非国民通信

ノーモア・コイズミ

食品に限りませんが

2008-06-30 22:51:03 | ニュース

飛騨牛偽装:丸明に立ち入り 「おいしい肉」信じてたのに 憤る客、同業者ら(毎日新聞)

 規格外の牛肉を「飛騨牛」と表示していたとして養老町の食肉卸売会社「丸明(まるあき)」に農林水産省岐阜農政事務所や県の立ち入り調査が入った23日、関係者に大きな動揺が広がった。地元では、丸明の小売店は多くの人が利用する有名店。店を愛用していた人たちは、信じていた「おいしい肉」をめぐる今回の問題に憤った。

 養老店では、丸明の関係者の女性が、なじみ客らに対して「ごめんなさい。すいません。がんばります」と謝っていた。日ごろから丸明の直営小売店の養老店(養老町)を利用しているという西濃地方の男性会社員(35)は「家族で焼き肉をするので買いに来た。信じられない。安くておいしいのに」と残念がった。また吉田明一社長と従業員が、偽装の指示をめぐって対立していることについて「見苦しい。従業員はうそをつかない」と、社長の指示があったと主張している従業員側を信じている様子だ。

 養老町の主婦(62)は「だまされた、という気分。飛騨牛というブランドを、長い歴史を重ねて作ってきたのに、たった1社のことで信頼が損なわれると思うと残念」と悔しそうだった。

 この後、社長は自分の指示による偽装であったことを認めたわけですが、それはさておき「安くておいしいのに」道行く人は何を残念がっているのか、そこを問いたいです。安くて美味しくてもブランド品じゃなければダメ、じゃぁ高くて不味くてもブランド品ならありがたいのでしょうか? 食品偽装云々を巡ってはことあるごとに繰り返しているわけですが、ラベルの誤魔化しに憤る人ばかりが多い一方で、その品質を問う人があまりに少ないのではないでしょうか?

 「安くて美味しい」肉を求めていたのなら、別に欺されてはいません。安くて美味しかったわけですから。この場合に「欺された」が成立するのは、品質の高い肉ではなく「飛騨牛」というブランドを追い求めていたケースです。中身ではなくブランドの真贋に拘って初めて「欺された」が成り立つのです。まぁ、良ければ下記リンク先のdr.stoneflyさんのエントリも読んでください。

「最近、丸明の牛肉を食った」…騙すのはいけないけどさぁ(dr.stoneflyの戯れ言)

 さて今回の事件、極論すればこんな印象です。ある会社の社長さんが、新人を一人欲しいと思ったとします。この社長は「A型の人は真面目だ」と信じていたとしましょう。そして採用面接です、「君の血液型は?」「A型です」「良かろう、A型なら安心、採用だ」と。そして採用された新人君はバリバリ働いて、社長にも高く評価されました。ところがある日、社長は気付きます。なんと新人君の血液型はB型だったのです! 新人君は血液型を偽装していました! 新人君は懲戒解雇されました。そして同僚は「信じられない、安い給料でよく働いていたのに」と残念がり、A型の同社お局は(62)は「だまされた、という気分。A型というブランドを、長い歴史を重ねて作ってきたのに、たった一人のことで信頼が損なわれると思うと残念」と悔しがります。めでたしめでたし。

 血液型とブランドを一緒にするなって? いやいや、血液型で人の資質や能力を判断するのが誤りであるのと同じように、ラベルでモノの善し悪しを判断するのだってナンセンスです。どんなラベルが貼られていようと中身は変わらないのに、その中身を問うことなくラベルに書かれたブランドを追いかける、ちょっと立ち止まってみる必要があるのではないかと。時にアイドルの年齢を巡って訳の分からない騒ぎになることなどありましたが、その人が営業年齢の25歳であろうと警察発表の35歳であろうと、その人が若返ったり老け込んだりするものではないでしょう? ラベルがどう書き換えられようと中身は一緒なのです。

 じゃぁ、何で嘘を吐くのかって? それは、需要に応えるためでしょう。自分の血液型をA型だと偽った新人君は何故嘘を吐いたのでしょうか? それは自分の能力よりも血液型がA型であることが問われていたからです。中身を問われるのであれば、彼は自分の資質を示そうとするでしょう。しかしA型であることを求められたのであれば、A型を装うほか採用される術はありません。同様に、品質を問うよりもまず第一に、ブランドであることを求められたのであればどうなるでしょうか? 答えは自ずから明らかです。

 「安くて美味しい」モノよりも「飛騨牛」というブランドをありがたがる、そういう需要があったからこそこの手の偽装が後を絶たない、内容や品質を問うよりも看板を見て判断する、だからこそ看板を偽ることが大きな意味を持つ、そうした社会的要因を抜きにして語られるべきではないと、そう思うのです。ブランドという他人が作り上げた基準でモノを評価するのではなく、自分の考えでモノを評価する、そういう社会であればこの手の偽装は意味を失いますし、そうなるべきなのです。それはもちろん、食品に限らないことですが―――

 

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四つん這いになれ

2008-06-29 22:38:27 | ニュース

伊大聖堂の落書きハートマークも 日本語は全体の1割(共同通信)

