非国民通信

ノーモア・コイズミ

上司が仕事の邪魔をしなければならない理由

2014-10-31 22:55:49 | 雇用・経済

 さて先日の記事の最後の方で、畑違いの分野から異動してきた人が部門のトップになったときが云々という話を持ち出しました。日本の職場では珍しくも何ともない当たり前の人事ですけれど、この無関係な領域から異動してきた新たな上司が現場に迷惑をかけるような提案ばかりを繰り返す、そういう場面に遭遇してしまった人は多いと思います。部門の長は内情に精通している人間の中から選んで欲しいところですが、まぁ異動ありきで部署の固定を嫌う日本的人事では、そうもならないのでしょう。

 ……で、他部門から異動してきた上長に限らず元から部署にいたはずの人も含めての話となりますが、己の働きをアピールすべく頓珍漢な業務改善案を連発しては、実際の業務に当たる人の仕事を妨害してくれるわけです。どうしてこうなってしまうのか、仕事がわかっていない人は黙っていれば良いのにと私などは思うのですけれど、なかなか大人しくしてくれないのですから困ります。本当に必要な仕事をこなしつつ、それと平行して上司の接待までする羽目になってはたまったものではありません。

 原因の一つとしては一つ上の段落で触れたような、畑違いの異動ありきで職分を固定しない日本的人事があると言えます。そうなると必然的に、前所属では成果を上げたけれど新たな部署のことには疎い人が定期的に配属されることになるわけで、これがヒラの人事ならともかく部長クラスから上の人事ともなりますと、まぁ下で働く人間にとっては迷惑極まりない結果にしか繋がらないのが実情です。そしてもう一つが、日本の職場はアピールが大切、ということでしょうか。

 黙って着実に仕事をこなしているだけでは、日本の職場で評価されることはありません。人事権を持つ人に認められたいのなら、自分はいかに仕事をしているか、それをアピールすることに労力を費やす必要があります。この辺は別に上も下もなくて、まぁ末端の営業でも「いかに巧みに業務日報を書き上げるか」に苦労させられた人もいるのではないかと思うところです。「上」に対して絶えず己の成果を報告し続けなければならないのが日本で働く人の務め、それは終わりの見えない世界です。

 転職活動なんかでも、前職において何かを「変えた」という実績のアピールが頻繁に文例として紹介されているものですが、まぁ人事権を持つ人が好むのはそういうものなのでしょう。「変えない」ことが最良の選択肢である場合は少なくありません。しかし成果と認められるのは常に「変える」ことの方です。何も変えることなく、従来通りのやり方の継続によってこそ好成績を維持できることもあるわけですが、それでは「何もしていない」と査定されかねないのではないでしょうか。その様な評価を回避するためには、必要がなかろうとも「変えた」という実績を作らなければならないと言えます。

 野球やサッカーで言うならば、「監督が動いたから勝てた」という評価を作ることが、日本の管理職には求められているように思います。監督が余計な動きを見せない方がチームにとっては好ましいケースは多々あるのですけれど、それで勝っても上司は「何もしていない」と評価されてしまうわけです。ヒラ社員が業務日報などであれやこれやと「新たな」成果を盛ることを迫られるのと同様に、時には部門長クラスでも役員層から(そして経営層でも株主から)「どんな仕事をしたか」を問われているはずです。そうである以上は、何かを「変える」しかない、そうでないと仕事をしていないと見なされる、無能な中高年だの働かないオジサンだとの経済誌風に罵倒され、リストラ対象にされかねないですから。日本的人事の元で生き残るためには、仮に現場の業務を妨害しようとも上司は「自分が動いたから上手く行った」と言える材料を作らなければならない――まぁ生産性が低くなるのは致し方ありませんね。

 

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仕事が減らなきゃ休めるわけがない

2014-10-28 23:16:47 | 雇用・経済

有給消化で「秋の9連休」構想 取得促進と地域活性が狙い 実現へ疑問の声も…(フジサンケイビジネスアイ)

 有給休暇の消化を促すことで、秋に大型連休を誕生させる構想を政府が検討している。特に土、日曜と祝日が連続する2015年9月は暦の上では5連休となるため、谷間の平日を有給休暇とすれば最長で9連休が可能となる。政府は働き方と休み方の改革で有給休暇の消化率を高め、仕事と生活を調和する「ワークライフバランス」の実現を後押しするだけでなく、観光需要を伸ばして地域活性化につなげる「一石二鳥」をもくろむ。ただ、新たな祝日は導入せず、有給休暇に頼った「秋の大型連休」には実現を疑問視する声もあり、課題は多そうだ。

(中略)

 政府が国民の休暇増加に向けて議論に取り組む背景には、日本の有給消化率の低さがある。世界最大級のオンライン旅行会社、米エクスペディアの「有給休暇・国際比較調査」によると、13年に日本の有給消化率は39%と主要24カ国の中で最下位。100%のブラジルやフランスに遠く及ばず、70%で23位の韓国と比べても低さが際立つ。

(中略)

 有給消化率を上げるために議論の俎上(そじょう)に載ったのが秋の大型連休だ。9月としては09年以来6年ぶりとなる5連休が15年にあり、谷間となる平日の木、金曜に有給休暇を取得すれば9連休が可能となる。

 

 これ、単に「休みを繋げる」というだけで、決して「休みを増やす」プランではないのですよね。本来は労働者の自由に行使できるものであるはずの有給休暇を、特定の月日に使用させようと圧力をかけてみるという、まぁ色々な意味でナンセンスなプランでしかありません。政府の大号令で全労働者に有給休暇を一つプレゼントしよう、指定の時期に休めない人には代休を付与しようとか、そういう話なら筋は通りますけれど、実態は酷いものです。

参考、それで残業が減るわけがない

 ノー残業デーを設ける企業も増えているわけですが、会社で働く人の多くにとっては「迷惑な話」にしかなっていないのではないでしょうか。これまた「ノー残業デーだから早く帰るように」と指令が飛ぶ一方で業務量が減ったりすることはない、ノー残業デーだからと定時で帰ってしまえば翌日にツケが回るだけ、ノー残業デーの分だけ別の日の残業量を増やして対応せざるを得なくなるだけ、そんな職場も多いと思います。

