非国民通信

ノーモア・コイズミ

勤務中に黒大豆を乾燥させると処罰されます

2008-03-31 23:10:17 | ニュース

勤務中に黒大豆乾燥、筍ゆでる 職員5人を処分 奈良市(朝日新聞)

 勤務時間中に黒大豆を乾燥させたり、タケノコをゆでたりしたとして、奈良市は31日、市青少年野外活動センターの所長(66)を減給10分の1(1カ月)とするなど、計5人を処分したと発表した。

 市によると、所長は今年1月までに計4回、自宅で栽培していた黒大豆を持ち込み、勤務中に事務所内で乾燥させていた。敷地内のタケノコをゆでて職員間で分けたり、ユズを取りに行ったりしたなどとして、ほかの職員や臨時職員計4人も戒告や訓告、厳重注意となった。

 センターは市中心部から約15キロの山中にあり、小中学校の夏休み期間以外は、比較的暇な時間が多いという。

 よく分からないニュースです。黒大豆を乾燥させることがそんなに悪いことなのか甚だ疑問です。奈良市には勤務中に黒大豆の乾燥を禁じる規定でもあるのでしょうか?

 ラインで働いていたりすれば話は別かも知れませんが、トータルで見れば忙しい仕事でも、どこかしら暇な時期、暇な時間帯は出てくるものです。仕事はベルトコンベアに乗せられて一定のペースで運ばれてくるものではありませんから、どうしても特定の時期あるいは時間帯に仕事が集中し、その一方で仕事のない時間もあります。この辺を完全にフラットに出来ると随分と効率は上がるのですが、機械だけはなく人間を相手にしている以上、どうしても仕事量に偏りが出てくるわけです。

 で、暇な時間をどう過ごすかがポイントです。学生時代に試験監督とか家庭教師とか、色々とバイトをしていたわけですが、生徒に問題を解かせている間は暇ですから、本を読んだりして過ごすわけです。自分が監督する側であって監督される側でない場合は色々と出来ますよね。行きつけのカレー屋は店主が一人で経営しているのですが、私が食べている間はやることがないようで、カウンターの奥で本など読んでおりますし、近所の床屋も客が来ない間は新聞を読みながらテレビを見て過ごしています。そんなものですよね。空いた時間を有効活用しなくちゃなりません。

 それが職場となりますと周囲の目、上司の目がありますから、露骨に他のことをやるわけにもいかない、かといって仕事はとっくに片付いている、しょうがないから働いているフリをする、これもまた面倒です。いずれにせよ仕事は片付いているわけで、仕事とは無関係なことをやろうが働くフリをしようが何ら変わりはないのですが、それでもなお前者ではなく後者を迫るような空気が、確かに存在するのではないでしょうか?

 成果主義、と言ってもそれが意味するところは「成果を出せばいい」というものではないようです。成果を出せばいいのなら単純明快、やるべき仕事さえしっかり片付けておけば後は何をしようが勝手なはずです。ところが全く以てそんなことはないわけで、たとえ仕事を完璧に終えていようと、空いた時間があればその全てを仕事のために使い尽くすことが求められます(仕事はもう終わっているのに!)。大事なのは仕事の出来映えとは限らず、全てを仕事のために捧げ尽くしているかどうか、それが問われるのです。全てを使い尽くさず、余裕を持つこと、会社なり組織のためではなく自分のために何かをすること、それが時には仕事を滞らせること以上に強く非難されるのです。

 ですからそう、この奈良の職員も本業は滞りなく進めていたのでしょうけれど、時間を余らせてしまった、その余った時間を仕事のために使い尽くすのではなく、他のことに使ってしまったこと、組織の判断ではなく自分の判断で行動したことが咎められているように見えます。労働者が自由を手にすることを許してはいけない!と。そしてこの非難は上からだけではなく、道徳的な影を帯びて隣からも来るものです。荷を担う驢馬が、荷を運び終えて水を飲む驢馬を怠け者!と罵るわけですね。

 青少年野外活動センターという施設の性格を考えると、筍や柚子を収穫したり豆を乾燥させたり、そうした行動は職務の妨げになるどころか職務に関連性が強い、青少年向けの実習プログラムの一環に組み込まれてもおかしくないような内容でもあります。むしろ来るべきシーズンに向けた下準備のような印象も受けるのですが、まぁ坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、いつもの公務員叩きの一環でもあるでしょうかね。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

影響はないと言いたいけれど

2008-03-30 23:17:14 | ニュース

ビデオゲームは子供に悪影響=暴力に鈍感に-英報告書(時事通信)

 英政府は27日、ビデオゲームやインターネットが子供に及ぼす影響に関する報告書を公表、産業界や家庭と協力して対策に取り組む方針を明らかにした。ゲームのパッケージに「子供の健康を害する恐れがある」といった警告文が印刷される可能性もありそうだ。

 報告書は政府の委託を受けた臨床心理学者が作成。ゲームによって子供は暴力に対して鈍感になるなどと結論付けた。また、英国では性と極端な暴力描写を含むゲームについてのみ、年齢制限が設けられているが、制限の拡大を求めた。 

 土浦市で無差別通り魔殺人を犯した容疑者は犯行時にもゲームソフトを持ち歩くなど気合いの入ったゲーマーだそうで、それと犯行を関連づける人も多いようです。もっと他に注目すべき点はありそうですが。そして岡山で人を線路に突き落として死なせた少年の部屋からは殺人描写を含む漫画などが押収されたとか。部屋にはもっと他に色々なものがありそうですが。

