非国民通信

ノーモア・コイズミ

コミュニケーション能力云々の補足

2013-11-10 22:45:54 | 非国民通信社社説

 職場になかなか強烈な「かまってちゃん」がいまして、オトモダチのそばを通る度に毎回、周りに聞こえるようにわざとらしくため息を吐いていくのです。邪魔だからヨソでやってくれないかな、と思うところでもありますが、まぁ他人がとやかく言うことでもないのでしょうか。で、昨今は猛烈に臭い柔軟剤が流行っているわけです。高残香タイプだか強残香タイプだか、製品によっては「ナワバリをもっと主張したい香りをもっと楽しみたい時は好みに合わせて使用量を増やして」 とか書かれているのもあるとのこと。そこで我らがかまってちゃんは、半年ほど前から激烈に柔軟剤を臭わせるようになりました。花粉症で鼻の調子が悪くても半径10m以内にかまってちゃんが近づけば、強烈な臭気で居場所が分かるようになりました。とりあえず私は、かまってちゃんが近づいたら空気清浄機を「強」にして「ちゃんと気づいていますよ」とサインを送ってあげているのですが、どうにも向こうに気づかれていないようです。

 少し前に、コミュニケーション能力とはなんぞやみたいな話を書きました。話のとっかかりとして、まずは「自信家とはなんぞや」と。結果を出しているときには自信を持てるけれど、結果が出ないときに自信を失ってしまうようでは自信家とは言えない、根拠などなくとも自信を持てるのが真の自信家である――そこからコミュニケーション能力を考えると、興味深い話題が上がっているときには話の輪に入って行けたとしても、どうでも良いような話には加われない、これではコミュニケーション能力があるとは言えない、そうではなく「内容のない話でも盛り上がれる」のが真のコミュニケーション能力強者であろうと、そんな風に書いたわけです。

参考、コミュニケーション能力の高い人、とは

 この辺の補足としまして「内容のない~」とはなんぞや、と考えてみましょう。ある人にとっては内容のない話でも、その話の輪の中にいる人にとっては違うのではと、そういう想定もあると思います。では何をもって「内容のない~」と捉えればいいのか、それは「一過性の流行」のごときものと考えると筋が通りやすいかも知れません。つまり世間の人々を少なからず追随させて止まない流行が巻き起こる一方で、あれだけ流行っていたはずのものが、いつの間にやら人々の記憶からすっかり忘れ去られてしまう、そういうことも多いはずです。内容のない云々とは、そういうものではないかと。

 そこで冒頭に挙げました、臭い柔軟剤です。世の中にはワキガの臭いが好きな人だっていますし、世界に目を向ければ納豆の臭いはおろか米を炊く臭いだって悪臭と感じる人の方が多いくらい、まぁ臭いの好みは人それぞれですけれど、流行の柔軟剤をガンガン臭わせている人の内、本当にあの臭いが好きで付けている人ってどれくらいいるのでしょう。柔軟剤の臭いの強さに気分が悪くなると訴える人も多いと伝えられていますけれど、ブームが去ったら「たまごっち」や「ナタデココ」のように急速に忘れられていくような気がしないでもありません。臭いが好きと言うより「流行そのもの」が好きな人も多いと思います。

 流行のファッションは、「モテないタイプの異性」からは総じて不評と言えるでしょうか。まぁ、本当に誰が――ちょっと変わった性癖の持ち主以外の誰が――見てもカッコイイものは時代の変遷にも耐えるもの、一過性の流行とはやはり「内容がない」故に一過性であり、それは「モテないタイプの異性」からは冷ややかな目で見られる運命を背負っているのだと思います。じゃぁ、モテないタイプではなく、異性にモテるタイプならどうなのか、ここでモテるタイプの人間は「流行に合わせる」という一種の「コミュニケーション能力」を発揮できる、そこが「モテ」と「非モテ」を分ける一要素になっているのではないかと、私は考えるわけです。

 流行が過ぎれば、その流行に浸かっていた人からさえ過去の遺物として切り捨てられてしまうような、そんな一過性の――言うなれば使い捨ての――流行があって、そんな虚しい流行のファッションには初めから関わろうともしない、「内容のあるものしか」評価しない/できない人もいます、一方で内容がなかろうとも「流行していることそのもの」に価値を見出す人もいるはずです。ここでコミュニケーション能力があるのは、いわゆる「モテ」に属するのはどちらでしょうか? いかに空疎なものであろうとも、流行に「乗れる」のは一種の能力であり、それは内容のない話でも盛り上がれる能力と同質の、コミュニケーション能力を測る指針であろうと思います。

参考、自分に鑑みるとこう思う

 以前にも軽く触れましたが、どこかで「(女性が男と)付き合うなら茶髪の男を選んでおけばハズレは少ない」みたいな話を見かけたわけです。少し昔の話ですけれど、今もそんなに変わらないような気がします。つまり茶髪が流行っている時代なら、茶髪の子を選んで置いた方が無難だと。茶髪の子の方が「周りに合わせる意識」が高い、付き合う相手に調子を合わせてくれる期待値が高い一方で、黒髪の子の方が「我が強い」もしくは「周りに合わせるのを面倒くさがる」傾向が強いだろうと考えられます。会社の採用でも「元は茶髪で、就職活動に合わせて黒髪に戻した」ぐらいの子が、最も「周りに合わせるタイプ」として面接官のウケも良かったのではないでしょうか。

 まぁ髪の色なんて一見するとどうでも良い、無価値なことですけれど、こういう無価値すなわち内容のない部分でこそ「周りに合わせる能力」が問われるケースも多いように思います。つまりこれもまたコミュニケーション能力の一つの指標であろう、と。会社で唱えられるお題目なんて、だいたいが下らないものばっかりです。本当に夢と意義のあるプロジェクトであれば、コミュニケーション能力不足の人だって付いてくることでしょう。しかし偉い人の思いつきに過ぎないゴミみたいな目標にも適応できる人材が必要であるのならば、「内容がなくとも盛り上がれる」「周りに合わせる能力が高い」人が求められるわけで、そういう点では昨今のコミュニケーション能力一辺倒の評価基準は変なところで整合性がとれているのかも知れません。

 

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コミュニケーション能力の高い人、とは

2013-10-25 00:24:47 | 非国民通信社社説

 ニクラス・ベントナーというサッカー選手がいます。数年前までは期待の若手として注目されていた選手でもあるのですが、年齢的に中堅へとさしかかった現在、彼はワールドクラスの自信家として知られています。「ベントナーの凄いところは、どれほどゴールを外しても自信を失わないことだ」と賞賛され、チームドクターの語るところでは心理テストの自信を問う項目で「測定不能」を記録した、まさに規格外のタレントです。ガーディアン紙のインタビューでも「なぜそんなに自信を持てるのかって? 簡単なことだよ。俺は良い選手だからね。」と答えてファンの度肝を抜きました。

 残念ながら近年は出場機会を減らすばかりでゴールからも遠ざかり、所属クラブからも放出候補に挙げられている選手だったりします。ここで並みの選手であれば、出場機会を求めて中堅以下のクラブへと移籍先を探すところ、しかし彼の自己評価には微塵も揺るぎはなく、ベントナー獲得に手を挙げたクラブはいずれも条件面で合意に至らず、移籍の成立しないまま年月が経過しているわけです。「この選手を評価する人がいるとすれば、それは本人だけ」と語られながらも決して自分への評価は下げない、格下のクラブへの移籍は受けない、年俸が下がるような移籍は拒絶する、まさに鋼の意思を持ったアスリートと言えるでしょう。

 試合で活躍を続けている間は自分に自信を持っていようとも、満足にプレーできなくなったり出場機会を減らしてしまうと自信をも失ってしまう、そんな選手を自信家と呼べるでしょうか。好成績を上げているときに自信を持てるのは当たり前です。その程度では到底、自信家とは呼べません。根拠があれば自信を持てるのは当たり前、自信が問われるのは結果が出ないときこそです。ベントナーのようにゴールを外し続けてもベンチにすら入れずクラブから戦力外扱いされても、己への自信を決して失わない、根拠はなくとも自信を持てる、それが本物の自信家というものです。

 そこで問いたいのは、日本社会において最も重要視されている「コミュニケーション能力」についてです。業種の如何に寄らず要求されるコミュニケーション能力って、いったいなんなのでしょうか? ポイントの一つは「内容が無い話でも盛り上がれる」ということではないかと、私は思います。フットボール界随一の自信家であるベントナーは自信を持つのに理由を必要としません。それと同じようにコミュニケーション能力の強者は「盛り上がるために話の内容を必要としない」、そういうものなのだと説明できます。

 「箸が転んでもおかしい(年頃)」なんて言い回しがありますけれど、これぞまさしくコミュニケーション能力が問われる場面であるように思います。つまり箸が転んだレベルの退屈な話題でも大いに盛り上がれる人もいれば、「こいつらの話は、本当につまらん」と輪に入れない人もいるはずです。そして両者を分けるのがコミュニケーション能力である、と。自分が活躍しているときに自信を持てるのが当たり前であるように、興味深い話題が語られているときに盛り上がることができるのは当たり前のことです。しかし偽物の自信家は結果を出せないと自信を失ってしまうように、コミュニケーション能力弱者は内容のない話題には加わることができないわけです。

 真の自信家は根拠などなくとも自信を持つことができます。そしてコミュニケーション能力の高い人は仲間内どころか大して親しくもない人と盛り上がるのにさえ内容を必要としません。すなわちコミュニケーション能力とは、燃料などなくとも自家発電を続けられる、話の内容を必要としない能力なのだと言えます。逆に言えば、常に内容を必要とする人は遠からずコミュニケーション能力不足として就業機会などから排除されることもあるはずです。「今」の時点では、自分は別にコミュニケーション能力弱者ではないと、そう考えている人もいることでしょう。かつての私もそうでした。しかし……

 ともすると友人にも不足はない、周囲の人間関係にも問題はなさそうに見えても、その実は脆いケースがあるように思います。たまたま周りに同好の士や、同じ志向を持った人がいるだけ、噛み合う相手がいるだけということもあるわけです。同じ趣味を持ったオタク同士では盛り上がれる人、同じテーマを研究する学生/院生仲間では会話が絶えない人、あるいは応援するスポーツチームなり(色々な意味での)信仰の対象なりを同じくする人の間では円滑にコミュニケーションをとれている人は多いでしょう。しかし、この「相通じる点」が失われたときはどうなのか、そこで「能力」が問われると言えます。

 ゲーマー仲間では話の輪の中心にいたり、研究室の中では盛んに意見を交わしたり、タイガースを応援するときにはともに声を嗄らしたりと、まぁ周囲に内容のある会話ができる人が揃っている間は、自身のコミュニケーション能力の不足に気づかない人が多いのではないでしょうか。近年、「大人の発達障害」が注目されるようになりました。高校や大学までは何ら問題のなかった人が、会社勤めをするようになって初めて「障害」が発覚するケースも少なくないそうです。コミュニケーション能力の欠如もまた然り、高校や大学までは友達が多かったのが会社社会では話の輪に加われない、そんな人もいるのではないでしょうかね。

参考、カッコーの巣の上へ

 内容のある会話しかできない、というのはコミュニケーション能力不足――就業機会を大きく左右する、ある種の障害の予兆と言えます。同好の士の間では中心的人物であろうとも、場面が異なると途端に沈んでしまう人もいるはずです。内容がなくとも盛り上がれるコミュニケーション能力強者と、盛り上がるためには内容が必要なコミュニケーション能力弱者がいるわけです。まぁ自分がそのどちらかと早めに気づいたところで何か対策が取れるはずもなく、せいぜいが「覚悟を決めておく」ことぐらいでしょうか。中身のあることだけを話していられれば楽だと私などは思うところですが、我々の社会で望まれているのは違いますから。

 

