非国民通信

ノーモア・コイズミ

最近、頭に浮かんだこと

2011-09-30 23:10:42 | 編集雑記・小ネタ

どうにもまとまった記事を書く気力がないので、この頃気になったことをメモ代わりに残しておきます。
これもまた、そのうち気分が乗ったときに、掘り下げて取り上げることもあるかも知れません。

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○○時代の政治家が現代に甦ったなら、みたいなフィクションが語られることは、割とあります。往々にして昔は良かった的な懐古趣味の披露であり、過去の人間に仮託して現代を嘆くものになりがちだったりするものですが、では反対に現代の政治家が昔の日本にいたのならどうなるかを考えてましょうか。

現代の政治家や財界人が過去の世界で活躍するとしたら――「繊維産業こそ日本のあるべき姿」などと称して「いとつむぎ大学」を創設し、製造業ではなく繊維産業と心中を図ったりしそうな気がしますね。そして繊維産業を存続させるべく、そこで働く人の賃金を新興国よりも低くできるよう頑張ったり等々。

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人間が一生をかけて排出する膨大なゴミは当然のことながら深刻な問題でもあります。石炭発電なんかでも膨大な灰(フライアッシュ)が出てしまうわけで、これの処理なんかも大いに問題だったりするわけです。

「放射性廃棄物は処理方法が確立されていない(キリッ」みたいな言説を得意気に披露されることが多い昨今ですが、原発のゴミならずともゴミ問題は行政府の頭を大いに悩ませる代物です。

人間が一生に必要な電力を原発で賄った場合に排出されるゴルフボール3個分の放射性廃棄物と、日本人が一生をかけて排出する30トンを超えるゴミ、前者ばかりを深刻視している人がいたら、さすがに首を傾げないでもありません。

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ワシントンは子供の頃、桜の木を誤って切り倒してしまいました。これを正直に父親に話したところ、怒られることはなく許されたそうです。きっと、斧を持ったまま謝りに行ったのでしょう。

公務員はぼろくそに言われるわけですが、一方で自衛隊員は賛美されるばかりで、彼らを面と向かって罵倒するような政治家など皆無です。普通の公務員も、武器を携行するようにすればいいと思います。そうすれば、しかるべく敬意を払われることでしょう。

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ソフトバンクの孫正義が、太陽光や風力発電の事業化に向けた新会社を作ろうとしているそうです。携帯電話と同じように契約者拡大にばかり熱心で、いざというときに繋がらない電気になりそうですね。

ちなみにiPhoneがKDDIからも発売とのことで、ユーザーのソフトバンク離れが急加速しているとか。KDDIは東京電力と関係が深いこともあって坊主憎けりゃ何とやら、KDDIまで非難する人がいて苦笑しますが――従業員を続々と自殺に追い込むFoxconnの製品を採用したことの方が、よっぽど非難されてしかるべきだと思います。

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正直に告白しますが、原発事故が起こるまでは反原発論者の言うことを鵜呑みにしていました。この点は率直に反省しています。その後、反原発論者の言うようなことが実際には起こらなかったことを見るにつれ、考えを改めたわけですが、あの事故がなければ根拠の怪しい俗説を信じていたままだったと思うと深く恥じ入るばかりです。

ノストラダムス等々の予言が当たったように見えるとしたら、数限りない予言の中から、たまたま現状に合致しているかに見えるものがピックアップされた結果です。小出裕章あたりの語ることもその類なのですが、それでも予言者を信じる人は後を絶ちません。

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ここまで週刊誌報道が信頼されたことは、かつてあったのでしょうか。週刊誌報道というものは基本的に煽り系のヨタばかり、記者の妄想を詰め込んだゴシップばかりであって、それを真に受けるのは恥ずかしいことだと思っていました。政権交代後は日刊ゲンダイを信奉する小沢信者なんてのも出てきたわけですが、原発事故後には週刊誌を信奉する人が……

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アホの枝野が東京電力の賠償請求書類の分量が多いことを指して「弁護士の私でも読み切れる中身ではない」などと宣ったとか。でも事業仕分けなんかを見る限り、枝野に何かを理解させるのは誰にとっても至難だと思います。そもそも賠償請求書を簡略化すると逆に穴だらけになるわけで、そうなったらまた別の方面から非難されていたことでしょう。

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台風の日、地上を走る電車が止まるのは予想通りでしたが、地下鉄区間での折り返し運転がなかったことまでは想定しておらず、またもや帰宅難民となってしまいました。折り返し運転はしないのですか、と駅員に聞いたところ、ダイヤを組み直しているところですとのこと。そのまま約5時間、風が収まるまで地下鉄は動きませんでしたとさ。

台風が来るのはわかっていたはず、というより非常事態を想定した地下鉄区間のみの折り返し運転のダイヤぐらい、事前に用意してあっても良さそうなものだな、と感じました。例によってJRの復旧が最も遅く他の私鉄の足を引っ張りまくる……かと思いきや意外にも山手線がしぶとく頑張っていたので驚きました。

台風が来るのはわかっているので、それぞれ自分の判断で早めに帰宅するなどの対策をとれ、なんて話もあるわけですが、そうできない立場の人も多いのです。業務命令で帰宅が許されなかったり、総務の判断を待たずに自主的に相対すれば時給がもらえなくなったり等々。

花粉症の季節とか、飛散量が多い日は天気予報で「外出を控えた方が良いでしょう」みたいなアナウンスが流れるものです。でも、仕事があるのですから無理してでも外に出るしかない人だって多いのです。そういう立場の人は多いはずなのに、不思議と配慮のない発言が多いなぁと思います。

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節電効果 大口29%、家庭は6%減 東電が発表(朝日新聞)

 東京電力は26日、今夏の節電効果の分析を発表した。今夏と昨夏の需要ピークを比べたところ、大工場やオフィスビルなど大口利用者の電力需要は29%、小口は19%それぞれ減ったが、家庭は6%減にとどまったという。

節電の夏も意外に大丈夫だったと宣う人も多いですけれど、家庭(個人)レベルでは実は大して節電できていないことがわかります。本当に頑張ったのは、大企業だったようです。夏場を乗り切れたのは大企業のおかげ、今後も節電という名の無理を続けるかどうかを問うべき相手は、国民ではなく大企業なのかも知れません。

これは勤務日を土日にずらしたり、あるいは操業時間を深夜にずらすなどのシフト策が奏功した結果と考えられますが、こうしたシフト勤務を強いられる労働者の立場は、もうちょっと慮られてしかるべきです。労組も左派も、デマを流しては偏見を植え付け差別を煽り、風評被害を広めるのにばかり熱心で労働者のことなど忘れている人が多いですけれど!

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東京電力の例を見るにつれ、日本では一般社員が経営責任を負わされるのが当たり前と考えられており、業務量の増大が支払われるべき対価の増加に結びつくべきものとは考えられていないことがわかります。資本主義とは別の、特殊な道徳律が支配する世界なのでしょう。

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何度も書いてきたことですが、お金は使ってもなくなりません。ただ所有者が変わるだけです。そしてお金が使われれば有効活用ですが、使われずに死蔵されれば機会損失であり「無駄」です。

社会保証受給者に関して思うのですが、受け取ったお金は税金が原資であるからこそ、社会に還元するのが筋です。一刻も早く、遊興費でも何でもいいですから使ってしまうことが大事です。逆にダメなのは、蓄えておくことですね。公金を死蔵させることこそ最大の悪です。お金が必要になったら、そのつど当然の権利として要求するべきなのです。

定額給付金に子ども手当、貯金に回されてしまうと経済効果も損なわれるばかりで財政支出ばかりが増えてしまいます。逆に得たそばから使ってしまう人は乗数効果を生み経済を活性化させ、将来的な税収増にさえ貢献してくれます。社会保障費は浪費家にこそ優先的に給付しましょう。それが経済優先というものです。道徳なんて糞食らえ!

