非国民通信

ノーモア・コイズミ

上司にはコミュニケーション能力が求められるとしても

2012-07-31 23:27:41 | 雇用・経済

「部長」に身につけておいてほしい能力ランキング(gooランキング)

 学校などのクラブや部活の「部長」と違い、求められる能力は多岐に渡り、果たすべき責任も大きい会社や企業などの組織内に置かれた部の「部長」。今回、みなさんに会社組織の「部長」に身につけて欲しい能力を聞いてみました。

 部長に最も求められている能力は《リーダーシップ》でした。日本の政治家のトップはどうやら《リーダーシップ》に乏しいようで、昨今の政治に対する世論調査でも内閣を支持しない理由の上位には必ずと言っていいほど「リーダーシップがない」が選ばれています。やはり多くの人は、上に立つ人間に強い《リーダーシップ》を求める傾向にあるようです。一般企業において高い地位と大きな権限を持つ部長ですから《リーダーシップ》を期待されるのは当然なのかもしれませんね。続いて票数が多かったのは《人の話を聞く力》。多くの会社で現場と経営者の意見を橋渡しする役割を担う部長職は、高いコミュニケーション能力がないと務まりません。リクルートマネジメントソリューションズが実施した「2012年新入社員意識調査」における「あなたが上司に期待すること何ですか?」のアンケートに対し「相手の意見や考え方に耳を傾けること」が昨年に続いて1位を獲得。この結果からも今の新入社員たちが上司に仕事力や指導力よりも《人の話を聞く力》を求めていることがわかります。多くの部下を抱える部長にとっても部下たちの意見をしっかり聞くことが大事であることは変わらないのではないでしょうか。3位には《実行力》が入り、4位は《調整力》、5位には《カリスマ性》がランク・インしています。

 部長に限らず上司として部下を抱える人は、今回のランキングを参考にご自身の能力チェックをしてみてはいかがでしょうか。

 

 会社側が求職者に求める能力と言えば、お決まりのコミュニケーション能力が馬鹿の一つ覚えのように続くわけですが、一方で部下が部長に求める能力はいかがなものでしょうか。いの一番に挙げられたのが「リーダーシップ」で、これまた変わり映えがしない印象です。有権者が政治家に求める能力とも大して変わりませんね。そして昨今「リーダーシップがある」として評価されるタイプと言えば大阪市長の橋下が挙げられます。アホな研修屋の企画する「理想の上司」ランキングでも橋下がトップに立ったりするくらいで(参考)、その辺は確かにアンケート回答者にも一貫性は見られるのかも知れません。決して適当に答えているわけではなく、一定の思惑があってのことなのでしょう。もっとも当の橋下自身は「市の職員に聞いたら、絶対にそんな順位にならない。同じ組織にいないから無責任に言えるんじゃないですか」「自分の組織にリーダーシップのある上司が来たら嫌でしょ」と述べており、この点に限っては橋下の方が物事を良く心得ているように思います。

 よくよく考えれば、会社が新入社員に求めるコミュニケーション能力と、部下が部長に求める能力との間には大きな違いはないのかも知れません。ランキングの2位には「人の話を聞く力」、3位の「実行力」はさておくにしても4位は「調整力」で5位が「カリスマ性」、6位には「人脈」と続くわけです。この辺、ある意味で「コミュニケーション能力」を細分化したものと言えないこともないのではないでしょうか。人の話を聞くコミュニケーション能力、部内を調整するコミュニケーション能力、部門を率いるコミュニケーション能力、社外との人脈を築くコミュニケーション能力、リーダーシップの発揮だって歴としたコミュニケーション能力です。新たに会社に入ろうとする若者にコミュニケーション能力を要求し、そして部下を率いることになる部門長にもコミュニケーション能力を求める、これまた一貫性がある……と言い切れるなら話は簡単ですが、実際はどうでしょう。

 まぁ、上司にこそコミュニケーション能力が求められるとして、では誰もが「上司」になるのかどうか、その辺だって考慮される必要があるはずです。何度か書いてきたことですが、人口構成がピラミッド型で自分より年下の人間の方が頭数が多い、さらには一次産業や自営業からサラリーマンへと労働人口の流入も続き、かつ女性は結婚や出産を機に会社から離れていく、そういう時代であれば必然的に「中年以上の男性正社員の数」<<<「若手社員の数」みたいな構成ができあがります。そうなると、中年以上の男性正社員には自然と「若手を率いる」役目が期待されるわけです。一方で少子化が急速に進行し、会社勤めの人口も今後は増えない時代ともなれば、今度は「中年以上の社員」>「若手社員の数」といった逆転現象が生じます。そうなれば当然のことながら、中年以降の社員にとって「率いるべき部下」はいなくなる、部下を率いるのではなく現場の第一線で踏ん張ることが求められるようになるはずです。では、そのときに必要なのはリーダーシップや人の話を聞く力などのコミュニケーション能力なのでしょうか?

 部下は上司にコミュニケーション能力を要求しているわけです。そこで「将来の上司候補」となる新人にもコミュニケーション能力を求めるのなら、それは間違っていないと思います。しかし、会社の世代別人員構成がピラミッド型になっているのならいざ知らず、そうでないのなら将来的に「上司」となれる新人は一握りにしかならないはずです。ならばコミュニケーション能力を求めるのは管理職候補となる一部だけで十分、他はもうちょっと現場で役に立つ具体的なスキルを問う方が合理的ではないかと私は考えます。今の採用基準を野球に例えるなら、監督やコーチなど指導者になれる資質の有無を基準にして選手を獲得しているようなものです。しかるに指導者(上司)となるのは一握りだけです。指導者(上司)になったときに効果を発揮する能力を最初から全員に求めるより、もっと別の何かを問う方が合理的であるような気がします。まぁ、男性正社員は初めから「将来の上司候補」として採用し、中高年になっても出世できない=上司になれなかった人は自由に解雇できるようにして、また新たに若者を「将来の上司候補」として採用する、そして中高年になっても出世できないようであれば……そういう不毛な使い捨てサイクルを求めているのが日本社会なのかも知れません。

 ちなみに私が部長に求める能力を挙げるとしたら「役員の無理難題を巧みにスルーする能力」ですかね。とかく会社経営に密接に関わる役員ともなると、現場に無茶な要求を突きつけがちです。会社の利益だけを考えるなら誤った要求ではないとしても、それを実現させようとすれば現場すなわち一人一人の社員にこそ重い負担がのし掛かるばかり、しかし無理を重ねれば営業成績が向上するかと言えばさにあらずだったりします。役員の言うことなんか真に受けていたら体も心も保たない、そんな職場も多いのではないでしょうか。部長の能力が問われるのは、そういう場面です。役員はまず部門長に、普通のペースではとうてい達成不可能な営業目標を突きつけたりするものですけれど、そこで部長が言われるがままに部下の尻を叩いているようでは部長失格だと私は思います。無理なものは無理、自分の部下もやるべきことはやっていると、そうやって役員の要求を突っぱねて自部門の職場環境を守れる、そういう能力こそ私が部長に求めるものです。

 

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小皇帝は世代間格差の夢を見る

2012-07-29 22:52:08 | 社会

 世代間格差が云々という類は、ネット上や自称経済誌の中では割と人気のある言論でしょうか。殊更に「若者のため」「次世代のため」を装っては「高齢者が若者を搾取している!」と素面で語り、その解消のためにと高齢者向けの社会保障費の削減を呼びかけるのがテンプレと言えます。まぁ、社会保障を目の敵にしているような人々や、世代「内」格差など現実上の諸問題から世間の目をそらしたい人、あるいは若年層でも慢性的な被害妄想に駆られている人などは、こうした世代間格差論を好むものです。では、この世代間格差論が何を誤っているか、何を黙殺しているかを少し考えてみるとしましょう。

 国民(世帯)が生涯に公的部門から受け取る受益と負担の差(生涯純受益)が、世代間で大きく異なると、世代間格差を訴える人は強調します。それはまぁ、嘘ではないのかも知れません。公的部門から、即ち年金などの支払額と受給額だけを見るなら、先行世代と若い世代との間には歴然たる格差が存在します。私にしても、年金受給額が年金保険料の納付額を上回るには相当な長寿が必要な計算になります。年金を払わずに自分で積み立てしておいた方がマシとしか言えません。それに比べれば、今の年金受給世代は得をしていますね。少ない納付額にも関わらず、受け取る額は大きいのですから。

 もっとも、それは年金を含めた社会保障から受け取る額、公的部門から受ける金銭的な利益に限定した話です。日本の住民が国や自治体から受け取る金「だけ」で人生を送っているのならば、確かに世代間格差は深刻です。しかるに現実は当然、異なります。自身で商売して稼いだり、雇用主から給与を受け取ったりもありますし、それ以前に「親」から与えられるものもあるはずです。自分もしくは自分と同世代の人間が子供の頃に親世代から何を受け取ったか、それを思い起こしてみる必要があるでしょう。

 21世紀の若者は高卒は当たり前で、半分くらいの人は大学まで出ています。自分一人のための部屋を与えられ、より良い教育のために塾に通う費用を支払ってもらったり、あるいは遊ぶにしてもPCや携帯電話などの通信環境を与えられてもいるわけです。一方、今の時点で年金を受け取っている人は「子供」の時代に何を得ていたのでしょうか。幼少の頃より奉公に出されたり家業の手伝いに駆り出され、勉強を続けたくとも許されるのは中学まで、ただし老後の年金は多めにもらえますみたいな人生と、生まれたときから周囲にチヤホヤされ何でも好きなものを買い与えられ、大学を出るまで悠々自適に生きていられる、ただし年金の収支はマイナス確定の人生、果たしてどちらが得なのやら。確かに「違い」はありますけれど、一概にどちらが損でどちらが得、どちらかが一方を搾取しているなどとは考えられないはずです。

