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2012-06-29 22:53:12 | 社会

<放射能除去>不当広告、昨年度136件 東京都、修正指導(毎日新聞)

 福島第1原発事故後の放射能に対する市民の不安に乗じ、放射性物質除去に効果があるかのような不当なインターネット広告が、東京都の調査で昨年度136件見つかっていたことが分かった。都は事業者側に広告の修正や削除の措置を取るよう指導した。
 
 都生活文化局は消費者行政の一環で、ネット通信販売のバナー広告などを日常的に監視しており、昨年度は約2万4000件をチェックした。景品表示法などに抵触するとして指導したのは前年度(302件)の2倍近い582件に急増。うち約4分の1は、実証データがほとんどないまま放射性物質除去をうたった広告だった。
 
 扱っていた商品は▽浄水器56件▽健康食品34件▽放射線測定器16件▽マスク11件--など。浄水器で「放射性セシウムを95~99%、ヨウ素を96~99%除去」と宣伝したり、健康食品を「放射性物質や環境汚染から来る発がん物質を排出してくれるサプリ」と紹介したりしていた。
 
 一般の商品と製法が変わらないマスクや洗剤を「放射性物質に効果がある」とPRした広告も、表示に問題があるとされた。また、特定の物質を吸着する性質がある鉱物のゼオライトを使ったとする複数の商品でも、科学的根拠がない効果が示されていた。

 

 まぁ、この辺は今更のことですが、どうにも原子炉の冷却や放射性物質の拡散を止めるより、ずっと時間を要することがあるのでしょう。国民の頭を冷やすのは原子炉を冷やすより難しく、デマの拡散を止めるのは放射性物質の拡散を止めるより難しい、原発のリスクを左右するのは電力会社だけではなく、その社会の理性でもあるように思います。反原発を掲げたヘイトスピーチや風評被害を広めようとする声を耳にするにつれ、電力会社だけの問題では済まされないのだと痛感するところです。

 ……で、引用元で伝えられているように不当広告が急増、中でも放射性物質除去をうたった広告が目立つわけです。ハローワーク等の求人広告に掲げられた偽りの嵐に比べれば可愛いものと言えなくもないですけれど、ともあれ根拠なく「放射性物質に効果がある」「放射能を除去できる」と称した商品の売り込みは減る様子がありません。どうなんでしょうかね、原発に否定的でありさえすれば科学的な根拠は問わない昨今の反原発の姿勢とシンクロしているような気がします。実際の影響の多寡を調べるよりも不安に乗じる形で脱原発を進めようとする、そうした気運が高まるほど、不安に訴えかけるような広告が受け入れやすくなるのですから。

 

「脂肪にドーン」CM、誤解招く恐れと改善通知(読売新聞)

 サントリー食品インターナショナルが販売する特定保健用食品「黒烏龍茶」のテレビCMが誤解を招く恐れがあるとして、消費者庁が同社に改善を求める通知文を送っていたことが25日、わかった。
 
 対象となったのは、アニメの主人公が「脂肪にドーン」とひとさし指を突き出し、「食べながら脂肪対策」というテロップが流れる内容。昨年8月から全国で放映された。
 
 通知文は3月26日付。内閣府消費者委員会の指摘を受け、「偏った食生活を助長する恐れがあり不適切」として改善を求めた。サントリーは「CMの表現は元々配慮して制作している」として、今年6月中旬まで放映を続けた。

 

 例によって求職者に誤解を与える求人広告を掲載するハローワークにも改善を求めよと思わないでもないのですが、ともあれこんなことも伝えられているわけです。サントリーの姿勢もどうかという気がしますけれど、それがマーケティングとして成功してしまうのですから似たようなケースは今後も相次ぐことでしょう。「放射性物質に効果がある」とか「食べながら脂肪対策」みたいな類は、それだけで十分にいかがわしいと私などは感じるところですが、それでも信じたい人は信じてしまう、自分に都合の良いように頭の中で「設定」してしまうものなのかも知れません。人々の不安や期待を掻き立てる要因は、実効性や確からしさよりも別のところにあるのでしょう。

 なおサントリーによれば「OTPP」こと「ウーロン茶重合ポリフェノール」が有効成分とのことです。ポリフェノール云々は近年の流行の一つですけれど、ことによると摂取量の増大が健康リスクを招いたりするのではとか、普通の人は考えないのでしょうか。イソフラボンとかも取りすぎは良くないと聞きますけれどOTPPはどうなのか、何か根拠があって「大量に含まれている飲料を摂取し続けても大丈夫」と判断しているのならともかく、何か特定の対象(例えば東北地方の農産物とか、遺伝子組み換え食品とか食品添加物とか)を無闇矢鱈と危険視する一方で、OTPPなりオルニチンなり、健康関連で持ち上げられた類には何の疑問も持っていないとしたら、それはリスク評価の姿勢として甚だしく偏ったものである、必然的に間違った判断へと繋がるものと言えます。

 例えば、電磁波過敏症と称する人もいるわけです。本当に電磁波に反応しているのかどうかはさておき、じゃぁマイナスイオン過敏症を訴える人はいないのかと、私はその辺を疑問に感じるのです。マイナスイオンだって、と言うより定義の曖昧なマイナスイオンの方が格段に、正体不明の「何が起こるか分からない」代物のはず、氾濫するマイナスイオンの存在を不安に感じる人がいてもおかしくない、それを避けられる権利を主張する人がいたって不思議ではないと思うのですが、なぜか電磁波その他諸々を気にかけるようなレベルの人ですら、マイナスイオンのことは全く気にしていないように見えるのはどうしてなのでしょう。結局、自分にとって嫌悪の対象であり、排除したいと願っているものを「危険」と位置づけ、そうでないものは検証すらしない、そういう基準で判断されているのかも知れません。

 

PCメガネ「JINS PC」、自販機を全国に設置へ(@niftyビジネス)

ジェイアイエヌは、パソコン用メガネ「JINS PC」専用の自動販売機「JINS Self Shop(ジンズセルフショップ)」を2012年7月2日より全国のショッピングセンターなど商業施設へ順次設置開始する。パソコン用メガネに関心を持ちながら店舗に出向くのを面倒に感じている人なども手にしやすくなる。

JINS PCは、パソコンやスマートフォン、タブレットの液晶ディスプレイなどから出る波長380―495nm(ナノメートル)の可視光「ブルーライト(青色光)」を50%程度遮断できるとうたうメガネ。ブルーライトはエネルギーが高く、目の角膜や水晶体で吸収されず網膜まで到達し、長時間浴び続ければ負担になる。

 

引用元、LEDの色温度を考える(All About)

