非国民通信

ノーモア・コイズミ

第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達

2024-09-18 23:18:28 | 非国民通信社社説

序文はこちら

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

 第一次世界大戦の結果、ヨーロッパでは3つの多民族帝国が崩壊しました。オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、そしてロシア帝国です。まずはオスマン帝国、こちらはオスマン「トルコ」とも呼ばれることはあるものの、あくまで「オスマン家の帝国」であって、必ずしもトルコ人の支配した国家を意味するものではないとの評価が現代では一般的と言えます。また歴代の皇帝の母親はトルコ人とは限らず、トルコ人同士で婚姻を重ねていた現地人とも相応に毛色は違ったことでしょう。

 これは王族にはよくある話で「庶民」が一般に同国人同士で結婚するのとは裏腹に、王家の人間は国外の王室と婚姻関係を結ぶことが珍しくありません。結果として王族というものは得てして外国の血を引いている、庶民がその国の「純血」である一方で、高い地位にある者ほど「混血」の割合が高くなりがちです。オーストリア=ハンガリー帝国は婚姻外交で勢力を拡大してきた「ハプスブルク家の帝国」の系譜を継ぐものであり、家の起源はアルザス(現在はフランス領)と伝えられるところ、そこから様々な王室との婚姻を重ねてきたわけで、オーストリアの皇帝とオーストリアの国民とでは「血筋」が随分と違っていたと言えます。

 そしてロシアもまた同様で、皇帝と国民とではルーツが異なる、ロシア帝国の君主は国民を代表するものではありませんでした。端緒を開いたのは17世紀のピョートル1世で、積極的に外国人を登用して西洋化を推し進め、スウェーデンやポーランドを押しのけ他民族帝国としての地位を歩み出します。宮廷や軍隊には外国人が溢れロシア語よりもフランス語やドイツ語が飛び交う等々、ここからロシア皇帝の一族と外国の王族との婚姻も増加、皇位継承者の父親と母親のどちらかは外国人であることが常態化していきます。

 例えば1762年(ユリウス暦では1761年12月)に皇帝に即位したピョートル3世の場合、母親こそロシア出身(ピョートル1世の娘)でしたが父親はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン(現在はドイツ)の公であり、元は「カール」と名付けられたドイツ生まれのドイツ育ちでした。これが紆余曲折あって「ピョートル」と改名してロシアの帝位を継承するのですが、ロシアの宮廷に馴染めず外交政策面でもプロイセン贔屓が際立ったことから貴族達の反感を大いに買ったと伝えられます。

 このピョートル3世の妻は神聖ローマ帝国の出身で、やはりドイツ生まれのドイツ育ちでした。元は「ゾフィー」という名であったものの「エカチェリーナ」と改名してロシア皇帝家に嫁ぎます。夫とは裏腹にロシアに馴染む努力を欠かさなかった彼女はたちまち宮廷の支持を集め、ピョートル3世の即位から僅か6ヶ月後にはクーデターを決行、エカチェリーナ2世として帝位に就きました。生まれと育ちはドイツでも祖父はロシア皇帝だった夫とは異なり、あくまでロシアに嫁いできただけの外国人が皇帝になったわけです。

 もっともエカチェリーナ2世はピョートル1世と並び称される名君で、西は宿敵ポーランドと争いプロイセン・オーストリア・ロシアの3国でこれを分割し、南はオスマン帝国と争い現在のウクライナ東部・南部及びクリミア半島をロシア領に組み込みます。そして現代のウクライナ中央部を治めていたコサックの自治も廃止されてロシアの直接統治となりました。ここがロシアによるウクライナ支配の起点の一つでもあるのですが、それは血統の面では全くロシアと無関係な、ドイツから嫁入りしてきた皇帝によって行われた点は留意して良いのかも知れません。

 ロシア帝国の最盛期を築いたエカチェリーナ2世が崩御した後は、公的にはピョートル3世とエカチェリーナ2世の子とされるパーヴェル1世が即位します。その次世代はパーヴェル1世とプロイセン出身の妻との間に産まれたアレクサンドル1世で、アレクサンドル1世の没後は弟のニコライ1世が即位、ニコライ1世とプロイセン出身の妻との間に産まれたアレクサンドル2世、アレクサンドル2世とヘッセン大公国(これも現代はドイツ)出身の妻との間に産まれたアレクサンドル3世と続き、そしてアレクサンドル3世とデンマーク出身の妻との間に産まれたニコライ2世が、ロシアの最後の皇帝となりました。

 ピョートル3世は現代日本で言うところの「ハーフ」に該当するわけですが、エカチェリーナ2世は完全な外国出身者、そして次世代のパーヴェル1世は「1/4」(ただし実父がピョートル3世かは諸説あります)、アレクサンドル1世とニコライ1世は「1/8」、アレクサンドル2世は「1/16」、アレクサンドル3世は「1/32」、ニコライ2世に至っては「1/64」しかロシア人の血を引いてはいないことになります。往々にして海外との交流が多い王族ほど国民を代表「しない」ものですが、ロシア帝国は典型的であったと言えるでしょう。

 20世紀には混血の王族が多民族国家を統治するスタイルが廃れ、多数派を構成する民族とその代表者による「国民国家」の形成が進みます。かつてのロシア帝国の版図も例外ではなく、当時の流行でもあった「民族自決」の理念に沿って諸々の国家が誕生しました。一方で旧ロシア帝国領内の諸共和国の上には共産党が牛耳る評議会があり、これは奇しくも多民族帝国的な統治と似たところがある、民族自決や国民国家の理念を認めつつも、帝国に代わる新たなイデオロギー(共産主義)による多民族の統合を目指すものであったと考えられます。

 政治的な意図を持った解説の場合、ソ連とは「ロシアが」他の14の共和国を支配していたように描かれがちです。しかし実態は「共産党が」「ロシアを含む15の共和国と」「少数民族の自治共和国・自治管区を」統制するものでした。確かに共産党幹部はロシア人が多数派を占めてこそいたものの、アルメニアのミコヤン、グルジアのオルジョニキーゼ、ウクライナ出身で祖国の農業集団化を主導したカガノヴィチ、オデッサ(現ウクライナ)でユダヤ人家庭に生まれたトロツキー、ミンスク(現ベラルーシ)でポーランド貴族の家に生まれたジェルジンスキーなど、ソヴィエト連邦を建設した主要メンバーの出身は多種多様なものがあったわけです。

 そしてソ連の初代の指導者こそロシア人であるレーニンでしたが、その後はグルジア人のスターリン、ウクライナ人のフルシチョフ、ブレジネフと続きます。この3人がトップに君臨した期間は1924年から1982年までの58年、ソ連の歴史が1922年から1991年までの僅か69年であることを思えば、あくまで共産党による支配であってロシアによる支配とは言いがたいことが明らかです。ソ連時代に起こったことの責任をロシアに負わせたがる人は目立ちますが、ソ連はロシアだけで構成されていたわけでもなくロシア人が最高権力者であったとも限らない、と言うことは留意しておくべきでしょう。

