非国民通信

ノーモア・コイズミ

能力主義が好まれなくなるワケ

2010-05-31 23:00:05 | ニュース

強まる年功序列志向 新社会人、勤務先に満足7割強(朝日新聞)

 今年4月に働き始めた新社会人の3割近くは第4希望以下に就職したが、全体の7割強が勤務先に満足し、能力主義より年功序列の賃金体系を望む人が多い――。インターネット調査会社マクロミルの調査でこんな結果が出た。

 今月7~9日、1987~88年生まれの新社会人(公務員も含む)を対象に、男女258人ずつ計516人から有効回答を得た。調査は2008年から毎年実施している。

 現在の勤務先の志望順位は「第1希望」が42%で09年より7ポイント減り、「第4希望以下」は29%と9ポイント増えた。勤務先に「満足」「どちらかと言えば満足」は計74%で、過去2年より満足度は高い。

 どの賃金体系を望むかは「年功序列型」が41%、「能力主義型」が35%。「年功序列型」は08年が32%、09年が37%と増加傾向にある。

 マクロミルの担当者は「厳しい就職活動の経験から、不安な気持ちが根底にあることが見て取れ、結果として安定志向も強まっている」と分析している。

 まぁ「能力主義型」の賃金体系が導入されると全体的に給料は下がるもので、会社側にとって有利な仕組みですから、相対的に労働者側に有利な「年功序列型」が再評価されるのは当然の結果でしょう。本物の「年功序列型」ならば地道に頑張って続けていれば給料は上がる、ことさらに自己評価の高くない人にも将来の希望が見えるわけですが、労働者として「能力主義型」に希望を持てるのは、自分が周りの人間より優れていると、そう自惚れている人間だけです。

 これまでも繰り返し指摘してきたように、年功序列(及び終身雇用)はある程度の大企業、優良企業で一時的に見られた慣習に過ぎず、それほど一般的であったかは大いに疑わしいものですが、学校で学んだものを評価しない(=会社で人を育てるしかない)社会とはそれなりに整合性のとれたものだったように思います(会社で人を育てる以上、育てた人間を企業で丸抱えした方が経営側にも得になりますし)。ただ経済成長よりもコスト削減、人件費カットによって利益を確保することこそが日本的経営となっていく中で、人件費カットの方便として「能力主義~」の称揚と年功序列を否定する一大キャンペーンが張られるようになったと言えるでしょう。

 経営者目線でしか物事を考えられない人は、必然的に経営側に利のある方式(=能力主義)に傾倒していくものです。また上述したように自己評価の高い人、自分が周りの人間より優れていると自惚れている人は、当然ながら自分に利のある方式、つまり能力主義に共感を覚えることでしょう。そこで若いうちは、とりわけ学生のうちは、どうしても労働者目線を持ちにくいですし(メディアや教育を通じて伝えられるのは基本的に経営者目線もしくは消費者目線での情報ですから)、そして希望にも満ちあふれているだけに、能力主義でこそ自分が評価されると儚い希望を抱きがちだとも思います。俗流若者論にウンザリした若年層の耳元で囁くには、能力主義云々は格好のネタになったのではないでしょうか。能力主義なら、実力のあるキミを評価できるけれど、年功序列なら中高年の退場待ちだよ、と。実際のところは、別に若年層の能力が先行世代より高いわけでもないでもない以上、能力主義でも最下層に止め置かれるのは代わらないのですけれどね、将来の昇級が約束されなくなるだけで!

 引用した記事では、「第1希望」に入社できた人の割合が減り、「第4希望以下」に就職した人の増加が伝えられています。思い通りに就職できなかった人も多いのでしょう。そうなると必然的に、新規就職者の自己評価も下がってくるものと推測されます。希望の会社に思い通りに就職できた人が多ければ、自分は能力があると錯覚して能力主義を肯定する傾向も高まるでしょうけれど、希望の会社からは不採用を言い渡され、不本意な会社への就業を余儀なくされた人は反対のことを考えるはずです。「第4希望以下」の会社に就職した人が、「自分は周りよりも能力がある」と思う可能性は低いわけで、そうなると当然ながら能力主義よりも「地道に続けていれば給料が上がる」賃金体系を志向することになります。就職環境の悪化は、年功序列志向の高まりに密接な影響を与えていると推測して間違いなさそうです。

 人件費を削減したい=能力主義型にシフトしたい経営側としては、能力主義への賛同を集めたいでしょうけれど、そのためには就業環境を改善しなければならない、昨今の一方的な買い手市場を改める必要があります。ただ昨今の国内企業にそれができるとも思えないだけに、今後とも支離滅裂な労働市場は続く、ますますもって現実と乖離した経済系の言説は蔓延ってゆくことでしょう。

 

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働かせるのは楽ではないらしい

2010-05-30 22:59:13 | ニュース

「日本ではもう働けない」 海外移住を決意した人たち(J-CAST)

   「仕事が楽なら、外国に住んでもいい?」――ライブドアブログの利用者をはじめとするネットユーザーに尋ねたところ、200件以上の投稿があった。回答者は、外国には「住めない」がもっとも多く48%。「住んでもいい」が45%で、「どちらともいえない」が7%だった。

(中略)

   ただ、外国移住は難しいとしながら、「日本の現状には耐えられない」と悲鳴を上げる人もいる。

「深夜、終電まで毎日働かないと、まともな生活ができないってのも、どうかと思います。仕事があるだけましなのかもしれませんが、なんかだまされている。もしくは効率の悪い生活を強いられているような気もします」(miya_key2009のブログ)

「毎日アホみたいな残業ばかりで、休日出勤も1ヶ月に1、2日あるし。別に南の怠け者の国じゃなくてもよいから、毎日定時に帰らせてくれて、休日出勤ナシ、有給休暇は完全消化な国で生活がしたい」(iguryのブログ)

   一方、海外移住の可否はともかく、「楽な仕事に魅力を感じない」「仕事の楽さを追求するのはおかしい」と反応をする人も数多くいた。

「私は、何よりやりがいが欲しい方なので、仕事が楽なのは魅力では有りません」(マスターみずほ台の徒然みずほ台散策記+α)

「楽な仕事で充実感とか達成感とか得られないでしょ? 私、ダメだな。・・・仕事を一生懸命やるから、プライベートが楽しいんだと思う」(ちょっと、トメです。)

「個人的には、楽な仕事って退屈するんじゃないかなって思う。・・・やっぱり、厳しい仕事がないと成長がないしね」(神様なんて信じていない自分へ)