 少子化時代に生まれた子供は、必然的に親や社会のリソースを集中的に投下されることになります。年金収支が黒字となる見込みに乏しい世代は、一方で子だくさんの時代に生まれた先行世代とは比べものにならないほど恵まれた生育環境で育った有利な世代でもあるのです。これで親が子に投じる養育リソースを独り占めして育った高学歴な若者が、それに見合った高収入の職に就いていけるような社会に日本が変わっていくことができていれば、まぁ釣り合いは取れていたことでしょう。子世代の頭数が少ない分だけ、子世代一人当たりが支えるべき親世代の数は増えますけれど、その子世代が裕福であれば問題はないのです。しかるに、コストカット=人件費削減=働く人の取り分を減らして新興国との価格競争を続けようという国では、色々と歪みも生まれるのかも知れません。

 とはいえ、歪みが生まれるからと言って高齢者(=親世代)の福祉を削減した場合、その福祉によって支えられてきた高齢者の暮らしは誰が支えるのでしょうか。うちの親の場合であれば、当然ながら私のポケットマネーで支えるしかなくなりますね。親が年金で不自由なく暮らしていけるのであれば私も気兼ねなく自分の金を自分のために使えますけれど、年金を大幅に削減された親が生活に困窮するようなことになるとあらば、流石に何もしないわけにはいきません。自分が年金を受け取られるかどうかも全く気にならないわけではありませんが、まずは「親が年金を受け取れるかどうか」もまた十分にシビアな問題です。そしてこれは、私に限ったことではないはずです。もろもろの事情があって親と別れた人もいるでしょうけれど、ほとんどの人には親がいますから。

 ただ自立を重んじる日本人は、親を養う=子供に養ってもらうということを厭うものなのかも知れません。子供に養ってもらう、つまり子供に経済的負担をかけることを大半の日本の親世代は好まないのではないでしょうか。子供が経済的に成功して裕福になったとしても、年金なり生活保護なりの社会保障で暮らし続けることを選ぶ親は多いように思います(生活保護受給で色々と叩かれた河本氏の親御さんなど典型的ではないかと)。ましてや子世代が貧しければ尚更のことです。だからこそ子煩悩な親世代は自分が稼げなくなったときの収入、即ち高齢者向けの福祉の拡充を望むとも言えます。一方で、そんな親世代に甘えて親を自分の金で養うようになったときのことなど考えない、若者の中でも色々な意味で幼い人たちは自分の支払った税金や保険料が自分の親世代の年金や医療費に消えていくことに対して強い被害者意識を持ち、それを格差だの搾取だのと呼んでいるわけです。

 あるいは、高齢層は金を持っているから大丈夫他みたいな類のヨタもまたあります。これもまた「算術平均」で見れば間違っていないのかも知れませんが、その算術平均で高齢層を一括りにしてしまえば当然ながら大変なことになります。小泉政権時代に格差改題が露わになる中で、その原因は「(世代内の格差が大きい)高齢者の増加のためだ」とするのが政府側の答弁でした。それだけを原因にするのは乱暴に過ぎるというものですけれど、確かに年齢が上がるほど世代内の格差は大きくなるものなのです。その最も世代内部での格差が大きい世代である高齢層に対して、算術平均で得られた資産の多寡を当てはめるのがどれだけ愚かしいことであるかは議論を待たないでしょう。

 もし本当に「裕福な高齢者」とそうでない人の格差の是正を願うのなら(あるいは財政再建を考える上でも)、必要なのは福祉の削減ではなく資産への課税強化や分離課税の是正であるはずです。しかし、世代間格差論と同時にそれを主張する人が皆無と言えるのは何故なのでしょうか。高齢者向けの福祉を削減すれば、富める高齢者だけではなく貧しい高齢者ひいてはそれを支える子世帯へ重く負担がのし掛かります。一方で資産への課税強化と分離課税の是正を採るなら、税金を負担するのは老若男女を問わず資産家全体となるわけです。そこで資産家を守りたいという思惑がある人からすれば、殊更に世代間格差を強調して高齢者全体を裕福であるかに見せかけ、必要なことは福祉の削減なのだと喧伝するのが常套手段になるものなのかも知れません。資産家でも経営者でも何でも無いのに、いつでも金持ちの味方をする、心は(経済的に)豊かな人も多いです。そしてここに「若者のため」と錦の御旗を加えれば体裁は整うものなのでしょう。

 

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夢を見るほど自衛隊が好き

2012-07-27 23:24:58 | 社会

「迷彩服を区民に見せるな」 自衛隊の防災演習、東京の11の区が庁舎立ち入り拒否(産経新聞)

16日夜から17日午前にかけて行われた陸上自衛隊第1師団(東京都練馬区)の連絡要員の自衛隊員が23区に徒歩で出向き、被害状況や出動要請の有無などを確認する統合防災演習で、自衛隊側が23区に「隊員を区役所庁舎内に立ち入らせてほしい」と要請していたにもかかわらず、11区が拒否していたことが22日までの産経新聞の調べで分かった。区職員の立ち会いも要請していたが、7区の防災担当者は立ち会わなかった。
要請を拒否した区には「区民に迷彩服を見せたくなかった」と明かした担当者もいた。(三枝玄太郎)

隊員の立ち入りを認めなかったのは、千代田中央新宿目黒世田谷渋谷中野杉並豊島の11区。

記事のおわびと削除(産経新聞)

 23日午前1時7分にアップされた「自衛隊の防災演習、東京の11の区は庁舎立ち入り拒否」の記事について、11区で実施されなかったのは待機(宿泊)訓練でした。通信訓練については自衛隊の立ち入りを認め、実施されていました。関係者におわびして、削除します。

 

 さて、この頃は妄想記事のチャンピオンと言えば東京(中日)新聞が突出していて産経新聞もすっかり影が薄くなってしまった感もあるのですが、密かに対抗意識でも燃やしていたのでしょうか、「区役所が自衛隊の立ち入りを拒否!」と事実無根の記事を大々的に掲載したわけです。ところが産経新聞報道で「隊員の立ち入りを認めなかった」とされた11区全ては即座に事実関係を否定する文書を区のホームページに掲載、詳細はリンクを張っておきましたので暇ならお読みいただければと思いますが、各区は挙って産経新聞社に猛抗議、その結果として産経新聞は「おわびと削除」という対応を取ることになりました。やれやれ。

 産経新聞社側も誤りであったことを認めているこの報道ですが、当初は真に受ける人も少なくありませんでした。信憑性に乏しかろうと、信じたがる人は信じたがるものなのでしょう。自称経済誌のお笑い経済言論、お昼の健康番組から週刊誌や夕刊紙のゴシップ報道に至るまで、それを平気に鵜呑みにしたり受け売りしたりする人も目立つわけです。単に騙されやすいから、ではないと思います。他の分野では不確かな情報に流されない人でも、特定の分野では検証を放棄して丸呑みする、みたいなこともあるのではないでしょうか。社会保障受給者叩きとか公務員叩きの類には安易に乗せられない人でも、原発関係では東京(中日)新聞の妄想記事を全面的に信用したり、逆に東京(中日)新聞の嘘には騙されないような人でも、今回の産経新聞の創作記事は疑いもせずに「自衛隊様を受け入れないなんて!」と憤ってみる人がいたりもしました。単に愚かだからではなく、「こうあって欲しい」という願望が先に立ってしまうものなのかも知れません。自分の世界観に添った物であれば、それを信じたがる人も多いのでしょう。

 しかしまぁ、自衛隊に対する批判的な言論がほとんど表に出てくることがない一方で「自衛隊が不当に貶められている」「自衛隊が誹謗中傷されている」云々との被害妄想を披露する人は至る所で目にします。それだけ自衛隊とは日本人にとって特別に大切な存在なのでしょうか。仙谷元官房長官の「暴力装置」発言騒動からも分かるように、それが曲解に基づく物であろうとも、神聖にして不可侵であるべき自衛隊を僅かでも批判的に扱っていると解釈されれば囂々たる非難が寄せられるくらいです(自衛隊に全面的に肯定的な態度でなければ、それだけで反・自衛隊なのです)。今回の各区の素早い対応もまた、日本社会における自衛隊の位置づけを如実に物語っているように思います。自衛隊に否定的であると世間に受け止められることは大いに不名誉なことである、そういう社会であったからこそ「我が区は自衛隊の受け入れを拒んでなどいない! 我々は自衛隊に協力的だ!」との猛抗議にも繋がっているはずです。どの区も例外なく、自衛隊に非協力的であると思われたくはないのです。

 昨今は大津市のいじめ自殺問題が大いに話題に上って、教員サイドの隠蔽もまた大いなる非難に晒されています。ところが自衛隊でもいじめとの関連性が強く疑われる自殺は発生しており、いじめの有無に関するアンケートが行われたにも関わらず、その調査結果は最近まで隠蔽されていたりもしたわけです。あるいは、訓練と称して集団で暴行を加えて隊員を死亡させたなんてケースもあります。そうでなくとも自衛隊員の不祥事は普通に出てくるものです。にも関わらず、自衛隊が大津市の教職員や大阪市の職員のごとくバッシングの対象にされることがないのはなぜなのでしょう。やはり日本人にとって自衛隊とは特別な対象なのかも知れません。ブラックと呼ばれることがない企業でも、研修と称して新人を自衛隊に体験入隊させるのは決して珍しいことではなかったりします。公務員や職にあぶれた若年層など、怠けているとされている層を「自衛隊に入れて鍛え直せ」みたいな論調は定期的に持ち上がります。自衛隊とは日本人の模範であり、あるべき姿である、誰もが自衛隊員のようになるべきなのだと、我々の社会ではそう扱われているかのようです。自衛隊員だって公務員なのですから、もう少し批判的視点があっても良さそうなものですが……