 イタリア・フィレンツェの世界遺産登録地区にある「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の壁には、これまで判明した京都産業大などの学生らによるもの以外にも多数の日本語の落書きが書かれていた。日本語は全体の1割程度、ハートマークの中に多くの女性の名前が書かれ、その下に「本当の愛をさがしにいくよ」との落書きも。都内の私立大生を名乗るものもあった。

 なんでも某所の世界遺産に日本人が落書きしたとか、局所的に話題になっているらしいニュースです。遺跡に落書きなんて珍しくもないような気がするわけですが、マナーやモラルにうるさい社会では大問題です。発端となったのは落書きの一つに書かれていた学校名、その学校名をヒントにわざわざ通報した暇人がいたようで、それを嗅ぎつけたマスコミが全国紙で大々的に報じたことから火が付いたようです。

 で、人の殺到する観光名所に落書きはつきもの、探してみたら他の学校名も色々と書かれていたようです。そして話題に乗り遅れまいと他の新聞社も先を争って学校名を晒し上げようと血眼になっているのが現状でしょうか。中には数年前に遡って咎め立てするケースもあるようで、我々の社会が何を重要視しているかがわかりますね。聖堂管理側は「謝罪してくれれば修復の費用負担は不要」とのことですが、日本の学校側は軒並み処分する方向で検討中(一部では既に停学処分が発表済)とか。

 ちなみに学校名を晒し上げる他紙とは一線を画したいのか、共同通信は落書きに占める日本語の比率を数えてきたみたいです。何でも全体の1割だそうで。これが多いのか少ないのかは判断に苦しみますね。この手の観光地って日本人が多そうですし。

アンワル氏に同性愛容疑 マレーシア野党、弾圧に反発(共同通信)

 マレーシア警察幹部は28日、野党人民正義党の指導者アンワル元副首相を同性愛行為の容疑で捜査中と明らかにした。同氏は「でっち上げだ。与党連合政権の悪あがきだ」と声明を発表、捜査を利用した野党勢力弾圧に警戒を呼び掛けた。同氏は98年にも同性愛行為で起訴され、無罪が確定。警察幹部は同氏スタッフが被害を届け出たとしているが、人民正義党は警察の証言強要と反論。

 前編とは全く関係ありませんが、こっちは報道する価値のあるニュースです。野党指導者が同性愛の容疑で訴えられたとか。そもそも同性愛の真偽を問う以前に、同性愛を処罰の理由にすることが間違いですね。ここでは「同性愛を罪に問うことが間違っている」と弁明するのが最もリベラルな回答になりますが、しかるに人を貶めようとする屁理屈屋はそこで問題をすり替えて「同性愛者だからそう言うのだろう」と微妙にずれた詰問を続けるでしょう。日本のウヨと同じです。しかし「自分は同性愛ではない」と弁明すれば「同性愛は悪である」との価値観を受け容れたことになるのです。ここはもう「四つん這いになれ」としか言いようがありません。

 で、気になったのは同性愛の「被害」を届け出たという件です。これが強要である可能性も濃厚ですが、「同性愛の被害」って何でしょうか? その人の意思に反して性行為を強要したのなら「強姦」や「セクハラ」です。逆に成人双方の合意の上での行為なら、それは「被害」ではなく「共犯」です。両者が同意した上で違法行為を行った場合、それは「被害を届け出る」のではなく「犯行を自白する」でしょう? どういう文脈で「同性愛の被害を届け出る」が成り立つのか不思議です。

 ちなみに(統計のある国で)日本よりも強姦が少ないのは全てイスラム教国です。イスラムでも最も閉鎖的な部類に入る社会では、強姦の罪は「誘惑した」女性に問われるようで、それで記録上の強姦件数が少ないと推測されます。同じイスラム教国でも東南アジアの方は中東よりも緩そうな印象があったのですが、マレーシアはどうなのでしょうか? 「強姦」や「セクハラ」よりも優先順位の高い罪として「同性愛」があると今回のような結果になるのでしょうかね。

 

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発電量は減らないよ?

2008-06-28 22:38:54 | ニュース

 橋下知事の自称財政再建プランなど見ていると痛感するのですが、「無駄なもの」をカットするのと「無駄と思われているもの」をカットするのでは全く違うわけです。本当に無駄なものをカットすれば、それは将来的なプラスになるでしょう。しかし実際は無駄ではないのに無駄だと信じられている、そういうものをカットすると徒に世の中を混乱させるだけにしかなりません。無駄を減らすというのなら、まず何が無駄なのかを考えなければならないのですが、往々にしてこの段階は省略されます。何が無駄なのかを実態を調査するよりも、思いこみや偏見で済ませようという人が多いわけですね。そうして現実ではなく思いこみに基づいた政策が振りかざされ、それが支持を集めてしまう……

「コンビニ深夜規制」京都の発信(産経新聞)

■市長「夜型社会を昼型に」/業界「CO2削減は疑問」

 「京都議定書締結の地」として環境先進都市を自負する京都市の門川大作市長が、温室効果ガスの削減策として、コンビニエンスストア深夜営業の自主規制をめぐる議論を仕掛けている。他自治体でも同様の動きが出始めているが、業界側は「削減効果はごくわずか。24時間営業は社会に欠かせないインフラ」と主張し、猛反発している。待ったなしといわれる地球環境対策だが、社会のライフスタイルに根ざした24時間営業だけに、規制の議論は曲折が予想される。