 

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何のための教育か

2011-09-28 23:36:09 | 雇用・経済

高校奨学金:790億円不足へ 回収率想定下回り(毎日新聞)

 文部科学省の交付金で都道府県が実施している高校奨学金事業で、貸与した奨学金の回収率が想定を下回り、このままでは31年度までに11府県で計約790億円の資金不足に陥ることが会計検査院の調査で分かった。検査院は22日、奨学金の徴収を債権回収会社に委託するなど適切な措置を都道府県にとらせるよう文科省に改善を求めた。
 
 この事業は高校生らを対象に月1万8000~3万5000円を無利子で貸与する制度。生活費にも充当でき高校授業料が無料化された10年4月以降もニーズは高いという。
 
 検査院によると、文科省は10年度までに各都道府県に計約1411億6360万円を交付。文科省が想定した貸与件数や回収率であれば、資金不足にならず事業を継続できる計画だった。
 
 検査院が今年、20府県を抽出して調査したところ、文科省の想定した回収率を下回る自治体が12府県判明し、貸与件数も増加傾向にあった。この状況が続いた場合、検査院の試算では31年度までに福岡、神奈川、京都など11府県で資金不足になるという。福岡県は約321億円、神奈川県では約136億円不足し不足分は各県が負担することになる。各府県が十分な収支予測を実施していなかったことが原因とみられる。
 
 検査院は「教育の機会均等に寄与する奨学金制度を守るため、早急に回収率を向上させる必要がある」と指摘。文科省は「都道府県に指導していきたい」としている。

 さて、高校奨学金事業の回収率が想定を下回り、資金不足に陥る見込みとのことです。とはいえ見出しに掲げられた「790億円不足」とは、調査対象となった20府県の内、不足が生じている11府県だけを集計対象とした数値のようです。残る9府県では僅かなりとも余剰が生じていることになりますので、全体で見ればそこまで深刻な資金不足ではないはず、掲載誌が意図的に煽っているところもあるでしょう。文科省の想定した回収率を下回る自治体が12府県ということで、残る8府県は想定した回収率を上回っている、要するに特定の自治体の問題であって全国的な問題かというと、その辺は色々と疑わしく思われるところですし。


日本の教育復興を支援…OECDが異例の声明(読売新聞)

 経済協力開発機構(OECD)は13日、加盟34か国の教育費などを分析した結果を発表した。
 
 2008年の国内総生産(GDP)のうち、日本では教育に対する国や自治体などの支出が占める割合は3・3%。OECD平均の5・0%を下回り、データのある31か国中最下位だった。また、日本では、子供1人にかかる大学教育費のうち、国や自治体ではなく、家庭が負担している割合は66・7%で、OECD平均の31・1%を大きく上回った。日本では教育に対する国や自治体の支出が少ないため、家庭が多くの教育費を負担せざるを得ない実態が浮かび上がった。

 ブルジョワ新聞の記者は奨学金の資金が不足する理由として「各府県が十分な収支予測を実施していなかったことが原因とみられる」などと書いていますが、その辺は掲載誌の認識の程を象徴する以外のものではないように思います。結局のところ、日本の場合は教育に対する公的支出が極端に少なく、本来であれば給付されてしかるべき奨学金が貸与という形にしかなっていない、実質的に奨学金ではなく学資ローンと化しているために回収率が問題となる、かつ奨学金の規模も小さいが故に資金も枯渇しやすいわけです。教育に関する公的支出をOECDの平均ぐらいには積み増さない限り、こうした問題は解決されるはずがありません。

 教育分野への公的支出の少なさではなく資金不足や回収率が問題視しされ、挙げ句の果てには「各府県が十分な収支予測を実施していなかったことが原因」などと言い放つ人もで出てくるのは、いったいどうしてでしょうか。公的支出そのものを嫌う、自己責任の国だからかも知れません。教育が未来への投資だと理解されていないところもあるでしょう。そして投資した奨学金が回収されないことを騒ぎ立てる意識はあっても、投資された教育の成果が活かされないことが問題視されることは少ないわけでもあります。

 本来なら、教育水準の高さは国や社会にとっての強みのはずです。しかるに我が国では教育への公的支出を重荷と見なすばかりで、教育水準の高さを活かそうとする発想が大きく欠けています。確かに、相応の学校歴があれば新卒時の就職には有利になるでしょう。しかるに、社会全体で見れば高等教育修了者の就職競争を激化させるばかりで、採用される人の数を増やすものとはなっていません。進学すれば個人の就労機会は増えるとしても、その分だけ他の人の就労機会が圧迫されるだけなのです。教育は個人の役に立っても、社会全体の役には立っていない、それが日本社会の現状です。だからこそ、社会に寄与しない、個人の役にしか立たない教育は社会にとっての重荷であり、自己責任の対象にもなるのでしょう。

 少子化が進むと、その分だけ教育リソースが集中して投下されることになります。親の資産にも限りがある中で、子供が5人いた場合と1人しかいなかった場合、当然ながら子供に与えられるものは異なってくることでしょう。教育リソースを独り占めすることが出来る少子化時代の子供は必然的に、高等教育を受ける機会にも恵まれます。そして高等教育を受けた少子化時代の子供が高付加価値産業に就いて高収入を得ることで、少ない人数でも高齢者を支えることが可能になるのですが――高等教育を受けても高収入には結びつかないのが我々の社会だったりするもので、そこに齟齬が生じているわけです。

 企業は新卒者の学歴(学校歴)までは気にするものの、学校で身につけてきたものを活かそうとしているかと言えば、その辺は甚だ微妙なところです。企業が学生に要求するのは「コミュニケーション能力」みたいな曖昧な代物であって、これでは大学や高校側はどうしようもありません。仕方がないから、就職するための訓練ばかりが行われる始末です。そして入社が決まっても、今度は研修と称して自衛隊に体験入隊とかが待っているわけです。そうでなくとも日本社会には「学校で教わったことなんて現場では役に立たない」みたいな信仰が根付いてはいないでしょうか。結局のところ高等教育とは就職に当たって箔を付けるためのものでしかなく、社会に寄与するものとはなっていないようです。

 少子化で教育リソースが集中投下されるようになったとか、高卒でも仕事に困らない時代が終わって「就職できないから」進学する人が増えたとか、いずれにせよ高等教育を受ける人は増えてきました。ならば、産業界もまた社会の変化に合わせて、教育水準の高さを活用する方向へと変わっていかねばならなかったはずです。しかるに、相も変わらず製造業至上主義が幅を利かせ、高等教育修了者を新興国の単純労働者と競わせてはいないでしょうか。旧態依然とした日本経済にとって高等教育修了者の増加は宝の持ち腐れとしかなっていないようです。むしろ、新興国に対抗すべく低賃金労働者を確保する上での障害ぐらいにしか思われていないフシすら窺われます(大学生が多すぎる論とか)。せっかく教育という投資を行って高等教育修了者を増やしても、それを用いる能力を持たない社会であるが故に、砂漠に水を撒くが如きことにもなってしまうわけです。

 

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子供をダシにするのは基本ですね

2011-09-26 22:32:52 | 社会

<ザ・特集>脱原発「6万人」デモ 「子供守ろう」母の声届け(毎日新聞)

 東京都内で19日に開かれ、6万人(主催者発表)もが参加した脱原発デモ「さようなら原発5万人集会」。来年2月までに1000万人の署名を集めようというプロジェクトの一環だが、果たして脱原発の強力な推進力となりうるのか。一緒に歩きながら考えた。【宍戸護】

 ◇娘からセシウム検出。将来の健康影響、不安 「福島だけではなく、国の問題として広がってほしい」

 午後1時半、集会開始時刻には、会場の明治公園(東京都新宿区)はいっぱい。会場からあふれた人々で周囲の路上まで埋まっていた。舞台前のアスファルトには、ピンクの水玉模様の横断幕を持った小学生3人が座っていた。幕には「げんぱついらない!!」。ひらがなの上にはかわいらしい手のイラスト。山形県米沢市に避難している渡辺加代さん(35)の長女(9)=小3=は「(原発)バイバイの意味だよ」とポツリ。

 参加者6万人のうち、福島関係者は数百人。渡辺さんは午前5時50分米沢発のバスに乗ってやってきた。

 一家は福島第1原発事故前まで福島市に住んでいた。事故後、渡辺さんは放射能のイロハから調べた末、子供の健康への影響を心配し6月から2歳の長男と長女を連れ米沢に避難。夫は地元で仕事を続け、家族は二重生活を送っている。これまでデモと無縁だったが、今回は声を出さずにはいられなかった。「長女の尿から放射性セシウムが検出された。国や自治体は何でも『安全』と口をそろえるが、『将来の健康影響は分からない』が実態。こうなったら自分たちで行動を起こすしかないでしょう」

 集会場では、作家の落合恵子さんが「ひらがなしか知らない小さな子供が夜中に突然起きて『放射能来ないで』と泣き叫ぶ社会を続けさせてはいけない」と訴え、作家の澤地久枝さんは「今日まで一人の戦死者も出さなかった戦後は、二度と戦争はさせないと決心した日本の女たちの力だと思います。命をはぐくむ女性たちが役割を果たすべき時は今です」と熱弁を振るった。

 さて、このデモを大きく取り上げないメディアは原発推進勢力だとレッテルを貼られたりするわけですが、その実態はどれほどのものでしょう。取りあえず、何かに連れ子供が御輿として担がれているのが嫌ですね。どうも日本人はカマトトぶったペドフィリアと言いますか、性的な要素に関しては道徳家ぶって拳を振り上げる一方で、子供を売りにする手口には何の罪悪感を持っていないように見えます。つまり「子供であること」をアピールポイントとして人の気を引こうとする、そういうやり方には何の疑問も持っていない人が多いのではないでしょうか。子供の自己決定権など微塵も考えず、大人である自分の言いたいことを子供の口から語らせる、全くもって嫌らしいやり方だと思います。

