非国民通信

ノーモア・コイズミ

名前なんてどうでもいい

2008-05-31 23:08:02 | ニュース

懲戒公務員を匿名、不祥事続きの防衛省で目立つ(読売新聞)

 不祥事を理由に公務員を懲戒免職にしたのに、氏名を公表しない公的機関が依然として多いことが読売新聞の全国調査でわかった。

 政府が4月に変更した「個人情報の保護に関する基本方針」は省庁や自治体が必要な情報を開示しない「過剰反応」に言及し、適切な運用を求めているが、事態が改善されるかどうかは不透明だ。

 読売新聞は一般職国家公務員の懲戒免職処分がどのように公表されているかの調査を毎年実施しており、この1、2年では、農林水産省と国土交通省が氏名を原則開示する方針に改めている。今回の調査では、不祥事続きの防衛省で問題例が目立った。

 陸上自衛隊は今年3月、〈1〉迷彩服などの装備品を盗んでネット・オークションに出品していた小郡駐屯地(福岡)の2等陸曹〈2〉補給統制本部(東京)の書庫から戦車の「整備実施規定」を盗み出した北海道補給処の3等陸曹--を懲戒免職にしながら実名を公表しなかった。海上自衛隊のイージス艦情報流出事件でも、防衛省は3月に処分した58人を全員匿名とした。

 不祥事を理由に懲戒解雇された民間企業従業員の氏名がわざわざ公表されているのか、その辺は定かではありませんが、とりあえず公務員の場合は公表しないケースもあるようです。不祥事を起こした人の名前を知ることに何らかの意味があるはずもありませんが、公務員の場合は問題になるようです。

 この辺は、需要と言いますかニュースバリューと言いますか、その辺の関係でしょうか。小さな会社の中、自分の知っている人々の間だけならいざ知らず、日本全体で見れば不正なり不祥事なんてのはいくらでも見つかるわけです。そんなごまんとある不祥事ではありますが、例外的にそれが公務員の不祥事となりますと商品価値が高いのか、高値で取引される稀少な商品のごとく買い手が集まるものです。市場が公務員の不祥事を心待ちにしていて、メディアも顧客の期待に応えようと公務員の不祥事を追いかけている、それなのに「せっかくの」不祥事でも名前が公表されない、ガッカリだなぁ、と。

 だいたい、名前を知ってどうするのでしょうか? そりゃ、相手が政治家なら名前を知っておく必要はあるでしょうが、自分とは無関係な下っ端公務員の名前を聞かされても私などは困惑してしまいます。不祥事を起こした人の名前を調べて、その人の家族に嫌がらせでもしようというのでしょうかね? まぁ、そういう人も少なからずいるような気がしますが大半はそこまでは行かないでしょうか。ただ、人を罰することが好きでたまらない、人が徹底的に罰されなくては気が済まない、せめて晒し者にしてやらないと心の落ち着きが得られない、そういう人は多いような気がします。

 それはさておき、今回の報道で少し目新しさを感じたのは、防衛省で問題例が目立つとの指摘ですね。一般に公務員が蔑視される中で自衛隊は例外と言いますか、「官」は不要な存在だが「軍」は必須のもの、そんな考え方も根強く、総じて軍には甘い、「官」の些細な瑕疵でも容赦しないが「軍」の不正には目を瞑る、とりわけ政府与党筋やその支持者、御用新聞はそうした立場だったはずです。それが読売にして「不祥事続き」「問題例が目立った」と、しかも見出しにまで書かれてしまったわけで、まぁそれだけ際だっているのでしょうねぇ。

 

 ←応援よろしくお願いします

 

 ちなみに想像を絶するアホな意見の宝庫であるgooニュース畑では、「一般市民の犯罪容疑者は晒されているのに公務員だけ保護されている!」なんて血迷った意見が繰り広げられているのですが、ここの読者でしたらその論法のゴマカシは分かりますよね? 要するに刑法犯の容疑者として警察が公開する場合と、組織内部の懲戒対象者をその組織が独自に公開する場合を混同させているわけです。勿論、警察が容疑者の氏名を明らかにする場合はその職種など問いませんし、民間企業でも企業内部の懲戒対象者の氏名を(警察沙汰になったわけでもないのに)部外者に公表するとは限りません。ま、公務員と民間を比較する場合は両者を異なった条件下で比較する(例えば公務員と民間の給与比較など)のが常道ですから、その辺を知っていれば欺すのにも使えますし、欺されないためにも使えます……

コメント (5)   トラックバック (2)

変わらないもの

2008-05-30 23:47:52 | 文芸欄

 私はこういう人々を知っている。善良で、誠実で、社会から尊敬されているほどの人間でありながら、それでいて、たとえば受刑者が笞の下で悲鳴をあげ、祈り、許しを乞わなければ、心の落ち着きを得られないというのである。受刑者がかならず悲鳴をあげ、許しを乞わなければ、気がおさまらないのである。これが習慣になってしまって、作法にかなった必要なことと考えられているのである。いつだったか、受刑者が悲鳴をあげようとしないのを見て、ある執行官が――これはわたしの知ってる男で他のもろもろの点においては、まあ善良な人間を考えてもよいような男だったが――そのために自分が侮辱されたような気になったことさえあった。(F.ドストエフスキ『死の家の記憶』)

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (2)

Hey mr. porno star!

2008-05-29 23:32:39 | 編集雑記

 世の中にはとんでもないヨタや、根も葉もないデマ、都合良く塗り固められた大本営発表など、諸々の実態に即さない言説が満ちあふれているわけです。そしてそれはしばしば何らかの権威――政治家や御用学者、大手メディアの口からも語られ喧伝されるものですが、それがどれほど明白な偽りに満ちていても、往々にして有権者や視聴者はそれを信じ、その偽りは真実として許容されます。その話が信憑性、説得力、確かな裏付けを欠いていたとしても、そこに横たわる誤解や偏見が受け手と共有されている限り、どんないかがわしい話も容易く信用されてしまうわけです。