 このJINSが訴えるブルーライトの影響に関しては鵜呑みにできないところもあります。All Aboutに掲載されたLEDのスペクトル分布も製品次第で差はあることでしょう。それでも波長を見ると、まさにJINSが目に悪いと説く380―495nmの部分にLEDの大きな山ができていることは注目に値します。これで即座に「LEDは危険」と判断すべきものではありませんけれど、検証されるべき懸念材料の一つであることもまた否定できないでしょう。にも関わらず、安易にLEDへの置き換えが奨励されてしまう、そこに批判的な声、安全性を問う声が聞こえてこないところに私は不安を感じます。自分が気に入らないもの、社会から放逐したいと考えているものの危険性ばかりが強調され、都合のいいものは盲信される、その一方で実際の影響の度合いはマトモに審査されないどころかスルーされているとしたら、こうした判断の偏りこそが我々の生活を危うい方向へ導くものと言えます。

 

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進歩のなさが嫌になる

2012-06-27 23:05:31 | 社会

日本は「人身売買根絶の最低基準を満たさぬ国」(読売新聞)

 米国務省は19日、世界186か国・地域の人身売買の実態をまとめた年次報告書を発表した。

 この中で、民主化改革に取り組むミャンマーについて、強制労働の防止策などで「これまでにない改善」があったとして、4段階評価のうち最低評価である「制裁対象」から1段上の「監視対象国」に初めて引き上げた。

 報告書は、ミャンマーは依然、強制労働や女性の人身売買などの問題を抱えていると指摘しつつ、昨年の法改正や被害者支援制度の整備などにより、「今後も改善が進んでいく見通しがついた」と評価した。

 日本については、「外国人研修生制度」が実態として強制労働に近いなどとして、8年連続で上から2番目の「人身売買根絶の最低基準を満たさない国」に分類。混乱が続くシリアは最低ランクに格下げした。

 

 さて、「これまでにない改善」「今後も改善が進んでいく見通しがついた」とミャンマーが評価される一方で、我らが日本は8年連続で「人身売買根絶の最低基準を満たさない国」に止まっているようです。それでも現時点でミャンマーよりはマシなのかも知れませんが、そのうち追い越されていくこともあるでしょうか。一人当たりGDPではヨーロッパ諸国に次々と追い抜かれ、国全体のGDPでも中国に抜かれた日本、どうもこの国の特徴は「一人だけ停滞」にあるように思えてきました。改革を掲げる政治家が絶大な支持を受けて無茶ぶりを繰り返している一方で、結果としてみれば足踏みばかり、この10数年ばかり間違った方向に歩みを進めてきたのではないかと自省して欲しいところです。

 外国人研修生という制度が必然的に招き続ける問題については多少なりとも取り上げてきたわけですが、世間の扱いはどうなのでしょう。たまに新聞紙面上を賑わすこともありますけれど、結局のところ傍目には大した変化がない、その結果として8年連続の「人身売買根絶の最低基準を満たさない国」にも繋がっているように思います。日本政府はこの辺、真面目に取り組む姿勢があるのでしょうか。TPP「交渉」参加問題もあって、とかくアメリカの圧力が云々、グローバル化が云々と言われる一方で、国際社会からの非難を屁とも思わず自分のやり方を変えようとしない日本の姿が垣間見られるところです。

 元から文明論が幅を利かせがちで、それが原発事故後に尚更勢いづいた感もあるわけですが、「発展しすぎた文明は人間に災いをもたらす」みたいな発想は自身が文明の頂点に立っているという奢りがあって初めて成り立つものです。科学技術や経済発展の「限界」を語る人は、自分の世代が限界すなわち最高到達点に辿り着いた世代だと錯覚している、だからその先はないと思い込みがちなのではないでしょうか。そして文明論や「経済成長の時代は終わった」みたいな世界の動向とは完全に矛盾した言説が日本国内では通用してしまっている、それが「進歩のなさ」を容認しがちな世論にも繋がっているような気がします。

 「経済成長の時代は終わった」わけではないのは、日本「以外」の国に目を向ければ自ずから明らかですけれど、それでも日本国内では「経済成長の時代は終わった」と広く信じられているようです。普通なら10年以上も経済を停滞させれば当然の帰結として失政と判断されそうなものですけれど、「経済成長の時代は終わった」のであれば、それも当然のことになってしまうのでしょう。もう経済は成長しない以上、経済の停滞は改革が誤っていたからではない、もう成長の時代ではないのだ、と。それはそれで頭の中では完結しているのかも知れませんが、日本を尻目に世界は浮沈を繰り返しながらであろうとも前に進んでいきます。日本ももう少し、自国の「進歩のなさ」を反省しなきゃいけないように思います。経済も然りですが、引用元で伝えられているような8年連続の「人身売買根絶の最低基準を満たさない国」評価だってそうです。外国人研修生という、しばしば強制労働や実質的な人身売買にも繋がる非人道的な処遇を後押しする制度を未だに放置し続けている、軍事独裁政権でもないのにこうした問題に何年経っても対処できないでいようでは、流石に自国を恥じざるを得ませんね。まぁ、進歩がないのはお互い様かも知れませんけれど。

 

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ジャップだけで満足してろ

2012-06-24 10:14:51 | 社会

「幸福度」の指標化立ち消え 途上国が反対 リオ+20(朝日新聞)

 ブラジル・リオデジャネイロで20日開幕した「国連持続可能な開発会議」(リオ+20)で採択される宣言(成果文書)から、日本やブータンなどが提案した「幸福度」指標に関する内容が削られた。「経済成長の制約になりかねない」と警戒する途上国が反対したという。

 幸福度は国内総生産(GDP)に代わる豊かさの物差しとして注目される。ブータンが独自指標を導入しているほか、日本や経済協力開発機構(OECD)なども開発に乗り出している。

 政治宣言の原案では「幸福の程度を測る手段としてのGDPの限界を認識し、GDPを補完する指標の開発に合意する」との内容が盛り込まれていた。その後先進国と途上国との対立が先鋭化。幸福度についても「GDPは引き続き大事な要素」とする途上国グループが反対、「幸福の程度を測る手段としてのGDPの限界を認識する」との表現は削除された。

 

 さて、ブータンという特異な国の国王夫妻が来日したことにも気をよくしてか、元より精神的な満足感ばかりを重視して経済合理性を蔑ろにしがちな我らが日本政府は国際会議で「幸福度」指標を提案していたわけです。原発事故後に勢いを強めた文明論的な風潮に背中を押されたところもあるでしょうか。そして私には至極当然の反応と思われますが、途上国からの反対に遭って立ち消えとなったことが伝えられています。提案した側――我らが日本ですけれど――は、この結果を予測できなかったのでしょうかね。本気で「幸福度」指標化が歓迎されると考えていたとすれば、それは思い上がりにもほどがあるというものです。

 とかく精神的な豊かさを称揚するばかりで、経済的/物質的な豊かさを「悪」と捉えがちな日本にとって、ブータンという不思議な国は理想郷に映るのかも知れません。まぁ、お幸せな国であるのは確かだとしても、だからといって問題が無いわけではないのですが、不都合なことは「なかったこと」にして自身の世界観を補強してくれる部分だけをピックアップするのが、日本的な評価システムでもあるのでしょう。北朝鮮より乳児死亡率の高い国を、何かにつれ「子供を守れ」と喧しい国の住民が肯定しているというのも不可思議な話ですけれど、ダブルスタンダードを気にして日本人は務まりません。

