非国民通信

ノーモア・コイズミ

アメリカの2軍

2007-10-31 22:21:26 | ニュース

「給油活動中断でマイナーリーグに」町村氏が民主党批判(朝日新聞)

 町村官房長官は31日の記者会見で、11月1日でテロ対策特措法の期限が切れ、インド洋で給油活動をしている海上自衛隊が撤収することについて「テロとの戦いの戦列から、極めて国内的な事情で日本だけが脱落していく。日本がマイナーリーグになり、国際社会の一員としての責任を放棄してしまうという意味で、日本の将来に大きな汚点を残す」と述べ、活動の継続に反対する民主党を強く批判した。

 日本じゃ法相の友人の友人がテロリストだというのに、それがテロとの戦いというのも妙な話です。友人の友人と戦争ごっこでもするのでしょうか。表向きは対立していても、裏では手を組んでいることもあります。

 たとえばアメリカ政府とアルカイダなどのイスラム系のテロ組織ですが、表では闘争を繰り返す一方で、過去には密接な提携関係を続けてきたケースもあります。USAマ・ビン・ラディンはアメリカを攻撃しましたが、それでもブッシュ家とビン・ラディン家はビジネスパートナーであるなど、戦う相手であると同時に友人でもあるわけです。ですから日本政府の友人がアメリカ政府なら、そのアメリカ政府の友人はテロリストとされるイスラム原理主義者、ならば友人の友人がテロリストといったとしてもあながち間違いではないのかも知れませんね。もっとも、日本側が一方的に友人だと思っているだけで、相手からは友人だとは思われていないかも知れませんけれど。

 さて、明日にはテロ対策特措法の期限が切れます。本当に撤収するのでしょうか? まず違反を犯してから「現状に即したものにする」と言って憲法改正を主張する自民党政府にとって、先にルールを破ってから「現状に即したものにする」ための法整備を要求することぐらいは朝飯前かも知れません。民主党側の動静にも不透明な部分がありますし、あっと驚くサプライズが待ち受けているかも?

 それにしても、日本がマイナーリーグという表現が変です。じゃぁ、今まではメジャーリーグだったのでしょうか? 今まではアメリカの51番目の州のつもりだったのが、ここでアメリカ様に背いてしまうと群に格下げされてしまうとか、そういう意識なんでしょうかね? 日本なのですからプロ野球リーグで良いような気がしますが、自前のリーグでいるよりもアメリカのリーグの一つに加えてもらった方が好ましいと、そういう感覚が窺われます。

 

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「友人の友人はアルカイダ」 鳩山法相、外国人記者らに(朝日新聞)

 鳩山法相は29日午後、東京都内での講演でインドネシア・バリ島の爆破テロ事件に言及し、「私の友人の友人がアルカイダ(国際テロ組織)だ。バリ島中心部の爆破事件に絡んでおり、私は中心部は爆破するから近づかないようにとアドバイスを受けていた」と発言した。200人以上が犠牲になった02年10月の事件を事前に知っていたとも取れる内容だったが、講演後に「友人に聞いた話で、私が発生前に爆破計画を知っていたということではない」などと発言内容を訂正した。

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反共産党主義は今なお隆盛

2007-10-30 22:19:01 | ニュース

京大教授陣に反共工作 米、左傾化阻止へ世論誘導(共同通信)

 50年代に日本の左傾化を恐れた米広報文化交流局(USIS)が日本で行った世論工作を詳述した報告書が21日までに米国立公文書館で見つかった。左派勢力が強かった京都大学の教授陣を対象にした反共工作のほか、日本映画やラジオ番組の制作、出版物刊行をひそかに援助、米国が望む方向への世論誘導を図った実態が細かく描かれている。

 ちょっと前のニュースですが、あまり話題にもならなかったようなので敢えて取り上げます。

 ……まぁ、私は陰謀論は嫌いですが、実際にこういう工作活動はあるみたいですね。今回、明らかになったのは50年代の話ですが、今も続いているのでしょうか、これから数十年後になって資料が公開され、2000年代の日本でも世論工作が続けられていたことが明るみになる、そんな可能性も否定できませんね。

 もっとも、今はアメリカが出るまでもなく日本政府が自主的に世論工作のごときものを展開しているわけでもありますが……

共産党の拡大 「関西伝染困る」 谷垣政調会長が発言(朝日新聞)

 自民党の谷垣禎一政調会長は20日、大阪府東大阪市内の集会であいさつし、共産党の勢力拡大について「関西で伝染するようなことがあったら困る」と述べた。東大阪市では市議会の不信任決議で共産党員の前市長が失職し、21日に出直し市長選が告示される。この選挙に前市長は立候補を表明しており、自民、公明両党の推薦する前市議会議長、自民を離党した元府議と対決する見通し。

