非国民通信

ノーモア・コイズミ

人が死んだわけじゃない

2007-04-30 14:49:12 | ニュース

またオシム節“悲劇乱用するな”(スポーツニッポン)

 日本代表のオシム監督は横浜FC―清水と柏―名古屋を視察した。“ドーハ組”の指揮官初対決について感想を求められると「W杯に出られなかったことが人生における悲劇とでもいうんですか?人が死んだわけじゃない。悲劇という言葉を簡単に使わないように」とピシャリ。菅沼のゴールについても「柏(の特徴)は個人ではなく集団でのプレー。個人を褒めることで台なしにしたくない」と評価を避けた。

 時に日本人は平和ボケしていると言われることがあるわけですが、その「平和ボケ」がハト派とタカ派のどちらに当てはまるのか疑問に思うことがあります。言うまでもなくイビチャ・オシムはユーゴスラビアの出身、内戦で崩壊したユーゴスラビアの出身であり、当然「平和ボケ」からは全く以て縁遠い人物ですが、そのオシムの立場はタカ派とハト派のどちらに近いでしょうか。

 石原慎太郎は先の都知事選で「選挙は戦争だ」と言いました。『半島を出よ』の著者である村上龍は「サッカーは戦争だ」といった一人です。一方オシムは「サッカーは戦争ではない。政治がスポーツに悪影響を及ぼさないことを、強く願う」と言いました。そしてオシムと同じくユーゴスラビアの内戦を経験したズボニミール・ボバンは「『サッカーは戦争だ』などと言う奴は、本当の戦争を知らないんだ」と言いました。

 そして今回、オシム曰く「W杯に出られなかったことが人生における悲劇とでもいうんですか?人が死んだわけじゃない。悲劇という言葉を簡単に使わないように」と。

 戦争経験者と、物語の中の戦争しか知らない人の間では、「戦争」「悲劇」といった言葉の重みは全く違ったものになるようです。平和な国の人間にとって戦争とは何かチャレンジすべきもの、肯定的な比喩として用いられますが、脅威にさらされている国の人間にとって「戦争」という言葉が意味するものは全く違いました。そして平和な国の人間にとって悲劇とはW杯に出られなかった程度のこと、日常的に使われる言葉ですが、現実の脅威にさらされてきた国の人間にとって「悲劇」とはもっと重いもの、取り返しのつかないものなのでしょう。

 こうしてみると、それが少なからず偏見の混じるものであったとしても、戦争に対して忌避感を抱いている人々の方がオシムの立場に近いように感じられます。少なくとも戦争や悲劇をスポーツなどの競技と同列に位置づける人々とオシムの立場は全く異なっているのです。

 間違いなく、戦争に対して忌避感を持つ人々の方が正しく戦争や悲劇を理解している、戦争をすることを前提に軍拡を叫ぶ輩が信じている戦争は現実からはほど遠い、タカ派が妄想する戦争のヒロイックなイメージなど、平和な時代にだけ許された夢に過ぎません。平和ボケしているからこそ戦争に対して僅かなりとも肯定的なイメージを抱くことが可能になるのであって、真に脅威にさらされている人間が戦争に対して肯定的なイメージを抱くことはないでしょう。戦争や軍隊と言ったものに対して忌避感を抱いている方が、まだしも平和に対する脅威を現実のものとして捉えていると言えるのではないでしょうか。

 

 ←もう泣くな、俺たちは戦争に負けたわけじゃない
                                ~ホセ・ルイス・チラベルト

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近畿でも3割は満足なのかな

2007-04-29 17:24:00 | ニュース

「国家公務員不信」近畿7割 東北4割、関東5割(産経新聞)

 国家公務員の仕事ぶりに対する不信感は西高東低-。公務員の働きに対して不満に思っている人は、近畿で7割近くと突出して高く、東北では4割程度で比較的、信頼されているという傾向が、内閣府の「公務員制度に関する特別世論調査」の地域別集計からわかった。

 近畿で不信感が強い背景には、一昨年から表面化している地域内の地方公務員厚遇問題があるようだ。

 大阪市では、制服名目でスーツが支給されていたことがやり玉にあがり、奈良市では5年10カ月間で実質8日しか出勤せずに給与を満額受け取っていた市職員の問題が明るみに出た。

 公務員の働きに対しては極めて強い不満を持っている当方ですが、さて。正直なところ、全国的に9割ぐらいの不満があるのではないかと思っていただけに近畿で7割、東北では驚きの4割に留まってたことに当惑を隠せません。あれだけ公務員叩きが世間の共感を得ている割には、意外なほど受け容れられているのでしょうか。尻馬に乗るのは嫌いなので、今まで公務員叩きには加わらない出来ましたが、ちょっと考えを変えましょうか・・・

 ただ、私が不満に思っているのは公務員の――単に公務員と言っても幅が広いのですが――働きに対してであって、その待遇に対してではありません。末端を見れば水際作戦よろしく人を殺してでも自治体の財政を守ろうとする社会保障関係の窓口の連中には強い怒りを覚えますし(よく考えるとこの場合は地方公務員であって国家公務員ではないですが)、上を見れば行政の様々な施策にはうんざりさせられることばかりです。えぇ、紛れもなく強い不満を持っていますね。

 しかしどうでしょうか、世間一般の公務員への不満の出所は、むしろ働きぶりではなく待遇面にあるような気がします。ただ私は公務員の待遇には不満を感じません、あの程度で厚遇されているなんて言えませんね。だいたい、職場がスーツの着用を義務づけるのであれば職場の側でスーツを用意するのはむしろ当然。民間企業の「監査役」などの怪しげな役員に至っては仕事の邪魔をするだけで公務員一般の何十倍もの給与を受け取っているわけですから、待遇面で怒りを感じるのは公務員よりもまず先に・・・というところがあります。