 2022年にロシア軍による直接介入が始まると、俄に「ホロドモール」とおまじないを唱える人々が現れるようになりました。これはソ連時代に農業集団化の過程で発生した飢饉の内、特にウクライナで起こったものを指すもので、ロシアからウクライナに対する加害として描写されることが多いものです。ただ当時のソ連の指導者はグルジア人のスターリンであり、ロシア人ではありませんでした。民意によって選出された為政者の行いであれば国民の責も重いですが、スターリンは暴力革命と粛正で権力の座に上り詰めた人間です。スターリンを「独裁者」と呼ぶのであれば尚更のこと、「ロシア」にばかり一元的に責を求めるのは少なからず強引にも見えます。

 元より農業集団化はソ連全土で行われたものであり、ウクライナを狙い撃ちにしたものではありません。ただロシアやベラルーシとは異なり、ウクライナが突出して「上手くいかなかった」結果として飢饉は深刻化しました。そしてウクライナの農業集団化を指導したのは上述のカガノヴィチ、正真正銘のウクライナ人です。ソ連の国際的な地位はロシアが継承しているだけに負うべきものがロシアに多く求められるのは一理あるのかも知れません。しかしソ連を構成していた諸々の国もまたソ連の一員であり、ウクライナもまた多くの共産党幹部を輩出してきた事実がある、ならばソ連の功罪の「罪」の部分は決してロシアだけに押しつけるのではなく、自国の一部としても引き受ける意識が求められるのではと私は考えます。

・・・・・

 最後に少し蛇足かも知れませんが、理解を深めるためロシア帝国とソ連の状況を大日本帝国に置き換えてみましょう。もし日本の天皇家が皇后を常に国外の王室から迎えていた場合を考えてみてください。天皇の母親はいずれも清朝やシャム王室(タイ)、阮朝(ベトナム)の出身であり、よくよく考えてみると天皇家に「日本」の「血統」は僅かにしか流れていないことになる、そうなるともはや「国民の象徴」と呼ぶのが難しくなりそうです。しかしロシア帝国の皇帝とは、そういう血統の人間でした。史実での大日本帝国は間違いなく日本人の支配した帝国でしたが、ロシア帝国は少し違うことが分かると思います。

 そして大日本帝国で革命が勃発して天皇制が廃止され、「日本国」「朝鮮国」「台湾国」「満州国」及び「琉球自治州」「蝦夷自治州」などから構成される「大東亜共栄連邦」が出来上がったとします。この中で権力闘争に勝利し独裁者の地位を手にしたのが満州人であったり、その後は朝鮮人が最高指導者に2代続いて就いたりした場合を考えてみてください。そんな「大東亜共栄連邦」で何かしら惨事が発生したとして、いったいどこの国の責任になるのでしょうか?

 史実での大東亜共栄圏は純然たる日本人の支配でしたが、ソヴィエト連邦の支配者はロシア人とは限らず、時にグルジア人であったりウクライナ人であったりしたわけです。国連安保理の常任理事国の座などソ連の国際的な地位はロシアが継承していますので、その責任もまた引き継ぐ道理はあるのかも知れません。しかしそれだけで済むのかどうか、やはり共産党幹部を輩出してきたロシア以外の連邦構成国、とりわけ2代続けて最高指導者を生んだウクライナは立派な共犯者と見なしうるものです。しかるに旧ソ連構成国は軒並みソ連時代の負の側面から都合良く自国を切り離そうとしてきた等々、こうした点も踏まえて次章ではロシア・ウクライナ以外のソ連邦構成国の独立後にも少し触れてみたいと思います。

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特集:ロシアとウクライナを巡る基礎知識、現在に至るまでの経緯

2024-09-11 23:40:38 | 非国民通信社社説

序文

 折に触れ言及してきたことですが、ガザで起こっていることを日本国内の主要メディアは軒並み「イスラム組織ハマスによる奇襲攻撃を受け~」と伝えてきました。これでは戦端を開いたのがパレスチナ側であるかのように見えてしまいます。ただ、それも報道の狙いではあるのでしょう。現実にはイスラエル建国以来の度重なる侵略の中でハマスによる反撃がたまたま成功しただけに過ぎないのですが、こうした過去からの経緯を「敢えて伝えない」ことで我が国の世論はコントロールされてきたと言えます。

 他にもイランとアメリカの対立について、やはり主だったメディアはイラン革命から説明を始めることが一般的です。しかしイラン革命に先立って海外資本による収奪があり、それを転換しようとしたモサデク政権に対するアメリカ主導のクーデターがあった、革命による親米傀儡政権の打倒は理由なく起こったものでは決してなく、そこに至るまでは当然の経緯があったと言えます。他にキューバ、ニカラグア、ベネズエラ等々、「反米」とされる政権も然り、今に至るまでの歴史が我が国で語られることは稀ですが、決して故なくして現在があるものではありません。

 そしてウクライナではロシアとNATOの勢力争いが続いていますが、これも2022年から始まったかのごとくに語られるのが専らです。しかし当然ながらこの戦争にも前史はあるわけで、ただ一方の側に不都合であるために黙殺されているだけ、と言えます。ロシア軍の直接介入に至るまでの事情を知れば、一概にロシア側を批判できない、むしろ大義が認められかねない、そんな背景があるが故に敢えて無視されてきた、そうしてNATOの代理人として戦うウクライナを盲目的に応援する世論が作り上げられてきたのが実態でしょう。

 そこでロシアと現在ウクライナと呼ばれている地域に関わるところを軸に、これから数回に分け歴史を少しばかり振り返ってみようと思います。

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで
第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達
第三章:
第四章:

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第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

2024-09-11 23:36:43 | 非国民通信社社説

序文はこちら

 現在のロシアに至る「ルーシ」国家の始まりは、9世紀のノヴゴロド建設に遡るとされます。建国者「リューリク」については半ば伝説の入り交じるところではあるものの、その次世代の頃には勢力を南へと広げ、やがては現在のウクライナの首都であるキエフが中心となりました。この時代の国家は「キエフ・ルーシ」や「キエフ大公国」等と呼ばれるもので、大まかな版図は以下の通りです。


出典:世界の歴史まっぷ - 東スラヴ人の動向

 ここで覚えておくべきは、キエフ・ルーシの支配域が現代で言うウクライナの中央部としか重なっていない、東部や南部、クリミア半島はキエフ大公国の版図からは外れていることでしょうか。当時の黒海沿岸部は希少なユダヤ教の国家としても知られるハザール汗国の影響力が強く、東ローマ帝国とクリミア半島を巡って争ったとも伝えられています。このハザール汗国はキエフ大公国によって崩壊に追い込まれるのですが、いずれの周辺国家にとっても黒海沿岸部は、まだまだ辺境の地でした。