 日本共産党は病原体か? というツッコミもごもっとも、「伝染」という言葉遣いに谷垣氏の共産党観が凝縮されています。発端は共産党系の市長へのとってつけたような不信任だったわけですが、この不信任案に民主党系の会派も半分は賛成に回ったようで、やはり自民党にとって真に警戒すべきは共産党と言うことなのでしょう。

 しかしなんでしょうね、直接選挙である市長選で市民の信任を得たのに、議会の多数派から不信任を突きつけられる形で自認を余儀なくされてしまう、これでは直接選挙の意味があるのか、そんな疑問も湧いてきます。議会の多数派の支持を得られないと市長として認められないというのであれば、総理大臣を決めるときのように初めから議員投票による間接選挙にしたって変わらないじゃないか、と。

 そして結局、2000票ほどの僅差で前市長の長尾氏は落選、自民・公明党が推薦の候補が当選という結果になりました。私は関東の人間ということもあり、あまりこの選挙には詳しくないのですが、ここで勝っていたら多少なりとも他への影響があった、谷垣氏が警戒した影響はあったのではないかという気もします。別に民主党の太鼓持ちにならなくても、自民、公明、民主の半分を相手にして独力で共産党が勝ったという実績を作れたならば、昨今の投票傾向に一石を投じることができたかも知れません。政治的志向は共産党に最も近いのに、共産党候補の当選は無理と信じて民主党に入れる傾向に歯止めが掛かれば少しは状況も明るくなるのではないかとか、そんな風にも思ったわけです。今からどうこう言っても後の祭りですが……

 

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世界一の新聞大国ですから

2007-10-29 22:25:44 | ニュース

「1か月本読まず」過半数、高齢ほど本離れ…読売世論調査(読売新聞)

 読売新聞社の「読書」に関する全国世論調査(6、7日実施、面接方式)で、この1か月間に1冊も本を読まなかった人は前年調査より3ポイント増え、52%となった。

 2年ぶりに5割を超え、調査を始めた1980年以降では4番目に高い割合だ。

 年代別では70歳以上が66%と最も多く、以下60歳代55%、50歳代51%、40歳代45%、30歳代44%、20歳代43%。年齢が高くなるにつれ本を読まなくなる傾向がうかがえる。

 前年調査と比較すると、30歳代で8ポイント読まなかった人が増えるなど、読書人口を支える働き盛りの世代でも「本離れ」が進んでいる。一方、20歳代は前年調査から5ポイント減って、多少持ち直した。

 何の根拠もなく若者の活字離れ云々を信じる人もいるわけですが、深刻なのは高齢層の本離れであるわけです。これは何も日本に限ったことではなく、概ねどこの国でも同じ傾向が見られます。年齢が上がるにつれ、本を読む量は減るものなのです。日本はちょっとばかり、その傾向が強めではあるらしいのですが。

 ともあれ、年齢が上がるほど本を読まなくなるのが平均像です。ですからもし仮に若者の本離れが進んでいるとしたら、それはすなわち若者が大人になった、精神的により上の世代に近づいたと言うことにもなるのでしょうか。もし仮に若者の本離れが進んでいるのならば、それは現代の若者の精神年齢が高いという結論が導き出せそうです。とは言え実際のところ、20代の読書率は上昇の兆しがあるようで、ならば社会人になっても本を読み続ける大人になれない若者が増えているとか、そんな結論も作れるでしょうか。

 さて、日本では年齢が上がると急速に本を読まなくなる傾向が強いわけですが、では本を読まなくなった代わりに何をするようになるのでしょうか? 実は年齢が上がるにつれ、新聞を読む時間、テレビを見る時間が増えるのです。テレビにかじりつく子供のイメージなど所詮は虚像に過ぎず、実は高年齢層ほど熱心なテレビの視聴者であり、新聞の読者なのです。テレビを見てばかり、新聞を読んでばかりの高年齢層が日本全体での本離れを引っ張っているわけですね。

 かくいう私も、読書の時間は減りました。テレビの視聴時間は0から0へと全く変わってないですし、新聞を読む時間も大差ないのですが、それでも本を読む時間は減りました。まとまった時間がとれないと言いますか、根本的に自分の自由にできる時間が減ったのが大きいです。学生は勉強するのが仕事とばかりに平日は毎日8時間くらい読書していた頃と比べると今の読書時間は雀の涙。文庫や新書なら通勤電車の中で週に1冊くらいは読めますが、大きな本はとんとご無沙汰。それに歯の治療で顎を痛めてからは下を向くと顎、首、肩が痛んだりと、なかなか読書に没頭というわけにも行きません。あ~、学生時代に戻りたい。

