非国民通信

ノーモア・コイズミ

シリアルな話

2021-11-28 23:04:24 | 編集雑記

 若い頃はさておき、現在は調理に手間をかけるような気力もなく朝はシリアルで済ますことが多い私ですが、皆様の朝食はいかがでしょうか? 王道のコーンの他に玄米や各種の麦を使ったシリアルも多く流通するところですけれど、結局のところ食物繊維はまだしもビタミンやミネラルは別に添加されているもの次第であることを鑑みれば、芋ベースのシリアルがあっても良さそうなものだな、と思ったりします。

 素材もそうですが、味もどうなのでしょう。シンプルな砂糖の他にチョコレート味なりドライフルーツを混ぜたものなり色々とありますけれど、結局はどれも甘い系統ですよね? コーンフレークの発明者であるケロッグ兄弟が砂糖の添加を巡り骨肉の争いを繰り広げたことは割と有名ですが、そもそも甘味以外の選択肢はなかったのかという気がしないでもありません。

 つまりシリアルにも塩味があっても不思議ではないですし、バーベキュー味やコンソメ味、コンポタージュ味があってもいいと思うわけです。コーンフレークであればメキシカンタコス味やチーズ味あたりは、食べ始めてみればすんなり受け入れられるのではないでしょうか。玄米フレークであれば味噌味や出汁醤油味に鶏五目味など、取り合わせが良さそうなものはいくらでも思いつきます。

 まぁ、日本人の食生活にとって最大のリスク要因は塩分過多ですので、シリアルに甘口しか存在しないのは健康面を考えれば良いことなのかも知れません。時代とともに多種多様な健康食が流行しては廃れていった中でも減塩だけは流行ったことがないと言われるくらいですから、今以上に食塩の摂取量が増えそうなレパートリーを増やすのは良くないことなのでしょう。

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考えを変えるとき

2021-07-04 22:16:17 | 編集雑記

 先週の話とも絡みますが、人が考えを変えるのはどういう時なのでしょう。差別主義者やエセ科学の信奉者が、自らを否定せず寄り添ってくれる政治家や○○コミュニケーションの専門家に勇気づけられ、自説を一層深く信じていくような場面はいくらでもあります。しかし、今まで自分が信じていたものを投げ捨てる場面というのは極めて少ない印象です。

 自分のことを振り返ってみるならば、2011年の3月まで私は原発に否定的でした。その時点までは「なんとなく」反原発派の語る危険論に流されていたわけです。一方で原発事故が発生し混乱が深まっていく中で、反原発派の主張はあまりにもおかしいのでは?と疑問に抱き、それを検証していく中で虚妄の原発脅威論を捨て去るに至りました。

 自分を変える機会となったのは、「関心」と言えるでしょうか。原発にさしたる関心のなかった頃は、反原発派の説く内容を吟味することはなく、なんとはなしに受け入れていたと言えます。これは実のところ危険な振る舞いであったと自らを恥じるばかりです。昨今のワクチンの副作用に関する言説にも然り、「なんとなく」周りに主張する危険論に流されている人は少なくないのかも知れません。

 ただ自分が原発事故を目の当たりにして否応なしに関心を持つようになった一方で、同様に関心を持ちながらも非科学的な言論の方へと傾倒していった人もいます。関心を持てば考え方も変わるかと言えば、それはまた別の話のようです。ワクチン反対派もまた関心自体は一定以上にあると考えられますので、これは重要ではないのかも知れません。

 そもそも、根本的なところでは誰も変わりはしないとも言えます。私自身であれば単にその時点で最も効率的なものを支持したいだけで、今ならば原発を選びますけれど、仮に人類が天候を自在に操れるようになったなら風力発電の推進に賛成するところです。この場合、効率を優先するという点では何も考えは変わっていません。

 逆に原発が一つ安全基準をクリアすれば新たな基準を設けるなど、自在に基準が変わる人もいます。ただ物事の是非を判断する基準は変わっても、原発は絶対に認めないという点では結論が決して動かなかったりもするわけです。この場合もまた、変わるものがあるように見えて実は微動だにしない「変わらない」ものもあることがわかります。