 そうでなくても全てのブータン人が幸せというものではない、ブータン国民にも自国の体制に不満を持つ人はいるでしょう。独特の価値観を構築するという点では概ね成功しているとしても、あくまで特異な例外であって、一般化するには危ういようにも思います。自分がブータンの流儀を参考にする程度ならいざ知らず、それを他人や他の国に押しつけよう、売り込もうとするなら、民主主義の押し売り以上にタチの悪い傲慢さと言わざるを得ません。

「親父とは離婚していて…。お金には困ってました。兄貴が貯めていたお金を母ちゃんが黙って生活費に充てて。二人は大喧嘩です。けど、たった1万円ですよ。愛があればお金なんていらない、という人もいますけど、それは本当の貧乏を知らない人が言うことですよ」

 以上はサッカー福田健二選手のインタビューからの引用です。ファンにとっては今更のことですが、福田選手の母親は氏が小学校5年の時に自殺しました。日本にもなお経済苦から死を選ぶまでに追い詰められる人がいるわけです。今でこそ福田健二はそれなりに名前の知られたサッカー選手ですけれど、金銭的な事情でサッカーを続けられない可能性も少なからずありました。途上国と呼ばれるような地域に目を移せば、より過酷な状況に置かれた人もまた珍しくないことでしょう。お金がない、経済的に貧しいということがどれほど不幸なことか、それを理解できない人だけが「愛があればお金なんていらない」と言えるのです。

参考、幸せを求めているわけではないのだ

 今なお日本を先進国に含めていいのか流石に躊躇せざるを得なくなった時代ですけれど、一応は「先進国」である日本が「途上国」に向けて「幸福の程度を測る手段としてのGDPの限界」を説法する、これがどれほど傲慢極まりないことか、それを自覚できていないとしたら人間性を疑います。途上国においてはまさに経済的な貧しさこそが諸々の問題の根源になっている、日本においてすら貧困に苦しむ人は増えるばかりという中で、経済的な豊かさを「限界」と称して、その代わりに「幸福度」という精神論を差し出すような連中は人間のクズだと思いますね。

 「お金のために仕事をする。冗談じゃない。仕事は生きることそのもの」「きれい事に聞こえるかもしれないが、利益を求めず、ただお客さまのありがとうを求め~」「会社の存在目的の第一は、社員の幸せだからです」とはワタミの社長の言葉です。自殺者を出すまで従業員を追い詰める企業で幸せも何もあったものではないというのはさておき、金銭的な価値よりも精神的な豊かさを「善」とする、そうした世界観はまさに日本を象徴するものなのかも知れません。ワタミの社長自身は非難を浴びることも多いですけれど、ワタミ的なるものは実は日本に広く根付いているのではないでしょうか。

 

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そして対価は支払われない

2012-06-21 23:06:29 | 雇用・経済

ありがとうを求める 渡邉氏が講演(琉球新報)

 会員制の講演会組織「琉球フォーラム」(主宰・富田詢一琉球新報社長)6月例会が13日、那覇市のホテルロイヤルオリオンであり、ワタミグループ創業者の渡邉美樹氏が「夢をカタチに~新たなる挑戦」と題し講演した。

 外食、介護、宅配事業、農業などさまざまな分野での経営経験を紹介し、「お金のために仕事をする。冗談じゃない。仕事は生きることそのもの」と強調した。

  渡邉氏は「居酒屋でも店はきれいにし、サービスを充実させる。介護でも温かい食事を提供し、毎日入浴してもらう」と話し、「きれい事に聞こえるかもしれないが、利益を求めず、ただお客さまのありがとうを求めたら、お金の上にありがとうを載せたお客さまが集まってくれた」と語った。

 

 日本的採用を象徴するのがユニクロなら、日本的な職業との関わり方、仕事観を象徴するのが、このワタミと言うべきでしょうか。つくづく、日本は資本主義じゃないなと感じさせられます。日本において会社と社員の関係は契約に基づいた雇用関係ではなく、道徳的な主従関係と見た方が適切なのかも知れません。雇用主と従業員が単なるビジネス上の関係であることは許されず、常に道義的な面での一体化が求められる、それが日本の因習として我々の社会に浸透しているように思います。

 例えば東京電力の場合のように、企業が何らかの問題を起こした場合、日本では末端の従業員までもが道義的責任を問われるわけです。末端の従業員が、個人として担当する範囲での職責を果たし、その仕事において何の瑕疵がなかろうとも、それで済まされないのが日本的な仕事観と言えます。「自分は自分の仕事をやった、後は会社の問題」と会社と個人を切り離すことが許されない、会社の一員である以上は責任を負うべきと迫られるのが日本式なのです。この辺は、有給や育休などの権利行使においても顕著で、例えば有給/育休を取得した後の仕事の穴埋めをどうするのかを問われたときに、「それは会社が考えること」みたいな態度は日本の職場では許されません。むしろ会社の一部として自分が休んでも会社が回るように責任を持つことが求められる、それが日本の一般的な職場風景ではないでしょうか。

 取るに足らない公務員叩きの一つに、「公務員が職業ではなく身分になっている」云々という類があります。しかし、日本独特の用語である社会人とはまさしく職業ではなく身分そのものと化している、「職業ではなく身分」という考え方こそ「民間では当たり前」なのが日本社会の現状であるはずです。「お金のために仕事をする。冗談じゃない。仕事は生きることそのもの」とのワタミの社長の言葉はまさに、それを象徴しています。「仕事」が「お金のため」ではなく「生きることそのもの」であるなら、それが身分でなくてなんだというのでしょう。資本主義社会における職業であるなら、まずはお金を得るための手段であるはず、しかるに日本的なるものを象徴するワタミにおいては仕事が「生きることそのもの」だというのですから。

 しかしまぁ冒頭で紹介された「会員制の講演会組織」って、どういう人をターゲットにしているのでしょうね。陸前高田では時給645円で労働者を買い叩いていたワタミです。1円単位ですら最低賃金ギリギリまで人件費を絞り上げるワタミにとって、より最低賃金の低い沖縄は魅力的に映るものなのでしょうか。ただ、人間の値段の安さを当て込んだ企業が沖縄に進出することで沖縄県民が安価なサービスを利用できるようになることはあっても、沖縄で働く人が経済的に豊かになれることはないわけです。それでも満足できる、地域の企業が元気で、地域の住民が安価なサービスを利用できれば100点満点だと、労働者のことをすっかり忘れ去っている人だったりすると、このワタミの社長の言葉をありがたく思ったりするのかも知れません。

