非国民通信

ノーモア・コイズミ

やっぱり鳩山は危険です

2009-07-30 23:03:56 | 編集雑記・小ネタ

 さて、昨日の続きです。今夜は民主党の公約を検証してみましょう。まず良い公約としては、最低賃金の引き上げや学費の(実質)無償化が挙げられますね。どこまで本気なのか俄には信じがたいところもありますが、この辺は是非とも実現してもらわねば困るものですらあります。

 次に「子ども手当」や農家への「戸別所得補償制度」辺りはどうでしょう。こちらは累進課税を財源とするわけでもないので富の再配分としてはちょっと微妙なところもありますし、何より「狙い」や実施後の「効果」についてずいぶんと不明確なところがあります。ただ漠然と「お金をつぎ込めば良くなるだろう」ぐらいの丼勘定ではないでしょうか。将来的な社会保障拡充への第一歩として見れば一概に無駄とはいえませんので、まぁ麻生内閣の定額給付金と同レベルの評価が妥当なところだと思います。

 逆に「危険な」公約もあります。まず第一に「比例代表定数の削減」ですね。比例区の議員定数を削減し、小選挙区で固めようというわけです。元より人口辺りの議員数が少ない日本で、さらに議員の数を減らそうという発想は現状に即したものではありませんし、小選挙区ではなく比例区を減らそうというのがまた問題です。言うまでもなく小選挙区制は大政党に有利な制度、少数政党にはチャンスのない制度です。結果として自民党か民主党かいずれかの党にだけ議席が集中することになります。左派政党の排除には最も有効な制度ですが、自民党以上に定数削減に熱心な民主党の意図はどこにあるのでしょうか?

 比例代表制の良いところは、議員の数と得票数が「ほぼ」比例するところです。一方で小選挙区制となると、最大多数を得た議員だけが当選し、次点以下の議員は落選、一人勝ちの世界です。小選挙区制の元では特定の党に議席が集中するため、与党の権力は強まります。だから、良くも悪くも政権は「安定する」わけです。得票数以上の議席を政権与党が持つことで、その基盤は堅固なものとなります。それだけ、好き放題できるようになる、歯止めが利きにくくなるということでもあります。比例代表制ならば少数政党にも得票数に応じた議席が回ってくる、与党からすれば「うるさい野党が増える」、これを民主党は嫌うようですが……

 そしてもう一つ危険なのが、鳩山兄の強調してやまない「官僚」への非難です。この辺は公務員や官僚を絶対悪と見なす昨今の風潮に添うものであり、有権者からのウケも悪くないところかもしれませんが、実は最も危険な兆候にも思われます。そもそも鳩山以前、つまり小沢の時代は「生活者重視」が看板だったはず、それがいつの間にか「政権交代」と「官僚主導からの脱却」に置き換えられています。鳩山の掲げる二枚看板を一概に否定するわけではありませんが、それによって「後ろに追いやられた」ものを思うと、あまりいい気はしません。

 鳩山の世界設定では、「官僚支配」こそが諸悪の根源です。鳩山は自民党ではダメだと語りますが、その理由は「自民党では官僚主導の政治から抜け出せないから」というものです。つまり、「官僚」こそが主犯であり、自民党は従犯に過ぎないということでしょうか。かつて抵抗勢力と呼ばれた穏健派の議員や官僚達の反対を押し切って進められた小泉改革、あるいは政界にがっちりと食い込んだ財界の無法によって今の惨状がもたらされたのではなく、あくまで「官僚が主導権を握っていること」が問題である、それが鳩山の世界観のようです。敵は何よりもまず「官僚」である――そう語ることで、他の問題が背景に追いやられている、おそらくは意図して背景に追いやろうとしているのでしょう。

 鳩山の語る「官僚支配」がどれだけ正しいのかも怪しいものです。たしかに、自民党議員の無能さ故に官僚に依存する部分はあるでしょうけれど、一方で強大な権限を持った議員の「思いつき」によって官僚が振り回されている印象も拭えません。しかし仮に、本当に官僚主導であるとした場合、その何が問題なのでしょうか? 単に官僚とは悪である、そういう世界観を持っている人ならいざ知らず、ちょっと立ち止まって考えてみる必要があると思います。

 その法案、政策を決定したのが誰なのか、そこは本当に重要なのでしょうか? この法案は官僚が立案したものだからダメである、この政策は民主党が決定したものだから賛成する、そういう判断をする人も少なからずいるでしょうけれど、自分たちの生活を考えるなら「誰が」という部分よりも先に問われるべきものがあるはずです。それを決めたのは「誰か」ではなく「何を」決めたかです。それが良い法案であれば、官僚の主導したことであっても良い法案には変わりないですし、それがダメな政策であれば、民主党の定めたことであってもお断りです。

 結果的に行政と官僚で意見の分かれることはあるでしょうけれど、それは結果であって目的ではありません。それなのに官僚に対する被害妄想を前面に押し立てて、官僚主導の政治からの脱却を看板に掲げる鳩山は、「何を」決めるかではなく「誰が」決めるかを優先しているのではないでしょうか。そこから感じ取れるのは「誰がボスなのか思い知らせてやろう」という強権意識だけです。

 政策の当否を論じる代わりに、それが有権者の支持を得ているかどうかを語るの政治家が昨今の流行です。小泉しかり、橋下しかり、そして鳩山しかりではないでしょうか。「有権者の支持を得ている」というのが彼らの印籠で、良識派の議員や職員/官僚が異議を唱えようものなら、その人々は「民意に背く」として逆賊扱いです。下手をすれば構造改革路線を修正しようとしている――自ら望んだのではなく、状況に追われて仕方なくそうしたに過ぎないにせよ――麻生内閣よりも、来るべき鳩山内閣の方がより小泉路線に近い、あの悪夢を再来させる可能性が高いかもしれません。もっとも、小泉ほどには狡猾でない鳩山のこと、途中でずっこける可能性もありますが。

 

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参考、やっぱり鳩山はダメだな

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共産党が候補を立ててくれません

2009-07-29 23:01:29 | 編集雑記・小ネタ

 さて衆議院選が刻一刻と近づきつつあります。まだ1ヶ月あるとはいえ、そう滅多なことで情勢は動きそうにありません。世論調査によると「実績」ではなく「期待感」で投票する人が過半を占めるとのことですが、私は実績で投票したいですね。選挙向けの景気のいいスローガンではなく、ここに至るまでに積み上げてきたものを判断材料にしたいです。

 比例代表の投票先を選ぶのは簡単なことです。小賢しい「戦略」など考える必要はありませんし、政党単位であれば実績や方向性を検証するのも簡単ですから。しかるに小選挙区となると事情が変わる、誰か一人しか当選できないのであれば「最良の候補に投票する」以外にも、「最悪の候補の当選を阻む」ことも考える必要が出てくるわけです。たとえば名古屋市長選や静岡県知事選のように、民主党が極右系の候補を立ててきた場合はどうすべきでしょうか? 極右候補の当選を阻むために、民主党候補よりは相対的に穏便な自民党候補に投票せざるを得ない――そういう考え方もできるでしょう。

 もっとも、私は基本的に「最良の候補」に投票してきました。だから次の選挙も……と思いきや、困ったことに私の選挙区に共産党は候補を立てないようです。社民党の候補もいません。まだ正式発表ではありませんが、さりとて大物が争う注目選挙区でもないだけに今から予定が覆る可能性は低そう、自民と民主と諸派の争いとなるのが確実です。いきなり究極の選択です。どうしましょう?