 この記事で取り上げられた渡辺加代さん(35)は、子供を連れて避難、夫は地元で仕事を続け、家族は二重生活を送っているそうです。こういう生活を余儀なくされた子供がかわいそうですね。これが「放射能のイロハから調べた」結果というのですから憐れなものです。渡辺加代さん(35)が正しい情報を受け入れていれば二重生活を子供にまで送らせることにはならなかったはずですが、ネットや週刊誌を中心にオカルトじみた怪情報が溢れている中では、現実とはかけ離れた放射「能」の脅威を真に受けてしまう人も少なくないことがわかります。

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 あたかも、今まで放射性セシウムが検出されることがなかったかのごとく勘違いしている人はさておき、ちょっとは名の知れた作家もまた奇妙なことを口にしています。何でも澤地久枝によると「今日まで一人の戦死者も出さなかった戦後は~」と。兵站もまた戦争の一部であり、その活動過程での自殺も戦死に数えれば戦死者が出なかったとは言えない気がしますが、たぶん兵器を以て前線で戦うことだけが戦争であり、兵器によって死ぬことだけが戦死だと思っている人もいるのでしょう。そうでなくとも経済的な困窮から自殺したり、林業みたいに本当に危険な仕事で死んだりする人はいるわけで、戦死者さえいなければ胸を張れるのかと突っ込みたくもなります。まぁ、放射「能」による影響さえ避けられれば他は気にしないような人であるなら、このような発言も納得できるでしょうか。

 そして落合恵子曰く「ひらがなしか知らない小さな子供が夜中に突然起きて『放射能来ないで』と泣き叫ぶ社会を続けさせてはいけない」のだとか。う~ん、「放射能が来る」とか子供に擦り込んだのは誰なんでしょう? 少なくとも今の日本では核実験が盛んに行われていた時代を大きく上回るような放射性物質が飛んでくることはないですし、雨が降ると大気中のラドンが降下して放射線量が増えるとか、黄砂と一緒に極微量の放射性物質が飛んでくるなんてことはあるにせよ、それは原発とは関係のない話です。たぶん、「放射能」なる放射性物質とは全く異なる未知のエイリアンについてでも語っているのでしょう。その実態の乏しさはレイシストの語る外国人や隣国の脅威と同レベルですけれど。

 もし「ひらがなしか知らない小さな子供が夜中に突然起きて『放射能来ないで』と泣き叫ぶ」としたら、それは親など周りの大人が「放射能が来るぞ」と子供を脅しつけたからです。反原発の旗印として担ぎ上げるべく子供に恐怖を擦り込む親が続出しているとしたら、それは間違いなく憂慮すべき事態であり、このような社会を続けさせてはいけないと言えます。そうでなくとも、煽られた放射「能」の脅威を真に受けて一家離散で移住したり、福島の住民や産品を排除の対象にしたりと被害は随所で深刻化しているわけです。損害賠償を求められるべきは事故を防げなかった東京電力だけではなく、この落合恵子や武田邦彦、あるいはAERAなどの煽り系週刊誌もまた同様ではないかと私には思われてなりません。

こんな調子でいいわけ?明治公園反原発デモ - Commentarius Saevus

 あと、一番ひどいと思ったのがこのプラカード。十歳にもならない女の子が持たされていた。

 …なんかもうこんな文句書かせて子どもに持たせるなんて親の常識を疑う。まず「放射線を浴びた女性は子どもを生んではいけない/子どもを生めなくなる」というような実に怪しい認識をほのめかす文句で、「福島の女性は子どもを生んではいけない」みたいな差別につっこんでいく五秒前だよ。その上生理もきてないような小さい女の子が「女の子なんだから将来子どもを生んで当然なんだ」みたいなことを自分で思いつくと思う?なんかもういろいろおかしすぎる。

 で、これは本当に酷い話です。カマトトぶったペド野郎どもの共感を得るには子供を使うのが格好の手なのでしょうけれど、子供に変な刷り込みを計っては子供に大人の代弁をさせる人の存在は、それこそ児童ポルノ制作者と同レベルに語られてしかるべきものです。広島や長崎の調査結果を見る限り福島でこれから生まれてくる子供に他県のそれとの有意な差が出てくるとは考えにくいところですが、色々と怪しい認識(子供が産めなくなるとか、障害児が生まれるとか)を吹き込む人がいるわけで、そんなものを教え込まれた子供には流石に同情せざるを得ません。加えて上記のプラカードは優生思想(障害者は生まれてくるべきではないみたいな考え方)をも体現しています。こういう代物に対して無反省な人たちって何なんだろうと途方に暮れるところですが、そもそも自覚すらされていないのでしょう。

 ブルジョワ新聞の見出しには「母の声届け」と掲げてあります。なにやら子供と母親ばかりがクローズアップされていますけれど、父親はどこに行ったのでしょうか。子供を産み、守り、育てるのは女性の役目であり責任、みたいな感覚もまた、この報道やプラカードからは濃密に感じられるところです。澤地久枝によれば「命をはぐくむ女性たちが役割を果たすべき時は今」なのだそうですが、まぁ実際に産むのはともかくとして子供を守るとか育てるという面では、その役割を女性のものと限定するのはどうかと思います。男性だって命をはぐくんでいる一員ですし、その責任を担うべき、担わせるべきでしょう。反原発デモが広げるのは偏見や恐怖、エセ科学に陰謀論、風評被害や優生思想だけに止まらず、女性/母親の役割に関する保守性でもあるとしたら、ますます以て憂慮されるべきことです。

 

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隣人の生活程度は低くなっても電力消費を少なくすべきだ

2011-09-24 12:07:46 | 社会

本社世論調査:「生活程度下がっても電力消費減を」65%(毎日新聞)

 毎日新聞は9月、東日本大震災発生から半年を控え、全国世論調査を面接方式で行った。東京電力福島第1原発事故を受け、電力供給や消費のあり方を尋ねたところ、「生活程度は低くなっても電力消費を少なくすべきだ」が65%に上り、「生活程度を維持するために電力供給を増やすべきだ」の32%を上回った。今後の日本の原発については「危険性の高いものから運転を停止し、少しずつ数を減らす」が60%と最も多く、段階的な原発削減志向がうかがえる。
 
 「生活程度は低くなっても電力消費を少なくすべきだ」と回答した人を性別でみると、男性60%、女性70%。年代別では若年層の高さが目立ち、30代で71%、20代で67%と続いた。生活程度より電力消費の見直しを優先する人のうち、原発について「少しずつ数を減らす」と答えた人は66%を占めた。
 
 原発を今後どうすべきかとの設問では、「少しずつ数を減らす」(60%)に次いで、「数は増やさずに運転を続ける」(20%)、「できるだけ早くすべて停止する」(12%)、「今ある原発の運転と新設も進める」(6%)の順だった。福島第1原発事故は収束しておらず、「脱・原発依存」を目指す回答が7割に達している。

 さてブルジョワ新聞の調査によると、「生活程度は低くなっても電力消費を少なくすべきだ」と回答した人が65%に達したそうです。ちなみに回答者の内訳はと言いますと男性60%、女性70%と女性の方が多い、そして30代で71%、20代で67%と若年層の高さが目立ったとのこと。この傾向、どこかで見たような気がしますね。そうそう、小泉改革から政権交代前夜までの自民党支持率が、まさにこういう傾向でした。男性よりも女性、中年よりも若年層で自民党支持が厚かったわけですが、反原発色もまた同様のようです。


出典、ネットエイジアリサーチ - 国際平和に関する調査2011

 引用元記事にはグラフがなかったので(紙面には載っていたのでしょうか)、似たような項目のある調査からグラフを拝借してみました。それほど急ではないですが、原子力研究に対する態度もやはり若年層ほど否定的な方向へと傾きがちなようです。能力的に今の若者がダメになったと言うことはないにせよ、向いている方向は世代によって変わってきたところはあるのかも知れません。端的に言えば若い人ほど保守的で、進歩や発展というものを厭うのかな、と。

 好景気というものは基本的にどれもバブル的な要素があるもので、いずれ急落することもあるわけです。そして日本と他の国を隔てることになったのは、バブル景気であったかどうかではなく、バブル「後」の振る舞いだったように思います。一度は倒れても、また立ち上がって前へ進めばいいと考えるのか、それとも「あれはバブルだ!」と叫んで経済成長に背を向け、過去を否定するのか、取りあえず世界経済の孤児たる日本が選んだのは後者でした。

 例えば日本でも様々な公害問題が発生してきました。紆余曲折はありつつも公害を発生させない方向へ向けて努力してきたのも我々の過去ですが、今の日本で大規模な公害問題が起こったら、たぶん公害を発生させた原因企業を解体するとか、それと同種の産業を「人間と共存しない(キリッ」などと言って全否定するとか、改善や進歩ではなく謂わば「懲罰」や「討伐」へと力点が置かれるような気がしてなりません。少なくとも原子力利用に関しては、そういう方向性で突っ走っていますよね。これが日本の現代的な考え方であり、若い人ほどその傾向が強いと思えるのです。