 

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社会人って何だろう

2007-10-28 22:17:48 | 非国民通信社社説

 社会人って何でしょう? とにかく私はこの社会人って代物が嫌いなのですが、しかるにこの社会人なる概念、意外に曖昧なまま使われている気もします。

 そもそも「社会」という言葉も翻訳のために造られた言葉ですから、社会人という言葉も当然、どこかで造られた言葉なのでしょう。一体いつから造られ、使われるようになったのでしょうか? 決して昔からある言葉ではないはずなのですが、それがどうして頻繁に、好んで用いられる言葉でもあります。今や社会人にあらざれば人に非ず、そんな言葉ですらあるわけですが……

 社会人という言葉は武士道などと同様で昔の日本には存在しなかったわけですが、ではこれに当て嵌まる概念が他の国にはあるのでしょうか? とりあえず、英語とロシア語には社会人に相当する単語はありません。無理に訳すのであれば「社会に属する一員」ぐらいの説明的な言葉で置き換えるほかないのです。そして説明的に訳すことは可能ですが、そんな言い回しが使われることがあるかと言えば、当然のように答えはノーです。社会人としての常識が~、社会人の自覚が~、こうした言い回しは日本に特有のものであり、少なくとも欧米には存在しないわけです。

 ヨーロッパ言語で代わり?に使われるのが「市民」とか「労働者」という言葉です。「市民として~」、「労働者として~」、こうした表現は確かに存在します。だからと言って“citizen”や“labor”が社会人と同じ意味合いを持つかというと、それは大いに疑問です。むしろ現代の日本では市民や労働者といった言葉は死語であり、社会的な影響力を失っている、「市民」「労働者」と「社会人」の重なり合う部分は非常に小さくなっています。やはり「社会人」を表すには“citizen”や“labor”とは違った新たな表現が必要でしょう。

 社会人の実態に近い概念を的確に表現するにはどう訳すべきでしょうか? corporate warrior? 民間警備会社の傭兵を想起させるでしょうか? ではcorporate slaveでは? でも「社畜」という言葉も今やすっかり死語ですね。今やすっかり会社に従順になり、支配されることを当然視する時代ですから。それを嫌がるのは社会人としての自覚が足りないとされる、そんな時代です。

 そこで考えたのですが、日本特有の概念「社会人」を一言で表す最適な訳語はすなわち“SAMURAI”ではないかと。この言葉ならば日本特有のものであることが一目瞭然ですし、社会人であることを人間の条件とする日本社会の特質と、猫も杓子もサムライを称したがる現代の風潮を一言で綺麗に重ね合わせることができます。社会人とは身分であり、士農工商の4身分の上で最も偉いとされるもの=「士」であり、それを外国語に訳すのであれば“SAMURAI”以外にないのではないでしょうか。

 例えばスポーツ選手など、特殊な能力を持ち、かつそれで評価される立場の人にも「社会人としての~」を求める風潮が日本では強いわけです。その人の職務に何の関係もないのにどうして?という気もしますが、それがその人の「身分」を規定するものだとしたらどうでしょうか?

 正確なシュートを放ったりドリブルで敵陣を切り裂いたり、150kmの速球を投げたりホームランを打ったり、一部の例外を除けば我々はそんな能力を持ち合わせていないわけですが、そのことで我々が非難されることはありませんし、それを恥じる人もいません。しかし、それが社会人として求められる諸々のマナーなり「常識」なり振る舞いなりであったならばどうでしょうか? それが職務と関わりのない人であったとしても、「社会人としての~」が欠けていれば非難の対象となりますし、多くの人はそれを恥じます。社会人であることは、他の諸々の能力とは別格のもの、日本に生きる人には誰であろうと必須の要件として位置づけられているようです。

 士農工商の関係が上下関係であって相互に認め合う関係でないのと同じように、社会人であるかどうかというのも、また上下関係であって相互に認め合うものではないのでしょう。社会人として求められるものとは違う特殊な能力を持っていたとしても、それは決して社会人としての価値と等価とは見なされず、あくまで社会人としての価値が絶対の基準になるわけです。要するに、どんなに精密なフリーキックが蹴れたところで、それは士農工商の序列の外、言うなれば河原乞食としての能力であって士農工商の序列の中でその人を上昇させるものではないと言うことです。士農工商の序列の中で認められるためには、あくまでも独占的な価値基準である社会人としての何かを身につけなければならない、だからこそ日本では才能あるスポーツ選手であっても競技とは関係ない社会人的なるものに媚びを売るのでしょう。河原乞食ではなく、士農工商の「士」になるために。