 自虐史観ならぬ自虐経済観とでも言いましょうか、日本が妙に貧しい国であるかのごとき意見をしばしば耳にします。労働コストを切り詰めてギリギリでやっていかないと厳しい競争に勝ち抜けない、経済が成り立たない、我々はそのような自虐経済観を押しつけられてきました。しかし、日本はそんな貧しい国ではありません。得られた利益を正当に分配すれば、現行のホワイトカラー公務員と同程度の給与を支給できるだけの富が日本にはあるはずです。

 公務員の待遇は間違っていない、公務員の待遇こそが適正、模範的なものであり、民間企業は公務員に倣うべきであるとさえ言えます。窓口は定時でしっかり閉めて、職場への拘束時間を最小限に留める、将来的な雇用を保障する、文化的で健康的な生活を日本の経済レベルにふさわしい形で可能にするだけの賃金を支払う、労働者に過剰な負荷を与えず、得られた利益をしっかりと分配する、公務員の間ではこれができており、立派だと賞賛されるべきです。これを非難するなんてとんでもない。

赤坂議員宿舎、9割が空室 「格安家賃」影響?(朝日新聞)

 「家賃が格安だ」と批判が出ている衆議院赤坂議員宿舎の入居者が22日現在で、全300戸のうち約1割にとどまっていることが分かった。約4割が入居希望すらない状態という。

 そりゃ、格安には違い有りませんが、民間企業の海外出張であれば赴任先の家賃は会社持ちであっても別に不思議ではありませんし、もちろん不当でもありません。落下傘候補が少なくないにせよ、地方から選出された議員が東京で仕事をするのですから、その仕事に必要な住居が割安であることぐらいは批判されるべきではなさそうな気がします。批判されるべきは格安の家賃で宿舎を借りられる議員特権ではなく、その政治家の政治活動の内容ではないでしょうか。

 地方から選出された議員が都内での活動を要求されるのですから、要求した側が住居を用意するぐらいは当然のこと、その住居の立地がよいのは、所属団体の福利厚生が充実している程度のものです。別に悪いことをしているわけではありません。ありませんが・・・批判が出てくる、議員達がこぞって批判に怯えて入居を控えているのが現状です。日頃は批判を浴びても悪政を改めようとしないくせに。

 どうも、働きぶりへの批判よりも厚遇ぶりへの批判の方が強力なようです。日本の経済水準からすれば決して厚遇ではないと思うのですが、それはさておくにしても、もっと大事なことがあるわけです。公務員の待遇や議員特権を切り下げれば、それで溜飲を下げる人が多いのかもしれません。しかし、そんなことで我々の生活が上向くことはありません。むしろ溜飲を下げることで根本的な問題に対する不満が一時的に解消され、忘れられてしまうとしたら・・・

 

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GNH

2007-04-28 20:53:17 | 文芸欄

詠み人知らず

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」
と尋ねた。 すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって… ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう」

 

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偉くならず、のんびりと

2007-04-27 23:20:25 | ニュース

日本の高校生「偉くならず、のんびりと」 日米中韓調査(朝日新聞)

 「偉くなりたい」と思っている割合は他国の3分の1程度の8%。むしろ「のんびりと暮らしていきたい」と考えている子が多い――。日本の高校生は米中韓国に比べそんな傾向があることが、財団法人「日本青少年研究所」などの調査でわかった。「偉くなること」に負のイメージが強く、責任の重い仕事を避ける傾向も目立った。

 日本の高校生の特徴がもっとも表れたのが、「偉くなること」についての質問。他国では「能力を発揮できる」「尊敬される」といった肯定的なイメージを持つ生徒が多いのに対し、日本では「責任が重くなる」が79%と2位以下を大きく引き離した。「自分の時間がなくなる」「偉くなるためには人に頭を下げねばならない」も他国より多い。

 このため「偉くなりたいと強く思う」は8%。他国では22~34%だ。日本の高校生は、他国よりも安定志向が強い。「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしていきたいと、とても思う」は43%と、14~22%の他国より抜きんでる。

 こんばんは、偉くなりたくてもエロくなるのが精一杯の非国民通信です。「日本青少年研究所」の調査が発表されたようで―――ここの調査は以前から今ひとつ信頼が置けないところがあるのですが―――それによりますと、日本人は「偉くなりたい」と思っている割合が他国に比べると低いとか。ついでに言えば「エロくなりたい」と思っている人の割合も低そうですね。コンドーム大手デュレックスの調査に拠ればセックスの年平均回数は日本が世界最下位だそうで、とは言え童貞を守ることが長寿の秘訣という説もありますので、世界一の長寿国である日本はむしろ誇りに思うべきなのでしょう。

 さて、日本では「偉くなること」に負のイメージが強いそうです。ふむ、それでは「偉い人」へのイメージはどうなのでしょうか? 他国では偉くなると「能力を発揮できる」「尊敬される」と考えられているようですが、日本では偉くなると「責任が重くなる」「自分の時間がなくなる」「偉くなるためには人に頭を下げねばならない」と考えられているようです。この調査結果が意味するのは何でしょうか?