 たぶん2ヶ月くらいは前のニュースであったと思います、もうとっくに掲載期限も切れてweb上からでは詳細を確認できないのですが、「節電しているかどうか」を問う年齢別のアンケート結果が報道されていました。それによると、年齢が高いほど実際の節電には協力的であったそうです。暑さを感じにくい高齢者が節電に走ると熱中症のリスクが飛躍的に高まるので危険な兆候だなと当時は思ったものですが、しかるに今回の世論調査と並べて考えるとどうでしょう。若い人ほど「生活程度は低くなっても電力消費を少なくすべきだ」と考え、年齢が上の人ほど自ら節電に励む、何とも奇妙な話です。まぁ、それもこれも若者優遇社会の一幕としてみれば自然なことなのでしょうか。

あの大災害は自然が私たちの暮らし方の根本に反省を迫っているのであり、ひいては私たちの文明のあり方にも再考を求めている

――毎日新聞社説

日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う

――東京都知事

今回の大震災と大津波、それに伴う原発事故は、低エネルギー社会への転換を促す天からの啓示だったのかも

――石原慎太郎に反対しているつもりのブロガー

 三者とも災害にかこつけて自説の押し売りを計るクズであることは言うまでもありませんが、もう一つ共通しているのは他人の欲望なり豊かさなりへの否定です。三者とも、他人が贅沢な暮らしをすることへの強い否定の意識に満ちあふれています。要するに、もっと清く貧しく生きよと説いているわけです。そして、こうした感覚が三者に限らず広く浸透している結果として、とりわけ若い人にほど浸透している結果として「生活程度は低くなっても電力消費を少なくすべきだ」との回答が多数を占めるに至ったような気がします。隣人の生活程度が低くなることをむしろ歓迎し、他人に慎ましい生活を「させたくて」仕方がない人たちがいるということです。

 

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レイシズムに取って代わったもの

2011-09-22 01:01:08 | 社会

 3月の震災後、真っ先に流されたデマは外国人に関するものでした。関東大震災の再来を夢見ていた人もいたのでしょう。ありもしない外国人犯罪の横行を訴え、外国人排斥を呼びかけるものでしたが、幸いにして現代人は大正期の日本人のような直接行動にまでは踏み切らなかったようです。しかるにレイシズム系のデマが概ね空振りに終わった一方、別種のデマが横行するようになったわけで、決して過去の過ちを繰り返していないとは言い難いようにも思います。外国人に対する偏見を煽り立て、差別を広める類のデマが目立って流行ることはなかったものの、その代わりに福島の居住者や産品に対する偏見を植え付け、排除を正当化するようなデマが盛んに繰り返されるようになったのですから。

 世の中には、単に外国人に対するものだけをヘイトスピーチと呼ぶ、何とも暢気な人々もいます。ただ私が思うに、謂われなき偏見や嫌悪、憎悪を駆り立てるものであれば、その対象が外国人でなくとも当然のようにヘイトスピーチと呼ばれてしかるべきです。つまり、福島の居住者なり福島の産品なりに対するものであってもヘイトスピーチはヘイトスピーチではないでしょうか。そしてこの福島を対象としたヘイトスピーチの横行を「それもこれも原発(東京電力)が悪いのだ」とばかりに、差別の責任を他人になすりつけることで平然と受け入れている人も多いわけです。

 アメリカで、ある女性が「オバマなんて信用しない。アラブ(のテロリスト)でしょう」と語ったとき、当時の大統領候補であったマケインは「いいえ、奥さん、彼は立派な家庭人、国民です。たまたま意見の相違があるだけです」とたしなめたそうです。案の定、集会に参加していた共和党支持者からはブーイングが起こったと伝えられていますが、日本における脱原発論も似たようなところがあるように思います。マトモなことを言った人は御用学者だの原発推進勢力だのレッテルを貼られて「脱原発/反原発」のサークルからは敵視される(あるいは反原発デモを取り上げる報道が小さいというだけで原発推進派と呼ばれたり等々、それはレイシストが自分たちに同調しない人を「反日」と呼ぶのと同様です)、こうしてカルト的な性格を日に日に強めていったのが昨今の脱原発運動と言えるでしょう。


福島の花火使用取りやめ 日進の大会、市民の抗議で(中日新聞)

 東日本大震災の被災地復興を応援しようと福島県の花火の打ち上げを予定していた愛知県日進市の花火大会で、放射性物質を心配するクレームを受けて、実行委員会が直前に打ち上げを取りやめていたことが分かった。

 花火大会は日進市役所周辺で18日夜あった「にっしん夢まつり・夢花火」。計2千発の花火が打ち上げられた。第2部のスターマインとして福島県川俣町の菅野煙火店の花火80発が打ち上げられる予定だったが、中止となり愛知県内の業者の花火に代えられた。

同様に計画していた岩手、宮城県の花火は予定通り打ち上げた。

 実行委は市や市商工会の職員、市民有志らで構成。今年は東北の花火を打ち上げ、被災地復興を祈る予定だった。だが新聞折り込み広告などで計画を知った市民らから16~17日に、「放射能で汚染された花火を持ち込むな」「花火でまき散らすのか」といった抗議の電話やメールが20件以上市役所などに寄せられたという。

 実行委は当初、「花火店のある場所は国の放射線許容量を下回っている。室内で保管され、まったく問題ない」として実施する考えだったが、直前の17日午後になって取りやめを決めた。

 実行委事務局責任者の宮地勝志・市産業振興課長は「安全性に問題がなく、取りやめは苦渋の決断だ。一人でも多くの人に気持ちよく花火を見てもらいたいという考えで判断した」と理由を説明した。

 さて、似たようなことは他でもありましたが、過ちは繰り返されるもののようです。「放射能で汚染された花火を持ち込むな」などという声に押されて福島で造られた花火を排除することになったとのこと。「一人でも多くの人に気持ちよく花火を見てもらいたいという考えで判断した」などと市の責任者は応えています。じゃぁ、外国人の脅威を本気で信じている人が「異国の汚れを持ち込むな」みたいにクレームを付けてきたなら、「一人でも多くの人に気持ちよく日本で暮らしてもらいたい」などと称して外国人排斥に走るのでしょうかね。外国人に対するものだけをヘイトスピーチとして問題視するような人にとっては違うのかも知れませんが……

 絶対に安全だと確認されたわけではない(キリッ、と大真面目に語る人も多くて失笑させられるのですが、じゃぁ外出することの安全性は確認されているのでしょうか。家の外に出れば車に轢かれて死ぬことだってあり得ます。焼き肉店で食事をすれば、食中毒菌に当たって死ぬかも知れません。絶対に安全であることが確認されたものなど、むしろどこに存在するのか、その辺を考えてみるべきでしょう。絶対に安全ではないからダメ、というのであれば地球上のありとあらゆるものが否定の対象になります。とかく放射「能」が唯一にして絶対の危険であるかのごとく語られますけれど、今までに健康への影響が確認されたことがなく、しばしば検出限界を下回るレベルの放射線量を差別や排除の理由に持ち出すのは、愚劣と言うほかありません。

 そうでなくとも、花火は危険ですよね。花火が撒き散らす火薬と金属の灰は、当然ながら人体に有害です。ただ影響の出るほど多量に吸い込むという想定が現実的ではないというだけであり、それは福島における放射性物質の場合と同様です。ただし、花火の製造過程で爆発事故が起こり、死人が出るなんてことは多々あります。花火大会に殺到した群衆の混乱により死傷者が200名を超える大惨事なんてこともあれば、落下した花火の破片が直撃して観客が死亡したなんてこともありました。本当に安全であることが保証されているのか、それを疑うならまずは花火の方から考えた方がいいでしょう。今回の原発事故から来る放射線で死んだ人はいなくとも(これから死ぬんだ、と福島在住者に脅しをかけている人や、死人が出たと日夜デマを流している人はいますが)、花火大会で死んだ人は今世紀に入っても存在するのですから。

 まぁ、今回の花火大会に抗議した人は安全性云々への憂慮ではなく、ある種の歪んだ正義感から行動に出たものではないかとも推測されます。その筋の人が外国人の脅威を信じるのと同じような勢いで放射「能」の脅威を信じ、その害を防ぐべく行動したつもり、地域なり子供なりを守っているつもりで、福島で作られたものを「持ち込むな」と訴えたのではないでしょうか(抗議を呼びかけた人もいたのではないかと思います)。そうであればこそ、主催側には毅然とした対応が望まれたところです。ヘイトスピーチに屈せず、偏見に基づく排除を行わない姿勢をきっぱりと取らないと、差別や排除を勢いづかせるばかりですから。市が主催する行事なのに、偏見にまみれた抗議に応える形で福島製の花火が排除されてしまう、これでは市がヘイトスピーチを公認しているようなものです。