 まぁ外国暮らしとなると、外国語生活に対応できるか否かが大きい気がしますね。日本で働く負担と、日本語が使えない環境で生活する負担のどっちが大きいか、語学が苦手な身には悩みどころです。一方、言語/文化的な面は抜きにした意見も紹介されており、日本の労働環境に悲鳴を上げている人もいれば、ガチの社畜としてふんぞり返っている人も少なくないことが窺われます。

   日本を出て、実際に海外で働いている人からの書き込みも数多くあった。miho1068さんは、台湾で5年、中国で5年生活している。そこで感じているのは、やはり「日本の仕事環境はすごく大変」ということ。

「あんな遅くまで家に帰れない人は日本人くらいでしょう。・・・台湾で働いてる日本人はみんな、日本には帰りたくないのが現実。日本の社会全体が変わらないと、快適に働くことは難しいのでしょうね」(miho1068のブログ)

   カナダ在住のMissyさんは、看護師として9年働いている。日本との違いは、看護師が社会的に認められ尊敬される仕事であることと、休みがしっかり取れて私生活も楽しめることだという。

「申し訳ないが日本へ帰る度、“ああ、日本ではもう働けない”と感じてしまう。・・・日本も他国のように看護師をハッピーにさせることができたら、家庭を持ちながらも働けたり、くだらない上下関係やしきたりによるストレスで辞める看護師が減るのではないだろうか」(Canada de Nurse)

   このように海外で働くメリットを強く感じている人もいる一方で、日本を出たものの「海外は楽でない」と教えてくれる人もいる。バンクーバー在住のある日本人社長は、

「18年も海外暮らしをしていて思うことは、海外暮らしに楽はないということです」(外から見る日本、見られる日本人)

と言い、また、タイで働いている人も、

「ボクの場合、仕事は決して楽では無いです。・・・日本人が外国で仕事して楽なはず無いです」(アライナ!泰国生活記)

 海外で働くことの実態に関してはこちらのブログ辺りが有名どころですが、引用元記事でも何例か、海外で働く人の言葉が引き合いに出されています。海外の方が、日本と違って働きやすいと語る人もいれば、そんなことはない、海外は楽ではないと語る人もいるようです。どっちが本当のところなのでしょうか? そりゃもちろん、どこも会社によりけり、楽な職場もあれば大変な職場もあるわけですけれど、少なくともここで挙げられた例に関しては、両者を分ける決定的なポイントがあるように見えます。

 「海外暮らしに楽はない」と語る人は「バンクーバー在住のある日本人社長」だそうです。そして「仕事は決して楽では無いです」と語る人のブログを覗いてきたのですが(→こちら)、詳しくはこう語っていました――「だけど他の人はどうか知りませんがボクの場合仕事は決して楽では無いです。楽なはずが無いです。だって、仕事ですから。現地の人に仕事してもらわないといけないんですから」

 「バンクーバー在住のある日本人社長」
 「バンクーバー在住のある日本人社長」
 「現地の人に仕事してもらわないといけないんですから」
 「現地の人に仕事してもらわないといけないんですから」

 大事なことなので、それぞれ2度書きました。おわかりでしょうか? 「自分が」働くという立場で書かれた引用元の最初の2名は、海外で働く方が楽だと語っています。一方で海外は楽ではないと語る後ろの2人は、どちらも自分が働くのではなく、他人を「働かせる」立場で語っているわけです。労働者から見て海外の職場は楽です。しかし、社長や管理職から見れば海外の職場は楽ではないそうです。「働く」のは楽だが、その分だけ「働かせる」のは楽ではない、それが海外暮らしであるという観点からすれば、引用された4人の意見は綺麗に一致していますね。

 最初に引用した箇所からもわかるように、日本には社畜がいます。労働者でありながら常に経営者としての目線で行動し、仕事の負担を当然のことと思い込んで決して疑問を持つことがありません。会社への服従を厭う人には、社長に成り代わって説教してくれるわけです。こういう人たちに囲まれていれば、人を「働かせる」のは非常に楽でしょう。「働く」のは楽だけど、「働かせる」のは楽ではないのが海外(中には日本みたいな国もあるでしょうけれど)、その反対が日本と言えそうです。「仕事が楽なら、外国に住んでもいい」と思う人が出る一方で、海外の経営者の中には「仕事を『させる』のが楽なら、日本に住んでもいい」と思う人が出てきても不思議ではありません。

 

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やはり社民と民主では政治的な方向性が違いすぎたと思う

2010-05-29 23:06:53 | ニュース

首相、福島氏の更迭を検討 署名に応じぬ場合 普天間(朝日新聞)

 鳩山由紀夫首相は27日、沖縄県名護市辺野古周辺を米軍普天間飛行場の移設先とする日米共同声明に反対している社民党党首の福島瑞穂・消費者担当相について、説得が不調に終わった場合は更迭する方向で検討に入った。福島氏を更迭しても、直ちに社民党全体の連立政権離脱にはつながらないとの判断がある。

 首相は28日予定の日米共同声明の発表後の閣議で、声明を政府の方針として確認する文書に全閣僚の署名を得て、閣議了解としたい考えだ。

 だが、福島氏が署名を拒む姿勢を崩さないため、官邸内には「福島氏の更迭もやむを得ない」(首相周辺)との意見が広がっている。首相側近議員の一人は「社民党に弱腰なところを見せれば、政権の評価はますます落ちてしまう」と懸念しており、首相に更迭を進言。首相もこのままでは、福島氏の閣内残留は難しいとの判断に傾いている。

 さて、この後の続報で福島氏の更迭が発表されたわけですが、今後はどうなるのでしょうか。社民党内部でも連立維持か離脱かで揉めているようですし、前途は多難です。福島党首に関しては「民主党への妥協を拒んで政府与党から追い出されるか、民主党に妥協して福島瑞穂が社民党内で居場所を失うか、そのどっちかになりそう」と以前に書いたのですけれど、下手すれば「どっちか」ではなく「両方」になりそうな勢いでもあります。

 元より民主党と社民党とでは政策面で決定的な違いがある上に、亀井静香のような老獪さを持ち合わせた人材にも事欠く少数政党が現政権の中で生き残っていくのは無理があったような気もします。しかし、民主党も支持率の下落に歯止めがかからず、次の選挙で単独過半数がとれるかは疑わしいところです。もう一方の連立相手である国民新党も決して有権者から好かれてはいない、しかも社民党と同様に民主党とは政治的な方向性が根本的に異なる党ですから当てにはしにくいところでしょう。そうなると政策面で近い自民党、みんなの党や各種新党との連立も予想されます。