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「普通」の働き方

2013-05-17 22:42:43 | 非国民通信社社説

 「有徴」と「無徴」という言葉があります。ジェンダーの文脈とかで耳にすることが割と多いでしょうか。平たく言えば「留保あり」と「留保なし」ぐらいのニュアンスで、例えば「医師」と「女医」であれば前者が「無徴」で後者が「有徴」、「棋士」と「女流棋士」とかも同様ですね。要するに留保を付けずに語られる「普通」のものとして「無徴」があり、逆に留保を付けて語られる「イレギュラーなもの、付随的なもの」として「有徴」があるとも言えます。男性であれば性別を示す徴なしに呼称が作られる一方で、女性ではしばしば「女~」あるいは「女子~」と徴が付けられる、こういうところに意識されにくい格差は潜んでいるのでしょう。

 で、ちょくちょく取り上げてきましたけれど、二極化する正社員と非正規雇用の間に「職種限定正社員」、「業務限定正社員」もしくは「準正社員」などと名称はさておき中間層を作ろうという提言が出てきているわけです。これが現状を変えうるものなのかと首を傾げるところもあるのですが、ともあれ上述の「有徴」と「無徴」の概念を思い出しながら、「正社員」と「限定正社員」の位置づけを考えてみてください。一方は留保なしの「正社員」、もう片方は「~限定」なり、「準(准)」なりの留保が付けられた肩書きです。どちらが「普通」として位置づけられているのか、自ずから明らかではないでしょうか。

参考、人事権を持つ側が変わらないことには

 日本型正社員は、その「働かせ方」の柔軟性、流動性を特徴とします。原則として雇用側の望む通りの職種、部門、勤務地へと異動させることができるわけです。一方で新たに提言されている「限定正社員」の場合は職務の範囲や勤務地域が限定される、一定の範囲内に止まることが前提とされた雇用形態ということになっています。そうした雇用形態の需要は少なからずあるのですが、しかるに「限定正社員」が昔年の一般職なり現在の派遣・契約社員と大差ない扱いになる可能性は少なからず危惧されるところです。結局、年金を受け取れる年齢まで働き続けたければ、あるいは家族を養える程度の収入を望めば「留保なしの」正社員として働く以外に選択肢がない、要するに現状と大差ないことにもなるであろうと見込まれます。

 むしろ逆だな、と私は考えます。つまり「正社員」に付随するオプションとして「限定正社員」を位置づけるのではなく、職務の範囲や勤務地域が限定される「正社員」を基軸とし、その限定なしに「働かせる」ことが可能な例外として「幹部候補社員」を設けた方が、まだしも有意義であろうと思うわけです。職務の範囲や勤務地域の限定された正社員が「普通」であり、一部の仕事に生きたい人のために無限定の幹部コースというイレギュラーな勤務形態を許す、こういう位置づけにできない限り、結局のところ現状のまま無限定の正社員が「普通」で、職務や勤務地が限定される社員は付随的な存在のままであり続けるのではないでしょうか。

 正社員として採用する以上は無限定の働きを暗黙の了解とし、長らく会社に在籍しても頭角を現さなかった人には「無能な中高年」云々とレッテルを貼ってリストラの対象とする、そこでもっと簡単に解雇できるようにすれば良いのだ、解雇が許されないせいで若者の雇用機会が奪われているのだ!と息を荒くすれば経済誌っぽい主張のできあがりです。もちろん経済誌的な主張には事実の歪曲が溢れているのですが、それはさておくにしても年齢とともに会社からの評価も高めていかなければ首が危ういのであれば、「働かせ方」に最初から制限のある限定正社員の扱いなどどうなることでしょう。昔年の一般職や昨今の非正規従業員で、果たして年金を受け取れる年齢まで会社から追い出されずに済む人がいったいどれだけいるのやら。名称が準正社員云々に変わるだけで、それが変わることなど考えにくいところです。

 リストラの標的にされたくなければ限定なしの正社員として働くことが事実上の必須要件となってしまう、それを変える必要があります。そのためには「限定なし」の雇用形態の方をこそイレギュラー、有徴の側に位置づける必要があると思うのです。子供の数が多く、自営業や一次産業の家に生まれた子が会社勤めに流入してくるような時代であれば、「若い部下」の数が相対的に多くなる、年長世代には軒並み管理職としての役割が期待されたかも知れません。しかし少子化が進み、女性社員も昔ほどには若い内に退職しなくなった現代において、「若い部下」の数は減るばかり、年長世代が率いるべき後進の頭数も減るばかりです。ならば管理職になる必要はなくなった、幹部を目指して働く人は一握りで足りるようになったのが現代ではないでしょうか。

 将来的に無限定の社員は「一部の例外」でも足りるはずです。仕事を人生としたい一部の例外を「幹部候補社員」として採用し、その他を「普通の社員」として職務や勤務地限定で雇ったとしても十分に組織は成り立つと考えられます。逆ピラミッド型の世代構成の中でも部下を率いる立場となる一部の例外だけを無限定の社員(現代日本における正社員)として残し、それ以外の多数を今後の「正社員」として雇用の中核に位置づける、そういうプランで進めた方が現状の二極化に中間層を作るという点では効果的ではないかと思うわけです。(なお昨今の流行である英語力に関しても近いことが言える気がします。海外市場を切り開く一部の人には必要ですが……)

 新卒で採用する男性正社員(女性でも総合職採用)を等し並みに将来の管理職候補として扱うことは人口ピラミッド的にもはや成り立ちません。ここで会社からの評価が芳しくない(管理職としてふさわしくない)中高年をリストラして人為的にピラミッドを作れるようにしよう、というのが日本の経済誌やコンサルタント界隈における主流の考え方でしょうか。もちろん、それをやっては「働けるのは若い内だけ」になりかねない、会社の取り分は増えても社会全体で見ると不安定化が進むばかりと、このような事態こそ行政が断固として阻止せねばならないものと言えます。

 出世を望まない若者が増えてきているとも、しばしば語られるところです。新卒採用の時点では出世意欲も高かったはずが、入社後は急激に「出世したい」とアンケートに回答する人が減っていくようですね。草食化云々とも語られますけれど、むしろ時代への適応とみるべきでしょう。自分より年下の人間の方が少なくなる時代なのですから、率いるべき後進の数も然り、誰もが出世したら管理職の人数が部下の数を上回ってしまいます。そういう時代に出世を望まない、出世できなくても不満を抱かないであろう若者が増えているのは、まさに時代への適応に他なりません。雇われる側の心の準備はできているのです。しかるに雇う側、働かせる側は? この時代にも尚、正社員として採用する以上は無限定で昇進を目指して働かせるとあらば、時代錯誤としか言い様がないわけです。限定された範囲で「年金受給年齢まで、ほどほどに働き続ける」ことを認めなければ成り立たない時代は、既に訪れているのではないでしょうか。

 

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「一票の格差是正」につきまとうもの

2012-11-07 23:00:12 | 非国民通信社社説

 物事を単純化すると「善悪」がはっきりして見えるものです。裏を返せば、単純化のために「その他」の要素を無視しているからこそ「善悪」がはっきり見えてしまうとも言えるでしょうか。そして白か黒かの二元論の世界に押し込められてしまえば簡単に見える話も、実際は諸々の付随する要素があって決して単純には語れないものだったりします。例えば顕著なのが原発問題で、単純に原発稼働にリスクがあるかないか、そういうレベルで物事を考えることができれば結論を出すのは容易です。しかし現実とはシンプルな二元論では対応できない代物でもあります。リスクがあると言ってもどの程度か、原発を稼働「させない」ことによって生じうるリスクはどうなのか等々、総合的に対処しなければなりません。

 あるいは混合診療の問題はどうでしょう。全額患者負担の自由診療と保険が適用される保険診療とがある中、保険が利く範囲は保険で、利かない範囲は自由診療でと両者を併用して請求することは現行の法律では禁じられています。保険外の自由診療を行えば、保険適用範囲内の医療行為が含まれていても全額患者負担になってしまうのです。そこで混合診療を解禁すべしとの意見もあって、まぁ単純に「これだけ」を考えるなら患者側の選択肢を増やすものと歓迎されても良さそうに見えるのではないでしょうか。必ずしも適用範囲の広くない保険治療か、それとも高額な自由診療かの二者択一より、必要に応じて両者を組み合わせることができれば患者側の利益になる、と。

 ところが結構な反対意見もあるもので、とりわけ医療関係者には否定的な見解を占める人が目立つところ、どうにも混合診療の解禁によって「保険診療の領域が縮小される」「国民皆保険が危うくなる」などの可能性を懸念して反対の立場を取る人が多いようです。確かに、公的支出に占める医療費の削減に繋がると称して混合診療解禁を説く論者もいるなど、混合診療を保健医療の縮小に繋げようとの思惑を隠せていない人も散見されるわけで、この辺も併せて考えると混合診療の解禁が患者の利益に繋がるかどうか訝しくも思えてきます。

 そして今回の本題として挙げたいのが「一票の格差」問題です。これまた単純化すれば、直ちに是正されるべき悪として議論の余地はないように見えることでしょう。一票の格差が2倍や3倍に止まらないレベルで存在する、それが良いことか悪いことかと問われれば、迷う余地などなさそうです。しかし、この問題もまた一票の格差「だけ」では済まされないところがあるはずです。混合診療の解禁に保険診療縮小の影がつきまとうように、一票の格差是正にもまた付き物と呼べる存在があるのではないでしょうか。

 当初、民主党政権が一票の格差是正のためにも有効と言い出したのは「比例定数80削減」でした。今なお民主党が拘るのは「40削減」ですし、相対的にはマイルドな自民党などとの折衷案にしたところで「0増5減」となっています。どうにも一票の格差を是正する過程で議員定数も減らしてしまおうという思惑を、程度の差はあれ現政権や次回選挙で与党になるであろうと予測される党は共有しているようです。違憲と裁判所の判決が下されるほど一方の格差が大きくなってしまった中では当然のこととして是正が迫られる、しかしその是正のために議員定数が削減される可能性が高いわけです。日本は人口に比して議員の少ない国ですが、その「少なさ」を問題にする人は珍しいのでしょうか。今以上に議員が減らされるのであれば一票の格差是正には反対する、そういう立場の人がいたって良さそうに思うのですけれど。

 

 何であれ格差が存在するからには、格差の「上」にいる人々と「下」にいる人々へと必然的に分かれるわけです。そして一般的に格差是正は「下」の人からの支持を集めるものでもあります。もちろん経済的な格差是正については「下」からの反発が必ずしも弱くないところですが、そうした人々ほど別の面で(実態を伴わない被害妄想ではあるにせよ世代間格差や官民の給与格差などの)格差意識を持っている、格差の「上」にいる奴らを懲らしめよと「下」の意識を持つ人々が主張してきたと言えます。では一票の格差の場合はどうなのでしょう?