 でも、その労働者の存在を黙殺する、経営者と消費者の視点しか存在しないのもまた日本的と言えます。ただし本当にワタミの社長や安価なサービスの利用者が感謝すべきは、その両者の間で割を食っている人たちにでしょう。低い賃金で長時間働いてくれる人の存在なくしてワタミは成り立つのか、その点こそ考えられなければなりません。しかし、そうした従業員に無理を強いる構造的な欠陥を「ありがとうを求める」との美辞麗句でごまかしているわけです。結局のところ道徳本意で資本主義の段階に足を踏み入れることができていない日本社会では「金のため」というのは「悪」であり、「金ではなく、別のもの」を求めることが「善」になってしまう、そうした価値観がワタミ的なものを正当化しているようにも思います。

 

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参考、ワタミ関連エントリ

競争しないワタミ

幸せなおつむ

ワタミの社長は何を偽っているのか

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これもまた、脅しの結果

2012-06-19 23:01:25 | 社会

「放射能危ないから東京においでよ」 福島の女性を風俗店で働かせ殴る 自称DJ逮捕(産経新聞)

 インターネットで知り合って自宅で同居していた女性を殴ってけがを負わせたとして、警視庁城東署は、傷害の疑いで、東京都江東区大島、自称DJ、岡崎雅容疑者(33)を逮捕した。同署によると、「暴行したのは間違いないが、けがをさせるほどではなかった」と一部否認している。

 同署によると、岡崎容疑者は東日本大震災後、福島県伊達市に住む無職女性(28)に「原発事故の放射能がやばいから、東京においでよ」などと持ち掛けて自宅に呼び寄せ、平成23年4月から同居していた。女性とは21年10月、ネット上のコミュニティーサイトで知り合ったという。

 逮捕容疑は、今年3月末に自宅で、女性の顔を殴り、鼻の骨を折るなどしたとしている。

 同署によると、女性は同居を始めて約1カ月後から日常的に殴られるようになったため、同署に相談していた。女性は風俗店で働かされ、給料や財布、携帯電話などを取り上げられていたという。

 

 こういう事例、他にも探せば出てくるんでしょうかね。「平成23年4月から同居」「同居を始めて約1カ月後から日常的に殴られるようになった」とのことで、それが表沙汰になったのが平成24年6月なわけです。似たようなケースは多々あれども、大半は世間の目には触れないままダラダラ続いていくものなのかも知れません。しかしまぁ、これが傷害事件に発展したからこそ容疑者が世間の非難を集める一方で、単に原発事故をダシに女性などを呼び寄せる行為に止まっていたらどうなんだろうと邪推させられるところもあります。原発事故に伴う放射「能」の脅威を煽って、福島からこっちに避難してこいと訴える、ある種の人にとってはそれが「正義」でもあったのではないでしょうか。しきりに福島から離れろと声を張り上げる脱原発論者の一員として、仲間内では大いに賞賛されることもあったのではないかと。

 結局のところ原発事故に伴う被害で、より大きいのは放射線による健康被害ではなく、専ら脅しや煽りによって偏見や恐怖感ばかりが掻き立てられ、それによって風評被害や差別が広まったり、福島周辺地域の住民自身をパニックに陥れてしまうことにあったと言えます。まぁ、原発事故などなくとも地方から都会に出たがる人もいて、それで失敗するのも人生だったりするのかも知れませんが、ともあれ原発事故後の恐怖煽りが冒頭で伝えられているケースを招く要因ともなっているのではないでしょうか。原発事故そのものにも全く関連がないとは言いませんけれど、ありもしない健康被害を騒ぎ立てては「福島から避難しろ」と強弁し続けてきた人こそ、引用元で伝えられている類の被害を産み出した加害者あるいは共犯者としての自覚を持って欲しいと思います。

 「世界」ではなく「世界観」を守るために戦っている人がいるとも言えます。例えば排外主義者などは、実在する日本社会という世界を守るためにではなく「(自分たちの認める範囲での)日本が脅かされている」という世界観を守るために戦っているわけです。彼らの主張や行動は現実の世界を守るためには何の役にも立ってない、ただただ彼ら自身の世界観を正当化するためにしかなっていないですから。そして同様の性質を、昨今の脱原発論も待た示してはいないでしょうか。まぁ、原発事故以前からの脱原発論だって似たようなものだったのかも知れませんが……

 例えば「電力は足りている」論など、そうした虚妄は深刻な電力不足という現実の危機を招き「世界」を危うくするものですが、原発がなくても問題ないとする「世界観」の成り立たせるためには、どうしても「電力は足りている」ことにしなければならないわけです。福島に向けられたデマや脅しの類も同様、これまた風評被害や差別を広め住民にストレスを与えるものであって「世界」に害をもたらしますけれど、しかし原発を悪魔のごときものとする「世界観」に説得力を持たせるためには、原発のせいで健康被害が続出している、福島が人の住めない地域になっていることにしなければならなくなってしまいます。そこで「世界観」を守るか、「世界」を守るかで、その人の誠実さが問われるのではないでしょうか。福島に住み続けても大丈夫ということになれば、ある種の人々の「世界観」は否定されてしまいますが、そこで世界観を守るために声を張り上げる人は、まぁクズですよね。

 石原慎太郎が「この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある」と放言していたのと時を同じくして「原発事故は、低エネルギー社会への転換を促す天からの啓示」などと宣った人もいました。本当に酷い話です。私は絶対に許しません。でも、ある種の思惑を持った人にとって原発事故はまさに天啓だったのでしょう。原発は危険、という自身の「世界観」を布教するためには、この上なく好都合だったのですから。たぶん、その人は心どこかで原発が事故を起こす日を心待ちにしていたのだと思います。そして実際に原発事故が起こると「それ見たことか」と小躍りして、上述のように「天からの啓示」などと言い出すに至ったわけです。あなたの世界観が補強された一方で、世界は困ったことになっているのですけどねぇ。

 反対の立場からは、いっそ大停電になってしまえばいい、と言う人もいました。気持ちは分からないでもありません。実際に大規模な停電が起こってしまえば、「電力は足りている」と強弁する人も少しは頭を冷やすだろう、現実に目を向けるだろうと期待する人もいるのでしょう。まぁ、そうなったらそうなったで陰謀論に逃げ込む、電力会社が「わざと」停電を起こしたのだと言い張るのではないかという気がしますが、ともあれ「電力は足りている」という虚妄の世界観をぶちこわすためには、実際に停電を体験してもらうしかないと考える人もいるわけです。でも、そこは思いとどまって欲しいです。それを期待したら、原発事故を「天からの啓示」と喜んだ人と同じになってしまいますから。

 

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安全性の社会的な基準

2012-06-17 11:05:17 | 社会

暗すぎるLED電球、3分の1以下も…措置命令(読売新聞)

 消費者庁は14日、「白熱電球60ワット相当」などと表示したLED(発光ダイオード)電球が表示よりも暗いとして、販売元の業者12社に対し、景品表示法違反(優良誤認)で再発防止を求める措置命令を出した。

 製品の大半が半分程度の明るさで、中には3分の1以下の光量しかない製品もあったという。同庁は「ワットは消費電力の単位で、LED電球を選ぶ際は、光量の単位のルーメンを基準に選んでほしい」と呼びかけている。

 

