非国民通信

ノーモア・コイズミ

政治家の圧力

2019-04-28 21:35:15 | 社会

文科省の放射線副読本を回収 野洲市教委、記述を問題視(朝日新聞)

 文部科学省が全国の小中学校と高校に配布した昨年10月改定の「放射線副読本」を、滋賀県野洲市教育委員会が回収していることが25日、分かった。東京電力福島第一原発事故の被災者への配慮がなされておらず、放射線が安全との印象を受ける記述が多いと判断したという。

 副読本は小学生、中高生向けの2種類ある。放射線がX線撮影に使われていることや、放射線の性質と人体への影響などを説明。福島第一原発事故と復興のあゆみを取り上げている。「(福島第一原発)事故で放出された放射性物質の量はチェルノブイリ原発事故の約7分の1で、福島県が実施した検査結果によれば、全員が健康に影響を及ぼす数値ではなかった」などの記載もある。

 3月の市議会の一般質問で、「人工と自然界の放射性物質を同列のように扱い、(放射性物質が)安全であると印象を操作しようとしている」などと指摘を受け、市教委が副読本の内容を精査。放射線の安全性を強調するような印象を受ける記述が多い▽被災者の生の声が少ない▽小中学生にとって内容が高度――と判断し、回収を決めた。

 

 さて大震災と津波、その後の原発事故から8年あまりが経過しましたが、事故を契機に放射線について理解を深める人もいれば、逆に信仰を深める方を選んだ人も多いように思います。まぁ、人間を動かすのは現実ではなく信念であり、自らの世界観を守ること以上に重要なことはないのかも知れません。

 そこで文部科学省発行の副読本を、独自に回収している自治体があるそうです。何処の議員かは伝えられていませんが、曰く「人工と自然界の放射性物質を同列のように扱い、(放射性物質が)安全であると印象を操作しようとしている」などと騒ぎ出したとのことで、これが回収に繋がったようです。

 しかし、人工であろうと自然界に存在しているものであろうと、放射線の性質に変わりはありません。これは事実であり、少なくとも印象操作に該当するものではないわけです。ところが、原発事故後に福島界隈へのヘイトスピーチに励んでいた人の「世界観」には、人工的なものは自然界にあるものと違って有害であるという信念があり、それは絶対に譲ることの出来ないものなのでしょう。

 ゆえに、野洲市の氏名不詳議員にとって、「人工と自然界」の区分は自身の信仰に関わる問題であった、事実ではなく信念の問題として、自らの世界観を守るために戦わねばならない事案であったと言うことができます。それは思想信条の問題であり、事実認定の問題ではない、ましてや教育の問題でなどあろうはずがないのですね。

 ただ報道としてはどうなのでしょうか。一部の思想的に偏った議員の暴走とその結果を伝えるだけで良いのか、メディアとして事実を伝えるのか否か、そこは良心が問われます。「『(福島第一原発)事故で放出された放射性物質の量は~健康に影響を及ぼす数値ではなかった』などの記載もある」云々との報道ですけれど、これなんかも揺るぎない事実です。しかし報道を見ると、これまで「問題視」されるべき箇所のように映ります。こういうのが、典型的な印象操作です。

 起こったことをありのままに伝えるという点では、放射線副読本(とりわけ報道で取り上げられている部分)に瑕疵はありません。一部議員の思想信条と相容れなかった、ただそれだけのことです。しかし結果として、市教委は副読本の「回収」を決めてしまったわけです。一部の思想面で偏った政治家の圧力に屈して(もしくは忖度して!)。

 報道も暴走議員も、これを追認する市長もそうですけれど、市教育委員会もどうなのでしょう、一部の政治家が自身の思想信条に相容れないからと言って教材の回収を要求する、そうした振る舞いに対抗できないようでは、この先が大いに不安視されます。それで教育を守れるのか、市教委の姿勢もまた問われるものがあるのではないでしょうか。放射線副読本の記述に批判されるべきものがないのとは裏腹に、それを巡る騒動には少なからぬ問題があると言えます。

