今年は参議院選挙があります。私の住んでいる田舎でも2ヶ月後に市議会議員選挙があります。そして今の段階で最も盛り上がりを見せるのは東京都知事選を巡る一連の動きでしょうか。都知事選についてはまだ候補者が出揃ったとは言えない状況ですので、具体的なことは一端、保留することにします。
今回語ってみたいのは、いったい誰に投票すべきなのか―――選挙ごとに候補者も違う、地域情勢も違うわけですが、そのように違いのある中でも一貫して通用する候補者選びの基準はあるのか、ということです。
選挙で誰に投票するべきかを巡っては、左派陣営の間でも意見の分かれるところです。自分たちに主張の近い候補に投票すべきか、それとも野党第一党に票を集めるべきか、一つの答えしか当選を許されない小選挙区制の世界では、どちらに投票すべきかを巡る意見はしばしば相容れないものとなります。
一つには、良心に基づいて投票する考え方があります。そしてもう一つに、選挙戦略に基づいて投票する考え方があります。有権者がそれぞれの良心に基づいて投票するのが本来の姿とも言えますが、それによって自らに近い立場の候補者を当選させることができるのか、という点で弱みがあります。多数決主義の下では与党側を過半数割れに追い込まない限り、行使できる影響力は大きくありません。それならば与党側を過半数割れに追い込むことを重視、選挙戦略を重視して投票すればいいのでしょうか。選挙戦略を重視して投票した方が、与党側を過半数割れに追い込み影響力を行使する面では効果的に見えるかもしれません。しかし、与党候補に勝てそうだからという理由で選んだ候補が当選後に我々の意思を代弁してくれる可能性は、非常に低いものであるかもしれません。
よりよい社会(曖昧な表現ですが)を築くためには2つの条件が揃わなければなりません。一つには過半数を確保して影響力を行使すること、その過半数を占める勢力が遺漏なく良心的に振る舞うこと、このどちらかが欠けても意味がありません。つまり与党を過半数割れに追い込むことも条件の一つなのですが、それと同時に必要とされる条件を満たしていない限り、ただ政権交代が起こるだけでは決して充分ではないのです。
ある意味で小泉純一郎の登場は自民党内部での政権交代でした。今までの「古い自民党」ではもう限界、これをなんとかして変えなければならない、そんな思いに乗じて登場したのが小泉であり、その後の惨状は言うまでもありません。そして石原慎太郎もしかり、無策な青島都政に対する何とか変えなければならないという危機意識に乗じて権力を掌握した面がある訳ですが、その後の惨状は言うまでもなし、トップの顔ぶれが変わるだけでは世の中は良くなりませんでした。
そこで今の自民党政権にしろ石原都政にしろ、いずれも国民や都民にとって非常に有害、何とかして変えなければならない、そんな機運はあると思います。けれどもそこで「変える」ことを至上命題としてしまうと、いつまで経っても彼らの2世3世を生み出すだけ、変わるのは政権担当者だけ、世の中は相変わらず悪い方に進み続けることになるかもしれません。
ではいったい誰を選べば、どんな基準で選べばいいのか?
一つの指針となるのは、自分と異なる弱者へのまなざしではないでしょうか。自分がそこに属する、自分と同じ弱者へのまなざしではなく、自分がそこに属さない、自分と異なる弱者へのまなざしです。
極論すれば、女性が女性の権利を主張する、がの権利を主張する、外国人が外国人の権利を主張する、労働者が労働者の権利を主張する、若者が若者の権利を主張する、自分が弱者であればその弱者である自分の立場を改善しよう、生きやすい社会を築こうとするのは当たり前のことです。現にあの石原慎太郎だって花粉症対策の面では頑張っているわけで(石原慎太郎も花粉症)、誰だって自分及び自分の属する層のためなら良心的になれるものなのです。
問題はそれが自分とは関係のない弱者の場合であったときにどうするのか? 女性の権利に男性としてどう向き合うのか、外国人の権利に日本人としてどう向き合うのか、同性愛者の権利に異性愛者としてどう向き合うのか、労働者の権利に経営者としてどう向き合うのか、自分とは直接の関係がない弱者の立場にどのようなまなざしを注ぐことができるか、そこで人の価値が分かれます。
花粉症患者の石原慎太郎は花粉症対策の面では良き指導者ですが、自分が当事者ではない側面においてはどうでしょうか? 富裕な日本人男性である彼が低賃金労働者、外国人、女性に対して向けるまなざしはどんなものでしょうか? 自分が花粉症だから花粉症の問題は真剣に対応するけれど、自分は日本人だから外国人は蔑ろにする、男性だから女性は蔑ろにする、金持ちだから貧困層は蔑ろにする、そのような人物であるならば、もし彼が花粉症でなければ花粉症患者のことだって蔑ろにしていたであろうことは容易に想像できますね。
小泉以来の暴政の結果、とりわけ若年層を中心に貧困の問題が深刻です。貧困に追いやられた層からの怒りの声は強まりつつあり、ここに来て従来の自民党支持層からも離反する人が増え始めているようです(天才的な嘘つきが無能な嘘つきに変わったことで、ようやく納豆を食べても痩せられないことに気づいたのでしょうか)。そしてそんな経済的に追い詰められた階層が一定の力を持ち自民党政権に立ち向かおうとしています。
特権階級に便宜を図る安倍政権に貧困層が不満を持つのは当たり前のことで、これを代弁する候補を推すのは理に適ったことであるように見えます。しかし、そこだけを見ていると危ういことになるかもしれません。自らが貧困層の代表者として、その利害を代弁してくれる候補者は貧困層から見ればありがたい存在ですが、最終的に彼が権力の座に就いたときに、つまり彼が弱者である貧困層から強者である為政者に変わったときに、彼が変わらず貧困層の利害を代弁してくれるかどうか、それを見極める必要があります。
そこで、自身とは関係のない弱者へのまなざしが問われるわけです。男性であれば女性に対して、日本人であれば外国人に対して、健常者であれば障害者に対して、どのようなまなざしを向けるか? 自分が貧困層に属するから貧困へは真摯に立ち向かう、しかし自分は男性だから女性は蔑ろに、日本人だから外国人は蔑ろに・・・ というのであれば、彼は石原慎太郎の同類、自分が貧困層から抜け出した暁には、彼は貧困層の代弁者ではなくなっているでしょう。男性であっても女性の権利に配慮し、日本人であっても外国人の権利に心を尽くし、花粉症でなくても花粉症対策に本気で取り組む、そのように自分とは異なった弱者に対しても、自身が属する弱者に振り向けるものと同質のまなざしを向けられること、それが権力者になっても貧困層の代弁者であり続けるために必要な資質ではないでしょうか。
これらは曖昧で迂遠な理想論に聞こえるかもしれません。しかし、根本的なことを浚わずに対処する、すなわち自民党を今の自民党たらしめているもの、石原慎太郎を石原慎太郎たらしめているもの、それを見据えることなくただクビをすげ替えるだけではいつまで経っても彼らの亜流が再来するだけです。ダメなものを取り替えるのは必要なことですが、新しく取り替えられるものは以前のものよりも上等でなければならないわけで、そのためにはそれがどれほど困難な目標に見えようとも、理想を追い続けることを忘れてはならないのではないでしょうか。
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