 「市民会議で24時間営業を大胆に見直してもらいたい」。京都市の門川市長は24日、コンビニ深夜営業の自主規制の議論を深めるため、市民や業界関係者でつくる「市民会議」を設置する方針を明らかにした。

 市は、低炭素社会の実現に取り組む自治体を国が認定する「環境モデル都市」に名乗りをあげており、自主規制に伴う電気代節減などによる二酸化炭素排出量削減効果を狙っている。

 自粛要請の是非や規制内容は市民会議の議論に委ねるというが、門川市長は「夜型社会を昼型に変えていきたい。行政主導ではなく、国民的議論を巻き起こしてほしい」と述べた。

 反共連合(自民・民主・公明・社民)の支援を受けて当選した教育再生会議の門川市長が何やら宣っているようです。東京の慎太郎さんもこれに同調するコメントを発表したとか。コンビニの深夜営業の自主規制を求めるそうで、まぁ例によって思いこみに基づいた発案です。つーか「自主」規制を求めるって変じゃござーませんか? 規制は「上」の意思なのに、それを自主的にやれと言うところが嫌らしいですね。人柄が偲ばれるます。

 以前にも書いたような気がしますが、発電所は急に止まれません。消費電力に応じて発電量を柔軟に調節できるようなものではなく、常に一定の電力需要をまかなえるよう稼働し続けるものなのです。特に原子力発電所は調節なんてできないわけで、発電量は昼も夜も変わりません。火力発電所であれば弱冠の調整は利くようですが、それでも昼と夜の電力消費量の膨大な差を埋め合わすには足りません。そもそも発電機は同じ出力で続けて使い続けることで効率が最大になるように作られているはず、稼働率を落としても省エネ効果はそれほど期待できそうにないかと。

 まぁ要するに、発電量は変えられません(原発を水力発電に切り替えれば幾分調整が効くようになりますが、今さら難しいでしょ?)。昼間のピーク時に対応できるように発電した以上、夜間も同じように発電が続くわけです。しかるに発電量には昼と夜とで大差がなくとも、電力消費量には雲泥の差があります。電力需要の少ない夜間は発電された電気が余るわけです。そして電気は石油のように貯蓄しておくことなど出来ません。

 そんなわけで電力会社は有り余る夜間の電気を有効活用しようと、深夜電力の活用を呼びかけているわけです。電力会社にしてみれば、これが省エネです。ところが「夜型社会を昼型に変えていきたい」などと言い出す人がいます。馬鹿を言っちゃいけません、今まで夜に行われていた活動が昼に行われるとなると、ますます昼間の電力需要が増えてしまう、ピーク電力の増大に繋がってしまいます。そうなれば電力会社は発電量を増やす必要に迫られますし、昼間の電力需要に合わせて増強された発電所は昼夜問わず稼働を続けるわけで夜の発電量も増えてしまう、どう見てもエネルギーの無駄です。原発時代の省エネを考えるなら昼の活動を夜に移す、昼夜フラットな社会にしてピーク電力を抑えるしかないのですが、偉い人にはそれがわからんのです、と。

 で、この手の「思いこみ」に基づいた政策が幅を利かせているわけです。何が問題か、何が原因なのか、それを見誤ったままでは有効な解決策など打ち出しようがないのですが、不思議とその前提部分が問われない、自らの盲信する「思いこみ」と心中しようというわけです。愚かしいと言えば愚かしいわけですが、この「思いこみ」が有権者と共有されていれば「国民(府民)の目線に立った~」と賞賛される有様なのです。

 そして今回のコンビニに「自主」規制を強要するプランですが、発電量の抑制には全く無意味、深夜電力の余剰が増えるだけの愚策です。環境を考えたつもりになるだけで自称「環境モデル都市」とはお笑いですが、改革を考えているつもりになっているだけの知事が改革派として期待を集める時代ですから、まぁそういうものなのかも知れません。冷静に見れば「環境モデル都市」ではなく単に規制の多い都市にしかなれないのですが、誰も後先のことは考えません。

 

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自由律俳句1

2008-06-27 23:13:51 | 文芸欄

 

気がつけば日曜の夜

― 管 理人 ― 

 

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橋の下からさらに下へ

2008-06-26 23:03:50 | ニュース

橋下知事「国の無駄遣い納得できない」 自民本部で講演(朝日新聞)

 「美辞麗句を言われても、今の国で行われている無駄遣いを見せられると国民は納得できない」――。大阪府の橋下徹知事は25日、自民党本部で開かれた「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム」(座長・園田博之政調会長代理)の会合で講演し、中央省庁などの無駄遣いを批判した。

 会場は自民党国会議員ら数十人が集まる盛況ぶり。「行政に携わって4カ月の僕が皆さんに政治の話をするのは大変恐縮だが」と切り出した橋下知事は、後期高齢者医療制度が批判されているのは国の無駄遣いが背景にあると指摘。「やはり、中央のお役人さんが自分たちの身をどれだけ削ったのかということが、国民にはわかりやすい」と述べ、国家公務員の人件費削減などを求めた。

 橋下知事は前日、人件費を大幅削減する府の予算案を発表したばかり。出席した山本一太参院議員は「『行動で示さないと国民の理解は得られない』というのが印象的だった」。片山さつき衆院議員は「国の来年度予算をつくるうえで、大阪府を下回っちゃいかんという気持ちでやらないといけない」と話した。