 京都から岩手の松が送り返されたときにも書いたことですが、ヘイトスピーチに毅然とした対応を取ること、そして行政や各種の団体にも毅然とした対応を求める意思を平素から明らかにしていくことが必要なのかも知れません。排除が行われてから、こんな場末のブログでグダグダ文句を言ったところで、後の祭りですから。こういう事態を二度と起こさないために、先んじて出来ることを考えてみましょう。例えばカウンターアクションとして、偏見や差別を広めている側に抗議してみるというのもあるでしょうか。例えば「東北の野菜や牛肉を食べたら健康を壊す」などと宣う武田邦彦を招いてセミナーを開催するという中日新聞に(参考)、おまえは新聞社としてヘイトスピーチに協賛するのかと抗議してみる等々。もうちょっと穏当なものとしては、抗議ではなく支持の意見を送ってみるのも手です。一般に反対の声は寄せられても賛成の声は少ないもの、それだけに担当者(主催者)側は反対の声の方ばかりを多数派と取り違えてしまいがちです。そんな担当者に、偏見にまみれた意見ばかりではないことを伝えることもまた必要でしょう。まぁ、やり過ぎは迷惑がられますし、往々にして我々が問題の所在に気づくのは、事が終わってからだったりするので難しいですが。

 

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じゃぁ一銭も渡さなければいいのか

2011-09-19 22:47:21 | 社会

東電、原発立地自治体に寄付400億円 予算化20年余(朝日新聞)

 東京電力が20年以上にわたり年平均で約20億円の予算を組み、東電の原発などがある3県の関係自治体に総額四百数十億円の寄付をしたことが分かった。原発の発電量などに応じて「地元対策資金」を配分する予算システムになっており、自治体側がこれに頼ってきた構図だ。


東電に苦情・寄付要求の連鎖 「Jヴィレッジ」契機(朝日新聞)

 東京電力が大規模サッカー施設を福島県に寄贈したことをきっかけに苦情や多額の寄付要求が相次いだため、東電が同県郡山市、新潟県柏崎市、刈羽村に計130億円分の寄付をしたことが分かった。そのうち郡山市には寄付の名目がたたないため、県所管の財団をトンネルに使って渡していた。原発マネーへの依存が連鎖し、不明朗な手法も使われた実態が明らかになった。

 東電は1997年6月、福島第二原発がある福島県楢葉町などに130億円でサッカー施設「Jヴィレッジ」を建設し、同県に寄贈。その後、郡山市に30億円、柏崎刈羽原発がある柏崎市と刈羽村にそれぞれ60億円分と40億円分の寄付をした。

 郡山市元幹部によると、東電は93年ごろ、同市に屋根付きのサッカースタジアムを造るという計画を持ちかけてきたという。だが東電はその後、計画の中止を市に通告。楢葉町などにJヴィレッジを建設する構想を発表した。

 市側はこれを受け、「約束を反故(ほご)にした。おかしいじゃないか」と東電に苦情を言った。スタジアム建設のために、市は都市計画を変更することを検討していたという。やりとりする中で、東電は寄付の意向を市へ伝えたという。

 東電は市への直接寄付を拒否し、県全体への寄付の意味合いになることを希望した。東電関係者は「原発の立地自治体ではない郡山市に寄付する根拠に乏しいという事情があった」と話す。市側はこのため、県所管の財団法人「福島県青少年教育振興会」経由で寄付を受け取ることを提案したという。同振興会は市役所内にあり、市内での活動が中心だ。東電が同意したため、30億円の寄付が99年に実行された。寄付金は、市の「ふれあい科学館」の施設整備費にあてられた。

 当時の郡山市長の藤森英二氏は「寄付は市へのおわびの意味合いがあったのかもしれない。財団を通したのは、郡山市への直接寄付を避けたい東電の意向と合致した」と話している。

 「普通の」企業がスポーツ施設を自治体に寄贈したりする分には「社会貢献」とか「企業の社会的責任」とか自画自賛付きで語られるものなのでしょうけれど、坊主にくけりゃ何とやら、東京電力がやれば何かと否定的に捉えられるものなのかも知れません。そして建設予定地が変転した絡みで、元々の候補地だった自治体から寄付要求もあったそうで、まぁ意外に自治体の側も頑張っているようです。この頃は形振り構わない優遇措置や膨大な補助金を費やして企業を誘致しておきながら、むしり取られるだけむしり取られて肝心の企業には短期間で去られてしまう間抜けな自治体も少なからずあるわけですが、「物言う株主」ならぬ「(企業に対して)物言う自治体」もあるのですね。

 しかしまぁ、東京電力が自治体に結構な額の寄付をしてきた、それが批判的なニュアンスで語られてしまうと「じゃぁ、どうしたらいいのか」と思わないでもありません。逆に一銭も渡さないようにしておけば良かったのでしょうか。どっちに転んでも公務員と同様に非難されるのが原発事故以降の電力会社でもありますけれど、やはり金を「渡さない」ことよりも「渡す」ことの方が、より強い反発を買うような気がします。何しろ先日も書いたように、従業員の給与を回復させようとすれば政府の介入で禁じられ、逆に給与カットを迫られるような世の中です。誰かに得をさせるような決定は、囂々たる非難を巻き起こすものです。

 お互いに損をしないような関係を維持できればいいのではないかと思うわけですけれど、たぶん世間が「正しい」と考えている関係は、その正反対なのではと思えるフシがあります。企業は立地を提供してもらい、自治体側は寄付という形で対価を受け取る、これもまたwin-winの関係と言えそうですが、嫌う人は「癒着」とでも呼ぶのでしょうか。では反対に、金銭のやりとりなど一切ない、そういう関係は好ましいのでしょうか? 北朝鮮外交や北方領土交渉なんかが典型ですけれど、「お互いに利益を得る」ことを厭い、「相手に得をさせない/自説を押し通す」ことを重視するかのごとき考え方が、この頃は開発事業と自治体の関係にまで当てはめられているように見受けられます。

 結局のところ、利害調整的なものが嫌われ、自説の「正しさ」を押し通す、それがあるべき姿として信奉されている結果として寄付行為への怪訝なまなざしも現れているのかも知れません。寄付金なり交付金なりの「旨み」で相手に妥協してもらうよりも、自説の「正しさ」によって相手をねじ伏せるようなやり方が好まれているとすれば、たぶん東京電力なり昔年の開発事業で採られたやり方の多くは「悪」ということになりそうです。でも、それが正しいエネルギー政策なのだと巨大風車なり太陽光発電設備なり、あるいは温泉地付近に地熱発電設備なりが有無を言わさず建設されるとなったらどうでしょう。自然エネルギー推進は正しいのだから、その建設に反対する人に譲渡する必要などないとばかりに対価(つまり交付金や寄付金)すら示されることがないとしたら、やはり横暴な話ではないかと思います。実際のところ再生可能エネルギーは補助金漬けの世界じゃないか、というのはさておき。

 それから蛇足ですけれど、経済的に貧しいことの不幸を軽く見ないで欲しいな、とも思います。とかく経済的な豊かさが否定的に捉えられ、経済への影響を懸念する声があらば脱原発に棹さすものだと非難が殺到する有様ですけれど、経済的な困窮のために自ら死を選ぶ人だって万単位でいるわけです。どうあっても富は都市部に集中する中で、原発を誘致した自治体に原発が立つ前には何があったのか、それを考えれば寄付金なり交付金なりで手を打つのも尊重されるべき判断ではなかったでしょうか。補償金の受け取りを拒否して開発事業への協力を拒んだ人の(本当かどうか疑わしい)話を涙ながらに伝えるブログ記事なんかを時に見かける昨今ですが、いずれ高齢化と過疎化で滅び行く寒村を放置して「故郷を守った」などと美談にできるのは、それこそ「持てるもの」の幻想でしかありません。

 

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東京電力はよくやっているのに

2011-09-17 23:03:10 | 雇用・経済

東電の賞与回復「認められない」 調査委(朝日新聞)

 東京電力が来年度から3年間の電気料金の値上げ終了後に、半減中の一般社員の賞与水準を元に戻そうとしている問題で、政府の第三者機関「東電に関する経営・財務調査委員会」は14日の非公式会合で、「15年度に賞与水準を回復することは認められない」との考えで一致した。

 15%という電気料金の値上げ幅についても、委員から批判的な声があった。ただ、値上げの理由としている火力発電所の燃料費の増加が、柏崎刈羽原子力発電所の再稼働の行方に左右されるなど見通しが不透明なため、是非の判断は先送りした。

 東電は賠償や事故対応の費用を捻出するリストラの一環として、7月から一般社員の賃金の5%、賞与の5割を削減中。賃金カットは賠償が終わるまで続ける方針だ。ただ、原発事故の収束や電力供給にあたる社員の士気を保つため、さらなる給与水準のリストラについては否定的な声もある。

 戦後最長の景気回復が続いていた頃からも一貫して賃金水準の下がり続ける我らが日本ですけれど、一度は下げた賃金水準を元に戻す計画を立てている掛け値無しの優良企業もあるわけです。全ての企業がこのような姿勢を持ってくれれば日本の国内景気もこう酷いことにはならなかったであろうなと思わせられるのですが、しかるに「賞与水準を回復することは認められない」などと政府が介入しています。話になりませんね。賃金水準を下げるのは推奨される一方で、それを回復させるのはダメだというのですから、日本の労働者が置かれた状況が悪化するばかりなのも当然です。