 国政しか見ていないとわかりにくいかも知れませんが、地方自治体レベルでは民主党系会派と自民党系会派の相乗りで首長を支えているところも多いです(京都辺りでは共産党vs自民&民主&公明&社民みたいな構図になることすらありますし)。民主と自民の連立などネット上の論者にしてみれば「あり得ない」ものに見えそうですが、地方の政治に密接に関わっている人からすれば実績十分の黄金タッグのようなものでしょう。まぁ連立先の最有力は「みんなの党」と「日本創新党(首長連合)」辺りと見ますが、とりあえず共産党以外だったらどことでも連立の可能性はあると思っておいた方が良さそうです。

 政局ごっこはさておき、「社民党に弱腰なところを見せれば、政権の評価はますます落ちてしまう」と発言した「側近」がいたそうです。そうですねぇ、政権交代以前から、アメリカ以外に弱腰なところを見せれば政権の評価が落ちる、とりわけ国内の反対派に弱腰なところを見せれば政権の評価が落ちる傾向にあったように思います。ですから現状分析としては間違った発言ではないのかも知れません。しかし、国内の反対勢力、与党内部で異論を唱える人を切り捨てることで「リーダーシップ」を見せつけるような手口は、いい加減に改めて欲しいところです。

 たぶん、官邸の決定に異議を唱えた人を抵抗勢力とでも呼んで、造反者を与党から除名する、ついでに次の選挙では刺客でも差し向けてやれば、有権者の中には「改革にかける断固たる決意」を感じてしまう人もいそうな気がします。有権者のウケを考えれば、政府内の反対意見に「毅然とした態度」を見せる方が得策であり、そうした政治手法の継続に疑問を感じていない人が現内閣にも多いのでしょう。

頭越しに徳之島反発「強行なら成田闘争以上に」(読売新聞)

 「頭越しで何をするのか」――。28日朝、日米両政府が発表した共同文書で、沖縄県の米軍普天間飛行場の移設先として再び名護市辺野古が明記され、訓練の移転先には鹿児島県・徳之島も検討対象になった。

 地元の合意がないまま、鳩山首相が言う「5月末」の決着期限を達成するための見切り発車。2006年の日米合意とほとんど変わらない内容に、地元関係者は「できるはずがない」と強い反発の声を上げた。

 交渉の当事者であるはずの沖縄県には、記者発表と同時に防衛省から共同文書のファクスが届いただけ。ある幹部は「これはほぼ現行案ではないか。首相が来県した時、県内に残るのはごく一部のような言い方だったのに。どういうプロセスでこのような結果になったのか、政府にただしていきたい」と不快感を示した。

(中略)

 このほか、徳之島・天城町の大久幸助町長は「政府は地元の合意が大切といいながら、合意など全くない。絶対に受け入れられない」と強く反発。「私たち徳之島の3町長は、これでますます結束が強くなる。国策として移転を強行した場合、成田闘争以上になるだろう」とけん制した。

 閣内で異論を唱えた福島党首は更迭となりましたが、地元自治体、反対派住民に対してはどのような態度で望むことになるのでしょうか。既に右派や日刊ゲンダイのような翼賛紙には、こうした現地の反対派を貶めるような言動を取る傾向も見られますけれど、場合によっては政府与党もまた、そうした論調に荷担することもあるかも知れません。反対の声を上げている自治体首長や住民を悪者にすることで、むしろ意見を聞かないことが正義になる、そうしたカイカク的手法が沖縄と徳之島にも向けられる可能性は否定できないところまで来ているような気がします。

 

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鳩山の基本姿勢

2010-05-28 23:03:47 | ニュース

「国民は国を守る発想持つべき」 鳩山首相(共同通信)

 鳩山由紀夫首相は26日夜、日本の安全保障に関し「この国はこの国の人々で守るという、すべての国にとって当たり前の発想が今の日本にはない」と危機感を示した。同時に「それが自然かどうかという発想は国民一人一人が持ち続けるべきではないか」と指摘した。

 記者団が米軍普天間飛行場移設問題に絡めて「(常時)駐留なき安保という考え方は変わったのか」と質問したのに対し、「その考え方はいま封印している」とした上で根底の考え方として言及した。官邸で記者団の質問に答えた。

 ここでも自ら語っているように、鳩山は「駐留なき安保」論を「封印」しているわけですが、彼にとってはいわば黒歴史みたいなものなのかも知れません。野党として政権獲得の見込みが全くなかった当時、つまり主張しても実現される見込みがなかった当時に掲げていた政策を政権交代と同時に「封印」宣言するに至ったのは、今の姿こそが鳩山の基本姿勢だからではないでしょうか(参考)。政権交代前は「最低でも県外」と明言していた沖縄の基地問題にしても結局は実質的な現行案受け入れがほぼ確実になったわけで、その辺の「転向」を、やれ官僚のせいだ、やれ族議員のせいだと言い出すノータリンには事欠かないですけれど、鳩山なんですからそれくらいは当たり前です。極右化した自民党の対抗軸であった手前あらぬ誤解を受けていただけで、基本的にはタカ派であり、「右」に属する政治家ですから。

 「(県外移設は)党の考え方ではなく、私自身の代表としての発言だ」と、想像を絶する無責任な言葉で県外移設の断念を語った鳩山ですが、そこで「断念」の理由として挙げられたのは「抑止力」でした(参考)。米軍海兵隊の「抑止力」が必要だから基地は沖縄県外に出せないと、そう語ったわけです。しかるに結果的には県外移設断念であったとしても、「米軍の同意が得られず」断念するのと、「抑止力が必要だから」断念するのとでは、やはり決定的な違いがあるはずです。前者であればまだ将来的な望みはありますが、後者はどうでしょう?

 「抑止力」を理由とした基地存続となりますと、仮に米軍基地を撤去させたとしても、今度はそれに代わる新たな「抑止力」が必要ということになります。つまり米軍基地を減らした分だけ日本の軍事力を増強することが求められるわけで、米軍が日本軍に変わるだけのことにしかなりません。実際に「米軍基地ははいらない」とする論者の中にもその類は存在するもので、米軍ではなく日本軍が日本を守る、米軍がいなくなれば自主防衛の名の下に日本が軍拡する、そうした未来を夢見ている人もいます。鳩山も、そんな路線に近いのではないでしょうか。だからこそ県外移設断念の理由は「抑止力」であり、そして冒頭に引用した「この国はこの国の人々で守る」にも繋がるわけです。

 国旗/国歌を巡る言説がそうであるように、右よりの連中が言う「すべての国にとって当たり前」が現実に符合するものであるかは極めて疑わしいものですが、今回の鳩山発言はどうでしょう。自助努力/自己責任論を拡大させたような印象も受けます。それだけに日本人の目には「当たり前」に映るような気もしますが、自国だけの孤独な防衛精神を振りかざすよりも、他国との関係の中で物事を考える必要があるはずです。まずは「自分たちは脅かされている(だから軍隊による抑止力が必要だ)」という被害妄想を克服することの方が大事でしょう。

