非国民通信

ノーモア・コイズミ

この党ぐらいしか

2013-06-30 13:32:44 | 政治・国際

「どんな問題でも自民と対決する」 共産・志位委員長(朝日新聞)

■志位和夫・共産党委員長 三つの点を伝えたい。第一は、国民の所得を増やして景気回復を図ること。大企業が抱えている260兆円の内部留保の一部を活用し、賃上げと非正規社員の正規社員化を図り、景気回復の突破口を開きたい。消費税増税には断固反対だ。

 第二は、原発ゼロの日本をつくりたい。原因の究明もされていない。15万人の方が避難されているなかでの再稼働や原発輸出は論外だ。再生可能エネルギーへの抜本的転換が必要だ。

 そして第三は、日本国憲法を守り、いかしたい。9条を変えて戦争する日本につくりかえることは断固反対。96条を変えて改憲のハードルを下げることにも反対だ。9条をいかした平和日本をつくりたい。どんな問題も自民党と対決し、抜本的対案を掲げてがんばりたい。(ニコニコ動画の党首討論で)

 

 明らかに自民党以下の政党も目立つ昨今、希少な野党として共産党の役割は重要度を増すように思うところ、先の東京都議会選では都民向けの政策ではなく国政批判が功を奏したのかエセ野党を下して3番手に舞い戻ったようですが、次なる参院選に向けてはどれほどのものでしょうか。私なぞは民主から自民に政権が変わって「良くなった/マシになった」部分については概ね評価していますけれど、ここで見出しに掲げられているように「どんな問題でも自民と対決する」と言われると、ちょっと身構えてしまいますね。

 改憲のハードルを下げる動きは私も懸念するところですが、比例定数を大幅に削減して小選挙区の比率を高めようとしてきた党=特定の政党による圧倒的多数の議席確保を容易にしようとしてきた党である民主党あたりには大いに警戒心を持っていたもので、それが定数削減には煮え切らない態度を続ける自民党に変わって、少しだけ安心していたりするわけです。まぁ、当面は政権に加わることはないであろう党の主張よりも、現在において与党である党の主張の方に専ら批判の矛先を向けるのは間違っていないのかも知れません。一部の野党の方がタチが悪いとしても、あくまで野党のこと、与党が毅然として暴論を退けていれば済む話ですから。

 原発に関しては、ある意味で共産党は「乗り遅れ」が目立っていた気もしますけれど、どうでしょうか。原発事故から2ヶ月後、2011年の5月に全国でも珍しい共産党系の首長である石巻市の亀山紘氏は「安全対策をした上で再開する方向で考える必要がある」と女川原発の運転再開を容認する考えを述べていました。党の方針に真っ向から反対する――つもりではなく、その当時は「震災前に戻す」ことが重視され、決して「脱原発が第一」ではなかったように記憶しています。原発を巡ってあらぬ恐怖を煽り立てる、そうした振る舞いには躊躇するだけの良心が当時の共産党にはあったように思ったのですが、この頃は微妙ですね。

 「原因の究明もされていない」などと志位氏は述べたようですが、そう信じたい人にしか通じない言い分にも聞こえます。もちろん何から何まで100%解明されているわけではありませんが、しかるに「原因の究明もされていない」とは強弁にも程があるのではないでしょうか。0か100か、All or Nothing、100%完璧な「究明」が完了していなければ何も分かっていないかのごとくに扱う、その辺は南京事件や従軍慰安婦問題における犠牲者の存在に対する歴史修正主義者の屁理屈と変わりがありません。これでは全くの「反対のための反対」と一蹴されても仕方がないと思います。他にも原発再稼働「しない」ことのデメリットや再生可能エネルギーへの抜本的転換という自己満足のために何が犠牲にされているのか、電力というインフラの安定供給や化石燃料を買い漁ること、温暖化ガスの排出量増大と言った目下の問題への視線が欠けていると言いますか、まぁ無責任な物言いだなとも。

参考、日本に適した解決策として法人税増税を提案したい

 内部留保については上記リンク先でも触れましたように、GDPが横ばい、雇用者報酬は漸減する中で上昇を続けている、とりわけ「非金融法人の現金・預金資産」は安定して高い伸びを続けており、「内部留保の牽引役は現金(預金)である」「内部留保は給与に回せる金である」ことが分かります。その点では内部留保の活用は悪くないことなのですが、ただ内部留保の「偏在」がどこまで考慮されているのやら。なんだかんだ言って今なお預金大国である日本ですけれど、一方で「預金0」の世帯も少なくありません。内部留保も然り、総計が国の経済規模を大きく上回る勢いで増え続ける中、内部留保額の格差も広がっているのではないでしょうか。

 メディア上で話題を提供するのは専ら大企業でも、中小に分類されている企業で働く人の方が多い、とかく大企業志向とレッテルを貼られる新卒者だって当たり前のように中小企業に就職して、そこで働いているのが日本です。どこの企業にも遍く内部留保が積み上げられているのなら話は簡単なのですが、幸か不幸かそうではない、内部留保など無縁などころか、最低賃金レベルで従業員を酷使したり、外国人研修生/実習生を強制労働させることで事業を存続させているような類だって珍しくないわけです。そういう事業者に、どこまで踏み込めるかという点で共産党の労働政策には煮え切らないものを私は感じています。弱い労働者の味方でもある一方で、弱い企業に肩入れする存在でもある、しかしその弱い事業者こそ最悪の雇用主であるケースも多々あるはず、「下請けだから~」みたいな定番の言い訳に終始せず、労働者側の犠牲の上で経営が成り立っているような企業を市場から退場させる覚悟があるのか、それを私は――共産党に限らず――問いたいわけです。

 

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政治とスクールカースト的なもの

2013-06-28 00:07:03 | 社会

 スクールカーストという言葉がありまして、この辺は今さら説明するまでもないかも知れませんが、要するにカースト制度のごとき上下の関係が、学校内に存在もしくは自然発生しているわけです。京都大学の総長が下駄を履かせたがっているような上位カーストもいれば、勉強ができても評価されない下位カーストもいたり、まぁ異性との交友関係が盛んであったり運動が得意であったりオサレに熱心であったり、概ねそういう基準で自然と上下関係ができる、上位カーストが何となく学校(クラス)の雰囲気を支配するみたいなところがあると言ったところでしょうか。

 ……で、先日は『教室内カースト(光文社新書、著:鈴木翔)』という本を読みました。私がスクールカースト概念についてグダグダ説明しても二番煎じ以下ですので、興味があれば上記をお読みいただければと思います。それはさておき、私自身もスクールカーストの存在は何となく感じていたもので、『教室内カースト』はこの「何となく」の印象に裏付けを与えてくれるものでしたが、残念ながら教員サイドから見たスクールカースト概念に関しては数字的な裏付けに乏しく、書かれていることは「確かにそうだよね」と頷けるものの、第三者への説得力としてはどうなんだろうと思いました。しかるに、後書きによると学校の先生は「あまり多くを語ろうとしない」「インタビューを途中で断られたりすることも」「(掲載の)許可がおりませんでした」とのこと。なるほど、いかにも学校の先生らしい。

 元から何となく感じていたものもあれば、なるほど言われてみればそうだったと気づかされたこともあります。『教室内カースト』では生徒たちがスクールカーストを受け入れているようでいて、その実は上位カーストの生徒に内心では反感を持っていたりする様子も伝えられているわけです。中位もしくは下位カーストの生徒はクラスの「空気」を創り出す上位カーストの振る舞いに表向きは調子を合わせている、公然と反発したりはしないものの、実際に意見を聞いてみると上位カーストの生徒を嫌っている人が少なくない、表面上はクラスのリーダーであり中心的存在である上位カーストが、意外に嫌われ者でもあったりする――過去を振り返ると結構、思い当たるフシがありますね。