 たとえばそう、外国人犯罪の脅威とかモラルや規範意識の低下とか、実情に合致しない風説が絶えず流布されているわけですが、この風説の受容者である国民の間に誤解や偏見が十分に浸透していれば、いかに実態に即していなくとも信頼されてしまうものです。そしてこの国民と誤解や偏見を共有し、目の前にある現実ではなく思いこみに基づいて行動することを「国民の目線に立つ」と呼んでいるわけでもあります。さて、先日もあるオバハン(職業:国会議員)が大変に国民の目線に立った問題提起をされたとか。曰く「街中に氾濫している美少女アダルトアニメ雑誌やゲームは、小学生の少女をイメージしているものが多く、このようなゲームに誘われた青少年の多くは知らず知らずのうちに心を破壊され、人間性を失っており~

 さて、国民の目線に立たない私がリベラルなポルノ通の視点を御紹介いたしましょう。ま、ポルノ通と言っても女性向けのポルノには精通しているわけじゃございませんし、男性の同性愛者向けのポルノも某野球選手が出演してた奴ぐらいしか見ていないわけで、基本的に男性の異性愛者向けのポルノが主たる守備範囲ではありますが。

 で、ここで言及されている「美少女アダルトアニメ雑誌やゲーム」ですが、皆様実態はどの程度ご存知なのでしょう? 少なくともこの発言の主である円より子氏は何か誤解したまま批判しているような気がします。ある意味で、朝日新聞を左寄りだと信じて、それを叩いているネトウヨと同レベルの勘違いがあるような気がするのですが、まぁそれも国民の目線でしょうかね。

 特にゲームの方ですね、美少女アダルトゲーム、通称エロゲーです。たぶん円より子やその他諸々の人が抱いているエロゲーのイメージと実際のエロゲーの中身は決定的に食い違います。規制を加えようとする人はエロゲーを反道徳的なもの、暴力的なもの、変態的なもの、陵辱色の強いものと、そういうイメージで捉えているのではないでしょうか。まぁ、そういうエロゲーもないでもありません。しかし、売上ランキングの上位30位くらいまでを制圧しているエロゲーというのは、全く違うのですな、これが。

 で、売上ランキングの上位を常時独占している主流派のエロゲー(以下、何の留保もなくただ「エロゲー」といった場合はこの主流派を指します)ですが、この辺を他のポルノと一緒にしてはいけません。一般にポルノと言ったらエロを追求する世界ですが、エロゲーは違うのです。他のポルノを叩くのと同じ感覚でエロゲーを叩いている、擁護している人もいるわけですが、それは概ね勘違いに基づいています!

 まず、売れ筋のエロゲーに暴力など存在しません。エロゲーの女の子達は「自主的に」男主人公に傅くのであり、力ずくで女性を服従させるようなエロゲーは売上ランキング上位には顔を出しません。大半のエロゲー購買層は明示的な力関係が顕在化されることを嫌い、それがあたかも本人の意思で行われ、双方にとって好ましい関係であるかのように描かれていることを好むわけです。エロゲーの中で描かれているのはヒロインが力ずくで屈服させられるようなシーンではありません、「喜びを持って」主人公に跪く世界なのです。

 ともすると、強制された関係よりも自主的な関係の方が好ましく、前者は規制されるべきだが後者は許容されるべき、そう考えられることもあるでしょう。エロゲー購買層の多くは実際にそう考えます。ところが違うのです。主人公にとって好都合な状況が、何らかの強制によって作り出されていることが明示されている場合よりも、それが隠蔽されている、自覚されない場合の方が遥かに危険なのです。

 たとえば植民地支配を考えてください。植民地の人が入植者を笑顔で迎える場面を想定してみましょう。その笑顔が支配者の強制によるものであると、そう理解されている場合と、それが全く自覚されず、「我々は歓迎されているのだ、我々の支配はよいことなのだ」と確信している場合、どちらが危険な考え方でしょうか?

 少なからぬエロゲー購買層は、女の子が「喜びを持って」主人公に跪く世界に共振しており、女性の性が一人の男性の管理下に置かれること、独占所有下に置かれることを当然と考え、これを双方にとって善い関係だと感じています。言うまでもなくこの関係は明白な支配関係なのですが、エロゲーの世界ではこれが力による強制に拠ってではなく、女の子の自主的な意思によって実現されます。そして自主的な意思によって実現されるが故に、そのような関係こそが正常なのだとをエロゲー購買層は確信を深めてゆくわけです。

 実際、エロゲー購買層の女性の性に対する考え方は驚嘆するほど保守的です。主人公以外の男性と(そう、売れ筋のエロゲーは常に一人の男性を中心に回ります)関係を持つような女性は売女として罵られますし、処女であるかどうかで評価が大きく変わります。セクシーであることよりも、貞淑であること、貞淑でありながら主人公にだけは積極的に奉仕すること、こういうモデルが求められているわけです。逆に言えば主人公の手の中に収まらないような奔放なヒロイン、開放的な性は憎悪の対象であり、堕落した罪ある女と見なされさえします。深夜に街をぶらついている女や米兵に声を掛けられて付いていく女などレイプされて同然、そういう思考をエロゲー購買層は強く持っていますし、中には名誉の殺人を肯定するような人さえいるのです。

 主流派のエロゲーは保守的な性道徳観を、男性の元に女性の性が管理されるべきとする閉鎖的な理想を鼓舞し続けています。私のようなガチの性解放論者にとってヴィクトリアニズムに侵されたエロゲー業界はポルノ界の同志であると同時に相反する敵でもあるのです。ですから私であればエロゲーを「女性の性を封じ込めようとしている、性を後宮に押し込めようとする思想を育てている」として批判したいくらいです。

 一方で政界の規制派は、どういう観点からエロゲーを批判しているのでしょうか? 常に一夫一婦で性はその内側に限定されるべきとか、女性は結婚するまで純潔を守るべきとか、そういう保守的な性道徳の信奉者であるならば、エロゲー批判は的外れです。自分と同じ性道徳観の唱道者を批判してどうする? 新自由主義者が朝日新聞を叩いたり、ネトウヨが中国政府を批判したり、それと同じような間抜けさを感じるのです。エロゲーってのは保守なのですから、保守派は自分達の同志を増やすためにエロゲーをむしろ薦めるべきなのです。まぁ某議員の性道徳観など知ったことではありませんが、エロゲーが煽っているのは何なのか、その辺を理解してから批判した方がより正確な問題提起は出来るかと。それが一般の理解を得られるかは、これまた知ったことではありませんが。

 

 ←応援よろしくお願いします

 

参考、エロゲー購買層の女性観は↓こちら↓が好例かも
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1134354.html

追記、関連記事としてこちらも
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/879d0cf0548330ca3282f6c6acb408e7