 利益を追求する人間は、その利益を得るためのプロセスを変えることには躊躇がありませんし、勝利を追い求める人間もまた勝つために何をやるかという過程では変化を厭わないことでしょう。しかし、そういう人であればこそ利益なり勝利なりという芯の部分では当然ながら譲渡を拒むわけです。

 一方では、よりプリミティブなところに信念を持っている人もまた少なくありません。利益よりも従業員を支配することに重きを置く人であれば、むしろ利益を損ねる選択をすることもあるわけです。自らの理想のためであれば利益や勝利すら度外視してしまう、そうした柔軟性も見せますが――従業員や部員をコントロールすることには執着する等々。

 あるいは勝利ではなく自らの安打数を最大化することに至上の価値を置く選手がいて、四球を選ぶよりもボール球すら当てにいくとしましょう。そんな選手でも安打数を増やすためであれば、足の上げ方を変えたりバットの構え方を変えたり、「変える」こと自体は珍しくありません。しかし、チームの勝利よりも自らの安打数を優先する考え方を変えるかと言えば、それはまた別だったりします。

 コロコロと髪型やファッションを変える人も、その実は「流行を追う」という点では一貫して変わらない生き方をしているのかも知れません。あるいは過去と現在とで全く別の主張を繰り広げている人も、よくよく見ると単に特定政党の主張を擁護しているだけ、政府与党の逆張りをしているだけであったり等々、その点では変化などなかったりするわけです。

 結局、人には「変われる」部分と「変われない」部分があるのでしょう。異性が好きな人もいれば、同性が好きな人もいますし、年増が好きな人もいれば子供が好きな人もいます。人はそう簡単には変わらない部分がある、人は容易には変えられないのだと言うことを前提にして物事を進めていくしかないのかも知れません。

 もっとも、差別主義やエセ科学への信奉は糞のようなものだと私は思っています。誰でも脱糞はするわけですが、それを人前に出す人は当然ながら白眼視されることでしょう。脱糞は個人の自由であり国家による制約を受けるべきものではありませんが、それはトイレの中だけの話です。口から糞を垂れ流す人もまた同じではないでしょうか?

 ワクチン忌避は、感染症の拡大経路として公衆衛生にとっての脅威であり続けます。それは個人の自由ではなく、他人を脅かすものとして扱われねばなりません。口から糞を垂れ流す人を収監すべきとまでは言いませんけれど、そうした振る舞いを「表」に出すことを許容しない毅然たる姿勢は、我々の社会全体に求められるように思います。

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生きてるだけでは

2021-05-09 22:03:56 | 編集雑記

 生きてるだけで金メダル――そう書かれた垂れ幕を通勤途中の車窓から見かけました。自殺を考えている人向けのメッセージなのかな、と思ったのですが後から検索してみたところ、どうやら肺がんを克服した人が書いた本の表題のようです。まぁ、いずれにせよ死に直面した人向けの言葉ではあるな、と私は感じました。

 残念ながら「死にそうにない人」が生きているだけで肯定されると言うことはありません。引きこもりの青少年あるいは中高年が、「生きてるだけ」で許されることはないわけです。ただ、部屋から一歩も出てこない、もしくは自宅から一歩も外へ出ないような人であれば「外出するだけ」でプラスの評価をされることはあるでしょうか。

 もっともステレオタイプな引きこもりでもなければ、外に出るだけで肯定されることはありません。就職も就学もしていなければ、それはそれで非難されるわけです。そこで一念発起、非正規でもパートタイムでも、とにかく仕事を始めれば社会復帰として世に認められるところですが、ではその先はどうでしょうか。

 世に非正規雇用やパートタイム労働者は溢れていますが、そうした人々が社会に重んじられたことは天地開闢以来一度たりともありません。会社にも学校にも行っていなかった人が働くようになれば一時は肯定されることになっても、その先が非正規であればいずれは壁に突き当たるわけです。