 無駄遣い撲滅は結構なんですが、何が無駄かを分かっていることが前提です。無駄ではないものを削って無駄なものには手をつけない、それでいて「無駄を削った」と豪語されても薄ら寒いばかりなのですが、まぁ往々にして中身は問われないものでもあります。そのツケはやがて国民に回ってくるのですがね。

 大型事業には軒並み手つかずで公務員叩きを繰り返しているだけの橋下が財政再建の有効策を打ち出せるとは思えないわけですが、しかるに政治の世界は今や悪役とヒーロー役が設定された勧善懲悪の舞台、聴衆と化した有権者が誰に喝采を送るかは初めから決まっています。後期高齢者医療制度を強行採決した小泉純一郎が今なお讃えられ、それに抵抗勢力として反対した中央省庁が批判の矢面に立たされている現状を考えてください、やったことが何であろうと、賞賛される人と非難される人は最初から決まっているのです。

参考、
厚生労働官僚のモラールが崩壊しかかっている件(BI@K accelerated: hatena annex, bewaad.com)

 嫌われ者を叩いていれば支持は集まる、気にくわない奴が叩かれていれば満足できる、それがいかに不毛であったとしても関係ない、そんな状況でもあります。拉致被害者家族会を見てください、拉致問題を何一つとして進展させることのなかった自民党政府と家族会の関係はどうですか? ただ対岸から相手を罵るだけの政府に失望して袂を分かったのは一人ぐらいしかいません。「進展がない」ということはそれほど大きな問題ではないのです。大事なのは憎き北朝鮮への敵視が続けられていることであり、進展がないことに対してではなく制裁解除の可能性にこそ彼らは憤るわけです。

 橋下と支持者の関係もそれと同じです。支持者にとって重要なのは自分達が憎悪し蔑視している公務員への攻撃が継続されることであり、財政再建の結果など問われません。財政再建がどうにもならなかったとしても、それについて橋下の責任が問われることはないでしょう。例によって「抵抗勢力」に責任が押しつけられて終わるだけです。拉致被害者家族会が求めているのが進展ではなく制裁であるように、有権者が要求しているのは財政再建ではなく公務員叩きなのです。せいぜい違うのは拉致問題の非がどこにあるかは明確なのに対し、財政問題は純粋に憎悪と偏見に基づいて犯人捜しが行われたことだけです。

一戸建てに住んで何が悪い?

 先日に書いたこのエントリ、抗議の先頭に立っていた労組委員長が「一戸建てに住んでいる」とポリから非難されているのを扱ったものです。馬鹿馬鹿しい言いがかりですが、それでも「恵まれている」ことを理由に抗議する資質を問うような発想は根強いわけです。私財を投げ打つなど自分を犠牲にすることで、ようやく他人に何かを訴える資格ができる、そういう発想は根本的な誤りですが、同時に幅広く通用し続けているものでもあるのです。

 で、橋下曰く「中央のお役人さんが自分たちの身をどれだけ削ったのかということが、国民にはわかりやすい」と。ヒャッホー、欺される人が多そうです。我々は自分を犠牲にしたのだから、お前も自分を犠牲にしろと、そういうシナリオです。でもいいですか、自己犠牲を模範としている以上、必ず我々全員にも犠牲が求められる、自分を犠牲にすることが要求されるのです。国民(府民)が犠牲にされそうになったとき、そこで抗議しても無駄です、「自分達も骨身を削ったのだから」と押し切られてしまうだけです。

 そもそも「我が社は経営難なのでこれだけ社員の給与を落とし、待遇を悪化させました」と誇らしげに喧伝して回る社長がいたら、その人には入院してもらった方がいいですよね? ところがそんなイカレタ親分が賞賛されるのが現状なのです。ここで肯定的な価値を持っているのは給与削減、待遇悪化であり、それが追求される価値です。片山さつきは「大阪府を下回っちゃいかんという気持ちで」と語りましたが、実際に追求されるであろう方向性は逆です。「大阪を下回ろう」歓迎されるのはそちらですから。「我々は他社よりもしっかり給与を払ってやろう」そう考えるのではなく「我々は他社よりブラックです」と、そうしたアピールが歓迎されるのです。

 そもそも自分を痛めつけることで理解を得ようというこの発想、要は物乞いとして同情をひくために子どもの手足を切り落とすのと同じではないかな?と。

 

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社内行事は業務です

2008-06-25 23:09:10 | ニュース

「飲み会5時間、業務でない」=帰宅途中の転落死に労災認めず-東京高裁(時事通信)

 社内で開かれた飲み会に参加した後、帰宅途中に地下鉄の階段で転落死した男性会社員=当時(44)=の遺族が労災認定を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は25日、約5時間にわたる飲み会は業務といえないとして、労災を認めた一審東京地裁判決を取り消し、遺族側の請求を退けた。

 宮崎公男裁判長は、「飲み会が社員から意見を聞く『業務』と言えるのは開始から2時間前後まで」と指摘。その後も約3時間飲酒したために酔って転落した可能性が高く、事故は通常の通勤に伴うものとはいえないとした。 