 それから鳩山発言では「国」を「国民」が守ることになっていますが、この辺の順序もどうかと。「国民」のために「国」という概念があるのか、それとも「国」のために「国民」が存在しているのか、どうも鳩山発言から窺われる現職総理の世界観は後者であるように見えます。公務員に対しては一方的な奉仕を求めるのがこの国の「国民性」と言えますが、国に対してはどうでしょうか? 国家公務員は国民の奉仕者だけれど、「国」は国民のご主人様だとでも思っているのはないかと、そう考えさせられる言説が巷に満ちあふれています。

 

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規制の緩さに甘える社会

2010-05-27 22:58:27 | ニュース

日本の飲食店は実質的に規制が緩いから発展している - 堀江貴文オフィシャルブログ

昨日も東京JCのパネルディスカッションとかによばれて、日本の競争力強化や景気回復には何が必要なのか、成長戦略とは何かを聞かれた。即座に規制緩和という言葉が出てくる。規制が厳しい部門は何かとベンチャー的な新規参入が難しい。法律でがんじがらめにされているので、法令順守を徹底しようと思えば、ベンチャーの資金力や人脈・コネではどうにもならん場合が多いのだ。

そこで思ったのが日本の飲食店ビジネスのレベルの高さだ。東京は世界一といっても過言ではない。ミシュランガイドでパリと並ぶ世界で一番星が多い都市であるというのは、客観的に見てもレベルが高い事が証明されているということである。

もちろん、築地市場を頂点とする食材のロジスティックス・サプライチェーンが完備されていること、末端に至るまで食材を新鮮に食卓に届ける技術レベルが高い事なども影響しているが、それだけではないのかな?とも思ってしまった。雰囲気やサービスレベルも高いのだ。

それは飲食業界が実質的には厳しい規制を受けていないからなのではないかと思った。例えば米国では焼肉でも炭火焼肉を導入するのは難しいらしい。一部店舗内でも炭火焼肉店は存在するようだが、ほとんど存在しないのは店舗内での消防法関係がかなり厳しいからだそうだ。飲食店ではないが、海外でシャワートイレが普及しにくい理由は、洗面所など水周りにコンセントを設置することに厳しい規制があるからなのだそうだ。

日本で店舗内で炭火が使えないとなったら大変だろう。規制はあるのかもしれないが、実質的に黙認されているというような事も多い。例えば飲食店で天井の天板をはずしてコンクリートむき出しで営業している店舗が多いだろう。あれもビルによるとは思うが大抵は違法らしい。酒類を提供するのにも日本の飲食店は免許が必要ないが海外は必要なケースが多い。

また夜12時以降、原則として酒類を提供する店は営業できない国が多いが、日本は接客をしなければ朝まで営業してもかまわない。この接客というのも非常にあいまいというか実質的に接客をしていても見逃されている店も多い。バーなどでも個室は完全に個室になってはいけないのだが、地方などにいくと完全個室で営業している店も多い。

つまり、この適度な「ゆるさ」が日本の多様性のある飲食店文化を作り出し、世界に冠たる美食都市を作り出しているのではないかと思った。

 ホリエモンこと堀江貴文氏に関しては色々と興味深いところがあると思うのですが(参考)、つい先日は日本の飲食店は規制が緩いから発展している云々と述べだしたようです。そりゃまぁ日本の飲食業は「顧客サービス」の面で見れば世界随一の水準にあると思います。しかし落ちぶれたとはいえホリエモンは元・経営者なのですから、単に顧客の視点からだけではなく、せめて経営者の視点ぐらいは付け加えて欲しいところですね。日本の飲食業は規制の緩さの故に秀でた顧客サービスが提供されているかも知れませんが、じゃぁ日本の飲食業界が儲かっているのか、経営的に見て他業種に比べて発展が見込める産業と言えるのかどうか、そこを無視して「だから規制緩和が必要なのだ」みたいな誘導をされても説得力など皆無です。規制が緩い飲食業界の未来は明るいのでしょうか?

「日本海庄や」過労死訴訟、経営会社に賠償命令(読売新聞)

 全国チェーンの飲食店「日本海庄や」石山駅店(大津市)で勤務していた吹上元康さん(当時24歳)が急死したのは過重な労働を強いられたことが原因として、両親が経営会社「大庄」(東京)と 平辰 ( たいらたつ ) 社長ら役員4人に慰謝料など約1億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が25日、京都地裁であった。

(中略)

 判決によると、吹上さんは2007年4月に入社後、石山駅店に配属されたが、同8月11日未明、自宅で就寝中に急性心不全で死亡。死亡まで4か月間の時間外労働は月平均100時間以上で、過労死の認定基準(月80時間超)を上回り、08年12月に労災認定された。

 大島裁判長は、同社が当時、時間外労働が月80時間に満たない場合は基本給から不足分を控除すると規定していたと指摘。「長時間労働を前提としており、こうした勤務体制を維持したことは、役員にも重大な過失がある」と述べた。

 ホリエモンが語らなかったことの一つに、労働に関する規制の緩さがあります。他業種でも労働関係の規制は無視される傾向にありますが、とりわけ飲食業界の労働条件の劣悪さは有名で、社員/店長の給与は時給に換算するとバイト以下なんてことが珍しくない世界です(参考)。上記引用のケースでは遺族が民事訴訟に出たことで賠償が命じられたわけですが、それは詰まるところ労働基準法違反が民事任せ、公的機関による取り締まりが極めて緩いことをも意味しています。労働関係の「実質的な」規制緩和もまた、日本は非常に進んでいると言えるでしょう。

 審判が笛を吹かないからと、手を使ってボールを運べばサッカーでは圧倒的に有利な立場に立てます。本来ならば初戦敗退で姿を消していなければならないような弱小チームでも、手でボールを運んでいれば勝ち残ることができる――これもまた日本の飲食業界の一面ではないでしょうか。ホリエモンが挙げた各種規制の「ゆるさ」に加えて、労働規制の「ゆるさ」がデフレの中で飲食店を生き延びさせているわけです。なるほど、たしかに規制が実質的に緩和されていることで発展する、生き延びられるところもあるのかも知れません。

 しかし、手を使ってサッカーに勝ったところで、そのチームが強くなれることはないはずです。笛を吹かない審判に助けられて勝ち残るのも、規制の緩さに甘やかされて生き延びるのも、どちらも誤魔化しに過ぎないもので、決して褒められたことではないでしょう。規制が緩いから発展する産業というのは、要するにルール通りに戦っては勝てない産業ということでもあります。そういう産業に偽りの勝利を与えたところで競争力なんて付くわけがないのです。規制緩和とは、ルール通りに戦っては勝てない企業への延命策でしかなく、抜本的な解決を遅らせるだけのものでしかない、そういう側面もまた無視されるべきではないと思います。