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「所定の場所」とは

2019-04-21 21:50:20 | 編集雑記・小ネタ

 私の職場ではところどころに「○○は所定の場所に捨ててください」と書かれた張り紙が貼ってあります。まぁ区のゴミ捨てルールもあれば入居しているビル独自の分別ルールもありますから、「所定の」場所以外に捨てられたら困るものもあるわけです。そのため分別の必要なゴミが「所定」ではない場所に捨てられていると、数日後には「○○は所定の場所に捨ててください」との張り紙が登場するのですね。

 つい自身の住んでいる自治体のゴミ捨てルールで行動してしまった人もいれば、訳知り顔で分別はムダだとニワカ知識を披露して分別しない人もいる、うっかり間違ってしまう人もいれば面倒くさがって適当に捨てている人もいる、「所定の」場所へ捨てられない理由は様々です。いずれにせよ結果として「○○は所定の場所に捨ててください」との張り紙は増えていくわけです。

 しかし私がずっと疑問に思っているのは「所定の」場所とは何処なのか?と言うことです。張り紙の内容から判断するに、入居しているビルには段ボール置き場、弁当ガラ置き場、廃トナー置き場など、種類に応じた捨て場所が存在しているであろうことがうかがわれます。ところが、それぞれを捨てに行くべき「所定の」場所が何処にあるのか――これが張り紙からは分からないのです。

 「所定の場所」が何処に存在するのかを知っているが、悪意を持って所定ではない場所にゴミを捨てている、そんな人に対してなら「所定の場所に捨ててください」というメッセージは一応の意味があるのかも知れません。しかし、個別のゴミ捨て場所を知らない人に「所定の場所に捨ててください」と伝えても、何かが改善されるのでしょうか?

 少なくとも私の記憶では、入社したときにゴミ捨て場所を案内されたことはありません。職場が移転したときもやはり、「所定の場所」が何処にあるのか、誰かから教わったことはないです。書類を配りに社内を歩き回っていたときに偶然、恐らくはここが所定の場所であろうと思われるものを見かけたことならありますが、それが正しいかどうかは分かりません。

 社内のポータルサイトに、各種問い合わせ情報やFAQ、事務所利用ガイドなどもあるのですけれど、「所定の場所」で検索してヒットするものはありませんでした。「所定の場所へ」という張り紙は事務所のあちこちで見かけるにも関わらず、所定の場所は謎のままです。たぶん総務部の人と、そのオトモダチネットワークを介して私的に伝えられる秘儀のようなものなのでしょう。

 私だったら、「所定の場所へ」とは書かずに、図なり言葉なりで、対象を捨てるべき場所を明示します。そうすれば、少なくとも何処に捨てるべきかを知らずに間違った場所へ捨てていた人は、捨てる場所を改めることでしょう。しかし会社の掲示物を作る人は、具体的にどこかを知らせる代わりに「所定の場所へ捨ててください」とのメッセージを発することを好んでいるようです。それはどうかと私などは思いますが――コミュニケーション能力さえあれば、こんなやり方も許されるのかも知れませんね。

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人物重視が奪ったもの

2019-04-14 23:11:21 | 社会

大学入学式、スーツ黒一色の謎 減点嫌う社会を反映?(朝日新聞)

 4月から新年度。大学の入学式では、慣れないスーツに身を包んだ新入生が顔をほころばせる。ただなぜか、スーツは「黒一色」だ。

 7日午前、日本武道館(東京都千代田区)であった明治大の入学式は4千人近い1年生が並んだ。圧倒的多数は黒か濃紺のスーツで、薄いグレーのスーツと青色の民族衣装の女子学生が1人ずついた程度だった。

関連、黒のスーツが染めた入学式 ICU学生部長感じた違和感(朝日新聞)

 

 いわゆる就職氷河期が始まる少し前に大学に入った自分の感覚では、入学式にスーツを着てくる人なんて、決して多数派ではなかったように思います。むしろ18歳かそこらのスーツ姿は七五三的な雰囲気を漂わせるものでしかなかったものですが、今は誰もがスーツを着込む、それも専ら黒一色だというのですから驚きです。経済力という面では時計の針が止まったような我が国ですけれど、大学生を取り巻く環境は随分と変わりましたね。