 よほどの大物ならいざ知らず、政治家個人となると検証するのも一手間です。決して全国紙の紙面を賑わすことのない「地味な」議員の資質を見抜くのは、政党を評価するように簡単にはいきません。その実績たるや、本人のブログに書かれた「自己申告」が頼みだったりしますし、ましてや落選していた議員(候補)となるとなおさら検証は困難です。だから所属政党が目安になりがちですが、その政党が自民と民主しかない…… 一応、幸いにして我が選挙区の民主党候補はまずまず穏当な部類に入りそうな印象を受けますし、自民党候補はあからさまにダメな人なので、どちらか片方を選ぶとなれば迷う余地はなさそうですけれど。

 ただ、うちの選挙区の民主党議員が「まともな」人であったとしても、民主党の議席を増やすこと自体が後々の問題を深刻化させる可能性もあると思うわけです。それだけ党としての民主党の方向性には問題がありますから。我が選挙区の議員は少しだけ(本当に少しだけ!)民主党を穏健な方向にシフトさせてくれるかもしれませんが、単純に民主党の議席が一つ増えることで、民主党が無理を押し通しやすくなる可能性もあります。それが何かと心配ですね。

 どの政党にしたところで「全面的に賛成できる」という訳にはいきません。一番まともな共産党にしたところで、不満に思うところはあります。ただ、その不満点が「許容範囲」で済むかどうかです。「絶対に阻止せねば」というレベルものがありますと、その政党を「止めなければ」という気にもなるわけです。そこで自民党は言うまでもないわけですが、民主党にも危険な部分は少なくありません。そういう状況で民主党議員に票を入れることには躊躇いもあります。私の一票で結果が変わるはずもないにせよ、後になって悔やまずに済む選択をしたいですから。

 ……この辺で力尽きたので、続きは明日また書きます。

 

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外需を待ちながら

2009-07-28 23:02:32 | ニュース

メイド・イン・ジャパンにあらず、日本の製造業いずこへ(フィナンシャル・タイムズ)

しかしいくら品質が高いと言っても、世界的な需要の急減と急速な円高のせいで、日本の製造業は危機的状況に突入してしまい、製造業に依存する国の構造をめぐって議論が再燃した。なぜなら、世界的な景気後退が日本にも波及した、その原因は、金融業ではなく製造業だったからだ。日本ではこれといった不動産バブルも金融危機もなかったのに、輸出急減のせいで(今年2月には最盛期の半分にまで減少した)、今年1~3月期の国内総生産(GDP)は年率換算で14%も減った。日本は、先進国の中でも深刻な景気後退に見舞われてしまったのだ。

 先日取り上げたお笑いダイヤモンドなど、ひたすら内向きに自分たちの世界に閉じこもるのが日本の自称「経済誌」ですが、海外の経済誌と読み比べてみると質の違いは明らかですね。同じく経済を論じていながらも、日本の自称経済誌とフィナンシャルタイムズではしばしば見解が180°異なるのも珍しくありません。たとえば日本の自称経済誌が「内部留保は使えないお金なんだ」と強弁していた一方、外の世界の経済誌では「企業が非生産的な資金を内部留保しないよう政府が止めさせる必要がある」と述べられていたり(参考)。とかく日本の経済誌にはグローバルな視点が欠けているようです。

 ……で、ここで引用した指摘は重要です。金融危機に端を発した世界同時不況ですが、先進国中でもっとも深刻な景気後退に見舞われたのは、金融立国ではなく製造業原理主義の日本だった、まずこの意味を考えねばならないでしょう。

 金融危機が始まったとき、まるでユダヤ人を差別するかのごとき勢いで金融業を否定していた製造業原理主義者たちは「それ見たことか」と叫んだわけです。「やはり金融業では成り立たない、製造業こそが中心であるべきなのだ」と。そして製造業が中心である日本は、他の金融立国と違って世界不況の影響も小さいだろうと、楽観的な予測が流れてもいたわけです。しかるに現実はどうだったのでしょうか? 製造業にしがみついていた日本こそが、最も大きく不況の影響を被ったのです。

 輸出依存、外需依存がよくなかったのだと、その辺はよく言われることです。しかし製造業で内需を求めるにも限界があります。日本が貧しく、モノを持っていない人ばかりであったなら国内に需要がある、あるいは古い製品を捨ててどんどん新しいモノに買い換えていくような社会であれば、まだ国内の需要は期待できたでしょう。しかし、最低限のモノは各家庭に行き渡り、買い換えるよりも古いモノを長く使おうとする「もったいない」精神が幅をきかせている社会において、いったい誰が製造業の「商品」を買うのでしょうか? 公共交通機関が未発達で車がないと生活できない、かつ自動車が必要な世帯に行き渡っていない、そういう社会ならば製造業が重要になってきます。しかし日本はもう、そういう段階を通過してしまったのです。それでも「ものづくり」を続けたいのなら、買い手を国外に求めるしかない、外需を当てにするしかないのです。

アングロサクソンな世界リーダーたちは今、金融業に依存しすぎたせいで自分たちの経済が弱体化してしまったと懸念している。しかし今の日本が抱える問題を見ると、垣根の反対側には反対側ならではの違った危険があるのだと分かる。輸出産業があまりに圧倒的で、かつ国内のサービス部門は比較すると極めて頼りなく小規模だという産業構造のせいで、日本は外需依存状態になってしまっている。これはエコノミストたちがずっと前から警告してきたことだ。外需依存とはつまり、気まぐれな為替相場とアジアの安い競合品に脅かされているということ。世界的な景気後退は、エコノミストたちの正しさを証明してしまった。となると、藤沢工場のような日本の工場に未来はあるのだろうか?