 一票の格差の「下」にいる有権者が存在すれば、当然ながら鏡像のごとく一票の格差で「上」となる有権者もまた存在することになります。そして一票の格差を是正すべしと言う声は決して弱くない、行政の補佐が基本スタンスのはずの最高裁ですら違憲判決を下すほどですが、このような状況を一票の格差の「上」にいる人々はどう感じているのでしょうか。しばしば格差是正論は格差の「下」にいる人へと呼びかけられる中、一票の格差是正もまた例外ではありません。確かに格差の「下」にいることによって「損」をしていると感じる人もいるはず、こうした人々に格差是正を訴えては賛同を得る、これは容易なことです。しかし反面では格差の「上」に立つ人もいる、では「上」の人にどう向き合うのかもまた問われるように思います。

 基本的に一票の格差で「下」になるのは人口の多い都市部であり、逆に「上」となるのは人口の少ない地方です。ここで一票の格差を是正するとなると、人口の少ない地方から選出される議員を減らして、人口の多い都市部から選出される議員を増やすという形になります(ただし現政府案では前者のみ)。確かに是正には違いありませんが、今まで以上に地方の声が国政の中央に届きにくくなるであろうこともまた考慮されるべきではないでしょうか。地域主権だの地方分権だのと喧しい中、東京などの元から中央に存在する地域から選出される議員の割合が増えるというのも時代に逆行した話に見えます。

 昔年の自民党には「地元に利益を引っ張ってくる」タイプの議員が結構いたものです。これは「自民党をぶっ壊す」と称した小泉純一郎が、その後継者である民主党がともに「既得権益」「古い自民党」などと呼んで否定したものであり、「地方に富が吸い取られる」とばかりに都市部の有権者からも嫌われてきたものです。そして現代において有権者の支持を集めるのは専ら「利」ではなく「善」を説くタイプでしょうか。もっとも何が「善」であるかは人それぞれ、公務員/官僚や電力会社、あるいは社会保障受給者や外国人などを「悪」と見なしては、その仮想的を咎めることに熱心なタイプが目立ちますかね。

 何はともあれ「地元に利益を引っ張ってくる」タイプの議員は近年ではすこぶる評判が悪い、むしろ「利」をもたらすこと自体が悪徳であるかのように語られがちです。しかし「利」ではなく別の動機で行動する公平無私の政治家こそ正しいと、そうした幻想が地方を衰退させ、地方議員の価値を喪失させたところもあるように思います。自身の選挙区のことより日本全体のことを考える、天下国家を語る議員がいても良いですけれど、同時に地元のために戦う議員がいても良い、異なる立場の両方が国会に送られても良いのではないでしょうか。しかるに格差是正のために地方の議席が削減されてしまえば、「両方」が議席を手にする可能性は極めて小さなものとなってしまいます。

 

 アファーマティブ・アクションは差別なのでしょうか。それに反対する人の中には、アファーマティブ・アクションこそ不公平なものだと主張する人もいるようです。諸々の事情によって弱い立場に置かれた人々に一定の優遇措置を執る、これは公平性を担保するための措置なのか、それとも不当な優遇なのか。もちろん程度にもよりますけれど、弱い立場、不利な立場にある人々には下駄を履かせてやるべきだという考え方と、これを疎む考え方とがあるわけです。では、一票の格差に関してはどうなのでしょう?

 一票の価値に関しても、アファーマティブ・アクションの理念は適用できるように思います。そもそも一票の価値が「高い」選挙区がいかにして生まれるかと言えば、その地域が衰退して有権者数も減っていくからです。逆に一票の価値が「低い」選挙区とは、不況の時代にも怯まず、少子化の時代にも有権者数を増やすもしくは維持できている地域です。人口が減り続ける「弱い地方」で一票の価値が高まり、人口が増える「強い地域」で一票の価値が低下する、確かに一票の価値「だけ」に焦点を当てれば不平等な話かも知れません。ただ一票の価値「以外」の格差をも含めて総合的に見るとどうなのか、その辺も考慮されるべきです。

 もし現状とは反対に、人口だけではなく産業も集中する都市部で一票の価値が高く、国会議員もまた都市部から選ばれた人ばかり、一方で人口が減少する地方では一票の価値すら低く住民も産業も議員も減るばかりとあらば、これは直ちに是正されるべきものと言えます。しかし人の集中する豊かな都会で一票の価値が低くなる反面、色々と恵まれない地方では一票の価値が高くなる、これ自体が一種の是正措置、アファーマティブ・アクションとしての機能を持ちうるものとなっているのではないでしょうか(そのためには地方選出の議員が自身の地元を重視する必要がありますが)。

 確かに現状では一票の格差が大きすぎるところです。しかし、有権者数が減少する=一票の価値が上昇するような地域に下駄を履かせてやっても良いのではないか、そのような立場もあってしかるべきと私は考えます。単純に一票の格差だけを取り出せば善悪がはっきりするかも知れませんが、「その他」の要素をも含めて是正措置の一環としてみれば、議員定数の削減とセットになることが濃厚な格差是正をどこまで急ぐべきなのか、とりわけ議員定数削減に執着する民主党政権下での一票の格差是正は危険ではないのか、そう簡単に結論は出せないように思います。

 アメリカの場合、下院議員はドライな人口割りである一方、上院議員は州単位で2人ずつの選出となっており、それこそ上院議員選挙では10倍や20倍では済まないレベルの「一票の格差」が生じています。これを問題視する人がどれだけいるのかどうか知るところではありませんけれど、「人口割り」と「州毎に2人」と明確に制度が分けられていることによって「一票の格差」を感じさせにくい作りになっているとも考えられるでしょう。翻って日本はと言えば、この辺の区分が酷く曖昧なままです。

 その内部で衆院と参院の振り分けをどうするかなど意見は分かれると予測されますが、日本でも「人口割り」の議員定数と「都道府県単位」の議員定数を明確に分けてしまったらどうでしょうか。そこまでの抜本的な変更となると次の選挙までに間に合わないであろうことは必至ですけれど、しかし現行の政府案のように議員の数を減らす、とりわけ人口が減って相対的に一票の格差が高まった地域の議席数を減らす、衰退する地域からの声を吸い上げるパイプを細くするという、そんなやり方を少なくとも私は歓迎することができません。もっと他にも、探られるべき道はあるように思います。

 

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改革という名の退行に背を向けて

2012-06-02 00:17:59 | 非国民通信社社説

 定期的に持ち上がってくる論議の一つに、成人年齢を引き下げるべしというものがあります。現在の日本では20歳が境目ですが、これを18歳とかその辺に引き下げようというわけです。確かにまぁ、世界各地の貧困国では十代の少年少女が大人と肩を並べて労働力として駆り出されている、アフリカの紛争国では年端もいかない子供が自動小銃を手に大人達に混ざって戦っていたり、多少は平和な国でも日本なら淫行条例に引っかかるような年齢の子供が日夜、立派に大人の相手を務めていたりします。それに比べれば、日本の20歳という成人年齢は高いのかも知れませんね。経済面では新興国を目指して後ろ向きに階段を駆け下りてきた日本なのですから、社会面でも相応に退行を志向した動きがあっても不思議ではありません。

 何度か書いてきたことではありますが、将来が決まるタイミングがどれだけ「遅いか」で、概ねその社会の成熟度は測れるように思います。まず未熟な社会では生まれたときからもう将来が決まっている、親の属する社会階層がそのまま子供へと引き継がれます。そして多少なりとも近代化が進むと僅かながらも選択肢も出てきて、例えば中学生までは割と誰でも平等だけれど、そこから先の進路でだいたいの将来が決まってしまうみたいなパターンが挙げられます。もうちょっと社会が成熟すれば進路の変更にも融通が利くようになって、20歳くらいまでは人生のやり直しが可能になる、他の道へと再スタートが切れるようになると言ったところでしょうか。日本の場合、大きな転換点は卒業時ですね。高校でも大学でも専門学校でも、とにかく学校を卒業した時点で、しっかりとした会社に就職できるかどうかが大きな差が付きます。ここで就職機会を逃すと、後に分類上は正社員として就職できたとしてもろくな会社ではなかったりするなど、ほぼ挽回不可能となっているわけです。

 私の大学時代の恩師が定年で退官することになったときのことですが、未練タラタラの先生は「だいたい60歳で定年ってのは、60歳くらいでどんどん死んじゃう人がいた時代の考えでさ……」と愚痴をこぼしていました。そうですね、たとえば平均寿命が50歳かそこらの時代と、平均寿命が75歳を超える時代では社会保障制度の望ましい在り方も変わってくるものです。日本のように世界トップクラスに寿命が長い社会と、もっと寿命が短い社会とでは、アプローチの仕方も多少は変えなければならないものなのかも知れません。そうした面では、上述の成人年齢の引き下げ論はどう見るべきでしょう。昔よりも平均寿命が大きく延びている中で、成人年齢を前倒しするとなると、未成年の期間と成人である期間のバランスは輪をかけて崩れてしまうように思います。むしろ寿命という名の人生のスケールが延びた分だけ、「成人」になるまでの期間も延ばした方が釣り合いが取れるのではないでしょうか。

 年金受給年齢は加入者の同意なく引き上げられることが既に決まって久しいですけれど、まぁ寿命が延びた中で支給開始年齢だけを据え置きというのは難しいのかも知れません。そして我が国の政府としては異例中の異例と言うべきなのが悲しいことですが、引き上げられた年金支給開始年齢に達するまで雇用を延長するよう指針も出されています。制度改革に伴う負担を、個人ではなく雇用側に求めるのは実に珍しいことですね。まぁ、流石に60歳定年で65歳の年金支給開始までは自己責任で済ませというのは無理な話ですから。元より一世代前や二世代前の60歳に比べれば現代の60歳とは随分と健康でバイタリティーに溢れています。もちろん個人差も大きくなる年代だけに一緒くたに扱うのは危険でもありますけれど、だいたいの人にとって65歳まで働いてもらうというのはそんなに難しい話ではないのでしょう。あんまり長く働きたくないという思いはあるにせよ……

 こちらは上手い図ではないですがニュアンスは伝わるでしょうか。とりあえず一番上の段が平均寿命70歳の場合で、次が平均寿命80歳の場合です。成人年齢や年金支給開始年齢を据え置いたまま寿命だけが延びると、どうしてもバランスは崩れます。そして改革モデルと銘打ったのが、現行の政府案ですね、成人年齢と、年金支給開始年齢がそれぞれ動かされているわけですが、これまたバランスの悪いものと言わざるを得ません。そこで最下段の「成熟モデル」は私のオリジナルで、年金支給開始年齢だけではなく成人年齢も「引き上げた」形になります。先述の通り寿命という人生全体のスケールが伸びたのですから、未成年でいる期間を圧縮するのはむしろ不自然、反対に伸ばすべきとの考えに沿って提唱してみました。とりあえず、この成熟モデルの方が未成年、労働年齢、年金受給年齢のバランスは取れているはずです。

 富国強兵、殖産興行的な発想にとらわれていると、どうしても労働人口を増やすことが国力増強の道という考えになってしまうのかも知れません。十数年来の不況で慢性的に求職者側があぶれているにも関わらず、労働人口を増やすことを是とする言論が巷に溢れているのはそのせいでしょうか。高度経済成長期からバブル期に至るまで、高卒でも働き口に困らなかった時代には日本の大学進学率は至って低いものでした。それが不況で企業側が採用を手控えるようになったのと時を同じくして日本の大学進学率は急上昇を続けて来たわけです。まぁ、急上昇した結果がようやく5割に到達したという水準ですので、まだまだ日本は大学生が少ないと言えますけれど、ともあれ日本でも高等教育を受ける人が増加しています。しかるに、こうした大学進学者の増加を快く思わない人が、とりわけ経済系の文脈において目立つのも事実です。

 成人年齢の引き下げ論議と大学進学者の増加を否定的に見る向きは、底の方で似通う部分があるような気がします。より早く「成人」に組み入れたい、より早く労働力人口に組み入れたい、そういう欲望があるのでしょう。そして教育水準の高さを強みとして高付加価値産業へのシフトを目指すのではなく、賃金抑制を徹底して新興国と同じ土俵で戦おうとするのなら、大学進学者の増大など百害あって一利なしと映るものなのかも知れません。必要なのは一握りのエリートと、新興国に負けない低賃金で働いてくれる従順な労働者ですから。もちろん賃金の低下は即ち、その国で働く人が貧しくなると言うことを意味する、つまりは社会全体にも負の影響を及ぼします。それを補うには「頭数」を増やすことですね。年収500万円の労働者が2人いるより、年収400万円の労働者が3人の方が、トータルでは豊かという計算になります。凋落を続ける一人当たりのGDPには無頓着な一方で、国全体のGDPで中国に抜かれた、今度はインドに追い越される云々と騒いでいる我が国の経済言論がどういったモデルを好むかは言うまでもありません。

 少子化が進むと同時に賃金水準の押し下げも進められてきた中、「国全体」のGDPを引き上げるためには個人の貧しさを補うべく労働人口を増やす必要に迫られる、その処方箋として移民の受け入れだったり、女性の活用や定年の延長など色々と出てくるわけです。そして大学進学率の上昇を否定的に見る向きもその延長線上にあるのではないでしょうか。労働人口を増やそうと駆り立てられるのは、当然ながら女性や高齢者だけではない、若年層だって同様なのです。少子化が進んでも労働人口は確保したい、そのためには早くから労働人口に組み込む必要があります。若年層を大学で遊ばせておくより、安価な労働力として日本企業に奉仕させたい、そういう思惑があると本来なら喜ばしいはずの進学率向上も苛立たしい現象に見えてしまうのでしょう。