白熱電球の販売自粛要請へ 政府 照明メーカーなどに(産経新聞)

 経済産業省と環境省は13日、節電効果の高いLED(発光ダイオード)電球の普及を呼びかけるとともに、白熱電球の販売自粛を照明メーカーや家電量販店などに要請する。夏場の電力不足に備え、小売業界による販売を含め、切り替えを前倒しする狙い。

 同日、都内で開く会合には、政府側から細野豪志環境相や、経済産業省の中根康浩大臣政務官が出席。民間側からは照明メーカーなどで構成する「省エネあかりフォーラム」の恒川眞一代表(東芝ライテック取締役)や、ビックカメラの加藤周二顧問らメーカー、量販店が参加する。

 

 そう言えば自民党政権時代にも「白熱電球を蛍光灯に取り替えよう」みたいなキャンペーンがあったことを思い出します。あれは安倍だったか福田だったか、それとも麻生の時代だったでしょうか。世間の反応は随分と冷めたもので、むしろ反・自民党色の強い論者からは噛みつかれることも多かったように記憶していますけれど、例によって民主党政権は自民党の真似を繰り返しているわけです。音頭を取るのが民主党であったり省エネにも脱原発が絡んだりすると、同じことを自民党が提唱したときとは全く正反対の態度を見せる人も少なくないとしたら、まぁ肩をすくめるほかありませんね。

 大学時代、「蛍光灯の光は目に悪い」との理由で、日の差している時は教室の蛍光灯を消したり、あるいは蛍光灯が点いているときはサングラスをかけて授業をしていたイタリア人の先生がいました。ヨーロッパあるいはイタリアでは、そういう人もいるのかなと思ったものです。まぁ、蛍光灯が100%安全かどうか、ありとあらゆる側面から完璧に証明されているわけでもないのでしょう。蛍光灯を至近距離で長時間凝視し続ければ確実に目が悪くなりそうですが、そこへ世間に流布する誤解されたLNT仮説的な考え方を当てはめれば、どんなに僅かでも蛍光灯の光は目に悪い、と言うことにもなります。それを言うなら太陽光の方がずっとヤバイというのはさておき……

 ではLEDの安全性はどうなのか。この頃は液晶モニタのバックライトもLEDが主流ですが、従来の冷陰極管を使ったモニタよりも目が疲れるという人もいます。たぶん粗悪なLEDモニタは不自然に青味が強いところに問題があるように思うのですけれど、一方でLEDの光は目への刺激が冷陰極管に比べて強いのではないか、目にダメージを蓄積させやすいのではないかと考える人もいるわけです。どうなのでしょう、LEDの安全性は証明されているのでしょうか? 安全性が完全に証明されているのでない限り、それが使用されることはあってはならないみたいな反原発論者のロジックに沿うなら、LEDは避けるべきもの、原発よろしくLEDは全廃されるべきものとなりそうなものです。

 あるいは「放射能に効く」「放射能を除去できる」との触れ込みで「EM菌」の活用、散布を呼びかける人もいます。あろうことか、実際に自治体ぐるみで取り組むところもあるそうです。しかし、このEM菌の安全性は証明されているのでしょうか。EM菌を推進する人に言わせれば「EM菌は2000℃の高温でも死なない」そうです。これほどの超高温でも殺せないような菌って、要するに放射性物質なんかよりも格段に除去が難しい代物ということになります。そんなもの、絶対に拡散させてはならないですよね、2000℃でも除菌できないものを撒き散らしてしまえば取り返しの付かないことになりますから。

 それでも、EM菌の布教者達は放射「能」の脅威を説く一方でEM菌の危険性、安全性に関しては考えようともしていないようです。原発事故なんかよりも茶のしずく石鹸の方が、あるいはBSEなんかより生レバーなんかの方がずっと深刻な健康被害をもたらしたりもしているわけですが、我々の社会が危険視する順序は必ずしも危険性の度合いとは一致しないのが常です。むしろ、反比例しているとすら言っても過言ではないのかも知れません。結局、我々の社会から「安全ではない」として排除されようとするものは、必ずしも危険だからではなく、単に理解されていないからであり、逆に何の疑問もなく我々の生活に入り込んでいるものにこそ、少なからず見過ごされているものがあるように思います。

 「安心」が「安全」に優先しているとも言えます。一般に「安全」と信じられていれば、その実態には未検証な点があろうとも不問に付される、逆に「安全ではない」と信じられていればいかに検証を繰り返されようとも受け入れられないわけです。「安全」かどうかではなく、国民を「安心」させられるかどうか、そちらの基準が優先されているのではないでしょうか。客観的に見て危険性の度合いが高いものではなく、自身が危険だと信じているものを排除するために行動する、昨今の反原発論などはまさしくそういう方向に邁進していますけれど、そこで得られるのは「安心」であって「安全」ではありません。本当に安全性を気にかけるのなら、LEDなりEM菌なりの安全性だって危惧されてもおかしくないはず、しかるに我々の社会が追求しているのは「安全」よりも「安心」であり、そのためにことごとく判断基準が狂わされているような気もします。

 

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元・若者

2012-06-14 23:07:21 | 雇用・経済

「就職氷河期」入社組が、早期退職のターゲットにされ始めた(J-CAST)

   不況が続く中、上場企業の人員削減策が進んでいる。大企業勤めだからといって、決して安泰とはいえないと言われて久しいが、「既得権益」と揶揄されてきた層にも、いよいよメスが入り始めたようだ。
 
   ターゲットは45歳以上の、いわゆる「バブル入社」以前の中高年が中心だが、中には1993年以降に入社した「就職氷河期」入社組が対象になっている場合もある。苦労して競争に勝ち、ようやく働き口を確保した人たちが、再び苦境に立たされている。

(中略)

   一方で、より若い層をターゲットとする会社もあり、問題は複雑だ。ベスト電器とアイフルの募集対象者は、ともに「35歳~59歳の正社員」。この条件だと、新規求人倍率が0.9まで下がった1998年の入社組(36歳)も人員削減の対象になってしまう。

   就職氷河期で苦労し、さらにリストラの対象となるのだから、災難としかいいようがない。さらに人員整理の後は、若手が補充されることなく、社員ひとり当たりの仕事量はさらに増える可能性もある。退職するのも大変だが、会社に残った場合の苦労も大きそうだ。

 

 例えば「(原発が稼働する時代より)戦争中の方がまだましでしたよね」と語る瀬戸内寂聴のように、過去の記憶は忘れ去られていくものなのかも知れません。もっと近い時代の記憶だってそうです。この頃は消費税増税を巡って軽減税率が俎上に上ることもありますけれど、消費税に置き換えられる形で廃止された物品税の存在を覚えている人は、果たしてどれだけいるのでしょうか。品目によって税率を変えるというのなら、まずは「消費税導入は誤りであった、これからは物品税の時代を参考とする」くらいの反省の言が欲しいところですけれど、誰も物品税のことになど触れようとしません。もしかして物品税とは、記録上で存在するだけで実在したことのない都市伝説だったりするのでしょうか。あまりに存在が忘れられているため、自分の記憶の方が疑わしく思えてくるほどです。