 調査団体と引用記事の著者は、この調査結果から日本人は「偉くなること」に負のイメージを持っているとの結論を導き出しました。しかし、もう少し掘り下げてみることも出来るのではないでしょうか。他国では偉くなると「能力を発揮できる」「尊敬される」と考えられている、すなわち、偉くなればイイ思いが出来ると考えられているわけです。そして日本では偉くなると「責任が重くなる」「自分の時間がなくなる」「偉くなるためには人に頭を下げねばならない」と考えられている、すなわち偉くなると大変な思いをすることになると考えられているわけです。

 穿った見方をすれば、偉くなればイイ思いが出来る=偉い奴らはイイ思いをしている、そういう考え方が他国では強いことになります。そして日本では偉くなると大変な思いをする=偉い御方は大変な思いをしている、そういう考え方が強いことになるのではないでしょうか。

 偉い奴らはイイ思いをしていると考えられている国では「偉くなりたい」と願う人が増えるのは当たり前で、偉い御方は大変な思いをしていると考えられている国では「偉くなりたい」と願う人が少なくなるわけです。だから、日本で「偉くなりたい」という意識が低いのは安定志向だけが原因ではなく、御上意識が原因、偉い人を無条件に敬い、肯定する意識の強さの表れとも考えられるのです。

 他国では「偉い奴らは俺たちから搾り取ってイイ思いをしている、偉い奴らに取って代わってやろう」、日本では「偉い御方は大変な思いをして我ら臣民を支えてくださっている、我らはもっと公に尽くそう」、極端に分ければそういう意識の違いがあるのかもしれません。「偉くなりたい」意識の低さが示すのは、偉い人を敬い、その聖域に踏み込まず、彼らの特権を積極的に肯定する意識の強さだと考えるのは穿ちすぎでしょうか?

 他国で考えられているのは、偉くなると「能力を発揮できる」「尊敬される」、すなわち自分の得になるということ、そして日本で考えられているのは偉くなると「責任が重くなる」「自分の時間がなくなる」「偉くなるためには人に頭を下げねばならない」、すなわち他の何かのために自分が犠牲になると言うことです。この場合に前者では「偉い人」が自己の利益を追う存在として批判に曝されますが、後者では逆に「偉い人」が自己犠牲的、献身的な存在として擁護されることになるわけでして、一概にどちらが肯定的なイメージで捉えられているとは言えません。ただ前者は階級の入れ替わりを活性化する考え方であるのに対し、後者は階級の固定化を下から進める考え方であることには留意すべきでしょう。

 

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グッバイ、エリツィン!

2007-04-26 22:44:03 | ニュース

エリツィン氏の国葬、モスクワで 各国要人が参列(朝日新聞)

 23日に死去したロシアのエリツィン前大統領の国葬が25日、モスクワで営まれた。世界各国から多くの要人が参列、超大国ソ連を解体した同氏が与えた影響の大きさを示した。しかし、その退陣から7年余が過ぎ、プーチン現大統領の残り任期が約1年となっても、「民主主義と健全な市場経済」というエリツィン氏が掲げた目標には多くの課題が残っている。

 だが、昨年1月の民間世論調査機関の調査では、エリツィン氏の歴史的役割を否定的にとらえる人がまだ57%に上り、辞任直後の67%とあまり変わらなかった。

 不人気の理由は明らかだ。ソ連時代の生活水準を大幅に悪化させたからだ。旧ソ連内の経済連関が断ち切られたことや急激な市場化による混乱で、国民総生産も国民の購買力もほぼ半減。民営化政策などで一握りの新興財閥が国家の富の大半を握ることとなった。

 エリツィン元大統領が死にました。日本のメディアでは概ね好意的に、エリツィン氏の功績が追憶されています。故人が相手では批判しにくいところもあるのでしょう。死者を悼むときには、時に不都合な真実に対して目を瞑り、その人の肯定的な側面だけに光が当てられることもあります。

 エリツィンの功績として讃えられるのが、共産党が所有した国家=ソヴェト連邦を解体したこと、「民主化」、そして「自由化」を成し遂げたことです。この功績を以て、日本では偉大な政治指導者として追憶されています。

 しかし、当のロシア人の間ではエリツィンは決して人気のある指導者ではありませんでした。理由は言うまでもなく、ロシア人の生活環境を壊滅的な状態に追いやったからです。外国人から見れば、西側に門戸を開いた偉大な指導者であったのかもしれませんが、現地の人間から見れば、国民の生活を破壊した最悪の指導者でもあったわけです。ソ連が崩壊してロシアに変わる、これは日本にとって好都合な変化であり、好都合な変化を導いたエリツィンは肯定されるべき政治家であったかもしれませんが、ロシア人にとっては必ずしも肯定できる人物ではなかったということです。

 もしかしたら、沖縄や長崎の選挙に見られる現地住人と部外者の支持傾向の違いにも同じことが言えるのかもしれません。部外者にとっては平和行政を訴える候補の方が好ましく見えるわけですが、現地の人間からしてみれば地元の経済を支えてくれる候補の方が好ましい、そういう違いはあるのではないでしょうか。

 凍てつくシベリアの大地を鉄道が走っている
 しかし乗客を乗せたまま、列車は止まってしまった

 レーニンは乗客達に将来の展望を約束した
 スターリンは列車運行の責任者を処刑した
 フルシチョフは故障の原因を前任者に押しつけた
 ブレジネフは窓を閉め、列車を揺すぶった
 「こうすれば、走っているような気がするだろう?」
 アンドロポフとチェルネンコは何もしなかった
 ゴルバチョフは窓を開けて、外に向かって叫んだ
 「この列車は故障している、もうダメだ!」
 エリツィンは列車のドアを壊して、乗客を外へ放り出した
 「君たちは自由だ、どこへなりとも行けばいい」
 プーチンは乗客を連れ戻して席に着かせた

 ソ連が崩壊して、共産党以外の政党にも投票できるようになりました。ただし他の政党が共産党よりマシだったかは定かではありません。国外への移動も自由になりましたが、それは金があればの話です。市場で買えるものも増えましたが、それだって買う金があればの話です。自由化とは言いますが、経済的な困窮状態に陥り、極貧生活や過酷な労働を強いられることになった人も少なくありません。