 それはさておき、自衛隊にも当然ながらTPOはあると思います。いかに自衛隊とて対応する状況に応じて、ふさわしい装備で出動するものですよね? 被災地の救援に戦車で出かけたりはしないはずです。そして服装もまた装備の内に含まれるものであり、状況に応じて最適なものが選ばれるべきと私などは考えるのですけれど、どうなんでしょうか。小さいですが写真でも分かるように、産経の創作記事で取り沙汰された自衛隊の迷彩服とは緑色の、まぁ山林で活動するなら身を隠すのに都合が良さそうな服です。普通の人が一般に「迷彩服」と聞いて頭に浮かべる色合いが、これでもありますね。もっとも迷彩服にもTPOがあって、砂漠用の迷彩、都市部用の迷彩など、自衛隊が今回の訓練で着ていたものとは違った色の迷彩服――必ずしも一般の人からは迷彩服だと理解されない服――も世の中には存在するわけです。そんな中で、この「迷彩服」がチョイスされねばならない理由はどこにあったのでしょう。

 都市部で着るのであれば、「敵」に発見されないためではなく、むしろ目立つための服です。しかし単に視認性を高める、災害救助担当者の存在をアピールするという点からすれば、レスキュー隊が着ているオレンジの服など、もっと彩度の高い服を身にまとうのが目的に叶っています。都市型迷彩でもなく、そしてレスキュー隊のような派手な色でもなく、誰もが「迷彩服」として認識するデザインの服を用いるのは、やはり迷彩服によって軍隊であることをアピールすることが総合的に見てプラスと判断されるからでしょうか。ごく一部の例外として迷彩服に拒否反応を示す人もいるかも知れませんけれど、そんな人が表舞台に立つことはありません。「自衛隊以外の」公務員を公衆の面前で罵倒することで支持を広げてきた政治家だって、自衛隊員に対しては敬意を払うものです。税金で雇われているのだからと「自衛隊以外の」公務員を奴隷ぐらいにしか思っていない連中でも、自衛隊にはいつも感謝しています。だから「自衛隊ここにあり」と迷彩服で自己主張するくらいの方が、住民にも歓迎される、住民に安心感を与えるものなのでしょう。だから、都市部での災害救助も迷彩服が合理的、わざわざ迷彩服以外の服装を用いる必要などありえない、と。

 

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どこでも人は死んでいる

2012-07-25 23:40:31 | 社会

女児のいじめ問題対応中の新任校長、自殺(読売新聞)

 津市立小学校の男性校長(54)が同市内の山中で首をつって自殺していたことが、津市教育委員会や津署への取材で分かった。

 津市教委は18日午前、記者会見を開き、校長が校内のいじめ問題の対応にあたっていたことを明らかにしたうえで、自殺との関係を調査していると発表した。

 津市教委などによると、校長は15日午後、自宅を出たまま行方不明となり、16日朝、山中で首をつった状態で発見された。状況から自殺とみられるが、遺書は見つかっていないという。

 

 こちらは大津ではなく「津」の話ですが、いじめ問題の対応に当たっていた校長が自殺したそうです。具体的に何がどう校長を自殺に追い詰めたのかは不明ですが、いじめとの因果関係はどんなものなのでしょう。大津市の方の問題では、部外者がとやかく安易な口出しを続けている印象が拭えませんけれど、そう簡単に片が付く問題ではないような気がしますね。いじめというのは、その行為が周囲から是認されているからこそ続くもの、ある種の運動部の伝統みたいに深く根付いたところがあって、それを止めさせようというのは教員にとっても容易なことではないように思います。

 まぁ、津市の校長の方は他にも問題があったのかも知れません。病気なり金銭問題なり家庭問題なり、そういうこともあるでしょう。子供と違って、大人は頻繁に自殺します。子供の自殺は珍しいからニュースになりますが、大人の自殺は毎年3万件超、子供の自殺数とは比べものになりません。日本全体で見てみれば、至って良くある日常の風景です。そんなわけで大人の自殺は、ちょっとやそっとのことでは新聞に載ったりしないものです。世知辛いですね。年齢が上がれば上がった分だけ、世間は冷たくなるものなのでしょうか。世間はどうしても、珍しい方のニュース、頻度が低い方の問題に関心を持ちがちです。

 ところで皆様、弔電を打ったことはありますか? 個人では、あまりやらないと思います。会社でも、今時はあまりないでしょうか。ただ私の今の勤務先では、社員なりその親族なりが死んだときには、律儀に必ず弔電を打っているわけです。しがない派遣の事務員である、私が。最初は弔電の打ち方なんて分からなくて弱りましたが、今はもう馴れたものです。頻繁に打つ機会がありましたので。次に他の会社の面接を受けるときは「弔電が打てます」とかスキルをアピールしようかなと思います。それを評価する会社があるともなかなか考えにくいですが。ともあれ会社で弔電係?をやっていると、割と頻繁に人って死んじゃうんだなぁと、否が応でも気づかされます。冷静に確率を計算してみれば、特に自分の職場周辺で死ぬ人が多いわけでもない、特別なことは何もなくても寿命を迎えてしまう人はそれくらいいる、どんなに平均寿命が長くても早死にしてしまう人もいるのだと分かりますけれど、どうしても感覚的には人の死って特別なものですから。

 

 溶解炉から人体の一部、作業員が転落か いわき大王製紙(朝日新聞)

 22日午後7時10分ごろ、福島県いわき市南台4丁目のいわき大王製紙の工場から、「作業員が炉に落ちたようだ」と110番通報があった。いわき南署が調べたところ、溶解炉の中から人体の一部が見つかった。同署は、点検をしていた30代の男性作業員が過って炉の中に転落し、死亡したとみている。

 同署によると、男性は同3時すぎから1人で、古紙を溶かす溶解炉(直径5メートル、高さ10メートル)の天井に上がり、定期点検をしていた。天井には1メートル四方の開閉式の口が数カ所あり、署員が駆けつけた際、1カ所が開いていた。同社などによると、炉は古紙と湯をスクリューで混ぜており、点検中も動いていたという。

 

床下の作業員男性、雨で流入の土砂に埋まり死亡(読売新聞)

 21日午後0時30分頃、大阪府箕面市瀬川4の改修工事中の民家で、床下に掘った深さ約1・5メートルの穴の中で作業していた土木作業員の男性が、流れ込んで来た土砂に埋まった。

 約3時間後に箕面市消防本部の隊員らが救出したが、間もなく死亡が確認された。府警箕面署は、死亡したのは鳥取県米子市旗ヶ崎3、白川高雄さん(38)とみて確認を急いでいる。

 同署によると、男性は同日朝から、民家の外壁沿いに開けた穴(幅60センチ、長さ100センチ)から床下に入り、土台の補強作業をしていた。午前11時40分頃、コンクリートの床面が突然はがれ落ちて床下に閉じこめられ、外にいた同僚と携帯電話で連絡を取っている間に雨が激しくなり、穴のそばに積み上げた土砂が崩れて流れ込んだという。

 

 前にも書きましたように、会社では工事の元請けもやっていたりするわけです。危険がありそうなものと言えば高所作業などもそれなりに多いのですが、ともあれ私の勤務先が絡む工事でも決して深刻な事故と無縁ではいられない、あわやという場面もあります。流石に死人が出るケースは滅多にないですけれど、転落して骨折したとか、うっかりむき出しの線に触れて感電したとか、蓄電池の溶液を漏らしちゃったとかは同業他社も含めれば結構あるのです。どこもそんなに、安全が保証されているものではないのでしょう。工事の発注元は安全管理面であれやこれやと注文を付けてきますが、なかなか事故が0になることはありません。

 大まかな分類だと自分の業界は建設業になるのでしょうか。建設業の労働者1,000人当たりの死傷者数は概ね5人程度、ホワイトカラーを含めた全産業の平均は2人強ですから、それなりに危険です(もっとも業務「外」で死ぬ人、仕事とは無関係の事故や病気などで亡くなってしまう人の方が格段に多いですが)。しかるに群を抜いて危険な業界なのが林業で、労働者1,000人当たりの死傷者数は30人弱だったりします。さらに死傷災害に占める「死亡」件数は林業以外が1%程度であるのに対し、林業の場合は2~3%と高い水準です。で、もう随分と昔のことに思えてしまうのですが「派遣村」が世間の話題に上ったときに「成長産業」と称して林業を持ち上げ、派遣村に集う単に仕事にあぶれただけの人へ向けて「林業でもやれば」等と宣う人もいたわけです。どう見ても素人が手を出すべきでない業界のトップクラスに属するように思えてならないのですが、平気で林業を勧める人が存在したことには恐怖を覚えました。

 ……で、今は原発労働に対して怒りの拳を振り上げている人が多いわけです。林業その他よりも危険な仕事であるようにはどうしても考えられないのですが、やっぱり話題性やニュースバリューがないとダメなのかな、と暗澹たる気分になります。ちょっと珍しくて世間を賑わすようなものではないと、誰もそこに関心は払わない、逆に頻繁に話題に上るようになると、そればっかりが問題であるかのようにヒートアップする、そして他のものには目もくれなくなる、私としては肩をすくめるほかありません。どこでもリスクは少ないに越したことはないですけれど、何か特定の「話題性のある」代物ばかりが脚光を浴びて、その一方で日常的なものは後ろに追いやられている、そんな気がしてならない日々が続いています。