 あるいは南京事件など旧日本軍の蛮行を「なかったこと」にしようとするのと同じような勢いで、東京電力の人員削減や給与カットという事実をも「なかったこと」にしようとする否定論者が満ちあふれてもいるわけです。ある種の思惑を持った人にとっては守るべきは自身の世界観であり、目の前で何が起こっていようと忘却の彼方に追いやられてしまうものなのかも知れません。そして現代日本において忘れ去られていることの代表的な一つが、景気悪化が始まって真っ先に人員整理の標的にされたのは21世紀において「既得権益」と呼ばれている中高年社員であったと言うことです。リストラという言葉が首切りという意味で普及し始めた当時は、まさに中高年社員にとっての受難の時代だったのですが、その時代の記憶は早くも風化しているように思います。そうして過去を忘れ去った人が現代の雇用情勢を語ると「『既得権益』と揶揄されてきた層にも、いよいよメスが入り始めた」みたいな頓珍漢なことになるのです。それは、一番最初にメスを入れられた層なんですけどね……

 まぁ、日本のように異常な若者優遇社会ですと、中高年に何が起ころうと世間は何とも思わないのでしょう。若ければ若いほど尊い、「子供を守れ」と喧しい人は雲霞のごとくに湧いてきますけれど、オッサンを守れ、オバハンを守れとは誰も口にしないものです。中高年以上の「痛み」なんて当の本人以外には誰も気にしませんし、記憶に止めたりもしません。その代わり、より若い世代のことを心配するわけです。結果として若い人「ばかりが」割を食ってきたかのような被害妄想にまみれた世界観ができあがると言えます。いやむしろ、中高年がリストラされた分だけ若者に椅子は回された、若者のために中高年の雇用が犠牲にされてきた側面も少なくないはずなのですが、その中高年がリストラされた記憶が綺麗に忘れ去られていると、全く異なった世界が見えてくるものなのでしょう。

 若者優遇の問題点は、若者がいつまでも若者でいられないことにあります。中高年をリストラして若者に雇用機会を提供すると言えば聞こえはいいのかも知れませんが、そうやって優先的に採用された若者もいずれは年を取って中高年になるわけです。そんなときはどうでしょうか、「元・若者」の「既得権益」を守るのか、それとも新たな「若者」の雇用機会のために「元・若者」を簡単に解雇できるようにするのが好ましいのか。とりあえず我々の社会が向かっているのは後者ですけれど、その「結果」が引用元で紹介されていたような事例に繋がっているのです。つまり「若者」の領域からは外れた氷河期世代がリストラの対象に含まれるようになった、かつて「若者」として時代の被害者扱いされていた人が、誰からも同情されない中高年の一員として若者に席を「譲らされる」側に回り始めたと言えます。

 まぁ、非正規雇用の世界では何年も前から始まっていたことでもあります。正社員から非正規雇用への置き換えが進む中で、若者の「一時的な」雇用機会は増えたと言えますが、「5号 事務用機器操作の業務」など期間制限のない「専門職」であろうとも非正規である以上は、遠からずより若い非正社員に置き換えられる日が来るものなのです。正社員よりずっとサイクルの早い非正規雇用の世界では、既に氷河期世代は正社員における中高年のようなもの、次なる世代に席を譲ることが期待される年代です。永遠に若いままならばともかく、いずれ齢を重ねていくことが避けられない以上、若者優遇のツケは誰もが払わされることになるのでしょう。氷河期世代が若者という括りから次々に外れてゆくこの先、正社員も非正規も今後は誰からも同情されなくなります。世間の関心は、専ら次の世代の若者のものですから。

 従業員が長く勤めない、中高年になる前に人がどんどん辞めてしまう、あるいはどんどん辞めさせていく、そんな会社は必然的に社員の平均年齢が若くなりがちです。辞める人が多い分だけ若い世代を採用して補うことになりますので、まさに「若者に雇用機会を提供する」という役割を果たしてもいるのですが、その手の企業はしばしば「ブラック」と呼ばれて就活生から敬遠されていたりします。むしろ就活生から人気があるのは、中高年になっても切り捨てられないであろうと期待される企業の方ですね。そして中高年になっても社員を安易に切り捨てないということは、若者ばかりを優遇しない、他の年代をも公平に扱うということを意味します。果たして若者の雇用機会を今以上に重視すべきなのか、それとも若者優遇を改めるべきなのか、世論的には前者が優勢に見える一方で、実際に就職しようとする人の行動からは後者を志向しているように見えるわけです。企業経営的には賃金の安い若者を取っ替え引っ替えしていく方が好都合のようですが、果たして社会全体としてはどうでしょう?

 

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社会的な面での安全対策が足りていない

2012-06-12 23:16:03 | 社会

 原発事故以来、原発/放射線に関する諸々のデマや怪情報が飛び交ったのは記憶に新しい、というより今なお続いていることだったりするわけです(放射性物質の飛散を止める方がずっと簡単でしたね!)。事故から1年以上を過ぎてもなおデマの発信にいそしむ人を見ると、どうしてそうも不勉強でいられるのだろうと思わないでもありません。まぁ、その手の人にとっては原発という「悪」を糾弾することこそが第一であって、情報の真偽など重要なことではないのでしょう。健康被害を避けるためには正しい情報が求められますが、原発のイメージを悪化させるためなら正しさより恐怖を煽り立てることの方が大切になるようです。排外主義者が外国人の脅威を誇張したり捏造したりするのと同じようなものと言えます。

 「脱原発が第一」な人を大雑把に分けると、だいたい3パターンくらいが思い浮かびます。いの一番は「創作系」とでも言うべきでしょうか、自分の妄想の中から生まれた放射「能」の害を積極的に発信するタイプですね。海外ですとクリス・バズビーやアーニー・ガンダーセン、我らが日本では武田邦彦や早川由紀夫、それから野呂美加に木下黄太などなど、まぁ挙げていけばきりがありません。ともあれ彼らの主張は常に専門家や、そうでなくとも原発事故以降に真面目に勉強してきた人からは一蹴される、何ら根拠のない思いつきに過ぎないわけです。であるにも関わらず、それでも結構な信奉者がいるのが頭の痛いところですが。

 流石に世間の熱狂は多少なりとも収まってきたところがあって、積極的に怪情報の創作に励む上記のタイプは白眼視されることも多くなってきたように思います。それは多少なりとも前進であり正常化の一歩と言えますが、こうした怪情報創作系の論者が一時的にでも大きな影響力を持ってしまったことに我々の社会は危機意識を持つべきなのかも知れません。原発の安全対策には、デマや怪情報に踊らされて風評被害や差別を広めないための危機管理もまた必要であり、その点こそ地震や津波対策に比べて大きく立ち後れているのではないでしょうか。

