないのですが、そこに役所絡みの請求書発行業務が混じると、途端に仕事が止まったものです。しかも役所は「まだ決済が降りない」とかで毎度のように支払いが遅れるし・・・

 それでも叩かれるのは役所の非効率ではなく、公務員の「厚遇」ぶりです(日本の経済水準からすれば決して厚遇と呼ぶほどのものではないのですが)。そこで考えたのですが、日本の労働現場で排除されようとしているのは「非効率」「ムダ」ではなく「ゆとり」「遊び」と言ったものではないかと。つまり無駄を廃して業務を効率化しようとするよりも、ゆとりをなくして労働力を使い切ろうとすることに重点が置かれているのではないかということです。

 昼休みを15分間減らしたところで、業務が効率的になる、住民にとって利用しやすくなるということもないでしょう。むしろ「外に出られない」ことで職場の志気を悪化させる可能性の方が高そうです。効率を考えるのであれば「いかにリフレッシュさせるか」を考えてもよさそうなものですが、やっていることは逆です。それでも昼休みを削ったのは労働者を遊ばせている時間を減らすことを重視したからかもしれません。

 たぶん、日本は「もったいない」の国です。効率よりも「使い切る」ことを大切にします。オレンジを搾るにしても、搾って果汁の出が悪くなれば、どんどん新しいオレンジを持ってきて搾るのが効率を追求するやり方、逆に果汁の出が悪くなっても捨てずに限界まで搾り取ろうとするのが「もったいない」式でしょうか。ある意味ではモノを大切にする考え方とも言えますが、同時にほとんど搾れないオレンジを惜しむことで、少なからぬ無駄を生み出しているところもあるでしょう。そしてこの「もったいない」が人間の経済システムに持ち込まれているとしたら・・・

 

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いめーじちぇんじ

2007-05-23 23:18:28 | ニュース

小沢代表より「民主くん」 民主地方議員がCM対案(朝日新聞)

 不評を買った民主党のテレビCMをめぐり、同党地方議員の若手有志が「対案」を独自に制作し、近く党本部に提案する。小沢代表を前面に出した現在のCMに比べ、党のロゴマークにヒントを得たキャラクター「民主くん」が登場するのが特徴。党本部にアイデアを提供し、統一地方選の議席増を参院選につなげたい考えだ。

 呼びかけ人の伊藤悠・都議は「党本部の批判をする人は党内に多いが、建設的な提案の方がより重要で、地方議員がアイデアを出す足掛かりとしたい」。親しみやすいキャラクターで若者層の支持拡大をねらうという。

 で、「民主くん」というのはこれです。


 ・・・駄目ですね。

 このキャラで若者層の支持拡大を狙えると本気で考えている人は、あまりにも民意から遠いと言わざるを得ません。中年男性からの支持では自民党と拮抗する民主党ですが、若者と女性からそっぽを向かれる現状への打開策を見いだすには、まだまだ遠いようです。まぁ、民主党が若者と女性から好かれない理由に関しては、決して民主党が悪いわけではないような気がしますが・・・

 それはさておき、国民投票法案やその他で民主党がふがいないところを見せたせいか、対抗馬としての民主党に期待を寄せていた左派ブロガーの間にも失望が広がり、良くも悪くも本来の左派政党に回帰する傾向が見られます。そこで共産党が息を吹き返せるか・・・と言うことになるのですが、共産党のイメージもなかなか堅苦しく野暮ったいわけでして、イメージチェンジを訴える人もいます。

 で、局所的に話題になっているのが上のバナー。ふむ、なかなかのものです。

 ただ敢えて野暮なツッコミを入れるならば、中年男性は割と野党支持が多いわけです。ビールのポスターと同じセンスで仕上げられたこのバナー、これが一番効きそうなのは中年男性になりそうですが、この辺りは元から野党支持の高い層であるわけでして、そこにイメージチェンジを計るのはリスクが高いとも言えます。イメージチェンジによって、既に支持のあるところを動揺させてしまう可能性があるわけですから。