 結局のところ有給消化率を上げろと政府が音頭を取ったところで、有休を取った分だけ他の日の仕事が厳しくなるような労働環境が手つかずである以上、やはり迷惑を被るのは現場の人ばかりという点には変わりがありません。仕事の負担が減れば自然と残業も減る、有給取得率も上がろうというものですが、残業を減らせ、有休を消化しろと号令をかける上長はいても、仕事を減らしてくれる人は見たことがない、結局は「自分で何とかするしかない」わけですよね。

 むしろ自分の工夫や頑張りで何とかできる、つまり仕事を早く片付けて残業せずに帰ったり有休を使ったりできるのなら、まだしもマシな方なくらいではないでしょうか。お偉いさんの思いつきであれやこれやと無意味な仕事が増やされる、そういうことだって多いはずです。ありがちなのが、畑違いの分野から異動してきた人が部門のトップになったときですかね。日本では珍しくない人事ですけれど、業務の実態を理解していない上長が「自分の働き」を役員層に示そうと頓珍漢な業務改善案を持ち出して現場の人間の邪魔をする、みたいなことも多々あります。アホな上層部の尻ぬぐいまでしなきゃならないのですから、なかなか悠長に大型連休など取ってもいられないわけです。やれやれ。

 

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政治家の事務所も民間企業もトップは基本的にバカなので

2014-10-26 11:45:50 | 政治

 さて先週は国会議員――というより新閣僚の金銭問題が大いに騒がれました。日本では政策上の誤りよりも金銭問題こそが致命傷に発展するもの、ヘイトスピーチや歴史修正主義で国際社会から懸念を表明されても国内的にはどうということもないのが我が国ですが、女性問題と金銭問題は進退に直結する死活問題です。そういう日本の政治風土においては女性問題に結びつきにくい女性政治家の積極起用はある意味で安全策なのかなと思ったりもしました。まぁ、某女性議員が男性スポーツ選手に無理矢理キスしたとか、後援する側の権力者と後援を受ける側のスポーツ選手という間柄であれば立場を悪用した強要であり女性から男性に対してであろうとセクハラと訴えられれば否定のしようがないだろうという一件もありましたけれど。

 それはさておき、公の金の使い道としてはどう見てもふさわしくないであろう支出を続々と指摘されてポストを降りた大臣に代わって新たに着任した閣僚が、今度は政治活動費でSMバーの領収書を切っていたことが判明して話題を呼んでいるわけです。ふむ、これがゲイバーですとか、同性愛者向けの店舗であったならば性的マイノリティの意見を聞くため云々とか言い訳もできそうですが、SMバーで理解を得るのは難しそうですね。第一次安倍内閣でも就任早々に疑わしい金の使い道を追求されわずか8日で辞任した農水大臣もいました。マスコミや野党によって一夜にして金銭問題が暴かれてしまう政治家には事欠きませんけれど、調べれば簡単に分かることなのでしょうか。そうであるならば、まずは自民党側で閣僚起用する前に「身辺調査」をしておいた方が無難に思えます。第三者が速やかに指摘できるような類を「身内」の側が気づけないというのも不思議な話です。

 でもまぁ、民間企業だってそうです。不適切に金が使われているなんてことは民間企業でも当たり前にありますし、それをトップが把握できていないことも当たり前、身内の人間が問題視せずに長らくスルーしていることなんてのも当たり前です。私にように会社に馴染めない人間からすれば容易に見つけられる不正でも、会社に馴染んで順調に出世していく人の目には全く映らないものなのだと思います。税金が原資の政治資金の使い道が厳しく問われるのは当然との声もあるわけですが、営業が靴を磨り減らして稼いできた会社の金が無能な上層部のためにドブに捨てられてしまうような事態は決して珍しくはないところで、この辺だって十分に市民の怒りを買ってしかるべきことと言えます。

 会社の偉い人が思いつきで改革を唱えては現場の人間に迷惑をかける、それは日本の職場の至って日常的な光景です。蟻一匹の侵入を防ぐために膨大な予算がつぎ込まれヒラ社員の稼働が大幅に増やされるなんてことも多々ありますけれど、そういうのを目にする度、「上の人には何が見えていないか」を下の人間が徐々に理解していくところもあるのではないでしょうか。社長や役員達が気にしているのは○○のことばかり、でも△△のことは何も把握できていない――そういうことを実際の業務に当たる人々は何となく分かってしまうものです。そして「上」が見えていない部分では不正が行えることにも気づいてしまうわけです。

 自分の勤務先でも、ある分野では必要以上に厳密に対策が取られている一方、完全にザルとしか言い様がない分野もあったりします。社長の目が節穴であることを利して会社の金を悪用しようとする余地は、たぶんどこの会社でもあるのでしょう。トップの周りに侍るのは「上」に良い報告をすることしか考えていないような人ばかり、傘下の不正を暴露して「何で今まで放っておいたのだ」と咎め立てされるリスクを冒そうとする人は滅多にいません。そうして「不適切な支出」は継続されてしまうわけです。政治家の金の問題も同様、トップが無能であることにつけ込んでテキトーに金を使う人もいて、それが組織の中では当たり前になっている、第三者にスキャンダルとして暴かれるまで、改めることなど誰も考えないのです。

 

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できあがったイメージ

2014-10-22 22:58:45 | 社会

 税率の低い国に法人を設け、会計上の操作で「本国」で課されるべき税金を免れる、しかも納税先の国でも特別な優遇措置を受けて同国内の他の企業よりも低い税金しか支払っていない、製造は専ら中国に外注して国内に雇用をもたらさない、そして中国の外注先は抑圧的な労働環境で名高く、新製品の紛失でもあれば情報漏洩の疑いで従業員を監禁し自殺に追い込むなどの横暴さでも知られている――そんな企業を、いわゆる左派の論者はどんな風に語ってきたでしょうか?