 脱原発のためならウソでも構わないとばかりに、ひたすら原発や放射「能」に関するネガティヴな情報の収集に努めてきた人がいる一方で、今回の事故をきっかけに放射線に関する知識を蓄える人も増えてきた、そのために上記トンデモ系論者の言うことは速やかに論駁されることも増えてきたように思います。放射線とはどんなものか全く知られていない状態なら、とりあえず自信満々に言い切ってしまえばそれで信頼された時期もあったかも知れませんが、幸いにしてそういう状況からは抜け出せたと言えます。とにかく原発はダメ、放射能は危険と言い張ってさえいれば済む、そんな時期ではもうないのです。

 そこで慎重な人は、一目でトンデモと看過されるような迂闊なことは避けます。それでも「脱原発が第一」ですから、なんとかして国民に原発へのネガティヴなイメージを持ってもらいたい、ただし見え見えのウソは通じないし、逆に自らの信用を失いかねないと理解している人もいるのでしょう。だから、直接的なデマの発信までには手を染めない、しかし「ロンダリングされた」情報に関してはその限りではなかったりします。バズビーなり武田邦彦なりの主張をそのまま引き合いに出せばトンデモとして一蹴される可能性が高い一方で、「何となく世間に共有されている」放射線の害や恐怖もあるわけです。客観的な根拠はなくとも「何となく」悪いものとして原発なり放射線なりは存在していて、その起源を辿っていけば実は全く根拠のない憶測や誤解、曲解に行き着くものであっても、我々の社会に十分根付いてしまっているものもまた少なくないのではないでしょうか。嘘つきとして定評のある反原発論者には距離を置く風を装いつつも、そのデマゴーグ系反原発論との関連性を見せない範囲での嘘情報発信に努める人がいます。ロンダリングが済んだ範囲で「元」デマや「元」怪情報を広めようとする人の存在もまた懸念されるべきものです。

 第三のタイプは、まぁ前述のロンダリング型と重なるところが少なくないのですが、「側面支援型」とでも呼びましょうか。横行した創作系のデマ発信に対しては、今回の原発事故ならびに放射線の影響について科学的な知見から情報を発信してくれた人もいたわけです。それは健康被害などを避けるために「正しい情報」を得る上で多少なりとも役だったのではないかと思われますが、しかるに「脱原発が第一」な人たちからすれば、原発の脅威を煽る絶好の機会に水を差されたかのように写ったようで、そうした情報発信者を専ら「御用学者」「工作員」などと呼んで誹謗中傷する人もまた目立ちました。

 最初に挙げた創作型はもう流行らないですし、むしろ世間の信用を失うことを恐れて彼らから距離を置こうとする人もいます。しかし心情的には共感している、「脱原発が第一」という目的は共有している人がいるのでしょう、自らはデマ発信に直接的な関与はしなくとも、それを黙認するだけではなく、流されたデマの誤りを指摘し、正しい情報を提供してくれる人を攻撃することで、デマ発信者を間接的に支援している人もまたいるわけです。もちろん全員が全員ではありませんが、STS(科学論)系の論者や、ネット上では歴史修正主義批判系の論者に、こうした立場を取る人が目立ちますね。自らが怪情報を発信するリスクは犯さず、しかし怪情報が訂正されることを快く思わない、そういう人もまた残念ながらいるのです。かくして、差別や風評被害を広めようとする勢いはなかなか抑えがたい。原発事故への物理的な安全対策に関してはともかく、「社会的な」安全対策に関しては、まだまだ課題が多そうです。

 

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日本的雇用を象徴するユニクロ

2012-06-10 11:17:45 | 雇用・経済

大学1・2年生に内々定 ユニクロ、約10人に(朝日新聞)

 衣料大手「ユニクロ」の柳井正社長は8日、朝日新聞のインタビューで、今月までに大学1、2年生約10人に入社の内々定を出したことを明らかにした。一方、今年3月を目標にしていた「英語公用語化」は、進行が遅れ気味だという。

 ユニクロは昨年末から学年にこだわらない採用を始めている。これまでに大学1、2年生約1千人から応募があり、インターンシップや面接をへて、約10人を選んだ。大学卒業後に入社する予定だ。柳井社長は「大学が休みの時に店舗で仕事を経験し、卒業と同時に店長になることを目指してほしい」と話した。

 外国人社員が参加する会議は英語を使う「英語公用語化」は、今年3月からの実施が目標だった。しかし店長ら正社員全員に課している「TOEIC700点」に到達できた人は25%程度。柳井社長は「海外の店が増え、尻に火がついてきた。あと1年で(700点到達者は)半分くらいになると思う」と述べた。

 

 この辺は前にも取り上げたところですが、端的に言ってユニクロは考え方が古すぎます。まぁ、それは日本において「改革」を標榜する人には概ね共通することなのかも知れません。行政なり経営者なりの特別な意図がなくとも時代とともに世界は自ずと変わっていくものですが、それを「変えない」ために積極的に介入しようとする人もいて、こうした振る舞いがしばしば日本では「改革」と受け止められてきたのではないでしょうかね。例えば新興国の台頭で日本の製造業の国際競争力に陰りが見えてきたときに、先進国型の高付加価値産業へシフトするのではなく、あくまで製造業中心の新興国型の経済モデルを「変えない」ために労働/雇用の規制を緩和して賃金抑制を支援するような「改革」等々。

 ユニクロが際立って保守的と言えるのは、これがあくまで「大学卒業後に入社」を想定した仕組みになっているからです。結局、ユニクロモデルでは「大学卒業→即就職」という近代日本の慣習から一歩たりとも抜け出していません。ただ単に、採用を決める時期を大きく前倒ししただけ、他社に抜け駆けする形で青田買いを進めているだけの話です。本当に「今までとは違う」ことをやりたいのなら、「卒業→就職」という構図を変えなければならないでしょう。「いつ卒業しても良いし、いつ入社しても良い」のであれば、それは間違いなく日本的な就職モデルを変えるものと言えます。しかしユニクロ採用は、決してそのようなものではありません。あくまで大卒と新卒に拘ったやり方です。

 そんなユニクロですが、伝えられるところに寄れば「大学1、2年生約1千人から応募」があったそうです。そして採用は10人、まぁ昨今の雇用情勢で有名企業ともなれば、それくらいの競争倍率は普通なのかも知れませんね。私の勤務先の中小企業ですら、従来は本社で開催していた就職説明会を「応募者が多すぎて人が入れない」との理由で別に会場を借りて行うようになったりしているくらいですし。私より年代が上の社員に言わせれば「何でウチの会社に入りたがるのか分からない」とのことでしたけれど、それより理解しがたいのは、まだ夢も希望もあるはずの大学1、2年生の段階でユニクロに入りたがる人の方ですね。そりゃ卒業を目前に控えて他に行き場がなければ、一応は有名企業としてユニクロを選ぶ人が出るのも不思議ではありませんが……