コメント (10)   トラックバック (3)

今は反省している

2008-05-28 23:02:34 | ニュース

北の湖理事長“横審がヤレと言うから…”(スポーツニッポン)

 大相撲夏場所千秋楽の横綱対決で勝負が決した後に、にらみ合いなどの醜態をさらした問題に関し、北の湖理事長(元横綱)は27日、朝青龍(27=高砂部屋)と白鵬(23=宮城野部屋)の両横綱を東京・両国国技館に呼び出し、厳重注意した。だが、両横綱は場当たり的な反省の弁に終始。北の湖理事長も横審の要請による注意であることを強調するなど、あらためて“トップ3”の危機意識欠如が浮き彫りとなった。

(中略)

 呼び出した北の湖理事長は「横綱として自覚することが大事と厳重注意し、普段の生活からき然とした態度をとるよう通告した」と説明。だが、白鵬のみが悪いという主張から一転して「ケンカ両成敗」で収拾を図ったことには主体性のなさがありあり。揚げ句の果てには「2人を呼んだのは横審から要望があったから。横審が両方に注意した方がいいと言った」とという無責任な言葉まで飛び出した。

 あのまま朝青龍と白鵬がバトルを繰り広げていたら、さぞかし盛り上がっただろうし新たなファンも獲得できたのではないかと残念に思っているわけですが、結局は謝罪を強いられる形になったようです。まぁ相撲協会に粋な計らいなんて期待しちゃいけませんね。

 で。北の湖理事長は両横綱への訓告処分は横審の要請であることを強調したとか。北の湖理事長にしては、良い行いではないでしょうか。これが横審に強いられた結果である、自主的に従ったのではなく、強制された結果であることを明示したわけです。これは小さいようでいて、重要なことでもあります。

 権力による強制があったとして、そこで人々が権力に従っているのは強いられた結果であることが明るみに出ている状態と、反対に権力に従っているのは人々の自主的な判断の結果だと信じられている状態、両者のどちらが健全であり、希望があると言えるでしょうか? どちらの場合でも、権力の強制に従わされている人々は抑圧を感じるものです。その抑圧に対する反発が許されている状態が前者であり、反発を隠して満足しているフリを続けなければならないのが後者です。

 たとえば選挙をしても、必ず共産党が全議席を獲得するとか、指導者の信任投票をすると支持率が99.9%に達するとか、そういう世界もあるわけです。どうして、と問われたときに国民が口を揃えて「共産党を支持しているから」とか「将軍様は素晴らしい方だから」とか、そう語るとしたらそれは不健全なのです。健全であるためには「不満はあるがそう選択することを強いられたからだ」と、権力による強制とそれへの不満を公に出来ることが必要なのです。それを考えれば、今回の北の湖理事長の発言は、閉鎖的な相撲界に僅かなりとも風穴を開ける意味があるのではないでしょうか?

 会社なんてのもそうです、誰もが仕事にやる気のあるフリを強いられます。やる気があるかと聞かれれば誰もが「ある」と答えます。でもそこで、「やる気があると答えたのは、それを強いられているからであって本当は違うのだ」と明言することは許されません。「やる気がある」という権力にとって好ましい状況を、強いられた結果としてではなく自主的な判断の結果として身につけること、我々はそこまでを要求されているのです。

 そこで「積極的に取り組んでいるのは、会社がそう命じたからだ」と公言すれば至る所から非難を浴びるかも知れません。しかし、そう公言することで隠された権力関係、支配の力学は暴き出されていくのです。もし本心を隠して「積極的に取り組んでいるのは自分の意思です」と望まれるがままに装い続けていたとすれば、それは支配を追認し、強制する権力を守る振る舞いに他なりません。ですから、相撲界を変えていくため必要なのは、不満があるにもかかわらず「自分の意思で」反省したかのごとく装うことではなく、強いられて反省している、反省を強いるものがいることを明示することなのです。それが今まで隠蔽されてきた相撲界の意思による強制を暴いていくことであり、他の世界にも通用することなのです。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (6)   トラックバック (1)

エスカレートする欲望

2008-05-27 22:59:11 | ニュース

乗客手荷物で麻薬犬訓練、大麻樹脂124g紛失…成田空港(読売新聞)

 東京税関は26日、成田空港第2旅客ターミナルの手荷物荷さばき場で麻薬探知犬の訓練中に、厚生労働省から借りた訓練用の大麻樹脂約124グラムを紛失したと発表した。

 発表によると、紛失したのは25日。麻薬探知犬訓練センター(千葉県成田市三里塚)の男性職員(38)が、香港から午後3時30分ごろに到着した旅客便の乗客のスーツケースの外側ポケットに訓練用の大麻樹脂を収めた金属製容器(縦約11センチ、横約9センチ、高さ約3センチ)を新聞紙にくるんだ状態で入れて、探知犬の訓練を行っていた。

 一般客の荷物を使った訓練は内部規定で禁止されており、持ち主にも知らされていなかった。探知犬も大麻樹脂に気づかなかったという。同税関では、持ち主がそのまま持ち去った可能性が高いとみている。

 結局スーツケースの持ち主は都内のホテルに宿泊中の外国人客とわかり、何とか回収できたようですが、うわぁ、これは無茶苦茶な話ですね。なんだこれは、たまげたなぁ。

 男性職員は「違反は承知していたが、実戦に近い形で、訓練効果を高めたいと思ってやった。過去にも一般客のスーツケースを使った訓練をしたことがある」などと話しているという。同センターでは、成田国際空港署や千葉県薬務課に紛失の報告をした。

 で、過去にも同様の行為があったそうです。「たった一度の過ちであり二度と同じ間違いはしません」と語った人は2本のビデオ出演が確認されているわけですが(でもビデオ出演は悪いことじゃないよ!)、今回の税関のケースも「たった一度の過ち」ではなさそうですね。単に一般客のスーツケースに麻薬を仕込んだケースが過去にあるというだけではなく、麻薬を仕込んだまま回収できなかったケースも一度ならずあるのではないでしょうか。