 一方で教員サイドは上位カーストに対してひたすら肯定的な様子が伝えられています。むしろ上位カーストとの協調的な関係によってクラスを統治しようと、そういう手法をとる教師は多いのかも知れません。(表面上は)クラスの雰囲気を左右する上位カーストと友達になることで、教師もまた上位カーストの一員になる、そうして教師もまたクラスの空気を創り出す権力を手にする、そういう手口です。しばしば、いじめを放置していたり、あるいは積極的に荷担している教員がいるわけですが、このタイプの教員は総じて上位カーストと仲が良く、「人気のある先生」だったりするのではないかという気もしますね。下位カーストの生徒をかばい立てして上位カーストの生徒と対立すれば、その教師は教室での地位を失いかねないわけですし。

 『教室内カースト』にて伝えられる教員は総じてスクールカーストの上下を能力の上下と捉え、「上」の生徒を優遇することに躊躇いを見せません。京都大学総長は「受験勉強ばかりでなく~音楽とか、恋愛始め人間関係の葛藤とか、幅広い経験をしてきた人に入試のバリアを少し下げる」と宣ったわけですが(参考)、これは教育者サイドにおけるスクールカースト肯定の当然の帰結と言えるでしょうか。スクールカーストで「上」になりやすいタイプの人間を肯定的に評価する、入試でも下駄を履かせてやりたい、そうした志向が我が国の教育者には少なからず浸透しているように思います。これは差別とも言えますが、「能力がある」という位置づけによって正当化してしまう傾向もまたありそうです。

参考、現代のレイシズムとしての能力主義

 ただ「スクールカースト」が学校という、とりわけ学力テストの対象になるような類の「勉強」よりも人格形成の方に熱心な日本の学校という特殊空間に固有なものかと問われれば、必ずしもそうではないのではないかとも。確かに学校ならではの問題は多々あって、それが進学塾や予備校では格段に軽微であったりする、それだけに学校空間の特殊性に注目する論者が多いのも頷けるのですが、でも世論とりわけメディア上の言論やネット世論、及び政治家の振るまいにもまた、スクールカーストと似たようなノリが見られるのではないかと、そんな気もするのです。

 つまりは世論でもスクールカースト上位勢よろしく、その場の「空気」を支配している集団がいるのではないでしょうか。そしてネット上やメディア上では非常に勢いがあって、あたかもその人々の声が「民意」であり国民の総意であるかのごとき雰囲気が作られている、表だって反論しにくい空気が生まれていることがあると思うわけです。しかるに、声の大きさで空気を支配している、その場を代表しているかのごとくに振る舞っている人が世間で好意的に迎えられているかと言えば甚だ微妙なところで、公然と反論されることこそ少ない一方で実は冷ややかな視線を向けられているところもあるはずです。極右層然り、反原発然り、ともすると勢いがあるようでいながら、実際の選挙結果を見てみると意外や孤立した集団であることが明るみに出るようなケースも珍しくありません。

 しかるに政治家はスクールカーストにおける教師の役割を果たしがちで、「上位」の人々に阿ろうとする手合いが後を絶たないわけです。一部の声の大きい人、ネット上や週刊誌上、テレビ番組で幅を利かせている人あるいは論調が存在する中、そこに同調してみせることで自身もまた「上位」の一員として振る舞う政治家も多いのではないでしょうか。幅を利かせている人々(論調)をこそ国民の意思とばかりに勘違いして、しばしば選挙で思惑とは異なる結果に直面するわけですね。上位カーストの君臨に敢えて反抗しないけれども必ずしも肯定的ではない生徒も少なくないように、有権者もまたネットやメディアを支配する言論に内心では今一つ好意的ではなかったりする、しかし教師よろしく政治家は一見すると周りから支持されていそうな人々と手を組もうとする、そうしたズレはスクールカースト概念でも我が国の政治でも共通して見られるものです。

 

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まぁ妥当な結果だと思います

2013-06-25 22:41:32 | 政治・国際

「アベノミクスは都議選の課題ではない」山口・公明代表(朝日新聞)

■山口那津男・公明党代表

 東京都議選では都政、都民の関心とずれた主張をしている人たちもいる。具体的な課題に対する答えが大事なのであって、アベノミクスがどうのこうのと(批判を)言うのは、参院選が近いことの背景としての説明はあるとしても、それ自体は都議選の課題ではない。その点では都民のニーズとずれたやりとりが横行している。公明党は都民のニーズがどこにあるかをしっかり捉えて訴え、23議席を確保した上で、友党とともに安定的な都政を立て直していきたい。(記者会見で)

 

 以上は1週間前の報道からですが、結果を振り返りながら、この公明党代表の指摘を考えて欲しいと思います。公明党が「都民のニーズがどこにあるかをしっかり捉え」ているかどうかはさておくとして、前半から中盤にかけての主張は都民ならずとも地方自治体の選挙で投票権を持つ全ての人々が心得ておくべきものではないでしょうか。その辺は先週の段階でも触れたことですが、あくまで地方自治体の選挙は当該の地方自治体の議員を選ぶもの、国政選挙の代理ではないわけです。メディアやインターネット上の風聞を通して知る国会での勢力図やイメージに基づいてではなく、まず地元での活動ぶりを鑑みて投票されるべきものではないかと。

 まぁ折に触れ書いてきたことですけれど現実の「世界」よりも頭の中の「世界観」を守ることの方に熱心な人がいて、そうした人にとってはアベノミクス云々こそ自分たちが住む自治体の行政以上に関心の対象となるのかも知れません。経済成長が格差を拡大させるという現実とは矛盾した世界観を信奉する人々にとっては、経済成長へと向かうことで国民の暮らしが上向いてしまっては困る、自らの世界観が壊されてしまうわけです。他にも豊かさは汗水垂らして得られるものとモノづくり信仰から抜け出せない人は、あるいは改革/規制緩和こそが絶対の必要事項なのだと説法してきた人々にとっては、金回りを良くする――すなわち金融的な政策で景気が上向いてしまっては、やはり己の世界観が壊されてしまうことになります。国民の生活ではなく己の世界観を守るために「アベノミクス」と闘っていた人が多々いるのではないでしょうか。

 地方議員はムダ、議員定数を削減せよとの声も大きいところですが、さてどれだけの人が地方議員の活動を見ているのかと疑問に思うわけです。今回の都議選も、随分と投票率が低かったと伝えられています。その分だけ得票に占める組織票の比率も上がるのですが、良いのやら悪いのやら。メディアを通して知る遠く離れた国会でのイメージに基づいて地方自治体の選挙に投票されるより、曲がりなりにも政党と関係が深く一定の理解がある組織によって投票された方が、まだしも選挙として機能していると考えられないでもありません。地方の議員をムダという前に、自分の地元の議員の活動ぶりや地元議会での勢力図を把握している人がどれだけいるのか、地元議員を知らずして国会の縮小図として投票先が決められてしまって良いのか、と。それはもう地元の問題を具体的に語ると、別の地域に住む人にとってはわかりにくいもの、どうでも良いものになってしまいがちではあります。とはいえ、国政選挙ではなく自治体の選挙なのですから。