 別に大学は4年で出なければいけないようなものではない、勉強する気があれば何年だっていても良いと思いますし、就職するのは卒業したときではなく収入が必要になったときで十分でしょう。「いつまでの学生気分じゃダメだ」とは日本の職場の決まり文句のようなものですが、その前提となっているのは「卒業→就職」という、学校を離れてから会社に入るという固定観念です。別に大学に在籍したまま正規に就職したっていい、学生であることと会社で正規に働くことは本来なら対立するものではないはずです。まぁ、日本特有の「社会人」とは身分であって「学生」とは両立し得ないものなのでしょう。そんな日本の因習とでも言うべきものを、「大学卒業後に入社」を自明とするユニクロは忠実に守っていると言えます。

 ちなみに、英語公用語化云々はどうなんでしょうね。髪の無くなった社長が会社から紙を無くすとか宣言して話題を呼んだこともありましたけれど、このペーパーレス化と似たような類と思えないでもありません。要するに、「社長の思いつき」で「話題性を呼びそうな」かつ「流行ってる感じ」のことをやってみただけで、従業員はほぼ全員が迷惑していると。実際、ただの店長クラスが外国人とダイレクトに会議をする必要性に迫られるような場面がどれだけあるのか、それによってどのようなメリットがあるのか甚だ微妙です。海外店舗の店長とやりとりするのはマネージャークラスであって、国内の店長止まりには必要性がなさそうですが、まぁ日本の伝統的な雇用ですと(男性)正社員は基本的に幹部候補であって、いずれは海外事業にも関与するレベルを求められる、そこに到達できなかった人は「無能な中高年」などと呼ばれてリストラの対象になる、みたいなところがあるのかも知れません。ゆえに、幹部クラスまで出世しないと必要にならないはずの英語で会議に参加する能力もまた社員全員に要求されるのでしょうか。

 

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子供を怒鳴りつけたって何も解決しません

2012-06-07 22:59:35 | 社会

問題私大に廃止命令も…文科省、質確保に厳格化(読売新聞)

 文部科学省は、私立大学の質確保に向け、指導内容や経営に問題がある大学に対して、廃止命令などを含めた厳しい措置で臨む方針を固めた。

 日本の大学の国際競争力の低下が叫ばれる中、質の悪い大学には“退場宣告”を行う一方、優れた大学に重点投資を行い、大学改革を促す。

 文科省は今年度以降、経営状況に改善が必要な場合、積極的に実地調査を実施。改善を図るよう経営指導を行う。「改善の見込みがなく、教育の継続に悪影響を及ぼす」と判断した場合は、私立学校法に基づき、学校法人に解散命令などを出す。また、教育の内容に問題がある大学には、学校教育法に基づく改善勧告や組織廃止命令などに踏み切る。

 

 「質確保」とやらは結構なのですが、それでどうするつもりなのでしょうか。挙げられているのは「廃止命令」「解散命令」「改善勧告」などの「厳しい措置」だそうです。報道する側が怠慢なだけで、本当はもうちょっと具体的に踏み込んだ方策が練られているのかも知れませんが、どうにも「怒鳴りつければ子供は勉強するようになって成績も上がる」と信じている無能な親みたいな感じですね。そんな低レベルな脅しをかけたところで「質確保」が実現されるとは思えないのですけれど、子供にガミガミ言うだけで自分は頭を使わないダメな親と同様に、叱られている側だけの問題としか考えられないのでしょう。

 そもそも「質確保」といった場合の「質」は、どういった基準に基づいて判断されているのかも記事では曖昧なままです。具体的かつ客観的な基準としては本分にもある通り「経営状況」でしょうか。経営悪化で「教育の継続に悪影響を及ぼす」事態は確かに懸念されるところです。だからといって、それで解散させてしまえば済むのかと言えば首を傾げたくもなりますが。そもそも「質」の高い教育に努めれば、その分だけ経営面では不利になるものではないかと思われます。どんなに教育に力を注いでもそれで収益が増えるわけではありません。経営状態を改善させるべく収入を増やすには学生数を増やすことが必要ですし、そしてコスト削減を進めなければならないのです。しかし、その場合の「質」は?

 私なんぞはロシア文学という大変に流行らない専攻だったため、教授とマンツーマンの授業になることも少なくありませんでした。そうでなくとも専攻とは無関係で、かつニッチな授業にも出席したりして、結局は教授とマンツーマンやそれに近い状態になることが毎日のようにありました。加えて普通の人が3年で勉強を切り上げて就職活動に専念する中、私は4年生になっても授業に出続けていたわけです。たぶん、私のような手間のかかる学生ばかりだったら大学は大赤字でしょう。反対に、1クラスに受講者200名みたいな授業にばかり出席して、かつ受講は卒業に必要な最小限に抑える、4年になったら就職活動に専念で大学には来ない、このような学生ばかりであれば大学側も大いにコスト削減を進められるはずです。ただし、「質」はどうなりますかね。

 まぁ、採用側が応募してくる学生に血液型を訊ねることはあっても成績を問うことなんて、よほど特殊な職域でもなければないわけです。我々の「社会」は、ネームバリューのある大学を留年することなく卒業することは求めても、そこで何を学んだかは気にかけません。こういう社会において大学の「質」とは何なのでしょうか。少なくとも大学側は「社会」≒「会社」から必要とされる人材を送り出そうと必死になっているわけで、それが学問の府から就職予備校への転身という結果にも繋がっているはずです。「社会」≒「会社」から必要とされる人材の育成が「質」の基準であるなら、たぶんそれは従来的な意味合いでの「教育」内容では対応しきれないものであるように思います。

 むしろ、少し前に取り上げた産能大調査みたいに、大学の名を称しながら研究発表の内容があまりにも低レベルと言わざるを得ないところはどうなのかとか、早川由紀夫だの武田邦彦だのあまりにも問題のある人物を教壇に立たせ続けているような良識の疑われる大学こそどうなのかとか、とかく若い学生の側ばかりが咎められがちな風潮があるように思いますけれど、「学校」としての大学ばかりではなく「研究機関」としての大学の質も、もう少し気にして欲しいところです。

 だいたい「日本の大学の国際競争力の低下が叫ばれる」云々との危機意識があるようですが、それで「質の悪い大学には“退場宣告”を行う」というのもどうなのでしょう。「質の悪い大学」なるものを「原因」として、そこに責任を押しつけようという魂胆が見えないでもありません。「質の悪い大学」が存在するから「大学の国際競争力」が低下しているというより、そもそも日本全体の国際競争力が低下しているフシもあります。「質が悪い」と断罪して大学を「退場」させたところで、起こりうるのはせいぜい「進学」という選択肢を失った高卒者の就職率が劇的に悪化するするくらいじゃないでしょうかね。それに、勉強だけが全てじゃありません。勉強などしなくとも就職で成功している人はいくらでもいますし、大学時代には専ら社会運動に励んだり、文化活動やスポーツに打ち込んでいた人だっている、むしろアマチュアスポーツは大学生によって支えられている部分も少なくないくらいです。大して勉強していなくとも、お金にならないことに打ち込める期間を前途ある若者に提供する、それは社会にとっても好ましいことと考えられます。

 

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