 

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キャリア教育は遅ければ遅いほど良いと思う

2010-05-26 23:03:01 | 編集雑記

 先日のエントリで、日本の企業は会社の「外」で学んだものを評価したがらないと書きました。大学院の修了者より、新卒で一から会社の「中」で教育を受けた人間が好まれる辺りは典型ですね。あるいは公的機関による職業訓練なども狭き門とはいえ行われているわけですが、会社の「外」で訓練を受けた人間と、会社の「中」で実務経験を積んだ人間とでは企業側の評価に天と地ほどの差があります。会社の「外」で何かを身につけるよりも、卒業したら間を置かずに会社の「中」に入ること、これが求められているわけです。

 よく日本の教育にはキャリアプランが欠けているみたいな話もあります。現状では仕事に繋がるような教育がなされていない、もっと職業訓練的な、実務に近いことを教えるべきだと説く人もいるわけです。しかし、現在の日本における企業の価値観を見る限り、学校で何を教えたところで採用側がそれを評価することはなさそうに見えます。普通科ではなく、商業科なり工業科なりを出ておけば将来は安泰、みたいな状況であるなら学校レベルでの職業教育も意味を持つでしょうが、実態は何とも微妙なところです(入社後のキャリアの問題もありますし、就職率ならぬ就職内定率で見ると専修学校は大学以下だったりします)。

 「学校で教わったことなんて役に立たない」、「一刻も早く学生気分から抜け出して貰わないと困る」なんてのが「社会人の常識」と化しているわけですが、こうなると早い段階から会社で育てられた人間しか評価されないことになります。だからこそ学校などで特別な職業訓練を受けていなくとも「会社で育てる」企業文化も生まれるもので、これはこれで整合性がとれていた部分もあるでしょう。しかるに、「会社で育てる」ことが放棄されるようになると、絶対に捕まえられない青い鳥を追い求める結果にしかなりません。会社の外で得たものを認めない、学校で学んだものを評価しないにもかかわらず、学生の中からスーパーマンが出てくることを期待する、馬鹿げた話です。

 そもそもキャリアを決めるのが遅ければ遅いほど、その社会は成熟した柔軟な社会であると言えるはずです。人生の早い段階で、たとえば高校に進むぐらいの段階で将来の就業プランが定められ、それに沿って職業訓練を受けるような社会とはいったいどういう社会でしょう? 仮に学校における職業訓練が将来的な就職と密接に結びついているとしても、それは若者のキャリアを早期に縛り付けてしまう、階級固定的な社会と言えます。反対に可能な限り遅い段階までキャリアプランが未分化であってこそ、若者の可能性をつぶさない社会と考えられないでしょうか。

 何をやりたいかなんてのは、常々移り変わってゆくものです。中学を出たくらいのガキに「将来どのような仕事に就くか」を考えさせたところで、本当に「大人」になる頃には考えが改まっているのが自然と言えます。しかし高校ぐらいから職業訓練に縛り付けてしまうと、つまりは中学を出た頃に決めたキャリアプランに載せてしまうと、その子が大人になった頃には自らの選択を悔いることも多いのではないでしょうか。載せられたレールの専門性が高ければ高いほど、受けた教育が実務に近ければ近いほど、別の道への転向は困難になるものですし。

 教養、なんてものは会社から見ればゴミみたいなものです。大学で教養を身につけた、なんてのは大学で遊んでいたとの同義です。ただ大学で遊んでいたにしても、それもまた経験です。色々と手を出していく中で段々にやりたいことも定まってきて、それに関連する仕事に就いてから実務を学ぶ、それが可能性ある社会というものだと思います。早い段階でキャリアを決めて、そのレールに載せられる社会よりも、レールに乗る前の無軌道な期間が長い社会ほど、才能を発掘できる可能性に開かれた社会と言えるのではないでしょうか。

 

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大学院は修羅の道

2010-05-25 22:56:58 | ニュース

講師の「細切れ雇用」で、大学は教育できるのか?(日経BP)

 1コマいくらで、いくつ取れるか。大学の講師は究極の細切れ雇用にさらされている。

 「もう専任講師の道は諦めた」

 そう話すのは、第二外国語の非常勤講師、立石誠司さん(仮名、44歳)だ。誠司さんは早稲田大学を卒業後、大学院に進み外国文学を学んだ。修士課程で2年、博士課程は6年在籍して、所定の単位を取り学位(博士号)を取得せずに博士課程を修了する「満期退学」した時は31歳だった。

(中略)

 大学の職場環境は、年を追うごとに悪くなる。誠司さんは、週に3コマも授業のあった理系の大学での授業は3年前に打ち切られた。そこで6年教えていた間、入学生が年々減少していたため、大学間の競争と少子化の影響を肌で感じた。

 ある大学では、数年前に突然、報酬が時給計算に変更され、1コマ90分だった授業が70分に短縮され、その分の収入が減った。補修授業がなくなった大学もあった。全てコスト削減によるものだった。誠司さんの収入は年100万円減った。学会に納める数千円の会費さえも負担を感じる。

 私の専攻はロシア文学だったわけですけれど、博士号を取得した先輩方は皆、路頭に迷っていましたね。引用元で取り上げられている人にしても第二外国語の講師であって、本来の専門であるはずの文学の講師ではない辺り、現状をよく表しているように思います。私も文学の知識を生かせる職に就いた先輩は見たことがありませんが、語学を生かした仕事(たとえば「外国人芸能人招聘業」とか)に就いた先輩は少数ながらいますので。語学はあくまで文学研究の前提知識に過ぎないわけですけれど、文学研究者にとっては語学くらいしか売り物がないのです。

 そのような状況下、博士課程を修了したとしても、専任講師として就職するチャンスが少なく、非常勤講師として働かざるを得なくなる。関西圏・首都圏大学非常勤講師組合などが2005年度に実施した、第3回「大学非常勤講師の実態調査」(回答数1011人)によると、主に大学の非常勤講師を職業とする「専業非常勤講師」の平均値を見ると、年齢は45.3歳で3.1校で勤務。年収は306万円の一方、44%の人が年収250万円未満だ。半数の非常勤講師が「雇い止め」の経験があるという。

(中略)

 さらに、国立大学の元理事は、こう話す。

 「大規模大学以外の大学の経営は厳しい。特に、国立大学は毎年1%の運営費交付金を削られ、人件費に手をつけるしかなくなった。定年退職した教員の後任は補充せず、専任講師の講座は徐々に非常勤に置き換えた。非常勤の単価も3割カットした。事務職は派遣社員で賄っている状態で、正職員採用にしないよう3年経ったら入れ替える」