 この辺りは市民や労働者としての義務や権利が軽視されがちな点とも関係が深いのかも知れません。なぜならこの国で問われるのは社会人としての資質であって、市民や労働者としてのそれではないわけですから。市民や家庭人として失格であっても社会人として立派ならばそのことは免罪されますし、逆に社会人として失格の烙印を押されたなら市民や家庭人として立派であったとしても蔑視されます。そこでは多様な価値観によってではなく、シンプルな上下関係によって計られる、士農工商の上の方にいるのか下の方にいるのか、それを定める基準が「社会人」の正体なのではないでしょうか。

 社会人をサムライと同一視すべき理由の一つは、市民としての責務を放棄することが許されているという点において社会人とは何らかの軍事階級に擬えられるにふさわしいからです。そして社会人を士農工商の一番上の「士」に擬えるのは、社会人であることを人間の条件とし社会人でない人間を蔑視する風潮からです。社会人を身分の一つとして扱うべき理由は、それが職場においてだけではなく私的な領域をも支配するからでもあります。つまり、会社にいる間だけ社会人でいればいいのではなく、会社を出た後のプライベートな時間にも社会人であることを要求される、正に生き方を規定するものですらあるからです。そして私は、この社会人という代物が大嫌いです。

参考、俺たちはサムライじゃない

 

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教えてエロい人

2007-10-27 22:22:32 | ニュース

有害サイト規制、賛成9割=児童ポルノの「単純保持」禁止も-内閣府調査 (時事通信)

 子どもたちに悪影響を及ぼす恐れのあるわいせつ画像などインターネット上の有害情報について、内閣府が25日発表した特別世論調査結果によると、約9割が国による規制を求めていることが分かった。雑誌やDVDなどに関しても、「規制強化すべきだ」との回答が8割に達した。有害情報のはんらんを懸念し、規制強化を求める声が強まっていることがうかがえる。

 ネット上の有害情報規制は現在、通信事業者などの自主規制に委ねられているが、国による規制に賛成の人は90.9%。反対はわずか4.5%だった。

 有害情報が都道府県条例で規制されている雑誌、DVD、ゲームソフトなどに関しても、80.8%が「規制を強化すべきだ」と答え、「現状程度」13.8%、「緩和すべきだ」1.0%を大きく上回った。

 ドイツでは旧体制の美化など一部の歴史修正主義が規制の対象であり、他のヨーロッパ諸国でもしばしば人種差別を煽るような言動が規制の対象になるわけですが、日本には全くその気配がありませんね。表現の自由を履き違えている人が多いのでしょう。各種のヘイトスピーチが完全に野放しにされているこの国において、何らかの規制が必要かと問われれば私は必要と回答します。

 そもそも日本において悪影響を及ぼす有害情報とされているのは、憎悪や偏見を煽り立てる物語や自称「正論」ではなく、ポルノなのです。子供達だけではなく大人達にも悪影響をすでに及ぼしているヘイトスピーチなどの有害情報の氾濫を私は懸念しますが、どうも世間で懸念されている有害情報とはポルノのようで、その規制に9割以上が賛成だとか。

 まあエロもピンキリですから、中には悪影響を及ぼすものもないわけではないのかも知れませんが、逆に良い影響を与えるものもあるのではないでしょうか。私の場合だったら、エロから寛容の精神を学んだような・・・気がするのですけれど。

 今回の場合、悪影響を及ぼすとされる対象が「子どもたち」に限定されている辺り、この辺は要するに大人が子供を性的なものから遠ざけておきたいとする、そんな願望の現われでしかないような気がします。そして悪影響なるものはそのための方便に過ぎないのではないかと。エロは子供達に悪影響を及ぼすという前提が無批判に用いられていますが、それは性的に無垢であって欲しいという自分達の願望を子供達に押しつける、子供達に自分の欲望を投影するためのロジックなのではないでしょうか。

 むしろ子供のうちから性的なものに触れさせて、もう少し性に対して開放的な社会を養う方が良いのではないかとも思います。日本は性に対して類い希なイマジネーションを発揮しているわけではありますが、その一方で性に関わるものを後ろ暗いものとして蔑視する傾向もまた強いのではないでしょうか。これは子どもの頃から性的なものを触れてはならないもの、避けるべきものとして躾けられてきた結果だとしたらどうでしょう?