 会社の人間関係次第ではありますが、むしろ飲み会が長期化しているからこそ業務として扱われるべき、そちらの方が実情に即しているような気がしますね。

 この手の社内行事をみると、会社の質が分かるような気もします。社内行事が盛んな会社は概ね、会社が個人に干渉したがるパワハラ体質の企業と見てよいのではないでしょうか。社内行事が頻繁で、かつ強制参加、途中退出が許されない会社も多いですよね? 万が一社内行事への参加を拒否しようものなら、単に個人が咎められるだけでは済まない、そんな会社だってあるくらいですし。

 何でも政党関係者にはしばしば党員獲得のノルマが課せられるようですが、それと同じ様なことが会社でも起こるわけです。中間管理職には社内行事出席者の獲得ノルマが課せられる、そういうケース(レアなケースであってくれるに越したことはありませんが)もあるでしょう? 要求される出席率を達成できない課ですと、課長が呼び出されて罵倒されたりするのです。で、その課長を怒鳴り散らす部長も実は常務から呼び出しを喰らっていたりする、そういうものです。社内行事の出席率が悪いと社長が激怒し、社長に怒られた常務が部長を叱責、部長が課長を事務所裏に呼び出して、オフィスにまで聞こえるような大声で喚き立てる、それで課長が「お前ら絶対に出席しろよ、業務命令だからな」と下っ端に厳命するわけです。

 そんなわけで、私に言わせれば飲み会に代表される社内行事は純然たる業務です。主な業務内容は「上司の接待」ですね。最大の目標は主催者である社長(この辺は会社の規模によりますが)を喜ばせることで、参加を強いられた下っ端社員は言わば場を盛り上げるために動員されたサクラの役割を果たしているのです。ですから当然、社内行事による拘束には残業代なり深夜勤務手当てを支給しなければいけません。

 社内で立場が強く、接待される側の立場だったり(次長というのは際どいポジションです)、自分が好きで酒を飲んでいる場合もあるでしょう。しかし、上司を接待するために飲み会から抜けるわけにはいかない、付き合いの関係上、意に反して飲まざるを得ない場合も多々あるはずです。そうしたリーマン事情を今回の判決がどの程度考慮しているのかどうか、私は異議を唱えたいところです。むしろ5時間も続けられたからこそ、会社側の意思による拘束であり、労災として認めるべき事例にも見えるのですが。

 

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恥の意識を失うとは?

2008-06-24 23:05:51 | ニュース

 

解放の中村さんに高村外相が「戒め」(朝日新聞)

 イラン南東部で誘拐され、14日に約8ヶ月ぶりに解放された横浜国立大生の中村聡志さんが23日、父親の淳貴さんと一緒に外務省を訪ね、高村外相と面談した。

 外務省によると、高村氏は早期解放のためにイラン政府に何度も働きかけたことを説明。小野寺五典外務副大臣が解決時を含めて計4回テヘラン入りしたことなどを念頭に「日本政府が多大な時間と費用をかけて対応したことを忘れないで欲しい」と伝えた。

 web上では掲載されていないみたいなんですが、6/24朝日新聞社会面、私の居住エリアだと38面の記事です。まぁ自民党のセンセエは相変わらずですね。

 前世紀に書かれた本なので時代は変わっているかも知れませんが、飛び込み自殺の話がありました。なんでも電車に飛び込んだ場合、都市部の路線では数百万の損害が発生するとか。「通常は世論を意識して損害賠償は請求されない、と訳知り顔に言う人もいる」らしいのですが、JRは目立たぬようにひっそりと損害賠償を請求するそうです。

 JR側にしても列車遅延には相応の損害を被るわけで、その損失を何とか穴埋めしたいもの、となると遺族に賠償を要求することになりますが、そのことをどう意識するかですね。遺族に請求することに、JR側はどういう意識を持っているのでしょうか? それが大々的に行われるのではなく、できるだけ目立たぬように行われるとすれば、JR側はその請求をできるだけ隠しておきたいと思っている、自慢できるようなものではないと思っていることを意味するはずです。

 そうでしょうね、いかに自社に損害を与えた相手といえど、同時に相手側にとっても不幸のはず、それを責め立てるような行為は外聞が良くない、そう判断するのであれば賠償請求は密やかに済ませたいものです。ホトケに鞭打つ様な真似をすれば世論から冷たい視線を浴びるだろう、そういう判断がここでは働いているわけです。

 時は変わって21世紀、海外で誘拐された被害者に向かって大臣閣下に曰く「日本政府が多大な時間と費用をかけて対応したことを忘れないで欲しい」だそうで。被害者への接し方も変わりましたね。被害者を責め立てるような真似をしては世間の聞こえが悪い、そういう意識が働いていた時期もあったようですが、我が国の重責を担う公方様にはそんな観念は通用しないようです。

 もちろんJRが被った損害の補償を求めるように、高村外相だって費やした時間や費用を恨めしく思うこともあるでしょう。誰だって聖人君子じゃありませんからね。しかし、そうした負の感情を表に出さないのが体面を重んじる大企業なり責任ある立場の人間の所作だったような気がします。聖人君子じゃないけれど、とりあえず人前では聖人君子のフリをして過ごす、こうした意識はどこに消えたのでしょうか? 相手が気に入らないからと、被害者相手に公然と恨み言を口に出す、こうした振る舞いは高村外相の人間性を疑わせるだけだと思うのですけれど。

 ところがまぁ、この手の振る舞いが非難を受けるどころか蔓延しているのが現状です。聞くところによると自民党の笹川氏は「救出に要した費用は本人の負担とすべき」との考えを示したとか。これに結構な賛意が寄せられてしまうのが現状なのです。他人を咎め立てして責任を迫る、こうした所業から後ろめたさが失われ、むしろ誇らしげに語られる、そんな有様です。よく人前で化粧をすることを云々とか言われますが、それ以前に人前で立場の弱い人を咎め立てする、こうした行為を恥ずかしく感じなくなったことの方が、モラルの低下云々を説くにはよほど説得力があるように思うのですがねぇ。

 

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一戸建てに住んで何が悪い?

