ワクチン敵視、背景に疎外感 「反対派」レッテル貼り危険―専門家「互いに尊重を」(時事通信)
企業や大学による職域接種が21日から本格化する新型コロナウイルスワクチン。普及が進む一方、インターネット交流サイト(SNS)上では接種への抗議をあおったり、デマを拡散したりする動きも強まる。専門家は「ワクチンへの不安や警戒感だけでなく、そうした気持ちを理解されない『疎外感』がある」と分析。「接種を受けたい人も受けたくない人も、互いの判断を尊重し合うべきだ」と訴える。
SNSでワクチンの危険性を呼び掛ける人たちの投稿には「接種すると遺伝子を組み換えられる」「不妊の原因になるとファイザー社が認めた」などのデマも交じる。「打つと5G電波で操られる」「体が磁力を帯びる」といった荒唐無稽な主張も見受けられる。
こうした投稿を嘲笑するユーザーも多いが、リスクコミュニケーションに詳しい土田昭司・関西大教授(安全心理学)は「『ワクチン反対派はおかしい』などと安易にラベリング(レッテル貼り)して突き放すことは、事態をさらに悪化させる」と危惧。「社会が不安に寄り添わず、親身に話を聞いてくれるのはカルト集団や陰謀論者だけ、という状況は非常に危険だ」と警告する。
こうした「リスクコミュニケーションの専門家」の主張はいつだって同じですけれど、彼らの一貫した主張が世の中に益をもたらしたかどうかについて私は大いに懐疑的です。曰く「接種を受けたい人も受けたくない人も、互いの判断を尊重し合うべきだ」とのことですが、ワクチンを接種しない人が増えることは社会的な感染リスクを増やすことであり、隣人の健康を脅かします。他人に危害を及ぼす行動への尊重を訴える人に良心はあるのでしょうか?
「ワクチン反対派はおかしい」――これは否定の余地のない客観的事実ですけれど、リスクコミュニケーションの専門家に言わせれば「レッテル貼り」なのだそうです。差別主義者を巡っても、こうした主張はよく聞かされるところですが、では差別的な言動や行動を繰り返す人をどう呼べばいいのか、事実無根の妄想に基づいてワクチンは危険だとデマを流す人をどう呼べばいいのか、首をかしげないでもありません。
2011年に東日本大震災が起こって、その中で原発事故も発生した際には、これまた非科学的な反原発デマが次から次へと創作されていきました。エセ科学に乗っ取る言動が風評被害を広めていく中で、科学コミュニケーションの専門家を称する人々が風評「加害者」に寄り添い、その尊重を求めていたことを鮮明に覚えています。しかし結果としてエセ科学の信奉者が考えを改めて科学を受け入れるようになった例を、私は見たことがないです。
著名人の中でリスクコミュニケーションの専門家の信条に最も近い行動をとってきたのは、トランプ前アメリカ大統領であったと言えます。トランプは差別主義者や陰謀論者の不安に寄り添い、親身に耳を傾けて対話を重ねることで、彼らの疎外感の解消に大いに尽力してきました。そうして差別主義者でも陰謀論者でも自己肯定感を持って前向きに生きられる社会を築いていったわけですが――事態が好転したのか悪化したのかは明白だと思います。
そもそも疎外感なんて、人間誰しも多かれ少なかれ抱えながら生きているものではないでしょうか。ワクチン反対派や差別主義者への尊重を呼びかけるコミュニケーション論者は、疎外感を言い訳に使っているだけです。問題は社会性や知性の欠如であって、その欠如を正しく評価し、問題ある言論が他人の生活や権利を脅かさないよう隔離・制限していくことこそが求められます。
WHOは2019年に「世界的な健康に対する脅威」の一つとしてワクチン忌避を挙げました。新型コロナウィルスが登場する以前からワクチン反対派は一定の勢力を有しており、予防接種率の低下によって本人の感染だけではなく周囲への感染拡大というリスクを招いていたわけです。新型コロナに関しても然りで、ワクチン摂取率が低ければ低いほど感染ルートは残される、予防できるはずの感染症に第三者が晒される機会は増えてしまいます。
イスラム教徒が豚肉を食べなくても学校教員が起立して君が代を歌わなくても私が忘年会に出席しなくとも、それが社会の危機を招き隣人の生活を脅かすことはありません。しかしワクチン接種は違います。医師の診断ではなく個人の信念によって接種を怠れば、その人自身が感染リスクに見舞われるだけではなく、感染の伝播者として他人に危害を加える可能性があるわけです。それは個人の自由で済まされるものではなく、公共の福祉への挑戦と言えます。
ヘイトスピーチに対して言論の自由を適用してしまうような社会であれば、ワクチン忌避に対しても同様の扱いになってしまうのかもしれません。言論の自由を謳歌する差別主義者の言動によって日々の生活を脅かされている人もいれば、ワクチンを接種しない隣人に病気をうつされる人もいることでしょう。それは一つの権利を保障するために別の権利を侵害する判断なのですが、どうにも我々の社会は無秩序な自由に重きを置きすぎているようです。
むしろ私などは、医療ネグレクトの方をもう少し心配すべきだと思いますね。保護者が自身の信仰や思想に基づき、子供に適切な医療を受けさせず健康状態を悪化させるケースは以前から少なからずあります。ワクチン接種に関しても、同じことは繰り返されることでしょう。親の信条のためにワクチンを受けられない子供も続出することが予想されます。こういうとき、毅然とした対応が取れるのか個人のエゴを尊重してしまうのか、問われるものがあるはずです。
宗教団体の研修会を発端とした麻疹集団発生事例(国立感染症研究所)
2019年1月7日, 三重県に対して他県から三重県内の成人の麻疹患者発生の情報提供があった。患者は麻疹様症状がありながら, 三重県内で開催された宗教団体の研修会に2018年12月23~30日までスタッフとして参加しており, 28日から発熱, 30日に発疹が出現していた。研修会への参加者は54名(うち20名は三重県外在住)であった。研修を主催した宗教団体は, 医薬に依存しない生活を基にした信仰生活を重んじているため, ワクチンを接種していない参加者が多く, 同日, 三重県内からも同じ研修会に参加していた二次感染患者の報告があり, これらの未接種者を中心に多数の麻疹患者が発生することが予想された。
2019年、三重県では麻疹の集団感染が発生しました。発端は医療を否定する宗教団体でしたが、ここから三次、四次と市中に感染が広まり異例の拡大となったわけです。感染は宗教団体の内部に止まることはなく、教団とは無縁の「たまたま近くにいただけ」の人にも及んでしまったのですが、新型コロナウィルスでも同じことは当然、起こりえます。感染リスクの高い人は、自身だけではなく周囲の人間にもまたリスクを負わせる存在なのです。
反社会的な主張や、それを擁護する主張を繰り広げるのも言論の自由ではあるのかも知れません。しかし良識あるメディアであろうとするのなら、その結果として公共の福祉がどのように害されるのか、同じ社会で生きている他の人々をいかに脅かすのか、そこもまた当然のこととして明記すべきであると言えます。