 上記はアップル社のことを念頭に置いて書いたのですが、アップルは不思議と悪く言われませんね。時価総額で考えれば、マイクロソフトよりもアマゾンよりも、GEよりもモンサントよりも上位に位置する、巨大企業の象徴でもあるはずです。世に悪質な中小零細企業は山とあれど、表だった批判に晒されるのは専ら世間に名の知れた大企業であって、その辺は有名税的なものもあるのでしょう。影響力の強い大企業ほど厳しい視線に晒されるのは責務――のはずですが、アップル社が叩かれないのは、何か秘密でもあるのでしょうか。

 私なんかはフェアトレードの観点からアップル製品は決して買わないことを心掛けていますが、フェアトレードの賛同者や、大企業のやり口やグローバリズムに批判的な人々からも概ねアップル製品は好意的に受け止められているように思います。アップル製品の何が凄いのか私には分からないのですけれど、それこそが故ジョブズの魔術だったのかも知れません。何でもないものを魅力的に見せかける、既に市場にあったものを革新的に見せかける、巨大資本の実態を隠して企業イメージを高める、そうした能力においてジョブズは空前絶後の天才であったのでしょう。

 

帰りたい通知代理サービス「帰らせ屋」が開始(R25)

年末に向け、イベントごとでなにかと忙しくなってくるこれからの時期。日本でもすっかり定着したハロウィンのほかにも、クリスマスに向けて合コンに励んだり、彼女とのデートを充実させたり…なんて人も多いだろう。しかしその一方で、参加したくない飲み会や残業が増えてくるのもこの時期の特徴だ。

実際、ビジネスパーソンはどんな気持ちでいるのか。各種のアンケートデータを見てみよう。マイナビスチューデントが2012年に社会人400人に行った調査では、会社での飲み会は「めんどう」と答えた人が62.6%にも及び、gooランキングが今年3月に発表したランキングでは、「会社の飲み会に参加したくない理由」の1位に「二次会、三次会…と長時間にわたって拘束される」がランクインした。また、ぐるなびが2012年の4月に発表したデータでは、社会人3年目の男女105人の「職場の飲み会に行きたくない理由」の第1位が「プライベートの時間を大切にしたい」(51.4%)となっており、「早く帰りたい…」思いを抱くビジネスパーソンは少なくないようだ。

 

 ……で、前振りの方が長くなりそうな感じですが「定着してしまったイメージ」ってものがあると思うわけです。実態とは異なるのに「こうなのだ」というイメージがいつの間にか固まっていて、それが信じられている、そんなことも多いのではないでしょうか。アップル社の場合もそうですが、例えば「日本人は時間にうるさい」みたいなのも典型的だと思います。どんなに電車が遅れても定刻通りと信じて疑わないのはまだしも、終業時間になっても帰らないのが普通に受け入れられている国民性が「時間にうるさい」とは、とうてい考えられませんけれどね。

 この終業時間に関して、日本ほどルーズな国はなかなか見られないのではないでしょうか。日本「以外」では、終業時間が来たらさっさと帰ってしまう、そんな時間にうるさい人が多いはずです。しかし日本人は、ヨソの国の人ほど時間を気にしたりはしません。あるいは日本の労働時間の長さの要員として槍玉に挙げられやすい長時間の会議もどうでしょう、誰かしら遅れてくる人のために開始までダラダラと待たされた挙げ句、終わりの時間など全く考慮されずに延々と続くばかりです。全く、どうして日本人はこうも時間に無頓着なのかと私などは呆れる他ありません。

 そして引用した飲み会の類も同様です。残念ながら見出しにある「帰らせ屋」はジョークの域を出ないように思われますが、こういう需要が出てくる下地のあることは窺えるのではないでしょうか。とかく時間にルーズな日本人は、他人の都合など考えずに相手を長時間付き合わせるもの、時間の区切りを設けようなどとは考えていない人が多いわけです。そこに嫌気を感じる人もまた多いのですけれど――そこで時間を気にすれば「日本人は時間にうるさい」とふんぞり返って逆ギレする人も多いのかも知れません。日本人は時間にうるさいのではなく、他人の時間を奪うことに無頓着なだけだにしか見えないのですが。

 

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知への憎しみ

2014-10-19 22:20:43 | 社会

 先日は子供の運動能力が低下云々という報道を取り上げまして、学力調査の場合と違って運動能力調査は国際比較が出てこないのはどうしてだろうな、という話を書きました。日本では体力の高低は大いに気にされるものですが、ヨソの国は違うのか、なぜ他国との学力調査結果の優劣に一喜一憂するのに運動能力調査の結果を別の国と比べようとするメディアが皆無なのか、その辺が私には気になったわけです。

 スポーツ選手になるのか、あるいは肉体労働者になるのか、それとも狩猟採集の生活を送るのか、そういう人生設計であるならば体力の高低は死活問題かも知れませんが、もう少し体よりも頭を使って働くことを将来的に期待されるような社会では、日本ほどには体力・運動能力調査の結果を気に留めたりはしないはず――そんな風にも書きました。そういうところもあるのではないでしょうか。次世代には、より知的になって欲しい、頭を使う仕事について欲しいと願う社会と、単純に安価で従順な労働力ばかりを求め続ける進歩のない社会とでは、「体力・運動能力」のニーズは大いに異なってくるものですから。

 四半世紀ほど前まで、日本の大学進学率は至って低いものでした。それがバブル崩壊もあって就職難が始まったのと歩調を合わせるように大学へと進む人の割合は急上昇へと転じたわけですが、そうは言っても現在でも進学率は5割程度と、まだまだ低いと考えられるべきでしょうか。一方で、この大学進学率の上昇を喜ばないどころか悪玉視する人も少なくありません。挙げ句の果てには近年の就職難の原因を大学進学率の上昇にあると強弁するトンデモさんも、コンサルタントの類を中心に跋扈しているのですから失笑ものです。

 

低収入でも子供を産み、育てられる「発想の転換」(J-CAST)

   しかし終戦直後などは、日本人はもっと貧乏で、子供だって5人も6人もいました。それでも、子供は育てられます。というか育ちます。生き物ですから、食べ物さえあれば育ちます。