 前にも書いたことですが、凶悪犯罪の加害者であっても人権がなくなるわけではありません。受けるべき罰もあれば、守られるべき権利もあるのです。同様に重大な事件を巻き起こした企業の従業員であっても、労働者としての権利はなくなるものではないはずです。ただ世間で声高に振る舞っている人を見ると、どうにも社会的に反響の大きい事件の「加害者」に対しては、謂わば「権利剥奪」とでも言うべき刑を下したがっているように見えます。犯罪者に人権はない、などと宣うのと同じような勢いで、電力会社従業員の労働者としての権利を蔑ろにして憚らない人が闊歩してはいないでしょうか。

 とかく日本では経営者目線でしか物事を考えられない人が多い、労働者であっても気分はエグゼクティヴな人が目立ちますけれど、末端の労働者までもが経営責任を負わされることにロクな異議申し立てが出てこないのは、何とも因果応報な話です。別に東京電力の従業員が企業側に売り渡す「労働力」の質が落ちたわけでもない、仕事量が減ったわけでもない(むしろ増えているはずです)、こういう状況で賃金をカットされる筋合いなど微塵もないはずですが、当たり前のように賃下げが行われている辺りに、日本的な労働観、日本的な雇用感覚が窺い知れます。

 節電のためと、電力需給の逼迫する平日の昼間を避けて、休日や深夜に操業をシフトさせる企業も少なからずありました。当然のことながら、今までは平日の昼間に働いていた人が土日や深夜に働くことを余儀なくされたわけでもあります。歴然たる労働条件の不利益変更としか私には思えないのですが、労組や左派として振る舞っていた人々は何をしていたのでしょうか。原発憎しでデマを撒き散らし、福島への差別や排除を駆り立てることにばかり熱心で、労働者が置かれた状況が悪化していくのを気にも留めていないとしたら、流石に労組なり左派なりの在り方を考え直さなければならないところです。

 確かに東京電力が防げなかった事故は非難に値するのでしょうけれど、だからといって東京電力に対してなら何をしても許されるものではありません。百歩譲って電力料金の値上げ期間中は賞与(実質的な給与)水準の回復を見送るべしとの政府介入を認めるとしても、「3年間の電気料金の値上げ終了後」に給与水準を元に戻すのは、これこそ経営努力であって賞賛されこそすれ非難される謂われはないはずです。給与水準を回復させるために値上げ分が使われるなら感情的な反発も理解できないことはありませんが、なぜ値上げ期間を終えた後まで賃金カットを強要されねばならないのか、まぁ政府も世論も人件費削減に血道を上げる人々の味方なのでしょう。東京電力のような労働者の味方は少数派です。

 従業員の賃金水準を極限まで低く抑え込むことで低価格のサービスを提供している企業が幅を利かせている昨今です。その手の企業経営に批判的な人も多数派ではないなりに存在するわけですが、原発事故後の流行りを見るに、色々と頭が痛くなって来るところでもあります。消費者向けの価格を維持するために、従業員の賃金を下げることで対応せよと、そう政府がお墨付きを与えようとしている、そしてこれに対する反対の声は全くと言っていいほど聞こえてこないのですから。別に事故を起こしたわけでもない中部電力に対しても便乗でリストラを迫った、まさに聳え立つ糞としか言いようのない政治家もいました(参考)。何でも給与カットとリストラで対応すればいいのだ、賃下げを続けろと、そういう考え方が押しつけられるのは決して東京電力だけ、電力会社だけに止まることはないでしょう。

 

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私だったらそうは言わない

2011-09-15 22:56:34 | 政治・国際

 さて、経産相に就任したばかりの鉢呂氏が新内閣発足からわずか9日で辞任に至りました。何でも「放射能つけちゃうぞ」などと言ったとか。この辺、報道が曖昧で(各紙どれも微妙に口調が異なったり)本人が否定しきれていないことから類似の発言があったことは間違いないのでしょうけれど、状況がはっきりしません。一説によると記者側が福島から戻った鉢呂氏に「放射能が付いているんじゃないか」と言ったのに対する返答だったとも聞きますが、この辺も単なる噂なので真偽の程は不明です。いずれにせよ、放射「能」への忌避感から福島の人や福島の産品に対する差別や排除が横行している中で「放射能つけちゃうぞ」みたいな台詞は、影響力を持つ政治家として絶対に口にしてはならないことのはずです。取りあえず私が「放射能が付いているんじゃないか」などと絡まれたらこう答えますね。


東電債権者の負担「当然」…枝野経産相(読売新聞)

 枝野経済産業相は13日の閣議後の記者会見で、東京電力による福島第一原子力発電所の損害賠償を政府が支援する枠組みについて、「税金の支援がない場合に生じたはずの負担を(金融機関などの)債権者に当然負ってもらう」と述べた。

 東電は政府の支援を受け法的整理を回避しながら賠償を進めるが、東電の特別事業計画には、金融機関による債権の一部放棄や返済猶予などが含まれるべきだとの考えを示したものだ。

 枝野氏は官房長官時代の今年5月にも金融機関による債権放棄が必要だとの考えを表明したが、東電の特別事業計画を認可する経産相としての発言は、今後の計画立案にも大きな影響を与える可能性がある。

 で、後任はよりにもよって枝野です。何ともしぶとい人と言いますか、ゴタゴタが続く中でも毎回ポストを得ている辺り運が良いのか、それとも権力を手にする「政治力」だけは備えているのでしょうか。ともあれ枝野が「負担を債権者に当然負ってもらう」などと述べているそうです。う~ん、それって「当然」のことなのでしょうか? 株主が損をするのは資本主義のルールとして当然とは言えますが、債権者に負担を負わせるのが「当然」であるのかどうか、その辺は訝しく感じないでもありません。

 状況的に最優先で避けるべきは、東京電力もろとも東電管内の住民や事業者、取引先が共倒れになってしまうことです。ことによると世間が求めているのは「(東京電力に)いかに重い罰を下すか」にすら見えてきますけれど、それで東京電力が傾いてしまうと、当然のことながら東京電力から電力供給を受けている人々の生活や企業の営業活動にも支障が出る、最悪の場合は福島の事故収束の足を引っ張ることにもなります。そして債権者の場合も同様、債権が焦げ付くリスクを考えれば、多少の放棄や猶予を儲けることも検討しなければならないところはあるのでしょう。

 そんなわけで、債権者が負担もまた負わざるを得ない状況には違いないのかも知れません。ただ、それを「当然」と言い切ってしまう辺りに、何とも枝野らしいと言いますか、小泉以降の政治文化を濃密に感じるのです。せめて「非常措置として債権者にも協力をお願いしたい」ぐらいに言ったらどうかと私には思われるのですが、「当然」と言い放ってしまう、これも政治主導というものなのかも知れませんけれど……

 誰もが完全に満足できる政治的決定というのはあり得ないわけで、誰かに「引いてもらう」ことを求めなければならない場面も出てくるわけです。そういう場面でも、なるべく相手に損をさせないよう、旨みを持たせることで妥協や協力を引き出すような利害調整もまた政治の重要な役割であったはずです。ところが、こういう利害調整的な振る舞いが全否定されるようになったのが小泉以降の政治文化であるように思います。引いてもらう相手にも「旨み」を持たせるようなやり方が「札束で頬をひっぱたくやり方だ!」と声高に糾弾される、とりわけ昨今の原発問題を巡ってそのような傾向は強まっていないでしょうか。

 そして現代的のトレンドは、謂わば「正義の拳を振りかざす」やりかたです。相手(反対陣営)には一切の旨みを与えない、代わりに有無を言わせぬ断罪によって「譲歩する必要などない相手なのだ」と印象づけ、自分たちの政治決定を押し通すわけですね。「(共倒れを防ぐべく)協力をお願いする」のではなく、「当然」なのだから俺たちの命令に従えと、そういう形で決定が下されるのはまさに典型的と言えます。自分の唱えることは正しい、それに従うのは「当然」のことだ――こういう政治文化を体現しているのが枝野という人物なのですが、これで有権者の支持を得られることはあったとしても、無用な対立と混乱を引き起こして国政を停滞させたり、一方的に割を食わされて犠牲になる人も出てくるなど弊害は少なくありません。でも、こういう「正義の拳を振りかざす」やりかたを、左右双方が好んでいるとしたら、まぁ同じ過ちを繰り返すのも宜なるかな、です。

 

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更生支援も必要なのかも

2011-09-13 23:29:10 | 社会

単身避難 得られぬ安心 一時ホームレスに(沖縄タイムス)

 福島第1原子力発電所の事故から半年。放射性物質への不安が消えない中、県内には、公的支援を受けた避難者のほか、避難対象地ではなく公的支援が得られない関東地域からの自主避難者も多い。夫を地元に残して避難する母子は、夫からの仕送りなどで生活を支えることができる半面、単身者の中には、生活費が底を突き、ホームレス状態に陥った避難者もいる。仕事も見つからず「働いていないのは苦しい。早くホッとしたい」と今もさまよい続けている。