 そんなものは恣意的なこじつけに過ぎない、ゲームや漫画が嫌いだから、それを貶めるべく異常犯罪とゲームや漫画をさも関係があるように語っているだけ、その辺りはこのブログの読者の皆様なら既にご理解されていると思います。ある少年達がマリリン・マンソンのCDを聴いて、それからボーリングで時間を潰して、それから学校で銃を乱射したとき、「有識者」達はしたり顔でマリリン・マンソンの悪影響を語りました。ボーリングはどうした?と皮肉ったのがおなじみマイケル・ムーアでしたね。

 テレビゲームや漫画、アニメを犯罪と結びつけて語るのは単なるこじつけであり、必然性があってそうなったのではなく、たまたま犯人がゲーム好きだったと言うだけ、それを関連づけて論じるのは単にゲームなどへの悪意の現われに過ぎない、まずはそう考えましょう。犯人がカレー好きだったり、阪神ファンだったり、あるいは語学に堪能だったり、そういう要素と犯行の動機を絡めて考えないのと同じように、ゲームその他と犯罪を絡めて描くのは元から無理があるわけです。

 さて、その上で逆のことを考えてみましょう。フィクションは影響するか、フィクションの影響によって人が犯罪やそれに類する行為に走る可能性はあるかどうか? ゲーマーとしてビデオゲーム悪玉論にはNOと言いたいところですが、実はそうも言い切れないのではないか、そんなところもあるのです。フィクションが人を突き動かす可能性はどの程度、存在するのでしょうか?

 例えばそう、保守系のオピニオン誌が描き出すフィクションによってレイシズムに走る可能性はどうでしょうか? 産経新聞の描き出すフィクションによってモラルの低下やモンスター○○を信じるようになる可能性は? 政府与党のフィクションによって被害妄想に陥り、目の前で何が起こっているのかさえ分からなくなってしまう可能性は?

 暴力的な描写を含むゲームをすることで暴力的な傾向が高まるのではなく、元から暴力的な志向の強い人がそうしたゲームを好むのであり、ゲームによる影響ではないと考えるのは妥当に見えます。してみると差別的な描写を盛り込んだメディアに親しむことで差別的な傾向が強まるのではなく、元から差別的な人がその手のメディアを好むのであり、メディアの影響はない、そう言い切れるものでしょうか?

 あるいは性的な描写を含む漫画によって性犯罪が誘発されるのではなく、漫画がガス抜きの役目を果たすことで性犯罪はむしろ減少すると、そうも考えられています。しかし排外主義を煽る諸々のフィクションによって排外主義が高まるのではなく、フィクションがガス抜きの役目を果たすことで現実世界への排外主義の広まりを抑制できると、そう考えるとしたら何かがおかしいような気もします。

 ゲームや漫画ばかりを槍玉に上げるのは極めて恣意的ですが、かといってフィクションによる影響がないとも言い切れないのかも知れません。諸々の情報源―――新聞、雑誌、テレビ、ウェブサイト、そしてゲームや漫画、この中で描かれたフィクションが(概ねそれはフィクションではなく事実であるかのように伝えられます)人を動かしている側面、それもまた否定できないのです。

 まぁ個人的には、フィクションであると認知されやすい点においてゲームは影響が少ないと思います。むしろ危険なのはフィクションと認知されにくい代物ですね、新聞やテレビ、政府の主張などがそうですが、漫画でも久米田康治の連載なんかはタチが悪いのではないでしょうか。フィクションに過ぎないのにさも事実であるかのように語られる、事実であるかのように受け止められると、それが現実的な影響力を持ち、人を仮想敵との戦いに駆り立てる、その辺の危険性はあるはずです。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とやかく言われる筋合いはない

2008-03-29 23:11:19 | ニュース

「君が代」歌えるように 学習指導要領 道徳目標に愛国心(産経新聞)

 文部科学省は28日付で小中学校の新しい学習指導要領と幼稚園教育要領を官報に告示した。国歌の君が代を「歌えるよう」指導することを指導要領で明記したほか、道徳教育の目標に「愛国心」を加えるなど、今年2月に公表された指導要領案を修正、指導内容をより具体的に示した。

 産経新聞なので色々と突っ込むところはありますが、とりあえず国歌の話に絞りましょう。何でも君が代を「歌えるよう」指導することを指導要領に明記したそうです。ここで疑問に思うのですが、日本で国歌を歌えない人なんているのでしょうか? ロシア人でしたら話は分かります、国歌を歌えない人くらい、あの国には普通にいますから。でも日本のような国で、国歌を歌えない人が実在するとはとても思えないのですが?

 政府与党と産経新聞編集部及びそれと同じような考え方をする人は、国歌を「歌えるよう」指導する必要性を説きます。しかし現状はほぼ100%の人が歌えるわけで、これ以上何を指導する必要性があるのでしょう? 歌えない人がいるならいざ知らず、ですよ。これは、アレでしょうか、治安の悪化や犯罪の凶悪化、救急車のタクシー利用や反日工作wなど、それを信じる人にだけ見える代物なのかも知れませんね。「国歌を歌えない奴がいる、けしからん!」と確信している人にだけ、「国歌を歌えない人」の姿が見えるようです。