   現在でもある種のカップルは、すぐに結婚して子供をたくさんつくります。それは、彼らの頭の中にはこのようなアンカリングポイントが存在しないからです。

   年収350万円のひとが子供を持つには、発想の転換が必要です。塾や習い事もなし、大学はいかないか、ネットでタダのもので学ぶ。大企業に入ることは諦める。単に子供が育てばよい。それで満足する。それでも子供を持つことの喜びは計り知れないでしょう。

 

マララ氏はテロ支援者―教育先行はテロを生みだす(アゴラ)

これは第一に、テロの首謀者としての問題意識を抱くには、相当の教養が必要だということを認識する必要がある。つまり、貧困者が貧困を自覚し、構造的暴力を受ける者がそれを自覚するのは、相当教養がないとできないのである。

(中略)

第三の教育がテロを生みだす理由は、教育はプライドを育てるということである。大学や大学院を出て、パン工場のライン労働者になりたい人間は稀有だということだ。

 

 何でも中東では日本式教育の評価が高いそうで、アラブ首長国連邦などでは日本人学校への現地人受け入れを始めたなんてニュースもありました(参考、日本式教育は中東向き?)。いったい何が、かの絶対君主制の国で評価されたのでしょうね。そして上に引用した二つは、まぁ真っ当なメディアからの引用ではありませんが、日本ではある種の典型的な考え方でもあると言えます。要するに日本では、人々が知恵を付けることを歓迎しない、そういう発想が根強いわけです。

 国内に高等教育を受けた人が増えて国民の知的水準が向上すること、これを好ましいことと考える国もあれば、そうではない国もあるのでしょう。そして日本は、後者寄りであると言わざるを得ません。非民主的な政治体制を持つ国で日本式の教育が高く評価されるのはむしろ反省材料と考えられるべきですが、どうしたものでしょうか。とかく日本では知的労働者ではなく低賃金労働者の需要ばかりが強く、世界経済から取り残される日本の産業界の要望に政治の世界が媚を売る、そんな有様に教育を巡る言論もまた少なからず毒されているような気がしますね。

 

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萎える邦題

2014-10-16 23:00:46 | 文芸欄

 自分は文学が専攻でして、ただまぁ文学の研究者というものは大学でも文学を教えるより語学を教える役割の方が期待されているところもあるのが悲しい実情と言いますか、語学が苦手な私は色々と限界を感じたりもしたものです。外国語での会話に比べれば読む方はずっとマシではあったのですけれど、それでもまぁ各種の翻訳には色々お世話になりました。そんなわけで諸々の海外作品の邦訳には古いものから新しいものまで少なからず接する機会があったのですが、訳された時代によって一種の流行もまたあったように思います。

 現代は、言うなれば「誤訳派」みたいなのが喧しいと言いますか、ちょっとでも原文に忠実でない訳があると誤訳だの何だのと突っかかっている人も見受けられるところで、あまり大胆な翻訳は見られなくなっている印象がないでもありません。まぁ先駆者の翻訳と、先人の訳を参考にしながら校正していくように訳を作っていった翻訳とでは精度に差も出てくるものなのでしょう。時には反対に、最初期の訳者が作り上げたイメージを覆そうと変な訳文をひねり出しているケースもありますが、そういう突き抜けている類は意外に非難されていない気もします。先駆者による工夫された訳と、そこから反動で出てきたようなひねくれた翻訳とでは、また別ではあるのですけれど。

 一方で「タイトル」に関しては、ひねりのない退屈な代物が主流になりましたね。この辺は文学に限らず、映画でも音楽でもゲームでも同様ですが、最大多数派は原題をカタカナ書きにしただけ、というパターン。これは実に、つまらないです。昔の翻訳者はただ単にタイトルを日本語に置き換えるだけではなく、なんとかして作品が纏っている空気のごときものを伝えようと、成功しているかどうかは別として色々と頭を使っていたように見受けられる一方で、現代の邦題は実につまらない、その日本版のタイトルを聞かされるだけで中身を見る前に萎えてしまうような類が目立ちます。

 『ライ麦畑でつかまえて』が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に変わってしまっては失笑ものですし、『ゴリオ爺さん』が『ペール・ゴリオ』になってしまうのも何だかマヌケにしか感じないのですけれど、それが時代の流れなのでしょう。過去の訳者が使った邦題をそのまま拝借するのも工夫の無い話かも知れませんが、単に「カタカナにしてみる」ってのは、それは翻訳ではないという気がしますね。冠詞を適当に省いているという点で、原文に忠実というものですらありませんし("You've Got Mail"が『ユー・ガット・メール』なんてのもありました、"And Yet It Moves"という、ちょっと面白いゲームもあるのですが、邦題は『アンド イエット イット ムービース』……)。

 『ああ無情』は『レ・ミゼラブル』になり、『華麗なるギャツビー』は『グレート・ギャツビー』に、『指輪物語』は『ロード・オブ・ザ・リング』になりました。『博士の異常な愛情』も、たぶんリメイクされたら邦題は『ドクター・ストレンジラブ』になるんでしょうね、きっと。そして『ジャングル大帝』は『ライオン・キング』、『殺せ、ロシア人だ』は『リメンバー・ノー・ロシアン』になってしまうわけです。やだやだ。

 まぁ『アナと雪の女王』は『フローズン』にされなくて良かったね、と思います。内容は知りませんが邦題は悪くないでしょう。ちなみに『アナ雪』と同様に随分と熱心に宣伝されていた映画としては『ファインディング・ニモ』なんかを思い出します。当時は館内に映画館も入っていた商業施設のテナントで働いていたものですから、『ファインディング・ニモ』を見に来た親子連れの姿もよく見かけたものです。どこの子も皆、「ファイティング・ニモ」と言っていました。原題をそのままカタカナ書きにするという王道の邦題ではありましたが、子供達には難しかったようです。

 ちなみに私が知る内で至高の邦題は『超 男 性』ですかね。原題は"Le Surmâle"で、この邦題が『超 男 性』です。訳者は誰かと見返したら、澁澤龍彦でした。元のタイトル自体が優れたものではあるとはいえ、流石です。この邦題でなければ手に取ることはなかったと思うところ、タイトルを作るのは簡単なことではありませんが、それだけにセンスが問われる部分でもあります。

 

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日本人が気にすること

2014-10-14 23:01:06 | 社会

子どもの運動能力、ピークは85年 最近は二極化進む(朝日新聞)