 前にも書いたかも知れませんが、私の指導教官が定年を迎え退官記念パーティが開かれた時のことです。そこに招かれていた講師の方が、退官する先生の思い出を語るスピーチの最中に「自分も今期限りで契約を打ち切り、これでお別れなのですが~」と恨み言めいたことを満座の前で口にしていたのを今でもはっきり覚えています。引用記事の引用しなかった部分でも触れられていますが、大学のポストは「コネ」が重要、力のある教授のツテがあれば講師の口は回ってくるものの、その教授が定年を迎えた途端に大学側から切り捨てられてしまう、そうした現実もあるわけです。ちなみに雇い止めされた講師の後任は元より、退官した教授の後任すらも補充されませんでした。

 まぁ大学に限らず、経費削減となると真っ先に手をつけられるのが人件費です。営利企業であれば売上を増やすなどの前向きな対応も可能なのでしょうけれど(もっとも大半の企業は成長よりも経費削減による利益確保を是としているようですが)、大学の本分は利益を伸ばすことではありません。金儲けを考えないのであれば、削られた交付金の分だけ「削りやすいところ」が削られることになる、そうした中で人件費が削られ、教授も講師も事務員も圧迫されているわけです。ムダを削る、みたいな発想の元では必然的に、「人」が蔑ろにされる環境(人からコンクリートへ?)が作られていきます。

 文科省の「民間企業の研究活動に関する調査報告」(2009年度)によれば、ポスドク経験者の研究開発者としての採用実績は、「毎年必ず採用している」はわずか0.7%。「ほぼ毎年採用している」(1.7%)、「採用する年もある」(10.9%)を合わせても13.3%に留まる。「全く採用していない」は67.8%に上った。博士課程修了者の過去5年の採用実績は、資本金500億円以上の大企業が積極的だが、その雇用の受け皿も限界がある。ある大手製造業の人事部は「不況でも理系の研究者なら採用するが、新卒で一から育てたい」と話す。文系では、より状況が困難になる。

 これも大学関係に限りませんが、企業は「新卒で一から育てたい」というのがポイントですね。「いつまでも学生気分ではダメだ」みたいな物言いからもわかるように、日本企業は企業社会の外で身につけたものを否定する傾向があります。とりわけ「学校で習ったもの」に関しては全否定したがるのが日本の会社というものなのではないでしょうか。だから大学院で専門的な研究を積み重ねてきた人よりも学部の新卒が歓迎される、他企業でキャリアを積み重ねてきた人の転職は歓迎されるが、大学院や専門学校などで勉強していた人の中途入社は門前払いみたいなことにもなるわけです。

 言うまでもなく学部でも4年間しっかり勉強してきた学生より、勉強は最低限に止めて就職活動に邁進する学生の方が企業からは好まれるものですし、高卒の場合でも商業科や工業科など、職業訓練に近いものを経験してきた生徒が企業から厚遇されているかと言えば甚だ疑わしいところです(就職率は高く見えても、入社後のキャリアは必ずしも……)。結局のところ、日本の会社は会社の「外」で身につけたものを評価したがらない、とりわけ学校で身につけたものを評価したがらないわけです。会社の与える教育を絶対視し、会社の外で得たものは「社会人になる」過程で捨てさせようとする、そうした社会では博士課程修了者など年増に過ぎないのでしょう。高等教育を軽視する社会や政治は、高等教育を軽視する労働環境のたまものでもあります。

 

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下手なやり方

2010-05-24 23:00:57 | ニュース

宝くじ関連8事業「廃止」…仕分け判定(読売新聞)

 政府の行政刷新会議は21日、事業仕分け第2弾後半の2日目の議論を行い、宝くじ関連法人が行っている普及宣伝事業など8事業を「廃止」と判定した。

 仕分け人側は総務省(旧自治省含む)OBへの高額な報酬や、収益金の一部を関係法人を通じて地方自治体に分配する仕組みを問題視した。

 取りまとめ役の寺田学民主党衆院議員は「問題が解決されるまで、宝くじの認可権限者である総務相は、宝くじの発売を認めるべきではない」と踏み込んだ判定を下した。判定に強制力はないが、法人側は強く反発した。

(中略)

 これに対し、法人側は「国からは(税金を)一銭ももらっていない」などと反論。旧自治省出身で発売元の立場で出席した伊藤祐一郎・鹿児島県知事は記者団に「地方の自主財源に手を突っ込む話で、一方的だ」と強く反発した。

 槍玉に挙げられたのは宝くじ関連法人に勤める総務省OBの厚遇ぶりだそうで、まぁ高給には違いないのでしょうが、ここで下された結論が適正なものであるかどうかは甚だ疑問を感じるところです。そもそも宝くじの場合は法人側が説明するように「国からは(税金を)一銭ももらっていない」上に、その収益金の大半は地方の財源に回されるわけです。ですから宝くじ関連法人にメスを入れたところで国政の財源になるものは出てこない、事業仕分けの狙いの一つであるはずの財源確保という面では、全く意味のない「ムダ」な行為であったとすら言えます。

 強制力はないとの注釈も付いていますが、状況によっては宝くじの販売に支障が出ることも考えられるわけで、もし販売見送りなんてことになったら大変なことです。売り場のおばちゃんは失業してしまいますし、地方自治体も財源の一つを失ってしまうことになる、これは迷惑この上ない。公開の場で官僚バッシングを繰り広げれば拍手喝采は確実ですが、それがもたらす被害にも、もう少し気を使う必要があるはずです。

 宝くじの当選金が半分にも満たないことは、以前からそれなりに知られていたと思います。ただ関連法人の人件費の高さに関しては、一連の報道を通じて知られるようになったところが大きいはずです。売上の総額から見れば大きな額ではないとはいえ、宝くじの売上金が国民の大嫌いな(元)官僚の給与になっていると知られれば、結果はどうなるでしょうか。

宝くじ、現職知事らが仕分けに反発 異例の展開、ヤジも(朝日新聞)

 約2時間にわたる議論の末、「廃止」の結論が出ると、傍聴席からは拍手がわいた。寺田議員は仕分け終了後に記者団に「(廃止)より弱い結論を出した場合はごらんになった方々の反発は強かったんじゃないか。自分たちの夢を託して買ったものが天下り団体に流れていることに憤りがあると思う」と話した。

 この寺田議員の発言には眉を顰めたくなるところもありますが、国民感情を捉えたものであることは否定しません。「自分たちの夢を託して買ったものが天下り団体に流れていることに憤り」を感じる国民/宝くじ購入者は少なくないと考えられます。ことによると、「天下りの給料になるくらいなら宝くじはもう買わない」みたいに考える人も出てくるのではないでしょうか。そうなったらまぁ……売上が減った分だけ収益金も減って、地方の財源が少なくなるだけですね。