 大きく勢力図が変わったのは13世紀で、タタール(モンゴル人)の遠征が始まります。この頃には分裂の進んでいたキエフ・ルーシは為す術なく敗北、後のロシア・ウクライナのほぼ全域がタタールの支配を受けることになりました。このモンゴル人の帝国による支配はおよそ200年余り続いたものの次第に衰え、15世紀にはモスクワを中心にルーシ勢力が再興を果たし、現代のロシアに至る流れが始まります。


出典:世界の歴史まっぷ - 東スラヴ人の動向

 しかしながらモスクワが勢力を盛り返した頃には、かつてルーシの中心だったキエフ周辺域はタタールに代わってリトアニアの支配を受けていました。リトアニアは後にポーランドと同君連合を結成し、現代のウクライナ西部と中央部は長らくポーランドの統治下に置かれるのですが、この結果としてかつては同族であった「ルーシ」にもモスクワを中心とした国家=後のロシアと、ポーランドの領土の一部であった後のウクライナで文化的な隔たりが広がっていったと言えます。

 そして後のウクライナ中央部であるキエフ周辺域はロシア側から「小ロシア」と呼ばれるようになります。これは古代ギリシャが本土を「小ヘラス」、拡張した後の地域を「大ヘラス」と呼んだことに因むとされ、すなわち小ロシア地域はルーシの発祥の地であり、ルーシの発展した姿であるロシアの故地と主張するものでした。必然的に小ロシア地域を支配するポーランドと、その回復を狙うロシアとの間で駆け引きが生まれることになるわけです。

 当初はポーランドの方が優勢だったものの、徐々にロシアは強大化して両国のパワーバランスも変わっていきます。そして17世紀にはウクライナの在地武装勢力(コサック)を率いるボグダン・フメリニツキーがロシアの支援を受けてポーランドに反乱を起こし、勝利を収めました。結果として小ロシア地域にはコサック棟梁による一定の自治を認められた国家が形成され、これがウクライナ国家の始まりとも見なされています。ただ後代にはポーランドによる巻き返しとロシアによる再征服、ポーランドから送り込まれたコサック棟梁によるロシアへの反乱もあって次第に自治権は縮小され、18世紀にはロシアの行政区の一つに落ち着きました。


出典:Wikipedia - ボグダン・フメリニツキー

 現代のウクライナ中央部についてはポーランド支配からロシアの支配へと移り変わっていったのですが、では東部・南部はというとタタールの支配下に置かれた状態が長く続き、これが衰退した後はオスマン帝国の庇護下に入ります。そして18世紀にはロシアが南下政策を開始、オスマン帝国と争い黒海沿岸部やクリミア半島を奪取し、ロシア人による植民が行われるようになりました。このタタールとオスマン帝国を追い出してロシアが植民していった地域は「ノヴォロシア(新ロシア)」と呼ばれています。

 そして時は流れて20世紀、帝政が崩壊すると革命の混乱に乗じてロシア帝国内では反乱や独立運動が相次ぎます。キエフを中心とする小ロシア地域では民族派の勢力が割拠、ドイツの支援を受けてロシアからの離反を目指すようになるわけです。これに対抗したのが上述のノヴォロシアを地盤とするボリシェヴィキの勢力で、ハリコフやオデッサを拠点にキエフの分離派と争います。当初はキエフ側が優位であったものの後ろ盾となっていたドイツが第一次世界大戦に敗北すると形勢は逆転、最後はボリシェヴィキが勝利しました。

 この結果として、キエフを中心とした小ロシア地域と、東部・南部のノヴォロシア地域を合わせた広大な「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」が成立します。そして第二次世界大戦の後の国境策定でポーランドやハンガリー、スロヴァキアの国境をスライドさせる形でウクライナの国境は西部に拡張、さらにロシア内の自治共和国であったクリミアは「基幹民族」と位置づけられていたタタール人が戦時下の対独協力を問われて追放⇒自治共和国から州に格下げされた挙句、1954年にはフルシチョフの半ば独断でウクライナへの移管が強行されました。こうして現代に至るウクライナが完成したわけです。

 まとめとして、現代のウクライナは以下の4つの由来を持つ地域に分類することが出来ます。

①小ロシア:ウクライナの中央部、キエフ周辺域
後のロシアである「ルーシ」の始まりの地
一方でポーランド支配やコサックによる自治など、ロシアとは異なる歴史も併せ持つ地域

②ノヴォロシア:ウクライナの東部・南部(ドネツクやオデッサなど)
ロシアがタタールやオスマン帝国を斥けて入植した地域、ロシア側に帰属意識を持つ住民も多い地域

③ウクライナ西部(リヴォフ、ザカルパッチャなど)
第二次大戦の結果として、ポーランドなど東欧諸国の国境をスライドさせてウクライナ領に組み込んだもの

④クリミア
ノヴォロシアと同様にロシアがタタールやオスマン帝国を斥けて入植した地域
当時のソ連書記長であったフルシチョフが反対を押し切ってウクライナに移管させたもの

 「領土」という観点においてウクライナはソヴィエト体制の最大の受益者ということができますが、それだけに国内に多様な住民を抱え込む形になりました。ソ連時代に広大な領土を獲得した、その分だけ国内をまとめ上げるには労力も必要になるのは当然の帰結です。しかしながらソ連崩壊後の独立したウクライナは経済の低迷と人口流出に何ら有効な手を打つことが出来ず、衰退の一途にありました。そんな中で為政者は内政の問題から国民の目を反らすべくナショナリズムに訴えるようになりますが、上述の通りウクライナは異なる成り立ちを持った地域の集合体であり、単一民族神話による統合には全く適していません。結果はご覧の有様でロシアとNATOの争いに自国を戦場として提供する状態に陥っているところ、この「独立後」の詳細については別の章にて改めて解説していきたいと思います。

 

第二章はこちら

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コミュニケーション能力云々の補足

2013-11-10 22:45:54 | 非国民通信社社説

 職場になかなか強烈な「かまってちゃん」がいまして、オトモダチのそばを通る度に毎回、周りに聞こえるようにわざとらしくため息を吐いていくのです。邪魔だからヨソでやってくれないかな、と思うところでもありますが、まぁ他人がとやかく言うことでもないのでしょうか。で、昨今は猛烈に臭い柔軟剤が流行っているわけです。高残香タイプだか強残香タイプだか、製品によっては「ナワバリをもっと主張したい香りをもっと楽しみたい時は好みに合わせて使用量を増やして」 とか書かれているのもあるとのこと。そこで我らがかまってちゃんは、半年ほど前から激烈に柔軟剤を臭わせるようになりました。花粉症で鼻の調子が悪くても半径10m以内にかまってちゃんが近づけば、強烈な臭気で居場所が分かるようになりました。とりあえず私は、かまってちゃんが近づいたら空気清浄機を「強」にして「ちゃんと気づいていますよ」とサインを送ってあげているのですが、どうにも向こうに気づかれていないようです。