 小中学生の体力が、1985年度ごろをピークに低下していることが、文部科学省が12日に発表した「体力・運動能力調査」でわかった。東京五輪のあった64年度から続く調査で、今回は50年間の長期的な傾向を分析。ここ15年ほどは回復傾向にあるが、運動能力が高い子が伸びる一方、運動をしない層が落ち込む「二極化」が進んでいるという。

 

 引用元記事では「~わかった」と、なにやら新たに確認された事項であるかのように伝えられていますけれど、この手の記事は毎年恒例みたいなものですよね。今になって始められた調査ではなく50年前から続いている調査であり、この十数年来続いている傾向は変わっていないわけです。センセーショナリズムを社是とする朝日新聞社としては、つい自然に「~わかった」と新たな発見であるように書いてしまうものなのかも知れませんが、それは少し違うだろうと思います。

 それはさておき、恒例の学力調査と今回の「体力・運動能力調査」の「語られ方の違い」については、もっと注目されるべきではないかと思います。学力調査の結果についても新聞各社は毎年欠かさず報道してくれるものですが、学力調査報道にはあって体力・運動能力調査には「ない」ものがあるのではないでしょうか。例えば学力調査の結果については「他国との比較」が付き物である一方、体力・運動能力調査に関して他国との比較は出てきません。それは今回もそうですし、過去にも同様でした。

 体育会系の論理が幅を利かせる国としては、子供達の体力は学力と同様に何かと気にされるものなのでしょう。しかし、ヨソの国は? 学力調査の結果については他国との優劣に一喜一憂しているのに、この体力・運動能力調査の結果を他国のそれと比較してみようというメディアが全く見られないのは何故なのか、この辺は興味深いものがあります。

 「学校教育に関して、日本の子どもは運がいいと思います。日本では体育の時間にたくさんスポーツをできるけれど、イタリアの子どもは教育制度のせいで運動があまりできないからです。このことがもたらす結果は、サッカーに関しては顕著です。同じ年齢なら日本の子どもの方が運動神経もいいし、テクニックもあるし、ボールタッチも柔らかい。これはプロを目指すサッカー選手のキャリアに役立ちます。」――そう、本田圭佑の所属するACミランが2007年に日本でサッカー教室を開催した際、コーチのファビオ・ニコレ氏は語りました。

 学校体育が盛んな日本の子供の運動能力は、総じて高い方なのだと思います。ただ、「国際的に見て運動能力は高い」という評価は、多くの日本人にとって好ましくないのかな、とも。むしろ「子供たちの運動能力が低下している、嘆かわしい」みたいな方向に持ち込んだ方が読者のウケは良いのかも知れません。サッカーでも、敗因を「フィジカルの弱さ」に求めたがる頭の固い人々も少なくないわけです。そういう人々の世界観を覆す結果が、体力・運動能力調査の国際比較によって露わになることは望まれていないのでしょう。

 それよりも、「ヨソの国の人は『日本人とは違って』運動能力の多寡など気にしていない」可能性があります。スポーツ選手になるのか、あるいは肉体労働者になるのか、それとも狩猟採集の生活を送るのか、そういう人生設計であるならば体力の高低は死活問題かも知れませんが、もう少し体よりも頭を使って働くことを将来的に期待されるような社会では、日本ほどには体力・運動能力調査の結果を気に留めたりはしないはずです。日本の調査の比較対象となるほどの代物がヨソの国に存在していない、そんな推測も頭をよぎります。

 

10代でパソコン離れが急加速。パソコンからのネット接続は、1年で約3分の2に(徳島新報)

10代のパソコンからのインターネット接続が、1年前の2013年9月度調査では1日にあたり、143.9分だったところ、2014年8月度調査では79.5分にまで落ち込み、今回の9月度調査でも88.2分となりました。

 

 一方ベネッセから流出した名簿を買っていたことで不本意にも知名度を高めた徳島の有力企業が調査したところによると、若者のパソコン離れが深刻なようです。以前からその傾向はありましたけれど、「1年で約3分の2」とのことですから、また一気に加速した印象を受けますね。私なんかは体力・運動能力調査の結果なんかより、こっちを懸念した方が良いのではないかという気がしないでもありません。以前から何度か書いてきたことでもありますが、若年層のPCスキルもまた既にピークを過ぎ、低下傾向にある、と。

 傍目にはオッサン、オバハンのくせにいつまでも若者のつもりでいる人は多くて、そういう人からすると「年長者=パソコンが使えない駄目な人」「若い人=パソコンが使える人」みたいなイメージがあるみたいです。しかるに現実は厳しいもの、むしろ長いことパソコンで仕事をしてきたベテラン組のPCスキルは一定の水準に達している一方で、若い人はスマートフォン専門でマトモにPCを扱えない、そういう構図の方をこそ当たり前のように目にする機会が増えているのではないでしょうか。

 まぁ、会社はどこも実用より流行を大切にするものです。老朽化したPCのリプレースは無視して社員にiPadを配ったりしている企業も少なくないと思います。その内、PC専門でタブレット端末が使えないような年寄りは、若者から蔑みの目を向けられるようになるのかも知れませんね。今時の若い者はろくにPCも扱えないと私などは嘆かわしくも感じてしまうところですが、それは自分が若くなくなったと言うことなのだと考えておくことにします。

 

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子供が大好き

2014-10-12 13:33:26 | 社会

僧侶ら35人逮捕・書類送検 児童ポルノ禁止法違反容疑(朝日新聞)

 岐阜県警は9日、児童ポルノの画像をインターネットを通じて投稿するなどしていたとして、僧侶ら35人を児童買春・児童ポルノ禁止法違反などの容疑で逮捕・書類送検し、児童ポルノのデータ約220万点を押収したと発表した。

 県警によると、逮捕・書類送検された35人のうち、青森、沖縄など17都府県に住む19歳から51歳までの僧侶や元教諭、市職員ら男32人は、大阪市平野区の会社員(37)=児童ポルノ公然陳列幇助(ほうじょ)容疑で書類送検=が管理する盗撮写真投稿サイトに児童ポルノ画像を投稿したり、第三者に児童ポルノ画像をメールで送信したりした疑いがある。