2008-06-23 22:56:08 | 編集雑記

 gegengaさんのところで知ったのですが、産経新聞が色々と酷いようです。産経新聞ですから今さら驚くことではないわけですが、まぁ詳細はリンク先をお読み下さい。

あふれ出る悪意と偏見(かめ?)

 内容はと言えば釜ケ崎の暴動の件で、抗議の先頭に立っていた稲垣氏が道交法違反容疑で逮捕された辺りまでを扱っています。で、府警幹部のコメントとして産経新聞が取り上げたのがこちら、

 「労働者の側に立つ自分をアピールして、活動へのカンパを集めやすくしているのではないか。稲垣容疑者自身、一戸建ての住宅に住み、高級車に乗っていることをどれだけの労働者が知っているのだろうか」

 あーあー、色々な意味で的を外れたコメントですが、類似のものは良く見ます。使い古された印象がありながらも繰り返されるのは、それが有効だからでしょうか。例えばそう、色々と構って欲しそうな赤木智弘さん(今日もリンク貼ってくれるかい?)が『蟹工船』のブームに触れてこう語っていました。「『蟹工船』の世界は、結婚している労働者がいるなど、今のフリーターより恵まれて見える面もある」と。う~ん、さすが目の付け所が(私とは)違いますね(産経新聞やポリとは一緒ですが)。

 そいつはそうと、府警&産経新聞のコメントにgegengaさんは反論されるわけです。

稲垣容疑者がどんな家に住んでどんな車に乗っているのか知りませんが
この書き方
「稲垣容疑者は、活動へのカンパを私的に流用して贅沢している」
と、臭わせているように感じられる。
そうじゃなきゃ
「ドヤ街で労働運動をするような人間は私財を全部なげうつべきだ」ってこと?
そこまで労働運動のハードルをあげられちゃあ、たまらんわな。

 いやはや、全くです。高級車ってのはたぶん誇張でしょうが、一戸建ての家に住んでいるくらいで労働運動に携わる資格を問われるとしたら堪ったもんじゃありません。貧乏にならなきゃ労働者の味方ではないというなら、よほど奇特な人じゃなきゃ労働者の味方なんてしません。何らかの点で恵まれていることを理由にその人を拒絶するなら、それは他人に貧しくなれと迫っているのと同じです。「本気で革命するつもりなら、その美しい顔を潰してみろ!」、そんな発想と同じなのです。

 それはさておき、我々はもっと打算的にならなきゃいけません。先日は労働者にとって望ましい雇用主の条件を問いましたが、今度は望ましい労働運動の指導者の条件を問いましょう。労働運動の目的は何ですか? 待遇改善ですか? それならば、その目的達成のために有用であることが指導者の資質を問う唯一無二の要件です。待遇改善という結果を導くことが出来なければ、いかに献身的で善意溢れる指導者であっても失格です。一方、労働者の待遇改善を導くことができる指導者ならば、彼がどれほど強欲であったとしても、その責務を果たしています。

 ところが、しばしば基準は別のところに動かされます。目的本位の基準ではなく、道徳本位の基準に。すなわち目標達成のために有用かどうかではなく、道徳的な善悪がそれに取って代わるわけです。良き指導者とは献身的で清廉な指導者、強欲にして貪欲な指導者は悪であると。先日のエントリの使い回しですが、どこも似たようなものなのです。そしてこの産経&府警報道は稲垣氏の(ドヤ街の労働者よりは恵まれている)生活環境を引き合いに出し、そして道徳的な判断を迫るわけです。

 ともあれ、このハードルを上げること、労働運動に過剰な自己犠牲を要求することで2つの拒絶が作り出されているわけです。一方は参加することへの拒絶で、労働運動への参加が私財を投げ打つことを要求するなら、自ら進んで労働運動に参加しようなどと思うのは極々一部のスキモノだけになります。そしてもう一方は労働運動を支持することへの拒絶で、その参加者や指導者が十分に犠牲を払っていないこと、私財を投げ打っていないことを理由に彼らの運動を否定する世論がそうです。昨今はとりわけ後者が濃厚ですが、いやはや、いつからこうも献身的であることが当然視されるようになったのやら。