 校名や学部名以外のあらゆる箇所から教養を排除した就活特化・英語特化の大学も、昨今は当たり前になりました。そんな大学であれば、大学入学は就活の第一歩ですからリクルートスーツも必然なのかも知れません。ところが本文で言及されているのは明治大学であり、写真は早稲田大学、関連ニュースとして嘆息の声が聞こえるのは国際基督教大学と、難関大が並びます。これぐらいの大学に入る人にして、この有様というのは率直に驚きです。

 日本私立大学連盟会長にして政府の教育再生実行会議の座長も勤めた鎌田薫早稲田大総長は、アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革すると称して、職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言をしていました。国公立大入試の2次試験からペーパー試験を廃し、面接など「人物評価」を重視するとも訴えていましたが、その影響はどれほどのものでしょうか。

参考、人物重視で選考された結果

 就活生、及び新人社員が皆、同じ格好をしているとは数年前から言われるようになったことでもあります。それが今では大学の新入生にまで当てはまるようになってしまったようです。朝日新聞は「減点嫌う社会を反映?」と見出しに掲げますが、いかがでしょう。「社会」もさながら、より具体的には「採用」と名指しした方が良いようにも思います。加えてもう一つ、昨今の(英語以外の)学力軽視、その裏面で張る人物重視が影響しているとも言えます。

 大阪市が維新の支配下に入ると、その職員採用試験からは専門知識を問う問題が廃止され、エントリーシートや面接中心の「人物重視」採用に切り替えられたそうです。結果、採用者の7割が「法律知識不足」を認識しているとの調査結果が出たりもしました。かつては人間性はさておき法律知識に関しては厳しく選別されていたものが、逆に「人物」によって選別されるように変わったのですから、当たり前と言えるでしょう。

 多様性とは、選別しないことによって生まれます。法律知識で人を選別すれば、中には入れ墨を入れているような多様な人が集まりますが、法律知識は誰もが一定水準以上です。逆に人物重視で選別すれば、「人物」面で高得点を獲れる人ばかりが集まるため、入れ墨を入れているような人は弾かれます。しかし一方では、法律の知識に乏しい人も採用されるわけです。法律の知識という面では詳しい人もいれば疎い人もいる、ある種の多様性ができあがるのです。

 大学も然り、ただ単に学力だけで選別されれば、人間性の面では多様性が生まれます。真面目でも不真面目でも、社交的でも内向的でも、従順でも非常識でも、とりあえず「勉強は出来る」という一点で選考していれば、学力「以外」の面では多様な人が集まってくるものです。だからこそ昔の京都大学など奇人変人の集まりとして知られていたわけです――「勉強が出来る」という点では、皆一緒なんでしょうけれど。

 ところが元・京都大学総長の松本紘などは「受験勉強ばかりでなく、高校時代にやっておくべきこと、例えば音楽とか、恋愛始め人間関係の葛藤とか、幅広い経験をしてきた人に入試のバリアを少し下げる。」などと宣言していました。こうなると、いかがでしょう。勉強が出来る人の集まりだったのが、そうでなくなる可能性はあります。勉強の出来る人もいれば、そうでない人もいる、学力の面では、多様性が生まれるに違いありません。

 しかし勉強が出来るけれど「音楽とか、恋愛始め人間関係の葛藤とか」の経験に乏しい人の代わりに入ってくるのは、どんな人なのでしょうか。結局のところ学力試験の代わりに「人物評価」で高得点を獲れるタイプの人が集まるようになれば、奇人変人は多いが「勉強が出来る」という点では皆一緒、という構図が変わります。今度は学力面ではバラバラだけれど「人物評価で高得点」という点で皆一緒になるわけです。

 今時の大学の選抜は、どうなのでしょうね。医学部界隈では試験の点数を見た後に、色々と恣意的な操作があって大いに問題視されたのは記憶に新しいところです。それは明確な性別による線引きがあったから問題視されたと言えますが、客観的な基準などあろうはずもない面接その他による人物評価の場合は、もっと酷い気がします。結局、人物評価の結果として「人間性が高得点」な人が多数派として場の空気を支配するようになっている、結果として入学式すら黒のスーツが当たり前みたいな結果に繋がっているのかも知れません。