 内心ではエロいものが大好きで、下半身を震わせながらも口では「けしからん」とか「汚らわしい」とか、そういう人が多いわけです。各種の性産業従事者に熱を上げる人は多いですけれど、その性産業従事者が社会的な尊敬を受けているかと言えば全くの逆で、むしろ蔑視されています。好きなくせに! 子供達を性的なものから遠ざけて、それを忌避すべきものであると刷り込むのも結構ですが、これが歪んだ性道徳観念を作り出しているような気もしますね。

 

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明日は真面目に書きます

2007-10-26 23:03:35 | 編集雑記

 なんつーかもう、信じられないほど長い1週間でした。まぁ、幸いにして明日から土日ですが、もう目眩がしてきました。

 疲れると腹が減らないのです。運動しても腹が減りません。どうも体に負担をかけると内蔵がダウンしてしまうようで、いくらたっても腹が減らないのですが、気がつくと死にそうです。これはもう安静にしておきませんといけません。

 ところでこの写真を見てくれ。こいつをどう思う?

 ぴかちゅーが雄なのか雌なのか、非常に気になります。

 

 ←きっといい気持ちだぜ

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しゃぶれよ

2007-10-25 23:11:19 | ニュース

シンガポール政府、同性愛者間の性交禁止を継続(ロイター)

 シンガポール議会は23日、英植民地時代に制定された男性同性愛者間での性交を引き続き禁止すると決定した。リー首相は議会で「シンガポールは基本的に保守的な社会で、われわれはそのような社会を保ちたい」と述べた。

 内務省の広報担当者によると、議会では、男性間での性交禁止を継続する刑法改正案を可決。一方、この改正案には、異性間での口唇性交などを合法化するといった変更も含まれた。

 議会では、同法の廃止に向けて数千人が嘆願書に署名したことなどを受け、同性愛者間による性交の合法化について活発な討論を行っていた。

 議会での発言が多くないことでも知られるリー首相は「同性愛者がシンガポールの社会の性質を決めるべきではない」と指摘。「マイノリティの権利は法で保護されるが、同性愛者をこれらのマイノリティとはみなさない」と語った。

 もし日本が本当に伝統を重んじる真に保守的な社会であったなら、今もなお世界に冠たる衆道の超大国であったことでしょうけれど、シンガポールの場合はどうなのでしょうか? 元々が同性愛に否定的な文化だったのが近年になって同性愛者が増加傾向にあるのか、それとも元々は同性愛が当たり前の文化だったのが近代に入って禁止の対象になったのか、その辺りも少し気になります。リー首相が事実に基づいて語っているのか、それともイデオロギーに基づいて語っているのか、どっちなのでしょう?

 今時、性的な禁忌が刑法で定められていることには驚きましたが、そんな時代錯誤の法律が一部は見直しされたものの今後も継続されるとか。あまり他人のことは言えませんが、性的なものを嫌うと言うより、性的なものを蔑視する社会なのでしょうね。

 さて、この場合に最も深刻なのは同性愛の可否ではなく、リー首相の考え方です。曰く「マイノリティの権利は法で保護されるが、同性愛者をこれらのマイノリティとはみなさない」だそうで。これは間違いなく、リー首相が一流のレイシストの素養を備えていること、社会的な公正さよりも好き嫌いを優先すること、そしてそれを正当化して批判を受け付けないであろうことを示しています。こうした発言の出来る人、こうした論法を用いる人は100%ダメな人であると断言できます。

 レイシストはいくらでもいますが、自らレイシストであると自認している人に出会うことはまずありません。なぜなら、事実としては紛れもない差別行為であっても、その人にとっては差別行為でも何でもないからです。「レイシズムには反対だが、自分達の行為をレイシズムの産物とはみなさない」そういう訳です。

 レイシズムにせよマイノリティへの圧迫にせよ、一応はそれが悪であるとする共通認識があるわけです。その上で人を差別し、少数派を抑えつけるために、彼らはその行為を正当化するロジックを作り出します。その(無理のある)ロジックに基づいて、自分達の行為はレイシズムではない、差別ではなく区別だとか、正当な理由あっての措置であると偽装するわけです。

 仮に同性愛者がマイノリティでないとすれば、その嘆願を突っぱねたとしてもマイノリティの権利を踏みにじったことにはならないのでしょうか。リー首相の論理であれば、同性愛者はマイノリティではないから、自分はマイノリティの権利を抑圧してはいない、シンガポールではマイノリティの権利は法で保護される、同性愛者の権利が法で保護されていない(それどころか逆に禁じられている)のは、彼らがマイノリティではないからであり、マイノリティでの弾圧ではない……