 ちなみに、先月のエントリで取り上げました私の勤務先の最寄り駅周辺で毎日のように演説している民主党議員はめでたく落選しました。私はあくまで千葉都民(ちなみに同日、千葉県の船橋――野田元総理の選挙区です!――市長選では自民党と民主党が仲良く手を携えて推薦した松戸氏が当選しましたとさ)ですが、本当にダメな人が議席を失って良かったと思います。そして大きく議席を減らした民主党に代って、共産党が第3党にまさかの躍進です。アベノミクス批判の受け皿が云々とも言われるところ、まぁデフレ志向、反経済成長という点で自民と民主は対立軸がある一方、次の参院選で自民党から出馬予定のワタミ会長を都知事候補に擁立していたのは他ならぬ民主党であったりするなど、アベノミクスの最も懸念される部分では相通じる同士ですからね。ほぼ全面的に反対色の強い共産党の方が、わかりやすかったのかも知れません。共産党も専ら「国政向け」のアピールが目立った印象ですけれど、当選した個々の候補の主張はどこまで浸透していたのやら。ともあれ僅かながらも久々に野党が議席を増やしたので、今後は都議会も幾分かは緊張感が出てくることに期待すべきでしょうか。

 

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6/25
自民と民主の相乗りで当選した松戸市長の選挙区をなにやら勘違いしていたのを訂正しました。
自民党との政策提携に熱心だった元総理のお膝元でした。

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危険を説く人ほど危険を招いている、と思う

2013-06-23 12:02:58 | 社会

 風疹の感染者数が増加しているそうです。運用に谷間があって、ワクチン接種を受けていない人が結構いるのだとか。そして先日は、子宮頸がんワクチン接種を「奨めるのをやめる」と厚労省が勧告したわけです。ワクチン接種による副作用を訴える人も、メディア上で取り上げられる機会が多いところですけれど、実際はどうなのでしょう。まず問われるべきものの一つとして「現れた症状とワクチン接種との因果関係」が挙げられますね。例えばタミフルで異常行動云々も一時期は騒がれましたが、結局のところ万を超えるインフルエンザ感染者の中には、タミフルを服用せずとも熱に浮かされて奇怪な行動に出る人は一定数いるものです。そこで異常行動の原因をタミフルと断定するのは妥当でしょうか、それとも単なる早とちりでしょうか。子宮頸がんワクチンの「副作用」もまた然り。むしろ安易に「子宮頸がんワクチンが原因」と確信してしまうことが、他にあるかも知れない原因を見過ごす結果になるのではと危惧しないでもありません。

 そしてもう一つ問われるべきは、ワクチンを接種「した」場合のリスクと「しなかった」場合のリスクですね。希にある(かも知れない)副作用のリスクと、子宮頸がんを患うリスクの増大と、どちらを優先的に避けなければならないのか、リスクの軽重を計って、より重大なリスクの方を避けるのが賢明と言えます。しかるにリスクを比較することを避ける、むしろ特定のリスクだけを槍玉に挙げてリスクを比較させまいとする、特定のリスクだけを際限なく誇張しては国民を脅しつける、そういうやり口を好む人が、残念ながら我々の社会では幅を利かせているわけです。ワクチン接種もそうですし、放射線や被曝を巡る対応もまた同様、リスクの多寡を天稟にかけて安全な方を選ぼうとする理性は排され、恐怖を煽る声が政界をも突き動かしてきたのではないでしょうか。

 2010年に尖閣諸島周辺で中国漁船と海上保安庁の巡視船が衝突するなんて事故がありました。そこで海保の職員が死亡した、中国漁船によって殺されたのだと、まことしやかに語る人が少なからずいたわけです。もちろんこれは、ある種の人々の願望であり純然たる妄想の産物に過ぎませんが、続く2011年の原発事故絡みではどうなったでしょう。これまた被曝によって福島では続々と人が死んでいると触れて回った人も多々いました。それもまた妄想の産物に過ぎないことは今さら繰り返すまでもありませんけれど、この手の願望を持つ人は極右層に限らない、憎き「敵」による被害者を捏造することに躊躇いを持たない人は幅広くいるということです。

 「中国漁船との衝突事故で死亡した海保職員などいない」と明言すれば、ある種の人は怒り出すのかも知れません。そして先日は「福島第1原発事故による死者が出ている状況ではない」と言った政治家が囂々たる非難を浴びていました。非難の中には真っ当なものもあれば、自らの世界観を守るために憤っている声もまたあったように思います。もちろん原発事故の直接的な――すなわち放射線被曝等による死者は一人も出ていません。喜ばしいことです。原発事故による死者は出ていません。しかし、憎き「敵」の手による犠牲者の数を大きくカウントしたがっている人もまたいるわけです。

 もちろん、原発事故の結果として避難生活を余儀なくされたり、風評被害を被ったり謂われなき差別に晒される中で死を迎えてしまった人は、残念ながら多々います。「原発事故による死者が出ている状況ではない」という決して間違ってはいない発言に対して、上記のような「犠牲者」への配慮が欠けているとの批判は、あってしかるべきでしょうか。もっとも、それは原発(事故)の不可避の犠牲者だったのか、それとも別の何か余計な要因で困窮や忍従を強いられているのか、この辺りが私には気になるのです。

 一つには冒頭から述べてきたリスク比較が行われたのかどうかです。住民の居住の権利を行政が一方的に制限する、このような決断には最大限の慎重さが求められるはずですが、放射線(被曝)のリスクだけを現実から大きくかけ離れたところまで極大視する一方、「居住地から引きはがす」という重大なリスクを負わせる決断を、あまりにも安易に下してはいなかっただろうかと、そこは反省が求められるように思います。あるかないかすら判断しようがない水準のリスクを避けるために、明白に住民の生活を脅かす決定(事実上の強制移住)を押しつけるのは明らかに愚かなことです。一時的なものはさておき長期的な避難区域の設定は、もっとバランスを考えた上で決められなければならなかったでしょう。

 そして妄想まみれの放射能論に基づいて「実害がある」と言い張っては風評被害を広めて回った人たち、ピカの毒が伝染する云々とばかりに福島及び東北の産品はおろか出身者までを忌避の対象であるかのように語ってきた人々、宮城や岩手の震災ガレキの受け入れにまで反対しては、東北に纏わるものは何でも危険であるかのごとき誤解と偏見を広めて回った輩などなど、こうした人々やメディアもまた、亡くなった人々の死に対して責任を問われるべきではないかと思うわけです。原発事故の犠牲者と言うよりも、原発事故をダシにして下らない空騒ぎに興じてきた連中の犠牲者こそ存在するのだと私は思います。

 

福島での児童交流企画に抗議続々 主催側「安全と判断」(朝日新聞)

 福島大の教授や学生団体「福島大災害ボランティアセンター」が計画している「集まれ! ふくしま子ども大使」。子どもたちに東日本大震災や原発事故と向き合ってもらうのが狙いで、対象は小学4~6年生。全国から30人、福島県内から15人を募り、8月16~19日に福島県猪苗代町のホテルに滞在。同町は福島第一原発から約80キロ離れている。原発事故の避難者が暮らす会津若松市の仮設住宅を訪問したり、北塩原村の湖で交流したりする。

 趣旨に賛同した熊本学園大も九州の小学生4人を募集した。11日に報じられると、窓口役の講師のもとに応募したいという連絡が数件あった。ところが、同夕ごろから抗議の電話がかかりだした。フェイスブックやツイッターを確認したところ、「熊本学園大に抗議のメールや電話を」「子どもを被曝(ひばく)させるな」といった書き込みがみられた。

(中略)