 

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事故が起こったから

2012-07-23 23:19:13 | 社会

関越道高速ツアーバス事故を受け国交省が調査、法令違反の事業者は8割以上(マイナビニュース)

国土交通省は今年4月に関越道で発生した高速ツアーバス事故を受け、「今夏の多客期の安全確保のための緊急対策」の一環として、貸切バス事業者に対する緊急重点監査を実施。18日にその結果概要などを公表した。

緊急重点監査の対象事業者となったのは298者。うち法令違反の指摘を行ったのは250者で、全体の83.8%におよんだ。その中でも、乗務時間などの基準が「大多数(16件以上)遵守されていない」事業者が7者、運転者に対する指導監督が「全く実施されていない」事業者が3者、「名義貸し」が1者など、「運行の安全確保の観点から重大又は悪質な法令違反」に該当する事業者も多く、その数は計48者に。

国交省は旅行業者59者にも集中的立入検査を実施しており、法令違反の指摘を行った事業者は28者。対象となった旅行業者のうち47.4%と半数近くを記録した。

 

 事故が起こったので調査してみれば、なんと全体の83.8%に法令違反の指摘という結果になったそうです。まぁ、歯科医師業界であれば実質的な混合診療ですとか無免許の歯科助手による医療行為とか、あるいは派遣契約関係であれば事前面接ですとか常用代替ですとか、そして求人広告の虚偽記載にサービス残業等々、本来であれば法令違反ではあっても慣例として許されていることは少なくありません。取り沙汰されているバス事業の場合も、たぶんそういうものなのでしょう。今までは黙認されてきた、しかるに大きな事故があって世間の注目が集まったので厳密に法律を適用してみた結果として、全体の83.8%に違反が見つかったわけです。この業界に限ったことではあるまい、とも思いますが……

 

安さから安全へツアーバス転換点 夜間1人400キロ、きょうから新基準(産経新聞)

 群馬県の関越自動車道で乗客7人が死亡した高速ツアーバス事故を受け、運転手1人の夜間運行距離の上限を原則400キロとするなどの国土交通省の新基準が20日から実施される。基準強化で事業の継続を断念するバス会社も110社以上あり、運転手確保のため、旅行会社にも値上げや減便の動きもみられる。「安さ」から「安全追求」へのシフトはツアーバスに大きな変化をもたらしている。

(中略)

 70路線を運行する最大手の「ウィラー・アライアンス」(東京都港区)は8月1日から平均200円の値上げに踏み切る。交代運転手の人件費や教育関連などコストがかさむことが要因だ。同社は「料金やシートといったものに利用客の興味が集中していたが、事故で安全に付加価値が付くようになった」としている。

 

 安全に付加価値が付くようになったのは悪いことではないでしょう。ただ、その付加価値のための値上げ幅は僅かに200円(平均)と伝えられています。電車で30分くらいの距離ならいざ知らず、長距離バスの料金で200円です。人件費の占める割合の大きい世界で、たかだか200円を積みました程度で十分な人員を確保できるかどうかは微妙なところ、運転手の負担は増えそうです。人を雇うコストを考えれば、もう少し値上げに理解が得られるようでないといけません。まぁ、とにもかくにも「値上げの前に、まずリストラ」が日本社会ですから、何がどう転んでも働く人にとってはプラスにならないものなのかも知れないなと言う気がしてきます。

 前にもちょっと書きましたが、私の勤務先では元請け工事もしています。主な顧客は携帯電話会社、要するにドコモとKDDIとソフトバンクなのですが、発注元である携帯電話会社からは安全管理の面でも色々と要求が突きつけられるわけです。安全教育の受講などを指示されることもありますし、抜き打ちで発注元からの監査が入ることもあります。そして、安全のためと施工時の人数を指定されることも少なくありません。ベテランの下請け業者は「それくらいなら私と○○だけで十分ですよ」「大丈夫だ、問題ない」と最小限の人数で作業に当たろうとするものですが、発注元からは現場代理人は作業に当たってはダメ、○○の工事なら必ず○○人以上の作業員で行うこと云々と細かく注文を付けられます。

 そうは言っても、作業員の数を増やせば(雇用主が良心的であるほど)人件費も嵩みます。工事1件当たりの契約で下請けに仕事を回したりすれば、当然ながら下請け業者は最小限の人数で作業に当たろうとするわけです。「○○人以上で作業するように、現場代理人は監督のみで実際の作業は行わないように」と発注元の指示を伝えたくらいでは、なかなか言うことを聞いてもらえません。人はタダでは増やせないのです。作業員確保のため、下請けが孫請けや一人親方を連れてきたりするのですが、そこにも当然支払いは発生しますから。もっともコストダウン要求がうるさいソフトバンクは作業員の数にはうるさくなかったり、逆にKDDIで設備が東京電力の敷地内にあったりする場合はすさまじく管理が厳しい(脚注参照)分だけ、工事の発注価格は高めに出しても認められるなど、まぁ私の勤務先の場合は何とかやっています。

 

 業界内部へも余波を与える。かさむ人件費やデジタル式運行記録導入などツアー会社からのさらなる安全対策の求めに応じ切れず撤退するバス会社の姿が目立ち始めた。

 国土交通省によると、これまでの監査などで、ツアーバス事業を手がけたことがあるという349社のうち、118社がすでに事業を行っておらず撤退していることが判明した。国交省は「規制強化が少なからず影響しているとみられる」とする。

 

 とはいえ、安全管理にコストをかけ、法律を守っていては経営が成り立たない、そういうレベルの会社もまた少なくないのかも知れません。349社のうち118社が撤退済と伝えられており、「規制強化が少なからず影響しているとみられる」そうです。どうなんでしょうね、これを致し方ないと思う人もいれば、「弱い企業」やそこで働く人を慮る風を装って規制強化の方が誤りなのだと主張する人が、あの陸援隊の事故さえなければ跋扈していたのではないかという気がします。実際、派遣法など非正規雇用を巡っては、ゆるめすぎて無法状態にある現状を少しでも締め直す動きがあれば、非正規で働く人の雇用機会が損なわれる云々と、素面で言ってのける人が目立つわけですし。

 規制が緩めば緩んだ分だけ、都合良く使い捨てられるのが非正規雇用の世界で、雇用側に「永遠に非正規のまま働かせ続けてもよい」と政府がお墨付きを与えたところで雇用の保障などないのですが、それでも雇用側を規制してはならない、雇用主を法律で縛るな!雇用主に自由を!と形振り構わぬ主張を繰り広げる人もいます。そういう人にとって、今回の国土交通省の新基準はどうなんでしょう。乗客の安全を脅かし、乗務員の生活だって副業でもしなければ成り立たない、そんな会社が存続できるような社会であってはならないと私は考えますけれど、一方で零細バス事業者の雇用が損なわれる云々と、弱者の味方のフリをしたがる人もいるはずです。そういう人が表に出てこないのは、単に陸援隊の事故の記憶がまだ生々しく残っているから、それだけなのではないでしょうか。

 

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おまけの脚注、

 おわかりかとも思いますが、KDDIが厳しいというより、東京電力が厳しいのです。実際はKDDIの設備でも、東京電力の敷地内で事故が起これば、きっと東京電力の問題にされるのだろうなぁ、と。しかるに下請けの作業員の人は行程優先で細かなルールを無視しがちなので、割と神経を使うところです。工賃を増やせば解決できなくもなさそうですが、その分が価格に転嫁されることをリストラが第一の世間は理解するのやら。ともあれ下請けが厳しい監視をかいくぐって問題を起こしては東京電力がバッシングに遭うというケースも多いですけれど、私が職務上で関わる限り、安全管理面では最も口うるさい部類に入るのが東京電力でもあります。一方で多重請負や安全管理の不備など諸々、とかく電力会社や原発に特有の問題であるかのごとく矮小化されて語られがちなのが私には気になるところです。他の会社の現場作業ではもっと緩い、バス業界よろしく本気で監査すれば色々と見つかるであろう世界ですから。巷の話題に上っていないだけで、実は探ってみれば問題山積みなんてことは珍しくありません。

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敵性語の精神

2012-07-21 22:33:01 | 社会

電力社員の意見表明認めず=「疑念生じさせるな」と首相指示―エネ政策の聴取会(時事通信)

 政府が主催する将来のエネルギー政策に関する意見聴取会で電力会社社員が原発推進の意見を述べた問題で、政府は17日、電力会社や関連会社の社員による意見表明を認めない方針を決めた。野田佳彦首相が、首相官邸を訪ねた古川元久国家戦略担当相に「聴取会に対するいささかの疑念も生じさせてはいけない」と指示した。

 聴取会で意見表明する人は、申込者からコンピューターで抽選している。22日に札幌、大阪両市で開く次回聴取会からは、当選段階で確認し、電力会社などの社員の場合は参加を断る。参加を受け付けるホームページなどで、団体組織ではなく個人として意見を述べるよう要請する。

(中略)

 聴取会は来月4日まで全11市で開催予定。しかし、15日の仙台市で東北電力執行役員、16日の名古屋市では中部電力課長が原発推進の意見を表明し、批判が出ていた。 

 

