ハーブ吸引した少年が吐き気 渋谷の店、傷害容疑で捜索(朝日新聞)
東京都渋谷区の路上で25日夜、ハーブを吸引した17歳と18歳の少年3人が吐き気を訴えた事件があり、警視庁渋谷署は26日夜、傷害容疑で、ハーブを少年に提供した同区道玄坂2丁目のハーブ店「街のハーブ屋さん」を家宅捜索した。
同署と東京消防庁によると、少年3人は同店でハーブを譲り受け吸引したところ、吐き気や頭痛を訴え、病院に運ばれた。3人とも意識はあり、命に別条はないという。同署は、店内のハーブなどを押収して成分を詳しく鑑定する。
ハーブをめぐっては、薬事法などの規制対象外の薬物を混ぜて合法として販売する「脱法ハーブ」が問題化。吸引すると、気分が高ぶったり幻覚症状を引き起こしたりするという。
さて、こんなニュースもありました。「脱法ハーブ」である以上は既存の法律による摘発が難しいのか、傷害容疑で捜索が行われるそうです。もっとも「3人とも意識はあり、命に別条はない」とのこと。一方、これが歴とした合法品であるアルコールだったりしますと、「命に別条はない」では済まない事態が多発しているわけです。ここで取り沙汰されている脱法ハーブや大麻の類にも全く問題がないとは言えないにせよ、そこまで問題視されなければならないのかと首を傾げるものがないでもありません。
典型的な例として蒟蒻ゼリーと餅がそうであるように、しばしば危険性の度合いよりも「話題性」の大きさに準じて我々の社会は動いていないでしょうか。むしろ珍しいが故に人目を引いてしまう事例がクローズアップされ、過大に危険視された挙げ句に規制や忌避の対象となるのに対し、頻繁に発生する事態は特筆されるまでもないこととしてメディアを賑わすことも視聴者や読者の記憶に残ることも少なく、そのリスクは意識されないままスルーされるわけです。
総じて日本社会は「安全」より「安心」寄りなのかも知れません。まぁ、世界屈指の長寿国で治安の良さに関しては今なお世界に誇るレベルの日本ですから十分に安全とは言えますけれど、それでも「安全」よりも「安心」を重視しがちではないかと感じることは多いです。アルコールに関する「緩さ」と脱法ハーブや大麻などへの「厳しさ」、餅への「緩さ」と蒟蒻ゼリーへの「厳しさ」、危険性の度合いが高いものよりも、国民の警戒感が強いものの方をこそ厳しく制限していく日本社会が重視しているのは、やはり「安全」以上に「安心」の方なのではないでしょうか。
「選挙権年齢引き下げ」18歳成人も検討 経済活性に寄与 契約などリスク(産経新聞)
現在「20歳以上」の選挙権年齢の「18歳以上」への引き下げについて、藤村修官房長官は26日の記者会見で「必要な検討を進めていく」と述べ、政府内の議論を来月再開する方針を表明した。民法上の「成人年齢」の引き下げも主要テーマに据える。成人年齢引き下げは若年層の社会参加や経済効果が期待されるが、高校生に飲酒・喫煙や独断でのローン契約を認めることには異論も多く「権利と義務」の引き下げは功罪相半ばしそうだ。
(中略)
最たる例は「未成年者飲酒禁止法」と「未成年者喫煙禁止法」だ。未成年者の飲酒・喫煙は禁じられているが、成人年齢が18歳に引き下げられれば高校生の飲酒・喫煙も可となる。
むしろ寿命の長くなった時代には、モラトリアム期間を延ばして「社会参加」を後方にシフトさせていくのが正しいと私なんかは思うのですが、ともあれ成人年齢引き下げ論があるわけです。それに伴い、「未成年」に禁止されている飲酒と喫煙も18歳以上からとなるとされています。もっとも、アメリカでは飲酒が合法になるのは21歳からです。しかるに成人年齢は州ごとにばらつきがあるにせよ18歳としているケースが多かったりします。法律上の「成人」になったから酒を飲んでもいい、と考える社会ばかりではないのですね。「安全」に配慮するなら飲酒可能年齢は引き下げるべきでないと言えますが、日本では一概に「成人」であるかどうかが基準と考えられているようです。つまりは肉体的な成熟の度合いではなく、社会的に「成人」であるかどうかで飲酒の是非が分かれているのです。「未成年の飲酒」「高校生の飲酒」には悪い印象を持つ一方でアルコールの害については甚だ鈍感、「安全」よりも「安心」を重視しがちな傾向がここにも見えているように思います。
たばこで死亡、年12万9千人 07年分、東大など分析(朝日新聞)
喫煙が原因でがんなどで亡くなった大人の日本人は2007年に約12万9千人、高血圧が原因で脳卒中などで亡くなった人は約10万4千人と推定されることが、東京大や大阪大などの分析でわかった。国際医学誌プロスメディシンに発表した。
原発事故以降、色々と騒がれているのは今さら語るまでもありませんが、煙草を吸いながらガンになる心配をしている人、煙草をふかしながら我が子がガンになったらどうしようと頭を悩ませている人の存在は、傍目には体を張ったギャグにしか見えません。常習的な喫煙によるガンのリスクは2000ミリシーベルト相当、受動喫煙ですら100ミリシーベルト相当と言われているくらいで、福島で暮らすよりも喫煙者の家族と暮らす方が危ないです。でも、福島はおろか東京など東日本で暮らすことにすら「安心」できない人がいる一方で、平気な顔で煙草を吸い続けるような人もいたりするとしたら、これまた「安全」ではなく「安心」ばかりを追求していると言えます。
ことによると、ニコチンよりポロニウムの方を気にする人だっているのかも知れません。煙草には微量の放射性ポロニウムが含まれていて、まぁ極めて微量ですので気にする必要はないと考えますが、どんなに微量でも放射性物質が含まれていてはダメなんだと言い張る人もいるわけです。昨今の放射能フィーバーとでも言うべき状況の中では、ことさらに放射「能」の脅威ばかりが強調され、その他のリスクはむしろ蔑ろにされてきたように思います。被災地のガレキ受け入れを巡る騒動なんかはその典型で、ガレキで放射「能」が拡散する、「安心できない」と主張する人々に押される形でガレキの受け入れを拒む自治体も出てしまいましたが、果たしてガレキ処理を遅らせることのリスクはマトモに考えられているのやら。
一時期は福島の住民に対してしきりに移住を呼びかける人たちがいました。福島はもう住めないのだと事実無根な脅しをかけていたわけですが、彼らの脅しこそが最も有害であった気がしてなりません。ともあれ、福島の居住者に対して放射「能」のリスクを説いて移住を迫るなら、放射線の影響を誇張せず等身大に語ることに加えて移住に伴うリスクをも説明しなければ誠実とは言えなかったでしょう。ろくな準備もないまま移住して生活を破綻させてしまったケースも多々あると聞きますし、それはチェルノブイリでも起こったことです。こうした事態は容易に予測できたはずなのに、特定のリスク、話題性の強いリスクばかりを過大視して、むしろ「珍しくない」リスクを十分に考慮してこなかった、「安心」を「安全」に優先させてしまった結果として被害を拡大させているのではないでしょうか。