 企画した福島大の鈴木典夫教授(52)によると、原子力規制委員会や自治体が公表している放射線量や福島県による土壌汚染の調査結果だけでなく、ホテルやバーベキューの予定場所などを大学の研究用の線量計で独自に測り、安全と判断したという。ホテルのそばにある中学校の19日現在の空間放射線量は、同委の公表数値では毎時0・102マイクロシーベルト(国の除染基準は同0・23マイクロシーベルト)。独自測定ではホテル内は同0・04~0・05マイクロシーベルトだったという。

(中略)

 一方、ブログで今回の企画に触れている「放射能防御プロジェクト」の発起人木下黄太さんは「多少でも被曝するわけで、子どもの事を考えたらこういうことはしない」と批判している。

 

 ……で、こんなことすらあるわけです。原発事故から2年以上が経過しても、何も学ぼうとしない人はいるのでしょう。福島と言うだけで危険だと、そう印象づけることで風評被害を広めたがっている人は今なお意気盛んです。この引用元である朝日新聞自体もタチが悪いと言いますか、木下黄太なんぞを登場させています。両論併記というのは決して、異論を唱えている人であれば誰でもOKというわけではないと思うのですが、朝日の良識とはそんなものなのでしょう。外国人差別を巡る問題でレイシスト――例えば桜井誠なる通名で活動している人などの主張を何の注釈もなしにそのまま載せるのと大して変わりません。

 新聞なのですから、単に特定論者の主張だけではなく事実関係くらいも併せて書かなければ、読者に誤解を与えるばかりです。まぁ明白に嘘を書かないまでも、敢えて必要な情報を伏せておくことで読者をミスリードしようとするのはメディアの常なのかも知れません(朝日新聞は甲状腺等価線量と実効線量を意図的に混同させては読者に謝った印象を与え続けてきた前科者です!)。デマイエローこと木下黄太は「多少でも被曝する」などと語り朝日新聞はそれを垂れ流しにしていますけれど、福島は猪苗代や会津若松に短期滞在することで想定される被曝量なんて、むしろ飛行機で雲の上に出て浴びる放射線の方を心配した方がマシなレベルなわけです。しかし、現地で実測された放射線量の「低さ」の持つ意味は報道の外に置かれています。

 あるいは国会議事堂見学などどうでしょう。国会議事堂の外壁は花崗岩であり、これは結構な放射能があります。週刊ポストの計測によると国会議事堂の外壁付近では0.29マイクロシーベルトだったとのこと、上記福島での計測結果と比べてみてください。むしろ国会議事堂見学の方が、子供は被曝するのではないでしょうか。もし木下黄太が、小学生の国会議事堂見学を止めさせようと活動していたり、あるいは御影石が建ち並ぶ霊園への墓参りを危険視していたり、あるいは温泉には近寄らせない、バナナは食べさせないなどの徹底ぶりであるなら一応の筋は通るのかも知れません。しかし、ことさらに福島を危険な地域であるかのごとくに見せかけようとしている、そうした言動を繰り返しているのなら、それはやはり福島近辺の住民の生活を脅かすものとして相応の非難があってしかるべき、氏の言動を何の留保もなく全国に広めようとする朝日新聞もまた責任を問われるべきだ思われます。

 

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もうオッサンなので時代に付いていけません

2013-06-21 00:02:20 | 編集雑記・小ネタ

 さて私は政治家であれば若手ともてはやされる年齢である一方、新たに就職先(転職先)を探そうともなれば賞味期限切れとして扱われる、そんな年齢であったりします。正社員であったとしても「すぐに辞める」と嘆かれる年代を通り越して、逆にリストラの標的にされる人もチラホラ現れる、そんな齢に突入しつつあるわけです。このもはや若者時代を過ぎ去って久しい自分が会社でつとに感じるのは「若い世代のPCスキルが低くて嘆かわしい」……ってところでしょうか。

 経済誌などフィクションの中ではPCをマトモに使えない中高年社員が悪罵と嘲笑の対象になっていたりもするものですけれど、長らく働いていれば業務で必要な機能は一通り理解している年配の社員が普通の一方で、何十倍もの競争を勝ち抜いて採用されたはずの新入社員の中にはPCの操作もおぼつかない人が多かったりして、まぁ人それぞれなのですが、スマートフォンやタブレット専門でPCはマトモに触ったことがない、個人所有しておらず限られた場面でしか使用したことがない人も少なくないようです。そもそもPCの出荷台数が右肩下がり、タブレット系端末の出荷数に脅かされる時代ですから、そういうものなのかも知れません。

 もう10年近く昔のこととなってしまうのが恐ろしいのですが、秋葉原でサラリーマンをやっていた頃もありました。派遣社員の今より薄給の正社員です。それはさておき、当時は珍しかったタブレットPCの展示販売もやっていたわけです。「他で売ってないから」という理由で取扱品目の一つに加わっていたのですけれど、「他で売っていない」にもかかわらず、売れませんでした。タブレット端末を常時在庫しているのは我が社くらい――とアピールする上の人も尻目に、埃を被るばかりだったのです。まぁタブレットPCなんて、高いばかりで使い勝手も限られる、かなり特殊な用途向けと言わざるを得ませんでしたから。

 ……で、そのタブレット端末の使い勝手の悪さや割高感(Kindle FireとNexusはともかく)は今も全く変わっていないように私には思われるのですけれど(PCでは簡単なことがタブレットでは著しく困難で、触っているとイライラします)、それがマイクロソフトやインテルにすら危機感を抱かせる存在に育っているのですから、世の中は何が起こるか分かりません。ジョブズという、別に新しくも何ともないものを画期的な新製品であるかのごとくに見せかける天才の偉大さを思い知るところでしょうか。今はPCを使えない若者に苦笑いしていられても、そのうちタブレット端末を相手に悪戦苦闘している自分のような古いPC世代が老害と馬鹿にされる日がいずれは訪れるのかも知れません。

 現に今の勤務先ではゴミのようなモニタとゴミのような入力デバイスとゴミのようなPCしか支給しない一方で、何に使うのか当人も思案しかねているままタブレット端末が一部の社員に支給されていたりもするのですが、私は感性が古いので時代の流れに付いていけません。会社としては、時代に乗り遅れるなということなのでしょう。その金でマトモなPCを買って欲しい、標準のIMEではなくATOKでも買えば業務効率は上がる、もっと高解像度のモニタを買ってくれれば作業効率は上がるだろうと苛立つところ、でもたぶん、私の頭が古いのだと思います。PCしか使えずタブレットを使いこなせない老兵は去るのみです。

 

 Windowsで言えば、私はVISTAが好きです。XPというレガシーを過去のものとするにふさわしい、進取の気風に溢れた良いOSでした。それが7では随分と設計思想は保守的に、まぁ次で大きく前進できるかと思いきや、タブレットPCとの接近を試みた云々と、なんだか大昔のCompaqのPCに入っていたTabWorksを彷彿とさせる古くさいデザインの新OSが登場したのですからガッカリです。内部はそれなりに進化しているのでしょうけれど、角張ったロゴや単色を多用した貧相なデザイン、マルチタスクよりもシングルタスクへ退行するかのごときインターフェースなどなど、こうも乗り換える意欲が湧かないのは久しぶりと……

 豊富なリソースを余すところなく活用しようとする考え方と、限られたリソースでやりくりしようという考え方があるとしましょう。VISTAは、間違いなく前者でした。新しく市場に登場したデバイスや向上したスペックに対応すべく、その性能をフルに引き出せるよう作られた「未来を見ている」OSと言えます。ところが7からは後者すなわち「限られたリソースでやりくり」へと重点が移り、8に至るや「後ろに引きずられた」印象も拭えない、まぁニーズとしてはそっちの方が大きいのかも知れませんが、新しい物好きとしては魅力を感じにくい方向へと進んでいった気がします。