 抽選で当たったのなら、それで良いのではないかと思います。聴取会と言うことで多少は敷居も高い場所だけに、応募者全員の参加を認めるのは無理だけれど、応募すればそれなりに当選する、そういう程度の微妙な数の応募だったのでしょうか。ともあれ電力会社社員だって我々の社会の一員ですから、その人が抽選で当たったのなら拒む理由はないでしょう。むしろ退けるとしたら職業を理由とした差別の疑いがあります。電力会社社員に対しては労働条件の不利益変更など、その権利を侵害する動きが目立つばかりか、その権利否定が社会的に是認されてもいますけれど、こうしたアンフェアな扱いには部外者であっても異議を唱えるべきものです。ユダヤ人のことであろうと電力会社社員のことであろうと、それを他人事と扱うべきではありません。

 ともあれ政府主催の聴取会では、東北電力執行役員と中部電力課長が抽選に当たり、発言したことが伝えられています。どうなんでしょう、所属を明らかにした上での発言には良心と誠実さを感じるところですけれど、政府筋は「団体組織ではなく個人として意見を述べるよう要請する」そうです。所属を隠して「個人」を装った方が良かったのでしょうか。ことによると政治家の世界では、所属や組織の後援を隠すことへの躊躇いがないのかも知れません。実質的に民主党なり自民党なりの丸抱えで出馬している政治家であるにも関わらず、「無所属」を看板に掲げて支持を訴えた候補者は枚挙に暇がありません。電力会社社員と違って政治家は「組織ではなく個人として意見を述べる」風を装うことに抵抗がない、その辺に温度差があるようにも思います。

 だいたい、純粋無垢な「個人」がどれだけ応募していたのか疑わしいわけです。電力会社の従業員が個人的に応募していることもあれば、その一方で反原発運動家が所属組織の同志とともに応募したりもしているはずです(そして当選すれば所属を隠して発言したことでしょう)。電力会社が社内で参加を呼びかけるともあらば囂々たる非難を浴びせる人の中にも、自身のブログで反原発の意見を今回のような聴取会やパブリックコメントの類に寄せようと読者に呼びかけている類の人も少なくありません。これでは電力会社の関係者には参加する資格がない、意見を言う資格がない、物事を語って良いのは反原発の人たちだけと、暗にそう主張しているに等しいのではないでしょうか。少なくとも電力会社の社員を「個人ではない」と称して排除するなら、その他の応募者もまた特定のNPOやNGO、各種団体の構成員でないことを確認した上で同様に退けねば公正さを欠くというものです。

 もっとも、誰がどう見ても疑いの余地がない完全無欠の「個人」というのも、非現実的な想定なのではないかとも思います。「無所属」を看板に掲げる政治家など「自分は何のしがらみもないのだ」と訴えては清廉潔白を装う人も目立ちますが、実際のところは怪しいものです。本当に純然たる個人、中立普遍の市民など存在し得るのか、そのような存在を我々の社会は理想とし「あるべき姿」と考えがちですけれど、でも誰しも繋がりを辿っていけば何かしらのバックグラウンドなり利害関係なりはあるのではないでしょうか。ましてや政府主催の聴取会という決して軽くはない場では、完全無欠の個人と言いうる人などあり得ないはずです。

 

震災がれき受け入れで提訴へ 反対派、北九州市などを(共同通信)

 北九州市が宮城県石巻市の震災がれきの受け入れを進めたことで健康不安を懸念させ精神的苦痛を受けたとして、受け入れ反対派の市民らが今月中にも北九州市と宮城県を相手に損害賠償を求める訴訟を福岡地裁小倉支部に起こすことが17日、反対派市民らの代理人への取材で分かった。

 代理人の斎藤利幸弁護士によると、総額数百万~1千万円の損害賠償を求める方針。原告は斎藤弁護士を含む市内外の二十数人で、今後100人を目標に原告を募るという。

 

 一方、北九州市の市内「外」から20人を超える原告が、北九州市と宮城県を相手に損害賠償を求める訴訟を起こすと伝えられています。もはや明白に、被災地をも敵視していることが分かりますね。曰く「宮城県石巻市の震災がれきの受け入れを進めたことで健康不安を懸念させ精神的苦痛を受けた」そうですが、健康不安を懸念させた「加害者」は誰でしょうか。ありもしない健康被害を捏造しては誇張して語り、ガレキ受け入れ自治体に不安や恐怖といった精神的苦痛を与えてきたのは(加えて風評被害を広め、被災地復興を妨害したわけでもあります)、少なくとも北九州市でも宮城県でもないはずです。ついでに、東京電力も主犯とは言えませんね。

 むしろ武田邦彦なり早川由紀夫に山本太郎といったデマゴーグや、その同類と言える朝日新聞出版や中日新聞社、そして有象無象の脱原発論者や賛同者こそ、精神的苦痛を与えた加害者と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。何も根拠の無いところから、ただただ偏見から妄想を膨らませるがままに、さも健康被害があり得るかのごとく吹聴してきた人が加害者でなくてなんだと言うのでしょう。何でもかんでも電力会社のせい、東京電力が何もかも黙って罪を引き受けてくれるのをいいことに横暴の限りを尽くす論者も多いですが、本当に訴えられるべきはそうした自省のかけらもない人たちであるように思います。でも、あろう事か他人を訴えてしまう人もいるわけです。

 意見の違いと、単なる誤りは全く別物です。ただ被災地の復興を阻止したいからガレキの受け入れに反対というのなら、それは意見の違いです。一方で宮城のガレキで健康被害が発生するなどと言う人がいたら、それは単なる誤りです。前者にも賛成はできませんが、そういう考えの人もいることは認めましょう。でも、後者は考慮する必要すらありません。1+1は3であると、そういう前提で話を進めるような類に付き合って得られるのは徒労だけです。しかし、積極的に無知であろうとする、自らの妄想を肥大化させるばかりなのが昨今の脱原発論でもあります。原発の仕組みや安全対策、放射線の影響や過去の研究実績などを説明してくれる人を原発推進派だの御用学者だの工作員と呼んで排除し、ひたすら原発は危険なのだと信じる人で寄り集まったのが現在の脱原発運動ですから。

 戦中の日本では、「敵性語」と呼んで英語などを排除する動きがありました。敵を知り己を知れば何とやらですが、「敵」を知ることを否定し、「敵」がいかに悪辣で打倒しなければならない相手であるかを広めることに熱心であったのが我が国の過去の一幕だったわけです。昨今の脱原発論は、まさしくそういう領域に突入しているように思います。冒頭の聴取会のような場であれば、むしろ電力会社からの出席は歓迎すべき点もある、積極的に説明を求めるべき好機だったのではないでしょうか。しかし、我々の社会が望んだのか政府が指示したのは電力会社の排除でした。反原発デモよろしく原発に偏見を持つもの同士が集まって憎悪の声を上げて自分たちを慰める場所にすれば、まぁ波風は立たないのかも知れません。それで得られるものは何もないと確信しますが、でも政府はアリバイ作りを好むものなのでしょう。

 

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高等教育修了者を活かせない社会

2012-07-19 23:26:50 | 社会

高等教育修了者を95%に…民主次期公約へ(読売新聞)

 民主党の「大学改革ワーキングチーム」(座長=鈴木寛・元文部科学副大臣)は12日、高校生の学力を等級で示す「高校教育検定」の創設や、大学や短大などの修了者を同学年人口の95%に増やす高等教育の量的拡大を柱とした大学改革の報告書をまとめた。

 新たに4兆円を投入する内容で、今月中にも党内の機関決定を行い、次期総選挙のマニフェストに盛り込む方針だ。
 
 「高校教育検定」は、高校生の学力を教科ごとに「1~5級」で示し、級取得者に大学受験を認める仕組み。取得者には、各大学が論文や英検などで思考力や語学力を問うことで、2段階の選抜方法に転換する考えだ。
 
 また、全国約800の大学を「学修大学」と「研究大学」に分けて機能を強化し国際競争力を高める。さらに、同学年の約70%にとどまる高等教育修了者を増やすことで、若年失業者を現在の約10%から3%へ減らす目標を掲げた。

 

 さて、改革と名の付くものでマトモなものには滅多にお目にかかれない我が国ですが、この「大学改革ワーキングチーム」のプランはいかがなものでしょうか。確かに、現時点でも日本の大学卒業者は5割程度と少なめです。これを短大込でも95%に増やそうというのは、国民の教育水準を引き上げるという意味では肯定的に評価できるものです。ただ、そのための方策としてはどうなのでしょう、日本の場合バブル崩壊後の90年代以降にこそ大学進学率が大きく上昇しているという実情もあります。高卒でも就職先に困らなかった時代が終わり、より良い就業機会を求めて、あるいは大学在学中に景気が好転することを期待しての時間稼ぎとして進学が選ばれている側面も決して否定できないはずです。なぜ進学が選ばれるのか、その辺の「ニーズ」をくみ取る努力も求められるように思います。

 「高校教育検定」「学修大学」「研究大学」などと新語が並べられていますけれど、読売の報道だけでは具体的にどういうものなのかよく分かりません。ちょっと検索した限りでは民主党なり「大学改革ワーキングチーム」なりがweb上などで報告書を公開していたりもしないようです(所属議員の公式サイトを見ても「参加しました!」みたいな中身のないものばっかりで…)。単に私の探し方が足りないだけかも知れませんが、ともあれ現時点では具体的なものが見えてきません。だからこそ新聞にはより詳細な報道が求められるように思うのですけれど、その辺もまた、あまり意識されていないようです。

 とりあえず理念として高等教育修了者を増やす、それはいいとしましょう。一方で「高等教育修了者を増やすことで、若年失業者を現在の約10%から3%へ減らす」ことが目標に掲げられているそうです。まぁ失業が減るのは悪いことではないのかも知れません。ただ、それを高等教育修了者を増やすことで実現できると考えているとしたら、見込み違いではないかと言わざるを得ないところです。確かに高卒と大卒であれば、基本的には大卒の方が就職には有利でしょう。しかるに大卒者が希少な時代には大卒と言うだけで下駄を履かせてもらえる一方、大卒が多数派ともなると今度は大卒が最低条件になったりするものです。かつては他人に差を付けられるようなスキルや資格であったとしても、いずれそれは陳腐化してしまいますから。

 当たり前のことですが、企業は必要以上に人を採りません。大卒者2名を募集していて、そこに大卒2人と高卒1人が応募してきたとしましょう。そこで採用されるのは大卒2人で高卒の1人はあぶれてしまうわけです。では、高等教育修了者を増やす、従来は高卒だった人が大学あるいは短大まで進学するようになった場合を想定してください。今度は大卒者2名の募集に対して、大卒3名が応募してくることになります。採用されるのは――やっぱり大卒2名で、1人はあぶれると考えるのが筋です。大卒が増えたからといって採用を増やす、そんな雇用主を想定するのも無理のある話です。果たして高等教育修了者を増やすことで失業は減るのでしょうか?