 ですからイメージチェンジを計るときの主たるターゲットは、これ以上に支持を失うリスクの少ない層に対して、つまり自民支持が強い若者、女性に対して行われる必要があるように思います。まぁ、女性に対して推測でモノを言うのは今回は慎むとしまして、若者相手だったらどうでしょうかね? 私は年に数十本のエロゲーを購入する訳で、ヲタク文化とかその辺に関してはかなり自信を持って断言したいのですが、実はヲタク及びエロゲー購買層は基本的に性的欲求が薄いのです。女性に奉仕されたいという独占欲、支配欲が強いのであって性欲は弱い、むしろエロに関しては先行する世代よりも潔癖感が強い人が実は多いのです。ですから(もちろん、そうでない人も少なからずいるわけですが)若者向けにエロは通用しにくいような気がするわけです。おそらく若者ウケするであろうものは「高潔な軍人」でしょうか、きっと好評を以て迎えられると思いますが、そういう方向にイメージチェンジして欲しくはないなぁ・・・

 とりあえず、もっと幅広い層にアピールするべく私も作ってみました。バナーの作り方はわかりませんので、かろうじてポスター風で(画像に文字を入れただけですが)。

 ... 

 ← (´З`)チュッ

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客から見れば不便だが

2007-05-22 23:05:26 | ニュース

銀行窓口は大行列 それでも行員はトランプ遊び(NBonline)

 正午に中国工商銀行の金台路支店に到着した李記者が整理番号札を取ったのは12時9分。その時点で79人ものお客が順番待ちとなっており、ロビーはお客で満杯の状態だった。案内デスクの周辺にも積立口座を開設しようというお客がたむろしていたが、案内係は席におらず、彼らはどうすればよいのか分からず困惑していた。

 李記者はロビーの東側にある取引先財務管理センターに行ったところ昼食を食べている行員がいたので、「すみません、積立金口座の開設はどうすればよいのでしょうか」と問い合わせたが、行員はこれを無視。そこで再度、大声で繰り返すと、行員は「食事しているのが見えないのか。案内デスクに行って聞け」と答える始末。そこで、案内デスクに戻ると、現れた1人の行員が口座開設申請用紙を数枚放り投げて、「先ずこの用紙に記入して、自分はまだ食事中だから」と言い残して立ち去った。

 李記者が口座開設申請用紙に記入を終えたのは12時47分であったが、李記者の前にはまだ50人近いお客が順番を待っていた。そこで、ロビーを改めて見渡すと、行員が業務を行っている窓口は1カ所しかなく、その行員の後ろに行員がもう1人いて、2人は休みなくくだらない世間話をしていた。

 宋文洲氏のコラムを覗けば読むに耐えない代物ばかりの日経記事ですが、この記事で取り上げられていた事例そのものは非常におもしろいですね。そうそう、これこそ社会主義というものです。

 色々と思惑もあるのでしょう、日本で社会主義、共産主義というとイメージされるのはスターリン時代になるわけですが、あの辺は外部の脅威を大義名分にした中央集権主義であって社会主義とはまるで別物、理念も実態も違います。そこで理念はさておき、社会主義国の実態はどうでしょうか。説明するのは簡単です。社会主義とはすなわち、国民全員が公務員になることです。

 まぁ私が大学でロシア文学を学び始めた頃にはとっくにソ連も崩壊していたわけで、文献や伝聞によって、あるいはその名残を見ることでしか知らないわけではあるのですが、そんな中でも旅行者からよく耳にするネタが「ロシア=(ソ連)は店員が怖かった」というもの。そりゃそうです。日本の店員と言えばサービス業、接客業ですが、ソ連の店員は公務員、お役人です。不親切で偉そうな振る舞いも当然なのです。

 ソ連にマクドナルドが出店したとき、その接客レベルの高さにロシア人が驚嘆したという話もあります。そりゃそうです、だってロシアの高給レストランだってホテルだって出迎えてくるのは誰もが公務員ですから、対応は当然お役所仕事、マクドナルドのように愛想を振りまいてくれることは期待できないのです。

 そう言えば2000年頃、あるロシアの文芸誌編集者が大学に集中講義に来たことがありました。半官半民のソ連時代の面影を覗く出版社だったようで、1日5コマの講義予定を「ロシア人はそんなに働くものではありません」と断言し、1時限目と5時限目をカット、講義は2~4時間目だけになりました。まぁ、公務員の働きなんてそんなもん・・・かな?