 何事も行き過ぎはよくない、失敗は認めて改めねばならない、「アングロサクソンな世界リーダー」は金融業への依存を見直しバランスをとろうとしているようですが、一方の日本はどうでしょうか? 金融業中心の「アングロサクソン」よりも大きく凋落した日本は? 行き過ぎた製造業至上主義もまた失敗として反省が求められるところだと思うわけですが、どうも自らの失敗を認めようとしない、「製造業こそが中心であるべきなのだ」という思いをいっそう強め、意固地になるばかりにも見えます。これではまぁ、どこか日本の製造業の「お客様」が景気回復してくれるのを待つほかありませんね。

・・・・・・

 日本でことさらに「ものづくり/製造業」が賛美される反動でしょうか、忌避されるのが金融業です。でも、この金融業への「否定」の多くは馬鹿げたものばかりです。よくあるのが「金融とはゼロサムゲームである」というものですね。マネーゲームで誰かが儲かっていても、その分だけ誰かが損をしている、全体で見れば不毛である、と。それが本当であるなら、逆もまた真なりです。マネーゲームで誰かが損をしても、その分だけ誰かが得をしている、全体で見れば問題はない、と。そこで昨年来の金融危機はどうだったでしょうか? 誰かが損をした分だけ、誰かが得をした? 本当に金融がゼロサムゲームであったなら、金融不安からくる不況など起こりえなかったでしょう。

 それから、金融業には実態がない云々という「否定」もあります。逆に実体のある「ものづくり」こそが尊いという価値観に繋がっているのでしょうけれど、これも微妙です。たとえばそう、風を孕んだ帆と、折りたたまれた帆、「実体」としては同じかもしれませんが果たしている役割は全く違います。あるいは膨らんだ風船と空気の入っていない風船も「実体」としては同じかもしれませんが、やはり価値の違いは生まれているはずです。「いずれ萎むかもしれないじゃないか」などと言うのはナンセンスです。

 ……まぁ、金融でも製造業でも、あるいは他の産業でも何でもいいのです。問題はそれが景気回復という「結果」に繋がるかどうかです。そこでどうでしょうか、日本社会/経済は「結果」を追おうとしているのでしょうか? それとも、あくまで「製造業こそが王様なんだ」と自らの理想を追いかけようとしているのでしょうか? 自分のやりたいサッカーを曲げてでも「勝てるサッカー」を実行する監督もいれば、負けるリスクが増えようとも「やりたいサッカー」を実行する監督もいます。一概にどちらがいいとは言いませんが、こと日本では前者の感覚があまりにも欠如しているような気がしますね。その辺の意識が変わらないと、どの政党が政権の座についても日本の景気は外需を待つばかりということになりそうです。

 

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もういいよ自民党は

2009-07-27 22:45:21 | ニュース

麻生首相、高齢者は「働くことしか才能がない」(読売新聞)

 麻生首相は25日午前、横浜市内で開かれた日本青年会議所の会合であいさつし、「日本は65歳以上の人たちが元気だ。介護を必要としない人たちは8割を超えている」としたうえで、「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは働くことしか才能がない。働くということに絶対の能力がある。80(歳)過ぎで遊びを覚えるのは遅い」と語った。

 高齢者に働いてもらい、活力ある高齢化社会を目指す考えを示したものだが、高齢者をやゆしたともとれる表現に批判が出る可能性もある。

 どうせ秋には野党になっているであろう人々の発言ですからスルーしようかとも思いました。麻生氏は相変わらずですね。小泉や安倍の時代に比べればだいぶ軌道修正できた部分もあり、方向性は意外とまともだった一方で(むしろ鳩山の方が危ないくらいです)、党内をとりまとめる能力の欠如は致命的、そして生まれながらの特権階級意識と妄言癖が随所に露呈した印象です。曰く「高齢者をいかに使うか」だそうで、要するに人をコマとして考えているのでしょう。この辺の感覚は麻生氏に限ったことではないと思いますが。

 まぁ「80過ぎで遊びを覚えるのは遅い」というのは共感できないでもありません。私もそう思います。80過ぎでは遅いです。いかに世界一の長寿国とはいえ、80過ぎではどれだけ余命があるかもわからない、時間と金があっても体が動くとは限らないわけです。もっと若いうちに遊びを覚えておかなければ人生の損です。だからこの麻生氏の言葉が日本のワーカホリックたちに向けられたものであるなら、むしろ評価したいくらいです。遊びを覚えるのは定年を迎えてから、それまでは仕事が第一――そんな人々を揶揄するような発言であったなら、それはそれで「粋」です。

「意図伝わっていない」=麻生首相、高齢者発言で釈明(時事通信)

 麻生太郎首相は25日夕、仙台市での講演で「(高齢者は)働くことしか才能がない」とした自らの発言について「意図が正しく伝わっていない。申し上げたいのは、日本に元気で活力がある高齢者が多いということ。社会参加してもらい、働く場をつくる。それが活力ある明るい高齢化社会だ」と釈明した。

 首相は、「ぜひそういうところを(報道で)取り上げてもらいたかったが、誤解を与えたと思うので、説明させていただいた」などと語った。 

 ……しかるに、麻生氏の意図は別のところにあったそうです。本人の自己申告によれば、ですが。そしてこのような意図であるなら、言うまでもなく評価できませんね。そもそも「働く」ことばかりを「社会参加」と見なすことに問題がありますし、社会保障の不足や労働賛美の中で、働かずに暮らすことが難しい、高齢者も働かなければ生きていけないのが現状のはず、これが活力ある明るい高齢化社会なのでしょうか。仮にそうであるとしても、そのような意図がどうして「(高齢者は)働くことしか才能がない」という発言に繋がるのかも不可解です。よっぽど破綻した思考の持ち主なのでしょう。麻生氏は「誤解を与えたと思う」と語りますが、当初の発言から麻生氏の意図を読み取るのはエスパーでもない限り不可能に見えます。

 さて問題の発言は日本青年会議所の会合で出てきたものです。この日本青年会議所、色々と怪しいというか危ないというか、随所に邪気眼的なものを漂わせている団体ですが、その名からもわかるように比較的若い年代、具体的には20~40歳までの「青年」で構成されている団体です。問題の発言は当事者たる高齢者に向けてではなく、若い世代に向けて、それも高齢者がいない場所で発せられたわけです。ある意味、陰口みたいなセンスを感じますよね。あいつらは働くしか能がない奴なんだ、のうのうと年金暮らしさせてやる必要はない、もっと働かせればいいんだ――と、当事者のいない場所で語ったわけです。まぁ、世代間対立に落とし込むのは、政府や財界に対する批判をそらす常套手段、若者のいる場面では中高年を貶めることで「若者の味方」を演じるのが常套手段なのでしょうけれど。

 

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お笑いダイヤモンドの「現実路線」

2009-07-26 11:21:07 | ニュース

 さて、自民党がお寒い発言で着実に支持を落とし、民主党が次期与党となることがますます以て確実になってきた昨今です。今となっては遠からず野党に落ちるであろう自民党よりも民主党の動向の方が気になるわけですが、その民主党はソマリア沖への自衛隊派兵を容認、インド洋での米軍支援活動の中止もマニフェストから外す模様だとか。与党の座と一緒に政策まで自民党を継ぐつもりかと突っ込みたいところですが、この辺の変節ぶりを報じた読売新聞にいわせれば「現実路線」なのだそうです。単に現状を追認することを現実路線と呼ぶ感覚には首を傾げずにいられませんが、似たような見方をしている人も未だ少なくないのかもしれませんね。派兵したいからコストを度外視して派兵するのも、ある種の論者からすれば現実路線なのでしょう。

民主党の労働政策がはらむ大きな危険(DIAMOND online)

 労働政策がその一つだ。6月23日に民主党と社民党、国民新党が合意した製造業派遣の原則禁止と、次期総選挙のマニフェストに盛り込むと報道されている最低賃金1000円の二つに示される民主党の政策は企業に過剰な負担をもたらすことが間違いない。何よりも、これらの政策が直接関係する層の労働者にとって大きな厄災、端的にいって「相当数の失業の増加」を招きかねない。