 例えばユニクロのように、大学1年や2年の段階で採用を決定し、大学卒業後に入社なんて仕組みを作ってしまう会社すらあるわけです。その段階では大学で何を学んだかなど問えないですし、高卒を雇っても同じではないかと思うところですが、でもそれこそ日本的な採用を象徴するものなのかも知れません。大学で何を学んだかは関係ない、ただ大卒であることを条件とする、それが日本的採用なのではないでしょうか。このような環境下で大学進学率を引き上げる、それは機会均等という面では悪くないことと言えないでもありません。でも大学の機能強化だの国際競争力云々とは、あまり結びつかないような気がします。

 ともあれ大卒者を増やしただけでは、今まで大卒と高卒で争っていた椅子を大卒同士で争うことになるだけです。失業率を下げるには、椅子の数を増やさなければなりません。でもそれは、高等教育を受ける人を増やしただけではどうにもならないでしょう。売り手が競争力を身につけても売り手同士での競争が激化するだけ、買い手側が変わらないことには打開できないもののはずです。まぁ、その辺は民主党にとってもアンタッチャブルな聖域なのでしょうか。大学で学ぶ人が増えても雇用側が求めるのは馬鹿の一つ覚えのようにコミュニケーション能力ばかり、高度な専門性を有した人を増やすよりも一握りのエリートと低賃金労働者の組み合わせを好む、高学歴の労働力より低賃金の労働力を求めるような社会なら、大学進学率の上昇など豚に真珠と言わざるを得ません。まぁ、進学してしまえば失業者としてはカウントされないですから、進学する人が増えた分だけ見せかけ上の失業率が下がると言うことはあるかも知れませんが……

 

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どうしようもない

2012-07-17 22:56:55 | 社会

いじめ自殺、校長「けんかだと…判断甘かった」(読売新聞)

 大津市立中学2年の男子生徒(当時13歳)が昨年10月、いじめを苦に自殺したとされる問題で、中学の校長が14日午後に行った記者会見での主なやり取りは次の通り。

 ――男子生徒がいじめを受けていたという認識は。

 校長「(5日は)いじめという通報で始まったので、確認しているはず。ただ、(男子生徒と同級生に)確認したら、双方が手を出したけんかということだった。その段階で、いじめだという確実な認識はなかった」

 

 方々で話題になっている大津市のいじめと自殺の問題ですが、とりあえず学校(教職員)側は「いじめとの認識はなかった」とのことで綺麗に意思統一されているようです。そんなわけあるかいな、と思うのが至って普通の反応というもので、学校の側の対応については当然ながら囂々たる非難が寄せられているところでもあります。まぁ日中はずっと生徒と一緒にいる教職員が気づかないというのも、とうてい考えられない話ですから。しかしなんでしょうね、例えば学校給食費の滞納問題で原因は何だと「思う」かを教職員に問うみたいな調査があったわけです。これに「保護者としての責任感や規範意識」と回答した教員が多かったのですが、それは単に「そう思う」教員が多いことを明らかにしただけで、滞納の原因がなんであるかを調べたものではありません。ただ、この場合は教職員側の「そう思う」がほぼ全面的に信頼されていた、教職員の回答=事実として取り扱われていたはずです。時に全面的に信用され、時に全く信用されない、学校の先生の権威というのも吹けば飛ぶようなものなのでしょう。

 教員になる過程でそのように教育されるのかも知れませんが、学校の先生には「生徒を平等に扱う」という「美学」があるような気がします。その実践として、学校「以外」では暴行や傷害、器物破損や窃盗、恐喝や不法侵入に相当する行為を繰り返すような生徒の言い分も、あるいは大人しいだけの生徒の言い分も、両者を「等しく」扱うことに誇りを持っている先生も多いのではないでしょうか。ゆえに「いじめられっ子」が暴行や恐喝を受けたと訴えても、「いじめっ子集団」が「そのような事実はない」と反証すれば、「いじめがあったとは言えない」ものと判断するのが一般的な教員というイメージがあります。痴漢みたいに一方の訴えだけで全てが決まってしまうのもアレですが、学校の先生の場合も色々と行き過ぎているように思いますね。

 法律による制限などなくとも「校則」によって学校の中では禁止されている事柄も少なくない一方で、上述の暴行や傷害、器物破損や窃盗、恐喝や不法侵入といった類が許されているのが学校という空間であった記憶もあります。学校の窓ガラスが割られたり消化器が撒き散らされたり、何かが盗まれたり壊されたり、時にはハサミやノコギリで斬り合ったり、階段から突き落とされて骨折する生徒もいましたけれど、それで警察が呼ばれるようなことは一度もありませんでした。昨今は気概のない大学が多くて、自治の精神を躊躇なく放棄しては警察と連携を図るみたいな事例も多いようですが、もしかしたら小中学校とかの方が警察には頼らず自分たちの間だけで始末を付けようという意識が強いのではないか、という気がしてきます。

 

担任「やりすぎんなよ」 大津自殺、暴力見た生徒が証言(朝日新聞)

 大津市立中学2年の男子生徒(当時13)が昨年10月に自殺した問題で、同じ学年だった複数の生徒が、教師がいじめたとされる生徒の暴力行為を見ても、「あんまりやんなよ」と言いながら、ほとんど止めようとしなかった、という趣旨の証言を生徒の家族にしていたことがわかった。

 生徒らは昨年12月、家族に直接証言した。それによると、担任教師の名前を挙げ、いじめたとされる生徒2人が亡くなった生徒に暴力をふるっているのに、「隣にいたが止めなかった。笑ってた。『やりすぎんなよ』って」と話した。ほかの生徒も同様の証言をし、「周りにほかの教師もいた」と話す生徒もいた。

 

 問題の中学校では保護者会が開かれて、言うまでも無く保護者からは学校側の対応への「怒り」が寄せられたようです。被害者の遺族でもないのに、一方的に学校側を非難するばかりの保護者には「あなたのお子さんは何をしてたんですか?」と釘の一本も指したくなるところではあります。まぁ、同級生であったとしても個人でいじめを止めるのは難しいわけで、だからこそ「権限」を持っているはずの教職員に「何とかしろ」と言い募るのはやむを得ないことなのかも知れません。しかし、生徒を指導する権限を有しているからといって教師にいじめが止められるかと言えば、そこは簡単ではないと思います。

 

中1が「先生流産させる会」結成 愛知の市立中、悪質いたずら(共同通信)

 愛知県半田市の市立中学で1月に1年の男子生徒11人が「先生を流産させる会4 件」を結成し、妊娠していた30代の女性担任教諭の給食に異物を混ぜたり、いすのねじを緩めたりする悪質ないたずらをしていたことが28日、市教育委員会への取材で分かった。

 

 誇張されて伝えられているところもありそうですが、中南米などでも麻薬カルテルの勢力が強いところでは、それを取り締まる「権限」を持っている警察官であろうと結局は何もできないとか。警官もまた麻薬組織を恐れ、ギャングのやることは「見て見ぬふり」で我が身を守る人も多いと聞きます。下手に取り締まりに動けば、見せしめとばかりに殺されるというのが珍しくない世界もあるそうです。そして程度の差はあれ学校教師の世界にも似たような構図はあるように思います。「いじめ」の被害に遭うのは何も生徒だけではありません。時には教師が標的にされることもあります。身の安全が保証されていないのは生徒だけではない、教師もまた、時に生徒から脅かされることがあるのです。そして教師が自らの安全を守るために、マフィアならぬいじめっ子の行為を「見て見ぬふり」をして過ごすこともまたあるのではないでしょうか。そうやって「お互いに手出ししない」暗黙裏の協定を作り上げる、汚職警官と麻薬密売組織のような関係を築いている、そうやって「秩序」を保っている学校現場は決して例外的な存在ではないはずです。