 しかるに、将来が決まるタイミングだけではなく本格的な労働に従事する時期もまた、社会が成熟すればするほど遅くなるもののはずです。発展から取り残された国では児童労働が横行していますが、多少なりとも進歩すれば児童労働が禁止されるものですし、さらに社会が成熟していけば進学率も上昇、それに伴ってフルタイムで働き始める時期も遅くなるものです。貧しい国では義務教育機関を過ぎたら遠からず労働力として大人と一緒に働き始めるかも知れませんが、曲がりなりにも先進国であれば高校までは進学するのが当たり前になったり、あるいは大学に進む、時には大学院へも進学するなど、いずれにせよ日本で言う「社会人」になるタイミングは後方へとシフトしていくわけです。

 日本では「改革」を気取る人ほど保守的――より思い切って言えば退行志向であるように思えるのは、そういうところからです。むしろ改革を称する人ほど、賃金抑制=新興国と同じ土俵での競争に積極的であったり、進学率上昇に否定的で若年層を早期に労働市場に組み込みたがるなど、そうした時代に逆行する志向が目立つのではないでしょうか。「経済成長の時代は終わった」みたいな日本くらいにしかあてはまらない妄論が経済誌でも当たり前のように幅を利かせていますけれど、日本経済はまさにブリキの太鼓の主人公よろしく、成長すること、成熟することを止めてしまったかのようです。しかし、誰か他の「大人」が日本を養ってくれるわけでもありません……

 

この業界はどこもそうかもしれないけれど、長期勤続というのは歓迎されないんだ。それで会社も「三年くらいで辞めてもらった方が経費的には助かる。そうすれば、また元気のいい新人が入ってバリバリと稼いでくれるし……」と、公然といっているんだから。 (『ホームレスになった』金子雅臣、ちくま文庫)

 

 拡大を続ける非正規雇用を中心に、主として若年層を取っ替え引っ替えする雇用形態もまた随分と目立つようになりました。不当な解雇も相次ぐ昨今ではありますが、それでもなお、もっと社員を簡単に解雇できるようにせよと主張する声がまた喧しいところでもあります。雇用側に便宜を図ることを以て経済政策と勘違いしている人の好む「改革」の一つですね。もっとも、雇用主に自由を!雇用主を法律で縛るな!全ては主の御心のままに!などと率直に真情を吐露する人はいなくて(隠せていない人はいるにせよ)、大方は奇妙にも「若者のため」などと口にするのですから笑うしかありません。彼ら退行志向の改革論者に言わせれば、無能な中高年またの名を既得権益が社員として居座っているから若者にチャンスが回ってこないのだそうです。へー。

 雇用の面で改革と称して提唱されているものの多くは、近年「ブラック」と呼ばれるようになった類の企業であれば既に当たり前のように実践しているものばかりだったりします。たとえば「無能な」中高年を切り捨てて若者に雇用機会を提供するなど、ですね。決して長くは働けない、目立った成果を上げられなければ遠からず追い出される、そういう会社は必然的に社員も若い人ばかりになりがちです。では、このような企業は若者に優しいのでしょうか。改革論者のいうことを政治家が真に受けて日本中をブラック企業の巣窟にした場合はどうなるでしょう。今まで以上に中高年層はリストラされ、代わりに企業が雇うのは若者ばかり、若者の就業機会は飛躍的に増加……する可能性は高いのですが、そこで就業機会を得た若者の10年後、20年後、30年後がどうなるかも考える必要があります。若者もいずれ年を取ります、かつて中高年層に席を譲ることを強いた若者が中高年になったとき、今度は自分が若者に席を譲ることを迫られる、そこまで想像しなければなりません。

 相対的に低賃金で済ませやすい若年層を、それこそ取っ替え引っ替えしながら使い捨てていけば人件費削減は容易、新興国と同じ土俵で競い合いたい人には好ましい世界と言えそうです。もっとも、働く人にとっては捨てられるリスクが高まる、とりわけ齢を重ねるほど危うくなってしまいます。「若者に雇用機会を提供するため」との美名の元にリストラされた親世代を、より低賃金の子世代が働いて支えるという、実に悪夢のような未来が待ち受けていることでしょう。自分が働いて親を養うんだという殊勝な孝行息子/娘にはそれでもいいのかも知れませんが、私は御免ですね。むしろ中高年層(=親世代)の雇用をきっちりと担保して、子世代をじっくり学ばせておく、その方が成熟した社会にはふさわしいと私は考えますけれど……

 平均寿命が延びたのなら、それに伴って人生の「重心」だって動かす必要があります。寿命がこれだけ長く伸びたのに、そう急いで働き始める必要があるのでしょうか。むしろ大人になるのは「ゆっくり」で良いように思います。人生が50年かそこらで終わってしまう国ならともかく、日本の場合は、大人になってから先が随分と長く伸びているのですから。しかるに進学率の上昇を好ましく思わない人々がいたり、あるいは中高年を追い出して若者に職をと説く人もいるわけです。こうした人々の志向しているのは、より「早く」若者を労働力に組み入れることと言えますが、率直に言ってそれは「退行」に他なりません。そうではなく、逆に若者を働かせる時期を、より「遅く」してこそ進歩です。

 とりあえず日本では、児童労働は概ね禁止です。芸能活動や家業の手伝いは別として、普通の会社勤めとかは表面上やってはいけないことになっています。アルバイトを始める子が珍しくなくなるような年齢でも、未成年であれば深夜労働などには制限がありますね。ならばこうした禁止や制限の課せられる年齢を、大きく引き上げてみるのもおもしろいかも知れません。極論するなら、20代のフルタイム労働を原則禁止してみるのはどうでしょう。さっさと学校を卒業させて、さっさと働かせたいという思惑の強い我が国ですけれど、それが行き詰まっているのも現状です。若者を就職戦争で摩耗させ、会社に縛り付けることこそ才能の浪費と言えます。それよりも、なるべく長く大学なりに通わせて、いわゆるモラトリアム期間を可能な限り長くした方がイノベーションも生まれるのではないでしょうか。決して就職を急がせる必要はありません。その代わり、子世代を支える親世代の雇用をきっちりと守っていくことです。一般に、知能の高い動物ほど親が子供を育てる期間は長くなります。ならば寿命も延びて60歳くらいではまだまだ元気な親世代が子世代を養う期間をもっと延ばしたって、それは進歩と呼べることでしょう。

 

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消費税についてのまとめ

2012-01-06 22:56:03 | 非国民通信社社説

 さて、野田内閣の下いよいよ消費税増税が現実味を帯びてきました。基本的に不況期の増税は極めてリスクの高い行動であり避けるべきものと思われますが、特に消費税の場合は不況でなくとも問題が多い、そこで今回は消費税特有の問題点について、整理してみましょう。

1,税が複雑化する

 税がシンプルであることを理想とするかは論者によるのかも知れませんが、一般論として税はシンプルであるべきとされています。そうした点からすると究極系は所得税/法人税など直接税への一本化が頭に浮かぶところで、余計な煩雑さを付け加えるばかりの消費税を筆頭とした間接税など止めてしまえと思わないでもありません。何も税は消費税だけではないのですから、これに固執する必然性はないわけで、シンプルに所得税の累進課税や法人税、社会保障費の企業負担といったところを引き上げれば済む話です。

 確かに日本の消費税は軽減税率なし、インボイス制度なしの手抜きっぽい制度となっているために諸外国の付加価値税に比べればシンプルではあります。ただこのシンプルな税をストレートに引き上げるともなれば、消費税による逆進性は洒落にならないものとなってしまうわけです(逆進性については後述します)。この逆進性を緩和すべく、「日本より消費税が高い」とされる国の多くは食料品などの生活必需品、書籍や新聞などの文化財、医療や福祉、公共交通機関といった類いには消費税が課せられなかったり、あるいは著しく低い率に止められていたりするものです。そこで日本でも、こうした軽減税率の設定が議論されていますが、軽減税率を設けることによって別の問題もまた発生してしまうのではないでしょうか。

 まず第一に逆進性を緩和できるだけの軽減税率を設けるとなると、必ずしも税収が増えるとは限らなくなってしまいます。嗜好品には高い税を課しても食料品は免税ともなれば、トータルでの税収はいかがなものでしょう。これでは何のための増税なのか、単に社会を混乱させるために税を弄んでいるだけなのではないかという世界です。そして品目によって課せられる税率を個別に設定するともなれば、当然ながら税は煩雑化します。そもそも日本では消費税導入と引き替えに廃止された「物品税」が、ヨーロッパにおける付加価値税よろしく生活必需品を避けての間接税として存在していたわけで「消費税に軽減税率を設ける」=「消費税導入前の物品税に戻す」という側面も否定できません。まったく、何のための消費税導入だったのかと今さらながらに呆れますね。

 他にも逆進性緩和措置としては各種控除や低所得者向けの現金給付も検討されているようですけれど、これもどうなのでしょうか。もちろん低所得者向けに社会保障を強化していくのは悪いことではありません。ただ、増税によって生じた逆進性緩和のためにそれが行われるとあらば、なんだか10mの穴を掘ってそれを埋めさせるような、果てしない無駄を感じさせてくれます。わざわざ新たに制度を作ってまで補償するくらいなら、初めから逆進性の強い増税プランは避ける、それがシンプルで無駄のない財政計画と言えるはずです。消費税の逆進性を緩和するためには新たな社会保障支出が発生しますが、その財源もまた消費税増税?

2,滞納が多い

 普通の人にとっては死語だと思いますけれど、その昔は「クロヨン」とか「トーゴーサン」という言葉がありました。すなわち「9/6/4」「10/5/3」、源泉徴収を受けるサラリーマンと、そうでない自営業者や農林水産業者の課税所得捕捉率を指したもので、少なからず誇張はありそうな気がしますが、自営業者や農業従事者は所得を隠して税金から逃れているといったイメージを形作るものだったわけです。サラリーマンは源泉徴収されて容赦なく税金を搾り取られているのに、自営業者や農業従事者は所得を誤魔化し、本来納めるべき税金を懐に入れている――そういうイメージを作って不公平感を煽り、誰でも支払わされる「公平」な税として消費税が紹介されることもありました。というか、時代錯誤の消費税増税論者の中には今尚そういうイメージを持ちだしてくる人もいるので笑うしかありません。

 所得が真ん中くらいで扶養家族のいるサラリーマンともなれば、実は最も控除が厚い層になるだけに所得税はそんなに払う必要がなく、本物の富豪は分離課税のおかげで課税から逃れ、実質的に所得税が重くのし掛かってくるのは大手テレビ局とか大手新聞社に勤める人くらいと言う気もしますが、それ以前に今さら自営業者や農業従事者を僻むような発想を持っている人の存在の方が不思議です。もう、自営や農業で儲かる時代ではない、そういう人のチンケな所得隠しぐらい放っておこうよと思うのですけれど、まぁ経済を語っているつもりでひたすら道徳を語り続ける人は数知れません。脱税(節税)する人がいるのはけしからん、それを防ぐためには消費税しかないのだと――

 ところが、実際の租税滞納状況はいかほどのものでしょうか。国税庁によると、平成22年度の新規発生滞納額は以下の通りです。

源泉所得税  333億円
申告所得税  558億円
法 人 税  548億円
消 費 税 1162億円

 はい、一つだけ桁が違いますね。桁違いに滞納が多い税、それが消費税なのです。別に脱税は所得税だけで発生するものではないわけです。むしろ、消費税でこそ滞納が発生しやすいことは統計からも明らかで、不法な税金逃れによって懐を暖めようとする輩を成敗しようというのなら、まず消費税なんか止めてしまいましょう。所得をごまかす悪徳個人事業主だったら、納めるべき消費税額だって同様にごまかすものなのです。それをケシカランと憤るのなら、滞納の温床たる消費税という欠陥税制を見直してみることも必要と思われます。

3,負担者が曖昧

 間接税とは要するに、負担者が「直接」納税するのではなく、別の人が「間接」的に納める税のことです。つまり、AさんがB商店で105円の商品を買ったとして、これにかかる消費税5円を負担するのはAさんですが、実際に納税するのはB商店、そういう仕組みになっているわけです。ところで計算が簡単になるように「105円」という数値を例示しましたが、これが「98円」の商品だったらどうでしょう? 105円の商品ですと、本体価格100円に5円の消費税が上乗せされているイメージが強い、購入者であるAさんが5円の消費税を負担しているように見えると思います。しかし98円だったら? 約5円の消費税を負担しているのは、98円を払ったAさんでしょうか、それとも商品を98円で販売するB商店なのでしょうか?