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勢力図が変わる要素なし

2019-04-07 23:15:05 | 政治・国際

「求む対立候補!」東京・東村山市長が異例のアピール 無投票に危機感(産経新聞)

 統一地方選として21日投開票で行われる東村山市長選で、現職で4選を目指す渡部尚(たかし)氏(57)が5日、市内で記者会見し、「市が始まって以来の無投票になる恐れが高まっている。われと思わん方に名乗りを上げていただきたい」と、対立候補の出馬を呼びかける異例のアピールを行った。あえて選挙戦を呼びかけた背景には、地方選挙で投票率が低下傾向にある現状や、市政への関心低下に対する危機感があるとしている。

(中略)

 地方政治に詳しい法政大学大学院公共政策研究科の白鳥浩教授の話 「住民の負託を重視し、選挙戦での当選を目指す姿勢は、地方自治の活性化にもつながる。無投票当選は民主主義の観点からみて問題があり、現職であっても正当性の担保は難しくなる。1人しか当選しない首長選で当選するには何らかの政党や団体の支持が不可欠。(国政レベルで)野党の足並みが乱れていることも、候補者が立たない要因になっているのではないか」

 

 さて先週は無投票の選挙区が全体の4割に上るという話を書きました。そして東村山市長選もまた、無投票となる見込みのようです。出馬する人からすれば楽が出来る展開ではありますが、流石に危機感を覚えたのか現職候補が「市が始まって以来の無投票になる恐れが高まっている。われと思わん方に名乗りを上げていただきたい」と呼びかけていることが伝えられています。

 まぁ対立候補が立たないのですから信任を得たと言えなくもないですが、やはり選挙で勝ったのと無投票で決まったのとでは、重みが違うところもあるでしょうか。そうでなくとも引用の最後で語られているとおり「無投票当選は民主主義の観点からみて問題」には違いありません。政策を競った結果として選ばれるのが本筋であり、「他に候補がいなかったので」決まってしまうようでは、日本社会における民主主義の機能不全を示すばかりです。

 しかし同時に指摘されているように「1人しか当選しない首長選で当選するには何らかの政党や団体の支持が不可欠」というのも事実です。ただ出馬するだけなら供託金の用意だけで済むかも知れませんが、露骨な当て馬では選挙の意味がありません。現職候補にとって多少なりとも手強いと感じさせるだけの候補になるためには、相応の「後ろ盾」も必要でしょう。

 私の住む選挙区でも県議選が行われているわけですが、かろうじて無投票こそ免れたものの、周辺市町村も含め、判で押したように「定数+1」の候補しか出ていないところも多かったりします。誰か一人は脱落するという意味では競争なのかも知れませんけれど、就職なんかに比べれば、その競争率の低さは顕著です。だいたいの人は、当選できるのですから。

 メディア報道では政党党首がアレコレと訴えてもいますけれど、今回の地方選挙で与野党間のパワーバランスが変わる要素があるようには、どうしても思えなかったりします。無投票選挙区はもちろん、一人しか落ちないような選挙区において、(国政上の)与野党の勢力図が変わることは、原理的にあり得ないわけです。自由民主と立憲民主、国民民主のプロレスごっこは続いても、その結果は決まり切ったものではないでしょうか。

 現状のバランスを維持したい与党系が目立ったアクションを起こさないのは、致し方ないことです。しかし報道陣の前で猛々しく与党を非難する(自称含む)野党が、与野党のパワーバランスを逆転できるだけの候補を立てようとしていないとしたら、それはどう受け止められるべきでしょう。口先では安倍政権を批判しても、対立候補を立てないのでは、単なるパフォーマンスとしか言えません。

 今回の東村山市の場合もしかり、現職の市長を批判している人はいると思われますが、その声を掬い上げるべく対立候補を擁立しようとする野党は、存在していないわけです。こうなるともう、与党がどうこう以前に「野党が野党としての役割を果たせなくなっている」ことがわかります。野党支持層の中には良く「アベ一強政治」などと言う人もいますけれど、野党側の圧倒的な弱さの方に、より深刻な問題があるような気がしますね。

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