 このリソース論で言うと、興味深いものとして「親指シフトキーボード」なんてのがありました。実質的には富士通の独自規格で、今でも富士通がボッタクリ価格で密かに売っていたりしますが、要するに通常のキーボードに加えて親指で押すためのキーがあって、この親指用キーとの組み合わせを使って文字入力時の打鍵数を最小化できる、濁音、半濁音すら一回の打鍵で入力できる優れものです。習得できれば通常のキーボードよりも高速での入力が可能になるため愛好者も一部に少なくありません。普通のタイピングでは出番の少ない親指もフルに活用できれば能率も上がりますから。

 まぁ、両手併せて10本の指が自在に動くのである限り、親指シフトは優れた入力方式であったと言えるでしょう。しかし同時押しを多用する仕組みは、何らかの事情で10本の指をフルに活用できない人にとっては「優しくない」入力方式であったとも言えます。Windows VISTAも力不足のPCにとっては優しくないOSでした。「豊富なリソースを活用」タイプは、ことPC周りに限ってはウケがよろしくない、少ない指、あるいは一本の指だけでも入力できるような方式の方が汎用性は高い、OSも貧弱なPCやタブレット端末での動作を視野に入れた方が訴求範囲が広い、「限られたリソースでやりくり」型が選ばれるようです。

 

 ちなみに私は、マジックテープが好きです。あれはボタンやヒモのような無駄な引っかかりもなければ微調整も柔軟に可能、手袋を嵌めたままの手でも容易に扱える、耐久性にも秀でており、実に良いものです。財布はさておき、コートもマジックテープ、革靴以外の靴も私はマジックテープの付いている奴を愛用しています。ケーブルをまとめるのにもマジックテープは大活躍ですね。幸いにして手指は自由に動く私にとってだけではなく、親指シフトキーボードでは困るような人にとってもマジックテープは簡単に着脱が可能、誰にでも優しく機能性に優れたマジックテープはユニバーサルデザインの模範です。

 そんな素晴らしいマジックテープですが、一部ではウケがよろしくない。まぁ、その辺は人それぞれです。もう少し若ければ女の子ウケを慮ってマジックテープを隠していたところかも知れませんが、この頃はさっぱり気にならなくなりました。むしろバリバリという音に勇気が溢れてきます。女の子は寄ってきません。ちょっと面倒くさくて機能性が低い方がオサレとしては評価されるところもあるのでしょうか。たぶん、私が一本の指でチマチマ操作するタブレット端末や、「情報量は少なく」「文字は大きく」「ただ縦(横)方向に並べただけ」のスマートフォン向けにリニューアルされたwebサイトに感じる「かっこ悪さ」と似たようなものを、世間の人々はマジックテープに対して感じているのではないかなとも思います。

 

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偉くなる女性が増えたなら

2013-06-18 21:53:05 | 社会

 経済成長戦略の一つとして「女性の活用」みたいなことが言われているわけです。これって、どうなんでしょうね。あたかも女性の登用が増えれば経済も活性化するみたいな、そんな暗黙の了解が存在しているようにも見えますが、逆なのではないかとも。日本とは違って経済が成長してきた国で管理職への女性の起用が多いとしても、その因果関係をどう見るべきでしょうか。女性を労働力として活用したから経済が成長したのか、それとも経済が成長して労働力確保の必要に迫られ、性別を問うている余裕がなくなったから女性の社会進出が進んだのか、私には後者の方が納得がいきます。

 日本は空前の労働力余剰の状態にあるわけで、だからこそ雇用側が圧倒的に強くなる、簡単に代わりを見つけられるからこそ使い捨ての雇用も増える、代わりがいくらでもいるからこそ安心して社員を使い潰せるのです。いまだに性別によって選り好みされるのもまた、買い手市場で採用側の選り取り見取りの状態だからと言えます。本当に労働力が不足しているのなら代わりは容易に見つからない、手元にいる従業員を大事に確保しておかなければならなくなる、そうそう選り好み魅していられなくなる――性別を限定して選んでもいられなくなるはずです。

 労働力余剰の日本で女性の就業希望者が増えると、ますます以て買い手市場に拍車がかかる、雇用を巡る競争は激化の一途を辿るものと予測されます。男も女も限られた椅子に群がることで、人を採用する側の立場は強くなり、より一層の労働者の使い捨てが容易になることもあるでしょうか。職があるだけでもマシな方とばかりに、悪質な事業者の元にも求職者が殺到、かくしてマトモに給料を払ったら事業を存続できないような企業でも人員の確保が進み、不採算企業は延命され、経済は一層の負のサイクルへ……みたいな最悪のシナリオもあり得ます。

 逆に景気が良くなって中身のある求人が就業希望者を上回るようになれば、採用側は近年のような選別をしていては労働者確保が難しくなりますので、必然的に考えを改めることを強いられるでしょう。男性ばかりを対象としていては人員不足に陥ることを免れない、性別を問わない抜擢をしないと人材が足りなくなる、そういう状況を作ることが求められますね。女性の活用で経済成長ではなく、経済成長で女性の活用の方がおそらくは正しい、日本のビジネス界における男女格差を解消するためにも経済成長を目指すのだと、そう説くのが良いのではないかなと思うところです。

 

日清食品HDの過酷な無人島サバイバル研修「骨太の幹部を育てるため」(産経新聞)

 無人島で3日間のサバイバル生活-。エリート社員を対象にこんなユニーク研修を実践する企業がある。チキンラーメンでおなじみの日清食品ホールディングスだ。私物はすべて没収され、その代わり、チキンラーメン3食分などわずかな食材のみが支給される。いずれも調理しなければならず、そのままでは食べられないものばかりだ。なぜ、こんな苛酷な研修を課すのだろうか…。

 平成24年9月、瀬戸内海に浮かぶ無人島。同社に務める40歳前後の男性社員17人が、3日間のサバイバル研修に挑んだ。

 彼らは、同社で新任管理職(課長職)に抜擢(ばってき)されたエリート社員たち。「若手管理職の心身を鍛える」のが目的で、15年から無人島や山などでの研修を取り入れている。

 

 男性に比べてずっと少数ながら、女性でも政界や財界で活躍している人がいて、そういう人を見るにつれ、良くも悪くも男女は関係ないと痛感させられます。女性の閣僚でも女性の社長でもろくな連中がいません。海外に目を移してもサッチャーやメルケルみたいな糞がふんぞり返ってきたわけです。日本の「権力者」には女性の比率が著しく低いな、差別だと言われても仕方がないだろうなとは思いますが、そこで女性の登用が増えれば何かが良くなるかと問われれば、決してそんなことはないだろう、男でも女でも変わるまいとも思います。男女共同参画云々は、言われるほど社会全体への好影響はないだろうとも。

 ですが、ここで引用した日清食品のケースを見るとどうでしょう。今年に限らず以前から世間の注目を集めていたもので、いかにも日本的な実務軽視で精神論優位の企業研修と言えます。サバイバルと称しつつ実はキャンプみたいなノリも垣間見えるところですが、ポイントは研修対象が「男性社員」というところですね。女性社員は、幹部候補、エリート社員として当該の研修対象にはなっていないようです。さすがに日清の経営陣も、こういう「研修」を女性にやらせれば世間の目が厳しいだろうとは理解しているのでしょうか。