 ……で、今日のメインはお笑いダイヤモンドのこの記事です。その品質は引用元の媒体からお察し、目新しさも何もない使い古されたコピペのような主張が展開されています。この占い師が「危険」と呼んでいるのは最低賃金の引き上げに関してで、同程度の経済水準の国と比較すれば異例なほど低い日本の最低賃金を標準的なレベルまで引き上げようとするこの民主党の主張についてあれやこれやと難癖つけているわけです。夫婦別姓の容認と同様に撤回されてしまうのではないという気がしてなりませんが、ともあれ民主党の政策の中では貴重な評価に値する最低賃金の引き上げは、経営する側の立場でしか物事を考えられない人から見れば悪夢なのかもしれません。

 この手の自称経済評論家からすれば、やはり「現状追認」こそが「現実路線」なのでしょう。最低賃金が1000円を上回る国などいくらでもありますし、最低賃金が引き上げられたからといって経済が混乱、破綻したという話も聞きません。それでも日本の徹頭徹尾内向きなエコノミストは最低賃金の引き上げを「不可能」と断定し、もし最低賃金を引き上げれば失業者が街にあふれ……と脅しをかけるわけです。実際に最低賃金を引き上げた国では「起こらなかった」ことを語られても説得力は皆無ですが、彼らの脳内設定ではそうなっているのでしょう。わかっているフリをして「現実路線」を語る人にはよくあることです。

 同質の労働を提供する労働者の中に、解雇されにくい人と、解雇されやすい人とが居て事前にこれが分かるなら、解雇されにくいと自ら認識している労働者にとっては、最低賃金を上げる方が得であり、雇われにくい限界的な労働者にとっては最低賃金の規制はマイナスに働く可能性がある。前者は、自分が最低賃金の対象でなくとも、最低賃金以下で働く労働者が減ることで競争上のメリットを得る。

 前者に相当するのは解雇されにくい現在の正社員で、労働組合は基本的に彼らの利益代表だ。後者に当てはまるのは、たとえ低賃金でも職を確保したい非正社員労働者だ。最低賃金を巡って両者は対立する構図にある。

 解雇されないことを前提にすれば、最低賃金の引き上げは労働者側にメリットがある、これは当たり前として「解雇されやすい人」の場合はどうでしょう。この辺が「人質」にされ易いところですね。最低賃金が引き上げられたら、今まで生活保護水準以下でこき使われてきた人々は解雇されるだろう、そうした人々の生活はどうするんだ! ……と、あたかも労働者側を心配しているフリをするのが財界のマナーというものです。ですが、「うちは時給700円じゃないと雇えないから」といってワープア層を解雇してしまったら、その企業は存続できるのでしょうか。

 どんなに給与が安くても、人員が過剰になれば解雇されるのが現実です。昨今の派遣切りを見れば明らか、まずは労働力が必要かどうかが雇用を左右します。「減産のため、人員が余っているけれど時給700円で働いてくれるなら雇用継続」「増産のため、人員を確保しなければならないが時給1000円は払えないから解雇」――そういう世界ではないですから。むしろあり得るのは「時給700円で人を雇えるなら、今いる人を解雇してワープアに置き換えよう」ぐらいの感覚ですよね。

 占い師の脳内設定では「低賃金でも職を確保したい非正社員労働者」が想定されているようですが、これって現実の非正規労働者からみてどうなのでしょうか? 実際問題として、生活保護水準以下の収入しか得られない、とんでもない薄給の仕事は世の中にあふれていて、往々にして人手不足だったりするわけです。よっぽどのスキモノじゃないと、そんな仕事はご免ですからね。もう一度、昨年末からの派遣切りを思い出してください。職を失った彼らに向けられた声はどんなものだったでしょうか? 農業とか林業とか、介護や一部飲食店チェーンなど、製造業派遣よりも薄給で、かつ人手不足の業界が失業者たちに食指を伸ばしました。「えり好みしなければ仕事はあるはずだ!」というのが世間の声でしたね。それは間違っていないのでしょうけれど、「製造業派遣以下の給与でも職を確保したい非正社員労働者」は果たしてどれだけいるのでしょうか? どんなに薄給でも仕事があればかまわない、それが低賃金労働者の平均像であったなら、農業や介護業界の人手不足は起こりえないのですが。

■生活保障は企業の役割ではない

 で、この財界の太鼓持ちは語るわけです。「生活保障は企業の役割ではない(それは政府の役割だ)」と。……ふむ、何とも一貫性のない人です。日本以外の国ではとっくに実現できている最低賃金の引き上げが、日本では不可能であるかのように語るのがこの手の論者の基本行動ですが、その「日本」を例外的な特殊事情のある社会とみなすなら、ここで挙げた一文は矛盾しているのではないでしょうか。

 日本の社会保障の特徴は「企業が労働者を丸抱えする」ことです。企業が終身雇用と年功型の賃金、各種企業保険によって雇用主が労働者を公私ともに抱え込む、これが日本式です。その代わり社会保障の企業負担分は小さく、政府による保障は貧弱ですが、ちゃんとした企業に勤めていれば心配ない、それが日本の社会保障だったわけです。これとは反対に社会保障の企業負担分が大きく、それを財源として政府が住民の生活を保障する国も多いのですが、日本はその段階には足を踏み出してすらいません。社会保障費の企業負担を小さく留め置く代わりに、企業に従業員の生活保障を丸投げしてきた歴史を無視して、一足飛びに「生活保障は企業の役割ではない」などといわれても、それは絵空事にしか聞こえませんね。物事には段階というものがあります。

 そもそも光の見えない日本の経済状況を考えるなら、モノの「値段」、そして労働力の「値段」を上げていかないと話にならない、無理をしてでもデフレスパイラルから抜け出さないといけないはずなんですが、いやはや財界誌ともなると自らのイデオロギーに固執するばかりで現実に立ち向かう気すらない、ひたすら自分たちの世界に閉じこもる、もはやカルトのごときです。

 

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「高所得者は負担増」とは決して口外できない

2009-07-24 22:54:49 | ニュース

民主、来年度から「公立高無償化」 学費分12万円支給(朝日新聞)

 民主党は、総選挙で政権交代が実現した場合、来年度からすべての国公立高校生の保護者に授業料相当額として年間12万円を支給し、事実上無償化する方針を固めた。私立高生の保護者にも同額を支給し、年収500万円以下なら倍の24万円程度とする。高校進学率が98%まで達する中、学費を公的に負担すべきだと判断したといい、マニフェスト(政権公約)に盛り込む考えだ。

 民主党はかねて高校無償化を主張していたが、不況が深刻になり、高校進学を断念したり、入ったものの中退したりする生徒が増える中、具体案を詰めて優先課題に位置づけた。多くの企業が業績を落とし、収入が減って不安が広がっており、所得制限をかけず支給するよう判断したという。15日の「次の内閣」の会合でも衆院選の主要政策とすることを確認した。