 少し前に、コミュニケーション能力とはなんぞやみたいな話を書きました。話のとっかかりとして、まずは「自信家とはなんぞや」と。結果を出しているときには自信を持てるけれど、結果が出ないときに自信を失ってしまうようでは自信家とは言えない、根拠などなくとも自信を持てるのが真の自信家である――そこからコミュニケーション能力を考えると、興味深い話題が上がっているときには話の輪に入って行けたとしても、どうでも良いような話には加われない、これではコミュニケーション能力があるとは言えない、そうではなく「内容のない話でも盛り上がれる」のが真のコミュニケーション能力強者であろうと、そんな風に書いたわけです。

参考、コミュニケーション能力の高い人、とは

 この辺の補足としまして「内容のない~」とはなんぞや、と考えてみましょう。ある人にとっては内容のない話でも、その話の輪の中にいる人にとっては違うのではと、そういう想定もあると思います。では何をもって「内容のない~」と捉えればいいのか、それは「一過性の流行」のごときものと考えると筋が通りやすいかも知れません。つまり世間の人々を少なからず追随させて止まない流行が巻き起こる一方で、あれだけ流行っていたはずのものが、いつの間にやら人々の記憶からすっかり忘れ去られてしまう、そういうことも多いはずです。内容のない云々とは、そういうものではないかと。

 そこで冒頭に挙げました、臭い柔軟剤です。世の中にはワキガの臭いが好きな人だっていますし、世界に目を向ければ納豆の臭いはおろか米を炊く臭いだって悪臭と感じる人の方が多いくらい、まぁ臭いの好みは人それぞれですけれど、流行の柔軟剤をガンガン臭わせている人の内、本当にあの臭いが好きで付けている人ってどれくらいいるのでしょう。柔軟剤の臭いの強さに気分が悪くなると訴える人も多いと伝えられていますけれど、ブームが去ったら「たまごっち」や「ナタデココ」のように急速に忘れられていくような気がしないでもありません。臭いが好きと言うより「流行そのもの」が好きな人も多いと思います。

 流行のファッションは、「モテないタイプの異性」からは総じて不評と言えるでしょうか。まぁ、本当に誰が――ちょっと変わった性癖の持ち主以外の誰が――見てもカッコイイものは時代の変遷にも耐えるもの、一過性の流行とはやはり「内容がない」故に一過性であり、それは「モテないタイプの異性」からは冷ややかな目で見られる運命を背負っているのだと思います。じゃぁ、モテないタイプではなく、異性にモテるタイプならどうなのか、ここでモテるタイプの人間は「流行に合わせる」という一種の「コミュニケーション能力」を発揮できる、そこが「モテ」と「非モテ」を分ける一要素になっているのではないかと、私は考えるわけです。

 流行が過ぎれば、その流行に浸かっていた人からさえ過去の遺物として切り捨てられてしまうような、そんな一過性の――言うなれば使い捨ての――流行があって、そんな虚しい流行のファッションには初めから関わろうともしない、「内容のあるものしか」評価しない/できない人もいます、一方で内容がなかろうとも「流行していることそのもの」に価値を見出す人もいるはずです。ここでコミュニケーション能力があるのは、いわゆる「モテ」に属するのはどちらでしょうか? いかに空疎なものであろうとも、流行に「乗れる」のは一種の能力であり、それは内容のない話でも盛り上がれる能力と同質の、コミュニケーション能力を測る指針であろうと思います。

参考、自分に鑑みるとこう思う

 以前にも軽く触れましたが、どこかで「(女性が男と)付き合うなら茶髪の男を選んでおけばハズレは少ない」みたいな話を見かけたわけです。少し昔の話ですけれど、今もそんなに変わらないような気がします。つまり茶髪が流行っている時代なら、茶髪の子を選んで置いた方が無難だと。茶髪の子の方が「周りに合わせる意識」が高い、付き合う相手に調子を合わせてくれる期待値が高い一方で、黒髪の子の方が「我が強い」もしくは「周りに合わせるのを面倒くさがる」傾向が強いだろうと考えられます。会社の採用でも「元は茶髪で、就職活動に合わせて黒髪に戻した」ぐらいの子が、最も「周りに合わせるタイプ」として面接官のウケも良かったのではないでしょうか。

 まぁ髪の色なんて一見するとどうでも良い、無価値なことですけれど、こういう無価値すなわち内容のない部分でこそ「周りに合わせる能力」が問われるケースも多いように思います。つまりこれもまたコミュニケーション能力の一つの指標であろう、と。会社で唱えられるお題目なんて、だいたいが下らないものばっかりです。本当に夢と意義のあるプロジェクトであれば、コミュニケーション能力不足の人だって付いてくることでしょう。しかし偉い人の思いつきに過ぎないゴミみたいな目標にも適応できる人材が必要であるのならば、「内容がなくとも盛り上がれる」「周りに合わせる能力が高い」人が求められるわけで、そういう点では昨今のコミュニケーション能力一辺倒の評価基準は変なところで整合性がとれているのかも知れません。

 

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コミュニケーション能力の高い人、とは

2013-10-25 00:24:47 | 非国民通信社社説

 ニクラス・ベントナーというサッカー選手がいます。数年前までは期待の若手として注目されていた選手でもあるのですが、年齢的に中堅へとさしかかった現在、彼はワールドクラスの自信家として知られています。「ベントナーの凄いところは、どれほどゴールを外しても自信を失わないことだ」と賞賛され、チームドクターの語るところでは心理テストの自信を問う項目で「測定不能」を記録した、まさに規格外のタレントです。ガーディアン紙のインタビューでも「なぜそんなに自信を持てるのかって? 簡単なことだよ。俺は良い選手だからね。」と答えてファンの度肝を抜きました。

 残念ながら近年は出場機会を減らすばかりでゴールからも遠ざかり、所属クラブからも放出候補に挙げられている選手だったりします。ここで並みの選手であれば、出場機会を求めて中堅以下のクラブへと移籍先を探すところ、しかし彼の自己評価には微塵も揺るぎはなく、ベントナー獲得に手を挙げたクラブはいずれも条件面で合意に至らず、移籍の成立しないまま年月が経過しているわけです。「この選手を評価する人がいるとすれば、それは本人だけ」と語られながらも決して自分への評価は下げない、格下のクラブへの移籍は受けない、年俸が下がるような移籍は拒絶する、まさに鋼の意思を持ったアスリートと言えるでしょう。

 試合で活躍を続けている間は自分に自信を持っていようとも、満足にプレーできなくなったり出場機会を減らしてしまうと自信をも失ってしまう、そんな選手を自信家と呼べるでしょうか。好成績を上げているときに自信を持てるのは当たり前です。その程度では到底、自信家とは呼べません。根拠があれば自信を持てるのは当たり前、自信が問われるのは結果が出ないときこそです。ベントナーのようにゴールを外し続けてもベンチにすら入れずクラブから戦力外扱いされても、己への自信を決して失わない、根拠はなくとも自信を持てる、それが本物の自信家というものです。