 日清としては男性のみを研修対象者――幹部候補として抜擢しておけば済むのかも知れません。しかるに、管理職の何割を女性にせよ云々と法律で定められたらどうなるのでしょう。日清のような名の知れた大企業では無視もしづらい、女性からも幹部候補を選出しなければならない、そうなったときに恒例の「研修」はどうしたら良いのか? こういうアホな研修がどこまで許されるのか、女性の管理職への登用が求められるようになれば、日清経営陣も考え改めることが求められるはずです。これは女性にはやらせられないな、そもそも何かがおかしいのではないか、そう会社側が考えるようになるのなら、女性の社会進出は男性にも恩恵があるのだと言えるようになるでしょう。

 

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野党でいる間は最低賃金の引き上げを目指すそうです

2013-06-16 12:11:55 | 政治・国際

民主、連合と政策協定 最低賃金引き上げ目指す(産経新聞)

 民主党は13日、同党最大の支持団体、日本労働組合総連合会(連合)と参院選に向けた政策協定を締結した。

 協定では「自民・公明政権の経済政策により、雇用の劣化や格差拡大が懸念される」と政府を批判。最低賃金引き上げや生活困窮者支援制度の確立など計8項目の政策実現を目指すことで一致した。

 同党の海江田万里代表は協定締結後、連合の中央執行委員会に出席し「働くことを軸とした安心社会の実現を目指し、全力で戦い抜く」と強調。連合と連携して選挙戦に臨む考えを示した。

 

 最低賃金の引き上げを目指すのは大いに結構なのですが、昨年までは与党であった党の方針なのですから、それに先だって問われるべきものがあるのではないでしょうか? なぜ、与党であったときに最低賃金を引き上げてこなかったのか、それを問うことなく「目指す」などと言われても、実効性のない空疎なパフォーマンスとしか判断できません。「自民・公明政権の経済政策により、雇用の劣化や格差拡大が懸念される」などと偉そうなことを述べていますけれど、では民主党政権の経済政策ではどうだったのか、その辺への反省や検証が民主党には皆無であり、この党の呆れるばかりの無責任さと不誠実さがにじみ出ています。

 政権交代前、すなわち民主党が野党であった頃には、最低賃金の大幅な引き上げを唱えていた時期がありました。そして自民党を下して与党となるや、民主党は最低賃金の引き上げを完全に放棄してしまったわけです。それが再び野に下るや、最低賃金の引き上げを目指すなどと言い始める――口先だけで他人を謀ろうとする下劣な振る舞いを民主党は恥ずかしく思わないのでしょうか。私がこの協定を締結した現場に居合わせたのなら、民主党のアホどもをボコボコにぶん殴ってやるところです。結局、民主党が訴えているのは「野党にいる間は最低賃金の引き上げを目指します、政権を獲得したら野党時代の主張はなかったことにします」ということなのでしょう。本当に最低最悪の連中だなと思いますね。

 しかるに連合は、加盟する組合員のことよりも民主党のことの方が大事なようです。本来ならば民主党の不作為や失政、公約違反や野党時代の主張との矛盾を厳しく糾弾し、圧力をかけるべき立場にあるはずですが、あたかもDV夫から離れられず子供まで虐待されていくのを見て見ぬフリをする人のごとき振る舞いを続けています。もうちょっと支持組織に便宜を図ることにやぶさかではなさそうな党にも二股をかけてみるとか選択肢はありそうなものですが、どんなに裏切られても民主党に着いていきます、あの人は私を愛しているんですと、それが連合の方針のようです。こういうのが最大手なのですから労組が当の労働者から歓迎されなくなっていくのも仕方ないのかも知れません。

・・・・・

 先日は東京都議会選挙が告示されました。国政選挙の前哨戦みたいな位置づけ方も目立つところです。ただ、地方議会選挙である以上は地方議会での勢力図を頭に入れた上で投票して欲しいなと思います。この辺は東京都に限りませんが、まず投票しようとしている候補もしくは政党が選挙対象となっている議会で与党なのか野党なのか、最低限それは気にして欲しいです。国会で与党と啀み合っている党が、あなたの住む市町村もしくは都道府県でも与党との対立を続けているかと言えば、それは必ずしも一致しないわけです。与党への批判票のつもりで野党の大きいところに入れた――つもりが、単に連立与党の一つに投票しているだけ、それは明らかに愚かな選択だと言わざるを得ません。

 議員の数を減らせと、とりわけ地方自治体の議員をムダと断じ、議員定数の削減を叫ぶ論者は少なくありません。でも本当に地方自治体の議員は仕事をしていないのか、国会のイメージで地方議会選の投票先を決めるような人も多いとしたら、それは地方議会を「見ていない」ことを表すものです。有権者が自分の住む自治体の議会及び議員の活動に目を光らせているのなら、与党を批判するつもりで連立与党の一つに投票したりはしないでしょう。しかし、与党(現状)批判のつもりで地元議会の連立与党の一つに票を投じる人が多いとしたら、そもそも議員の活動に口出しする資格がないのではとも思います。国会では野党、でも地元では与党ですか? 野党ですか? お住まいの地域の首長は「相乗り」での当選ではありませんか? この程度のことすら理解して行動できない人の同調する地方議員ムダ論は、単なる印象論に基づいた悪口、知りもしないで相手を罵っているだけです。ちなみに私は、地元の与党には国政選挙でも投票しないことを心掛けています。

 

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化石燃料のゴミ

2013-06-14 00:10:24 | 社会

世界のCO2排出量、1.4%増=米は「シェール革命」で3.8%減―IEA(時事通信)

 【ロンドン時事】国際エネルギー機関(IEA)は10日、気候変動とエネルギーに関する報告書を公表した。それによると、2012年の世界の二酸化炭素(CO2)排出量は前年比1.4%増の316億トンと、過去最高を記録した。一方、米国は3.8%減と「シェール革命」の影響で減少に転じるなど、社会の脱炭素化に向け「勇気づけられる」(IEA)傾向も見られた。

 米国の排出量は2億トン減少した。うち半分は、国内のシェールガス生産の拡大に伴う天然ガス価格の下落を背景に、発電分野で石炭からガスへの転換が進んだことによる。この結果、米国の排出量は1990年代半ばの水準に低下した。

 世界最大の排出国である中国の排出量は3億トン(3.8%)増となった。ただ、水力発電の拡大などにより、増加率は過去10年で最低にとどまった。

 一方、日本の排出量は7000万トン(5.8%)増と、約20年ぶりの伸びを示した。東京電力福島第1原発事故後に原発による発電量が90%減少し、その埋め合わせとしてガス・石炭火力発電が増加したことが響いた。 

 

 今さら言うまでもないことですが、化石燃料(発電)のゴミもまた避けられない問題として存在するわけです。その化石燃料のゴミたる二酸化炭素の排出量(2012年)は前年比1.4%増とのこと、中でも日本は5.8%増と大きく伸ばしています。一応の先進国としては、国際的な非難を免れないところと意識すべきものではないでしょうか。理由としては引用記事の最後の段落で触れられている通り、原発を止めて化石燃料による発電へと極端なシフトを進めた結果です。ソ連/ロシアはエリツィン政権時代に国内経済を崩壊させることで大幅な排出量削減に成功!し、排出量取引を諸外国に持ちかけたりもしていたものですが、同様に民主党政権もまた経済活動を衰退させるべく尽力していたにもかかわらず、二酸化炭素排出量の増大に抗うことはできなかったようです。