 ちなみに国歌を歌えない人が実在している国では、様々な工夫があります。例えばオランダの場合、サッカーの国際試合などどうしても国歌を歌う場面があるわけですが、大抵のオランダ人は国歌なんて歌えません。ではどうするか? ヒントは、国際試合に付きもののTシャツですね、日本ならブルー、オランダならオレンジと、それぞれチームカラーのシャツを着て応援するわけですが、オランダのそれは背中に歌詞が刷り込まれています。ですから前の人の背中を見れば安心して国歌が歌える、覚えていなくても大丈夫なわけです。他にもオランダの外交関係者は不測の事態に備えて歌詞カードを常備しているそうで、これなら一安心ですね。頭の固いジャップには難しいでしょうか? でもまぁ、日本には国歌を歌えない人はいませんからね。

バスで携帯、注意され死なす=10分間暴行、乗客30人止めず-三重・松阪(時事通信)

 バス内で携帯電話の使用を注意した乗客の男性に暴行して死亡させたとして、三重県警松阪署は29日までに、傷害致死容疑で同県大台町佐原、無職中田義一容疑者(58)を津地検に送検した。「腹の立つ言い方をされたため、カッとなった」と供述している。

 バスは松阪競輪場発松阪駅行きの臨時便で、中田容疑者は約10分間暴行を続けたが、乗り合わせた約30人は誰も制止しなかったという。

 犯人は58歳ということで、今時の若い者と違って血の気の多い世代であります。きっと競輪で負けた腹いせでしょう。キレる中年がまず論外ですし、誰も止めないのもアレですが、強いてもう一つ挙げれば携帯電話の使用を注意するのもどうかと。わざわざ目くじらを立てるようなことでもないでしょうに、なぜ敢えて他人の電話にケチをつけるのか、競輪で負けて苛立っていたのでしょうか?

 なんでもペースメーカーの8cm以内で携帯電話を使用すると、ペースメーカー側にノイズが測定されることがあるそうです。専用の測定器なら微細なノイズも感知できるのでしょうけれど、それが人間に意味のある範囲なのかどうかは定かではありません。そもそも、体の中に埋め込まれたペースメーカーまで8cm以内という距離が非現実的です。ペースメーカー云々を理由にした携帯電話の禁止、アレは嘘です。

 ではどうして車内での携帯電話は禁止なのでしょうか? 声を出すことが禁止なら、当然おしゃべりも禁止でなければおかしいはずですが、そんなことはありません。ではどうして?

答え:車内での携帯電話は禁止と決められているから。

 他人が電話していようが、別に気にするようなことではありませんが、「車内での携帯電話は悪いことなんだ!」との根拠なき信念を抱いていると、隣で携帯電話を使っている人が「悪い奴」に見えてくるわけです。こうして人は自ら苛立つ理由を作り出し、他人を咎め始める、そして不当に咎められた側が逆ギレして蛮行に及ぶ……

 本来、気に留めるようなことでもない、どうでも良いようなこと、些細なことに苛立ちを募らせる人も多いわけです。よくそんなことを思いついたな、と感心させられるような理由で怒り出す人もいます。他人が携帯電話を使っていようがいまいがどうでもいいことですし、他人が国歌を歌っていようがいまいが、そんなことはどうだっていいでしょう? わざわざ目くじらを立てるようなことじゃありません。それなのに自ら腹を立てる理由を作り出し、他人を咎め立てする、そんな生き方をしてもつまらないだろうに、と私は思うわけです。それでも敢えてそうするのは、それだけ他人を咎めることが好きだから、でしょうか?

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (12)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

採用試験

2008-03-28 23:44:37 | 文芸欄

「2+2は?」

『5です。』

「まぁ落ち着いて考えてごらん、2+2は?」

『5です。』

「そこをもう一度考えてごらん、2+2は?」

『5です。』

―――採用、愚鈍なれど意志強固なり

 

「2+2は?」

『5です。』

「まぁ落ち着いて考えてごらん、2+2は?」

『6です。』

「そこをもう一度考えてごらん、2+2は?」

『7です。』

―――採用、愚鈍なれど進歩性あり

 

「2+2は?」

『4です。』

「まぁ落ち着いて考えてごらん、2+2は?」

『4です。』

「そこをもう一度考えてごらん、2+2は?」

『4です。』

―――不合格、インテリの疑いあり

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腐ったバターを投げつけろ!

2008-03-27 23:25:30 | ニュース

国境なき記者団が妨害行為=「人権は聖火より神聖」(時事通信)

 ギリシャのオリンピアで24日、北京五輪の聖火採火式中に妨害行為があったが、騒ぎを起こしたのはジャーナリスト団体「国境なき記者団」(本部パリ)のメンバー3人だった。

 同団体は騒ぎの後、パリで声明を発表し、「聖火が神聖だというなら人権はもっと神聖だ。悲惨な人権状況を非難せずに、中国に平和のシンボルである聖火を渡すことは許せない」と強調。機会がある限り抗議行動を続けると警告した。

 3人のうち1人は同団体創設者のロベール・メナール事務局長で、23日にサルコジ大統領から仏最高勲章であるレジオン・ドヌール勲章を受けたばかりだった。 

 直接行動――と言うと少し過激なニュアンスになってしまいますが、ある程度過激な手段に頼ってでも、あるいは違反者として逮捕されるリスクを冒してでも、政治的もしくは思想的なメッセージを伝えるために行動を起こす人々がいます。そしてそうした直接行動に理解のある国と、そうでない国があります。

 前者の例としては――フランスなどどうでしょうか? もちろん反対する人もいたわけですが、マクドナルドを破壊するなどの過激なパフォーマンスもありますし、虐げられれば暴動も辞さない気構えが共有されているような印象があります。オーストラリアもそうですね、反捕鯨団体に対する処遇にもそれは現れているわけですが、政治・思想的な訴えのために犯された違法行為に対しては寛容と言えます。