 そこで問いたいのは、日本社会において最も重要視されている「コミュニケーション能力」についてです。業種の如何に寄らず要求されるコミュニケーション能力って、いったいなんなのでしょうか? ポイントの一つは「内容が無い話でも盛り上がれる」ということではないかと、私は思います。フットボール界随一の自信家であるベントナーは自信を持つのに理由を必要としません。それと同じようにコミュニケーション能力の強者は「盛り上がるために話の内容を必要としない」、そういうものなのだと説明できます。

 「箸が転んでもおかしい(年頃)」なんて言い回しがありますけれど、これぞまさしくコミュニケーション能力が問われる場面であるように思います。つまり箸が転んだレベルの退屈な話題でも大いに盛り上がれる人もいれば、「こいつらの話は、本当につまらん」と輪に入れない人もいるはずです。そして両者を分けるのがコミュニケーション能力である、と。自分が活躍しているときに自信を持てるのが当たり前であるように、興味深い話題が語られているときに盛り上がることができるのは当たり前のことです。しかし偽物の自信家は結果を出せないと自信を失ってしまうように、コミュニケーション能力弱者は内容のない話題には加わることができないわけです。

 真の自信家は根拠などなくとも自信を持つことができます。そしてコミュニケーション能力の高い人は仲間内どころか大して親しくもない人と盛り上がるのにさえ内容を必要としません。すなわちコミュニケーション能力とは、燃料などなくとも自家発電を続けられる、話の内容を必要としない能力なのだと言えます。逆に言えば、常に内容を必要とする人は遠からずコミュニケーション能力不足として就業機会などから排除されることもあるはずです。「今」の時点では、自分は別にコミュニケーション能力弱者ではないと、そう考えている人もいることでしょう。かつての私もそうでした。しかし……

 ともすると友人にも不足はない、周囲の人間関係にも問題はなさそうに見えても、その実は脆いケースがあるように思います。たまたま周りに同好の士や、同じ志向を持った人がいるだけ、噛み合う相手がいるだけということもあるわけです。同じ趣味を持ったオタク同士では盛り上がれる人、同じテーマを研究する学生/院生仲間では会話が絶えない人、あるいは応援するスポーツチームなり(色々な意味での)信仰の対象なりを同じくする人の間では円滑にコミュニケーションをとれている人は多いでしょう。しかし、この「相通じる点」が失われたときはどうなのか、そこで「能力」が問われると言えます。

 ゲーマー仲間では話の輪の中心にいたり、研究室の中では盛んに意見を交わしたり、タイガースを応援するときにはともに声を嗄らしたりと、まぁ周囲に内容のある会話ができる人が揃っている間は、自身のコミュニケーション能力の不足に気づかない人が多いのではないでしょうか。近年、「大人の発達障害」が注目されるようになりました。高校や大学までは何ら問題のなかった人が、会社勤めをするようになって初めて「障害」が発覚するケースも少なくないそうです。コミュニケーション能力の欠如もまた然り、高校や大学までは友達が多かったのが会社社会では話の輪に加われない、そんな人もいるのではないでしょうかね。

参考、カッコーの巣の上へ

 内容のある会話しかできない、というのはコミュニケーション能力不足――就業機会を大きく左右する、ある種の障害の予兆と言えます。同好の士の間では中心的人物であろうとも、場面が異なると途端に沈んでしまう人もいるはずです。内容がなくとも盛り上がれるコミュニケーション能力強者と、盛り上がるためには内容が必要なコミュニケーション能力弱者がいるわけです。まぁ自分がそのどちらかと早めに気づいたところで何か対策が取れるはずもなく、せいぜいが「覚悟を決めておく」ことぐらいでしょうか。中身のあることだけを話していられれば楽だと私などは思うところですが、我々の社会で望まれているのは違いますから。

 

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「普通」の働き方

2013-05-17 22:42:43 | 非国民通信社社説

 「有徴」と「無徴」という言葉があります。ジェンダーの文脈とかで耳にすることが割と多いでしょうか。平たく言えば「留保あり」と「留保なし」ぐらいのニュアンスで、例えば「医師」と「女医」であれば前者が「無徴」で後者が「有徴」、「棋士」と「女流棋士」とかも同様ですね。要するに留保を付けずに語られる「普通」のものとして「無徴」があり、逆に留保を付けて語られる「イレギュラーなもの、付随的なもの」として「有徴」があるとも言えます。男性であれば性別を示す徴なしに呼称が作られる一方で、女性ではしばしば「女~」あるいは「女子~」と徴が付けられる、こういうところに意識されにくい格差は潜んでいるのでしょう。

 で、ちょくちょく取り上げてきましたけれど、二極化する正社員と非正規雇用の間に「職種限定正社員」、「業務限定正社員」もしくは「準正社員」などと名称はさておき中間層を作ろうという提言が出てきているわけです。これが現状を変えうるものなのかと首を傾げるところもあるのですが、ともあれ上述の「有徴」と「無徴」の概念を思い出しながら、「正社員」と「限定正社員」の位置づけを考えてみてください。一方は留保なしの「正社員」、もう片方は「~限定」なり、「準(准)」なりの留保が付けられた肩書きです。どちらが「普通」として位置づけられているのか、自ずから明らかではないでしょうか。

参考、人事権を持つ側が変わらないことには

 日本型正社員は、その「働かせ方」の柔軟性、流動性を特徴とします。原則として雇用側の望む通りの職種、部門、勤務地へと異動させることができるわけです。一方で新たに提言されている「限定正社員」の場合は職務の範囲や勤務地域が限定される、一定の範囲内に止まることが前提とされた雇用形態ということになっています。そうした雇用形態の需要は少なからずあるのですが、しかるに「限定正社員」が昔年の一般職なり現在の派遣・契約社員と大差ない扱いになる可能性は少なからず危惧されるところです。結局、年金を受け取れる年齢まで働き続けたければ、あるいは家族を養える程度の収入を望めば「留保なしの」正社員として働く以外に選択肢がない、要するに現状と大差ないことにもなるであろうと見込まれます。

 むしろ逆だな、と私は考えます。つまり「正社員」に付随するオプションとして「限定正社員」を位置づけるのではなく、職務の範囲や勤務地域が限定される「正社員」を基軸とし、その限定なしに「働かせる」ことが可能な例外として「幹部候補社員」を設けた方が、まだしも有意義であろうと思うわけです。職務の範囲や勤務地域の限定された正社員が「普通」であり、一部の仕事に生きたい人のために無限定の幹部コースというイレギュラーな勤務形態を許す、こういう位置づけにできない限り、結局のところ現状のまま無限定の正社員が「普通」で、職務や勤務地が限定される社員は付随的な存在のままであり続けるのではないでしょうか。