 ゴミはゴミでも小さくまとめてどこかに保管できるような類なら、私はあまり心配しません。適切に管理されていれば、まぁ問題はないでしょう。しかし化石燃料(発電)のゴミは原子力発電のゴミと違って、大気中に放出されては実質的に回収不可能な形になってしまうわけです。これはもう、将来的な技術の進歩に期待するとしても十分に憂慮されるべき代物ではないでしょうか。どこかに保管しておけるゴミと違って、地球上の至る所に拡散してしまう、一国の政府はおろか人類によるコントロールが不可能な領域へと入ってしまうのですから。

参考、シェールガス革命の行方 採算性と可採埋蔵量に対する疑問(WEDGE Infinity)

 アメリカの2012年は概ね順調だったようです。もっともシェールガスに関しては都合の良すぎる想定ばかりでなく、将来の見通しには不確定なものが多いとの見解もあります。採取時点での環境汚染の可能性もさることながら、急激な値下がりに事業者側が振り回されることも少なくないと聞くところです。電力供給の面で貢献しているのかどうか疑わしい太陽光発電にしても、一見すると需要が高まっているようでありながら、その実は中国他の新興国メーカーによる廉価なパネルに押されてアメリカなど先進国側のメーカーが廃業を余儀なくされるなど、先に何が待ち受けているか分からない世界です。なんだかんだ言って「これまで」の発電手段は今度も主力であり続けるのかな、とも。

 一方で中国は3.8%増と日本よりは低め、増加率は過去10年で最低に止まったそうです。とはいえ、増加は続いているわけです。まぁ「一人当たり」のGDPなどを鑑みれば、中国にはまだまだ豊かになることを要求する権利があるようにも思います。とかく経済的な豊かさがネガティヴに語られがちな我が国ですけれど、その価値観を他国に押しつけようとするのは傲慢でしかありませんし。他国が経済規模を拡大させようとする、そのことは認めた上で、二酸化炭素など温暖化ガスの排出量を以下に抑えていくかが考えられなければならないでしょう。

 省エネ技術をアピールするメーカーも、日本には多いです。省エネ技術を活かして他国の企業よりも優位に――との思惑や期待もあるでしょうか。ただ事業者側としては省エネ技術を独占していたいものなのかも知れませんが、一方で省エネ技術が広まらない場合のデメリットもまたあるわけです。むしろ中国を含めた新興国にどんどん省エネ技術を供与していかないと、温暖化ガスの排出量は増えるばかりですから。新興国が豊かになることを認めつつ地球環境を守るためには、省エネ技術をどこかで譲り渡さなければならない、他の国に省エネ技術を使ってもらわなければならない、省エネ技術を自国の強みとして保持しておくことを諦めなければならないと言えます。それが嫌なら、温暖化ガスの排出量増大を許容するか(温暖化陰謀論の信奉者に転向するとか!)、成長否定に走るかになってしまうでしょうか。どうにも日本には後者の素養が随所で感じられるところですが……

 

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合意はあっただろうし、それで良かったとも思う

2013-06-11 22:31:59 | 政治・国際

尖閣棚上げ発言:政府、領土問題再燃を懸念(毎日新聞)

 野中広務元官房長官が3日、訪問先の北京で沖縄県・尖閣諸島について日中間に「領有権の棚上げ」合意があったと発言したことについて、日本政府は4日、発言を完全否定し、野中氏に冷淡な姿勢を貫いた。2日には中国人民解放軍の現役幹部が「棚上げ論」に言及するなど、中国側は「棚上げ」提案で対話姿勢を見せるが、日本側が応じれば「領土問題は存在しない」との従来の主張が崩れる構図だ。

 野中氏は記者会見で、日中国交正常化(1972年)の直後、正常化交渉に当たった当時の田中角栄首相から、尖閣問題棚上げを日中双方が確認したと聞いた、と述べた。

 中国外務省の洪磊(こう・らい)副報道局長は4日の定例記者会見で、野中氏が中国共産党の劉雲山政治局常務委員との会談で日中国交正常化時に尖閣諸島問題をめぐり「棚上げ合意があった」と指摘したことに、「日中国交正常化時に両国の先輩政治家が提案、解決を後世に委ねるという共通認識に達したのが歴史の事実だ」と述べた。

(中略)

 国内で尖閣の「棚上げ」合意の存在を主張するのは野中氏だけではない。条約課長として日中国交正常化交渉に関わった栗山尚一元外務事務次官は、外交専門誌などで尖閣の棚上げについて「『暗黙の了解』が首脳レベルで成立したと理解している」と主張している。

 

 この辺、沖縄密約の類と同じで「公然の秘密」だと思いますけれどね。政府の公式見解としてはなかったことになっているだけで、実際には厳然として存在するものだったのではないでしょうか。元外務事務次官も補足しているように、たとえ文書化はされておらずとも暗黙の了解は成立していたはず、それだからこそ自民党政権は何十年も事実上の棚上げ状態を維持してきたわけです。表だっては何を語ろうとも、現実には棚上げされていたことを鑑みれば、むしろ野中発言は「何を今さら」でもあります。まぁ、敢えて誰も口に出さないことを言明するというのは一定の意味があるのかも知れませんが。

 

「尖閣棚上げ合意、明確な事実」共産・市田書記局長(朝日新聞)

■市田忠義・共産党書記局長 我が党は前から言っていますけれども、日中国交正常化の際の田中角栄・周恩来会談で、「尖閣問題を棚上げしよう」という相手側の主張に対し、日本政府もOKしたというのが明確な事実です。我が党の立場は、そのときにどうして「棚上げにする」ということに合意したのか、と。歴代政府は、国際法上も歴史上も、尖閣諸島が我が国の固有の領土であるということを、理を持ってきちんと説かないで、あいまいな解決をしてきたことが今日の事態を生んでいるわけだ。日本がへっぴり腰の外交で言ってこなかった。なあなあの外交が今の事態をもたらしている。野中広務さんが言っていることは証拠のないことではないと思います。(国会内での記者会見で)

 

 そして共産党の書記局長も上のように述べています。実際の対応として長らく棚上げしてきたのですから、そこに合意があったか否かと問われれば、当然「あったのだろう」と推測するのが自然というものではないでしょうか。少なくとも北朝鮮の「事実上の」ミサイル実験と同じ程度には、「事実上の」合意はあったと考えられます。では、その事実上の合意をどう見るべきなのか、市田氏は「へっぴり腰」「なあなあの外交」云々と棚上げを続けてきた歴代政府――要するに自民党を批判的に語ります。しかしどうなのでしょう、私にはむしろ共産党よりも昔の自民党の対応の方に理があるように思えないでもありません。

 結局のところ、歴代の自民党政権は尖閣諸島を巡る中国との問題を長年にわたって棚上げにしてきた、そこに合意があったかどうかは推測の範囲であろうとも、歴然たる現実として棚上げを続けてきたはずです。そして棚上げによって、まずまず上手くやってきたと言えるのではないでしょうか。それを民主党という救いようのないアホの集団がぶちこわしてしまった、この結果として今の無用の軋轢が生まれたわけです。昔の自民党の方がまだしも巧みな対応であったのではないか、共産党の外交姿勢では民主党と同じ愚を犯すだけではないかと、そんな気がします。とりあえず自民党には、自分たちは民主党とは違うところを見せていただきたいところですかね。

・・・・・

 それはさておきボートマッチという、まぁ各政党(候補者)との考え方の一致度を測るサービスがありまして、日本では毎日新聞が運営している奴がメジャーです。次なる参院選に向けては早くも政党レベルという注釈付(≠各候補者)ながらサイトが開かれております。何かのネタにはなるかと選挙の都度に試しているのですが、今回はどうでしょうか。