 いじめ――暴行や傷害、窃盗や恐喝などの犯罪行為――を受ける側にとっては一大事でも、学校組織にとっては日常の風景に過ぎません。いじめがあっても、大抵は被害を被る生徒が泣き寝入りして終わる、そのままいずれは卒業を迎えて「学校からは」忘れられるものです。大津の中学校の先生達も、そうなることを当然視していたのではないでしょうか。いじめは常にある、でも「学校側にとっては」大事に至ることなく済んできた、その繰り返しに馴れきっている教員側と、(今回の「いじめ」の内容は悪質なものが多いにせよ)何か特別なことが起こったかのように驚いている保護者側で温度差が生じているようにも思います。学校側はいじめがあったことではなく、いじめが泣き寝入りで終わらず自殺に発展したことに戸惑いを感じているのだという視点がないと、両者の溝は埋まらないでしょう。

 本気でいじめの問題に取り組もうとする教員なんて、自らの命を賭して麻薬カルテルと戦う警官なんかより格段に希少な存在なのかもな、とも思います。大した給料でもないのに、そんな危ないことにクビを突っ込めないよと考えたとしても、それは仕方が無いことなのでしょう。教師だって標的にされかねないのですから。政治家だって公務員なり電力会社なり、世間から嫌われている人を叩いて票を稼いでいるのです。周りと一緒になって誰かを叩く、そうやって連帯感を築いていく、仲間を増やしていくのは政治家だけではない、教師もまた例外とは言えないのではないでしょうか。場合によっては教師がいじめの先頭に立っているケースもありますけれど、そういう先生って基本的に生徒からは人気があるはずです。いじめを放置していたって基本的には被害者が泣き寝入りして終わり、それを教師が危険を冒して止めに入るだけのインセンティブは何もありません。

 いじめを止めるにしても教師にそれだけの力量や手腕があるかという問題もあるわけです。日夜、学校行事の準備に追われて勉強を教える暇にも事欠くのが日本における学校の先生という物でもあります。まぁ学力テストの対象になるような類の「勉強」よりも学校行事優先であるなら尚更、生徒指導の役目の一つと考えられるべきと言えなくもないでしょうか。ただ教師の役目はあくまで「勉強を教えること」です。そこにいじめなど生徒間のトラブル、と言うより「犯罪行為」を抑止するという役割を期待するのも無理があるのかも知れません。学校の先生に何でもやらせようとするより、学校生活の安全を確保するための専門家をおくなどの対応も考えられてしかるべきでしょう。もっとも、この辺の専門家というと百害あって一利なしの「自称専門家」が押しかけて余計に事態を悪化させる気がしないでもありません。基本的には救いようのない世界ですから。

 

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おまけ1

海自いじめ自殺の乗組員アンケ、4か月以上隠す(読売新聞)

 2004年に海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」元乗組員(当時21歳)が自殺した問題で、海自は10日、中間調査結果を発表し、いじめの有無に関するアンケート結果について、訴訟担当者が約4か月前に存在を把握しながら隠していたことを明らかにした。

 アンケート結果は、乗員190人に対していじめがあったかどうか回答させたもので、約370枚。海自は、遺族の情報公開請求に対し、「回答結果は存在しない」と説明していた。その後、遺族が国などに損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、1審で国側指定代理人だった海自幹部がその存在を告発すると、海自側はファイルが6月20日に見つかったと発表した。

 

 なお専ら話題を攫っているのは中学校の方ですけれど、似たような問題は他でも発生していることが分かります。まぁ、日本の学校教育制度と同じルーツを持つであろう組織ではないかという気もするだけに、根っこは共通している部分が多いのかも知れません。

 

おまけ2

首相、異例の呼びかけ「いじめられたら…」(読売新聞)

 野田首相は16日のフジテレビの番組で、大津市立中学2年の男子生徒がいじめを苦に自殺したとされる問題を受け、「いじめられている子にぜひ伝えたいことがある。あなたは一人ではなく、あなたを守ろうとする人は必ずいる。誰でもいいから相談してほしい」と異例の呼びかけを行った。

 

 言うまでもありませんが、問題となっている大津市の自殺問題では、担任にも警察にも(その過程では当然親にも)相談したと報道されています。にも関わらず、軽々しく「あなたを守ろうとする人は必ずいる。誰でもいいから相談して」と口にできる神経は理解できません。総理大臣が考えているほど、単純に片の付く代物ではないと思うのですけれど。

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Back in Black

2012-07-15 10:56:25 | 雇用・経済

 いつの間にやらブラック企業という言葉は完全に市民権を得ているわけですが、一方で「ブラック企業的なもの」を正当化し、ダメな企業をブラックと呼んで敬遠する風潮を「甘え」である云々と精神論への落とし込みを図る人もまた少なくありません。そして「ブラック企業」という概念が乱用されているとの批判も存在します。ただ単に気に入らない企業をブラックと呼んでいる、と。この辺はまぁ、頷けないでもないでしょうか。例えば、マトモに相手をする必要がある対象かはさておき「ブラック企業大賞」なんて企画もあるわけですが、そこにノミネートされている顔ぶれを見るに、なるほど確かに「ブラック企業」という言葉を便利に使いすぎているなと感じます。ブラックとは何か、それをロクに考えないまま、ただ自分にとって気に入らない企業を罵倒し、晒し挙げるためのマジックワードになってはいないかと。

参考、ブラック企業大賞2012

 ブラック企業と言っても、明確な定義のある言葉ではありません。ですから何をブラックと呼ぼうがその人の勝手と言われれば、それでお終いです。ただ、何であれ最低限の一貫性がなければ信用も置けないというものではないでしょうか。そこで私なりに考えるブラック企業の最大公約数的なイメージですが、まず第一は「対価が支払われないこと」ですね。例え激務でも、労働に見合った高額の報酬や将来的な地位が見返りとして与えられるなら、それはブラックではありません。これがワタミのように「金より幸せ」と精神論が優位に立つようであればブラックと呼ばれるに十分ですが――「精神的な豊かさを大切にしろ」と喧しい日本全体が黒ずんだ社会なのではと思えてきます。あるいは「若者に雇用機会を」みたいな風潮に先立って中高年という「元・若者」を追い出しては若年層に置き換える、その若年層もトウが立ってきたらまた新たな若者に置き換える、そういう形で「若さ」を保っている企業もまた見事なブラックと言えます。

 社員を支配したがる、と言うのもブラック企業の特徴に数えられるべきでしょう。餃子の王将の研修とかもつとに有名ですけれど、ワタミもまた研修熱心です。人件費は惜しんでも研修費用は惜しみません。でも、その研修で教えられるのは実務で必要なことではなく、雇用側が奉じる価値観であったり、社畜としての心得などに終始しているわけです。長時間労働で社員を拘束するだけでは飽き足らず、価値観の面でも社員を従わせる、従業員の「心」にも干渉したがる、それこそブラック企業の条件にふさわしいと思います。

 上述のブラック企業大賞では、バス事故で有名になった「陸援隊」がノミネートされています。でも、これは明らかにブラックとは違うでしょう。むしろブラックとは対極です。ブラック企業であれば従業員に副業なんて認めないものです。陸援隊の場合は管理の杜撰さが問題なのであって、そうした「ほったらかし」はブラック企業の雇用関係では「あり得ない」類と言えます。それはそれで別種の問題があることは確かですけれど、ブラック企業の特徴とは相容れないところもあったはずです。陸援隊をブラックと呼んでしまうなら、それこそ「ブラック」とは気に入らない企業を罵るだけの空疎な言葉、軽い言葉になってしまいます。これは「ブラック企業」を批判する側にとっても好ましいことではないでしょう。

 「支配したがる」という観点から陸援隊に代わってノミネートされるべきは、大阪市役所ですね。雇用側が従業員サイドの内心や価値観に干渉したがる、業務とは無関係な領域にまで手を突っ込んでくる、ブラック企業に見られる典型的な雇用関係は、少なくとも陸援隊なんかよりは大阪市でこそ頻繁に見られると言えます。あるいは、単に待遇の悪さを要件とするなら外国人研修生を「購入」している無名の事業者達こそ糾弾されてしかるべきでしょう。良くも悪くも有名税、名の知れた大企業における不正や労働問題は大きく取り上げられますが、往々にして最悪の雇用主は中小零細でこそ見られるものです。陸援隊という事故さえなければ決して世間に名を知られることがなかったであろう小さな有限会社を槍玉に挙げるくらいなら、外国人研修生に強制労働をさせている連中にも切り込んで欲しいところです。

 例によって「ブラック企業大賞2012」では東京電力もノミネートされています。「気に入らない企業」ランキングとしては妥当な選択なのかも知れません。ただ東京電力までをも「ブラック」と呼んでいいのか、そこはまた首を傾げるところです。たしかに東京電力では大幅な賃金の引き下げが行われており、従業員の労働者としての権利を不当に侵害してはいないか、その辺は厳しく問われてしかるべきと思います。ところが、上述のブラック企業大賞では東京電力のリストラには全く触れていません。ブラック企業大賞の選考委員にとってはどうでもいいことのようです。刑事事件の被告人に人権はない、不祥事を起こした会社の従業員に労働者としての権利はない、そう考えている人にとって東京電力のリストラの是非など問われるまでもないことなのでしょう。

 「5次・6次にわたる多重請負の構造がある」「その中では、被曝に関する安全管理や教育も不十分であり、また使い捨てともいえる雇用状態が続いている」環境への影響に関する完全に偏見だらけの評価は相手にしないとして、とりあえず「ブラック企業大賞2012」のノミネート理由として多重請負や安全管理の問題が挙げられています。ただ、これをブラックと呼んでしまうと、建設や工事業者と関わる会社はほぼ全てブラックになってしまうわけです。それ自体は決して好ましいことではない、是正されるべき物ではあるにせよ、多重請負や安全管理の不備は決して東京電力や原発だけの問題に矮小されてはならない広範な問題ですから。