 かつては「980円(税込1029円)」みたいな価格表示が主流であったことを覚えている人も多いと思います。この表示方式ですが、「総額表示」が義務付けされて以降は禁止されてしまいました。今では「1029円」と表示しなければならないことになっています。小売店にとっては、まさに悪夢のような制度改正でした。もちろん、値札の付け替えが地獄のような作業だったこともあります。しかし真の問題は、今まで「980円」で売っていたものを「1029円」と表示しなければならなくなったこと、これによって顧客に値上がりしたかのような印象を与えてしまうことだったのです。もちろん小売店の取り分は変わらないのですが、店頭で表示される金額は変わってしまいます。それでも売り上げに影響はないと、そう強気に構えていられた小売店は決して多くなかったはずです。

 結局のところ「980円(税込1029円)」で売られていた商品は総額表示義務付け後、専ら「980円(本体価格933円)」で売られることになりました。この辺も密かにデフレを進める要因になった気がしないでもありませんが、ともあれ小売店側が負担する形で「店頭表示価格」が維持されるケースも目立ったわけです。そしてこのとき、消費税を負担しているのは誰だったのでしょうか? 「980円(税込1029円)」であるなら、購入者が消費税を負担しているように見えます。しかし「980円(本体価格933円)」であれば、むしろ販売店側が負担しているように見えはしないでしょうか。そして「実際に」どちらが負担しているのかは永遠に曖昧なままです。

 制度として、「納税者」は決まっています。商品(サービス)を販売した側が納税します。しかし、納税すべき金額を販売側が価格に転嫁している/できているかどうかは把握する方法がありません。永遠のグレーゾーンです。果たして290円の牛丼に課せられる消費税を負担しているのは客なのでしょうか、それとも店なのでしょうか。過去の消費税導入時/引き上げ時には値上げした店もあれば、値上げ「できなかった」店もあったはずです。あるいは企業同士の取引でも「609万円、出精値引9万円(合計600万円)」みたいな形で時に端数を切ったりしますが、こういうケースでも例によって仕入れ側と納入側のどちらが消費税を負担しているのか曖昧です。結局のところ消費税とは、価格に転嫁するだけの立場の強さがない、「弱い」側が負担する税なのではないでしょうか。いずれにせよ、実際の負担者が曖昧であることは税の公平性という面から著しい欠陥であり、このような制度を存続させるべきではないと言えます。

4,立場の強い企業、とりわけ輸出企業にとっては益税になりがち

 上述の通り、消費税の負担者は曖昧である一方で、手続きとして納税する人は明確に定められています。そしてもう一つ、消費税の「還付」を受ける人もまた明確です。つまり、消費税は「仕入れにかかった消費税」の還付を受けることができるのですが、この還付金を受け取るのは「仕入れ側」と決まっています。以下は極限まで簡略化した例ですが――

A商店より1050円で砂糖玉を仕入れ、B社が2100円でレメディとして販売した場合
・A商店は消費税を「50円」納税
・B社は消費税を「100円」納税
・B社は仕入れにかかった消費税として「50円」の還付を受け取る

 ……大雑把に言えば、こういう仕組みになっているのです。これだと、あまり問題がなさそうに見えますね。では、次の場合はどうでしょうか?

A商店より1050円で砂糖玉を仕入れ、B社が25ドルでレメディとして「輸出」した場合
・A商店は消費税を「50円」納税
・輸出には日本の消費税が課せられないので、B社は消費税を納めません
・B社は仕入れにかかった消費税として「50円」の還付を受け取る

 はい、この場合B社は消費税を「納めた」額よりも「受け取った」額の方が大きいわけです。輸出先での納税状況次第では消費税の分だけ余計に儲けている疑いがありますし、日本政府の税収にも繋がりません。A商店の販売額が「1050円」と、いかにも「消費税を転嫁した」かのような価格になっていると、B社が消費税を「負担」しているように見えるので問題ないものとして扱おうとする人もいるようですが、しかるにA商店からの仕入額が「980円」とか「1000円」であったならばどうでしょう? 実際のところ、消費税をどこが「負担」しているかは力関係次第、制度の仕組み上、常に曖昧なのです。にもかかわらず、消費税の還付を受ける対象は明確です……

 たとえば上で例に挙げた「609万円、出精値引9万円(合計600万円)」みたいな仕入額であっても、仕入れ側は約29万円の還付を受け取ることができます。実質的には仕入れ側と納入側で折半しているかに見えそうな金額ですが、還付を受けるのは片方だけです。ここで立場の強い側、すなわち弱い側に消費税負担を暗に押しつける側には儲ける機会が生じます。特に輸出が絡む時には「輸出戻し税」などとも呼ばれるものですが、トヨタとかキヤノンなど大手輸出企業は「消費税を納めた額」より「消費税の還付を受け取った額」の方が何倍も多い、消費税が上がれば上がるほど「受け取る」税が増えるようになっています。誰が消費税を負担しているかは定かでないのに、税金を受け取る人は決まっている、何とも不思議な税ですね。とりあえず、なぜ法人税には強い忌避感を示す財界筋が消費税には概ね肯定的なのか、なぜ同じ税金でも片方を負担と訴え、もう片方の増税を意に介さないのか、その理由は考えてみるべきでしょう。

5,逆進課税である

 子供にも外国人居住者にも一律に課せられる日本の消費税ですが、どれだけ納税するかは「どれだけ消費するか」にかかってきます。そして所得に占める消費の割合は、どうしたって低所得者の方が高くなるのが一般的です。収入が21万円で消費も21万円の世帯であれば納める消費税は1万円、一方で収入が63万円で消費が42万円の世帯であれば納める消費税は2万円となります。収入に占める課税比率は前者が5%であるのに対し、後者は約3%、すなわち低所得層の方に重く課税されていることになる、このようなケースが一般的であるが故に消費税は逆進課税となるのです。

 この逆進性に対応するためには何が必要なのか、デンマークなどでは最低賃金が2000円超となっており(マトモな為替レートの時代なら2500円超!)、これであれば最低賃金で働いても日本の中流相当の収入になりますから消費税が高くても大丈夫みたいな発想もありますが、10円にも満たない最低賃金の引き上げですら大騒ぎするような日本社会では真似できないでしょう。では次善の策として軽減税率を設けるとか現金給付を云々とした場合の問題点は冒頭で述べた通りです。どうあっても消費税は逆進的、弱いものいじめ、あるいは社会を混乱させるだけのものになってしまいます。そこで目くらましとして所得税(の累進課税)も強めるとのプランもあるようですが、はっきり言って民主党案では微増の範囲、高度経済成長期に比べて累進課税が著しく緩和された状況であることには変わりなく、例によって分離課税も放置とくれば誤魔化しも良いところです。

 ところが、さらなる誤魔化しとして「消費税は逆進的ではない」との主張もあります。たとえば「誰しも最終的には全ての所得を消費するので、誰にとっても税率は同じだ」などと言い出す人もいました。これは方々で失笑を買った奇妙な想定で、現実には相応の資産を残したまま人生を終える高所得者と、カツカツの収入を使い果たして死んでゆく貧乏人に分かれるわけです。当然ながら所得に占める消費税納税額の比率は貧乏人の方が高い、やはり消費税は逆進的と言うことになります。流石に本人も現実離れしたものと気づいたのか、改良型として「死んだときに残された分は相続税として重く課税されるから、決して逆進的ではない」という主張もあるのですが、ではこれのどこがおかしいのでしょう?

 相続税なんて、ごく一部の金持ち限定の話だろうというのはさておき、ローンを組むことの意味が理解できる人なら、それはおかしいと気づけると思います。つまり支払いを先送りにできるのかどうか、あるいは即座に支払わねばならないのか、トータルで払う金額は同じであっても、支払い側にとっての負担は同じではないわけです。上記の消費税公平論の発想は、昨今では原発のコスト計算に適用されることが多いでしょうか。つまり廃炉や廃棄物の保管など将来のコストを無限に高く見積もった挙げ句、そうしたコスト全てを一括して「原発は高い」と結論づける安易な見解が目立つのですが、とりわけ運転資金にも苦労するような財政状況になればなるほど、「将来のコスト」と「直近のコスト」の持つ意味は異なってくるのです。それが理解できないようでは、消費税の不公平制もまた理解できません。

 日々の生活にも事欠くようなギリギリの生活をしている人にとって「買い物の都度に支払わなければならない税金」と「自分が死んだ後に支払えば済む税金」、どちらが優しいでしょうか。トータルの支払金額が同じでも意味合いは全く異なることが、少なくともローンを組んだことがある人ならわかると思います。一生お金に不自由しない産まれながらの富裕層であれば、いつ支払いを求められても同じなのかも知れません。しかし貧しい人にとって、支払いを先にできるかどうかは人生を通して切実な問題であり続けます。誰にでも容赦なく即時の支払いを求める消費税が弱者に厳しい税制であることは言うまでもないことです。

6,消費を抑制する

 消費そのものに課税するのですから、これは当然のことですね。税金を払いたくて仕方ない奇特な人もいるのかも知れませんが、大多数の人はなるべく税金は払いたくないもの、それが消費の度に課税されるともなれば消費が抑制されるであろうことは考えるまでもありません。現に消費税が5%に引き上げられた結果、バブル崩壊後のショックから立ち直りつつあった日本経済は再びどん底に叩き落とされ、現在に至るも復興する様子を見せていないどころか輸出依存度を高めるばかりです。そして景気低迷の結果、消費税増税前よりも税収は減りました。消費税が引き上げられた1997年は他にもマイナス要因が少なくなかったにせよ、不況要因に事欠かない中での消費税増税がどれほど危険な愚行であるかは、絶対に忘れてはならないことです。消費税増税は、せめて消費を抑制する必要があるときにやってください。むしろ今は、消費されずに残った「余り」に課税することを考えるべきでしょう。

・・・・・・

 以上6点の他にも、色々と問題は出てくると思います。アリバイ作り的に提案された所得税増税案の貧弱ぶりがかえって証明するように、政権交代を経てもなお我が国の政府は消費税増税への固執を続けていますが、果たしてそれは賢明なことなのでしょうか。少なくともここで挙げた6点の問題に対して、消費税増税に固執する人たちは解決策を見いだしていないどころか、向き合うことすら拒んでいるかのようです。最も簡単な解決策は、消費税増税「以外」にも税収を増やす手段は存在しており、かつてはそれで成功していたことを思い出すことです。ギリシャは消費税率を引き上げましたが財政破綻しました。消費税「以外」にも視野を広げることができなければ、ただただ社会を混乱させ、低所得層を絞り上げるだけにしか繋がらないことでしょう。意図して後者を狙ってるんじゃないかと思えてくるフシがないでもありませんが!

 

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若者優遇はもう終わりにしよう

2011-09-07 23:17:33 | 非国民通信社社説

 ふと思うのですが、いわゆる「就職氷河期世代」の人って、自分がまだ若いと思っているのでしょうか。とかく氷河期世代を称する人が「若者が~」と語るのを見かけるわけですけれど、少なくとも「採用する側」の人間から見た氷河期世代は、もうとっくに若者のカテゴリーを過ぎているような気がします。自称氷河期世代だけではなく、若者気分な人々に媚びを売る経済誌(ダイヤモンドとか)でも、何かと若者に職を云々と説かれるわけですが、いざ若者に職をという流れで機会を与えられるのは、氷河期世代よりも一回り下の世代の人々です。

 イギリスで起こった大規模な暴動の一因として、若年層の失業問題を挙げる人もいます。日本における若年層の失業とヨーロッパのそれは性質が異なるところも多々あるように思いますが、ともあれ日本でも若者の雇用は大きな問題だと言われているわけです。でも考えてください、若者のための雇用って、そんなに不足しているのでしょうか? 少なくとも日本の場合、若者を対象にした求人は増えてきたはずです。若い内に限定される雇用かも知れませんけれど!