 正社員として採用する以上は無限定の働きを暗黙の了解とし、長らく会社に在籍しても頭角を現さなかった人には「無能な中高年」云々とレッテルを貼ってリストラの対象とする、そこでもっと簡単に解雇できるようにすれば良いのだ、解雇が許されないせいで若者の雇用機会が奪われているのだ!と息を荒くすれば経済誌っぽい主張のできあがりです。もちろん経済誌的な主張には事実の歪曲が溢れているのですが、それはさておくにしても年齢とともに会社からの評価も高めていかなければ首が危ういのであれば、「働かせ方」に最初から制限のある限定正社員の扱いなどどうなることでしょう。昔年の一般職や昨今の非正規従業員で、果たして年金を受け取れる年齢まで会社から追い出されずに済む人がいったいどれだけいるのやら。名称が準正社員云々に変わるだけで、それが変わることなど考えにくいところです。

 リストラの標的にされたくなければ限定なしの正社員として働くことが事実上の必須要件となってしまう、それを変える必要があります。そのためには「限定なし」の雇用形態の方をこそイレギュラー、有徴の側に位置づける必要があると思うのです。子供の数が多く、自営業や一次産業の家に生まれた子が会社勤めに流入してくるような時代であれば、「若い部下」の数が相対的に多くなる、年長世代には軒並み管理職としての役割が期待されたかも知れません。しかし少子化が進み、女性社員も昔ほどには若い内に退職しなくなった現代において、「若い部下」の数は減るばかり、年長世代が率いるべき後進の頭数も減るばかりです。ならば管理職になる必要はなくなった、幹部を目指して働く人は一握りで足りるようになったのが現代ではないでしょうか。

 将来的に無限定の社員は「一部の例外」でも足りるはずです。仕事を人生としたい一部の例外を「幹部候補社員」として採用し、その他を「普通の社員」として職務や勤務地限定で雇ったとしても十分に組織は成り立つと考えられます。逆ピラミッド型の世代構成の中でも部下を率いる立場となる一部の例外だけを無限定の社員(現代日本における正社員)として残し、それ以外の多数を今後の「正社員」として雇用の中核に位置づける、そういうプランで進めた方が現状の二極化に中間層を作るという点では効果的ではないかと思うわけです。(なお昨今の流行である英語力に関しても近いことが言える気がします。海外市場を切り開く一部の人には必要ですが……)

 新卒で採用する男性正社員(女性でも総合職採用)を等し並みに将来の管理職候補として扱うことは人口ピラミッド的にもはや成り立ちません。ここで会社からの評価が芳しくない(管理職としてふさわしくない)中高年をリストラして人為的にピラミッドを作れるようにしよう、というのが日本の経済誌やコンサルタント界隈における主流の考え方でしょうか。もちろん、それをやっては「働けるのは若い内だけ」になりかねない、会社の取り分は増えても社会全体で見ると不安定化が進むばかりと、このような事態こそ行政が断固として阻止せねばならないものと言えます。

 出世を望まない若者が増えてきているとも、しばしば語られるところです。新卒採用の時点では出世意欲も高かったはずが、入社後は急激に「出世したい」とアンケートに回答する人が減っていくようですね。草食化云々とも語られますけれど、むしろ時代への適応とみるべきでしょう。自分より年下の人間の方が少なくなる時代なのですから、率いるべき後進の数も然り、誰もが出世したら管理職の人数が部下の数を上回ってしまいます。そういう時代に出世を望まない、出世できなくても不満を抱かないであろう若者が増えているのは、まさに時代への適応に他なりません。雇われる側の心の準備はできているのです。しかるに雇う側、働かせる側は? この時代にも尚、正社員として採用する以上は無限定で昇進を目指して働かせるとあらば、時代錯誤としか言い様がないわけです。限定された範囲で「年金受給年齢まで、ほどほどに働き続ける」ことを認めなければ成り立たない時代は、既に訪れているのではないでしょうか。

 

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「一票の格差是正」につきまとうもの

2012-11-07 23:00:12 | 非国民通信社社説

 物事を単純化すると「善悪」がはっきりして見えるものです。裏を返せば、単純化のために「その他」の要素を無視しているからこそ「善悪」がはっきり見えてしまうとも言えるでしょうか。そして白か黒かの二元論の世界に押し込められてしまえば簡単に見える話も、実際は諸々の付随する要素があって決して単純には語れないものだったりします。例えば顕著なのが原発問題で、単純に原発稼働にリスクがあるかないか、そういうレベルで物事を考えることができれば結論を出すのは容易です。しかし現実とはシンプルな二元論では対応できない代物でもあります。リスクがあると言ってもどの程度か、原発を稼働「させない」ことによって生じうるリスクはどうなのか等々、総合的に対処しなければなりません。

 あるいは混合診療の問題はどうでしょう。全額患者負担の自由診療と保険が適用される保険診療とがある中、保険が利く範囲は保険で、利かない範囲は自由診療でと両者を併用して請求することは現行の法律では禁じられています。保険外の自由診療を行えば、保険適用範囲内の医療行為が含まれていても全額患者負担になってしまうのです。そこで混合診療を解禁すべしとの意見もあって、まぁ単純に「これだけ」を考えるなら患者側の選択肢を増やすものと歓迎されても良さそうに見えるのではないでしょうか。必ずしも適用範囲の広くない保険治療か、それとも高額な自由診療かの二者択一より、必要に応じて両者を組み合わせることができれば患者側の利益になる、と。

 ところが結構な反対意見もあるもので、とりわけ医療関係者には否定的な見解を占める人が目立つところ、どうにも混合診療の解禁によって「保険診療の領域が縮小される」「国民皆保険が危うくなる」などの可能性を懸念して反対の立場を取る人が多いようです。確かに、公的支出に占める医療費の削減に繋がると称して混合診療解禁を説く論者もいるなど、混合診療を保健医療の縮小に繋げようとの思惑を隠せていない人も散見されるわけで、この辺も併せて考えると混合診療の解禁が患者の利益に繋がるかどうか訝しくも思えてきます。

 そして今回の本題として挙げたいのが「一票の格差」問題です。これまた単純化すれば、直ちに是正されるべき悪として議論の余地はないように見えることでしょう。一票の格差が2倍や3倍に止まらないレベルで存在する、それが良いことか悪いことかと問われれば、迷う余地などなさそうです。しかし、この問題もまた一票の格差「だけ」では済まされないところがあるはずです。混合診療の解禁に保険診療縮小の影がつきまとうように、一票の格差是正にもまた付き物と呼べる存在があるのではないでしょうか。

 当初、民主党政権が一票の格差是正のためにも有効と言い出したのは「比例定数80削減」でした。今なお民主党が拘るのは「40削減」ですし、相対的にはマイルドな自民党などとの折衷案にしたところで「0増5減」となっています。どうにも一票の格差を是正する過程で議員定数も減らしてしまおうという思惑を、程度の差はあれ現政権や次回選挙で与党になるであろうと予測される党は共有しているようです。違憲と裁判所の判決が下されるほど一方の格差が大きくなってしまった中では当然のこととして是正が迫られる、しかしその是正のために議員定数が削減される可能性が高いわけです。日本は人口に比して議員の少ない国ですが、その「少なさ」を問題にする人は珍しいのでしょうか。今以上に議員が減らされるのであれば一票の格差是正には反対する、そういう立場の人がいたって良さそうに思うのですけれど。

 

 何であれ格差が存在するからには、格差の「上」にいる人々と「下」にいる人々へと必然的に分かれるわけです。そして一般的に格差是正は「下」の人からの支持を集めるものでもあります。もちろん経済的な格差是正については「下」からの反発が必ずしも弱くないところですが、そうした人々ほど別の面で(実態を伴わない被害妄想ではあるにせよ世代間格差や官民の給与格差などの)格差意識を持っている、格差の「上」にいる奴らを懲らしめよと「下」の意識を持つ人々が主張してきたと言えます。では一票の格差の場合はどうなのでしょう?