 窃盗は刑法によって禁じられています。シンガポールでは同性愛は刑法によって禁じられています。窃盗犯はマイノリティではありませんが、同性愛者はどうでしょう? 窃盗は市民の生活に悪影響を及ぼすので禁止として、では同性愛は? そこで登場するのはしばしば社会的な公正さではなく好き嫌いです。自分の好き嫌いから「こうあるべき」というモデルを作って、そこから外れるものを社会にとっての脅威と位置づける、そうすることで同性愛者と窃盗犯を同列に扱い、同性愛者の権利を認めないことを正当化するわけです。

 ところがまぁ、リー首相理論の前提となっている部分に危ういところがあって、そこに目を瞑って信じるかどうか、そこが分かれ目になります。シンガポールが本当に異性愛に純化された社会であり、同性愛者がシンガポール社会にとっての脅威であるならばいざ知らず、実際にそうである可能性はまず皆無でしょう。それでも、敢えて同性愛者は有害であると信じることによって(もし本当に同性愛が社会的に有害ならば、日本などは1000年前に滅んでいたでしょうね)、それで初めてリー首相を信じることができる、それは日本における小泉支持や麻生支持、石原支持とも共通するところが少なくありません。

 

 ←男は度胸! 何でも試してみるのさ

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3つ売った方が儲かるはず

2007-10-24 23:08:56 | ニュース

赤福「三つ売るより一つ残すな」会長方針が偽装出発点(読売新聞)

 老舗和菓子メーカー「赤福」(三重県伊勢市)による偽装問題で、赤福餅(もち)の製造日偽装や回収品の再利用などは、浜田益嗣(ますたね)会長(70)が社長だった当時、「売れ残りを出さない」との方針のもと、システム化されていたことが23日、わかった。

 同社では本社に生産量や出荷量を集中管理する「中央コントロール室」を作り、再包装して製造日を付け替える「まき直し」などを指示していた。同社関係者は「こうした体制は、すでに十数年前、組織的に確立されていた」と証言している。

 関係者によると、浜田会長は社長の時代に、「三つ売るより、一つ残すな」との方針を社員らに徹底した。

 さて、ここのところ何度も取り上げている赤福の話です。今回の新事実は「売れ残りを出さない」だそうで。

 「売れ残りを出さない」と、それだけ聞くと、まともなことを言っているようにも聞こえます。売れ残った赤福はまだ食べられるとしても本当は捨てなきゃいけないわけで、そいつはもったいないとも言えるでしょう。これは赤福に限ったわけでもなく、食料品全般に共通しますね、売れ残った食料品は原則として廃棄されるわけですから、これは実にもったいない、「売れ残りを出さない」ための努力が強く求められます。

 そして赤福の浜田会長曰く「三つ売るより、一つ残すな」。

 この感覚は経営者としてどうかと、少し疑問を感じないでもありません。偽装を行った事の是非はさておくとして、売り上げを3つ増やすことよりも売れ残りを1つ減らすことに重きを置くような姿勢は経営者としてどうなのでしょう? どうも私には、たとえ売れ残りが増えたとしてもその3倍売り上げが増えたのであれば、そっちの方が儲かるように思えてならないのです。逆に売れ残りが一つ減ったとしても、売り上げが3つ減ったとしたら、利益は減少するはずです。だから、経営者の判断として浜田会長の姿勢はどうなの?と。

 なんでも売れ残りの赤福を再包装するために「中央コントロール室」なるものまで作られていたとか。わざわざご苦労なことです。作り置きの赤福を冷解凍するための技術開発や設備投資にも決して安からぬコストがかかっていたでしょう。どうも「一つ残すな」のために相当な費用が投じられていたのではないかと勘ぐらないではいられません。そんなことをするよりも、売れ残りはどんどん捨てて、大量生産大量廃棄で商売した方がトータルでは儲かった可能性も考えられます。この辺はデータがないので推測に過ぎませんが……

 仮に大量生産大量廃棄でやった方が儲かるとした場合、売れ残りの減少を追求するのは利潤の追求と矛盾することになります。それでも敢えて売れ残りを減らすことを第一義としたとすると、赤福経営陣の判断は利益よりも別の何かを追求していたと言うことになるでしょうか? そうだとしても、それは不思議ではない気もします。勘定よりも感情を重視するのが日本社会ですから、それがトータルでの利益を減らすとしても、商品の廃棄を減らすことを再重視することも有り得るでしょう。

 日本は「もったいない」精神の文化圏だと以前に書いたような気がします。取り分を最大化するよりも余分を最小化したがる訳ですね。業務改革一つをとっても、それによって利益を最大化すること以上に、従業員を最大限に使い切ることを目標にしがちなのではないでしょうか。