 そして正反対に位置しているのは、我らが日本でしょうか。ほんの1.5世代ほど前であれば様子は違ったようにも見えますが、今や世界でも屈指の直接行動に理解のない国です。自ら声を上げて不正に立ち向かおうとする人々を最も嫌っているのは、権力者である以上に国民ですから。デモやストなどの抗議行動に対して、これほどネガティブな拒絶を示す社会はそうそうないような気がします。「良心の囚人」という言葉がありますが、日本社会にこの概念はないのではないでしょうか。

 さて、今回は「国境なき記者団」のメンバーが北京五輪の聖火採火式を妨害したとか。妨害行為には間違いありませんが、しかし悪意あって誰かを傷つけるために行われた刑事犯ではありません。自らの良心から来るメッセージを伝えるために、法に触れることを辞さず、敢えて起こした行動です。こうした行動が日本では常に拒絶されてきたわけでもありますが、今回はどうでしょうか? 反中国であれば良しとする人の中には、日頃の言を翻して「犯人」を賞賛する人もいます。あるいは、いつも通りに直接行動を白眼視し続ける、そんな一貫性を披露する人もいます。


 しかしまぁ、中国国内では中国政府に反対することが「勇気」ですが、日本国内では何が「勇気」でしょうか? 人権弾圧が世界中で絶えない中で、飛び抜けて注目度が高いのが中国とチベットの問題ですが、この問題を巡って日本ではある種の「踏み絵」のごときものが作られている気もします。「ショー・ザ・フラッグ」の発想と同じですね、中国政府と戦うのかそうでないのか、どっちの敵でどっちの味方なのかを示せと、そういう圧力が生まれているようなフシはないでしょうか? アメリカの正義に与しないものはテロリストだ!そんな判断と同じノリで、中国に声高に非難しない奴は人権弾圧の加担者だ!とばかりの、そんな主張が散見されます。そういう空気の中では、むしろヒステリックにならないこと、チベット弾圧を利用して嫌いな相手を責め立てようとする輩と距離を置くこと、安易に同調しないこと、それが「勇気」のような気もします。

チベットをめぐる認識ギャップ 西側はそう見るかと中国、怒る――フィナンシャル・タイムズ(フィナンシャル・タイムズ)

 集った中国人たちと18日、生中継された温家宝首相の記者会見を観た。「アメリカ人や外国人はいつも、中国を痛めつけようとしている」というのが、典型的な反応だった。

 記者会見で質問が許された外国人記者はほとんど全員、チベット問題について質問したが、そのたびに、中国人記者や政府関係者から大きな落胆の声が上がったのだ。

 ふだんは中国共産党のやりように激しく批判的な北京在住の知識人でも、チベットについては、中国が「解放」するまでは「奴隷」だったのに、感謝するどころか恩知らずで、中国に対して暴力的だと話す。「中国なしでどうやってチベットが国家として成立するというのか? 解放前は食べるものもなかったというのに」

 引用文の「中国」を「日本」に、「チベット」を「韓国」辺りに置き換えれば、そのまま日本についての報道として通用しそうな代物ですが、ともあれチベット問題を巡る国際的な非難は中国国内の現政権への支持を強めるものとして作用しているようです。それは愚劣な外交で国際的な孤立を深めれば深めるほど、支持は強まり、反対に協調姿勢を示すと支持が激減する日本の自民党政府と同じことでしょう。事態を打開するよりも、お互いを非難し合う関係を続けていた方が安定する、そんな政府もあるわけです。国際社会の意見に耳を傾けることを何よりも恥とする国もありますが、中国政府がその同類であるなら、色々と頭を使う必要がありそうです。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (9)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うるせぇ、エビフライぶつけんぞ

2008-03-26 23:23:33 | 編集雑記・小ネタ

 これは話すだけ無駄だな、と思うときがあります。人により判断のタイミングや感じ方は違うと思いますが、私は早い方だと自認しています。自慢にもなりませんが。

 ブログをやっていれば、とりわけ左派と目される内容でやっていれば、訳の分からないことを言って絡んでくる輩もいるわけです。そうしたどうしようもないコメントにうんざりする人もいれば、深く傷つくという人もいる、真面目に反論する人もいれば黙って削除する人もいる、色々とあるわけです。あーあー、私の場合?

     ,.、,、,..,、、.,、,、、..,_         /i
   ;'`;、、:、. .:、:, :,.: ::`゛:.:゛:`''':,'.´ -‐i
   '、;: ...: ,:. :.、.∩.. .:: _;.;;.∩‐'゛  ̄  ̄
    `"゛' ''`゛ //゛`´´   | |
        // Λ_Λ  | |
        | |( ´Д`)// <うるせぇ、エビフライぶつけんぞ
        \      |
          |   /
         /   /
     __  |   |  __
     \   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   \
     ||\            \
     ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
     ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||

 ・・・こんな感じです。

 それはさておき、はてなキーワードで編集合戦が見られるそうで、議論の場としてD_Amonさんがスレッドを立てられたそうです。

歴史修正主義の定義について

 で、lovelovedogなる御仁が一人でくだを巻いているわけです。D_Amon氏とabesinzou氏が真面目に受け答えしていますが、lovelovedog氏は自分ルールを振りかざすばかりで引き下がる様子を見せません。lovelovedog氏の主張のおかしいところは私でも一つ二つは簡単に見つけられますが、正直なところ「うるせぇ、エビフライぶつけんぞ」以上の言葉が出てきません。だって、何を言っても無駄ですから。