 たしかに関連法人の役員報酬は高いと思います。しかし、それが問題ならば的を絞って地道に是正して行けば良いだけの話です。別に人民裁判にかける必要はありません。特に財源の問題を考えるのならば、国民がより気分良く宝くじを買えるよう、悪いイメージを流布させるような行為は避けた方が賢明だったでしょう。別に密室でやる必要はないにせよ、晒し者にする必要もない、「従来の」手法で関連法人の人件費を圧縮して、その分だけ当選金なり自治体への分配金なりを増やせば万事丸く収まるわけです。

 しかるに、人民裁判にかけたことで宝くじのイメージは悪化、売上の低下=自治体財源の減少が見込まれます。「悪い官僚」を全国民の前でやっつけてみせることで政府与党の株は上がるのかも知れませんが、お金の巡りの面ではどう見てもマイナスです。何というか、事業仕分けの本質が窺える典型的な一幕という気もしますね。今や利害関係を調整して社会やお金が上手く回るように取り計らうことではなく、いかに国民に向けてパフォーマンスを披露するかが政治になっている、劇場型政治の正当な後継者がどの党であるかがよくわかるというものです。

 

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“親を休む”ことも

2010-05-23 23:02:03 | ニュース

生活苦と夫婦の不仲で“鬼父・鬼母”が急増!?
過去最多の児童虐待の裏に潜む悲しすぎる事情(DIAMOND online)

 児童虐待をテーマにしたドラマ「Mother」(日本テレビ)が好評だ。一方、ニュース番組では毎日のように虐待事件が報道され、週刊誌にも頻繁に非道な“鬼父、鬼母”の見出しが躍る。

 身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、そしてネグレクト(育児放棄)――。子どもの虐待はなぜとどまることがないのか。

 その裏事情を現場に聞いてみた。

(中略)

 NPO法人児童虐待防止全国ネットワーク理事長の吉田恒雄さんは「対応件数は虐待の数そのものではなく、実態が深刻化しているかどうかについては、なんともいえません。対応数が増加したということは、それだけ通報が増えたということでもあり、虐待への社会的認知度、理解度が深まった証拠ともいえます」と説明する。

 ただ、経済情勢の悪化は、“鬼父、鬼母”をさらに生む可能性もある。虐待の温床ともいえる“家庭内の軋轢(あつれき)”が、不況によって引き起こされやすくなるからだ。

 実際、2009年3月におこなわれた全国児童相談所長会の報告では、虐待する家庭の状況でもっとも多く見られたのが「経済的困窮」。全体のおよそ3割を占めていた。

(中略)

 失業と不安定就労を繰り返すうち、不安とストレスから、イライラを子どもについぶつけてしまう親がいても不思議ではない。

 父親は一家の大黒柱となり、妻子を養うもの――そんなプレッシャーがワーキングプアの夫を暴力へと駆り立てる危険もある。

(中略)

 夫婦間、親子間で怒るイライラの連鎖――川松さんによれば、父親が正社員の家庭もけっしてその例外ではないそうだ。

 給与カットでダブルワークをしていたり、人員削減で残業が増えていたりすると、夫の帰宅はどうしても遅くなる。そうなれば、妻はひとりで子育ての責任を抱え込むことになる。

 引用した記事を書いている西川敦子という人は掲載誌の中で完全に浮いた存在に見えるだけに(週刊ダイヤモンド的な「お約束」ではなく事実に基づいて記事を書いているので)、編集部や読者層からどういう評価を受けているのかちょっと気になるところでもあったりするのですが、ともあれ今回は児童虐待が取り上げられています。どうやら経済的に追い詰められた不安定雇用層は元より、週刊ダイヤモンドの設定上は安定雇用で給与も下がらないはずの正社員の家庭でも状況は決して楽観できるものではなさそうです。

 祖父母世代との断絶も、親たちにとっては切実である。

 核家族化の影響で、縁遠くなっているばかりではない。祖父母たち自身がリストラされていたりして、貧困に陥っているケースも多々あるという。金銭的にも時間的にも余裕がなく、孫の面倒を見づらいのが実情だ。地方に住んでいたり、もともと親子の縁が切れていたりして、頼れないこともまれではない。

 もう一つ、掲載誌の設定上は若い親たちの親世代=中高年は不況から「逃げ切った」「既得権益」世代ということになっているようですが、もちろん現実は違うわけで、親世代=中高年のリストラに伴う貧困化が子世代=若年層を追い詰めている構造もまた指摘されています。元より「自立」に異常なまでの重きを置く社会でもあるだけに、実家が裕福であっても親に頼るという選択肢を頑なに拒む人も見受けられるなど(参考)、まぁにっちもさっちもいかないのでしょう。公的支援の充実した社会で親族からの自立意識が強まるなら理解できるのですが、日本のように公的支援の薄い社会がこれではどうにも……

 揚句、育児ノイローゼに陥る母親も少なくない。まじめな人ほど子どもの成長ぶりが気になりがちだ。育児本に書いてあることと違うと、それだけでパニック状態に陥ったりする。

(中略)

 だが、「落ち着いた生活ができるようになるまで、お子さんをいったん施設でお預かりしますから」と言葉をかけると、たいていの母親はいきり立ち、抗議の声を上げるという。

 「母親の癖に子どもを放りっぱなしにして」と日頃から周囲に責められ、白い目で見られてきたせいでは――と川松さん。

 母親は子どものために何もかも犠牲にするのが当たり前、という「母性神話」が、彼女たちを孤独へと追いやっている。「自力で育てられないのならなぜ産んだんだ」といった冷たい目線もある。パートナーとの断絶の次に親子を待ち受けているのは、社会との断絶なのだ。

(中略)

 「こんなご家庭がありました。通報を受けて訪問してみると、家の中は足の踏み場もないほどぐちゃぐちゃになっている。『お子さんをお預かりします』と話すと、親子はしっかり抱き合い、離れまいとしていました。虐待はあっても、心では慈しみ合っている。引き離すのが本当につらかった……。

 全部が全部ということではないでしょうけれど、虐待する親が必ずしも子どもを嫌っていたり子育てに不熱心かと言えば、そうでないどころかむしろ反対の場合も多いような気がします。まず子育てに妥協がないからこそ、育児本というマニュアルからの逸脱が即座にパニックに繋がるわけです。いい加減でテキトーな親だったらこんなことにはなりません。そして母親は子どものために何もかも犠牲にするのが当たり前、みたいな意識があるからこそ自分を追い詰めるところもあるのではないでしょうか。もう少し「冷めた」親だったら、自分で育てるのが難しいとわかれば、子どもを施設に預けてまずは自分の生活の立て直しに着手するはずです。しかるに子どもを他人の手に預けることができない「熱い」親だからこそ、そうした割り切りができずに不安定な関係を長引かせてしまっているようにも見えます。