 確か以前にはオレンジを例にしました。別にグレープフルーツでも構いませんが、オレンジを搾るときに何を重視するかを考えてください。徹底した利益追求の場合、オレンジを搾って果汁の出が悪くなったら、そのオレンジはさっさと捨てて、どんどん新しいオレンジを搾る、そうやって得られる果汁の量を最大化するわけです。絞りかすのオレンジに未練など見せません。逆に「もったいない」式の場合に追求されるのは得られる果汁の量ではなく、捨てるオレンジを減らすことです。たとえ果汁の出が悪くなっても、捨てるにはもったいないと限界まで搾り取ろうとする、こういうやり方です。

 ある意味では、ものを大事にする、無駄のないやり方とも言えますが、必ずしも効率的とは言えませんし、ほとんど絞れなくなったオレンジを惜しむことで実は新たな無駄も生まれています。そしてこの無駄なく絞られる対象がオレンジであればまだしも労働者であったならば、それは堪ったものではありません。

 ちょっと話が脱線気味になりましたが、今回の赤福に関わる一連の偽装も、損得勘定を誤り目先の「もったいない」にとらわれた結果かも知れません。確かに売れ残りは損に繋がりますが、その損にさっさと見切りを付けることができず、そこから搾り取ろうとした結果が今に至ったとしたらどうでしょう? 本当に計算のできる経営者だったならば、売れ残りの再利用などに時間と費用を投じたりせず、大量廃棄で儲けようとしていたような気がするのですけれど。

 

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空気を読むって何だろう

2007-10-23 23:29:55 | 編集雑記

 今朝の通勤途中の話ですが、目の前で接触事故がありました。赤信号の横断歩道を渡る歩行者の列に車が突っ込んできて、歩行者はよけきれず、車は止まりきれずで軽い接触事故が起こったわけです。幸いにして大事には至らず、ぶつかった人も自力で立ち上がったので私はそのまま会社に行ったのですが、まぁ危ないですな。

 どこでもこれは似たようなものだと思いますが、横断歩道で信号待ちをしている時に、信号が変わらなくとも誰かが渡り始めると釣られて周りの人も渡り始める、そういうことがあります。そして私の住んでいるところは半端に田舎なので、道は狭いけれど交通量は意外に多い、とりわけ通勤時間になると住宅地から駅まで行列ができるわけで、それが踏切前や信号機前となると、途端に人だかりができてしまうわけです。

 国道を横切る細い道の横断歩道の前で、常時何十人もの人が信号待ちをしているわけです。道の狭さを考えれば十分な混雑量でして、信号が青に変わった直後はまるで市民マラソンのスタート地点のような混乱です。それでまぁ、誰かがフライングよろしく信号が変わらないうちに飛び出すと、それに釣られて周りの人も一斉にスタート、わらわらと群衆が動き出し、下手に立ち止まっていると突き飛ばされる有様、我先に進もうとするもののお互いに進路をふさぎ合い、足踏みするばかりで集団はなかなか前へと進めない、そこへ車が突っ込んでくる、と。

 最初に飛び出した先頭ランナーは馬鹿じゃないのです。この場合は概ね、左右を見て車が来ないことを確認した上でさっと飛び出しますので、大抵は車の来る前に渡り終えるので何の問題もありません。ところが後続ランナーはさに非ず、周りに釣られてスタートを切っただけなので左右の確認などしていませんし、なにぶんにも人だかりで思うように前へ進めません、そうこうしているうちに車もやってきて、鈍い人は避けきれずにぶつかってしまうわけです。

 で、何が言いたいかというと、最近流行りの「空気を読む」ってのはこういうことなのではないかな、と。つまり、周りを見渡して自分で安全を確認するよりも、周りの動きに合わせるってことではないのかな、と思ったのです。

 亀田一家だって前々から嫌う人は多かったですけれど、それでもTBS以外の大手メディアも基本的には彼らに好意的でファンも多かった、それが今やこのバッシング、亀田一家の立ち居振る舞いは以前とは変わっていないはずですが、周りの空気が変わればそれに従って周りの人間の行動も大きく変わるようです。繰り返しになりますが安倍晋三も似たようなもので、やはり前々から批判してきた人はいるのですが総裁就任当初は異例の高支持率を記録したわけです。それがこの失墜ぶり、中身は何も変わっていないのに、周りの空気が変わればそれに従って周りの人間の評価も180°変わりました。

 赤福ですとか、ちょっぴり話題の比内地鶏もそうですね。つい最近までは、皆おいしいと言って食べていたわけです。で、特に中身が変わったりはしていないのですが、評価は暴落気味、これが何故かというと偽装が明らかになったからであるわけですが、これが報道されなかったらどうでしょう? たぶん、以前と同様においしいと言って食べていたはずです。中身は変わっていませんから。それがパッケージが変わる、偽装が明らかになることで、途端に歓迎されなくなるわけです。