 実際、私の職場でも元請け工事をやったりしますが、実際の作業は下請けの工事会社が行います。そして下請けの工事会社は、業務量に応じて一人親方を連れてきます。その下請けの社長が呼び出した一人親方の素性までは把握しきれませんし、発注元企業にも報告してません。まぁ、東京電力の敷地内での工事とかですと格段にチェックが厳しいので、そのときは下請け会社で直接雇用されていることが確認できた人に限定して作業に当たらせたりもしますけれど、ソフトバンクなんかは緩いので人選は下請けの社長に任せちゃってますね! ともあれ、原発作業でなくても多重請負は普遍的に発生するものです。下請け会社に支払った金額は管理してますが、下請けの社長が一人親方にどれだけ払っているかは知りません。

 ただ多重請負を無くすためには、下請けの社長なり一人親方なりに工事発注元の大企業から直接仕事を引っ張ってこれるような営業力や、各種工事に必要な物品を調達できるだけのネットワークが求められます。それが無理だから、間に入った会社が色々と代行する、そのコストとして「中抜き」が行われているのです。中間業者だって、別に仕事をしていないわけじゃありません。その辺は働いている人なら多かれ少なかれ誰でも知りうることのはずですが、まぁ世間的には「悪」とされる何かを糾弾することの方が大事なのでしょう。

 「ブラック企業大賞2012」もそうですが、例によって被曝云々に関しては放射線のリスクを1000倍くらいは誇張していて、その反動として放射線「以外」のリスクが忘れられがちだなとも思います。労災による死者が続出する林業とかの方がどう見ても危ない、単に仕事にあぶれただけの人に「成長産業」と称して林業を勧めていた連中の方が格段に非人道的と思えるのですが、まぁ勧善懲悪の世界は善悪二元論の世界でもあります。リスクを比較しない、程度の問題であることを理解したがらないのも宜なるかなでしょうか。そうして安全管理や教育における「重心」が誤ったところに置かれてしまう、話題性の強いものばかりが重視され、より頻度の高い「当たり前」のリスクが軽視されることも珍しくない、その一端を「ブラック企業大賞2012」も担っていると言えます。

 どっちかと言えば、AKB48とかの売り方ってどうなんだろうと思ったりもします。あの売り方はえげつないし、AKBの構成員でもファンの少ない人は随分と厳しいのではないでしょうか。親族が生活保護を受給していた芸能人が話題になったりもしましたけれど、売れないときは極貧生活に陥るのが芸能界です。芸能界に限らず「夢を追う」タイプの業界は慣例的に収入の少なさも「夢」のためと許容されがちですけれど、もうちょっと労働者としての権利を考えてもいいのかも知れません。「夢」と引き替えに貧乏暮らしを受け入れさせるのは、待遇改善の代わりに「やりがい」とか「幸せ」を持ち出すのと完全に別物とは言い切れませんから。

 

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実績抜群のゴールデンコンビだということが、ネット上では忘れられがち

2012-07-12 23:12:28 | 政治・国際

「衆院選後、民自連立を」36% 朝日新聞世論調査(朝日新聞)

 朝日新聞社が7、8日に実施した全国定例世論調査(電話)で、次の衆院選後の政権はどのような形がよいか聞いたところ、「民主と自民の連立」が36%で最も多く、「民主と自民以外の政党中心」が25%で続いた。「自民中心」は17%、「民主中心」はわずか7%にとどまった。

 野田内閣の支持率は25%。前回6月26、27日の調査は27%で、2月以降25~27%を行き来している。不支持率は58%(前回56%)で過去最高を更新した。

 いま投票するなら、として聞いた衆院比例区の投票先で民主は14%(同19%)に下がり、自民は22%(同22%)と伸び悩んでいる。この質問に「答えない・分からない」は47%(同44%)と2010年の参院選以降では最高になった。政党支持でも無党派層が63%(同62%)と高い水準を維持している。民主、自民両党に強い求心力があるわけではなく、「民主と自民の連立」は消極的な選択という面もありそうだ。

 

 こういう結果は、たぶんネット世論とは最も乖離の大きいものなんじゃないかなとも思います。政策面では似通う民主党と自民党ですが、ネット上の民主党支持層と自民党支持層はその支持政党以上に強く感情面でいがみ合っているのではないでしょうかね。しかるに、電話による世論調査の結果として出てきたのは「民主と自民の連立」が最多を占めるという結果でした。まぁ、今に始まったことではありません。政権交代前にも、そういう回答は多かったですから。

 善くも悪くもネット世論は地域に縛られにくいのか、全国的な問題がクローズアップされやすく、一方で「地元」への意識は蔑ろになりがちなのかも知れません。故にネット上で猛々しく政治を語っている人は国政や大阪など話題性の強い地域の行政に通じている風を装いつつも、その実は自分の住む自治体の政治には疎かったりするような気がします。自分の住む市町村あるいは都道府県の議会の構成がどんな風になっているか、意外に顧みていない人が多いようにも思うわけです。とりわけ政治ブロガーには、と。

 地方議会で一般的なのは、まさしく「民主と自民の連立」でもあります。厳密には、民主党系の会派と自民党系の会派ですが、実質は民主と自民の連立政権ですね。もちろん東京都議会の民主党のように、いざ選挙が始まれば自民党との対決姿勢をアピールして、あたかも現職の知事の反対派であるかのごとくに自らを偽っては現行体制への批判票の取り込みに走るという卑劣極まりない手法の常習犯もいますけれど、選挙が終わればちゃんと仲直りして自民党とがっちり手を組んで首長を支えるわけです。そこまで極端でなくとも民主と自民が相乗りで候補者を立てるなんて国政「以外」では当たり前のことで、私の住む自治体でももちろん民主と自民のゴールデンコンビは盤石です。

 ある意味、民主党と自民党が対立しているなんてのは国政だけの例外的な珍現象であって、地方自治体では普通に見られる「民主と自民の連立」の方こそ自然な形なのかも知れません。「民主と自民の連立」が望ましいと回答した人は、自覚的であるかはさておき自分の済む自治体の行政を理解しているのでしょう。自民党の対抗馬として民主なんて、ちょっとでも地方の政治を知っていれば、絶対にあり得ない選択肢ですから。民主と自民が対立している方が異常なんです。自民がダメなら民主もダメ、民主がダメなら自民もダメ、だから「民主と自民の連立」が最多で「民主と自民以外の政党中心」が次点というのは、結果上のことではあれ意外に的を射ているのかも知れません。

 ・・・・・

 一方、民主党を除名された小沢一郎が新党「国民の生活が第一」を立ち上げました。略称は何がいいでしょう、慣例として二文字程度に納める必要がありますが国民新党と被らないためには、「国民」ではダメですね。ならば「国一」ですと、なにやら公務員試験風で、公務員叩きの流れにそぐわないということで人気を落としてしまいそうです。では「活一」とでも名乗ればラーメン屋風?で庶民的な感覚が満ちあふれてくる感じでしょうか。あるいは「のが一」と略せばライトノベル風で、若者に媚びつつもどこか外している日本の政治を象徴できる……かな?

 それはさておき、小沢一郎という政治家は割と好きだったりします。世論調査で良くある支持理由に「人柄が信頼できる」なんてのがありますけれど、その理由で政治家を選ぶなら小沢一郎は個人的には有力です。まぁ私は人柄ではなく政策で判断するつもりですし、そもそも選挙区が違うので意味の無い話ですが。

 野田政権の逆張りに徹するのであればマイナス面よりも肯定的に評価でいる面の方が多いかと思わないでもありません。ただ党名に使い回した「国民の生活が第一」にしても、元は自民党政権への逆張りとして持ち出されたスローガンだったのではないか、その結果はどうなのかと「実績」が気にならないでもないわけです。加えて、小沢だってかつては自民党との連立を模索した、ある意味で野田の先駆者でもあります。「政局の人」であるが故に自身の政治信条よりも票に繋がる政策を掲げがちで、それは民意を重視したものと言えなくもないのですけれど、結局のところどのような政策をとるかは二の次で、実際に権力を手にしたときに何をやるのかは定かでない、小沢にはそういう危うさを感じるところもあります。

 それ以上に小沢一郎は、取り巻きがダメだと感じることが多いですね。周りの人間がマトモであれば、かつて「古い自民党」の「派閥のボス」として権勢を振るった政治家と同程度の評価を下しても良いように思うのですが、小沢に付き従っている政治家の主張や振る舞いを見るにつれ、ちょっとどうなんだろうと首を傾げることも頻繁にあります。例によってネット上の小沢支持者達の言動にも、眉を顰めさせられるものが目立ちますし(何で小沢をそこまで応援したがるのかも謎です)。多少なりとも付き合う人間を考えないと、小沢自身の信用にも傷が付くと私は考えるのですけれど、その辺を選ばないことこそ信条なのでしょうかね。

 小沢の画策した自民党との連立が破談に終わった理由の大部分もそこにありそうですが、政治家の間で異常に嫌われているのが小沢一郎という男なのかも知れません。野田にしても、同じ党の人間である小沢よりも、自民党と組むことの方を選んだくらいですし。小沢の党が単独で大議席を確保するのは現状では難しそうで、その辺を打開するために政局の人が橋下一派と手を組もうとする、結果として橋下一派に橋頭堡を提供してしまうこともあるのではないか、それこそ最悪だなとも思いましたが、この微妙な小沢の「嫌われ具合」が故に橋下との連携は難しいかなとも予測します。まぁ、先のことはまだどうなるか分かりませんし、分かったところでどうにかなるものでもありません。

 

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