 海外から来た人の荷物の中から麻薬が見つかったケースは多くはないにせよあるわけですが、摘発されるも無実を主張しているケースもまたあるわけです。う~ん、そのうちの少なくとも数件は、税関が仕込んだ麻薬が原因じゃないのか?と。また逆のパターンもあるわけで、海外で日本人が麻薬所持で(で、で、で、と続くなぁ…)捕まったケースもありますが、摘発されたヤクは税関が訓練のために忍び込ませた代物だった可能性も考慮する必要がありそうです。捕まった国が「不滅の死刑作戦・有志連合」の構成国だったりした日には、取り返しの付かないことになるわけですが、現にそういう国で麻薬所持の嫌疑で拘束された人がいましたよね? 寡聞にしてその後どうなったかは知りませんが……

 今回は担当者に多少の良心の呵責もあったのか、紛失が公表され最終的には事なきを得ました。しかし隠蔽されていた可能性、これまで隠蔽されてきた可能性もあります。もし税関の一部署が秘密裏にこうした「訓練」を繰り返し、そこで麻薬を紛失していた場合、そしてその紛失が伏せられたまま、旅客の手荷物から麻薬が発見された場合はどうなるのでしょうか? 麻薬を仕込んだ真犯人が税関であること、これが公表されていれば手荷物から麻薬を発見された旅客は純然たる被害者です。しかし、誰かが麻薬を仕込んだ可能性など一切考慮されないとしたら?

 制度上、そしてその制度を支持する社会通念上、日本は外から訪れる人間を常に犯罪予備軍として扱います。そして殊更に人を罰することを好むのであれば尚更でもあります。自分が容疑を掛けている相手、罰したいと思っている相手の所持品の中に麻薬でもあろうものなら、問答無用で犯人のできあがりです。その真犯人が税関であったとしても、税関が沈黙を守り、権力が人を疑うに任せるとしたら……

違反は承知していたが、実戦に近い形で、訓練効果を高めたいと思ってやった。

 そしてこれこそが、非常に危険な考え方です。極論すれば、机上の実験では物足りなくなって人体実験に至るような発想でもあります。ポルノや暴力シーンを見て性犯罪や暴力行為に走るケースが~云々と宣う人は数多大勢いるわけですが、こうやって偉そうに人を断罪する側の人ほど、人を取り締まり、裁く側の人ほど、むしろフィクションと現実の境が曖昧になり、次第に行為を(欲望を)エスカレートさせているのが実情ではないでしょうか。

財政再建へ市街地戦の訓練施設誘致 夕張商議所が構想(産経新聞)

 財政再建団体の北海道夕張市で、夕張商工会議所が中心になり、陸上自衛隊の対テロなどを想定した市街地戦闘の訓練施設を誘致する構想があることが24日、分かった。同会議所は市の活性化効果を期待している。

 同会議所の沢田宏一会頭によると、市の山間部にある集落から候補地を選定。住民を市中心部に転居させ、空き家になった民家などを訓練用に提供することを想定している。6月中にも誘致に向けた期成会を結成する。

 沢田会頭は「市内に分散している集落を集約化できるので、市財政の軽減にもつながる」と話す。

 訓練施設はテロやゲリラによる市街地戦闘に対処するもので、現在、北海道を含め全国5カ所にあり、都市の街路や建物を模してつくられているという。

 何でも今までは模擬施設で訓練していたという自衛隊ですが、それでは飽きたらず実際に人が住む集落を訓練用に使う計画のようです。この辺も「実戦に近い形で、訓練効果を高めたいと思って」ということなのでしょうかね。そしてこの程度には留まらず、「より実戦に近い形」を追い求めていく可能性は考慮した方が良さそうです。勿論、訓練だけでは飽き足らない、そんな人も中にはいるでしょうし。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (7)   トラックバック (4)

そんなことよりカレー食おうぜ

2008-05-26 22:52:40 | ニュース

【産経抄】5月26日

 魚を食べるとキレにくくなる。小紙大阪版の連載記事をもとにした『検証!日本の食卓』(集英社)のなかで、こんな調査結果が紹介されている。大学生や小学生に、魚油に多く含まれているDHA(ドコサヘキサエン酸)を与えた場合とそうでない場合を比べるテストで明らかになった。

 ▼魚の消費量が多い国ほど、殺人事件が少ないというデータも、2001年に米国で発表された。縦軸に人口10万人当たりの殺人による死亡者数、横軸に魚の消費量をとったグラフでは、確かに日本が一番右下に位置している。

 ▼そんな国で、今血なまぐさい事件が相次いでいる。通勤電車のなかで、些細(ささい)なことから言い争う光景も珍しくなくなった。日本人がキレやすくなったのは、魚を食べなくなったからではないか。先週発表の平成19年度「水産白書」をみて、こんな仮説を立てたくなった。

 ▼日本人の1人当たりの魚介類の消費量は、13年の年間40キロをピークに、18年は32キロまで落ち込んだ。もっとも、回転寿司(ずし)は繁盛しており、魚自体が嫌いになったわけではなさそうだ。白書によれば、各家庭で調理の簡単な生サケの購入が増え、皮むきなど手間のかかるイカの購入が減った。

 bogusnewsと並び立つネット界の2大巨頭、産経新聞のコラムです。相変わらずツッコミどころが多すぎ、どこから手をつけていいのかわからない、ある意味では強敵です。

>魚を食べるとキレにくくなる

 たぶん産経新聞読者の脳内では韓国人など非常にキレやすい存在なのだと思いますが、韓国も日本に引けをとらない魚食大国です

>魚の消費量が多い国ほど、殺人事件が少ない

 日本での殺人事件は減少の一途ですが、すると魚の消費量は増えてるんですかな?

>日本人がキレやすくなったのは、魚を食べなくなったからではないか

 日本人が色々な点で忘れっぽくなったのには関係あるかも知れませんね

>日本人の1人当たりの魚介類の消費量は、(平成)13年の年間40キロをピーク

 ともすると、魚介類の消費量が一貫して減り続けているかのような印象が作られてもいるわけですが、意外や消費量のピークはわずか7年前の平成13年にあるようです。20年前、30年前の我々の親の世代よりも、ほんの7年前の方が魚を食べる量は多かったのですね。してみると本来はそこまで魚を食べる習慣はなかったのに、それが平成13年まで増大を続けてしまった、その過剰な魚食の習慣が沈静化し、従来の水準に戻りつつあるのが昨今と、そう考えた方が妥当でしょう。