 前出の吉田さんは「虐待しそうだ、と思ったら勇気を出して周囲やSOSを出してほしい。子育てに疲れたら、児童養護施設などで行うショートステイを利用するなどして、“親を休む”ことも大切です」と助言する。

(中略)

 “鬼父、鬼母”を責めるだけでは、子どもは救われない。社会が親を見守り支えることで、子どももまたのびのび育つのかもしれない。

 この辺に私は全面的に同意するわけですが、“親を休む”ための公的支援体制が整っているかと言えば、大体の自治体では改善が求められる状況のようですし、児童相談所の人員不足も深刻な状況にあることが伝えられています。「社会が親を見守り支え~」とのことですけれど、支えようとする代わりに罰を重くしようなんて運動さえあるわけですから始末に負えません(参考)。社会に期待が持てない以上は政治が率先して制度を整えていくしかないのですが、公的サービスの拡充=公務員増=大きな政府に乗り気な政党/政治家がどれだけいるのかと思うと……

 

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専門家の感覚も尊重されるべきだと思う

2010-05-22 23:05:51 | ニュース

裁判員制度施行から1年 死刑、無罪はゼロ(産経新聞)

 裁判員制度施行から1年を迎える21日を前に、最高検は20日、裁判員裁判の実施状況を公表した。20日までに対象事件で起訴されたのは1664人で、うち530人に判決が言い渡された。会見した最高検の藤田昇三・裁判員公判部長は、「おおむね順調」と評価。導入前よりも裁判員の判決が重くなる可能性が指摘されていたことについては評価を避けつつ、検察側の求刑について「(判決に表れる)国民の感覚を踏まえた求刑に変化していくだろう」と話した。

 判決を言い渡された530人のうち、無期懲役は8人で、有期懲役は522人、うち執行猶予が付いたのは93人だった。死刑、無罪は、いずれもゼロだった。

 執行猶予のうち保護観察付きとされたのは53人で、約57%。平成20年4月~22年3月の裁判官のみによる裁判で執行猶予に保護観察が付けられたのは約37%(最高裁調べ)だった。藤田部長は「裁判員が被告の更生と再犯防止に大きな興味を持った結果、保護観察の割合が多くなったのではないか」と分析している。

 検察側の求刑よりも重い判決が1人だったのに対し、強盗致傷罪での起訴が判決では窃盗と傷害とされるなど、判決で起訴罪名よりも軽い罪名が認定されたのは3人。「国民の結論を尊重した」(藤田部長)結果、検察側の控訴はない。

性犯罪、殺人で量刑重め=死刑と無罪ゼロ、無期8人―判決530人・裁判員制度1年(時事通信)

 裁判員制度がスタートしてから21日で1年。裁判員裁判は昨年8月から530人の被告に判決が言い渡され、このうち強姦(ごうかん)致傷罪などの性犯罪や殺人罪の量刑で重めの傾向があることが20日、時事通信のまとめで分かった。死刑と無罪はゼロ。無期懲役は強盗殺人や集団強姦致傷罪などで8人だった。

 同日までの集計結果によると、検察側求刑に対する判決の量刑割合は全体の平均で77%。罪名別では強姦致傷罪(集団罪も含む)が85%、強盗強姦罪83%、殺人罪も80%とやや高めだった。 

 比較対象となるべき裁判員制度施行前のデータが部分的にしか提示されていないので片手落ちの感も否めないのですが、ともあれ上記で伝えられているような結果が出ています。執行猶予に保護観察がつけられるケースが大幅に増加、量刑に関しても従来は求刑の7割程度が相場と言われていたところから8割弱にまで増加しているようです。そして強姦や殺人などセンセーショナルなものほど裁判員制によって罪が重くなる傾向も強いのか、こちらは80%台に乗っています。

 さて保護観察がつけられるケースは37%から57%へと急増したわけです。その母数となる執行猶予判決が増えているのか減っているかにも左右されますが、ともあれ保護観察が付けば、当然のことながら保護観察官なり保護司なりの仕事が増えます。現与党も前与党も次の選挙で躍進しそうな党も挙って公務員削減を掲げ、その方向性に関しては世論の広範な支持があるわけですけれど、保護観察の担い手である保護観察官という公務員の処遇はどうなるのでしょう。治安系は前政権から一貫して削減の対象外であり、現政権もその路線を踏襲する方針が伝えられていますが、保護観察官の扱いがどうなっているかご存じの方がいたら教えてください。

 まぁ保護観察官の数は随分と少ないですので(約1000人で、うち実働部隊は600人と聞きます)、実質的に保護観察の役割を負っているのはボランティアの保護司でしょうか。この保護司は「地域の有力者」が引き受けることが多いようですが、高齢化が著しく、人材難と後継者不足にあえいでいるとか。ともあれ鳩山が「新しい公共」などと言い出すずっと前から、「公」の不足を「地域の有力者」のボランティアによって補ってきた部分は少なくなかったわけです。そして保護観察付きの判決が増えて保護司の負担も重くなる一方で、保護司は減っていくものと予想されます。ならば今までボランティア任せにしていた部分を、「公」がしっかり責任を持つように体制を再構築する、つまりは公務員を増員する必要が出てくるのではないでしょうか。公務員削減を求めながら、公務員が担うべき仕事を増やしている、そうした矛盾にもっと自覚的になる必要があります。

 ちなみに藤田裁判員公判部長は検察側の求刑について「(判決に表れる)国民の感覚を踏まえた求刑に変化していくだろう」と話したそうです。これはどうなのでしょう、確かに検察側の量刑が全面的に正しいわけではない、国民の目にさらされることで改められる部分もあることは否定しませんが、しかし「国民の感覚」が絶対的に正しいのかと言えば、決してそんなことはないはずです。むしろ量刑に関わっていくことで、専門家の感覚を踏まえて国民の側が考えを改めていく必要もまたあるのではないでしょうか。検察側が一方的に国民感情に合わせて求刑を重くしていくことが健全とは言えませんし、それは怠惰ですらあります。検察のすべきことは「国民の感覚」に合わせて求刑を変更することではなく、従来の求刑が専門的見地から妥当なものであるということを、国民に理解してもらえるよう努めることにあるのではないかと思います。一方的に「国民の感覚」が司法に修正を迫るのではなく、司法もまた「国民の感覚」を修正していく、一方通行の関係ではなく、双方向的な関係=対等な関係であるべきではないでしょうかね。

 

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