はてなに対する歴史修正主義者の攻撃に一緒に対抗してください(従軍慰安婦の深層)

 はてなキーワードは、はてなの会員にはあまり重視されていないようですが、実はネット上では非常に重視されています。つまりGoogleの検索ではウィキペディアと同様に常に上位に表示され、多くの「何も知らない読者」が読む可能性が大きいのです。

 もちろん、D_Amon氏やabesinzou氏の行為が無駄というわけではなく、第三者が閲覧する場合のことも考慮するならば、人に誤った情報を伝えるような行為を過小評価するべきではありません。自信満々に「治安が悪化している」と言い放つ人が増えたことで、あたかも実際に治安が悪化しているかのような錯覚が国民の間に浸透してしまったわけでもあります。こうした被害を防ぐためには、それが蔓延する前に沈静化させる必要性もあるでしょう。

 ただまぁ、第三者にはともかくlovelovedog氏やその同類に対しては、言うだけ虚しいところもありますね。そもそも明確な史料なり証拠なりが提示されれば納得するというのであれば歴史修正主義者なんて存在し得ないわけです。自分ルールと自分達の物語を信奉しているからこその歴史修正主義者であって、目の前にある(彼らにとっては)不都合な真実を無視しているからこその歴史修正主義者なのです。そうした人は、何を突きつけられ、何を指摘されても聞く耳など持っちゃいません。

 何か根拠があってそう考えているのであれば、その根拠を覆すことで考えは変わるでしょう。しかし何か根拠があってそう考えているのではなく、「そうあって欲しいから」そう考えているのなら、彼らが拠り所とする根拠の誤りをいかに指摘したところで蛙の面に水です。彼らの「そうあって欲しい」願望がある限り、彼らは新しい口実を捻り出すだけで、まぁどうしようもありません。私の頭では腐ったバターを投げつけるぐらいしか対抗方法が思いつきません。

 いかがわしい言動に惑わされない、誰かさんが捏造した物語を鵜呑みにしない、史実なり統計なりから目を背けない、その程度まで国民が成熟していれば、歴史修正主義者などは白眼視されるばかりで自然に消滅するのでしょうけれど、例えば治安悪化云々を巡って国民が何を信じたかを考えると、あまり希望は見えてきません。嘆いてみるばかりでは何の意味もありませんし、これは他人事ではなく我々の問題なのですから、当事者としてただ傍観しているだけでは許されません(後でツケを払わされますから!)。さりとて特効薬などあるはずもなし、思案の日々です。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (7)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事故があったら連絡が第一…のはず

2008-03-25 22:56:57 | ニュース

刑事以外を配置、拳銃携行せず=警戒8人、他の駅の倍-茨城県警(時事通信)

 茨城県土浦市のJR常磐線荒川沖駅周辺で8人が殺傷された事件で、同駅に配置された警察官の数は他の駅の倍だったが、凶悪事件を捜査する刑事部門の捜査員が人もいなかったことが25日、分かった。配置された8人は拳銃も携行しておらず、県警幹部は「駅での通り魔的な連続殺傷は想定外だった」としている。

 県警は金川真大容疑者(24)が「早く捕まえてごらん」などと110番し県警を挑発してきた22日以降、170人態勢で捜査。同駅など20駅や常磐線などの電車内、東京・秋葉原などに警察官を固定配置した。

 他の駅は4、5人で警戒したが、荒川沖駅は同容疑者の自宅の近くだった上、同駅付近から最初の110番をしていたため、土浦署の警備、地域、生活安全部門の8人を配置していた。

 8人は私服姿で警棒と手錠を持ち、防刃衣を着用。拳銃は携行せず、無線も笛も持っていなかった。

 さて、無差別通り魔事件です。クレイジーな犯行です。警察の対応を批判する声も相当に強いようです。結果的にではあれ事件を防げなかったわけですから、それも致し方ないでしょうか。とは言え、何をするかわからない人は何をするかわからないわけです、まともな考えの範疇の外にあるからこその非常識であるわけで、容疑者のこの行動を事前に想定するのは著しく困難だったと考えてよいでしょう。

 まぁ、今回の警察の対応で情状酌量される面と言いますか、致し方ない面もある中で、これは判断の誤りであろうと言わざるを得ない点もあります。時事通信は配備された警察官の所属と拳銃の所持に注目していますが、それはちょっと論点がずれているように思われます。警備部門の人間では無理だが刑事部門なら対処できたとか、そういう問題ではないでしょうし、人混みの中で拳銃なんて撃ったら通行人に当たる可能性の方が遥かに高いわけで、まともな神経をしてれば使えるものではありません。

 問題は、他の駅よりも多い8人の人員を配備しておきながら全員が私服、無線すら持っていなかったことの方でしょう。事件発生直後に警察官が容疑者に遭遇した(襲われた!)のに、無線がないので連絡が取れない、しょうがないから携帯電話を取り出して連絡網を回す、そんな悠長なことをやっている間に容疑者は雑踏の中へ躍り込み、8人の警察官はその姿を見失ってしまう、これではコントです。事件発生と同時に全員に連絡が回っていれば、通行人を非難させたり先回りをしたりと、やれることは色々とあったはずです。

 そして、全員が私服であったことですね。報道によると容疑者は小学校を襲撃しようとしたものの、教師がいるのを見て諦めたとか。学校の先生に怯むような容疑者ですから、警察官の姿を見たとしたらどうだったでしょう? 警察官が見回っている姿を目にしたら、容疑者は犯行を諦めてその場を去った可能性が高いわけです。もしかしたら他の場所を探すかも知れませんし、あるいはそうしないかも知れない、起こらなかったことは断言できませんが、少なくとも人が密集する駅での凶行は阻止できたはずです。犯人の現れる場所が絞れているのに!