 

児童ポルノ愛好グループ摘発=33人、掲示板で知り合う―岐阜県警(時事通信)

 少女へのわいせつ行為を撮影した写真をメール送信したり、児童ポルノ画像をインターネットの掲示板サイトに投稿したりしたとして、岐阜県警少年課などは9日までに、児童ポルノ禁止法違反容疑で、三重県熊野市紀和町平谷、無職岩波孝被告(44)=児童ポルノ製造、提供罪などで起訴=ら、17都府県に住む愛好者グループ33人を逮捕・書類送検した。

 33人は掲示板サイトで知り合ったとみられ、小学校教師や自衛官も含まれているという。県警はパソコンなどから計約220万点の児童ポルノ画像を押収した。

 

 上記の2つは同じ事件を報じているはずですが、微妙な切り口の違いが気になりますね。新聞によって伝えられる逮捕者の数に差があるのは割とよくあるので別として、朝日新聞が「僧侶」を見出しに持ってきた一方で時事通信は見出しでは煽らず、本文中で無職の人を代表として実名報道しているわけです。まぁ仏教に限らずカトリックなどでも、総じて宗教に小児性愛は付き物のような印象もありますけれど、逮捕された30数名の内から敢えて「僧侶」をピックアップして見出しにまで据えた意図はどこにあるのでしょう。どうにも「主犯」ということでもなさそうなのですが。

 

「すごい美形だったので」わが子を赤ちゃんタレントにした理由(週刊朝日)

 名子役の鈴木福くんや、「こども店長」加藤清史郎くんなども、実は赤ちゃんタレント出身である。わが子を「赤タレ」にするママたちの思いはどんなものか。

 大泉洋主演映画「トワイライト ささらさや」に出演する「売れっ子赤タレ」加藤楷翔くん(1歳)は、4人きょうだいの末っ子。ママ・恵美さんは楷翔(かいと)くんを出産後、すぐ赤タレにする決意をした。

「上の3人はみんな普通の赤ちゃん顔だったのに、この子は最初から二重まぶたで目が大きくてスッキリ! すごい美形だったので」

 実は恵美さんも幼いころに少し子役経験があるそうで、その夢を継ぐかたちだ。

「人見知りは全然しないのでラクですが、荷物や移動のほうが大変。ミルクやオムツ、着替えなどを持って、抱っこひもで8キロのわが子を抱っこして電車に乗って、映画撮影のときは3日間連続朝7時に三浦海岸まで行きました(笑)」

 撮影前にミルクをあげたり、お昼寝をとらせたり、眠るシーンの撮影前は、逆に本番で寝られるようずっと起こしておいたりと、赤ちゃんの「眠い」「おなかすいた」などをコントロールする時間管理もママの仕事。赤タレ仕事の喜びも大変さも、赤ちゃん自身ではなくママのほうが大きいのだ。

 

 ……で、今回は引用が多くなりますけれど、こちらは週刊朝日の記事です。読んでいて、吐き気がしてきます。まぁ日本の政治家が規制したがっている「創作物」の愛好家なんてのは他人が気にするようなものではないと思うところですが、こういう「子供を見世物にする」業界はどう考えられているのでしょうね。ポルノ扱いされるかそうでないかはあまり関係ない、子供を使ったビジネスは遍く懸念されるべき、子供を使って自己顕示欲を見たそうとする親だってペドフィリアと同等の病気と見なされるべきではないかと、そんな気がするところです。

 

孫に“沐浴”はダメ? 祖父母を悩ます子育ての「世代間ギャップ」(週刊朝日)

「私たちが子育てしていたころは、栄養価の高さから粉ミルクがもてはやされていたし、子どもたちがテレビを見ている間に家事をした。でも今、娘はそれらを全部否定します。孫を預かっているとき、どうすればいいのか困ってしまうことがある」

 

 率直に言えば、現代の日本人の子供好きは完全に「行き過ぎ」なのではないでしょうか。母乳でなく粉ミルクでも構わない、家事をするときは子供にテレビでも見させておけばいい――そんな風に一世代昔の人は考えていたようですが、今時は違うようです。しばしばネット上では子供の迷惑行為に不満を述べた人が袋叩きにあったりもしていますけれど、要するに現代は「子供のため」が絶対になっているのだと言えます。親の都合など考慮されない、全ては「子供のため」として扶養者とりわけ母親の自由なんて完全に黙殺されてしまう、何が何でも子供が最優先でなければならない、そういう時代になっているわけです。いやはや、こういう時代に子育てをしなければならない人には同情してしまいますね。

 古代エジプトではネコが大いに大切にされ、ネコを盾にくくりつけて押し寄せてきたペルシア軍に敗戦したなんて伝説まで生まれました。翻って21世紀の日本では、しばしば支離滅裂な主張する人が子供を盾にして行進していたりするのではないでしょうか。己の主張を子供に代弁させたがる人々、子供にプラカードを持たせてデモの先頭に立たせる人々、正当性の担保を「子供」によって取得しようとしている人々がいるわけです。子供に対して「NO」と言えば不寛容だの何だのと罵倒される、そんな時代だからこそ通用する手段なのかも知れません。

 子供の裸が好きな人、子供を見世物にするのが好きな人、子供に黄色い声援を送る人、子供を盾にして他人の口を塞ぐのが好きな人、子供が好きな人はたくさんいますけれど、当の子供自身にとってはどうなのでしょう。子供が子供である限り、まぁ周りの大人にチヤホヤされる日々には、そんなに悪い気がしていない可能性もあるとは思います(ことによると、子供でなくなったときに自分を無価値と感じることもありそうですが――この辺の心理は30代、40代の「女子」のそれに似るところも?)。ただまぁ、やはり周りの大人の欲望の対象となっているという点では、ポルノ扱いされようがされまいが、歪んだ愛情を注がれているという意味で変わりがないなと私などは感じるところです。

 

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それは女性の問題じゃなくて、成果主義の問題

2014-10-09 23:29:48 | 雇用・経済

なぜ女性は管理職になりたがらないか
“ふつうの女子”が出世を他人事にしか思えないワケ(DIAMONDonline)