 では非正規労働者が正規雇用につけば、まぁ身内は胸を撫で下ろすところでしょうか。正社員もピンキリというのはさておき、そこが安住の地かと言えば全く違うわけで、日々の業務をそつなくこなすだけでは決して許容されない、前年よりも高いノルマを課されたり、無意味な変革を目標として設定されたり、周囲の要求はエスカレートするばかりです。

 職場を離れても今度は家庭人として出産を望まれることもあれば完璧な家事分担ができなければダメ出しされたり、何か一つの課題をクリアすれば必ずその次が現れます。誰もがゴールにはたどり着けない、一時は「○○だけで金メダル」と肯定されたとしても、必ずや次のハードルがもうけられる、人生とはそういうものなのでしょうか。

 自殺したがっている人は病魔や闘っている人なら「生きてるだけで金メダル」ですが、健康な人なら生きてるだけでは許されない、いわゆるニートなら「(非正規でも)就職するだけで社会復帰」ですが、非正規社員がそこに安住できる世の中ではない、正規に就職してもノルマは上がり、家庭での要求も止まらない、人の欲望には限りがないな、と感じるばかりです。

 死に瀕している人に、その場しのぎで「生きてるだけ」に価値があるように説くことは出来ますが、生き延びたらその先にはさらなる要求がある、生きてるだけではなく働かなければダメ、働いているだけではなく正規に就職して自立しなければダメ、自立するだけではなく家庭人としての役割も云々と、そこまで思うと躊躇いが出てこないでもありません。

 これ見よがしに手首を切ってみせる人騒がせな行動にも、一定の合理性はあるのかもしれないな、と思いました。生きているだけで肯定されるのは死にそうな人だけ、そうでなければ否応なしに労働参加が求められますし、働く中でも求められることは増えていく、家庭でも求められることは増えていくばかりです。そこで手首を切って自殺する装いでも見せれば、とりあえず「生きていること」で肯定してもらえますから。

 とかく欲望とは、否定的に捉えられがちです。もっと豊かになりたい、もっと楽をしたい、そうした欲望を道徳的に誤ったものと見なし、抑制すべきものとして我々の社会は扱ってきました。でも本当に我々の社会を占めている欲望とは、豊かになることや楽をすることを望む欲望ではなく、他人の人生に際限なく上積みを求めていく欲望にこそあるのではないかと思いますね。

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個人的なこと

2021-01-31 22:29:42 | 編集雑記

 さて「新型コロナウイルス感染症を指定感染症として定める等の政令」が出てから1年ばかり経過するわけですが、皆様の暮らし向きはどう変わったでしょうか。私はと言えば、リモートワーク導入で出勤機会が減り、窮屈な革靴を履く時間が短くなったせいか、水虫が治りました。リモートワークの拡充によって運動不足など健康面を懸念する人もいるようですが、実際のところはどうなのでしょうね。

 近年は加齢による衰えか、最寄り駅から自宅に向かう途中の坂道を自転車で駆け上がることが出来なくなっていたのですが、昨年の5月くらいから再び坂道を上れるようになりました。就職して以来、趣味の時間のためには睡眠時間を削る日々を続けてきたのが、リモートワーク導入で劇的に睡眠時間が延びたおかげもあるように思います。足りていないのは運動よりも休息だったのではないかな、と。

 そんなわけで、自分自身は新型コロナウィルス感染拡大のおかげで例年よりも健康的な生活を送れているような気がしないでもありません。この冬は周りから風邪をうつされることもなくなりましたし、後は花粉症のシーズンにも外出自粛が続いてくれれば助かりますね。例年は出勤のため、花粉がどれだけ飛ぼうと自身の意思とは無関係に外出しなければなりませんでしたが、リモートワークで花粉が多い日の外出を減らせれば格段に楽になります。

 とはいえ、年齢が上がるにつれて医療の世話になる機会は増えていく、通院の必要性も増すばかりだったりするのは辛いところです。これまでは会社の近くの医療機関に通うことが多かったのですが、リモートワークで出勤日よりも自宅で業務に当たる機会が増えてきますと、今度は会社の近くの医療機関への通院が難しくなります。自宅近辺の医療機関に移るべきかは悩みどころです。

