19世紀半ば、ドイツという国家の統一方針として大ドイツ主義と小ドイツ主義というものがありました。それまでプロイセンやバイエルンなどに分かれていた国が現在のドイツに近い形にまとまっていく中で、オーストリアをドイツに含めるかどうかを巡り主張の対立があったわけです。ご存じのようにオーストリアはドイツ語圏であり文化的にもドイツと共通する部分が多く(70年ばかり前にはオーストリア出身者がドイツの政権を掌握したりもしました)、諸々の小国家を連合させて新たな国を作る過程で「ドイツ」に含めるべきだという意見も強かったのは想像に難くないと思います。
そこでオーストリアをドイツに含める考え方が「大ドイツ主義」、オーストリアをドイツに含めないのが「小ドイツ主義」と呼ばれるのですが、当時のオーストリアは現在のオーストリアとは版図が大きく異なり、現在のハンガリーやチェコを含めた他民族帝国でもありました。故に他民族帝国であるオーストリアをドイツに含め、かつ当時の流行である国民国家の理念に沿って「ドイツ人」だけの国家を作るためには、オーストリアを「ドイツ人」と「非ドイツ人」の領域に割らねばならなくなるわけです。その辺の調整は上手く行かなかったようで、最終的には小ドイツ主義によってドイツ統一は進められることとなりました。
翻って日本の場合です。かつての大日本帝国は多民族国家であり(故に一方的な侵略国家ではないとするわけです)、国定教科書でもそのように教えられてきました。天皇も万世一系が強弁されるばかりではなく、朝鮮王朝などとの婚姻関係や渡来説が普通に語られ、他民族との混血があったからこそ多民族帝国の支配者にふさわしいのだとの主張も強かったわけです。しかるに第二次大戦後は方針が180°転換されます。日本は単一民族国家であり、天皇は万世一系である、と。この辺は大日本帝国の理念を敢然と否定するものでありますが、なぜかこの大日本帝国の理念を否定する世界観の持ち主ほど戦前の支配体制に肯定的だったり……
ともあれ朝鮮人も中国人も台湾人もアイヌ人も、みな大日本帝国の臣民であるとするいわば「大日本主義」が、戦後は「朝鮮人は日本から出て行け」と言わんばかりの「小日本主義」に切り替えられました。決して大日本帝国時代の臣民の扱いが等しかったわけではないにせよ、建前上は同国人、日本人(大日本帝国人)だったものを一夜にして非・日本人として扱うことになったわけです。敗戦を機に領土を手放すことになったのは外的な要因も大きいとはいえ、どこまでを「日本」と見なすかという点では大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立に似るところありそうな気がします。
大ドイツ主義ならぬ大日本主義を取るならば、日本人概念は現在の「日本」の国境外にも向かわなければなりません。戦後の「日本」の領域に居住する元・大日本帝国臣民であれば、国境の向こうで生まれ育ったとしても日本人として扱うことは当然あり得たはずです。しかるに「日本」に居住する元・大日本帝国臣民のうち、戦後の新しい国境の向こうにルーツを持つ人は、軒並み国籍を剥奪されてしまいました。大日本帝国臣民でもない、かといって日本人でもない無国籍者を生み出す、そうやって「日本人」の枠を小さく狭めていくことが新たな日本の道として選ばれたわけです。
オーストリアの住民をもドイツ人と見なすのが大ドイツ主義で、逆にオーストリア人をドイツ人に含めないのが小ドイツ主義なら、旧大日本帝国臣民ならば日本人でもあると見なすのが大日本主義、反対に旧大日本帝国臣民であっても国境外にルーツを持つなら日本人に含めないのが小日本主義と言えるでしょう。大日本主義には大日本主義なりの問題がありますが、とりあえず日本国は小日本主義を取ってきました。そして現代に至るも、単に日本国籍を取得するだけでは日本人として受け入れられるとは限らなかったり、相変わらず「日本人」の枠は小さく狭められたままです。もう小日本主義を奉じる人は小日本人、小日本主義を押し通す国家は小日本とでも呼んだらいいのでしょうかね。
>単に日本国籍を取得するだけでは日本人として受け入れられるとは限らなかったり
いつぞやの平沼某の某民主党議員へのひどい差別発言をおもいだします。
「在特会」にかぎらず、ウヨクあるいは保守派[注1]には、ガリガリ君もとい我利我利亡者であるという一点以外に一貫性などありません。土地をふくむ資源は大日本主義で、その資源から配当を得る日本国民(実は既得権益を牛耳る者たちでありその頂点が天皇)は小日本主義で、そして景気の具合によって需要が変化する労働力としての外国人「労働者」[注2]は景気に応じて大日本主義にも小日本主義にも転換する。
これこそが「日本」(というものは実在しないし、ついでに天皇も実在するのは/tenno:/という音声に過ぎないが)の根幹であり、それを「ますらおぶり」と呼ぼうが「もののあわれ」と呼ぼうが、要するにやまとごころの真髄はそうした欺瞞である。
この貝枝の主張に対して反論したいひとがいるならば、そのひとは「日本」政府さらには天皇の態度で、そうした卑劣な態度でないものをしめす義務が当然の立証責任としてその反論をしたいひとに生じることはいうまでもないし、さらにその場合の立証とは「日本国の首相や天皇がみずから卑怯な態度を取ったと明言していないのだから首相や天皇が卑怯な態度をとったとはいえない」という内容(無内容)では不可であることもいうまでもない[注3]。
注1:本当は「保身派」とよぶべきである。なにしろ弱者の文化とか、ヤマトにおいてある程度の期間(1500年くらい)継続した文化であっても真に価値のある文化たる漢方は保守しないのだから。
注2:でもって労働者とは賃金をもらわなければやってられない様な労働をピンはねされた賃金で、しかもよろこんでおこなう人間のことをいう。
注3:こうしたダメダメ言説に対する根源的な問いかけは、下記の記事における
http://harana.blog21.fc2.com/blog-entry-723.html
貝枝のコメント(2009/10/13 15:48)参照。
このままでは極東の極小国家への道を進むように思えます(苦笑)
勇ましい「方々」の思惑とは裏腹に・・・
http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/ecc372f245fe463ea132d542e1276bee
彼(女)らは、アイヌとか沖縄の人は日本人じゃないとは公言はしないまでもそう考えているんじゃないんですかね。彼らの執拗さをみるとそう感じます。
その辺もまた、彼らの矛盾点なんですよね。修正主義者たるもの、矛盾もまたなかったことにしてしまうのでしょうけれど。
>貝枝五郎さん
まぁ、その辺は修正主義者ですから。彼らの頭の中では過去の事例も色々と都合良く塗り替えられているのでしょう。
>ぱらいそさん
込められた意図は違えど、字義的にはしっくり来るところがありますよね。
>えちごっぺさん
ひたすら内向きの倫理を振りかざす有様ですから、このままでは経済だけではなく外交面でも沈滞が自然な成り行きになりそうなんですよね……
>Bill McCrearyさん
他にも中国残留孤児とその親族が来日して生活保護を申請したときなんかも、随分な騒ぎになりましたよね。血統主義を取っている以上、「日本人」として迎えなければならないはずなのですが、とかく日本人と認定される範囲は狭いようです。
「日本人」の範囲を狭めていくと究極的には選民思想に近づきますから、優性思想的な部分もあるでしょうね。戦前の日本を肯定するなら「日本」の範囲を広げていく大日本主義を取らないとダブスタになってしまうのですが。