 つまり非正規雇用などの不安定雇用を「雇用」の枠組みに含めるのであれば、小泉や竹中が自画自賛したように規制緩和で雇用は増えました。ただ非正規雇用の場合、往々にしてそこで働けるのは若い間に絞られます。収入の問題を度外視したとしても年金受給年齢まで働き続けられる人となると例外中の例外でしょう。遠からずクビは切られる仕事、要するに「若い内に限定される雇用」ばかりが増えたのです。だから若い人であれば就職先はあるはず、あるはずなのですが――大半の若者は「年を取っても働けそうな仕事」に就きたがりますので、「若い内に限定される雇用」の増加とは無関係に就職競争は激化の一途を辿るわけです。

 企業というものは若い人が好きです。どこの会社でも中高年を切り捨てて、若者に置き換えたがっています。辞めさせるのは年齢の高い方から、採用するのはピチピチの新卒、それが日本という若者優遇社会の常識です。しかし、若者優遇であるが故に若年層が苦しめられているのもまた日本の実態であるように思われます。結局のところ、会社としては出来るだけ若い人を採りたい、中高年は幹部候補だけに絞り込みたいと、そういう思惑があるからこそ「若い内に限定される雇用」への置き換えも進むわけです。非正規雇用ならトウが立ってきたときに切り捨てるのも簡単、もっと若い人に入れ替えるのが簡単、だから企業側は非正規の割合を増やし、行政が背中を押す中で「若い内に限定される雇用」ばかりが増えて来たのではないでしょうか。

 「若い内だけ雇うことが出来る雇用形態」を企業が望んだのは、日本の雇用慣習が若者優遇だからです。だから日本の若者には雇用機会がありますが、しかるにどこの国の若者もいずれ年を取ります。その辺は日本の若者も普通は理解していますから、「若い内に限定される雇用」が幾ら増えたところで将来への希望など持てるはずがありません。そうではなく、「若くなくなっても働き続けられる仕事」をこそ増やさないと意味がないのです。若者の雇用を優先したい経営側にとって意に沿わないこととなろうとも、社会のバランスを取る上では、若者優遇を終わりにすることが必要な時期に来ているのです。

 ブラック企業を避けるためには、まず平均勤続年数を調べろと言われます。従業員の勤続年数が短いということは、すぐに辞めたくなる、あるいはすぐに辞めさせられる会社である可能性が非常に高いですから、勤続年数を指標として判断することの有効性は高いと思われます。ただ、平均勤続年数が公表されているか、もしくは採用担当者が教えてくれるかとなると甚だ心許ないわけです。じゃぁ、代わりになるものを考えましょう。平均勤続年数に準じるものとして、例えば社員の平均年齢はどうでしょうか? 面接の際に実地で会社の中を見回してみて、そこで働いている人に中高年が多ければ、おそらくその会社の平均勤続年数は長い、年を取っても働ける会社である公算が高いです。反対に働いているのが若者ばかりであるのなら要警戒です。社員の平均年齢が若い、すなわち働けるのは若い間だけ、年を取ったら辞めたくなるもしくは辞めさせられる社風であると覚悟しておく必要があります。

 頭が痛いのは、実際に就業しようとしている人からすれば明らかにダメな会社であるはずの「若い人ばっかり」の会社ほど、コンサルタントの類が語る理想を体現している辺りでしょうか。とかく無能な中高年を切って、若者に雇用機会を与えられるようにしろと叫ぶ人がいるものですが、まさに中高年には居場所のない、若い人ばかりの会社もまた少なくないのです。そして、こういう若い人ばかりの会社に就職希望者はブラック臭を感じて敬遠しているわけでもあります。辞めさせるのか辞めたくなるのかはいざ知らず、結果的にではあれ社員の平均年齢が妙に若い会社というものは少なくなく、社員が長く(=若くなくなるまで)在籍しないが故に絶えず人員補充の必要に迫られているのか採用に積極的な会社もまた珍しくありませんが、こういう会社が増えることに希望を感じる若者って、果たしてどれだけいるのでしょう?

 巷で賑わう雇用流動化論が無視する現実の一つとして、経営側の「解雇したい人」と「採用したい人」は全く異なることが挙げられます。つまり企業は中高年を解雇したがる一方、いざ採用するとなると若い人を欲しがるもので、どこかの会社から「いらない」と言われた中高年は、当然ながら他の会社からも必要とされません。解雇規制の緩みが社会の不安定化にしか繋がってこなかったのも当然です。流動化云々が成り立つのは、ある会社にとっての「クビにしたい人」が、他の会社にとっての「採用したい人」に多少なりとも重なってこそですから。

 そこでアメリカの場合を考えてみましょう。アメリカでは、日本とは反対に若い人から解雇されると言われます。どこまで徹底しているかは微妙なところかも知れませんが、JALの場合でも顕著だったように一定の年齢「以上」をリストラ対象にするなど年齢が高い方から切ろうとする日本の慣習とは逆の傾向もまた見られるわけです。これはなぜかというと、アメリカでは差別的な理由による解雇が厳しく制限されているからです。解雇自由の国であるかのごとく伝えられるアメリカですが、実は差別に関しては日本より格段に厳しく、解雇事由が差別的な要因によるものと認められた場合は解雇もまた不当なものとの判決が下され、巨額の賠償金支払いが待ち受けています。

 アメリカは言うまでもなく訴訟大国であり、なんだかんだ言って差別には敏感なお国柄です。このような社会で「差別と疑われそうな」行為は必然的に高いリスクを伴います。ですから、差別を受けやすい人は解雇しづらいのです。一定の年齢以上の人ばかりを狙って解雇しようものなら、当然のように年齢差別との疑いが向けられ、訴訟が待ち受けることになります。ゆえにアメリカ社会では「差別を受けにくい人」ほど「解雇しやすい人」になるわけです。そして「差別を受けにくい人」というのは若かったり白人であったり男性であったり健常者であったり、要するに就職強者でもあります。「差別を受けにくい人」とは採用に当たっても差別を受ける恐れがない就職強者であり、だからこそ日本の中高年と違って再就職へのハードルも相対的に低く、流動化とやらが成り立つ余地も産まれてくるのです。

 もし日本でも本気で流動化云々を推し進めたいのであれば、差別的理由による解雇を厳しく禁じる必要があります。ましてや訴訟への敷居が高い日本である分だけ、公的機関が主体的に取り締まりに当たることも求められるところで、それが嫌なら流動化など最初から期待すべきではありません(まぁ、流動化云々は後付けで解雇規制緩和の方が目的なのかも知れません、雇用側優位の関係を強化することこそが、この十数年来の日本経済における「改革」ですから)。そもそも日本では労働力が大きく余っているわけで、この状態から無理に「若者へ」仕事を回そうとするとどうしたって無理が出ます。その若者のために「若い内だけ」の仕事を増やしたところで、若者は将来への希望を失うだけです。

 ならば発想を転換しましょう。だいたい「将来」に絶望している若者が少なくないとしても、「今」に困窮している若者は必ずしも多くないはずです(参考、若者は遊ばせておくべきだ)。ならば若い人ではなく、若い人を養う親世代の雇用を安定させ、親世代が定年を迎えるくらいの時期まで若者を遊ばせるなり勉強させるなりしておいて、もっと就業開始年齢を遅らせるよう対策を採っても良いのではないでしょうか。就職先は足りていないのですから、20かそこらの子供を就職戦線に駆り立てて競争を激化させる必要はありません。親世代の仕事を安定させつつ、親が定年を迎える頃合いの元・若者が就職できる環境を整えることも選択肢に含めてみましょう。高卒でも仕事に困らなかったバブル期まで、日本の大学進学率は実に低いものでした。今だって進学率はせいぜい5割で卒業する人となると4割程度ですけれど、ともあれバブル崩壊後の不況が深刻化するに伴って日本の大学進学率は急増したわけです。当然、「社会人」として仕事に就き始める年齢も上がってきました。それでもなお就職難が続くのですから、この雇用情勢に適応すべく、もっと就業開始年齢を高く考えた方が整合性のある社会の未来図が描けるように思います。

 

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いつも裏切られる革命、あるいは失敗する神々

2011-05-10 22:57:08 | 非国民通信社社説

 そこに集団ヒステリーがくわわると、事態は悪化の一途をたどった――その悪質な例としてあげられるのが、合衆国におけるマッカーシズム現象である。わたしのようにマッカーシズムが猛威をふるった1950年代に中東から合衆国にやってきて少年時代をすごした人間には、その後、このマッカーシズムから妙に陰険な知識人層が生まれてきたという思いが強いし、彼らは今日にいたるまで、内憂外患に対して危機感をあおりたいだけあおっている。この種の現象はすべて、自家中毒的に生み出された辟易する危機意識にもとづくものであり、それはまた、事故批判的分析はいうまでもなく合理的分析すらも踏みにじるような、無知蒙昧なマニ教的二元論の勝利でもあった。
                                             ――E.サイード『知識人とは何か』

 かの週刊金曜日が掲げた「原発文化人」のリストを見たとき、私の脳裏をかすめたのはマッカーシズムと赤狩りでした。そうでなくとも選挙報道などでは、○○は原発推進派、○○は原発反対派などと明確な色分けが好まれる昨今です。元より我々の社会では曖昧さは好まれず(ゆえに「日本人は曖昧だからダメだ」と常に自らを戒め続けているのでしょう)、白黒はっきり付けたがる、二元論的なものが好まれるところがあったように思いますが、その傾向は強まるばかりです(例えば「直ちに影響がない」ものを「直ちに影響がない」と説明するのは正しいことですが、しかるに日本で求められているのは影響があるのか無いのか、その明白な二元論なのです)。一方で過熱する報道やネット世論とは裏腹に発端となった原発事故そのものは意外に落ち着いており、少なくとも事故前までは反原発側の主張に一定の信頼を置いていた私にとっては「聞かされていたほど酷くはないな」と安堵すると共に拍子抜けした思いを感じる状況が続いているわけで、崩壊しているのは原発危険神話ではないかという気がします。「放射能で首都圏消滅!」みたいなことすら聞かされてきたものですが、あれはきっと、ずっとウソだったのでしょう。

 社会主義革命や、それに続く社会主義政権、社会主義国の誕生には少なからぬ実例がありますが、それが社会主義の進展に貢献したかどうかは甚だ怪しいところです。果たして社会主義国は社会主義を実現させたのでしょうか? 今となっては社会主義政権の大多数が崩壊したり、社会主義を事実上放棄している国も多いわけです。社会主義もしくは共産主義の実現にとって、相次いだ社会主義革命と社会主義国の誕生はプラスだったのか、それともマイナスだったのか、その辺を省みることは何をなすべきか、あるいは何をなすべきでないかを考える上で一つのヒントにはなるでしょう。そもそもマルクスは資本主義が発展して資本が蓄積した次の段階として共産主義を想定していたはずで、現に裕福な福祉国家でこそ部分的ではあれ共産主義的な理想は実現されているように見えます。しかるに社会主義革命は例外なく、資本の蓄積が「ない」国で起こりました。社会主義を実現させるための要件と、社会主義革命を起こすための条件とは相異なるようです。そして資本の不足する国でこそ革命が起きたのと同様に、電力供給に不足が見込まれるようになった今、日本では脱原発論が盛り上がりを見せているわけです。