 医療機関の善し悪しは自分の体を実験台にして初めて分かるもの、これまで通院してきた会社の近くの医療機関と自宅の近くの医療機関、どっちがマトモかは分かりません。ただ確実なのは、自分の住むエリアはとにかく子供が多いということですね。どこの医療機関も保育園状態、マスクなど付けず椅子の上を跳ね回り床を這いずり回る子供に囲まれて待合室で過ごすことには、少なからず不安を覚えたりします。

 テレビに映る子供は皆マスクを付けているのに、地元ではマスクを付けた子供なんて見かけないのはどうしたものだろうと思わないでもありませんが、地域差もあるのでしょう。日本全体で見れば間違いなく少子化は進んでいる一方、自分の住む地域では至る所に子供が溢れているわけです。平均とはかけ離れた例外に行き当たることは、別に珍しくもありません。

 そして昨今では治療した歯が痛んだり、被せものが外れたりといった理由で歯医者に行くことが増えました。歯の治療自体はどうということもないのですけれど、補綴物の出来の悪さには毎回ウンザリさせられます。元の歯と補綴物の隙間に食べ物の繊維が詰まったり、補綴物でカバーできていない歯の切削面が舌を傷つけたり等々、材質の良さを力説されて自費診療のセラミックを試してみても精度の低さは相変わらずと、まぁ絶望的です。

 色々とアピールしている歯医者は少なくありませんけれど、補綴物への拘りはどうなのでしょうね。保険の銀歯の代わりにセラミックを勧められることは頻繁にありますが、材質よりも精度の方が気になるところ、むしろ真っ当な歯科技工所や歯科技工士かを証明して欲しいと思わないでもありません。医療には妥協も必要だとは思いますが、あまりに補綴物の出来が悪いと、それを選んだ歯科医師への信頼も揺らぐというものです。

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10年前は昔か今か

2020-04-26 21:44:23 | 編集雑記

 年を取ると、月日の流れが早く感じると言われます。体感としては何となく理解できるところですが、皆様はいかがでしょうか。どこかで「10歳の子供にとって1年は人生の10分の1だけれど、50歳の中年にとって1年は人生の50分の1」みたいな台詞を見かけた記憶あります。まぁ、そういうものなのかも知れません。

 自分としても30年前は遠い昔のことに思える一方、20年前だとそこまで昔には思えない、10年前などは最近のことに感じられてしまうことすらあります。日本社会の賃金水準が四半世紀ばかり上昇していない等々、停滞する社会の中で生きてきたこともありますが、私よりも若い人から見れば、10年前も遠い過去の話なのでしょうか。

 あるいは私よりも年上の人から見れば、30年前すらも決して大昔の話ではないのかも知れません。まだまだ自分が若いつもりでいる60歳、70歳くらいの人にしてみれば、自分が30歳あるいは40歳頃のイメージを、そのまま引きずっているような気がします。若い人にとっての10年前と中高年にとっての30年前、現在との距離があるのはどちらなのでしょう。

 生まれてからずっと、衰退する日本しか見てこなかった若い世代と、日本が世界の先頭に立っていた30年前から時計の針が止まっている高齢層とでは、必然的に世界観も変わってきます。例えば30年前、日本と中国の力関係は大人と子供のそれでした。現在は老人と大人のようなものと言えますが――未だに日本が技術大国であると信じている人もいる等々。

 老いは誰にも避けられません。月日の流れが速く感じるのは、致し方ないところです。それを自覚せずに自分が若いつもりでいると、いわゆる老害になってしまうのだと言えます。時間の感じ方が若い人とは変わってきていることを認識し、自分が若かった頃とは世界が変わっていることを受け止められるか、この辺が分かれ道でしょうね。

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Tips4

2019-07-27 20:28:50 | 編集雑記

国内に居住する消費者の可処分所得は、国内で働く労働者の給与水準によって決まります

 