 一票の格差の「下」にいる有権者が存在すれば、当然ながら鏡像のごとく一票の格差で「上」となる有権者もまた存在することになります。そして一票の格差を是正すべしと言う声は決して弱くない、行政の補佐が基本スタンスのはずの最高裁ですら違憲判決を下すほどですが、このような状況を一票の格差の「上」にいる人々はどう感じているのでしょうか。しばしば格差是正論は格差の「下」にいる人へと呼びかけられる中、一票の格差是正もまた例外ではありません。確かに格差の「下」にいることによって「損」をしていると感じる人もいるはず、こうした人々に格差是正を訴えては賛同を得る、これは容易なことです。しかし反面では格差の「上」に立つ人もいる、では「上」の人にどう向き合うのかもまた問われるように思います。

 基本的に一票の格差で「下」になるのは人口の多い都市部であり、逆に「上」となるのは人口の少ない地方です。ここで一票の格差を是正するとなると、人口の少ない地方から選出される議員を減らして、人口の多い都市部から選出される議員を増やすという形になります(ただし現政府案では前者のみ)。確かに是正には違いありませんが、今まで以上に地方の声が国政の中央に届きにくくなるであろうこともまた考慮されるべきではないでしょうか。地域主権だの地方分権だのと喧しい中、東京などの元から中央に存在する地域から選出される議員の割合が増えるというのも時代に逆行した話に見えます。

 昔年の自民党には「地元に利益を引っ張ってくる」タイプの議員が結構いたものです。これは「自民党をぶっ壊す」と称した小泉純一郎が、その後継者である民主党がともに「既得権益」「古い自民党」などと呼んで否定したものであり、「地方に富が吸い取られる」とばかりに都市部の有権者からも嫌われてきたものです。そして現代において有権者の支持を集めるのは専ら「利」ではなく「善」を説くタイプでしょうか。もっとも何が「善」であるかは人それぞれ、公務員/官僚や電力会社、あるいは社会保障受給者や外国人などを「悪」と見なしては、その仮想的を咎めることに熱心なタイプが目立ちますかね。

 何はともあれ「地元に利益を引っ張ってくる」タイプの議員は近年ではすこぶる評判が悪い、むしろ「利」をもたらすこと自体が悪徳であるかのように語られがちです。しかし「利」ではなく別の動機で行動する公平無私の政治家こそ正しいと、そうした幻想が地方を衰退させ、地方議員の価値を喪失させたところもあるように思います。自身の選挙区のことより日本全体のことを考える、天下国家を語る議員がいても良いですけれど、同時に地元のために戦う議員がいても良い、異なる立場の両方が国会に送られても良いのではないでしょうか。しかるに格差是正のために地方の議席が削減されてしまえば、「両方」が議席を手にする可能性は極めて小さなものとなってしまいます。

 

 アファーマティブ・アクションは差別なのでしょうか。それに反対する人の中には、アファーマティブ・アクションこそ不公平なものだと主張する人もいるようです。諸々の事情によって弱い立場に置かれた人々に一定の優遇措置を執る、これは公平性を担保するための措置なのか、それとも不当な優遇なのか。もちろん程度にもよりますけれど、弱い立場、不利な立場にある人々には下駄を履かせてやるべきだという考え方と、これを疎む考え方とがあるわけです。では、一票の格差に関してはどうなのでしょう?

 一票の価値に関しても、アファーマティブ・アクションの理念は適用できるように思います。そもそも一票の価値が「高い」選挙区がいかにして生まれるかと言えば、その地域が衰退して有権者数も減っていくからです。逆に一票の価値が「低い」選挙区とは、不況の時代にも怯まず、少子化の時代にも有権者数を増やすもしくは維持できている地域です。人口が減り続ける「弱い地方」で一票の価値が高まり、人口が増える「強い地域」で一票の価値が低下する、確かに一票の価値「だけ」に焦点を当てれば不平等な話かも知れません。ただ一票の価値「以外」の格差をも含めて総合的に見るとどうなのか、その辺も考慮されるべきです。

 もし現状とは反対に、人口だけではなく産業も集中する都市部で一票の価値が高く、国会議員もまた都市部から選ばれた人ばかり、一方で人口が減少する地方では一票の価値すら低く住民も産業も議員も減るばかりとあらば、これは直ちに是正されるべきものと言えます。しかし人の集中する豊かな都会で一票の価値が低くなる反面、色々と恵まれない地方では一票の価値が高くなる、これ自体が一種の是正措置、アファーマティブ・アクションとしての機能を持ちうるものとなっているのではないでしょうか(そのためには地方選出の議員が自身の地元を重視する必要がありますが)。

 確かに現状では一票の格差が大きすぎるところです。しかし、有権者数が減少する=一票の価値が上昇するような地域に下駄を履かせてやっても良いのではないか、そのような立場もあってしかるべきと私は考えます。単純に一票の格差だけを取り出せば善悪がはっきりするかも知れませんが、「その他」の要素をも含めて是正措置の一環としてみれば、議員定数の削減とセットになることが濃厚な格差是正をどこまで急ぐべきなのか、とりわけ議員定数削減に執着する民主党政権下での一票の格差是正は危険ではないのか、そう簡単に結論は出せないように思います。

 アメリカの場合、下院議員はドライな人口割りである一方、上院議員は州単位で2人ずつの選出となっており、それこそ上院議員選挙では10倍や20倍では済まないレベルの「一票の格差」が生じています。これを問題視する人がどれだけいるのかどうか知るところではありませんけれど、「人口割り」と「州毎に2人」と明確に制度が分けられていることによって「一票の格差」を感じさせにくい作りになっているとも考えられるでしょう。翻って日本はと言えば、この辺の区分が酷く曖昧なままです。