 そのやり方に限界を感じていたころ、以前の上司にこう言われた。

 「君は部下としては仕事ができるけど、管理者としては、0点だ。管理職としてどのように仕事を進めるべきか、考える必要があるね」

 はっとした。マネジメントは、仕事の延長線上でやるのではないということ。自分がすべて動くのではなく、体系的に物事をみて、論理的に解決する力、部下に任せる力。確かに今の私にはすべてできていないものだった。

 部下を信じられていないことで、何から何まで指示を出して報告させていることで、私はすべて業務のハブになり、部下は自分で考えなくなり、私には時間がいくらあっても足りないという悪循環に気がついた。

 マネジャーは、自分がパフォーマンスを上げる一番バッターになってはいけない。部下を信じて任せて育てる育成の視点、そして部下のキャリアを考えて仕事を振り分け、部下に成長の機会や仕事の面白さを体験させる。決して部下の仕事を横取りしないこと、一方でいざとなったら部下の失敗はすべて引き受ける覚悟を持っておくことが大切だ。

 

 まぁ掲載誌の性質上と言いますか微妙に的を外している印象もありまして、どうにも「女性は~」という問題でもなさそうに思えるのですが、いかがなものでしょう。この手の記事を読むと毎回「男でも似たようなもんじゃないの?」と感じることが多いのですけれど、まぁ女性特有の問題であるかのごとくに見せかけたがっている人もいるのかも知れません。

 その辺はさておき引用した箇所、著者自身が管理職に昇進したときのエピソードを書き連ねているようです。この辺もまた女性であること云々とは無関係で、どちらかというと日本的な成果主義人事の弊害を強く感じるところです。男性だからダメ、女性だからダメとかいう話ではなく、むしろ「成果主義だからダメ」なのではないかと、そう考えさせてくれる事例になっているのではないでしょうか。

 日本には年功序列という都市伝説が存在し、経済誌のライターなどにはそれを鵜呑みにしている人も多いようですが、良くも悪くも早期に出世する人もいれば、同期に大きく後れを取る人もいるわけです。いったい昇進の基準はどこにあるのでしょうね。その辺は人事権を持つ側の匙加減、性別による差別もあれば所属する部門次第で機会に差が出ることもあるのかも知れません。ただ営業など色々と数値化しやすい職種では専ら「成果」が昇進の基準として使われるものですよね。売り上げなど「成果」を上げたものが優先的に出世していくのは、どこの職場でも普通に見られることだと思います。

 「マネジャーは、自分がパフォーマンスを上げる一番バッターになってはいけない」云々と引用元では野球?が例に持ち出されています。そうですね、私も似たような例を前に使いましたけれど、管理職と平社員では役割も違えば求められるものも違うわけです。マネジメントを任された役職者が敏腕の営業マンであろうとするのは無意味なことと言えます。しかるに野球では、現役選手として好成績を残すことこそが指導者への最短経路です。名選手が名監督になれる保証などどこにもありませんが、そもそも名選手でなければ監督になれる機会など、まず巡ってきません。指導者としての資質を秘めていようとも、選手としての成果がなければ現代はノーチャンスです。

 日本の会社における人事はどうなのでしょう。営業としては芽が出ずノルマ未達が続いても、「人を管理する能力は高い」という理由で同期を差し置いて出世することなどあり得ないわけです。むしろ普通なのは、管理職としての能力は全く未知数だけれども営業としての成績は輝かしい人が、その成果に報いられる形で管理職に抜擢されるパターンですよね。しかし、この成果主義に基づく人事は本当に望ましいのでしょうか。「マネジャーは、自分がパフォーマンスを上げる一番バッターになってはいけない」との引用元の主張は、その通りだと思います。しかしバッターとして優秀であることが、マネジャーになる条件となっているとしたら?

 ○○は弱いけれど××には強い、△△としては力を発揮できないが、◇◇に配置すれば活躍できる――そうした細やかな評価は、どうも日本で人事権を持つ人には難しすぎるようです。単純に「能力が高い/能力が低い」ぐらいの評価しかできていないのではないかな、とも。つまり入り口では職種を問わず「コミュニケーション能力」を基準に「能力が高い」人を採用する、入社後は営業などの個人成績を基準に「能力が高い」人を昇進させる、管理職になれば部門の業績や世渡りのうまさを基準に「能力が高い」人を役員へ云々。それぞれのステージで必要な能力は全く異なるのですけれど、その辺は考慮されず、コミュニケーション能力が低ければ社員としても「能力が低い」として切り捨てられ、個人成績が振るわなければ「能力が低い」として昇進の機会から遠ざけられ、部門の運営が上手く行かなければ「能力が低い」無能な中高年と呼ばれてリストラ対象へと追い込まれるものです。コミュニケーション能力が低くても仕事ができる人はいますし、個人成績は微妙でも人をまとめるのは上手い人もいる、部下をマネジメントするのは下手でも個人としては優秀だった人もいる、しかし会社の評価は……

 現役であった頃にはファンの希望であった往年の名選手が、いつのまにやら迷監督としてファンの罵倒を浴びる、そんな光景は珍しくありません。そして似たようなことは、普通の職場でも多々あるのではないでしょうか。成果主義であるが故に、選手としての成果によって全く別の能力を問われる役割へと「昇格」させられる、そうして評価を下げてしまう人もいるはずです。会社の人事は「能力が高い」人を選んだのだから、別の役割もまた務まるはずだと考えているのかも知れませんが、実際はそうならないのが当たり前です。管理職には管理職としての適性の高い人が選ばれるのではなく、その前段階の職務において成果を上げた人が選ばれる、そういう人事が一般的である限り、会社の人事の思惑は外れ続けることでしょう。

 

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朝日の辞書に反省の文字はない

2014-10-07 21:57:55 | 社会

 戦前の朝日新聞社が開戦気運を率先して煽り立てていたことは広く知られています。決して朝日新聞だけの力で戦争が始まったわけではないにせよ、そこへ積極的に荷担していたことは否定できないはずです。そして自らが先を争って煽り立ててきたことの「結果」に対して、朝日新聞がいかなる態度を見せてきたのかは問われます。悔い改めて轍を踏まないように努めているのか、それとも形だけの反省の弁を述べるに止まり、相も変わらず悪質な煽り記事を乱発しているのか、審判は安易に終わらせるべきものではありません。