 「共産党が70年掛けても出来なかったことを、エリツィンは7年で成し遂げた」
 「ほう?」
 「ロシア人に共産主義のすばらしさを理解させることに成功したのさ」

 それにしても、鈴木宗男が中央政界を追われて以来、日ロ関係はお寒い限り・・・

エリツィン前大統領、露正教で国葬 各国から要人参列 日本は大使のみ(産経新聞)

 この国葬には世界各国の現旧指導者が参列し、米国のクリントン前大統領とブッシュ元大統領、ドイツのケーラー大統領、メージャー英元首相、欧州各国の外相のほか、旧ソ連構成国の首脳らが顔をそろえた。日本からは「葬儀に間に合う商用便がなかった」(塩崎恭久官房長官)との理由で斎藤泰雄大使の参列にとどまり、ロシアのメディアは驚きをもって受け止めている。

 

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60年前と今

2007-04-25 23:06:13 | ニュース

トヨタ、GM抜き世界首位 1~3月期販売台数(朝日新聞)

 トヨタ自動車が24日発表した1~3月の世界販売台数(ダイハツ工業と日野自動車を含む)は、海外販売が好調で、前年同期比9.2%増の234万8000台となり、米ゼネラル・モーターズ(GM)の226万台(同3%増)を抜き四半期で初の首位に立った。トヨタは07年に934万台の販売を計画しており、初の年間首位に向け好スタートを切った。

 トヨタと言えば日米貿易摩擦の火種にならないように、敢えて攻勢を弱めているという話を何度か耳にしていたのですが、それでも首位に立ってしまったようです。アメリカでも結構なニュース、向こうにとっては危機意識を煽られるニュースのようでもあるのですが、ともあれ大した国際競争力です。

 経済同友会が提言する税制改革では法人実効税率を30%程度まで引き下げることが要求されています。これは日本企業の国際競争力の向上のために必要なものだとか。当然どこかで減税の釣り合いを取らねばならないわけですが、これは消費税を16%に引き上げることで対応する計画だそうで。ちなみに「実効税率」と聞くと、あたかも実際に払う税率であるかのように聞こえてしまうわけですが、ここから色々な控除その他の抜け道があるわけでして、実際に支払われる法人税は実効税率より10%程度低くなります。

 財界が法人税の引き下げを要求するときに、好んで持ち出すのが「国際競争力」なのですが、今の日本企業の国際競争力はどうなのでしょうか? 個別に企業を見てみれば、国際競争に敗れた企業もあるでしょう。しかし、並み居る巨大メーカーを押しのけ、力をセーブしながらも世界一の座に上り詰める日本メーカーもあります。そして日本の輸出企業全体で見た場合、非常に高い国際競争力を発揮し好調な業績を治めているわけです。

日産、早期退職1万2千人対象 国内販売低迷うけ(朝日新聞)

 日産自動車は24日、管理職を除く45歳以上の一般従業員1万2000人を対象に、早期退職を募ると発表した。国内販売の低迷で、日産の06年度の国内生産は前年度を12.7%下回る120万台弱となったとみられ、余剰人員の削減に踏み切る。1500人程度の応募を想定している。国内人員の削減は、カルロス・ゴーン現社長が経営に参加した99年度に大規模なリストラ策を実施して以来。

 小泉時代から「景気は回復している」と言われ続けてきました。統計上の数値も、たしかに景気の回復を示しています。それなのに我々の実感としてはどうでしょうか? 好景気を実感できない理由は色々ありますが、その好景気が厳しい競争に曝されているはずの国際競争の分野に集中し、逆に国内での需要が低迷を続けていること、これが統計上の景気回復と体感上の閉塞感の間の溝を作っていることには疑いの余地がありません。そして低迷する国内需要は、好調な輸出部門の足を引っ張るところにすら来ているわけです。

 我々の経済が苦しいのは、厳しい国際競争のためではなく、沈滞する国内にこそ原因があるわけです。それでもなお財界が訴えるのは輸出企業のための税制改革であり、時に政府がそれを批判するとしても、それは国民のためではなく国の財政のため、なんともやりきれません。

 太平洋戦争当時、日本軍が負け続けていたにもかかわらず、大本営は勝利を報道し続けました。そして60年後、日本企業はアメリカ企業に勝ち続けているにもかかわらず、大本営は苦境を訴え続けています。我々は厳しい国際競争に曝されている、さらなる援軍を求む、と。太平洋戦争では兵卒の死因の6割を餓死が占めました。敵兵の銃弾に倒れる前に、十分な食料さえ支給できない大本営のために餓死に追いやられたわけです。それから60年、我々産業兵卒の行く末はどうでしょうか?

 

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※、ちなみに消費税には「仕入れ税額控除」という制度がありまして、実はトヨタやキャノンなどの輸出企業は国に納入する消費税額を、国から受け取る「仕入れ税額控除」が大幅に上回っており、消費税によって利益を上げています。輸出企業が国から受け取った消費税を「輸出戻し税」とも呼ぶのですが、この輸出戻し税、消費税5%でも約2兆円が国から企業へと支払われているのです。もし消費税が16%に増えるのであれば、輸出戻し税も約6兆円に跳ね上がることになります。ボロ儲けですね。そしてトヨタが現在の好業績を維持した場合、1兆円程度の消費税を受け取ることになるものと予測されます・・・

参考、ニラ茶でわかる消費税のからくり

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長崎市長選に思う

2007-04-24 23:00:51 | ニュース

長崎市長選:事件に配慮、万歳控え 田上氏(毎日新聞)