 それは社会的な必然性から発生したというより、一時の熱狂から生まれた、ある種の「流行」なのかも知れません。政治家でも軽薄なポピュリストほど嬉々としてこの「流行」に加わり始めています。そして流行である以上は、ノリと勢い重視と言いますか、もう何でもありみたいになっているフシもあるわけです。反原発でさえあれば、デマもトンデモも陰謀論も怪文書も何でもあり、原発や東電を罵っておけば嘘も許される、混乱に乗じた差別や風評被害すら「正当な防衛行動」の名の下に容認されてしまう、一方で科学的根拠に沿った話をすれば御用学者と罵られ、あるいは原発文化人、原発推進派に括られてパージされるとあらば、もはや脱原発論は自浄能力を失いカルト化した、かつ空想的社会主義ならぬ空想的脱原発論によって科学的脱原発論は放逐されたとすら言えます。私にはむしろ昨今の状況は、脱原発論の深刻な劣化とエネルギー政策の退行をもたらすものでしかないように思えるのですが。

・・・・・

 当然のことながら発電所には寿命がありますから、将来的には原発を含めた既存の発電方式が、より新しく秀でた方式によって置き換えられていくであろうことは普通に想定されます。一方で、これを「今すぐ」やれと迫る人々もいるわけです。あるいは「今すぐ」可能であるかのごとく語る人も。まぁ、安全で安定した電力供給のために最良の手段を探すのではなく、ひたすらに脱原発という「目的」を追い求めるのなら、そういう論調にもなるのでしょう。世間の熱狂が背を押してくれる今こそ、最大の好機に見えているものなのかも知れません。

 しかるに、それが簡単かつ短いスパンで実現できるかのように語る人は、往々にして背信するものです。票を集めることは出来ても、有権者との約束を果たすことは出来ない――民主党への政権交代は、それを教えてくれはしなかったでしょうか? 例えば政権交代前に沖縄米軍基地の県外移設に関して、当時の民主党代表だった鳩山がどういう態度を取っていたかを思い出してください。政権交代を果たせば=民主党が政権の座に着けば、それはすぐにでも実現できるかのように語られてはいなかったでしょうか? 結果は言うまでもありません。約束を果たせず、かえって失望を呼ぶばかりでした……

 民法改正とか取り調べ可視化とか、あくまで国内レベルの問題であり予算を要しないことであれば政権与党が「本気」でさえあれば容易に実現できたはずですが、一方で米軍基地問題は相手のいる話です。仮に日本政府が本気であったとしても相手国の同意を得ないことにはどうにもならないわけで、ましてや前政権との間の取り決めもあるとなれば話が簡単に進むはずはありません。そうである以上は、難しさを認めた上で地道に進めていくしかないのですが――あたかも簡単に出来ることであるかのごとく有権者に約束し、しかる後に簡単にはできないと判断して投げ出してしまったのが実際のところです。そしてこの例は、単に鳩山の資質の問題として片付けられるべきものではないでしょう。

 まぁ、自信満々に「出来る」と言い切れるタイプの方が、どこでも好まれるものなのかも知れません。就職活動だってそうです。「それは難しいですので、善処はしますが結果については保証できかねます」みたいな受け答えは、それが真実であっても許されないですから。加えて「簡単にできる」かのように語れば「現政権は簡単にできるはずのことすらやろうとしない(or前政権は簡単に出来るはずのことをやってこなかった)」として、一層の攻撃を加えられるというものです。逆に難しさを認めてしまえば「現政権がそれを実現できないことにも同情の余地はある」みたいになりかねないですし。ともあれ米軍基地の県外移設は簡単にできることのように語られ、そして約束は見事に裏切られる結果となりました。では流行りの脱原発論はどれほどのものでしょうか? 脱原発が今すぐにでも可能と語る人々が今以上に幅を利かせることがないことを願うほかありませんが、万が一そうなってしまえば到り着く先は鳩山と同じようなものにしかならないように思います。そうして脱原発論は一時の盛り上がりを見せつつも、結局は甚大な混乱を撒き散らし、しわ寄せを受けやすい立場の弱い人を犠牲にするだけで終わるでしょう。難しさを認めた上で地道に取り組んでいくのか、それとも簡単にできると口約束して世間の歓心を買おうとするのか、どちらに意味があるかは冷静に考えて欲しいところです。

・・・・・

 顔の見えない無名の有権者達の頭はネット世論程には沸騰していないと思いますが、どこでも媚びる政治家は幅を利かせがちです。お調子者が流行に媚びだして昨今の空想的脱原発論に追従し多数派を構成するとなれば、いったい何が起こるでしょうか。脱原発は「簡単にできる」かのごとく語って票を集めたところで、おとぎ話を実現させることが10年や20年のスパンであっても難しいことは言うまでもありません(結局、電力の純輸入国に逆戻りしたドイツの例を直視すべきです)。有権者への約束は果たされることがないでしょう。そこで空手形を切った政治家が信を失うだけに止まるならば、まだ許せる範囲です。しかるに空疎なイデオロギーのために現実への対策が蔑ろにされ、経済分野で続いたことがエネルギー供給の面でも、住民の生活インフラの面でも起こってしまう可能性があります。

 例えば「電力は足りている」という虚妄に沿って、代替手段の実用化を待たずに原発の停止が続けば当然ながら電力不足という危機にさらされることになるわけです(安全で安定した電力供給を重視するなら当然、代替手段の確保が先行しなければならないはずですが、電力は足りているという「設定」によって代替手段の必要性は蔑ろにされてしまうのでしょう。脱原発を加速させるためなら何でも許されるようですから)。まぁ震災後に評価が高まったというソフトバンクのケースを鑑みれば、本業での責任を果たせずとも(被災地で電話が繋がらなくとも/電力供給に不足を生じさせても)美談さえ構築できれば世間は許すものなのかも知れません。もっとも電力会社が本業(必要なときに必要な電力を供給すること=インフラを支えること)に責任を持っているのであれば、そのような事態を避けるべく全力を尽くすでしょう。ただ、その足を行政や世論が引っ張るだけのことです。

原子力の時代終了ではなく、復活させるべき時 FT社説(フィナンシャル・タイムズ)

不幸なことに、今の原子力発電のほとんどの設備は古いままだ。なぜかというと1979年のスリーマイル島事故に続いたチェルノブイリ事故のせいで、新規原子炉の承認と建設が何年も凍結されたからだ。世界の原発施設の相当数は、20世紀半ばの防衛産業で生まれた設計に基づき20年以上前に建設されたものだ。

アレバの欧州加圧水型炉(EPR)やウェスティングハウスの軽水炉AP1000など、現在の「第3世代」原子炉は、受動冷却システムなどの安全装置を備えた設計になっている。こうした装置があれば、津波の後に福島第一原発を破壊した深刻な温度上昇をほぼ確実に防げたはずだ。

 原子力発電に変わる代替手段が短いスパンで実用化されずとも、それを誰かの利権や陰謀のせいにすることで政治家なり空想的脱原発論なりが地位を守りきる可能性は十分にあります。しかるに原発の新造には枷が掛けられる一方で新たな発電手段が現実のものとなるまでは長い月日を要することでしょう。こうした苦境の中でも電力会社が責任を果たそうとすれば、現行の老朽化した旧世代型の原発を延々と引っ張り続けることにもなりかねません。旧世代型の原発を引っ張り続けざるを得ないことで、カテゴリこそ同じ原発であろうとも設備が新しければ、あるいは設計が新しいものであれば防げたはずのリスクを今後とも抱え込むことになるわけです。加えて情緒的な理由から(「不安がある」「理解が得られない」等々)点検後の運転再開を阻まれる原発も増える中で電力会社が責任を果たそうとすれば、必然的に点検を最小限に止めようという方向にも動かざるを得なくなるでしょう。

 結局のところ問われるのは、安全で安定した電力供給のために「その時点で可能なものから」最善の発電手段を選ぶのか、あるいは何が何でも脱原発なのか、その空想的脱原発論によって生じる犠牲を「なかったこと」にすべく代替手段が実現されないのを利権なり陰謀なりのせいにして自説の正当化を図るのか、ということです。前者の立場に立つのであれば、電力供給に不足が生じようとする時期に脱原発論が急進化するのは、はっきり言ってあり得ない話です(上でも触れましたが、まず原発に代わる発電手段の確保が先に来なければなりません)。しかるに火力発電所を倍増させようなんて話はさっぱり出てきませんし、燃料確保の面で不安視されてもいる、加えて「クリーン」なイメージのある発電手段の中では最も実用化されている風力発電などでも課題は山積みで、不安定性や立地の問題もさることながら、建設時には想定していなかった低周波被害の訴えも相次いでいます(この辺も、その筋の人に言わせれば原発推進派の陰謀のようですが! 取りあえず「原発の近くに住んでみろ」とか言って得意になっている連中には風力発電機の近くに住んでみることをお勧めしたいですね)。それでも原子力に代わるエネルギーへの転換の「難しさ」を認めず、「簡単にできる」かの如き幻想に沿って非現実的な政策を振りかざして現実を蔑ろにするのなら、それは何も解決できないばかりか、原発事故などの比ではない甚大な被害を我々の社会にもたらすことでしょう。それと同時に空想的脱原発論が萎んだとしても、全ては後の祭りです。

 

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善良な市民

2011-05-01 22:58:37 | 非国民通信社社説

 戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草をくわへたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云ふ外はなかつた。しかし次手にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽ち自説(?)を撤回した。

 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。

  これは芥川龍之介が関東大震災の際に書き残したものです。芥川が皮肉を込めて「善良な市民」と呼んだ人々が震災の混乱に乗じて朝鮮人や共産主義者の虐殺に走ったことは夙に知られるところですが、関東大震災を上回る巨大地震を経た後の日本の状況はどうでしょう。朝鮮人虐殺の再現を夢見て、ここぞとばかりにネット上でデマを広めようとする動きも当初は散見されましたが、幸いにして所詮はネット上で虚しい頑張りを見せる連中が出ただけのことでした。では、「善良な市民」はいなかったのでしょうか。この「善良な市民」が単にレイシストを指すに過ぎないのであれば話は簡単です。しかるに「善良な市民」とは「善」の仮面を被っているからこそ「善良な市民」なのです。排外主義を焚きつけるための流言の拡散に失敗してネットの片隅に息を潜めているような人々ではなく、もっと大々的に活動している人々こそ「善良な市民」と呼ぶにふさわしいように思います。

 「善良な市民」とは芥川が明言したように、まず陰謀の存在を信じるものです。陰謀よりも好んで用いられるところでは、利権や既得権益云々でも良いでしょう。何はともあれ、陰謀なり利権なりの存在によって真実が隠され危機がもたらされていると、そう信じることが善良なる市民と云ふものです。付け加えるなら少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬもの、すなわち陰謀の存在を信じている人と肩を並べ、陰謀を信じている人の行動に水を差さないこと、それが善良な市民の資格と言えます。

 付け加えるなら、自らが「善」であることを信じて疑わないことも善良な市民の条件です。そして混乱に乗じて、自分たちが嫌っているもの、もしくは「悪」と考えている対象を攻撃します。ただ、それが純然たる攻撃でありながらも、あくまで自分たちの行為は「正当な防衛行動」であって、他者への加害となっている可能性を考えようとすらしないのも善良な市民の特徴と言えるでしょう。そして、こうした加害を「防衛」に置き換えるための大義名分として自らに迫り来る脅威の存在が強調されるところですが、実際のところ善良な市民の語る脅威とは思い込みに過ぎない、ただ世間一般で幅広く、「それは我々を脅かすものだ」という意識が共有されているだけだったりします。そして脅威だと思い込んでいる相手に対する「正当な防衛行動」のために善良な市民は立ち上がるわけです。

559■真実

助けてください 福島県南相馬市の 女子高校生です

(中略)

親友は今も放射能の恐怖と 戦ってます
だけどもう、諦めてました
まだ16なのに 死を覚悟してるんです じわじわと死を感じててるんです
もし助かったとしても この先放射能の恐怖と 隣り合せなんです
政治家も国家も マスコミも専門家も 原発上層部も全てが敵です 嘘つきです

(中略)