 そもそも献身的であった方が望ましいと思うなら、それは大間違いです。他人の犠牲は厭われるが自己犠牲は美しい、そう思ったら大間違いなのです。いいですか、自己犠牲を賛美するような社会なり共同体では必ず、あなたにも自己犠牲が求められます。善行として。自己犠牲も他人の犠牲も一緒です。もし指導者が極度に献身的な人物であり活動のためにあらゆるものを犠牲にして厭わない、その姿勢が信奉されているとしたら、いずれ参加者であるあなたにも同様の振る舞いが実質的な強制として奨励される日が来ます。むしろ我々は献身的な指導者像に警戒を抱くべきです。一戸建てに住むことを自らに禁じるような指導者は、いずれあなたにその機会が訪れたときに必ずやそれを禁じます。反対に普通に家くらいは建てている、人並みに欲望を肯定している、そういう指導者こそ安心して担げると考えるべきなのです。

 

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憎しみが生む連帯感

2008-06-22 22:44:42 | ニュース

 さて大阪では1000億を超える巨額の大型投資には手をつけず、ひたすらに職員の給与カットを迫る府知事がいるわけです。財政再建案としてはお世辞にもクレバーとは言えませんし、自分の部下を弱体化させては自分の組織もダメになるわけですが、それでも全国的に支持されていたりします。反対に、この府知事のやり口に反対する人に対する非難の方が遥かに賑やかですね。

朝日新聞「死に神」報道:「素粒子」に抗議1800件 「風刺コラム難しい」(毎日新聞)

 死刑執行の件数をめぐり、朝日新聞夕刊1面のコラム「素粒子」(18日)が、鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した問題で、朝日新聞社に約1800件の抗議や意見が寄せられていたことが分かった。

 で、例の「死に神」騒動です。死刑を乱発する鳩山法相を「死に神」と皮肉を込めて報じた朝日新聞に鳩山法相が激怒、大人げない猛抗議に至った事件ですね。昔の自民党議員は良くも悪くも「汚い大人」と言いますか、本音では怒っていても顔には出さず、当たり障りのない言葉でその場を収めてしまうイメージがありました。それに比べて今の自民党議員は子どもですね。ちょっと自分に嫌なことを言われるとムキになる、ガキです。こんな人間性だから大人の支持が自民党から民主党に移っている気もしますが、その代わりに若者の支持が強まっているから彼らも無反省です。

 さて、落ち着きを見せるべき立場の人が感情的になっている昨今ですが、その手の人、つまり鳩山や橋下がどういう理由で支持されているのか、それを考えてみる上でここに引用した抗議1800件は興味深い事例ではないでしょうか。橋下に意見した府職員が報道されたときもそうでした、あの時も職員に対する抗議や脅迫が殺到しましたね。この辺を取り巻く人々の意図はどの辺にあるのでしょうか?

 実のところ鳩山や自民党、橋下の類を主体的に、あるいは積極的に支持している人は、それほど多くないような気がします。かつて積極的に自民党を支持してきた人は小沢民主に相当な数が奪われているはずです。ところが新たに湧いてきたのが、より消極的な理由で与党や橋下のようなタイプを支持する人々ではないかと。

 彼らは自民党が、鳩山が、あるいは橋下が好きだから支持するのではありません。「好き」で結びついているわけではないのです。では何によって? それは「嫌い」によってです。彼らは自民党と対立するものが、鳩山と対立するものが、橋下と対立するものが嫌いだから、その自分の嫌いなものと対立している人を持ち上げようとしているのです。

 今回の件もそう、鳩山を支持する以上に「死刑に反対する人々が嫌いだから」というのが巨大なモチベーションとして存在するのではないでしょうか。死刑への異議は気にくわない、だから死刑に異議を唱える人々の「敵」を支持する、それが結果的に鳩山支持、自民党支持にも繋がるわけです。橋下の場合も同様、公務員憎しで凝り固まっている人は、その大嫌いな公務員を叩いてくれる人を結果的に支持するわけです。

 まぁ他にも正社員憎しが高じて、社員の待遇切り下げを進める財界人や御用学者と同じ視点に到達する人もいれば、外国から意見されるのが気にくわないと熱烈な調査捕鯨擁護論者に目覚める人など、どうしようもないケースは多々あります。昨今の右傾化にしたところで愛国心云々よりも「サヨク嫌い」の方がモチベーションとしては大きいのではないでしょうか? 国旗・国歌云々にしても、国旗や国歌が好きだから敬えと言う人は多くありません。国旗や国家に服従しない人のことが気に入らないから、それで国旗・国歌を掲げ始めるわけです。

 そして結局のところ、我々の社会は「御上」に楯突く人が何より嫌いなのです。自分自身が御上=政府与党に不満があったとしても、それ以上に御上に異議を唱える人々が嫌いであり、そうした人々の胎教に立とうとする、結果的に権力の側に立つのが昨今の世論です。昔も今も、政治家なんてそんなに尊敬されていません。誰もが影で笑い物にしています。鳩山や橋下だって同類、右からも左からも別に重んじられてやしません。しかし、そこに「嫌い」が混じると話は変わってきます。この権力に異議を申し立てている人がいる、この異議申し立てを我々の社会は何より嫌っており、それが転じて権力の擁護に繋がっている、そんな見方もできるのではないでしょうか?