 長崎市内の田上さんの選挙事務所では、当選確実になると歓声が上がった。ただ、死亡した伊藤市長に配慮して万歳は控えた。田上さんは「市民と市職員の力を生かし、こういう事件の後こそ『市民力』を発揮する時」と喜びを語った。

 統一地方選挙は概ね予想通りの結果に終わったわけですが、一つだけ完全に予想外だったのが長崎の市長選挙でした。選挙期間中に現職の伊藤候補が凶弾に倒れるという悲劇があったわけですが、その遺志を継ぐとして伊藤候補の娘婿である横尾氏が立候補を表明、故伊藤市長が地盤の強いことでは名高かった上、自民党の支援、そして集まるであろう大量の同情票を考慮に入れれば、圧倒的な大差を付けて「悲劇のヒーロー」として横尾氏が当選するであろうと、私は確信していたのです。

 田上氏の勝因は謎です。田上氏自身は世襲を批判し、有権者にも世襲への反発があったとも伝えられますが、そんな理由で当選できるのでしょうか? 政界のトップがことごとく世襲議員で構成される、まれに見る世襲の王国である日本で、世襲への批判が話題性に長けた候補を打ち破るほどの力を持つことなど考えられません。本当に世襲への批判が、選挙で影響力を行使できるほどに存在するのであれば、世襲議員達で構成されるあの貴族院のごとき内閣はどうして成立できるのでしょうか。

 優子さんは「本当にありがとうございました。父伊藤一長はこの程度の存在でしたか。父は浮かばれないと思います。残念です。父の愛する長崎でこんな仕打ちを受けるとは思いませんでした」と声を詰まらせた。

 横尾さんは、東京での記者生活を休職して補充立候補した。1000を超える団体推薦や伊藤市長の後援会組織を受け継ぎ、遺族が喪服姿で街頭に立つなど、徹底して情に訴えたが及ばなかった。

 故伊藤市長の娘である優子氏のコメントも随分と奇妙なものです。それはあたかも、絶大な権勢を誇った王が急死し、その後の混乱に乗じて悪い大臣に国を乗っ取られた、「正当な後継者」である王子が追放された、クーデターに憤る王族のような発言に感じられます。多選を繰り返してきた政治家の身内にとっては、政治こそがその家の家業、そして家長が倒れれば長男が家業を継ぐのが当然、それくらいの意識があったからこそ、こういう発言が出来るのでないか、私にはそう思われます。

 過去に野党候補が世襲を批判することは何度となくありましたが、それが功を奏して与党の世襲候補を打ち負かした事例がどれだけあったでしょうか。この選挙に限って、例外的に世襲への批判が功を奏するとは非常に考えにくいことです。むしろ普遍的に有効性を発揮してきたのは、横尾氏が選択した「情に訴える」戦術だったはずで、なおさら田上氏の当選理由を見極めるのは難しいのです。

 田上氏の選挙期間は1週間に満たないものでした。この僅かな期間に、さして話題性があるわけでもない田上氏が一般の有権者に支持を広げるのは非常に難しかったはずです。しかし、田上氏は地元経済界から後押しを受けたそうです。故伊藤市長は平和行政の面では賞賛に値する政治家でしたが、同時に地元の経済界とも強く癒着した古い自民党型の政治家でもありました。そしてこの強固な地元経済界とのパイプをつなぎ止める役割を期待されたのが田上氏だったのかもしれません。

 民主党の小沢代表は、統一地方選挙を振り返って、地元の基盤を固めきれなかったと述べていました。なるほど地方選挙においては地元の経済界、有力団体との結びつきによる組織票がモノを言う、そんな時代が色あせることなく続いているのでしょうね。田上氏に関しては情報不足で推測でしかありませんが、伊藤市長の後任として継承するのは平和行政でしょうか、それとも地域経済との癒着でしょうか? 当選後の振る舞いにこそ、より注目されねばなりません。

 

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さて、フランスの方はどうだろう?

2007-04-23 22:38:29 | ニュース

 私が住んでいる自治体では市議会議員選挙がありましたが、投票率は20%台と素晴らしいスコアでした。結果として多少の増減はあれども、自民党系の会派、民主党系の会派、公明党ががっちりと肩を組むオール与党体制は微塵も揺るぎそうにありません。一方、フランスでは大統領選挙がありまして、その投票率はなんと86%、まぁ地方議員選挙と大統領選挙では盛り上がりも違うのでしょうけれど・・・

 ちなみにフランスでの結果はと言えば、こちらも戦前の予想通りに右派のサルコジ氏が1位、左派のはずのロワイヤル氏が2位、この両者による決選投票が行われることとなりました。日本の選挙制度であったら一発でサルコジ氏が当選してしまうところでしたが、フランスでは過半数を採るまでの決選投票があるわけで、この2名以外の候補に流れた票がどう動くか、まだまだ最終的な結果は予測できません。

「ロワイヤルさん、日本マンガ読んで」麻生外相がチクリ(朝日新聞)

 麻生外相は20日の閣議後会見で、仏大統領選の有力候補のロワイヤル元環境相がかつて「女性を虐げている」と日本の漫画を批判したことについて、「最近の少女漫画など日本の漫画、コミックというのは幅広くなっている。もう少し読む量を増やされた方がいい」とチクリ。同大統領選の第1回投票は22日に行われるが、ロワイヤル氏が当選すると日仏関係が冷え込むとの懸念があり、「マンガ外交」を持論とする麻生氏が牽制(けんせい)した格好だ。

 左派のはずのロワイヤル氏を応援したいところですが、所々気に入らない点もあります。一応は左派に分類されるといえど、時に保守的な顔、マッチョな顔を見せることもあるわけでして、あの麻生大臣に偏見を指摘される始末なのは頂けませんね。この場合に限っては、麻生大臣の方が偏見のない寛容な見識を見せています。