 ただ、魚を食べることへの優越意識、「日本の食卓」が他の国の食卓に比べて優れているかのごとき錯覚は産経ならずともあるのではないでしょうか。日本食は健康に良いとか、頭が良くなるとか、そういった能書きを目にする機会に事欠かないわけですが、じゃぁ他の国の食事は? インド料理やパキスタン料理、トルコ料理は? その他諸々の食事ではなく日本食だけが特別に推薦されるわけですが、その示唆するところは日本食は優れているが、他の国の食事、食習慣はダメということでしょうか? 食生活の欧米化が諸悪の原因、日本食を見直そう、そんな論調はKKK以外の媒体にも満ちあふれているわけですが、それは欧米の食文化に対し自分達の食文化を優位に置こうとする、無自覚な差別意識の現われです。

 阪神ファンだろうが読売ファンだろうが、別に優劣はありませんし、FCザンクトパウリのファンだろうがFCバルセロナのファンだろうが、同様に優劣はないはずです。ところが日本食を好むこととアメリカ風の食生活を好むこと、あるいは魚好きと肉好き、この両者にはしばしば優劣がつけられます。単に好みの問題のはずが、排他的な優越意識がそこに潜んでいるわけです。私はむしろ、魚好き、和食好きと聞くと、その人は権威に流されやすい人なんだなぁ、そう思うくらいですね。反抗的なスピリットを持つなら欧米型の食生活と肉食を心がけましょう。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (10)   トラックバック (1)

他人の犠牲を善行に見せるには

2008-05-25 20:09:46 | 非国民通信社社説

 色々なところで、ものの順序が入れ替わることがあります。主客転倒とも言いましょうか。例えば、あの光市母子殺害事件の判決にもそれが見られました、従来は「他に方法がない場合に限り死刑にする」のが順序でしたが、それが「死刑を回避する理由がない限り死刑にする」との宣言があったわけです。あの裁判での最大の転換はここにあるように思ったわけですが、往々にしてこの入れ替わりは自覚されないまま行われてしまうものです。

 さて、「トリアージ」なる概念があります。まぁ災害医療現場など制約のある状況下で、最善の結果に繋げるべく患者を選別することですね。別に目新しいものでも何でもありませんが、これを得々として語る人がいたわけです、経営学の分野で。それにツッコミを入れているのが↓こちら↓です。

あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 ―(元)登校拒否系

 要約すれば、権力の側から一方的に人を選別する「トリアージ」の欺瞞と「トリアージ」という言葉によってその選別を正当化しようとする論者の欺瞞を指摘するものです。色々な意味で「わかっていない」コメントが殺到していますが、リンク先のエントリ本文は是非お読みいただければと思います。

 このトリアージ――選別するのは常に権力の側であり、それが災害医療現場であれば、患者の側に選別の権利はありません。勿論、専門家が適正な基準で誤りなく判断を下せば、その選別によって助かる命の単純な数が選別しなかった場合のそれを上回る可能性はあります。ともすると残酷に思えるこの選別行為が、大局的に見ればより多くの人を救う行為であるとしてトリアージを推奨、支持する人もいるわけです。

 ところが、物事も順序が容易く入れ替わる、主客転倒が常であるこの社会でトリアージの概念が本来の域を超えて幅を利かせるとどうなるのでしょうか? つまり、本来トリアージの「主」たる目的としては「助かる人を最大にする」ことがあり、その「従」たる手段として「助けられない人は捨てる」という選別があったわけです。そしてトリアージにおいてこの2つは不可分であり、「主」のあるところには必ず「従」が付随します。「助かる人を最大にする」ために「助けられない人を捨てる」行為と組になっているのがトリアージなのですが、これが転倒すると?(「助けられる/助けられない」の判断が誤っている可能性は留保しますが、この段階で誤っている可能性が常に存在することは念頭に置いておいてください)

 つまり「助かる人を最大にする」選択と「助けられない人を捨てる」選択はトリアージにおいて同時に現れるもので、片方があればもう片方もあると、そう類推されるものでもあります。「助かる人を最大にする」以上は「助けられない人を捨てる」選択も当然あるだろう、と。ではその逆、「助けられない人を捨てる」選択がそこにあった場合は? 多くの人はそこに「助かる人を最大にする」選択も同時にあるのだろうと信じます。信じますが、果たしてそうかな?と。

 AならばBである、しかしBならばAである、そうは限らないわけです。クマならば哺乳類ですが、哺乳類ならばクマという訳ではありません。ですから「助かる人を最大にする」選択が「助けられない人を捨てる」選択を常に伴うとしても、「助けられない人を捨てる」選択が「助かる人を最大にする」ことに結びつくとは限らないわけです。なのですが、この一方通行の関係を理解せず、主客転倒したままトリアージの論理を拡大させていくと「助けられない人を捨てる」ことこそが「助かる人を最大にする」ことであり、往々にしてそれが最善だと言うことになってしまいます。そして「助けられない人を捨てる」人は「助かる人を最大にする」ヒーローとして想起されるようになる、と。

 このヒーローとは、小泉純一郎や竹中平蔵であり、橋下徹でもあります。つまり彼らは「助けられない人を捨てる」行為に邁進してきた、邁進しているわけですが、その支持者から見ればそのトリアージは「助かる人を最大にする」ための積極的な善行なのです。一方でその選別に反対する人や手を緩める人は「助かる人を最大にする」ことを阻む抵抗勢力であり害悪と、そう位置づけられもします。そしてここで求められている「主」は「助けられない人を捨てる」ことの方にあり、いかに人を選別し切り捨てていくかが追求され、いかに人が選別され切り捨てられたか、その被害の度合いが大きければ大きいほど、「助かる人を最大にする」ための改革は進んでいるとしてヒーローへの支持は高まるのです。

 災害医療現場においては、その選別が最善である場合もあるのかも知れませんが、それが社会的トリアージ、政治的トリアージとなると話は別で、大半の場合は誤った基準でトリアージが行われます。まず危機を煽り、それが災害救助現場と同様の非常事態であるかのように錯覚させることから始まり、その非常事態において「助かる人を最大にする」ために「助けられない人を捨てる」選択を受け容れるよう迫るわけですが、それが抵抗なく犠牲を強いることに寄与することはあっても、犠牲に見合う対価が得られたことなどなかったでしょう? もたらされたのは犠牲だけです。