 

(天声人語)国民安保法制懇が報告書(朝日新聞)

▼法制懇メンバーで元内閣法制局長官、大森政輔(まさすけ)氏の舌鋒(ぜっぽう)は鋭い。発表時の記者会見で、閣議決定を「まさにまやかし」と断じた。今回の憲法解釈の変更は「内閣の権能を超えており、無効といわざるをえない」という立場だ。「法の番人」のOBとしての矜恃(きょうじ)が伝わる▼橋本、小渕両内閣で長官だった。当時、「総理、これは無理です」と意見をいえば反論はなかったという。

 

 ……この辺は集団的自衛権を巡る安倍内閣の「解釈の変更」を問題視しているつもりらしく、元内閣法制局長官の発言が援用されています。まぁ大森政輔氏の言葉には概ね納得するところです。しかし、内閣法制局長官のような官僚の言葉など聞く耳持たずに議員(内閣)が一方的に決定を下す、これは朝日新聞も大いにヨイショしてきた民主党の政治主導の理念をまさに体現しているのではないでしょうか。日頃は官僚側の主張を全否定してきた人々が、いざ自分の気に入らない決定が政治主導で決定されるや、態度を翻して官僚の抗弁を論拠に持ち出して自説を補強する、こういう態度は率直に言って卑劣だと思います。

 

(政治断簡)悲観論に今こそ耳を 編集委員・前田直人(朝日新聞)

 「『やれば出来る』は魔法の合いことば」。当時の小泉純一郎首相が所信表明で、その夏の甲子園で準優勝した愛媛県・済美(さいび)高校の校歌の一節を引いて訴えた。「やればできる。勇気と誇りを持って、日本の明るい未来を築こうではありませんか」

(中略)

 安倍氏が所信表明をした9月29日の夜、小泉氏は東京での脱原発イベントに出演した後、怒りをあらわにした。

 「私、しょっちゅう言ってるじゃないですか。総理に。原発ゼロ、なんで進めないのか、こんないい時機ない、と。恵まれている総理だぞ、と。できるのに、なぜやらないのか」

 小泉氏が安倍氏に「やればできる」と訴えるのは、原発を再稼働せずに原発ゼロへカジを切ること。だが、安倍政権は、九州電力川内(せんだい)原発(鹿児島県)の再稼働を粛々と進める構えを崩さない。

 

 朝日新聞が民主党と並んで露骨に好意的に扱ってきたのが、この小泉純一郎です。その辺にも朝日新聞の無責任な煽り体質がよく現れていると言いますか、国民を戦争へと誘導してもその結果に対して決して責任を負わないように、小泉改革を賞賛して来た一方でその「結果」を省みようとする姿勢は微塵も見えません。どちらかと言えば小泉政治によってもたらされたものに対してはネガティヴな報道の方が多いかに見える朝日新聞ですけれど、その根源にまでさかのぼることはなく、適当に自民党政権のせいにしておけば良いとばかりの丸投げぐらいがせいぜいなのですから、呆れるほかないですね。

 さて今回は済美高校の校歌の一節を引いて訴えた云々とのこと。済美高校といったら安楽智大投手の常軌を逸した酷使や、下級生にカメムシを食べさせたり灯油を飲ませようとするなどのイジメ行為で名高いところです。これが小泉と朝日の思い描く「日本の明るい未来」なのでしょう。まぁ、負の側面に目を向けさせないようにして流行のものを無批判に称えるセンスという点で、小泉純一郎と朝日新聞はソリが合うのかも知れません。ともあれ「原発ゼロ、なんで進めないのか、こんないい時機ない、と。恵まれている総理だぞ、と。できるのに、なぜやらないのか」等々と発言が引かれているわけです。

 「アメリカでは発言の自由が保障されている」「我がソ連でも発言の自由は保障されている……発言した後の自由までは保障しかねるが」と、こんなジョークもソ連時代にはありました。小泉が訴え朝日が賞賛する「やればできる」も同様です。確かに、やればできるのでしょう。しかし「やった後」は? 2011年以降の電力行政の誤りによってもたらされたものから目を背け続ける人もいます。電力は値上がりするけれども、それは全て電力会社が悪いことにしてしまおう、化石燃料の輸入が増えて貿易赤字も増大するけれど気にしない、温暖化ガスの排出量削減目標など知ったことではない、電力不足に伴う節電のためにシフト勤務を強いられたりする人も増えるけれど、そんなものは下々の話と、そう構えている分には「やればできる」のかも知れませんが……

 中国に侵攻するのもアメリカと開戦するのだって「やればできる」と朝日新聞は唱えてきたのでしょうか。確かに、だいたいのことはやればできるわけです。もっとも、やった先に起こることまでは保証されません。「やればできる」と無理を押し通した結果として必然的にもたらされる事態に責任を持てるかどうか、そこが問われるのではないでしょうか。小泉にせよ朝日新聞にせよ、国民を煽り立てるだけが専門で結果に責任を持つつもりは毛頭ない人々だけが、安易に「やればできる」と唱えることができます。しかし少しでも先のことを考えられる人であるならば、事態はそう簡単には済まないことを踏まえた上で発言するものです。

 結局のところ吉田調書報道では嘘を突き通せなくなったようで「誤報」と言い繕って謝罪するに至った朝日新聞ですけれど、原発事故絡みの煽り報道の先陣を切ったAERAはお咎めナシ、タチの悪いノンフィクション風フィクションで福島を忌避の対象に仕立て上げてきたプロメテウスの罠も継続、異なる基準値を意図的に混同させる記事で読者にあらぬ不安を植え付けてきた大岩ゆりが降格処分になるわけでもなしと、まぁ朝日新聞グループに反省の姿勢があるとは全く考えられないところです。結局、この新聞社にあるのはメディアとしての影響力を駆使して読者(視聴者)を自分の思うように誘導してやろうという奢りだけであって、良心など微塵もないのだろうなと思います。

 

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