仏大統領選、他候補は国家主義にとりつかれている=バイル候補(ロイター)

 同候補は、国家に対する人々の感情は国への愛であるべきで、強迫観念であるべきではないと述べ、母国への敬意の示し方についてライバル候補から講義を受ける必要はないと言明した。

 社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル候補は、この週に行った選挙集会の終わりに国歌「ラ・マルセイェーズ」を斉唱。フランス国民は家庭に三色旗をもち、国民の休日にはそれを掲げるべきと演説した。
 一方保守派のサルコジ候補は、移民と国家アイデンティティーの省を設立するよう提案。アナリストは、これを極右の票獲得を狙ったものとみており、2人のこうした言動に対する反発の声も出ている。
 バイル候補は「2人の候補は国家主義の強迫観念にとりつかれていると思う。まるで(極右指導者)ジャンマリ・ルペン氏の主張が彼らに乗り移っているようだ」と述べた。

 どうやら右派のサルコジ氏だけでなく、左派のはずのロワイヤル氏も一緒になって愛国心競争に走っているようです。ついでに言えば、自分がいかに「庶民派」であるかも競い合ってアピールしているとか。ある意味で二人とも日本の政治家に似ているような気もします。中道のはずのバイル氏に「左からの」批判を受けるロワイヤル氏、ちょっと応援しきれないところもあるわけです。

 もう一方の有力候補のサルコジ前内相も「相撲は知的なスポーツとは思えない。東京は息苦しく、京都はつまらない」などと日本を批判したと仏週刊誌が報じたことがある。

 サルコジ氏は後日、発言を否定したが、麻生氏はこれについても「フランスからそう言われたからって、どうして気になるの。ついこの間まで(フランス人は)『生の魚を食うのはおかしい』と言っていたじゃないですか」と皮肉った。親日派のシラク大統領が引退する影響が早くも出始めているようだ。

 再び、麻生大臣のコメントです。アジア諸国には感情的な暴論を吐く麻生氏ですが、今回はなかなか機知に富んだ回答をしています。偏見に基づく発言を受けても、感情的に応じることなく冷静に切り返す姿勢は評価できますね。今回は麻生大臣を褒めるとしましょう。

 しかしどうでしょうかね、シラク大統領は親日派なんだそうで。そりゃ、シラク大統領は個人的に日本が好きだったわけですが、それでフランスと日本の国家同士の関係はどうだったでしょうか? 両国は外交政策で正反対の方向を向いていたわけで、むしろ関係は悪い方向に向かっていたはずです。そしてシラクとは反対に、個人的に日本が嫌いらしいサルコジ氏はどうでしょうか? サルコジ氏はヨーロッパでは珍しい親米右派、日本では主流派であるところの親米右派です。外交政策では日本と同じ方向を向いているわけで、むしろ両国の関係は同調を繰り返すものになると予想されます。個人的に日本が好きか嫌いか、それ以上に政策面での方向性がものを言うのではないでしょうか。

 

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現代のレイシズムとしての能力主義

2007-04-22 21:25:28 | 非国民通信社社説

 レイシズムとは、資本主義という一つの経済構造の中で、労働者の色々な集団が相互に関係を持たざるを得なくなってゆく場合の、その関係のあり方そのもののことである。要するにレイシズムとは、労働者の階層化と極めて不公平な分配とを正当化するためのイデオロギー装置であった。

 各民族集団の遺伝学的及び長く続いてきた「文化的」特徴こそが、資本主義というこの経済構造の中で各集団がそれぞれ違った位置を占めている主要な原因だというのが、このイデオロギー的主張の柱である。しかし実際には、普通ある集団が特定の経済活動に関して他の集団より「優れている」という信念が成立するのは、その集団の労働力としての位置づけが決まってしまった後のことであって、それ以前のことではなかったのである。

~イマニュエル・ウォーラーステイン

 狭義のレイシズムが意味するところは人種主義、人種に基づく差別であるわけですが、では人種に基づいていなければどうなのでしょうか。中には日本には人種差別はないと断言する人もいます。そりゃぁ人種の3分類で考えれば日本は黄色人種の比率が圧倒的に高いわけで、白人、黒人は少数派というよりも例外的な位置づけであって、差別が成り立つ土壌自体がないという考え方も不可能ではありません。しかしこの辺の考え方を受け容れるとしても、では黄色人種による黄色人種に対する差別はどうでしょうか。分類上、同人種であればそこで行われる差別はレイシズムとは違うのでしょうか?

 ここでウォーラーステインが言及したレイシズムが意味しているのは、必ずしも肌の色の違いを必要としないレイシズムです。そして肌の色の違いを必要としないために、可視化されにくいレイシズムでもあります。肌の色の違いを理由として行われる差別は、今や誰がどう見てもレイシズムであり、そこに疑いの余地はありません。しかし肌の色に基づかない差別は、しばしば「区別」などと呼び換えられ、潜在的なものとして今なお根を張り巡らせているのではないでしょうか。

 ウォーラーステインが言及したレイシズムとは、労働者の不公平な階層化を正当化するイデオロギーであり、その不公平に対する理由付けとして機能するものです。たとえば白人が黒人を奴隷として使役する、これを正当化する理論上の裏付けとしてレイシズムが働くわけで、すなわち黒人が奴隷状態に置かれているのは、黒人が劣等種だから、と。

 このレイシズムと不公平な社会的立場の成立する順序が、実は一般に考えられているものとは逆であるとウォーラーステインは指摘します。すなわち「黒人は劣等種」という信念が先にあり、それに導かれる形で黒人の奴隷化が進められたのではなく、黒人の奴隷化を進める必要が先にあり、それを正当化するイデオロギーとして「黒人は劣等種」という信念が成立したわけです。