 「助かる人を最大にする」ために犠牲になれと迫る、これは純然たる脅迫ですが、より多くの人を助けるという大義名分がそれを正当化します。そしてこの脅迫が発生したとき、トリアージの考え方を内面化している人々は「助けられない人を捨てる」ことを善行として讃え、その脅迫に抗う人々を「助かる人を最大にする」ために殺そうとするわけです。かくして「助けられない人を捨てる」ことは多数の支持を獲得し、それに異議を唱える人は抹殺されてゆくわけですが、そこで「助かる人を最大に」出来たかどうかは往々にして問われません。「助けられない人を捨て」たのだから、もう片方の対も為されているに違いないと、そう確信されて終わりです。

 トリアージが成り立つためには、本当に限定された緊急事態であり他に選択肢がないことが一つの条件として必要です。ところが社会/政治の分野では、あるいは雇用や福祉などの分野では、危機でもないのに危機を煽ることでトリアージを迫る発想が幅を利かせています。これは死刑判決を巡る消極的選択と積極的な選択と同様で、全員を助けることが出来ず他に方法がないからトリアージを行うのではなく、トリアージを回避する特別な理由がない限りはトリアージを行うもので、この両者には決定的な違いがあるはずです。そして今、広汎に選択されているのは後者だとしたら?

 危機を理由に、そして危機の中で「助かる人を最大にする」口実で、誰か/何かを切り捨てることが常態化しています。そしてそれは、犠牲を迫られる側の人々からこそ強く支持されてすらいます。権力の側にとって目的は「切り捨てる」ことそのものであるにしても、トリアージを信奉する被支配者はその「切り捨てる」行為を「助かる人を最大にする」ものと信じていますし、時には被支配者の側からそれを要求することすらあります。トリアージを信奉する被支配者はそれが「助かる人を最大にする」ことと同義と確信して「助けられない人を捨てる」ことを要求し、権力がそれに追随する場合すらあるほどです。

 繰り返しになりますが「助けられない人を捨て」れば「助かる人を最大に」出来るとは限らないのですが、クマならば哺乳類であり、哺乳類ならクマであると信じる人もいるものです。そして「助けられない人を捨て」れば「助かる人を最大に」出来るとの盲信もまた根深く、この場合は選別すること自体が目的となり、選別することこそが正義にすらなります。かくして(結果としてそうなったのではなく)積極的な判断の結果として国民なり住民なりに負担や犠牲を強いれば強いるほど、「助かる人を最大にする」英雄として祭り上げられる、それが小泉であったり、橋下であるわけです。

 (元)登校拒否系の常野氏はこのトリアージの概念を乱用し、切り捨てられる側の犠牲を当然のことであるかのごとく印象づけようとする人々に警鐘を鳴らします。一方で、こうした犠牲を強いる論理を当然と思いこんでいる人、他人に犠牲を強いることを好ましく思っている人、それへの異論を感情論と呼んで黙殺しようとする人は、この肥大化したトリアージへの異議を拒絶します。それが色々な意味で「わかっていない」コメントにつながるわけですが、その辺の人の論法は例によって似たり寄ったり、災害医療現場などの本当の緊急事態で「上手くいった(と、思われている)」ケースを想定してトリアージの有効性と必要性を説くわけです。

 もちろん、本来使うべきでない領域に拡張されたトリアージの概念を批判しているエントリに対し、偶々トリアージの概念が上手く当て嵌まったケース(本来の場面で使われたケース)を持ち出されても意味がないと言いますか、何の反論にもなり得ていません。ストライクゾーンに投げることすら出来ないのなら、勝負にすらなりませんよね? それでもなお、本文とは無関係なトリアージの有効性なり必要性を持ち出して、それが危機的状況でも何でもない政治や社会に対しても必然であるかのごとく語る欺瞞の多さに、人を切り捨てることへの強い欲望を感じないではいられないのです。

 

 ←応援よろしくお願いします

 

参考、
「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か ― 過ぎ去ろうとしない過去

コメント (8)   トラックバック (3)

Beyond the Realms of Punishment

2008-05-24 21:33:37 | 非国民通信社社説

 潔癖症というには少し違うかも知れませんが、世の中には一つの汚点もないこと、清廉潔白であることを要求する向きもまた強いものです。私なんぞはその対極にいるわけで、「まぁそんなものだろう」ぐらいにしか思わないケースも多いのですが、多くの人にとっては必ずしもそうではない、些細なことでも大騒ぎに発展するのが実情でもあります。

 非の打ち所のない、完全無欠の組織もしくは人物など存在しない(私に言わせればそれを目指す必要すらない)わけですが、その完全無欠ではないことがさも重大事であるかのように語られる、認識されることも目立つわけです。まぁそういうところもあるだろうよと、私はその程度に考えるわけですが、世の中ではそれに対する怒りが渦巻いていたりもします。

 ここで私が念頭に置いているのは、環境保護団体であったり、労働組合であったり、あるいは左派政党等々、及びそれらに所属する人々です。いずれにせよ、その他の団体と同様に欠点のない組織などあろうはずもないわけですが、だからどうだというのでしょうか? 他人は決して自分の思い通りには動かないものです。別にそれらが(自分にとって)理想的でなかったとしても、取り立てて騒ぐようなことでもありません。

 ところが多くの人にとってはその何らかの欠点が格好の足がかりになっているようで、何か一つでも灰色の部分を見つけたら、そこから勝ち誇ったように全否定に走る人が後を絶ちません。歴史修正主義者も似たような考え方をしますね、些末なことを騒ぎ立てることで、さも全体が信用ならないかのように印象づけようとするわけです。もっとも、こうした僅かな瑕疵をとっかかりにして全否定に走ろうとする人の場合、その人が強調してやまない瑕疵とは実は言いがかりに過ぎず、より重要な問題を見過ごしているケースが大半でもありますが。

 否定したいという思いが強いあまり、そのチャンスがあればどんな下らないことでも飛びつくものなのでしょうか。反対に自分が信じたいと思っているものに対しては、どれほど支離滅裂なヨタであろうと(例えばモラルの低下など)盲信するにもかかわらず、自分が強く否定したいと願っているものに対しては、何か理由を見つけてでも全否定に持ち込もうとするわけです。環境保護団体なり労組なり左派政党なりも他の組織と同様、一点の汚れもない清廉潔白の組織であろうはずがないわけで、別にそうである必要すらないと私には思われるのですが、そうした組織を拒絶したい人から見れば、ちょっと怪しい部分を見つければ鬼の首でも取ったかのように大はしゃぎ、どうしようもありませんね。