政治家はお給料でも 貯金でも叩いて助けて下さい
彼らの贅沢をやめて 被災者を生きさせて下さい

 上は、奈良県で開かれたイベントで読み上げられたという「福島の女子高生」からの手紙なんだそうです(引用元/改行が多すぎて読みづらいので少し詰め直しました)。少なからず怪文書じみたところがないでもありませんが(「女子高生」というアピールがあざとい……)、まぁ子供らしい文章と言えば子供らしい文章でもあります。「お給料でも貯金でも叩いて」「贅沢をやめて」という辺りはいかにも俗論をなぞった感があって辟易させられますけれど、子供の考えることだったらこんなものでしょう。

 「病は気から」という言葉もありますが、これは科学的にも概ね正しいと認められるところです。精神的なストレスは神経系を乱し、免疫機能を弱めるなど直接の健康不安要因ともなりますし、あるいはストレスから暴飲暴食や飲酒に喫煙など不健康な生活習慣に陥る人も出てくるわけです。夏の電力不足への対策として電力消費のピークをシフトさせるべく深夜労働の増加が予測されますが、この深夜労働が常態化すると前立腺ガンになる可能性は3.5倍、乳がんになる可能性は1.6倍、心筋梗塞になる可能性は2.8倍に増加すると言われています。これは放射線の影響など遙かに上回るものですけれど、公正を期すために付け加えれば、これは深夜労働に伴うストレスの影響を考慮に入れたデータでもあります。割に合わない深夜労働に追いやられ、昼夜の逆転した生活を強いられた結果として不健康な生活習慣を身につけてしまい、原発の近くで暮らすよりも遙かに高いリスクを負わされる、まぁストレスを甘く見てはいけないということです。

 この辺は原発関係でも普通に考えられることで、現にチェルノブイリの周辺地域でも「俺は被曝した、もうダメなんだ」と悲観して酒浸りの日々を送り、当然のことながら健康を害する人が少なくないと聞きます。「こうなったのも原発のせいだ」と糾弾の矛先を原発に向けるのは簡単ですが、ただ原発事故に遭ったからと酒に溺れなければならないというものではないはずです。もうちょっと前向きに生きる、すなわち健康的に生きることは可能であるように思われますし、それを周囲が支援することは闇雲に原発を罵ることよりもずっと、事故による被害を埋め合わせる結果に繋がるのではないでしょうか。加害者に厳罰を下そうと息巻くことばかりが問題解決の手段ではないですから。

 そこで南相馬市の「女子高校生」のことを考えてみましょう。曰く「放射能の恐怖と戦ってます」「もう諦めてました」「死を覚悟してるんです」「じわじわと死を感じててるんです」「この先放射能の恐怖と隣り合せ」…… 何もそこまで焦らねばならない状況ではないのですが、当人は本気で怯えているようで完全に諦めモードに入っています。将来的には落ち着きを取り戻し、この手紙が厨二病時代の黒歴史と化す可能性もありそうですが、一方で「自分は被曝したからもうダメだ」と勝手に悲観して自暴自棄になり、不健康な生き方に嵌る可能性もあるでしょう。そしてそうなることで、放射線の影響よりもずっと高い確率で健康は損なわれます。

 「政治家も国家もマスコミも専門家も原発上層部も全てが敵です、嘘つきです」と聞く耳を持たない様子です。ではこの「女子高校生」は、いったい誰の言葉に耳を傾けているのでしょうか。「別にそこまで悲観しなくても大丈夫ですよ」と説明する人はすべてが敵であり、嘘つきなのだそうです。その代わりに「福島はもう終わりだ、おまえ達は皆ガンになって死ぬんだ、もう助からないんだ、それもこれも原発のせいだ、東電が悪いのだ……」こういう言葉の方を真に受けているとしたら、自暴自棄になるのも当たり前なのかも知れません。でも自暴自棄になることこそ明らかなリスク要因であって、それこそ避けるべきことなのです。にも関わらず自暴自棄になる人々に向かって「おまえはガンになって死ぬんだ」「原発事故が起こったら何もかも終わりなんだ」と脅しをかけている人はいないでしょうか。こんな時、私は「善良な市民」の存在を思い出さずにはいられません。

 

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目指してる未来が違う

2011-02-25 23:29:51 | 非国民通信社社説

 とかく経済的な豊かさというものはネガティヴに語られます。世界の中で日本だけが成長を止め、貧困化が進んで久しい現在もなお「成長のツケ」だの「豊かさの弊害」といった類の言説は頻繁に、そして得意気に繰り返されてきました。経済的な豊かさは、何か他の(日本人にとって)大事なものを損ねる負の要因として位置づけられてきたわけです。経済的な豊かさよりも精神的な豊かさの方が大事だ、そういう理想を追求してきた結果として今に至るのかも知れません。この十数年来の経済停滞は、理想へと近づく過程でもあったのでしょう。

 我々の社会が経済的な豊かさを否定して精神面の豊かさを追い求める中、貧しくとも心だけは豊かな人が増えてきたように思います。つまり、実態として経済的には貧困だけれど、心は富裕層もしくは経営層である、そんな人が多いのではないでしょうか。いかに貧しくとも富裕層の心は失わない、そうして高所得者の視点もしくは経営者の立場からしか物事を見ない、心は(経済的に)豊かな人が多いわけです。ネット世論上は元より、市井の人々もまた金持ちや経営側に有利な政策を実行してくれる人々を積極的に選び取るなど、貧困化が進む中でこそ「心は豊か」な人が増えているように感じます。

 こうした傾向を「気分はエグゼクティヴ」と呼びたいと思います。つまり、どれほど貧しくとも気分だけはエグゼクティヴ、富裕層や経営者の視線を失わない人が、昨今の日本では多数派を形成しているわけです。心までは貧困層とならない、心だけはエグゼクティヴクラスであり続ける、そうした人が多いのではないかと。先日は「プラヴダ主義経済学」というエントリを上げましたが、「プラヴダ主義」とでも呼ぶほかないトンデモが受け入れられる背景には、何かにつれ世論が経営者目線に寄り添っていることも大きく影響しているはずです。経営者の立場でしか物事を考えられないからこそ、経営側の都合だけを一面的に語る言説に共感してしまう人も多いのではないでしょうか。

 日本の経済言論の特徴を一言で表すとしたら何か、実はプラヴダ主義経済学と呼ぶ代わりに、もう一つ別の候補もありました。総じて日本の経済思想とは、日本の主流派の論者が曲解しているところのマルクス主義を逆転させたものでもあるように思います。つまり、極めて階級闘争的でありつつ、資本家の立場から労働者――とりわけ正社員なり労働組合なり――を打倒すべき階級敵と見なすわけです。現に労組を敵視した不当労働行為や労組加入者を標的とした不当解雇の事例には事欠きませんし、経済系の論者は(そして気分はエグゼクティヴな賛同者も)挙って雇用の問題は雇用主ではなく労働側に責任があるかのごとく語り、正社員や労組が既得権益を手放さないから悪いのだ、学生が選り好みするか悪いのだと説いてきました。この逆転した似非マルクス主義こそ日本の経済言論における支配的なイデオロギーであり、謂わば「逆マル派」とでも呼ぶべき人々によって牛耳られていると言えそうです。

 正社員や労組を既得権益云々と呼んで敵視し、そのせいで改革が進まないと説く人は枚挙に暇がありません。そこに僅かでも真実があるというのなら、正規雇用率の低い小売や飲食業界が日本経済を牽引していてもおかしくはないですし、労組が企業ごとに細かく分割されており、それ以前に組織率が際立って低い、労組など存在しない企業が大半を占める日本こそが世界で最も改革の進んだ国家となりそうなものです。にも関わらず「改革が足りない」かのごとく語る論者の絶えることがない辺りに、いかに日本の経済言論が現実に適合しないものであるかを感じずにはいられません。

 経済的な豊かさを否定する日本は何を目指しているのでしょうか。営利企業は当然のこととして利潤を追うものです。しかるに国全体の経済のパイを増やすこと、すなわち経済成長が歓迎されない中、企業利益を伸ばす方法として選ばれたのは、労働者の取り分を会社側に移すことでした。売上を減らしてもなお、それ以上にコストを削る、人件費を中心にコストを削ることで会社の利益を増やす企業が続出しています。これは労働者を階級敵と見なす「逆マル派」にとっても、理想に近づく一歩であるのかも知れません。経済成長による企業利益の最大化よりも、階級敵の打倒=従業員の利益の最小化=人件費削減を軸にしたコストカットを優先してきたのが日本的経営というものですから。

 日本だけが世界経済の成長から完全に取り残されているのは、別に日本人が劣等だからではなく、目指している未来が違うからだと、そう考えるほかありません。経済的な豊かさには背を向け、精神的な豊かさを追い求める、その中では必然的に実利よりもイデオロギーが幅を利かせ、経済誌に載せられた「逆マル派」の空疎なプロパガンダが現実よりも優先される――このような現状を指して「プラヴダ主義経済学」と呼びたいわけですが――そうして現実に立脚「しない」政策が次々と押し通され、日本だけが停滞を続けて来たわけです。それでもイデオロギーを優先し続けるのが日本的経営なのでしょう。結果を出すことよりも、自らの正しさを証明することの方に力点が置かれているとも言えますね。

資本主義国のおとぎ話は「昔々、あるところに」で始まる
社会主義国のおとぎ話は「いつか、どこかで」で始まる。

 これはソヴェト時代のジョークですけれど、では日本の、逆マル派のおとぎ話はどうでしょうか? 現代日本のおとぎ話は「いつか、誰かが」で始まります。誰か正義のヒーローが現れて、悪い奴をやっつけてくれることを待ち望む、それこそ日本の多数派が示す民意であるように思われます。その願いを託す対象が小泉純一郎であれ小沢一郎であれ橋下徹であれ、「いつか、誰かが」悪い奴をやっつけて、それで世の中が良くなってくれることを待ちわびているという点では変わりがありません。ヒーロー役と「悪い奴」の役が異なろうとも、「いつか、誰かが」で始まることには変わりがないのです。

 そもそも労組とは何かと考えたときに、個人では立場の弱い人が「自分を守る」ために寄り集まったのが労働組合だと書いたことがあります(参考)。そしてこの労働組合は、何かにつれ敵視されがちです。たぶん「いつか、誰かが」で始まる逆マル派のおとぎ話とは、最も相容れないものなのでしょう。だって労組とは寄り集まることで「自分(たち)を」守るものですから。しかし逆マル派が期待しているのは「誰か」が助けてくれることです。自分を守るためではなく、他人のために戦ってくれてこそヒーローと考えている人にとって、自分たちを守るために戦う組織というものは悪玉に他ならないのです。

 「誰か」に期待するってことは、要するに「他人のため」の行動に期待すると言うことです。だから自己のためではなく他人のために戦ってこそヒーローとして世論の支持も集まる一方で、逆に自分自身を守ろうとしている人々は打倒すべき悪として位置づけられます。ではヒーローとして、他人のために戦う証として求められるのは何か、まず求められるのは自分自身の利益を手放すことなのかも知れません。自らの報酬を削減するなど自己犠牲を払う姿勢をアピールできれば、己のためではなく世のため人のために戦う存在として認知され、その攻撃の対象が何であろうと善意に解釈される、他人に同様の自己犠牲を強いることすら正義として扱われているようですから。その一方で自らの権利や利益を手放さない、反対に守ろうとしている人々こそが打倒すべき階級敵として扱われるわけです。その権利を手放せ、と。

 かくして貧しくとも心は豊かな、気分はエグゼクティヴな人々によって逆マル派の空疎なプロパガンダは大いに称揚され、現実ではなくイデオロギーに沿った政策が繰り返される、そうして継続される沈滞の中、人々は「いつか、誰かが」悪い奴をやっつけてくれることを信じて、自分たちを守ろうとしている人々に怨嗟の声を向け続けます。そしてグローバル化する世界が浮沈を繰り返しつつも発展する中、日本のガラパゴス化は大いに進み、類を見ない新興衰退国として、そこに住む人々は今後とも喘ぎ続けることでしょう。しかしこれは、日本人が望んだことでもあるように思われます。

 

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