2013年参院選 毎日新聞ボートマッチ「えらぼーと」

 さっそく私の結果でもお見せしようかと思ったのですが、その前に「私の過去の結果」を並べてみたいと思います。まず最初は2007年の場合です。

 

 そして次は2009年の衆院選前、政権交代前夜、悪夢の民主党政権誕生前夜です。

 

 続くは2010年の参院選前です。

 

 2012年、再び政権交代前夜となった衆院選前がこちら。

 

 どうでしょう、各政党との一致度は選挙毎に大きく増減しています。この辺は自分の考えが変わった、あるいは政党の主張が変わったと言うより、「問われるもの(設問)が変わった」ところが大きいです。何が争点となっており、何が重視されているか、何が問われているか、それ次第で政党との一致度は誰でも少なからず変わると思います。経済政策が問われているのか、それとも歴史観が問われているのか、外交問題が切実なのか、それとも空疎な改革の嵐が吹き荒れているのか、設問次第で結果が大きく変わってしまうボートマッチを時宜に即しているとみるか、それとも場当たり的な役立たずとみるか、その辺は意見が分かれそうです。

 ……で、2013年ベータ版の結果がこちら。

 

 なんと、ボートマッチ歴5回目にして初めて政党一致度で民主党がトップに来ましたよ! やはり経済が最重要と考えるだけに、みんなの党との一致度の低さだけは納得できるのですが、与党として矢面に立った経験の有無以外にみんなと大差ないはずの民主党との一致度は謎の最上位です(といっても49%ですが)。どうしてこうなったのでしょうね。民主党が実際にやってきたことを考えれば、絶対に一致し得ないはずなのですが。結局のところ民主党の特徴として、虚像と実像の乖離が挙げられるように思います。言うこととやることが一致しないのは多かれ少なかれ他の政党にも見られますけれど、その不一致が極端に大きいのが民主党と言える、まとったイメージと現実の姿が全く一致しない、これこそ民主党の特徴なのではないでしょうか。むしろ領土問題などでは、自民党が棚上げにしてきた、ナアナアで誤魔化してきたものに火を付けてしまうような危ない党のはず、にも関わらずタカ派から毛嫌いされる不思議な党だったりします。民主党が世間で勘違いされているような党であったのならどれほど良いかと思わないでもありません。しかし民主党が「実際にやったこと/やろうとしていること」は……

 

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どこを目指しているのか自分でも分かっていない人が多いようにも

2013-06-09 13:09:03 | 政治・国際

 阪神に鳥谷という選手がいるのですが、まぁ大変に安定していることで知られている選手です。機械のごとく冷徹にストライクゾーンを見極めては一塁へ歩いて行く姿にファンも多いところ、しかるにシーズンを通してみれば毎シーズンを安定した成績で終えているようでいながら、月別で見てみると意外や打率が乱高下している選手だったりもします。打率を大きく上げる月もあれば、下げる月もあると。だからといって阪神ファンに限らず野球ファン全体からの鳥谷評価が乱高下するかと言えば、さすがにそんなことはないわけです。1ヶ月やそこらの好不調で選手の評価を変えるほど気が短い人は、そう多くないのでしょう。

 

 ……で、上は少年犯罪の統計で、一時期はこの手のグラフが良く持ち出されたものです。曰く少年犯罪が凶悪化している、増加している云々と。ところが、上のグラフは平成に入ってからの短い年代の統計でしかありません。では、もうちょっと長い目で推移を見ていった場合にどうなるかと言えば、例えば下のような統計もあります。

 

 どちらのグラフも誤りではないのですが、「どの範囲で見るか」で与える印象は全く異なるわけです。比較的短い時期だけを切り取れば少年犯罪が増加しているように見せかけることはできる、しかし願い目で見るとそうでないことが分かります。鳥谷のバッティングもそうですね。月ごとに切り取ってみせれば鳥谷を平均以下の打者に見せることもできる、しかしシーズン全体の数値を並べてみれば全く異なる、と。

 

 そして今度は、この1ヶ月の株価のグラフです。例によって短い期間で切り取ってみると、大きく下がっているように見える、陰りが差しているようにも見えるところです。まぁ株価の上下動で日銭を稼いでいるような人にとっては重大なことなのかも知れませんが、景気動向なり企業経営なりを左右するのはもうちょっと長期的な推移です。そこでグラフの範囲を広げてみる、1年単位で拾ってみた場合が下のグラフになります。

 

 民主党政権時代には悪い意味での安定感がありましたが、昨今の動きは中長期的な視野で見るとどうなのでしょうね。3歩進んで1歩下がったのか、それとも単純に1歩下がったのか、そもそも世間では株価が上がるのと下がるのと、いったいどちらが歓迎されているのでしょうか。世間には一定数、経済的な豊かさを憎悪する人もいる、経済成長を道徳的に拒絶する人もいれば、「景気が回復したら改革する意欲がなくなってしまう」とばかりに改革をこそ目的としている人もいるわけです。そして立場は異なれど自説とは異なる手法によって景気が上向いてしまうことへの抵抗感を隠せていない人も多いように思います。こうした人にとっては「それ見たことか」と今の状況はむしろ喜ばしいものに移っているのかも知れません。誰がタクトを振ろうと、あるいはどういう手法であろうと結果的に景気が良くなれば構わないと素直に受け止められる人は、声の大きい人には必ずしも多くない気がしますね。

 ようやく是正されてきた円相場の受け止め方もどうなのでしょう。円安で国民の生活が苦しくなった云々との主張も少なからず見られるところですが、じゃぁ超円高がずっと放置されてきたおかげで、これまでは楽な時代だったのですかね? 例えば輸入小麦の引き渡し価格なんかが上昇していて、それが末端価格にも転嫁されているところは出てきましたけれど、じゃぁ円相場の上下動に応じて関税を下げてしまえば良いのではないかと思わないでもありません。円安が国民生活を悪化させるなら、輸入関税もまたそれ以上に国民生活に影響しているはず、引き渡し価格ひいては小売価格の上昇がNGと言うにしても、決して超円高を維持する必然性はなさそうに見えます。ところが関税の撤廃に向けた動きにはこれまた反発がある、と。

 関税が引き下げられれば、国内の事業者、特に農業生産者が打撃を被ると、そう説く人もいます。それはまぁ、そうなのでしょう。しかし、円高が放置されても同じようなことではないのか?とも思うわけです。円が滅茶苦茶に高くなって、外国のモノが何でも安く買えた、常時3割引以上のバーゲンセール状態が続いていたわけです。それは関税引き下げに負けず劣らず、国内の生産者を苦しめる行政の不作為ではなかったのかと、糾弾する声があってしかるべきものです。ところが、関税引き下げ/撤廃で外国産品が日本に入ってくることには大反対、ただし超円高放置で外国産品が安く買える状態は不問――そんな立場を取っている人もまた多いように思います。

 どちらの立場であれ一貫性があるなら、まだ尊重はできます。関税撤廃反対、円高放置反対なら、筋の通った保護主義者ですし、逆もまた然りでしょう。ところが関税撤廃反対、しかし円高の是正には大反対というのでは、いったいどの辺を着地点と捉えているのか分かりません。単に反対のための反対の声を上げているだけ、付き合っていられない人々だと、そう判断されても仕方ないでしょう。円高が是正されて、今までのように格安で外国のモノが買えなくなった、でもそれは国内事業者にとっては安い外国製品との競争が緩和されたということでもあります。円高の是正に反対している人々、円安で国民の暮らしが云々と喚いている人々は、外国から安くモノが買えるようになる、日本国内の事業者から買うより外国から輸入した方が安い状況に拍車をかけることには賛成なんですかね?

 

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