 実現には年間約4500億円の追加予算が必要と試算しており、国の事業の無駄を洗い出し、不要と判断したものを廃止・縮小することで財源の確保は可能としている。

 とりあえず、これは民主党のマニフェストでも評価できる方に入りますね。私なんかはむしろ、高校だけではなく大学、大学院、その他職業訓練施設などの教育機関はすべからく無料にすべきだと思いますけれど、まぁ第一歩としては認めましょう。「米百俵の精神」などと口にしながら、それとは正反対の方向に舵を切った元総理大臣がいましたが、教育は未来への投資なのです。富国強兵/殖産興業の立場からだって、公教育にはもっと重点が置かれてしかるべきでしょう。ましてや子供の学ぶ権利を慮るなら言わずもがなです。

 で、必要となる追加予算に関しては例によって「無駄を洗い出し~」ということです。教育の予算が増えるのは良いのですが、その煽りを食って必要な部分が削られないか、そこが心配です。専門家の声よりも素人の声が「国民の声」として押し通されがちな昨今、「必要のない部分」ではなく「理解されにくい部分」はどうなるのでしょう。民主党は何を「無駄」と見なすのか検証が必要なところです。民主党が手を組もうとしている橋下のように、必要な部分まで削って改革を称することがありませんように……

 他にも、中学生までの子どもがいる家庭に対し、月2万6千円の「子ども手当」を支給する方針で、政権公約では来年度に半額支給からスタートさせるとしているが、その財源確保策として配偶者控除を廃止するため、妻が専業主婦で子どものいない65歳未満の世帯は負担増となる。

 親の年収が400万円以下の学生に生活費相当額の奨学金を貸すなどの奨学金拡充、幼稚園や保育園の無償化推進なども検討しているが、教育・子育て支援は一方で子どものいない世帯の負担増にもつながり、議論になりそうだ。

 最大の目玉と言われることの多い「子ども手当」ですが、これもトレードオフです。子育て支援としては意味のないことではないでしょうけれど、配偶者控除が廃止されるなどのマイナス面を差し引いた結果がどうなるのかですね。子供のいない世帯の負担増云々もよく聞く批判ですが、結果としてどうなるのか専門家の分析を聞いてみたいところです。なんとなく「良くなるだろう」という希望的観測ではなく、出生率や可処分所得など諸々がどれだけ変化するのか「数値」が欲しいわけです。

 富の再分配は政府の重要な役割ですから、どこかの負担を増やして、別のどこかに補助を出す、これは基本です。問題は、その結果として貧困層を減らせるかどうか、お金が回るようになるかです。再分配の結果として貧困層が増加し、特定の人にばかりお金が滞留するようになったら、これは完全な設計ミスですから。では「子どものいない65歳未満の世帯は負担増」はどうなのでしょうか?

 独身世帯だって大変なんだ!という意見は当然あるでしょうけれど、間違いなく子育てはお金がかかります。貧しい過程でも裕福な家庭でも、子供が出来れば出費は増える、何かと物入りですから、そこに子育て支援として直接的な経済的支援を行うのは基本的には間違っていないでしょう。しかるに、貧乏だから結婚できない人、お金がないから子供が持てない世帯も多いだけに、ともすると子供のいる家庭よりも子供のいない家庭の方が貧しいケースも少なくないわけです。何かの拍子に「できちゃった」とあれば、この「子ども手当」が一助となりますが、「そんなものは焼け石に水だ」と子供を持たない世帯からすれば損をした気分にもなるでしょうね。少子化対策としてならいざ知らず、富の再分配としては不十分な点もありそうです。

 子供の有無ではなく、資産や収入の有無を基準にした方が良いと思うわけですが、その辺は民主党の限界もあるような気がします。「お金のあるところから」税金を吸い上げて「お金のない」ところへ回す、これが基本中の基本ですが、所得税や法人税の引き上げ(過剰な減税が行われる前の水準に戻すだけのことですが)は選択肢から外しておきたいのでしょうか。増税と言ったら「消費税増税」しか有り得ない、そういう立場を堅持している以上、「高所得者は負担増」とは決して口外できないのかも知れません。

 

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「俗流」フェミニズムが嫌い

2009-07-23 23:06:11 | 編集雑記・小ネタ

 さて、今夜のダシは「フェミニズム」です。私はミソジニスト(女性蔑視の人々)からは「フェミニスト」と呼ばれることが多々あり、それを否定するつもりは全くないのですが、自称フェミニストの人から同志と呼ばれたことはありません。むしろ「自称」フェミニストからは怒りのコメントをもらった回数の方が多いと思います。一口に「フェミニズム」と言っても決して一枚岩ではなく諸々の「派」があるわけですが、その辺の絡みでしょうかね。一般にミソジニストのフェミニズムのイメージはひどく偏ったものですが、私をもフェミニストに含める辺り、実はフェミニストの多様性を認めているのかも知れません。逆に(あくまで一部の)自称フェミニストはフェミニズムの幅の広さを口にしつつ、その一方で私をフェミニズムの枠から外そうとする辺り、意外に「フェミニズムとはこういうもの」という凝り固まったイメージを持っているのかも知れません。

 たとえばフランスで「(イスラム教徒の女生徒が)スカーフを被る権利」が争われたことがあります。フランスの法律では「学校に宗教的なものを持ち込んではいけない」という理由で、スカーフの着用が禁止されている、しかしイスラムの風習に従って「スカーフを被りたい」人もいるわけです。そこでスカーフの禁止をイスラム文化に対する侵害と見なしてスカーフを被る権利を認めるべきとする意見もあるのですが、一方でスカーフをイスラム社会における女性抑圧の象徴と感じ、そのような因習から解放されることが重要、そう考える人もいます。両者共にムスリム女性のことを慮っている点では同じですが、導き出される結論は正反対です。スカーフ着用を認めるべき/スカーフなど捨ててしまえ、と。それはフェミニズムも同様、女性の人権や男女差別の問題を考えるにしても、結論が一致するとは限らないわけです。とりあえず私は、チャドルを脱がそうとするタイプですよ!

 そこで女性差別の度合い、平等さの度合いを測る尺度としてしばしば用いられるものの一つが、「社会」にどれだけ女性が進出しているか、たとえば女性管理職の数/割合だったりするわけです。男ばかりが出世していないか、ちゃんと女性も要職に登用されているかどうか、その辺が問われるもので、言うまでもなく日本では大きな男女格差が存在し、先進国では最低ランクだったりもします。これはこれで問題があるわけですが……

 ただ、女性の社会進出と言われた際の「社会」には、時に疑問を感じることがあります。その「社会」が「男性原理によって支配された社会」であったなら、「社会」への進出を男女が競い合うことは結果的に男性原理の強化に繋がるのではないでしょうか。とりわけ会社における役職/管理職の割合を尺度にするのは危険です。企業社会における成功の度合いをモノサシにしてしまって良いのかな、と。

 会社で出世した、会社で高い地位に就いている人間が偉い、逆に企業の末端で使い捨てにされているような人々(派遣社員、フリーター、寿退社が織込済の一般職等々)は卑しい、そうした考え方は勿論、唾棄されるべきものです。経済的に成功しようと失敗しようと、人間としての価値が否定されるようであってはならないはずですから。会社における地位で人が計られるべきではありません。