 そして周りの安全を自分で確認せず、周りが渡り出したから自分も渡ろうとする、そういう群衆も似たようなものではないかと思うのです。安全なのか危険なのか、自分で判断しないで、周りが止まれば自分も止まる、周りが動けば自分も一緒に動く、それが「空気を読む」ってことなのではないかな、と。確かに周りと一緒になって動いた方が無難なのかも知れません。周りの流れに逆らって立ち止まっていたりすると、邪魔だと言わんばかりに突き飛ばされますから。でも、いかに周りの人間が一斉に横断歩道を渡ろうとしていたとしても、自分で左右を見てから渡るべきなのは本来は当たり前のことなのです。車が来なくても周りが止まっていれば自分も止まる、車が来ていても周りが渡ろうとしていれば自分も渡る、見上げた協調性ではありますが、車に轢かれてから公開しても遅いですよ。

 

 ←まだ火曜日なのか...('A`)

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予想外の結果ではない、はず

2007-10-22 23:13:07 | ニュース

母子家庭「使えぬ」就業支援 正社員化助成、利用1割(朝日新聞)

 母子家庭への児童扶養手当を減らす代わりに厚生労働省が力を入れるとしていた就業支援事業の利用が進んでいない。06年度の実施状況を朝日新聞社が都道府県などに聞いたところ、正社員化を促す企業への助成金は予算見込みの約1割、資格取得のための給付金も半分以下しか使われていない実態が浮かび上がった。

 厚労省は来年4月から、受給後5年を超える母子家庭の手当を最大半分まで減らす方針だが、これとセットになった自立支援が進んでいない実態を受け、手当削減の凍結を検討している与党の判断が注目される。

 相変わらず母子家庭を取り巻く状況は悲惨なもののようで、これは05年のデータですが母子世帯の05年の平均就労年収は171万円、児童扶養手当や生活保護費などすべての収入を加えた平均年収は213万円、就業率の向上で給与所得は僅かに増えたものの、諸手当の削減でトータルの収入は横ばい、全世帯の平均収入の4割未満となっています。

 母子世帯の就業率は84.5%、これはあらゆる年代の男女平均の就業率を上回る値です。もとから母子世帯の就業率は極めて高いわけで、改善を期待するのであれば目指すべきは既に限界に達している就業率の向上ではなく、不当な低賃金による雇用を何とかして、働いている人にまともな賃金が支払われるようにすることでしょうね。もっと良いのは、子育て優先で無理に就業しなくても済むように支援することですけれど。

 さて、政府の施策としては児童扶養手当を減らしつつ、その代案として就業支援を進めるというものです。異例の就業率を誇る日本の母子世帯ではありますが、非正規雇用から正規雇用への就労形態の変化も視野に入れての方策なのでしょう。しかるに、ほとんど利用されていないのが実態のようで予算も余りまくっているとか。

 ここで考えてみたいのは、この政府案が成功なのか失敗なのか、と言うことです。失敗に決まっている? 確かに、成功とは言い難いです。しかし、予想外のことでしょうか? 私には思われるのですが、これは予想通りの展開、もっと言うなれば目論見通りの展開ではないかと。

 こういう結果になることは、与党代議士にも厚労相のトップにも当然、予測できていたのではないでしょうか。児童扶養手当を削減して自立支援策に切り替える、この方針転換が決して母子家庭の状況改善には結びつかないと、当初から指摘してきた学者はいくらでもいますし、そもそも私にすらこの結末は容易に予測できたわけです。それが行政の現場にいる専門家に見通せないはずがない、行政もこの結末は分かり切ったことで、敢えてこの結果を狙ったのではないでしょうか。

 つまり、表向きのスローガンとは別に裏の目的があるわけです。表向きは母子家庭の窮状を何とかすることを目的に掲げつつ、本当の目的は福祉予算の削減だったとするならば、この自立支援を掲げた方針転換は目的を達成した、導入を企てた人にとっては成功と言えるのではないかと。公然と福祉予算を削れば反発は免れませんが、御為ごかしを並べて「これは母子家庭のため」と強弁すれば、表向きは国民のためを装うことができます。そして表向きの結果は失敗、しかしその裏で真の目的である予算削減には成功……

 善かれと思ってやったことが結果的に裏目に出ることもあるわけですが、そう何度も失敗を続けていては能力不足が疑われます。でも私は行政のトップがそこまでバカだとは思っていません。それでも表向きのスローガンから見ての失敗を繰り返す、施行前から失敗の見えている制度を無理矢理導入する、それは先が見えないからと言うよりも、むしろ狙いが別のところにあるから、そんな気はしませんか?

 

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