 結局、犯罪の抑止よりも犯人を罰することに力点が置かれていることに根本的な誤りがあるのではないでしょうか。つまり今回は、見えるように警察官を配置することで犯行を思いとどまらせるのではなく、見えないように警察官を配置することで犯人を捕らえようとしたわけです。事前に防ぐことよりも、犯人を逮捕して罰することを重視した結果として容疑者の暴走を許したとしたら、そこは反省していただきたいものです。

 もっとも昨日の死刑制度云々の話とも絡みますが、ある種の人々――政府与党に連なる人々と、消去法的な選択であってもそれを支持する人々――は、いかに犯罪が減ろうとも「治安が良くなった」とは認めないわけです。そして一層の刑罰の増強を追い求めています。犯罪が起こらないことではなく、余すところなく罰することの方が大切と、多数派に属する人々は考えているのです。そして犯罪を未然に防ぐことではなく、起こったことを罰することに力を注いでいるとしたら、この警察の選択は政府及び「国民の声」に応えた結果でもあり、その失態の結果は警察にのみ帰せられるものではないのかも知れませんね。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

刺身にタンポポをのせる会

2008-03-24 23:12:31 | ニュース

鳩山法相「粛々と死刑執行」 「治安の良い国つくる第一歩」(西日本新聞)

 鳩山邦夫法相(衆院福岡6区)は22日、地元福岡県久留米市であった自身の後援会主催のパーティーで演説し、「(死刑執行は)抑止力になって治安の良い国をつくる第一歩だと考えている」と死刑執行の意義を強調し、今後も続ける意向をあらためて示した。

 鳩山法相は「人を惨殺しておいて、自分の命だけ助かるという死刑廃止論にくみする気持ちはない」と強調。「粛々と死刑は執行しなければならない」と述べた。

 昨年8月の就任以降、鳩山法相は6人の死刑を執行した。同日は、福岡市の市民団体「死刑廃止・タンポポの会」(山崎博之代表)が鳩山法相の事務所を訪れ、死刑執行への抗議と法相辞任などを求める文書を事務所のスタッフに渡した。

 ツッコミどころの多すぎるネタというのは、かえって目標が定められずに困惑するものですが、それにしてもこの短い内容でこれだけの破綻を披露できる鳩山法相も大したものです。

 この手の論法はいつも同じようなもので、基本的には独り相撲、シャドーボクシングに近いものです。あるいはマスターベーションと呼んでもいいですが、要するに自分で想定した「敵」と戦っているわけですね。目の前にいる相手ではなく、自分の頭で拵えた脳内妄想、仮想敵を批判しているわけです。そしてこの場合の仮想敵は「人を惨殺しておいて、自分の命だけ助かるという死刑廃止論」のようですが、このような死刑廃止論は鳩山法相の頭の中には存在しても、そんな主張は誰もしていません。誰も主張していないことに対して批判も何もないはずですが、鳩山法相の頭の中ではリアルな存在である空想上の論敵を退けてはそれを誇っている、そんなところでしょうか。シャドーボクシングの勝者など誰も讃えないように、彼は自分の頭の中の世界に閉じ籠もった惨めな妄想家に過ぎませんが、しかるに同じ妄想を抱いている人の共感は得られているようです、やれやれ。

 それはさておき、無関係なものをさも関係があるように語るのは、初歩的ですが効果的な印象操作の一つです。この場合は死刑執行と治安ですね。これは頑なに現実から目を背けている人でもなければ常識の範疇に入ると思いますが、死刑の有無と治安には有意な相関関係が見られないわけで、そうであるからには治安を理由に死刑執行を推奨するのはおかしいわけです。全く関係がないわけですから、ね。喩えて言うならばそう、「産経新聞を購読するのはサッカーが上手くなるための第一歩だと考えている」ぐらいのレベルです。もし死刑と治安を結びつけて考えたいのなら、死刑制度を廃止した国が数多あり、どこも治安にはさしたる影響がなかった中で、日本だけが唯一の例外として死刑制度によって治安が左右されると、それを証明する必要があるでしょう。それを証明できないのに、さも死刑制度と治安が関わっているかのように語る、欺される方が馬鹿とも言えますが、政治家としてふさわしくない、世論を誤導する行為です。

 少し話がずれますが、「治安の良い国」って何を指しているのでしょうか? 警察庁がひっそりと公表したところでは、2007年の殺人件数は戦後最低を記録しました。その他諸々の凶悪犯罪も似たようなもので、細かな上下動を示しつつも件数は減る一方です。我々が実際に犯罪に遭遇する可能性は低下を続け(まぁ、労働基準法違反などの不法行為に遭遇する頻度は上がっているかも知れませんが!)、元より安全だった日本が輪を掛けて安全な国になっているのが現状です。私に言わせればこれが「治安の良い国」ですが、しかるにある種の人々は日本を「治安の良い国」とは認めません。凶悪犯罪が減ってダメなら、増えればいいんですかね?