 「逃げるべき」「大丈夫」。ことしの3月12日、インターネット上の短文投稿サイトでは、危険か安全かで意見が割れていた。

 派遣社員の小川隆男さん(37)(仮名)=東京都=は「誰を信じたらいいのか」と迷っていたが、信頼を寄せる知人の「関東もやばい。早く逃げろ」の書き込みに「安全だったら笑って過ごせるけど、危険だったら逃げるしかない」と決断した。

 当初は、東京から1カ月離れれば、放射能被ばくの危険性は低下すると楽観視していた。だが、「国や東京電力の情報が錯綜(さくそう)する中で、安全か危険かを見極めなければならなかった。本当のことは結局、誰にも分からない。でも死にたくない」。4月上旬、派遣の仕事を辞め、アパートも解約。貯金約50万とパソコン、洋服4枚を手に、大阪へ向かった。

 大阪の生活は、周囲に自主避難を理解してくれる人も少なく、人の目も気になった。それでも「インターネットで原発の情報を得るたびに怖くて落ち着かなくて、落ち込んでいった。つらかった」。可能な限り、原発から離れた場所で心を落ち着かせたいと6月下旬、沖縄にたどり着いた。

 青い空と海風が小川さんを穏やかにし、「定住しよう」と希望も湧いた。那覇市内の簡易宿泊施設で寝泊まりし、仕事を求めハローワークに毎日通ったが、職にありつけない。

 7月13日、とうとうハローワークの前が寝床に変わった。3食100円の蒸しパン。ホームレスになった。「人生すべて失った。でも家がなくても、国や東電がしっかりしない中、死ぬのは嫌だ」。避難に悔いはないが、資格や実務経験の乏しい者への就職の壁を思い知らされた。

 小川さんは現在、社会福祉士事務所「いっぽいっぽ」の支援ホームで生活。「裏切り者って言われるかもしれない。でも、沖縄で生きたい。働いたら、避難したくてもできなかった人の援助をしていきたい」と自身に言い聞かせ、気持ちを保っている。

 この手の人々を見る度に笑いをこらえきれないのですけれど、本人は大真面目なのですから始末に負えません。オウム真理教がそうであったように傍目にはギャグのネタとしか思えない代物でも、信じている人にとっては別の世界が見えているのでしょう。まぁ以前にも似たような事例を取り上げましたが、この人の場合は家族を巻き込んでいないだけマシとは言えます。カルトじみた世界観に嵌って家庭を崩壊させるような事態はまさしく悲劇ですが、自分だけが破滅するなら、いわゆる愚行権の範囲ということにしておきましょう。

 例によってこの場合も、インターネット情報が一役買っています。要するに「ネットで真実に目覚めた」結果として関東は危険だとの確信に至り、はるばる沖縄まで逃げていったわけです。「誰を信じたらいいのか」とか「本当のことは結局、誰にも分からない」などと、もっともらしい言葉を並べてはいますけれど、結局のところネットで脅威を煽る根拠のあやふやな声を鵜呑みにしているのですから何とも良いお笑いです。政治家でもネット世論を国民の声と勘違いして選挙に惨敗したりする人もいるものですが、やはりネットの外の現実にもちゃんと目を向けねばならないことがよくわかります。

 さて派遣社員の小川隆男さん(37)は、ホワイトカラーの派遣社員なのでしょうか。ブルーカラーの派遣社員であれば、原発労働でなくとも作業員が危険に晒されたり給与を大幅に中抜きされたり使い捨てにされたりは珍しくないことを実体験として心得ていてもおかしくないところです。そういう理解があると、昨今の騒ぎ方にも多少は冷めた見方が出来るのではないかとも思うのですが、どれほどのものでしょう。どのみち派遣社員であるなら、職を失うことのリスクの方をしっかり弁えておいた方がよかったはず、ましてや若者優遇の日本で37歳という年齢がどれほどの障害になるかを考えれば……

 とかく放射「能」だけが唯一にして絶対のリスクであるかのごとくねじ曲げられ、一方で経済的なリスクが蔑ろにされがちな時代ですが、言うまでもなく慣れない土地での生活は元より、失業による収入の枯渇は人生にとって極大のリスクです。お金がないので3食100円の蒸しパン、みたいな極めて問題のある食生活は短いスパンでの健康リスクを増大させますし、野菜不足の将来的な発がんリスクは100~200ミリシーベルトに相当します。こんなことなら計画的避難地域内で生活していた方が、(衣食住が安定して限り)総合的には安全なくらいです。

 とりあえず、資産家でもないのならば移住先の求人倍率ぐらいは調べてから行動したらいいのに、と突っ込まざるを得ません。その辺だって調べようと思えばネットですら簡単に調べが付くはずですが、放射「能」のことしか頭になかったのでしょうか。就職を考えるなら、残念ながら沖縄は避けるべきです。そして仕事が見つからずに衣食住すらままならなくなるリスクを考えられるなら……と私には思われるのですけれど、何かにのめり込むあまり他のものが見えなくなってしまう人もいるのでしょう。だからカルト的な行動だと言いたいのですが。

 ネット上で(あるいは週刊誌上で)囁かれる放射「能」の恐怖に怯える人も、これまたネット上で囁かれる外国人なり周辺国なりの脅威に怯える人も本質的には変わりません。そして根拠のない仮想の脅威を煽り立て、騒ぎ立てる人の存在こそが我々の社会にとってのリスク要因であるとも言えます(往々にして、その過程で差別を巻き起こすものです、福島に対する謂われなき忌避感とか)。「働いたら、避難したくてもできなかった人の援助をしていきたい」などと小川隆男さん(37)は語ります。ただ、被災地なら避難の有無にかかわらず援助は必要ですし、首都圏であれば避難「しなかった」人に援助は必要ないのではないでしょうか。むしろ援助が必要なのは、ネットで真実に目覚めて沖縄まで飛んでいった挙げ句失業して社会福祉士事務所の保護を受けているような人の方です。デマに踊らされなかった人と、デマに踊らされた人、どちらに援助が必要なのかは言うまでもありません。

 それにもまして必要なのは、デマに踊らされて軽率に行動するのを未然に押し止めるような形での「援助」なのではないでしょうかね。この辺は個人の手には余るところですけれど、断片的なネットの情報を鵜呑みにして無計画な移住をした挙げ句にホームレスになるような事態を防ぐのは、これこそ行政に求められる役割ですから。愚かな人だ、とは思いますけれど、だからといって自己責任を切り捨てるわけにもいきません。ネットで真実に目覚めている人のやることに棹さすのは政治家にとって怖いことなのかも知れませんが、小川隆男さんじゅうななさいみたいな人をこれ以上、増やさないための施策もまた求められるところです。


福島県産品店中止「悲しい」「安全保証ない」交錯(読売新聞)

 原発事故による放射能汚染を恐れる人からのメールなどを理由に福岡市内での出店が中止となった福島県産品店「ふくしま応援ショップ」。事実が明らかになった8日、「残念だ」との声が上がる一方で、汚染を恐れて避難してきた被災者からは「出来るだけ危険を避けたい」との本音も聞かれた。東日本大震災から11日で半年。被災地支援の難しさが、改めて浮き彫りになった。

(中略)

 一方で、避難者の中には複雑な思いを抱えた人も。関東から子どもと避難してきた女性は、今回、実際に出店に反対する電話をかけたという。「福島の食品が安全だという保証はない。九州まで逃げてきたのに、また追いかけられるような気がする」

 幾ら基準値を下回っても「安全だという保証はない」と言い張る人に付ける薬はありません。上記の人は子供を巻き込んでいるという点で小川隆男さん(37)よりも罪深いように思いますが、こういう人もまた先日取り上げたヘイトスピーチの加担者になっているようです。放射「能」汚染がどうこうとの理由で福島県産品店に抗議が殺到して出店が阻まれるという事態があったわけですけれど、根っからの差別主義者として鳴らしてきた人が「福島」を嫌悪の対象としているのではなく、原発事故前までは「普通の人」として息を潜めていた人もまた排除の論理を振りかざしているのではないでしょうか。とかく放射「能」の恐怖に怯える人には同情的な声も聞かれますが、でも麻原彰晃の説くハルマゲドンを信じていたオウム信者も、在特会のような手合いの説く外国人や周辺国の脅威を信じている人も、恐怖に怯えながら彼らなりの「正義」を本気で追い求めている点では変わらないわけです。人々の恐怖や不安に付け込み自説を広めようとする輩に対してはもちろんのことですがけれど、それを信じてしまう人を「更生」させることもまた「支援」の一環として考えなければいけないような気がします。

 

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放射「能」への恐怖を免罪符とした差別や排除を認めてはならない

2011-09-11 23:13:51 | 社会

財務相「小宮山先生はたばこ嫌いなんですよね」(読売新聞)

