「過激主義対策として評価する」 アルカイダ指導者殺害で官房長官(朝日新聞)
松野博一官房長官は2日の閣議後会見で、バイデン米大統領が国際テロ組織アルカイダの指導者、アイマン・ザワヒリ容疑者(71)をアフガニスタンの首都カブールでドローン(無人機)で空爆し、殺害したと発表したことについて「中東地域の平和と安定に資する国際的な過激主義対策の成果のひとつとして評価する」と述べた。
その上で、松野氏は日本政府の対応として「アフガニスタンを再びテロの温床にしないため、過激主義の国際的な拡散を防ぐため、引き続き国際社会と連携してテロ対策に取り組んでいく考えだ」と述べた。
バイデン氏は今回の作戦について「正義は実現された。テロリストのリーダーはもういない」と述べている。
「保守」と言った場合、それは単に保守的な人々や考え方を指すよりも差別主義者を指して使われることが多いわけです。あるいは「フェイクニュース」なども、字義通りに虚偽のニュースを指すのではなくロシア発のニュースをそのように呼ぶ人も少なくありません。そして「国際社会」もまた地球上に存在する各国を意味しているとは限らず、ヨーロッパと北米に日本と特定の国々を指しているケースが目立ちます。ここで松野官房長官のいう「国際社会」もまた同様ではないでしょうか。
「力による現状変更」も然り、単純に暴力なり軍事力なりを行使して何かを変えるというのであれば、山上容疑者の安倍元首相殺害や2014年ウクライナの暴力革命もそうですし、アメリカが他国の活動家を殺害するのも同様に当てはまります。しかし実際のところ「力による現状変更」と呼ばれるのは専ら、アメリカ陣営に属さない国による軍事力の行使を指しているわけです。山上容疑者の犯行は「民主主義への挑戦」と日本の大手メディアで呼ばれました。では、アメリカによる類似の行為は何と呼ぶべきなのでしょう。
仮に山上容疑者が「正義は実現された。カルト教団の広告塔はもういない」と述べたとして、そこで日本の官房長官が「日本の平和と安定に資する反社会的カルト対策の成果のひとつとして評価する」みたいにコメントすることは考えにくいところです。あるいはロシアなり中国なりが、それぞれの国へのテロを辞さない活動家を国外で殺害などしようものなら「国際社会」は嬉々として非難の声を上げていたはずです。しかし担い手が宗主国であれば、話は違うのですね。
核兵器を巡っても、我々の政府には二重の基準があります。しばしば日本は核廃絶や核軍縮、核兵器の不拡散を国際会議等の場で訴えたりもしてきました。しかるに国際会議での決議や条約の制定がアメリカにも及ぶ場面となるや、途端に日本政府は口を閉ざしても来たわけです。まぁ日本の国是はアメリカ第一主義であり、アメリカの意向に背くことは行わない──そういう観点では一貫性があるとも言えますが。
ウクライナ「避難民」は受け入れるけれどアジアやアフリカからの難民は受け入れない、NATO加盟に必要とあらばクルド人への庇護は取り下げる等々、「国際社会」では国籍によって処遇に差を付けることが当たり前となっています。本来であれば同じ人間のはず、クルド人にだってウクライナ人と同じ人間としての権利があるはずです。しかし「国際社会」がウクライナ人に差し出すものとクルド人に差し出すものは全く異なります。そこにあれこれ理由を付けて正当化を図るか疑問を持つかで、差別主義者かそうでないかが分かれると言えるでしょう。
人間だけではなく、国家もまた同様です。大国も小国も、宗主国も衛星国もアメリカ陣営に属していない国も、同じ権利を持った国家として尊重されるべきものと言えます。しかるに日本の国家観はどうでしょう。宗主国には(他国に軍事侵攻したり他国の活動家を殺害したり等々)特別な権利を認める一方で、他の国に対しては教え導く立場、時には相手を罰し裁く立場として振る舞ってきたところは少なくないはずです。
昨今アメリカの中国への挑発はエスカレートするばかりで、レイシストを大いに喜ばせているところですが、その帰結はどうなるのでしょうか。台湾がウクライナの役割を期待されていることは明白ですが、おそらく日本にはポーランドの役割が求められるものと予測されます。かつてウクライナを支配し一時はモスクワをも陥落させた昔年の大国ポーランドとは歴史的にも重なるところが少なくありません。ただ、それが日本にとって良いことかは別の話ですね。
お互いに相手を尊重することが出来なければ真の平和など訪れることはありません。ところがアメリカの覇権を維持することを以て平和と勘違いしている人も多いわけです。宗主国に従う国を「国際社会」と呼び、それに従わない国を導き、罰していこうとするのが日本の立ち位置と言えますが、こうした日本を外から見た場合はどうでしょう? 独立した国からすれば日本はアメリカの衛星国に過ぎない、対等な国と見なされなかったとしても不思議ではないです。
近年の国際的な対立は、「アメリカによる天下統一」か「共存」かを問うものであると言えます。戦国時代、最大勢力を築いた羽柴秀吉は惣無事令によって大名間の私闘を禁じましたが、この時点ではまだ日本全国を支配してはいませんでした。九州や関東・東北地域の討伐を続けて天下統一を成し遂げたのは、他の大名間の勢力争いを禁じた後です。現代はアメリカが惣無事令を出している段階に近いものがありますが、全ての国がアメリカに服属する世界を目指すのが正しいかどうか、そもそも現実的に可能なのかどうかは考慮されるべきでしょうね。