 それでも、会社における地位を尺度として使う人々もいるわけです。社会的な成功がモノサシにされてしまう、そのモノサシでは「女性の地位の低さ」が憂慮すべき問題として浮き彫りにされると同時に、「下」として扱われる人々をも生み出しているのではないでしょうか。そしてこのモノサシによって「下」と認定されるであろう人々が反フェミニズムの急先鋒と化しているような気がします。

 ミソジニストが抱くフェミニズム像は、少なからず「勝ち組女性」のイメージと被っています。「社会進出を果たした女性」=勝ち組として負け組(男女含む)を見下すイメージですね。期間工を指して「彼らに年間300万円以上も払っているトヨタは偉い」と言い放った池内ひろ美みたいのが典型でしょう。傲岸不遜にして唯我独尊、そのコラムで肯定的に紹介された人物は「マッチョ」としか呼びようのない遙洋子なんかもしっくり来そうです、後は上野千鶴子あたりですかね。多分にルサンチマン的なものがあるにせよ、「社会進出」に成功できなかった「負け組」からすれば、こうした「社会進出に成功した女/進出できなかった人を見下す女」というのはあらゆる点で不快な存在に映ることでしょう。この辺をフェミニズムに対する偏った/誤ったイメージと切り捨てることは簡単ですが、ときにフェミニズムとして想定されがちな「俗流フェミニズム」に対するフェミニズムからの批判も、もう少し増えて欲しい気がします。

 さて、自分の上を行かれるのが不愉快、そういう要因も勿論あるでしょう。ただそれだけではなく、会社での地位、既存の社会における立場をモノサシに使う、そのモノサシで測られる事への嫌悪感も少なからずあるのではないでしょうか。社会進出すべき? 働きたくないでござる! 今まで男性が担っていた部分を女性も担うようになる社会を目指すのか、そればっかりでもないでしょう。社会進出なんて苦行です。そんなものはワーカホリックの馬鹿に押しつけておけばよい、ぐらいのことを主張する人がいたって良いでしょう。むしろ従来の「社会進出」を「重荷を負わされている度合い」と見なしたいくらいなのですよね、私の場合は。「社会進出」を肯定的なものと見なすのではなく、「社会進出」を肯定的なものと見なす価値観を破壊する、男性ばかりが幅を利かせている領域のみを「社会」と見なす価値観を破壊する、そういう路線がもっと表に出ても良いのではないかと。こっちの方が既存の権力や価値観に対するカウンターアクションとしての色合いは濃くなると思います。まぁ、あくまで既存の体制の中での平等を目指す人もいるでしょうし、そっちの方が実現可能性の高い道ではあるのでしょうけれど。

 

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削ってはいけないところまで「無駄」と呼ばれそうな気がします

2009-07-21 23:10:31 | ニュース

東国原知事「国会議員は半分でいい」 苫小牧で講演(朝日新聞)

 「人を幸せにする職業は政治家とお笑い芸人だと思っていた」――。宮崎県の東国原英夫知事が19日、北海道苫小牧市で講演し、知事への転身や就任後の出来事、衆院選出馬騒動などについて思いを語った。苫小牧信用金庫創立60周年と苫小牧民報社創刊60年記念事業で招かれ、市民ら約1600人がユーモアあふれる語り口に聴き入った。

(中略)

 衆院選出馬騒動に関しては「国と地方の二重行政をなくそうと強硬姿勢に出たが、一石を投じて自民党、民主党にマニフェストを出して頂いた。政治、行政の最大の敵は有権者の無関心ですから」と自らの行動の意義を強調。「地方に任せるところは任せ、国は防衛とか外交、金融とかグローバルなことをやる。国会議員は半分でいい。中央省庁も半分でいい」と主張した。

 己の器も弁えずに大臣の椅子を要求し、ジリ貧の自民党からも袖にされた東国原氏のその後です。まぁ県庁では王様気分なのでしょうけれど、全国区で通用するようなタマではないと自覚して欲しいところ、とはいえ引くに引けないのか「自らの行動の意義を強調」したそうです。ふ~ん、確実なところと言えば古賀選挙対策委員長の辞任を招いたぐらいだと思いますけれど。

 結局、何かと「滑った」印象の拭えない東国原ですが「地方に任せるところは任せ、国は防衛とか外交、金融とかグローバルなことをやる。国会議員は半分でいい。中央省庁も半分でいい」との見解は今なお有権者の好むところと一致しているような気がします。人気の出る政治家の主張するのって、だいたいこの辺ですよね。橋下だってそうですし、時期与党となることが確実な民主党の方針も、概ね似たようなものです。国民の期待するところもそうなのでしょうか。

無駄排除で財源捻出=民主代表(時事通信)

 民主党の鳩山由紀夫代表は20日、神奈川県相模原市で街頭演説し、同党の政策は財源面の裏付けが不明確と与党が批判していることについて「自民党政権が続いているからお金が足りなくなる。官僚にコントロールされて、みんな大事な予算だと思わされてしまっているからだ」と述べ、歳出の無駄を徹底的に排除することで財源捻出は可能と反論した。

 鳩山氏は「官僚任せの政治ではなく、優先順位の高い政策から世に出す。そんな世の中をつくるために大きな手術が必要だ」と述べ、衆院選での政権交代に向けて支持を訴えた。 

 この辺の連中が口にする官僚支配とやらは北朝鮮の脅威と同じくらいに誇張された絵空事であって、むしろ無理を押し通す、自らの主張を正当化するための口実として使われている印象が拭えないのですが、とにかくムダを無くすと鳩山/民主党は語っているわけです。でも「ムダ」って何なのでしょうか。民主党が掲げる議員定数削減に明らかなように、まずは国会議員の数が「ムダ」でしょうか。民主党に従わない官僚はクビと息巻いている同党ですから、たぶん官僚もムダの一つなのでしょう。まさに東国原の言うがまま「国会議員は半分でいい。中央省庁も半分でいい」という路線へと踏み出すことが予想されます。

 「優先順位の高い政策から世に出す」と鳩山は述べました。その優先順位は東国原の「防衛とか外交、金融」すなわち軍事をいの一番に挙げるようなものとは異なるでしょうけれど、ただ「それは本当にムダなのか」を問うことが忘れられるとしたら、まさしく小泉改革の再来としかなり得ないでしょう。昨今は「(行財政に)ムダがある」事ばかりが強調され、何でもかんでもがムダ扱いされてはいないでしょうか? その辺のノリが議員定数の削減にも繋がっているのだと思いますね。

 そうでなくとも国の役割、政治の役割が頭ごなしに否定されがちな中、ともすると所得の財分配や社会保障、教育などの分野は切り捨てられがちです。ムダを無くすという大義名分の元、国民の理解が得られない/偏見を持たれている領域は容赦なく切り捨てられ、世論に捧げる生贄とされていくのではないでしょうか。社会保障受給者が不正な受益者のように扱われる社会では社会保障が「ムダ」とされ、公務員がとんでもない高給取りの怠け者であるかのように伝えられている社会では公共サービスの担い手が「ムダ」とされる訳です。そしてテレビに顔を出さない政治家は何もやっていないかのように思いこまれている社会では国会議員もまたムダ…… 国民の多数派からは理解されなくとも、必要な部分をしっかりと守れるようであって欲しいのですが。