 小宮山厚生労働相が5日の記者会見で、たばこ税を増税し、1箱あたり700円程度とすべきだとの考えを表明したことが波紋を広げている。

 藤村官房長官は6日の記者会見で「個人的な思いを述べられたものだ」と述べ、政府方針ではないとの見解を強調。安住財務相も「ご高説は承っておく。(たばこ税の)所管は私だ。小宮山先生はたばこ嫌いなんですよね」とけん制した。

 小宮山氏は6日の記者会見で「(厚労省は)700円に上げると決める省ではない」とトーンダウンしたものの、「個人的意見というよりは厚労省を代表して申し述べた意見だ」とこだわりをにじませた。

 大麻は煙草よりも中毒性、依存性が低いとの研究結果は少なからずありますが、裏を返せば煙草の中毒性は大麻以上と言うことです。たばこ税を上げると禁煙する人が増えるから税収増にはならないなどという毎度の脅しが繰り返されるものですけれど(法人税を下げないと云々を思い出します)、結局のところ煙草を止められる人は少ないので確実な税収増が見込めたりする美味しい税でもありますね。そんなわけでか、たばこ税の増税を新厚労相が考えているようですが、色々と反発もあるわけです。とかく喫煙者に道を譲らない人を見ると、やれファシストだのナチズムだのと連呼する人もいるわけで、まぁ煙草の依存性の高さを思い知らされます。

 さて、安住財務相曰く「小宮山先生はたばこ嫌いなんですよね」とのことです。これも結構な問題発言ではないかと私には思われるのですが、いかがなものでしょう。たばこ税を引き上げようとするのは、あいつが煙草を嫌いだからだ――みたいな言い方を出来てしまう、その神経に政治家として不適格なものを感じるところです。戦前の日本に批判的な言動を取った人を「日本が嫌いな反日」みたいに呼んでいる人と同レベルにしか見えません。まぁ、煙草が絡むと人格が変わってしまう人もいるのでしょう。おぉ、怖い怖い。

 一方、かの武田邦彦が「タバコと肺がんはほぼ無関係」などと言い出したそうです。彼が言うなら、たぶん事実は逆なのであろうなと確信できてしまうところがないでもありません。ともあれ武田邦彦に言わせれば「タバコと肺がんはほぼ無関係」なのだそうです。氏の主張のどの変に誤魔化しがあるかは下記リンク先を参考に挙げておきますが、常日頃から放射線の影響を、今まで確認されたことがない空想の産物に過ぎない代物まで喧伝してきた人が、「タバコと肺がんはほぼ無関係」というのですから何とも良いお笑いです。

参考、タバコと肺がんはほぼ無関係?


「東北の野菜や牛肉、健康壊す」教授発言に一関市長抗議(朝日新聞)

 岩手県一関市の勝部修市長は6日、読売テレビ(大阪市)系列の番組で中部大の武田邦彦教授が一関市を挙げて「東北の野菜や牛肉を食べたら健康を壊す」などとした発言を取り消すよう抗議のメールを送った。さらに、「農家の感情を逆なでする非常識な発言である」とのコメントを発表した。

 武田教授は4日午後に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」で、「東北の野菜とか牛肉を食べたら僕らはどうなるの」という子どもからの質問に対し、「もちろん健康を害する」「今生産するのが間違っている」などと発言。ほかの出演者が「発言を取り消すべきだ」と反対したが、「取り消しません」と応じた。番組は同日、秋田、宮城両県でも放送された。

 発がんリスクを基準にするなら、それこそ基準値を超えてしまったホウレンソウなり牛肉なりを、そんなに特定の食品ばかり大量に摂取したら体を悪くするだろうという分量を食べ続けたところで、煙草の足元にも及ばないわけです(もとよりEU等のそれに比べて緩いわけでもない基準値をクリアしている食品しか流通を許されていないですし)。煙草の健康への影響を無視できる人なら年間2000ミリシーベルト程度の被曝量までは許容できてもおかしくないように思われるのですが、まぁ馬鹿げた話です。ワン・ドロップ・ルール(一滴でも黒人の血が混じっていると黒人とみなされる)よろしく、放射線量が0でなければ汚物扱いと言うことでしょうか。実に馬鹿げた話ですが、こんなヨタを真に受けて福島を初めとした東北の産品が市場で敬遠の対象になったりするのですから笑い事では済まされません。武田発言のようなものこそ偏見を植え付け、嫌悪感を煽り立てるヘイトスピーチとして扱われるべきです。


中部大・武田教授発言 一関市にメール殺到 岩手(産経新聞)

 読売テレビ(大阪市)が4日放送した「たかじんのそこまで言って委員会」で、中部大の武田邦彦教授が東北地方の野菜や牛肉を「健康を害するから捨ててもらいたい」と発言し、勝部修・一関市長が抗議のメールを送った問題で、一関市には7日朝からメールが殺到、大半は市長の対応を疑問視する声だった。勝部市長は産経新聞の取材に応じ、「私の真意が伝わっていない。放置できない問題」との認識を示した。武田教授から返信はなく、7日、再度メールを送ったことを明らかにした。

(中略)

 7日は午後5時までに254件のメール、6件の電話が寄せられた。大半が「市長名の抗議は行き過ぎではないか」「抗議先が間違っている。国や東京電力に抗議すべきだ」と市長の行動を疑問視する意見だったという。

 一関市は「武田教授の発言は全体としては国の責任で除染すべきという内容であり、理解できる部分もある。しかし『畑に青酸カリがまかれたようなもの』という発言は論外で、市民感情を考慮してほしかった」として、市長の対応に誤りはなかったという認識だ。

 そもそも畑に散布される農薬とか、直接口にしたら即死しそうなものも結構あるわけで、『畑に青酸カリがまかれたようなもの』という言い方は二重に頭が悪いですね。せめて「畑にデスがまかれたようなもの」とか「畑にデジタルメガフレアがまかれたようなもの」くらいにしておいてほしいものです。それはさておくにしても、当然ながら上述の武田発言が抗議の対象になったと思いきや、あろう事か抗議した側の一関市に対して「疑問視する」意見が殺到したことが伝えられています。ヘイトスピーチに抗議した方が袋だたきに遭うようでは、世も末です。「抗議先が間違っている。国や東京電力に抗議すべきだ」なんて言い出す輩も出たそうですが、こういう風に「悪いのはあいつなのだから」と国や東京電力へと責任転嫁することで差別を生み出そうとする言動を実質的に容認してしまうようでは……


福島支援ショップ、開店中止 福岡、反対の声受け(朝日新聞)

 東京電力福島第一原発事故で苦しむ福島の農家支援のため、福岡市内で17日に開店予定だった産地直送品の販売店「ふくしま応援ショップ」が、施設側の要請で出店を取りやめた。「福島からのトラックは放射能をばらまく」などと書かれたメールや出店に反対する電話が相次いだためという。運営側は8日、福岡市役所で記者会見し、「これが風評被害というものか」と悔しさを語った。

 店を運営する市民グループ「ふくしまショッププロジェクト」によると、メールは出店を予定していた農産物直売所「九州のムラ市場」が入る商業施設「マリノアシティ福岡」(福岡市西区)と、プロジェクトに参加している食品宅配組織「九州産直クラブ」に届いた。「九州に福島の物を持ち込むな」「地域の汚染が広がる」などの内容で、出店発表後に計15通が届いたという。7日にムラ市場から「今回は出店を見送って欲しい」と連絡があり、出店を取りやめたという。

 ムラ市場の担当者は「独立店舗ならまだしも、他店舗もあるので変なことになると困ると判断した。ショップ側とは話し合って出店を取りやめた。出店契約は成立していない」としている。一方、プロジェクトは会見で契約書を示し、「契約はしていた」と話した。

 プロジェクト責任者の吉田登志夫さんは「商品は震災前の収穫物で作った梅干しやラーメンなどの加工品。それでもさらに放射線量を測って販売する計画だった」と話した。

 そして極めつけがこれです。武田邦彦(だけではありませんが)のような輩をのさばらせ、放射「能」に関する諸々の偏見が広まることを防げなかった結果として、このような謂われなき排除が随所で繰り返されているわけです。「福島からのトラックは放射能をばらまく」なんて荒唐無稽にも程がありますが、福島のものはあらゆるものが汚染されていて、かつ伝染するかのごとく語り伝えてきた輩もいて、それを真に受けてきた人もいるということなのでしょう。今となっては、このような排除や差別を生み出したのは原発なのかすら疑わしく思えてきます。実害などあり得ないはずなのに、それでも排除の対象とされてしまうのは放射線ではなく偏見の影響が強いからこそです。放射性物質を放出してしまった施設に全く責任がないとはいいませんが、誤った知見を広めて回った人々の罪こそ、もっと強く問われてしかるべきではないでしょうか。放射「能」への恐怖を免罪符として差別や排除の論理を実践している人々を社会が是認するようなことがあってはならないはずです。

 

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