ゆえに人件費が抑制されると消費が減って不況になりますので、これを阻むのが政治の役割と言えます。

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Tips3

2019-07-20 20:30:17 | 編集雑記

貨幣の特徴は、牽連性を必要としないこと

 

消費税増税によって得た税収を法人税減税に回すこともできれば、累進課税によって得た税収を社会保障の拡充に回すこともできます

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Tips2

2019-07-13 20:33:12 | 編集雑記

手取り15万円で支出15万円の生活と、手取り40万円で支出40万円の生活は全く別物です。

 

収支ばかりを問題視し、フローを考慮していない論者を見たら、その人のことは金輪際、無視してください。

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Tips

2019-07-06 20:31:13 | 編集雑記

お金は使ってもなくなりません。所有者が変わるだけです。

 

お金を「限りある資源」みたいに扱っている論者を見たら、その人のことは金輪際、無視してください。

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「所定の場所」とは

2019-04-21 21:50:20 | 編集雑記

 私の職場ではところどころに「○○は所定の場所に捨ててください」と書かれた張り紙が貼ってあります。まぁ区のゴミ捨てルールもあれば入居しているビル独自の分別ルールもありますから、「所定の」場所以外に捨てられたら困るものもあるわけです。そのため分別の必要なゴミが「所定」ではない場所に捨てられていると、数日後には「○○は所定の場所に捨ててください」との張り紙が登場するのですね。

 つい自身の住んでいる自治体のゴミ捨てルールで行動してしまった人もいれば、訳知り顔で分別はムダだとニワカ知識を披露して分別しない人もいる、うっかり間違ってしまう人もいれば面倒くさがって適当に捨てている人もいる、「所定の」場所へ捨てられない理由は様々です。いずれにせよ結果として「○○は所定の場所に捨ててください」との張り紙は増えていくわけです。

 しかし私がずっと疑問に思っているのは「所定の」場所とは何処なのか?と言うことです。張り紙の内容から判断するに、入居しているビルには段ボール置き場、弁当ガラ置き場、廃トナー置き場など、種類に応じた捨て場所が存在しているであろうことがうかがわれます。ところが、それぞれを捨てに行くべき「所定の」場所が何処にあるのか――これが張り紙からは分からないのです。

 「所定の場所」が何処に存在するのかを知っているが、悪意を持って所定ではない場所にゴミを捨てている、そんな人に対してなら「所定の場所に捨ててください」というメッセージは一応の意味があるのかも知れません。しかし、個別のゴミ捨て場所を知らない人に「所定の場所に捨ててください」と伝えても、何かが改善されるのでしょうか?

 少なくとも私の記憶では、入社したときにゴミ捨て場所を案内されたことはありません。職場が移転したときもやはり、「所定の場所」が何処にあるのか、誰かから教わったことはないです。書類を配りに社内を歩き回っていたときに偶然、恐らくはここが所定の場所であろうと思われるものを見かけたことならありますが、それが正しいかどうかは分かりません。

 社内のポータルサイトに、各種問い合わせ情報やFAQ、事務所利用ガイドなどもあるのですけれど、「所定の場所」で検索してヒットするものはありませんでした。「所定の場所へ」という張り紙は事務所のあちこちで見かけるにも関わらず、所定の場所は謎のままです。たぶん総務部の人と、そのオトモダチネットワークを介して私的に伝えられる秘儀のようなものなのでしょう。

 私だったら、「所定の場所へ」とは書かずに、図なり言葉なりで、対象を捨てるべき場所を明示します。そうすれば、少なくとも何処に捨てるべきかを知らずに間違った場所へ捨てていた人は、捨てる場所を改めることでしょう。しかし会社の掲示物を作る人は、具体的にどこかを知らせる代わりに「所定の場所へ捨ててください」とのメッセージを発することを好んでいるようです。それはどうかと私などは思いますが――コミュニケーション能力さえあれば、こんなやり方も許されるのかも知れませんね。

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