 

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日本は誰に住みよいか

2008-06-21 20:41:57 | 非国民通信社社説

 日本社会が経営側に優しいと言った場合、少なくとも2種類の意味があります。一つは制度上の優しさ、際限のない減税や雇用側に求められる負担の小ささ、緩和され続ける規制がそうですね。もう一つは世論の優しさと言えばいいでしょうか、経営側ではない人々、労働側に属する人々が不思議と経営側の主張を鵜呑みにするばかりか、むしろ積極的にそれを擁護する傾向すら見られるわけです。

 今まで扱ってきたものをここで繰り返してもキリがありませんが、たとえばそう、雇用の問題を雇用者抜きで考えさせよう、考えようとするのがそうですね。非正規雇用を増やして労働分配率を減らしてきたわけですが、必然的に数の増えた非正規雇用が問題になる、そうなったときにどうすべきか、単純に考えれば「元に戻す」それだけです(トータルで見れば企業の収益はバブル期を上回る水準にあるわけで、元よりも上の水準に引き上げることも可能でしょうが)。

 ところが、せっかく増やした会社の取り分、企業所得に手をつけたくない、つけさせたくない人が多いわけです。そうなると、雇用者報酬、労働者側の取り分の中で問題を完結させるしかない、だから経営側の視点に立つ人は、非正規雇用の正社員化を進めるには正社員の待遇引き下げが必要と説くわけです。随分と一方的な言い分ですが、これがまかり通ってしまうのが「優しさ」です。しかもこの手の主張を経営側に属する人間がするのであれば納得できますが、しばしば労働側がその気になって繰り返している有様、経営側の自己弁護を労働側がその気になって繰り返し、その辺の一人を自称左翼雑誌が持て囃している、救いようのないどん底ぶりです。

 結局のところ、労働側の視点が欠落しているわけです。経営側の視点ばかりが世を席巻する一方で、それに対抗するものはどこにあるのでしょうか? まず考えてみましょう、労働側にとって好ましい経営者って何でしょうか? (奇妙な言い方ですが)仕事をビジネスと考えるなら、労働を修養だの自己実現だのいかがわしいもので誤魔化さず、生活の糧を得る手段と考えるなら、労働者にとって望ましい雇用者の条件は一つです。すなわち十分な報酬を与えてくれること、です。

 まず先に報酬が目的としてあり、それを獲得する手段が労働であるなら、そこで十分な報酬という対価を与えられるかどうか、これが雇用主の資質を問う絶対の要件です。労働者に十分な報酬を与えられないのであれば、いかに献身的で善意溢れる雇用主であっても失格です。一方、十分な報酬を支払う雇用主はどれほど強欲であったとしても、その責務を果たしています。

 ところが、しばしば基準は別のところに動かされます。ビジネス本位の基準ではなく、道徳本位の基準に。すなわち支払うべきものを支払えるかどうかではなく、道徳的な善悪がそれに取って代わるわけです。良き経営者とは献身的で清廉な経営者、強欲にして貪欲な経営者は悪であると。なるほど、どちらかと言えば前者の方が人としては好ましいかもしれません。しかし、どれほど善良であろうと従業員に適切な給与を支払う能力がないのであれば、経営者としては失格であり早急に退場願うべきものでは?

 市場原理は、収益性の低い企業や中小企業には厳しいものです。ですからその市場原理を振りかざしてきた昨今の自民党政府の政策は、ともすると中小企業に厳しいものであると、そう思われるでしょう。確かにそれも一つの側面です。しかし、それとは相反するものもあったはずです。労働側に十分な報酬を支払う能力のない、労働側の取り分を削って会社に回すことでしか存続できない、そんな欠陥企業や欠陥産業に対する厳しさはどれほどのものだったでしょうか? そこで繰り返されたのが派遣法の改正であり、これによって安価な非正規雇用に依存しないと存続できない欠陥企業に蜘蛛の糸が垂らされたわけです。

 最低賃金の引き上げを巡っても同じことです。最低賃金を他の先進国と同党の水準に引き上げると(低賃金労働に依存することでしか成り立たない)経営が立ち行かなくなる、そう主張して最低賃金の引き上げを阻むことに協力しているのは誰でしょうか? ブラック企業にこそ我々の社会は優しいのです。

 業績が長い間、振るわないような会社は、自社が抱え込んでいる資金と人材などの社会資源はいったん返上し、さらに効率よく資金や人材を活用できる企業に吸収してもらう。それも大きな社会貢献と言えます。

 ほとんどの企業経営者は、営利活動を通じて何らかの形で社会貢献したいと願っています。その社会貢献には、社員を一生、会社が面倒を見ることも含まれているのだと思います。しかし、ここで冷静に考えなくてはいけないのは、社員が安心して同じ会社で働けることも1つの社会貢献なら、自社の有能な人材を今よりさらによい環境で働いてもらえるようにすることも貢献の1つです。

 宋文洲氏はこう語りましたが、残念ながら日本では企業を存続させることが何よりも重要視されたままです。人ではなく会社を生かすことの方が優先順位が高いのです。

 

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注(別エントリからの使い回しですが)、
 採算性が低い場合でも、公共性が高い場合は行政の公共部門として吸収されるべきです。上で取り上げなかった日本経済の特徴の中には「公務員が少ない」こともあるのですが、これは医療や福祉、教育など公共性の高い事業をあまり重視してこなかった上に、不適切な民営化が進められた結果でもあります。構造改革に伴う「痛み」によって一時的に雇用が不安定化するのであれば、こうした不足している公共部門を雇用の受け皿として活用する必要があります。

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