 さて、私は潔癖症からはほど遠いものでして、多少の誤魔化しやズルぐらいではガタガタ言いません。方々で相継いだ食品偽装問題も同様で、味では問題なかった上に該当の食品で体調を崩した人もいないのなら、被害者はいないようなものだから気にするようなことでもない、むしろ売れない食品に付加価値をつけて商品価値を持たせた工夫は褒めてやりたいくらいだよと、そう感じたものです。ましてや自分で判断せずに世評や看板、ブランドイメージにすがる人々や料亭の常連客など、この辺の人々を私が快く思っているはずもなく、それが一杯食わされたと知ったときには「こいつは傑作だ」と膝を叩きました。

 そこはそれ、自分で考えるよりも世の権威が定めた基準で物事を判断したい人にとっては一大事でしたし、何より他人を咎めたくて仕方がない人にとっては、狂喜乱舞する事態でもありました。たとえそこに被害者などいなくとも「不正」があれば十分、他人を咎める絶好の材料があるのなら、そこに飛びつかないではいられない人もいるものです。「割高なブランド品を奮発したのにマズかった」「腹をこわした」などの被害者はいなくとも、そこに罪さえあればなんとしても罰したいと、そんな欲望を駆り立てたのです。

 しばしば目的は誰かを「守る」ことから誰かを「罰する」ことに移り変わります。「守る」ことが目的であれば、人々が何らかの被害から免れていれば目的は達成されたと言えるでしょう。そこに何らかの被害が存在しなければ、人々を「守る」ことは成功を収めているわけです。ところが何の被害も発生しなくとも、我々の社会は頻繁に人を罰しようとします。それによって誰一人として被害を被ることがなくとも、規則は規則、違反は違反と、次々と罰せられてゆくのが現状なのです。

 昨今では児童ポルノ絡みの法改正が格好の例になるかも知れません。つまり今回企てられている法改正で問題になっているのは実在する児童に対する性的虐待などではなく、純然たるフィクションの方なのですが、勿論そこに被害者など存在するはずがありません。フィクションからの間接的な影響を類推することは不可能ではないにせよ、その関係は必然的なものではなく何らかの被害に繋がる可能性は憶測の域を出ないわけです。その直接的な被害など存在し得ないフィクションに対して罰則を定めようとしているわけですが、誰か(この場合は児童)を「守る」という観点からすれば百害あって一利無し、です。ですが、我々の社会が追い求めているのは「守る」ことではなく「罰する」ことであるとしたら? (――などと書いていたのですが、22日の与党会合では非・実写のポルノに関しては今後の検討課題として見送りの方針だそうで)

 凶悪犯罪が減少を続ける中で御用学者や大手メディアは犯罪不安を語り、その「顧客」はそれを信奉する、政府や公安関係者は治安対策を重要課題と語り、その支持者や潜在的な支持者はさらなる治安対策の必要性を確信します。どうやら、犯罪の減少は我々の社会に安心をもたらしはしないようです。そこで対策として行われていることは? 言うまでもない、罰の増大です。凶悪犯罪が減少を続ける一方で、厳罰化には歯止めがかからず、殺人件数が戦後最低を更新する一方で死刑判決と執行は最多を記録、それでもなお世論は一層の厳罰化を追い求めているわけです。我々の社会が望んだのは犯罪の減少ではなく罰の増加であり、それは誰かが何らかの被害を負わないことではなく、被害はなくとも人がより厳しく罰せられることでした。

 児童ポルノを巡る法規制の問題は、その網に掛けられようとする対象が普段とは異なっていることもあって、従来はこうした不当な規制に反対することのなかった人々をも反対側に迎え入れているところがあります。しかし、こと児童ポルノに関しては政府の規制に反対するが、それ以外では国民に対する規制や罰則の強化に諸手を挙げて賛成してきた人もまた多いわけです。それによって守られる人などいなくとも、それによって罰せられる人が増えることを、我々の社会は歓迎してきたし、これからも歓迎し続けるのではないか、と。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (11)   トラックバック (1)

夢の異種格闘技戦

2008-05-23 23:06:49 | ニュース

入浴のぞかれ警官、裸で追跡 屋根から飛び降り失神の自衛官逮捕 幕別(北海道新聞)

 帯広署は二十一日、建造物侵入の現行犯で、十勝管内幕別町の自衛官の男(28)を逮捕した。

 調べによると、男は同日午後十時五十分ごろ、女性の裸をのぞく目的で同町内のホテルに侵入した疑い。一階の屋根に上がり、二階の家族風呂を窓越しにのぞこうとしたところ、知人と偶然入浴していた池田署の男性警察官(31)に見つかり、逃走した。

 警察官は風呂から上がり、そのまま追跡。ホテルの外で、屋根から飛び降りた際に着地に失敗して失神している男を発見、服を着た後に取り押さえて帯広署に引き渡した。

 北の国で現役自衛官vs現役警察官の夢の異種格闘技戦が行われたそうです。48のポリ殺し「非常なるギター」で襲いかかる自衛官に対し、警察官はすかさず股間のマグナムを抜いて応戦、衝撃の失神KOで警察官の完勝に終わりました。

 ・・・さて、隣の国でレイプ事件が報道されれば自国の集団レイプ事件を忘れ、隣の国が海外からの救援を拒めば自国が海外からの救援を断ったことを忘れ、隣国で火事場泥棒が発生すれば震災の混乱に乗じて国民主導で虐殺に走った自分達の過去を忘れる健忘症の著しい我が国ですが、今回はいかがでしょうか。割とよくあるニュースなのですよね、軍関係者の性犯罪って。モノの本を読み返してみたら、39歳の大隊長(二等陸佐)が露天風呂を盗撮し、従業員に取り押さえられたなんてこともありました。旅館従業員の戦闘力も侮れませんなぁ。

わいせつ容疑で米兵を逮捕 沖縄の路上で下半身を露出(共同通信)

 沖縄署は23日、路上で女性に向けて下半身を露出したとして、公然わいせつの疑いで米空軍嘉手納基地の上等兵マリック・バシェット容疑者(26)を逮捕した。調べでは、バシェット容疑者は同日午前7時50分ごろ、沖縄市上地2丁目の路上で、歩いていた女性の前に立ちはだかり、ズボンを下ろして下半身を露出した疑い。「用を足すつもりだった」と容疑を否認しているという。