 

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実績よりも希望的観測がモノを言うようです

2009-07-20 21:57:51 | ニュース

比例は民主36%、自民15% 共同通信、電話世論調査(共同通信)

 共同通信社が18、19の両日、衆院選への有権者の関心度や政党支持の傾向を探るために実施した全国電話世論調査で、比例代表の投票先政党で民主党が36・2%に上り、15・6%だった自民党の2倍以上に達した。前回2005年衆院選の第1回トレンド調査では自民党が31・5%、民主党15・2%だったが、完全に逆転した形だ。ただ「まだ決めていない」の回答が34・7%あり、情勢が変化する可能性もある。

 東国原も賛成する議員定数削減には自民党以上に乗り気だったりするなど、民主党は民主党で自民党以上にポピュリズムに近いものを感じさせるのですが、世論調査はこのような結果でした。まぁ、今さら自民党というのも有り得ない話、そこで「自民か民主か」という二択に持ち込まれれば民主党に支持が流れるのも致し方ないのでしょう。比例の投票先ですら民主のダブルスコアですが、これが小選挙区の票ともなればどれだけ差が付くのか、「まだ決めていない」との回答が3割以上あると言えども、結果はほぼ見えてきた気がします。

実績より「今後の期待」で投票76% 朝日新聞世論調査(朝日新聞)

 衆院選で投票先を決めるときの判断材料について、朝日新聞社は郵送による世論調査を実施した。政党の「これまでの実績」と「これからの期待」では、「期待」を重視する人が76%と、「実績」の20%を圧倒した。投票した政党が政権を担当し、実績が期待外れだったとき、次の選挙では「別の政党に投票」が59%で、「同じ政党に投票」の24%を大きく上回った。

(中略)

 投票する政党や候補者を決めるとき、一番重要な判断材料を5項目から選んでもらうと、「政党のこれからの期待度」を挙げた人が47%で最も多かった。他は「政党のかかげる公約」19%、「候補者本人」16%、「政党のこれまでの実績」12%、「党首」3%だった。公約や党首など特定の要素で判断するより、それらもふまえて総合的にみた「期待度」を重視する姿勢がうかがえる。

 さて「民主党に投票する」と回答する人が自民党のそれを凌駕しているわけですが(朝日新聞調査ではなんと66:21だそうで)、そこで政党を選択する理由はと問われれば「政党のこれからの期待度」を挙げた人が47%に達したとのことです。一方で「政党のこれまでの実績」は僅かに12%だとか。たぶん、最近に限った傾向ではないでしょう。東京都知事選や東京都議会選からも明らかなように、「実績」は無視されます。それまで与党として積み上げてきた実績など、いざ選挙が始まればキレイに忘れ去られたではありませんか! うつくしい国の有権者は、その政党/議員が過去に何をやってきたかは問わない、恐るべき程の未来志向の持ち主なのでしょう。

 「実績」で政党への支持が判断されるのであれば、自民党政権はとっくに見限られていなければならなかったはずです。しかし「実績」を問う有権者はせいぜい1割程度、そこで自民党は行き詰まりを感じるたびに「党首の交代」で対応してきたわけです。看板を掛け替えることで「何かやってくれそうだ」という「これからの期待」に訴える、これで延命に成功してきたのは皆様ご存知の通りです。自民党内部にはこの期に及んで内閣改造を訴える議員もいたわけですが、「選挙で勝つ」ためには、それが今なお最適の手段だと理解していたのでしょうね。

 有権者の支持を繋ぎ止めておくためには、確固たる成果を挙げることよりも、より抽象的な「夢」を抱かせてやることの方が重要のようです。最も成功したのが小泉の「構造改革」という夢であることに異論はないでしょうけれど、安倍晋三の北朝鮮政策もまた、見方によっては成功だったのかも知れません。何の成果も挙げなかったけれど、それは支持者にとって大事なことではなかった、拉致被害者家族会などの支持団体が望んだのは「これからの期待」であり、「実績」を望んだのは蓮池氏だけだったのですから。

自民は賞味期限切れ…橋下知事一問一答(1)(読売新聞)

 --自民党の混乱をどう見ているか。

 多くの国民は「自民党にもう政権担当能力がない」と見ているだろう。いまのままでは、自民党は(政権党として)賞味期限が切れつつあるのだと思う。

 --原因は何か。

 党の組織も運営も、拡大する予算をみんなでぶんどり合戦をしていた高度成長時代のやり方を今も続けているからだ。もはや一定の国家水準に達したのだから、今は未来に向けてどんな方向に進むのかという道を作る時で、政治的な指導力が必要だ。トップの考えや価値観を反映させる組織にしないといけない。そう考えると、麻生首相はかわいそうに思える。日本型の議院内閣制と自民党が作り上げたいまの仕組みでは、政治的な指導力を発揮しろと言われても無理だろう。

 --政治指導力を発揮する仕組みが必要だと。

 政治が役所を動かし切れていない。直轄公共事業の負担金問題でも、ほとんどの国会議員が「この制度は廃止だ」と言っているのに国土交通省は「ゼロ回答」だった。その点、民主党が言うように、内閣と与党が一体になって官僚を指導する英国型の議院内閣制の手法で政権運営するという視点は絶対に必要になる。

 心情的には自民党に名残惜しさを感じているであろう橋下ですが、昨今は民主党寄りの態度を見せているフシもあります。機を見るに敏な彼のこと、やはり勝ち組に尻尾を振っておきたいのでしょうか。それもあるでしょうけれど、元より方向性としては自民よりも民主の方が近かったのかも知れません。「抵抗勢力」という言葉はもう使われなくなりましたが、何らかの形で「敵」を設定し、その悪い「敵」と戦うことで正義のヒーローたらんとする手法は健在です。それが橋下の場合は府の職員であり、霞ヶ関の省庁であったわけですが、鳩山民主の場合は「官僚」が敵役/悪役です(自民党の場合は「日教組」辺りが現在の主たる仮想敵なのでしょうけれど、党内の意思統一も不十分、功を奏しているとは……)。方向性も同じなら、敵視する対象も大半が重なるだけに、鳩山民主と橋下は相性が良さそうです。

 先の参議院選、都議会選と同じ事が次の衆議院選でも繰り返されるなら、つまり民主党に票が集中するのなら、自民党が敗退すると同時に、共産党などの左派政党もまた議席を減らすことでしょう。共産党が民主党のブレーキ役になれる可能性は残念ながら低いと思います。どんなに頑張っても、議席の数が足りなければ不可能なことも多いですから。そうなるとブレーキ役を担えそうなのは「抵抗勢力」なのですが、いかがなものでしょう。小泉時代に無惨な敗北を喫し、「カイカク」という名の破壊を許した官僚組織ですが、何とか踏ん張って行政の暴走を抑えてくれないですかね(現在の壊滅的状況を作り出したのが、鳩山の主張するような「官僚支配」なのか、それとも官僚や政治家を敵に見立てた行政の暴走の結果なのかはちゃんと考えるべき……もっとも「実績」はどうでもいいのでしょう)。