 フランスでは黒人であることよりも、アルジェリア人であることの方が嫌われるそうです。日本でも同様、黒人であることよりも中国人、韓国人であることの方が嫌われます。黒人奴隷に依存していない国にとっては、黒人に対する差別感情よりも優先されるものがあるのでしょう。旧植民地以外では、ブラジル人もこの枠に含めてもよさそうです。この場合は奴隷労働とまでは言いませんが、出稼ぎ労働者を輸入し、日本人に比べて遙かに低い賃金と不当な待遇で使役する、経済システムがこの不公平を必要としているからこそ、それを正当化する理由が必要になってくるわけです。彼らに不当な賃金しか与えない、それを正当化する理由として「彼らが劣っているから」という信念が要求されているのではないでしょうか。

 単に異なる他者への無理解、不寛容から来るレイシズムもあるわけですが、経済的な要請から産まれるレイシズム、経済的な不公平を正当化し、還元するためのレイシズムにも注視しなければならない状況が昨今では強まっているのではないでしょうか。なぜなら、この経済的な不公平は日本人に対してすら広がっているのですから。

 ここでレイシズムと同様に、成立の順序が逆ではないかと疑われる概念があります。「実力主義」あるいは「能力主義」がそれで、「能力主義」が結果的に格差社会を招いたと考えられがちなのですが、そうではなく格差社会が「能力主義」を要求した、格差社会を正当化するイデオロギーとして「能力主義」が成立したのではないか、そう考えられるのです。

 ウォーラーステインの言葉を借りれば、能力主義とはこう定義できるのではないでしょうか。

 能力主義とは、資本主義という一つの経済構造の中で、労働者の色々な集団が相互に関係を持たざるを得なくなってゆく場合の、その関係のあり方そのもののことである。要するに能力主義とは、労働者の階層化と極めて不公平な分配とを正当化するためのイデオロギー装置であった。

 各社会集団の社会学的及び長く続いてきた「文化的」特徴こそが、資本主義というこの経済構造の中で各集団がそれぞれ違った位置を占めている主要な原因だというのが、このイデオロギー的主張の柱である。しかし実際には、普通ある集団が特定の経済活動に関して他の集団より「優れている」という信念が成立するのは、その集団の労働力としての位置づけが決まってしまった後のことであって、それ以前のことではなかったのである。

 すなわち、黒人奴隷が不当である、その不当性を正当化する後付の理由として「黒人は劣っているから」という信念が要求された、それがレイシズムであるならば、昨今の低賃金労働が不当である、その不当性を正当化する後付の理由として「彼らに能力がないから」という信念が要求される、そうして成立したのが「能力主義」なのではないでしょうか?

 ともすると能力主義とは能力のある人を上に押し上げるシステムと考えられがちですが、それは順序が逆で、能力があるから上へと上れたのではなく、上へと上れたから能力があると認められたのではないでしょうか? それは、黒人が劣等種だから奴隷にされたのではなく、奴隷にされたから劣等種として扱われたのと同じことです。

 能力主義と並んで良く用いられるのが「成果主義」でしょうか。結果を残した人を評価するシステムですが、この成果主義の流行に見られるように、過程ではなく結果だけを重視する傾向は止まるところを知りません。そしてこの結果から、そこに至るまでの過程が類推される―――すなわち結果的に成功すれば、そこに至るまでの道程もまた賞賛され、結果的に失敗すれば、そこに至るまでの道程もまた否定されるわけです。

 これが昨今の金持ち優遇と貧困層切り捨ての正当化にも繋がるわけですね。支配階級である人種が優等種と見なされ、被支配階級である人種が劣等種と見なされたように、結果的に成功している人は能力がある、努力してきたと見なされる、結果的に失敗した人は無能、怠けていると見なされる、金持ちは勤勉な人間として大切に扱われ、貧乏人は努力不足としてその責任を負わされることになるのです。そうして出てくる言葉が「金持ち優遇ではない、ただ頑張っている人に報いることを考えているだけ」、「貧困層切り捨てではない、しかし能力のない、努力もしていない人を優遇してしまうと、優秀な人にとって不公平・・・」

 言うまでもなく、結果と過程は必ずしも一致しません。本当に努力して成功した人もいれば、巡り合わせに恵まれて成功した人もいますし、怠けていたから失敗した人もいれば、努力したけれど失敗した人もいるわけです。こういう現実があるだけに結果的に失敗した人のためのセーフティネットが必要とされているわけですが、これを転換するのが「能力主義」であり、そのイデオロギーが「能力のある人、努力した人が報われる社会」なのです。

 そこで、イデオロギーを現実化させようとする動きが出てくるわけです。ソ連では「社会主義国に失業はない」というイデオロギーを実現するために、アル中患者でも一応は雇用し、働いていなくても給与支払い実績を作り、どうしても無所属でいようとする人は無為徒食罪で収容所に送り込みました。一方、日本では「能力のある人、努力した人が報われる社会」というイデオロギーを現実化するべく、結果的に成功した人を能力のある人、努力してきた人として優遇するようになり、結果として失敗した人を能力がない、努力が足りないとして切り捨てるようになったわけです。

 「努力すれば報われる社会」というイデオロギーを守るため、「報われた人が努力した人と見なされる社会」が作られているのではないでしょうか? これが導くところはすなわち、階級の流動化ではなく階級の固定化です。「能力主義」が意味するのは能力によって結果が導かれ、階級が流動する社会ではなく、結果によって能力が導かれ、階級の固定を正当化するものではないでしょうか。そこに私は昨今の「能力主義」とレイシズムの近似性を見ます。