 2007年は殺人件数が戦後最低を記録した一方で、死刑判決と死刑執行は1980年以降の最多を記録しました。これが鳩山法相の言う「治安の良い国をつくる第一歩」でしょうか。ハイペースで粛々と死刑執行していく国が治安の良い国というのなら、ふむ、鳩山法相及びその賛同者にとっての理想郷はどこでしょう? テキサス州? いや、それ以上にピッタリするのは中国でしょうね。チベット問題もあって表面上は対立していますが、やっぱり今の自民党主流派と、消去法的な選択であれそれを支持している日本人は、心の底では中国政府と相通じ合っていると思いますなぁ。

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (17)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そして有閑階級による独占へ(追記あり)

2008-03-23 22:10:35 | ニュース

報酬1日3万円、福島・矢祭町「日当制町議」に11人出馬(読売新聞)

 議員報酬の日当制を導入する福島県矢祭町の町議選(定数10)が18日告示され、23日の投開票へ11人が選挙戦に入った。新議員は31日の任期から「日当1期生」となる。

 地方自治体の財政が厳しさを増す中、議員活動のボランティア化という点からも注目される。

(中略)

 告示前の今月5日には、立候補予定者が「予定者一同」の名前で、陣中見舞いや当選祝いの「お断り」広告を地域紙に掲載し、議会改革もアピール。現職7人、元議員1人、新人3人が出馬した

 働く人の取り分が減るような制度変更の場合、概ね内容を問わずに賛同が得られる昨今ですが、今回もその例に漏れないでしょうか。たぶんあなたの給与を抑えるための制度改革も、あなた以外の人からは賛成されていますよ、と。

 それはさておき、「ボランティア化」などと言うと聞こえは良いのですが、実際はどうでしょうか? こちらにも書きましたが、ボランティア化が有効に作用するための前提となる条件が整っているのか、甚だ疑わしいわけでもあります。例えばほら、あなたの周りのボランティアってどういうイメージですか?

 市民が日常的に政治に参加する、そうした風土が根付いていれば手弁当の地方議員も成り立つのですが、そのような文化は日本にはありません(将来的にはそうなるべきですが)。市民運動にしたってそうでしょう? あれは、市民全体の運動というのは決定的に何かが欠けています。そう、働いている人の姿がそこには見当たらないはずです。「働き盛りの男性」というのは、市民運動の場で最も目にする機会の少ない稀少動物です。勤め人は会社に拘束され、市民として政治に訴えるのは専ら有閑階級、そんな現実を忘れてはなりません。

 もちろんこの小さな町の議員活動が、各種式典に列席して祝辞を述べるだけの単なる名誉職であってお飾りに過ぎないのなら、本業の片手間で済むかも知れません。しかし自分から問題を掘り下げて真面目に活動しようというのなら、休日の空いた時間を使って済ませるというわけにもいかないでしょう。金銭的な問題もさることながら、より必要とされるのは政治活動のための時間です。その政治活動のための自由な時間が、労働時間の長い日本のフルタイム労働者にあるでしょうか?

 フルタイムで働いていると、政治家として活動できる時間は確保できない、ならば政治家であることを諦めるか、会社を辞めてフリーになるか、どちらかです。会社を辞めれば政治家として役目を果たす時間は手に入りますが、収入がなくなります。本来ならば議員報酬が代替となるわけですが、その議員報酬が断たれることで、政治家としての収入で生きていくことは不可能になります。ボランティアに毛が生えたような収入で政治家として生きていくためには、議員報酬とは別の収入源が必要、そうなるしかないのです。

 自民党の世襲議員のような親の代からの政治家、生まれながらの特権階級であり、給与所得を必要としない資産家であれば話は別です。議員報酬などなくとも裕福であり、他に収入源のある人は、議員報酬をカットされても痛くもかゆくもありません。しかし、何の地盤もカバンもない、ただ政治に取り組む意欲しかない人にとって、議員報酬のカットは致命的です。兵糧攻め、と言うべきかも知れません。今の日本の政治風土で議員報酬をカットするとなると、議員としてやっていけるのは他に収入源を持つ資産家などの有閑階級か、もしくは本当に片手間でしか活動しない政治的に無価値なお飾りかのどちらかなのです。

 前鳥取県知事の片山善博・慶大教授は「日当制は議会の多様性につながる取り組みとして評価できる。経済的魅力が減ることで、職業政治家としての議員の代わりに、若者や女性、サラリーマンなどが出やすくなる可能性もある」とする。

 理論上は、そう主張することも不可能ではないのかも知れません。しかし現実はどうでしょうか? 今回出馬したという現職7人、元議員1人、新人3人の中に若者やサラリーマンがいるのですか? 立候補した11人全員が有閑階級、地元の名士や大政党が丸抱えする候補だったらいい笑い物です。

 何でもかんでも給与削減に走れば話題になる、世論の支持を集められる昨今ではありますが、こうした政治を一部階級の独占物にしかねないような危険なパフォーマンスが他に波及しないことを願わずにはいられません。

 

 ←応援よろしくお願いします

(3/25追記)

矢祭町長が当選者に金配る 日当制導入受けた町議選で(共同通信)

 議員報酬の日当制導入が決まった福島県矢祭町の23日の町議選後に、古張允町長(67)が当選者らに「当選祝い」として現金を配っていたことが25日、分かった。県警は、公選法違反の疑いもあるとみて調べる方針。古張町長によると、23日夜、当選が決まった6人に現金入りののし袋を手渡そうとした。4人は断ったが1人が3万円、もう1人が1万円を受け取った。2人は書留で現金を返送したという。

 ・・・狙いがよく分かりません。議員報酬の引き下げで世間の歓心を買ったのに、今度は非難を浴びるようなことをする。何がやりたかったのでしょうね?