 「勤務時間中の飲酒を禁じる」法令がでたこともありました。まぁアメリカでは「患者を路上に捨てることを禁じる」法律があるくらいで世の中は広いのですが、要はわざわざ禁止する必要があることからもわかるように、勤務中に酒を飲む人もいたわけです。だって公務員ですから、犯罪でも犯さない限りクビにはなりませんし、民間企業ではないので営利の追求もないわけです。ノルマなんて言葉はソ連発祥らしいですが、ノルマがきつかったのは戦時中の話でソ連末期は緩いことこの上なかったようです。その厚遇ぶりは「有給休暇が年45日では足りないから72日に延長せよ」なんて要求を掲げたデモが起こるほどで、しかも僻地手当で有給休暇が2倍、翌年繰り越し可、なんてのもあったそうです。

 もっとも本来の社会主義とは発展した資本主義の後に来るもの、資本の蓄積があって初めて可能になるもので、それをロシアでやったらどうなるか、当然のように経済は低迷するわけです。国民全員が公務員で安定した雇用とゆとりある労働にもかかわらず、物不足で今ひとつ豊かさが実感できない、そんな社会を端的に語ったのがこちらのジョーク。

 失業者はいないが、誰も働かない。
 誰も働かないが、誰もが給料をもらう。
 誰もが給料をもらうが、何も買うものがない。

 そんなロシア・ソ連の台所を支えたのが家庭菜園の充実、なんとロシア国内におけるジャガイモの60%以上が家庭菜園で生産されていた時期があったのです。仕事が暇だから家庭菜園で芋を育てて暮らしの足しにする、フ~ム、のどかな生活です。ソ連が崩壊して資本主義経済が導入されてから、急速にソ連時代への評価が高まったのは決して過去を美化しているばかりではないのでしょう。政治的な自由も大切ですが、仕事に縛り付けられることで失う自由の方が大きいようではどうしようもないわけですから。

 それでまぁ、中国の場合です。中国を今さら社会主義と呼ぶには無理があるわけですが、今回の事例に私は社会主義の残り香を感じたわけです。絵に描いたようなお役所仕事っぷりに加えて、客ではなく労働者側の都合で時間が進んでいく、こんなところで客にはなりたくないものですが、こういう仕事だったら楽で良いな、仕事の負担を最小化して、自分の時間を大切にする生活が出来そうだな、そんな風にも感じます。

 泣く子も黙る社会主義の国では客が辛い思いをするわけですが、勤労賛美の国では労働者が辛い思いをします。ほんの僅かなメリットを客に与えるために、労働者がぼろぼろに搾り取られることも珍しくありません。規制緩和でほんの少しだけタクシーの料金は下がりましたが、タクシー運転手の労働環境がどれほど劣悪なものになったかは言うまでもありません。小売店の深夜営業なども―――まぁ、夜勤をやってみたりするとありがたかったりもするのですが―――働く側への負担増に比べると顧客への利便性は微々たるものではないでしょうか。

 末期ソ連のようなネタ社会になる必要はありませんが、もう少しバランスを取る―――客側、利用者側には少しの不便を受け容れてもらい、労働者側をもう少し楽にする発想も必要でしょう。誰だって客になることもあれば労働側に回ることもあるのですから、客の利便性ばかりを追求しても、それは差し引きでマイナスになることもあるわけです。

 今はエッセイストとして有名らしいですが、元々はロシア語通訳の偉い人である米原万里氏は、高級な銀細工の杯を収納した絶望的にぼろぼろの段ボール箱を見て「これこそ、まぎれもないソビエトだ!」と語ります。

 要するに爛熟した資本主義の生み出す消費文明に疲れはじめたわれわれにとって、その無愛想な箱は新鮮で快かった。何もかもが、「買って、買って」とわめき、ささやき、こびへつらい、まとわりつくのにうんざりしている目からすると、「買ってくれなくとも一向にかまわないわ」という感じの箱のたたずまいは、なんだかとても潔くて清々しかった。おのれに包まれるものが商品となることを拒むような、毅然とした迫力があった。(『ロシアは今日も荒れ模様』米原万里)

 

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