 「機会の平等」も似たようなものです。機会の平等が達成されているのであれば、その後の結果的な不平等の扱いはどうなるでしょうか? 機会が平等なら、結果の不平等は自己責任でしょうか。例え機会の平等が確保されたとして、そこで同じように努力しても、やはり結果的に成功できるか失敗するか、それは分かれるわけですが・・・

 そもそも能力だの努力だのと言ったところで、それが何の能力なのか、何の努力なのか、それを選ぶ自由があるのかを私は問いたいのです。会社で働く仕事のための能力、ひたすら仕事をするための努力なのでしょうか? それは労働力としての価値で人を計る社会です。そうではなく、人間の差異、多様性を認める社会であろうとするのであれば、例えそれが職業に結びつかなくとも、その人が誇る能力で評価されるべきですし、何に努力するのかを選んでも良いはずです。それができない限り、レイシズムを産んだ潜在的な根は、形を変えて生き延び続けるのではないでしょうか。

 

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不要な雇用保険

2007-04-21 14:22:02 | ニュース

文書誤配布で採決先送り、改正雇用保険法が成立(読売新聞)

 雇用保険料の引き下げなどを柱とした改正雇用保険法が19日午後、衆院本会議で、与党などの賛成多数で可決され、成立した。

 同法は、雇用情勢の改善により、失業給付などに充てる雇用保険料(労使折半)を現行の1・6%から1・2%に引き下げる内容。

 法案は一度衆院を通過し、3月29日の参院本会議で成立予定だった。しかし、厚生労働省が28日、「29日成立した」と明記した文書を誤って関係議員に配布したことから野党側が「国会軽視だ」と反発、採決が先送りされた。

 審議の最中であったにもかかわらず「成立した」と明記した文書を配布してしまい、無駄に揉めることになった案件ですね。政府与党としては仮に反対があったとしても最終的には強行採決で押し通せるわけで、野党側の対応の如何に関わらず最終的な法案の可決は変わらないと考えていたのでしょうか、審議の段階でいきなり結果を通知する不始末を犯したわけです。誰でもミスはありますが、これは頂けません。審議の前から結果を決めておくというのであれば、審議などしても意味がない、審議に応じるつもりがない、そう非難されても致し方ないでしょう。

 ちなみに内容はと言えば、雇用保険料が引き下げられるとか。元より負担感の薄い雇用保険料が多少引き下げられたところで我々の懐にはあまり影響がありませんが、それでも雇用保険の財源には大きく影響があるはずですね。なんでも雇用情勢が改善しているためだそうで、それで雇用保険の財源を縮小することが可能になったのでしょうか。雇用情勢の改善で失業者が減るのと、単に失業給付金受給資格者が減るのとではまた違いがあるのですが、その辺はどうでしょうかね?

 最近では新卒を対象に正規雇用の求人も増加傾向にありますが、それでも非正規雇用の伸びが正規雇用のそれを上回っています。これが名目上の失業率引き下げに一役買っているわけですが、それは同時に失業給付金受給資格者を減らす上でも大きいのではないでしょうか。つまり正規雇用の枠から外れて失業状態にある人が、失業給付金を受給しながら正規雇用の職を探す代わりに、低賃金の非正規雇用に吸収されることで失業給付金受給資格者が減るわけです。非正規雇用の拡大は企業側の人件費削減だけではなく政府側の社会保障削減の面でもそれなりの役割がありそうですね。

 たとえば派遣社員の場合、原則として失業給付金は受け取れません。もちろん理論上は受給が可能ですが、実際の受給は困難を極めます。これは「派遣先企業」と「派遣元企業」を役所側に都合良く組み合わせることで受給を徹底的に制限する仕組みが作られているからでして、ここでも生活保護の「水際作戦」よろしく国民ではなく財政を優先する観点から不法な阻止が繰り広げられているわけです。

 派遣社員が派遣先企業の都合で契約を打ち切られた場合ですが、この場合は派遣元企業との雇用関係は継続していると見なされるため、失業認定は為されません。給与支払い関係がないものを雇用関係と呼ぶとは笑わせてくれますが、それも給付を抑制するためです。ここで派遣元企業が派遣社員の仕事の斡旋を止めた場合は失業と見なされますが、原則として派遣会社が斡旋を打ち切ることはありませんので、制度上の雇用関係は維持され、失業認定は受けられないわけです。

 逆に派遣会社の斡旋を断ると、この場合は自己都合による退職と扱われるため、3ヶ月(認定に掛かる日数その他を含めると実質4ヶ月)の待機期間が発生します。そのため契約を打ち切られた派遣社員が選択できるのは、継続して派遣社員の斡旋を受けるか、もしくは失業給付金も何も受けられない状態で自分で仕事を探すか、そのどちらかになるわけでして、概ね資金面で余裕のない派遣社員は前者を選ばざるを得ません。失業給付金が出れば、焦らず正規雇用の職を探したり職業訓練を受けることも出来ますが、そうならないように制度を作ってあるわけです。非正規雇用が非正規雇用のままに押しとどめようとする政財界からの予防策ですね。

 唯一の可能性として、派遣会社が倒産した場合などは派遣社員でも失業給付金が受給できるはずですが、この場合は半年以上の給与支払いの実績が必要になります。失業認定の段階では給与支払いがなくとも派遣元企業との雇用関係があるものと見なされ、資格認定が受けられないわけですが、いざ受給の段階となると半年以上の給与支払いがないと受給資格が認められない、一口に雇用関係と言っても状況によって基準を変えるわけです。こんな仕組みですから、失業者が多くても失業給付金の支給額は少なくて済む、財源も縮小できるのでしょう。

 

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