 もう一つ期待したい「抵抗勢力」は司法/裁判所です。ただ、これもブレーキ役として機能してきたとは言い難く、(国/地方含む)行政が憲法に反する権力を行使したときでも「憲法判断には踏み込まない」「行政には介入しない」と、三権分立の放棄を高らかに宣言してきた機関です。衆議院選の陰に隠れて忘れられがちですが、最高裁判事の信任投票も同時に行われますので、違憲か合憲か判断を避ける判事、行政を追認するだけの判事にはしっかり「×」をつけていきましょう。罷免に繋げられるほどの票は集まらないでしょうけれど、せめてもの抗議として。

 

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ジークフリートの死

2009-07-19 10:52:28 | 文芸欄

 ヘリオット・ワット大学(イギリス)の調査によると、ヘビメタのファンとクラシック音楽のファンには共通点が多いそうです。「どちらも創造的で穏やかだが社交的ではない」とか。逆に相違点としては「クラシック音楽のファンは自尊心が強く、ヘビメタのファンは自信に欠けている」そうです。ふむ、人生の負け組まっしぐらの現在こそヘビメタファンの私ですが、前途有望な学生時代はクラシックの方が好きでしたから、とりあえず私に関しては綺麗に当て嵌まるようです。ちなみに「インディーズ音楽のファンは自尊心に、ポップ音楽のファンは創造性にそれぞれ欠け、カントリーとウェスタン音楽のファンは勤勉で、ラップ音楽のファンは社交的な性格の持ち主」……という傾向が3万6000人を対象とした調査から浮かび上がったとか。

 それでまぁ、大学時代まではクラシックが好きだったわけです。歌モノが好きだったので特にオペラが好きだったのですが、しかるに気に入らないものもありました。何よりまず「演出家」が嫌いでしたね。演出家に対する世評も含めて。なにしろ演出家が作品を台無しにしてしまうことがしばしばで、演奏家には拍手、演出家にはブーイング、オペラでは珍しくない光景です。ところがそれは素人の反応とされ、評論家やちょっと通ぶった人は逆の反応を示したりします。ブーイングを浴びた演出家に対して「わかったフリ」をすることで、「モノのわかった自分」を演出するのがプロと半可通の嗜みだったりするのです。そんなわけで、上演を台無しにしてブーイングを浴びるような演出家ほど、その筋では大家と評されて立場が強かったり。

 もしかしたら「自分の演出によって作品全体を輝かせる」タイプよりも、「作品を利用して自分の演出をアピールする」タイプの方が、演出家本人の評価は高くなるのかもしれません。前者であれば、演奏家の評価を高めこそすれ、演出家の存在は陰に隠れがちですから。音を出さない演出家が脚光を浴びるためには、まず周りの足を引っ張るくらいのことが必要なのでしょう。そんなわけで、ダメな演出家ほど出世するわけです。

 オペラに限らないことかも知れませんが、ダメな演出の基本中の基本は「舞台を現代に置き換える」ですね。これはあまりにも使い古された手法ですが、演出家として名を挙げるための必須要件のようです。だから自己顕示欲の強い演出家ならば皆、判で押したように同じことをやります。せめてもうちょっとオリジナリティのある演出を、そう思わないでもないのですが、本当に独創的なものは排斥される、あくまで「個性的風」に止まらないと評価されないのはどこでも同じ事なのでしょう。

 ……で、「舞台を現代に置き換える」の標的にされる作曲家の№1はリヒャルト・ヴァーグナーでしょうか。割とファンタジーっぽい、神話や伝承をモチーフにした作品の多いヴァーグナーですが、舞台を現代に置き換えることでスケールダウンさせられてしまうことがしばしばです。神々の王がスーツ姿で部下の突き上げにオロオロされてもねぇ……

 ヴァーグナーの代表作と言えば、かの長大なる「ニーベルングの指輪」です。上演は4夜に及び、チャイコフスキーが「疲れた、私のような専門の音楽家でも疲れるのだから……」と評した超大作です。元の台本に忠実な演出もあれば、例によって舞台を現代に置き換える演出、物語のキーになる指輪を貨幣に見立てた演出、多々あるわけですが、ここは一つ「ジークフリートは何故死んだのか/不死でなくなったのか」を軸に新解釈を主張してみようと思います。

 台本では、指輪を狙う悪役によって背後から刺されてジークフリートは死亡します。正面からなら無敵だが、背後から襲われたから敗れた…… この「背後からの匕首」のイメージはドイツ社会にそれなりに浸透したようで、第一次大戦でのドイツの敗因をこれに結びつける人も多かったそうです。つまりユダヤ人や共産主義者が足を引っ張ったから、奴らがドイツ軍の背後から刃を突き立てたから負けたのだ、と。

 一方で、「ニーベルングの指輪」の元ネタである叙事詩の中には設定の異なるものもあります。ジークフリートは竜を殺して指輪を強奪するわけですが、その際に竜の血を全身に浴びたことで不死の肉体になった。ただし、体の一部が葉っぱで隠れていたため、一カ所だけ竜の血を浴びなかった部位が残ってしまった。その葉っぱで隠れていた部位を刺されたことで死んでしまう、と。やはり全裸で戦うべきなんでしょうね。草君だったら最後まで不死身でいられたでしょうに。

 そこで新解釈ですが、キーになるのは「近親相姦」です。ただその前に、なぜ「近親相姦」がタブーとされているのでしょうか。近親相姦が認められると一家の中で関係が完結してしまう、社会が広がらないからだ、そう考える人もいます。つまり近親相姦が許されないために、女性を外に出す、女性を外から迎え入れる必要が出てくる(上記は男系社会の場合、女系社会であれば男女が逆になります)、家族の外の人間としか結婚できないので、必然的に家族の外と関係を持つことになる、そうして社会が構築されるのだと。だから社会が形成されるためには、近親婚が否定されねばならないわけですね。

 一方で、神話の世界は濃密な近親相姦の世界です。父親と娘、母親と息子、兄弟同士や親戚同士など当たり前です。「ニーベルングの指輪」のヒーローであるジークフリートも同様、彼の両親は双子の兄と妹です。そしてジークフリート自身は伯母に当たるブリュンヒルデを娶るわけですが、これくらいは神話世界の住人なら当たり前の話なのです。

 しかるに、話が進むとジークフリートは他所の男から差し出された娘を受け取り、ブリュンヒルデをその男に引き渡してしまいます。同族内部の近親婚の関係を破棄して、外部の女性を迎え入れる、外部に女性を差し出したわけです。この瞬間に人間社会が構築され、神話世界が否定されたのではないでしょうか。近親相姦を止めて、よその家の女性と契ったことによってジークフリートは神話世界の住人から普通の人間になった、ゆえに不死ではなくなったのではないかと。……こういう路線で演出してみたらどうかとも思うわけですが、既に誰かやってますかね?

 

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