 沖縄ではよくあることなのかも知れませんが、路上で女性の前に立ちはだかり「用を足そうと」した米兵が捕まりました。自衛隊の性犯罪がセクハラや痴漢、のぞき中心であるのに対し、米兵は露出やレイプなどが目立ちますが、その辺の違いはどこから来るのでしょうか。治外法権だから大丈夫とか、日本では被害者側が告訴を取り下げる可能性が高いから大丈夫とか、見舞金の支払い命令を命じられても無視してアメリカに帰ってしまえばそれで済むとか、色々な目算もあるのかも知れませんが、強いて言えば自衛隊の方が淫靡なイメージですね。どこぞやの自民党議員に言わせれば米兵の方が元気があってよい、正常に近いともなりそうですが。

 ともあれ現実の軍隊には道徳家のイメージなどあろうはずもないのですが、それでも軍人を理想とする社会意識は根強く残っています。研修と称して新入社員を自衛隊に短期間入隊させる企業は増え続ける一方ですし、(現行の社会では蔑視の対象である)引きこもりや失業者層を自衛隊に入れて鍛え直せとか、そういう発想は絶えるところを知りません。我々の社会の多数派の認識としては、軍隊は好ましい人間を、立派な人間を育てるところという位置づけのようです。だけど、日常的に目にする今回のようなニュースはどうよ?と。

 そこで健忘症の話です。不都合な事例はすぐに忘却され、自分達の願望が代わりに投影されるのです。軍関係者の著しく品位を欠く不祥事や性犯罪は記憶から除外され、代わりに理想的な社会人像、サムライ像がそこに投影されるわけです。これは他の分野でもよくあること、日頃はポリや公安関係者を罵倒し、その不祥事には怒りを露わにしているような人が、いざ「犯人」を罰する段になると途端に検察側の主張を鵜呑みにして、弁護側の主張には耳を傾けようとしないケースなど珍しくもありません。学校給食費を巡っても全く同様のパターンで、日頃は学校の先生の声など全否定するばかりの人が多いわけですが、同じ学校の先生が「規範意識の低下で給食費の未納が増えたと思う」と感想を述べると、途端にそれを揺るぎない事実として全面的に信用する人が大半なのです。嫌なことを忘れるのも必要な能力の一つではありますが、自分のことすら都合よく忘れるのはどうかと。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (4)   トラックバック (1)

本当に優遇?

2008-05-22 23:01:13 | ニュース

3世代同居世帯に減税、高齢者優遇措置で政府・与党が原案(読売新聞)

 政府・与党が検討している、雇用や税制の優遇措置などを含む総合的な高齢者対策「高齢者の『安心と活力』を強化するための緊急措置」の原案が21日明らかになった。

 世代間の助け合いを支援するため、3世代が同居する世帯に減税措置を講じるほか、雇用促進を目的に60歳以上の従業員に対する雇用保険を減免する案などを打ち出している。

 3世代同居世帯への減税は、高齢者と同居する住宅の固定資産税や世帯主の所得税の軽減などを検討する方向だ。高齢者の独り暮らしによる健康や治安面などの不安もあり、3世代同居を促して高齢者が安心して暮らせるようにする。

 国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、75歳以上の独り暮らしの高齢者世帯は2005年の197万世帯から、現状のままだと2030年には429万世帯に膨らむ見通しで、対策が求められている。

 これ、3世代じゃなきゃダメなのでしょうか? 先代の総理みたいに欲しくても子どもが出来ない家庭もあるわけで、子どものいない世帯が老親と同居する場合は優遇措置の対象外にならないのでしょうか? 単に一人暮らしの高齢者世帯を減らすことを目的とするには、3世代の同居という条件はいささか不十分にも見えます。どうにも因習的な家族モデルばかりを前提にしており、それには当て嵌まらないライフスタイルは構想に含まれていないようです。

 むしろ高齢者と同居する3世代同居だけを対象にするのではなく、あらゆる年代の親と同居する世帯に対して優遇措置でも採用したらいいのではないでしょうか。日本社会はどうにも独立志向が強すぎると言いますか、親元を離れることに対してあまりにも盲信的です。その是非を問うことなしに、無条件にそれを良しとしてしまっているわけですね。この深刻な偏りを是正するためには、親元に住む若年層への優遇措置を考えてみるのも面白いのではないでしょうか。

 そもそも、方向性が矛盾しているわけです。ある世代には親元から離れろと強要する一方で、またある世代には親と同居するよう推進している、これではどっちに進めばいいのか分かりません。左を向いてから右を向けばいいのですか? それでは、最初から動かないのと結果は同じです。余計なことをしたおかげで無駄が生まれてしまうではありませんか!

 実際、一度親元を離れてから再び親と一緒に暮らすとなると、これまたハードルが高くなるような気がします。高齢者の独居を防ぐためには、最初から若年者を近くに止めておくこと、離さないことの方が効果的なのではないでしょうか? 一人暮らしの高齢者の増加は、後先考えずに若年層の「自立」を一面的に押しつけてきた結果であり、ツケを払わされているとも言えます。家を出ろと迫りながら、それと同時に「親と一緒に暮らしなさい」と語ることの馬鹿馬鹿しさを真面目に見つめる必要もあるはずです。これからの時代は「自立」ではなく「相互依存」ですよ。

 「家を出ろ」と言われる年齢と「両親と一緒に暮らすべきだ」と言われる年齢の境目がどこにあるか、非常に興味深いところでもあります。諸々の要因で「独立しろ」と言われつつも親元で暮らし続けたとして、そのまま齢を重ねていったらどうなるのでしょうか? ニートだの穀潰しだのと言われていたのが、いつの間にか孝行息子に変わるのでしょうか? 何を境に? 逆に若くして「自立」した孝行息子が、そのまま追いゆく両親とは離れて暮らし続けた場合は、いつ評価が反転するのでしょうか?

 一方、雇用保険料は労使が折半して支払っている。保険料を減免措置すれば、60歳以上の従業員の負担が軽くなると同時に、企業が高齢者を雇用する意欲も高まるとの期待がある。

 それはさておき、日本における雇用側の保険料負担は世界的に見ても格安であるわけですが、高齢者を雇う場合はさらに企業側の負担が減るようにしたいようです。なるほど、企業は安上がりな非正規従業員や外国人労働者を意欲的に雇用しています。今度はこの列に高齢者も加えようというわけですね。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (4)