コメント (8)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本を誰が「拒絶」しているのか

2008-03-22 21:53:41 | 非国民通信社社説

 先日、「救急車はタクシー代わりに利用されていない」ことを取り上げたのですが、結構な反発もありました。そのどれもが「救急車がタクシー代わりに利用されているんだ」という揺るぎない信念を感じさせるものではありましたが、その信念の強さの他には何一つ語ることの出来ないものでもありました。いかに力強く断言しようとも、それが現実を塗り替えることなど出来ないわけですが、そう断言することで実際に「救急車がタクシー代わりに利用されている」かのような錯覚を与えたかったのでしょうか。何のために? 何が彼らをそこまで駆り立てるのでしょうか? どうして彼らは「救急車がタクシー代わりに利用されている」と信じさせたいのでしょうか?

 犯罪が凶悪化している、治安が悪化している、給食費の滞納が深刻化している、社会保障の悪質な不正受給が横行している、若者の勤労意欲が低下している、コミュニケーション能力が低下している、性が乱れている、モラルが低下している、無責任な親が増えている、少年犯罪が増加している、公共心が失われている、若者のマナーが、モンスター○○が云々…… 随分と酷い言われようです。別に日本がどう言われようと気に留めるつもりはないのですが、こうも悪く言われるとさすがに疑問を感じないでもありません。

 上で挙げたような道徳的な非難は止まるところを知りませんが、いずれも実情に沿ったものではなく(統計上は全く逆の傾向を示しますから)、全くの言いがかりに過ぎません。そんな根拠なき「言いがかり」に終わりが見えないのはなぜでしょうか? 誰がこのような事実無根の誹謗を続けているのでしょうか? なぜ我々はかかる謂われなき中傷を受けなければならないのでしょうか?

 こうした作り物の理由で日本を誹謗している輩がどういう連中かというと、政府与党に連なる連中だったり、その支持層であったりもします。実権を握っている人々が自らの国を中傷する、なんと自虐的な! 彼らは自分達の住む国を愛していない、誇りに思っていないどころか憎悪しているかに見えます。

 その代わりに彼らが愛し、誇りにしているのは何でしょうか? それは眼前に今ある日本ではなく、彼らの夢の中の日本です。ですから彼らは、今ある日本を徹底的に(主として道徳的な理由で)貶めますが、その一方でいざ彼らの夢の中の日本に関わってくると、突如として態度を翻し肯定的になるばかりか、たとえ非のあることであったとしても一切の非を認めない頑なさを発揮します。自らのアイドルを汚されることは許せないわけですね。

 彼らが自らの夢を仮託する対象は、不思議と戦前の日本に偏っています。彼らの思い描く戦前の日本は彼らの夢と相性がよいらしく、その戦前の日本に関して不都合な史実を突きつけられると、彼らは激しく反発します。彼らにとってはそれこそが誇らしいものであり、脳内理想郷であるところの戦前の日本が批判されることはどうしても我慢できないことなのでしょう。

 もちろん、彼らが夢を託す「日本」と実際の戦前の日本は少なからず食い違っており、矛盾は至る所に現れます。それ故に彼らは自らの過去を塗り替える、書き換えることで自らの夢に近づけようとします。いかに声高に主張したところで既に起こってしまったことを覆す、なかったことにすることは出来ませんが、それでも共通の神話を作り上げることで、同じ神話を報じる者同士が寄り集まることには成功しているようです。

 良く言えば理想化肌、悪く言えば夢見がち、そんなところでしょうか。自分の「理想」を至上のものとする一方で、現実に対しては強い拒絶があるわけです。すなわち頭の中で(彼らなりに)理想化された日本像はアンタッチャブルなものとして一切の批判を許さない一方で、今ここにある日本社会、日本人に対しては悪質なプロパガンダを以て誹謗中傷を繰り返す、道徳的な失墜を詰る等々。彼らからの非難は彼らの被害妄想の産物であって一顧だに値しませんが、それを真に受けてしまうと大変なことになります。存在しない被害のために対策を練るわけですから、それは必然的に空理空転するばかり……

 もはや変えることのできない過去はともかくとして、我々が生きるこの現代の日本に関しては相当程度、彼らの理想とする脳内日本に接近しているような気もします。それでも尚、彼らによる道徳的な非難は止まないどころか激しさを増しているのはなぜでしょうか? 結局のところ、彼らは変転する現実を受け容れられない、自分の夢の中でしか生きられないのかも知れません。だからこそ現実の日本に対しては、空疎な口実に頼ってでも拒絶しなければならない、同時にその拒絶を正当化しなければならない、そのためには今ある日本が道徳的に「悪」でなければならないのでしょう。

 作り上げた国家像、捏造された伝統といったフィクションを誇るばかりで、あるがままの自国を受け容れられないどころか、事実無根の誹謗を繰り返す、こうした輩が愛国心だの誇りだのを語っているのですから、大した笑い種です。批判的であるのは結構なことですが、それは確かな論拠があって初めて意味のあることで、でっち上げた理由と被害妄想、自分達の思いこみで相手を貶めるとしたら、そこには悪意があると言わざるを得ません。そして今、道徳的に貶められ拒絶されているのが当の日本人であるわけですから、やれやれ愛のない世界だね、と。

 救急車のタクシー利用だのモンスター○○だの、謂われなき中傷によって国民の名誉が損なわれ続けていることに、この国に住む一人として苛立ちを感じないではいられません。歴史を書き換え伝統を捏造し、そうして拵えた国家像への忠誠を要求するばかり、あるがままの自分達を認められない、受け容れられない、そんな輩が幅を利かせています。しかし自らを偽ろうとする人間がどうして誇りなど持てるというのでしょうか?

 

 ←応援よろしくお願いします

コメント (7)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする