非国民通信

ノーモア・コイズミ

医師と患者の深い溝

2015-02-26 23:05:14 | 社会

かかりつけ医、半数が「いる」 日医調査(朝日新聞)

 健康について身近で相談できる「かかりつけ医」がいる人は約半数とする調査結果を日本医師会総合政策研究機構がまとめた。2002年の調査開始以来、ほぼ横ばいが続いている。かかりつけ医がいる人は、いない人と比べ、健康診断を定期的に受けたり、規則正しい生活を心がけたりする割合が高かった。

 昨年8月、全国の20歳以上を対象に面接調査し、1122人から有効回答を得た。「かかりつけ医がいる」と答えたのは53・7%。かかりつけ医に期待すること(複数回答)は「必要なときはすぐに専門医や専門施設に紹介する」(93・3%)、「患者情報を紹介先に適時適切に提供する」(87・0%)、「どんな病気でもまずは診療できる」(82・0%)などだった。

 

 「かかりつけ医」が「いる」と回答した人は約半数で2002年の調査依頼、横ばいであるそうです。逆に言えば「いない」人も約半数ということですね。何でも「全国の20歳以上を対象に面接調査」とのこと、この辺は年代によって大きな差がありそうなところ、全年代の平均として「約半数」という結果を紹介するだけで報道としては十分なのでしょうか。なお「かかりつけ医に期待すること」の最多得票は「必要なときはすぐに専門医や専門施設に紹介する」で"93.3%"の高率を示しています。

 とかく医療関係者の口からは、患者を大病院から遠ざけたがっている様子が窺われるものです。まぁ町医者を介さず、いきなり大病院を受診されると手が回らなくなると言う事情もあるのでしょうけれど、一見すると医療関係者の思惑通りに、「かかりつけ医」をまずは受診するであろう「物わかりの良い」患者にしても、結局は「専門医や専門施設に紹介」されることを期待しているわけです。まぁ、近所の藪医者のせいで自身の健康を台無しにされたくはないですからね。

 産経新聞に「溶けゆく日本人」という連載がありまして、これほどまでに悪意に満ちた日本人に対する誹謗中傷はないなといった印象を受けたものです。しかるに「溶けゆく日本人」で日本人を悪し様に罵り続けてきた産経新聞が、ひとたび隣国から日本人の所行を批判されたときにどんな態度を取るかと言えば、まぁ私がここで説明するまでもないでしょう。 ……で、それと似たようなパターンが一部の医療関係者(及びシンパ)の言動にも見られるのかもな、と思うこともありました。

↑例えばこういう医者は本当に嫌だな、と

 紛れもない日本の医師免許を保持している「医師」の中にも似非科学の信奉者は見つかるもの、トンデモ理論を展開する医師(及び歯科医師)は枚挙に暇がありません。インチキ医療、ニセ医療を患者に提案する「本物の医者」もまたいるわけです。こうしたインチキ医療を批判する正統派の医者もいるのですが、そんな人も患者サイドが医者への不満を口にしたり酷い目に遭った事例を挙げられると、そういうケースは患者側が無理解なだけ、詳しく調べてみればほぼ100%がクレーマーだった云々と、平然と宣っていたりするわけです。しかし、患者からの批判に逆ギレするような人が、同時にトンデモ理論を振りかざす同業者を手厳しく批判していたりする、まぁ産経新聞と同じで「外」からは悪く言われたくない、そんな歪な身内意識もまたあるのでしょう。

 医者と患者のトラブルは多々ありますけれど、実際は患者側の納得いかない思いを抱えて引き下がるケースが圧倒的多数でしょうか。医療は不確実なもの、成功が保証されている世界ではありませんから医者側からすれば「それくらい理解しろよ」ということになるのかも知れませんが、患者からすれば「治してくれなくちゃ困る」わけです(加えて「良い医者なら治せるはず」みたいに、良くも悪くも「信頼」がある等々)。人命は地球より重いもの、それが家族なり自分なりの命ともなればなおさらのことです。医療側からすれば、まずかかりつけ医のところで押し止めて置いた方が好都合でも、患者側は必死です。医師から見れば珍しくない症状でも患者にとっては重大事、そうそう「物わかりの良い人間」ではいられませんし。

 もっとも町医者の診断結果に不信を抱いて大きな病院で検査を受けて、それで危ういところを助かった~みたいな事例は確かにありますが、大きな病院や大学病院でも誤診や医療事故はあるわけです。近所の医者が無能なせいで病気の発見が遅れたとか、下手くそな治療で症状が悪化したなんてケースはいくらでも出てくるでしょう。ただ、その辺のリスクは大病院でも大差ないのかも知れません。専門医や専門機関にも、過剰な期待は禁物です。定期的に健康診断を受けていたけれど見過ごされたとか、手術を受けたけれどダメだった等々、自分を含め身内や知り合い絡みでも医者に失望させられた経験は多い、それは町医者でも大病院でも見られることですから。

 まぁ医者にも無理なことは多い、それは仕方のないことなのでしょう。患者はもっと医師に期待しているものですが、どうしても不可能なことはあるわけです。私は野球なら鳥谷選手が好きで鳥谷には全ての打席でヒットを打って欲しいと思っていますが、期待通りにはなりません。ただ、結果は凡退でもヒットを打とうとする意思が見えれば応援する気持ちにはなります。医師に関しても然り、結果は残念なことになっても患者を助けようとする姿勢が伝われば、もう少し世間の共感は得られることでしょう。しかるに、結果的に患者が助からなかった、治らなかった場合に「不可能なこともあるんだから理解しろ」とばかりに傲然な態度を見せる医療関係者も、とりわけネット上の言動の上では少なくありません。そういう医師の姿を見ると、言葉巧みに患者への共感を示すインチキ医療集団の方に心を引かれちゃう人も出てくるんだろうな、と思ったりしますね。

 

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ある種の一貫性

2015-02-23 22:59:11 | 雇用・経済

 同じメディアなのに、ページをめくると言っていることが180°違う、なんてことは多々あります。社外の著者が好き勝手に書いているのをそのまま載せた結果なら納得もできますが、無署名の編集部員による「会社としての」記事であるにも関わらず、前のページと次のページで全く異なることを書いている、なんてケースもあるわけです。従業員全員が同じ方向を向いている必要はないにせよ、もうちょっと同じ編集部員としての見解の統一はできないものなのか、あまりにも自家撞着ぶりの激しい記述はどうなのかと、そう思ったりします。

 たとえば朝日新聞等ですと、あるページに「給与水準が上がっていない、アベノミクスはダメだ」みたいなことが書いてあったかと思いきや、別のページには「人件費の上昇に苦しめられている企業が多い、アベノミクスはダメだ」という趣旨のことが書いてあったりするわけです。賃金が上がっているのか下がっているのか、その辺は客観的に計れそうなところですが、どうにも新聞社としてあらかじめ決められた「結論」を導くために、その都度都合良く現実をねじ曲げている印象を免れません。

 給与水準の上昇幅が「十分であるか不十分であるか」といった基準であれば判断が分かれそうなところですし、その辺は所謂アベノミクスの是非についても同様でしょうか。ところがアベノミクスと言うより安倍政権の評価については、良くも悪くも朝日新聞の評価は一定しているようです。そうした面では一貫性がある記述なのかも知れませんけれど、どうしたものでしょうね。私なんかは民主党政権を見て以来、単純に自民党政権にダメ出しをするだけでは意味がないと考えを改めたものですが、何も変わらない人もいることが分かります。

 

14年GDP、ほぼゼロ成長 増税後に個人消費戻らず(朝日新聞)

 2014年10~12月期の国内総生産(GDP)の実質成長率は、昨年4月の消費税率引き上げ後では初めてプラス成長に転じた。ただ、個人消費と設備投資は伸び悩み、年率に換算した場合の「2・2%増」は民間予測に届かず、個人消費は駆け込み購入前の水準も下回った。14年の年間の成長率は、ほぼゼロ成長にとどまった。

 民間エコノミストの事前の予測は平均で「3・5%増」だったが、16日に発表された1次速報は、これを大きく下回った。GDPのおよそ6割を占める個人消費は、消費税率8%への引き上げから半年以上たっても力強さを欠き、回復のペースが鈍い。2四半期連続のプラスではあったが、約307兆円(年換算)という水準は12年後半より低い。

 

 ……で、こんな報道があります。曰く「民間エコノミストの事前の予測は平均で『3・5%増』だったが」とのこと。実態は、ご覧の有様です。しかし、こうなることはエコノミスト以外には明白だったのではないかと首をひねらざるを得ません。消費税増税が深刻に景気を落ち込ませることは過去の事例からも明らか、法人税を下げて消費税を上げて財政破綻したギリシャのように国外の失敗例も多々あります。もし消費税増税で経済成長が押し止められることすら予測できていないとしたら、それは禁治産者として扱われるべきものでしょう。

 

GDP、年率2.2%増 3期ぶりプラス 14年10~12月期(朝日新聞)

 内閣府が16日発表した2014年10~12月期の国内総生産(GDP)の1次速報は、物価の変動の影響をのぞいた実質成長率が、前期(7~9月期)より0・6%増、この状況が1年続いた場合の年率に換算すると2・2%増となった。プラス成長は3四半期ぶりで、昨年4月の消費税増税後では初めて。円安を追い風に輸出は持ち直しているが、個人消費はなお弱く、設備投資も伸び悩んだ。

 

 一方、同時期にはこんな見出しの記事もありまして、これが同じ新聞に載っているのですから不思議な話です。まぁ半年間の抑圧期間が過ぎて再び上昇に転じたとは言えますが、伸びは弱々しいところ、その辺は報道でも伝えられています。では、このような結果を招いた消費税増税をどう評価しているのか、その辺もまた一貫性が問われるように思うわけです。景気は低迷、実質的な所得減で国民の生活は苦しくなった、それを肯定的に評価するのであれば、消費税増税を訴えてきた朝日新聞社としては筋が通るのかも知れません。しかし消費税増税が招いた結果をネガティヴに語りながら、その一方で消費税増税の必要性を唱えるというのでは、そもそも人間としてどうなんだろうと思うばかりです。

 小泉政権が残した結果には批判的な風を装いつつ、小泉改革に最も翼賛的だったのが朝日新聞です。似たような自己矛盾を見せる新聞社は他にもありますが、やはり朝日新聞が一番ひどいよなぁ、と。消費税増税の評価も然りで、消費税増税に賛成ならその「結果」にも同様の受け止め方が見られなければ筋が通りません。しかし実際のところはどうなのでしょう、まぁ「消費税増税が悪いのではなくアベノミクスがダメなのだ」と、そういう強弁を続けるのであれば、冒頭で触れたようなある種の一貫性は窺えるところです。この手の一貫性は単に視野の狭さから来るものとしか言えませんけれど。

 

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自分は今でも気になります

2015-02-20 22:59:37 | 編集雑記

 惰性と言いますか昔から何かを「書く」ことが習慣だったせいか、このブログも結構な期間ダラダラと続いていますけれど、「継続は力なり」って言葉、あれは嘘ですね。無限に出世する島耕作と違って、現実の人間は無限には成長できません。どんなに偉大な作家や芸術家もいずれは全盛期を過ぎて衰えてゆくものですし、一時は頂点に立ったレベルのスポーツ選手でも平均以下のプレーしかできなくなっていくことは普通にあります。

 それは決して、彼らが練習しなくなったからではないですし、練習量や積み重ねた努力に関してはプロとして成功した人を上回りつつも、実を結ぶことなく消えていった人なんていくらでもいます。そもそもプロから声のかからなかった人の中にも、幼少の頃から血の滲むような練習を続けてきた人はいる、2軍や下部リーグでも大して活躍できない選手もいれば、まだ若いように見えつつも徐々に成績を落としてしまう選手もいるわけです。そんな風に活躍できない、大成できない原因を頭の足りない人は努力不足と片付けてしまうわけですが、3流以下の選手にも努力家は多い、逆に1流でも練習嫌いの怠け者はいたりします。まぁ、続けても身になることばかりではないと言うことです。

 ブログのことに話を戻せば、読者数は無限には伸びませんね。まぁ「読者数を伸ばすための努力」をしているブログではないですけれど、ともあれ一時代を築いたメディアだって発行部数を減らしていったり、最盛期には任天堂を圧倒する勢いだったソーシャルゲームが今や忘れかけられた存在になったり、この世は諸行無常です。続けていても無限に成長はできません。無限に出世するのは漫画の中の島耕作だけ、無限に成長できるのはゲームの中のキャラクターだけ、現実世界では何事も限界があります。

 ……で、いつも前振りの方が長くなりがちですが、ブログの並びって、これで良いのでしょうかね。つまり一般的なブログは専ら、更新日の新しいものから順番に並ぶ仕様になっているわけです。でもブログを別にしたインターネット環境を鑑みると、そういう「並び」は必ずしも一般的ではないだろう、と。最初からHTMLで作られたホームページであれば、ブログとは反対に古いものから順番に並んでいるサイトも多い、「下に行くほど新しい」サイトは当たり前に存在します。しかしブログは「一番上が最新」というのがお決まりですね。

 頻繁な更新を想定したブログの場合、最新記事が先頭に来る、そうした現行の並び順の方が適しているのは確かです。ただ、「最初から読みたい」という需要もあるのではないでしょうか。とりわけ連載記事の場合など、連載の最初の記事から書かれた順番に記事を読みたいわけです。ところがブログの場合、並びの順番が連載の順番とは真逆になっているのが普通です。連載の順番に読みたければ、上からスクロールしていくのではなく過去の記事に一つ一つ遡っていかなければなりません。時系列に沿って読みたいあるいは連載記事を読みたい場合、ブログはちょっと不便です。でも、普通にブログに連載記事や連載漫画を載せている人もいます。連載の半ばになって「最初から読みたいな」と思ったとき、とても不便です。

 解決方法としては「目次を作る」とか、「更新日付を変更する」とか、各ページの末尾に「次の話へ進む」みたいなリンクを張っておくとか、多少の「気の利かせ方」はありますが、ブログサービス側でも何か考えてくれないのでしょうか。連載記事を作りたい利用者向けの通常とは並び順が異なるデザインですとか、あるいは第三者によるブログの並び順を入れ替える閲覧ソフトですとか、そういうのが開発されても良さそうな気がするのですが――そんなに需要はないのかも知れませんね。でも、ある日に「前編」を公開し、翌日に「後編」を書いたとしましょう。それが当たり前のように「後編」⇒「前編」という順番で並ぶブログの仕様は、特にブログを始めて触ったときには戸惑いましたね。

 例えばgooブログですと最下段に「前ページ」「次ページ」なんてリンクが出ているわけですが、果たしてどっちをクリックすれば「新しい記事」に飛べるのか、わかりにくいと思います。あるいはヨソのブログを見たりしますと、「PREV」「NEXT」なんて項目名だったりします。果たして読んでいる記事の「続き」を読みたいと思った場合、どちらをクリックすれば良いのでしょうか? 慣れの問題はあるのかも知れませんが、どうにもブログの記事の並び方って、もう少し考慮される余地があるのではないかと感じます。でも、何事も普及すれば受け入れられるものなのでしょう、きっと。

 

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極左党公約

2015-02-19 23:01:35 | 文芸欄

公約16

 

・法人税は下げません

 

 

・このコーナーはなんと4年ぶりです
・極左党代表代行:管理人(かん・まさと)と菅直人は全くの無関係です
・自称中道と違って堂々と左に立つので極左党です

 

 

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親族の立ち位置を決めるのは

2015-02-17 23:04:38 | 社会

30歳過ぎた娘にひな人形…微妙な親子関係 独身の子と親のほどよい関係とは(dot.)

 実家に帰るたび、思うことがある。

 運転席に父、助手席に母。後部座席左に33歳の私、右に妹。30年近くも変わらないポジションだ。変わったのは車種とBGMだけ。小学生だった頃には、学校で習った「グリーングリーン」なんかを家族みんなで歌っていたが、今はカーステレオからクラシックが流れる。後部座席に座って、両親の後頭部に増えてきた白髪を眺めながら考える。

“この車の運転手は、いつになったら交代の日が来るんだろう”

 仕事で取材に行った帰りに何げなくそんな話をしたら、同じようなことを、同僚の男性カメラマン(27)が言った。

「うちの地元では、『かまどを譲る』っていう言葉があるんですよ。家長が代わることを意味するんですが、昔は長男が嫁をもらったときに、一家の主が交代した。うちは兄弟みんな独身で、家を出ちゃってるから、かまどは譲られてない。食卓での上座もずっと変わらないまま」

 帰省するたび、子どもの側も年を重ねていく。いい年した大人だけが家の中に数人いる状態。そして何となく漂う気まずさ。この気まずさの正体は何だろうと考え、ある結論に達する。そうだ、「孫」がいないからだ。

 

 身内が集う中での立ち位置は「親族中の最年少者が基準になる」ものなのかなと、正月に思ったものです。それはウチの家系に限ったことなのか、それとも現代の日本において幅広く見られるものなのか――上に引用した記事を見るに、どうやら後者の方が近そうです。

 具体例を挙げれば、親族が一堂に会した席で私は概ね名前で呼ばれます。希に「お兄ちゃん」とも呼ばれますが、年齢的には「おじさん」です。でも親戚中で「おじさん」と呼ばれるのは専ら、私の伯父です。私が伯父を「おじさん」と呼ぶだけではなく、伯父の妹である母や伯父の母親である祖母も時々、伯父のことを「おじさん」と呼びます。そして私の母は「お母さん」です。母の母である祖母からも、そう呼ばれることがあります。そして祖母は、「おばあちゃん」ですね。祖母もまた自身から見れば娘である私の母からも、「おばあちゃん」と呼ばれます。そして私の妹は、名前でしか呼ばれません。決して「妹ちゃん」と呼ばれることはありません。

 余程の遠縁を別にすれば私の親族における最年少者は妹で、この最年少者である妹からの関係が、それぞれの立場を決めているわけです。妹の兄である私は「お兄ちゃん」、妹から見て母であれば祖母から見ても「お母さん」、妹から見て伯父であれば母からも「おじさん」、妹から見て祖母であれば母から見ても「おばあちゃん」である、と。これでもし妹に子供でもいれば、私の親族の「呼ばれ方」は異なっていたことでしょう。今度は私が身内から「おじさん」と呼ばれるようになり、母が「おばあちゃん」と呼ばれることになる、祖母は「ひいおばあちゃん」になるわけです。

 どうにも年齢を考えれば将来的に妹が子供を産む可能性は低そう、父方の従姉妹だけが子供を産めそうな年齢ではありますが、私の一族は専ら母方の祖母宅に集まるため、おそらく私の「家」における関係性が変わることはなさそうです。私はいつまでも「お兄ちゃん」であり、母は年を取っても「お母さん」のまま、誰もが年を取って老いていく中でも、結局のところ家系図の最も下段に属している私と妹は「子世代」であり、その上が「親世代」であることは不動なのかも知れません。

 冒頭に引用した事例でもそう、子供がいなければ33歳でも「子」であることは変わらない、「孫」が誕生して初めて「子」が「親」になり、「親」が「祖父母」に変わる、そういうものなのでしょう。現代の日本語には、「お姉ちゃん」「お父さん」「伯母さん」「おじいちゃん」等々、年少者から年長者を指すための呼称は存在しますが、その反対は違いますよね? お兄ちゃんやお姉ちゃんが弟や妹を「弟ちゃん」「妹ちゃん」とは呼ばない、お母さんやお父さんが子供を「息子ちゃん」「娘ちゃん」とは呼ばない、祖父母も「孫ちゃん」とは言わないわけです。

 ゆえに「親族中の最年少者が基準になる」というのが私の結論ですが、ヨソの文化圏ではどうなのでしょうか。全般的に現代の日本は、子供が中心になりすぎているのかな、という気もします。今は「子供のため」と掲げられれば、それは錦の御旗として通用してしまう、子供の迷惑行為に不満を表わしたら狂人扱いされる、何でもかんでも子供優先で周りの大人(中でも最も子供との距離が近い人すなわち母親)の都合は当たり前のように黙殺される――どうにも「後先考えない人」でないと子供を作るのは勇気が要りそうだなと感じることも多々あるわけです。もうちょっと、子供中心の考え方からシフトしても良いのではないかなと、私などは思うところですかね。

 

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もし渡航しようとしているのが「フリー○○」でなかったなら

2015-02-15 11:02:58 | 社会

男性「渡航の自由断ち切られた」法的措置も検討(読売新聞)

 イスラム過激派組織「イスラム国」の勢力圏があるシリア北部への渡航を計画していた新潟市のフリーカメラマン杉本祐一さん(58)に対し、外務省が旅券(パスポート)の返納を命じた。

 イスラム国が日本人2人を殺害した人質事件を踏まえ、旅券法の規定を適用した措置だが、憲法は「渡航の自由」「報道の自由」を保障している。生命が脅かされる危険が高い地域での取材をどう考えるべきか、関係者の意見も分かれている。

(中略)

 同省によると、旅券法のこの規定を根拠とした返納命令が出されたのは今回が初めて。同省幹部は「イスラム国はさらに日本人を殺すと明言している。そのような状況下での例外的な措置」としている。一方、杉本さんは9日、読売新聞の取材に「渡航、報道、取材の自由が断ち切られた。現地の状況を日本で紹介したかったが、機会を奪われた」と話した。法的措置についても検討しているという。

 

 ……とまぁ、こんなこともあったようですが世間の反応はどうでしょうか。報道や取材の自由が侵害されたと憤る人もいれば、当然の措置だと頷く人も見受けられるところです。ただ何となく私には、規制する側とされる側の立場と言いますか、「誰が」という要素によって受け止め方は大いに異なってくる類ではないかという気がしますね。やることは同じでも民主党がやるなら黙認あるいは賞賛、自民党がやるなら大反対とか、そんな調子の人も多いわけです。自民党政権下でのこうした動きに強い懸念を表明している人でも、これが民主党政権の決定だったらどうなのかな、と。

 あるいは今回のように「フリーカメラマン」ですとか、「フリージャーナリスト」みたいなのだと好意的に扱われたりもするのではないでしょうか。特定の組織や企業に属さない(という触れ込みの)フリー○○のやろうとしていることに制限を課そうともなると、途端に政府権力による○○の自由の侵害だの圧力だのと、そう受け止められやすいと言えます。しかし仮に渡航しようとしているのがテレビ局なり新聞社なり、大手マスコミの記者であったなら世間の反応はどうだったでしょうね。

 これが大手マスコミの上層部の決定で、危険地域に取材者を送り込もうという話であったのなら、世間の受け止め方は大いに違ったものであったろうと思います。スクープのため(すなわち自社の利益のため)に従業員に危険を冒させているものだと、そう非難する向きもあったことでしょう。フリーカメラマンなりフリージャーナリストの「自主的な」取材であるならば危険地域への渡航が美化されますが、大手マスコミによる会社命令での取材であった場合ならば、むしろ責めを負うことも出てくるはずです。

 今回は「フリーカメラマン」が渡航しようとしていたわけですが、しかしフリー○○の類も決して霞を食べて生きているものではありません。取材して得たものは、世間に知らしめるためだけではなく自身の生活や活動資金のためにも、大なり小なり結局はマスコミと取引されることになります。我が身の危険を顧みず危険地域に取材に赴くというのは一見すると英雄的な振る舞いに見えるかも知れませんが、そうやって希少価値のある報道を取ってこないと稼げないところもあるのではないでしょうか。フリージャーナリストの類が危険を冒すのには「売れるネタ」を取ってこなければならないという必然性もあるはずです。危険地域にまで取材者を駆り立てるのは、その人なりの使命感だけではないような気もしますね。

 

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無慈悲な自己責任論

2015-02-12 22:52:37 | 社会

危険地域のテロ被害「責任は本人にある」83%(読売新聞)

 読売新聞社の全国世論調査で、政府が渡航しないように注意を呼びかけている海外の危険な地域に行って、テロや事件に巻き込まれた場合、「最終的な責任は本人にある」とする意見についてどう思うかを聞いたところ、「その通りだ」が83%に上り、「そうは思わない」の11%を大きく上回った。

 「その通りだ」とした人は、イスラム過激派組織「イスラム国」による日本人人質事件を巡る政府の対応を「適切だ」とした人の90%に達し、適切だとは思わない人でも73%を占めた。支持政党別にみても、自民支持層の88%、民主支持層の81%、無党派層の79%が「その通りだ」としており、「最終的には自己責任」の考え方が、広く浸透している。

 一方、海外で日本人がテロの標的となる可能性が「高まった」と思う人は81%を占め、「そうは思わない」は14%だった。

 

 まぁ、昔年のイラク人質事件でも自己責任論を展開していた小泉純一郎は実績の悲惨さとは反比例するかのごとく輝かしい人気を誇っていましたし、今でも朝日新聞や民主党、最近では共産党からも賞賛されている有様ですから、日本人の本性とはそういうものなのかも知れません。安倍内閣は一応のところ優等生的な発言で人質解放に向けて動いていると説明していましたが結局は成果なし、この辺はイスラム国に拘束された時点で打つ手なしであったと言えなくもないですが、自国民救出に向けた熱意はどれほどのものだったでしょう。

 一方、日本人2名の拘束が伝えられるや最大野党の民主党は公式ツィートで「過激派『イスラム国』とみられる集団が日本人2人の殺害を公表したことを受け」云々と宣い、慌てて「誤解を招く言葉足らずな表現がありました」と称してツィートを削除するなど、いち早く殺害されたことを前提にした行動を見せるなど冷淡さを披露してくれました。その他の野党筋でも、これ幸いと人質拘束は安倍政権下のせいだと与党批判に持ち込もうとする人が散見され、どうにも人質2名の安否など置き去りにされた感が否めなかったものです。そしてネット上では「#ISISクソコラグランプリ」が盛り上がりを見せ、二人の人質もISISも憂慮の対象と言うより「おもちゃ」として受け止められていたわけです。

 

「イスラム国」の邦人人質事件  なぜ人質家族は謝罪するのか=中国メディア(サーチナ)

 「イスラム国」とされるグループによる邦人人質事件。人質とされていた湯川遥菜さんと見られる日本人が殺害されたとされる事件について、湯川さんの父親がこのほど「ご迷惑をお掛けして申し訳なかった」と謝罪し、さらに「救出に向けて尽力していただいた」として感謝の意を示したことが中国で大きな注目を集めている。

 中国メディアの騰訊大家は27日、中国人作家の唐辛子さんによる手記を掲載し、「なぜ日本人は謝罪するのか」と論じる記事を掲載した。

 記事は、湯川さんの父親による謝罪の言葉は中国語に翻訳され、中国の簡易投稿サイト・微博(ウェイボー)や、チャットアプリ「微信(ウェイシン)」などで広まったと紹介し、中国のネット上では「自分の子どものことより、まず社会に向けて謝罪するとは。日本人は恐ろしい民族だ」、「日本人の全体主義とは本当に恐ろしい」、「日本人は“イスラム国”より恐ろしい民族じゃないか」などの反応が見られたことを伝えた。

 さらに、日本で育った子どもが「湯川さんの父親の謝罪は、常識のある人ならば当然」と述べたことを紹介し、その理由として「湯川さんの一連の行動は個人による行動であり、その個人の行動が日本全体を不安に陥れたため」と語ったことを伝えた。

 

 日本では当たり前と受け入れられていることでも、外国の人からすれば奇異に映ることも少なくありません。その一例が、上で引用したような人質家族の「謝罪」に対する意識でしょうか。中国では驚きを持って受け止められたようですが、日本ではそれが普通なのです。逆に日本人を驚かせたのは後藤氏の母親の言動の方、ただ者ではないのか筋金入りの奇人なのか、果てまた錯乱していただけなのか、なにやら己の主張を展開する姿の方が目立ち、息子の安否を心配する声を期待した視聴者の期待を綺麗に裏切ってくれました。う~ん。

 "I AM KENJI"と、結果的には殺害された後藤健二氏への共感を訴える声も上がったものですが、もう一人の人質であった湯川遥菜氏のために"I AM HARUNA"と声を上げた人はいたのでしょうか。自称・民間軍事会社の湯川氏は田母神俊雄とのツーショットを誇らしげに自分のフェイスブックに載せたりもしていました。しかし湯川氏と志を同じくし戦争観を共有している人々の中に彼の身を案じていた人はどれほどいたのやら。同志からも黙殺され見限られてしまった人がいるわけです。

 伝え聞くところに寄るとISISのウェブサイトで「(日本人は)拘束された二人に対する慈悲がない」と記されたそうです。日本人の無慈悲な自己責任論を前にISISは少しばかり、日本人への評価を変えるのではないでしょうか。中にはツィッター上での対立から、しょうもないコラージュを作成していた人の住所をISISに告げ口する人なんかも現れたりしたようで、そこにISISが脅し文句を返したこともあって一応は警察が出動する事態にまで至ったなんてこともありました。冒頭の引用の最後に「日本人がテロの標的となる可能性が~」と伝えられていますけれど、どうにも私にはISISの残酷さ(何を今さら!)よりも日本人の残酷さの方こそ新たに知られることとなったのではないかと思われます。ISISも、慈悲に欠ける日本人を人質にとっても得られるものは少ない、日本人は冷酷に同国人を見捨ててしまうものだと学んだのではないでしょうかね。

 

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若いことは、とにかく良いことなのだろう

2015-02-09 22:48:01 | 政治

18歳選挙権、今国会成立へ 早ければ来夏の参院選から(朝日新聞)

 選挙権を持つ年齢を18歳以上にする公職選挙法改正案について、与野党6党は6日、今国会に再提出する方針で一致した。今国会中の成立は確実な情勢で、早ければ来年夏の参院選から「18歳以上」が実現する。選挙権年齢の引き下げは、1945年に男性が25歳以上から20歳以上に引き下げられて以来、70年ぶり。

 公選法改正案は昨秋の臨時国会に議員立法で提出されたが、衆院解散で廃案となっていた。

 6日に国会内で開かれた「選挙権年齢に関するプロジェクトチーム」の会合では、自民党、公明党、民主党、維新の党、次世代の党、新党改革の6党の担当者が法案の扱いを改めて協議し、今月中にも改正案を再提出することで合意した。国会で多数を占める6党が提出で一致したことで、今国会中の成立が確実となった。協議メンバーで自民党の船田元氏は「今国会中に成立させたい」と強調した。

 

 共産党と社民党は協議に入っていないとのことですが、両党の立場はどうなのでしょう。とにもかくにも「若者を大切にしろ」みたいなのが世の潮流ですから、反対でも口に出せないところはありそうです。なお新たに選挙権が付与されることになるであろう層の投票傾向はどうなるのでしょうか、昨年末に朝日新聞が紹介していた10代専用の疑似投票サイトで得られた結果によりますと、人気順に①自民、②維新、③共産、④民主、⑤次世代ということになっていました。自民党は世代を問わない支持を得ている一方で、子供から人気のない党、逆に子供からは人気のある党もあるようです。大雑把に言えば投票年齢の引き下げで不利益を被るのは民主と公明、逆に恩恵を受けそうなのが維新と共産に次世代となりそうですが、どうなんでしょうね。

参考、次世代の選択

 その昔、大学で私の指導教官が60歳で定年を迎えまして、「そもそも60歳定年なんてのは、60になる前に死んじゃう人も多かったような時代の考え方でさ……」と愚痴をこぼしていたのを覚えています。そうですね、昔――例えば男性の選挙権年齢が20歳に引き下げられた70年前――と現代のライフスパンは、劇的に異なったものになっているわけです。小学校卒、中学校卒で働きに出る子供も多かった時代と、大学進学率がようやく5割に届いた現代、60歳になる前に死んでしまう人も多かった時代と、なんだかんだ言って世界屈指の長寿国となった現代、10台の内に嫁にやられたり子供を産んでいたりするのが珍しくなかった時代と、晩婚化が進み出産年齢もちょっと生物的に厳しいレベルまで上昇した現代、昔と今とでは基準にすべきものが大いに違ってきます。

 野生の動物は、すぐに大人になります。親に養われる期間、大人に育てられる期間が人間と野生動物とでは雲泥の差です。人間は育つのが遅い、大人になるのが実に遅いですね。でも、だからといって人間が野生動物に劣っているとは私は思いません。ただ人間でも、未開な社会と成熟した社会とではやはり「大人になるまで」の時間に差がありますね。混迷を極める国では10代半ばでも男児は銃を持って、女児は体を張って、立派に大人の仲間入りを果たしているわけです。逆に先進国と呼ばれる国において同年代の少年少女達は、まだまだ「育てられる側」の生き物でしかありません。しかし、大人になるのが遅いことは、決して悪いことでもないでしょう。

 ……で、折に触れ書いてきたことではありますが、学校を卒業して働き始める年齢は上がりました。結婚する年齢も、子供を持つ年齢も上がりました。昨今は年金支給開始年齢が引き上げられたこともあって定年も延長されるところが増えてきました。そして寿命も――死ぬ年齢も上がったわけです。70年前に比べて人生の節目は何もかもが後ろに動いていった中で、例外的に選挙権を持つ年齢だけが前倒しされるというのは、今一つ整合性の無い話のように思えてきます。選挙権を持つのは、せめて会社に入って日本の労働環境の理不尽さを味わってからぐらいの年齢で十分ではないのかと、私などは思うところです。中卒で働き始める子供の多かった時代ならまぁ、18歳で選挙権を持たせるのも悪くないのかも知れません。しかし圧倒的多数が親に養われている段階の現代の18歳に選挙権を持たせるのは、ちょっと先走りすぎているような気がします。選挙権を持つのは早いほうが良いなんてことは、いったい何を根拠に言えるのでしょうね?

 

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本気ですか?

2015-02-06 22:49:21 | 雇用・経済

家・仕事確保、移住して(読売新聞)

 県は来年度、人口減対策として「ぐんま暮らし支援事業」に取り組む方針を決めた。住まいと働く場の確保、相談態勢の強化により団塊世代だけでなく、20~30歳代の県内移住を促す。

 県によると、今年度2月補正予算案に事業費1900万円を計上する。来年度の早い時期に、県内35市町村と、不動産会社などの企業が参加する「ぐんま暮らし推進連絡会議」を設立。関係者が一体となって、移住者向けに住まいや働く場を確保する。

 東京・銀座のぐんまちゃん家ちには、移住希望者向けのワンストップ窓口を設置。移住に関する情報を一元化し、相談しやすくする。年間約130件にとどまっている移住相談件数を5倍に増やす目標を掲げる。ふるさと回帰支援センター(東京都千代田区)にも、専門相談員1人を常駐させ、首都圏での相談機能を強化する。

 

 さて、未開の地としても知られる群馬県が税金を投じて20~30歳代の県内移住を促すそうです。その予算額は、なんと1900万円! ……そして冒頭の見出しになるわけですが、果たして1900万円で「家・仕事確保」ができるのでしょうか。事業費ではなく人件費として1900万円を計上すれば、4人ぐらいは正規の職員として群馬に移住させることができると思われますけれど、その辺が限界ですよね。まぁ都心部の金銭感覚で言えば1900万円でできることなどたかが知れているとしか思えないのですが、群馬なら1900万円の価値は違うのかも知れません。

 「職は東京にあり」と言いますか、私のように失業経験豊富で何度となく職探しの必要に迫られた身からすると、やはり仕事を確保するならば都内に目を向けざるを得ないところです。群馬なり地方の求人と東京の求人を見比べるとどうしても、地方に移住というのは難しい決断と言わざるを得ない、その地域の出身であるとか、その地域に転勤させられるとか、何らかの「縁」は不可欠でしょう。果たしてわずか1900万円で確保される「住まいや働く場」とはどんなものなのか、そこで東京よりも魅力的なものが提示できるのであれば、元から人口は流出しない、東京にばかり人は集まったりしないですよね。

 

「今度は本気」…厚労省、22時以降は残業禁止(読売新聞)

 「休むのも仕事です。今度こそ本気です」

 厚生労働省の長時間労働削減推進チームは、こんなキャッチフレーズで「働き方・休み方改革推進戦略」をまとめた。同省職員の長時間労働を改善するためで、職員は原則として毎日午後8時までに退庁する――とした。やむを得ない場合でも、同10時までには退庁する。実施状況は全職員の人事評価に反映するという。

 法令審査や国会業務などを扱う大臣官房などが3月から半年間、先行実施する。10月以降、全部局を対象とし、10時以降の残業が禁止される。戦略では、これらを「厚労相主導の下、半ば強制的に実施する」と明記した。危険な感染症の発覚など突発事案が発生した場合などは例外とする。

 同省は、社会保障と労働行政を抱え、霞が関の省庁でも残業が多いとされる。一方で、民間企業の長時間労働の監督指導を行うことから、塩崎厚労相が音頭を取って改善に乗り出した。

 

 ……で、こちらも微妙にツッコミどころが多いと言いますか、「22時以降は」とか言われても流石にそんな時間に制限を付けられても、喜べる人は多くないですよね。まぁ、その時間帯の設定はさておき長時間残業を懸念する動き自体は好ましいことです。往々にして献身的な働き方を誇る人ほど他人にも同様の振る舞いを求めるもの、自ら身を切ったのだからと国民にも同様に負担増を求めるような論調の政治家も多いだけに、むしろ率先して自らの残業時間を減らし、国民にも普及させようとする方向性は間違っていないでしょう。

 ただ、民間企業における「ノー残業デー」よろしく残業を禁止したところで仕事量が減ったりしないのは言うまでもありません。早めに切り上げて帰宅した分だけ仕事は溜まってしまうもの、それを片付けるべく何らかの「歪み」が生まれることは避けられないわけです。タイムカードだけ押して「帰ったことにして」こっそり残業するとか家に仕事を持ち帰るとか、あるいは休日出勤するなどして対応している人も多い、見せかけ上の残業時間を減らすために余計な苦労を背負い込んでいる人も少なくないはずです。根本的な解決のためには人を増やして一人当たりの仕事量を減らすしかない、人件費を増やすしかないのですが――人に払う費用の最小化を追求する日本的経営においては、それは望めないことなのかも知れません。

 結局のところ長時間残業を禁止することで「上」の人間は形式上は「仕事をした」「手を打った」「やるべきことはやっている」とアリバイは作れるものなのでしょう。とはいえ、トップの思いつきに振り回されるのはいつだって現場の人間です。人員増/業務削減なくして長時間残業の解消はあり得ませんけれど、そこで単純に残業を禁止するだけでフタをしてしまおうとする、そんな怠惰な経営層や政治家も多いと言えます。禁止したのに残業時間が減らないのは社員/職員が悪いと、そういう方向に持って行ければ上の人間は安泰なのかも知れません。しかし、その実は問題は何も解決していないのです。

 

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かつて賞賛されていた会社

2015-02-03 23:01:51 | 雇用・経済

“超無謀”だった「A380」購入 スカイマークの命取りになった超大型機(フジサンケイビジネスアイ)

 経営破綻したスカイマークの命取りになったのが、このA380の導入計画だった。6機の購入代金は総額1915億円。契約を結んだ11年は経営が絶好調だった時期だったとはいえ、年間売上高のほぼ倍に当たる巨額の投資だった。だが、業績は急速に悪化し、代金の支払いが滞る。エアバスからは購入契約解除の通告に加え、7億ドル(約830億円)の違約金を求められた。会社のイメージ悪化や顧客離れが加速し、経営は追い詰められていった。

 民事再生法の適用を申請した翌日の今月29日、就任後初の会見に臨んだ社長の有森正和は、報道陣から「A380の導入計画が破綻の理由になったのか」と問われた際、「それで結構だ」と認めざるを得なかった。A380の導入計画は「超ワンマン」で知られた前社長、西久保慎一が主導したものだった。スカイマーク関係者は「国際線参入は西久保氏にとって悲願だった」と説明する。

 当初は14年10月にA380の初号機を受け取り、同社初の国際線として14年末にも成田-ニューヨーク線に就航させる計画だった。型破りの手法で業容を拡大してきた西久保には、好業績の余勢を駆って「2強」の日本航空や全日本空輸に一気に肩を並べようとの思惑もあったようだ。だが、これだけの超大型機を使いこなせる航空会社は世界でもそう多くない。当初から日本の航空業界では冷めた反応が多かった。「話を聞いたときは『超無謀』だと思った」。大手航空会社の役員はこう振り返る。「国際線経験ゼロの会社がいきなり超大型機で長距離路線を展開しても、うまくいくわけがない」

 

 先ごろ経営破綻したスカイマークですが、その要因としてクローズアップされているのが、A380機の導入計画です。何しろ年商900億の会社が1915億円の購入契約を結んだのですから無茶も良いところですね。資本の使い道を見いだせず内部留保を積み上げるだけの日本的経営もまた酷いものですが、だからといって会社の規模に見合うはずもない巨額の投資を強行すれば当然ながら危険なギャンブルとなります。何事も両極端はダメということなのでしょう。極端なことをやれば世間の注目を集める、アホな経済誌からも業界の革命児と持て囃されるのかも知れませんが、行き着く先はご覧の有様です。

 まぁエアバスにしても、よくも契約を結んだものだなと思います。与信管理は適切だったのでしょうか。普通は、購入意欲がありさえすれば大歓迎ということにはならないはずです。支払い能力に疑わしい点のある顧客から商品やサービスの提供を求められても、そこは素直に「ご注文ありがとうございます」で済ますわけにはいかないのが企業間の取引というものですから。A380みたいな大型旅客機ともなれば店頭に在庫を並べて買い手を待つわけにも行かないところ、注文者の支払いが滞れば当然ながら不良在庫と化してしまうのは不可避です。

 つい先日まで居座っていた前社長、西久保慎一氏の主導でA380の導入計画は進められたと伝えられています。その失敗として責任を問われるのが西久保氏個人に止まるならば良いのですが、実際のところは末端の従業員にも賃金抑制や退職強要、一人当たりの労働負担の増加などの形で責任が転嫁されるわけです。トップが決断したことでも、「下」の人間が責任を背負わされることからは逃れられない、しかし物事を決める権限を持っているのは「上」の人間だけ、そういう構図はスカイマークでもあったのではないでしょうか。

 小泉純一郎なり橋下徹など、その筋の政治家は「やればできる」みたいなことを頻繁に語ります。実際には不可能なことでも、「やればできる」と唱えては、実現されなかったら内部に敵を求めて責任を押しつける、そうした卑劣な振る舞いによって国民から「リーダーシップ」を認められている政治家もいるわけです。スカイマークの前社長は、どうだったのでしょうね。「職員は『できるように努力します』以上の発言はしないように」と、そう橋下は語りました。A380導入計画が持ち上がったとき、スカイマーク社内で社長は部下に何を求めたのでしょうか。下からの「できません」「無理です」と、そうした現実を見つめる声にトップが耳を傾けていれば、破綻せずに済んだ組織はスカイマークだけに止まらないように思います。

 

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