 その内部で衆院と参院の振り分けをどうするかなど意見は分かれると予測されますが、日本でも「人口割り」の議員定数と「都道府県単位」の議員定数を明確に分けてしまったらどうでしょうか。そこまでの抜本的な変更となると次の選挙までに間に合わないであろうことは必至ですけれど、しかし現行の政府案のように議員の数を減らす、とりわけ人口が減って相対的に一票の格差が高まった地域の議席数を減らす、衰退する地域からの声を吸い上げるパイプを細くするという、そんなやり方を少なくとも私は歓迎することができません。もっと他にも、探られるべき道はあるように思います。

 

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改革という名の退行に背を向けて

2012-06-02 00:17:59 | 非国民通信社社説

 定期的に持ち上がってくる論議の一つに、成人年齢を引き下げるべしというものがあります。現在の日本では20歳が境目ですが、これを18歳とかその辺に引き下げようというわけです。確かにまぁ、世界各地の貧困国では十代の少年少女が大人と肩を並べて労働力として駆り出されている、アフリカの紛争国では年端もいかない子供が自動小銃を手に大人達に混ざって戦っていたり、多少は平和な国でも日本なら淫行条例に引っかかるような年齢の子供が日夜、立派に大人の相手を務めていたりします。それに比べれば、日本の20歳という成人年齢は高いのかも知れませんね。経済面では新興国を目指して後ろ向きに階段を駆け下りてきた日本なのですから、社会面でも相応に退行を志向した動きがあっても不思議ではありません。

 何度か書いてきたことではありますが、将来が決まるタイミングがどれだけ「遅いか」で、概ねその社会の成熟度は測れるように思います。まず未熟な社会では生まれたときからもう将来が決まっている、親の属する社会階層がそのまま子供へと引き継がれます。そして多少なりとも近代化が進むと僅かながらも選択肢も出てきて、例えば中学生までは割と誰でも平等だけれど、そこから先の進路でだいたいの将来が決まってしまうみたいなパターンが挙げられます。もうちょっと社会が成熟すれば進路の変更にも融通が利くようになって、20歳くらいまでは人生のやり直しが可能になる、他の道へと再スタートが切れるようになると言ったところでしょうか。日本の場合、大きな転換点は卒業時ですね。高校でも大学でも専門学校でも、とにかく学校を卒業した時点で、しっかりとした会社に就職できるかどうかが大きな差が付きます。ここで就職機会を逃すと、後に分類上は正社員として就職できたとしてもろくな会社ではなかったりするなど、ほぼ挽回不可能となっているわけです。

 私の大学時代の恩師が定年で退官することになったときのことですが、未練タラタラの先生は「だいたい60歳で定年ってのは、60歳くらいでどんどん死んじゃう人がいた時代の考えでさ……」と愚痴をこぼしていました。そうですね、たとえば平均寿命が50歳かそこらの時代と、平均寿命が75歳を超える時代では社会保障制度の望ましい在り方も変わってくるものです。日本のように世界トップクラスに寿命が長い社会と、もっと寿命が短い社会とでは、アプローチの仕方も多少は変えなければならないものなのかも知れません。そうした面では、上述の成人年齢の引き下げ論はどう見るべきでしょう。昔よりも平均寿命が大きく延びている中で、成人年齢を前倒しするとなると、未成年の期間と成人である期間のバランスは輪をかけて崩れてしまうように思います。むしろ寿命という名の人生のスケールが延びた分だけ、「成人」になるまでの期間も延ばした方が釣り合いが取れるのではないでしょうか。

 年金受給年齢は加入者の同意なく引き上げられることが既に決まって久しいですけれど、まぁ寿命が延びた中で支給開始年齢だけを据え置きというのは難しいのかも知れません。そして我が国の政府としては異例中の異例と言うべきなのが悲しいことですが、引き上げられた年金支給開始年齢に達するまで雇用を延長するよう指針も出されています。制度改革に伴う負担を、個人ではなく雇用側に求めるのは実に珍しいことですね。まぁ、流石に60歳定年で65歳の年金支給開始までは自己責任で済ませというのは無理な話ですから。元より一世代前や二世代前の60歳に比べれば現代の60歳とは随分と健康でバイタリティーに溢れています。もちろん個人差も大きくなる年代だけに一緒くたに扱うのは危険でもありますけれど、だいたいの人にとって65歳まで働いてもらうというのはそんなに難しい話ではないのでしょう。あんまり長く働きたくないという思いはあるにせよ……

 こちらは上手い図ではないですがニュアンスは伝わるでしょうか。とりあえず一番上の段が平均寿命70歳の場合で、次が平均寿命80歳の場合です。成人年齢や年金支給開始年齢を据え置いたまま寿命だけが延びると、どうしてもバランスは崩れます。そして改革モデルと銘打ったのが、現行の政府案ですね、成人年齢と、年金支給開始年齢がそれぞれ動かされているわけですが、これまたバランスの悪いものと言わざるを得ません。そこで最下段の「成熟モデル」は私のオリジナルで、年金支給開始年齢だけではなく成人年齢も「引き上げた」形になります。先述の通り寿命という人生全体のスケールが伸びたのですから、未成年でいる期間を圧縮するのはむしろ不自然、反対に伸ばすべきとの考えに沿って提唱してみました。とりあえず、この成熟モデルの方が未成年、労働年齢、年金受給年齢のバランスは取れているはずです。

 富国強兵、殖産興行的な発想にとらわれていると、どうしても労働人口を増やすことが国力増強の道という考えになってしまうのかも知れません。十数年来の不況で慢性的に求職者側があぶれているにも関わらず、労働人口を増やすことを是とする言論が巷に溢れているのはそのせいでしょうか。高度経済成長期からバブル期に至るまで、高卒でも働き口に困らなかった時代には日本の大学進学率は至って低いものでした。それが不況で企業側が採用を手控えるようになったのと時を同じくして日本の大学進学率は急上昇を続けて来たわけです。まぁ、急上昇した結果がようやく5割に到達したという水準ですので、まだまだ日本は大学生が少ないと言えますけれど、ともあれ日本でも高等教育を受ける人が増加しています。しかるに、こうした大学進学者の増加を快く思わない人が、とりわけ経済系の文脈において目立つのも事実です。

 成人年齢の引き下げ論議と大学進学者の増加を否定的に見る向きは、底の方で似通う部分があるような気がします。より早く「成人」に組み入れたい、より早く労働力人口に組み入れたい、そういう欲望があるのでしょう。そして教育水準の高さを強みとして高付加価値産業へのシフトを目指すのではなく、賃金抑制を徹底して新興国と同じ土俵で戦おうとするのなら、大学進学者の増大など百害あって一利なしと映るものなのかも知れません。必要なのは一握りのエリートと、新興国に負けない低賃金で働いてくれる従順な労働者ですから。もちろん賃金の低下は即ち、その国で働く人が貧しくなると言うことを意味する、つまりは社会全体にも負の影響を及ぼします。それを補うには「頭数」を増やすことですね。年収500万円の労働者が2人いるより、年収400万円の労働者が3人の方が、トータルでは豊かという計算になります。凋落を続ける一人当たりのGDPには無頓着な一方で、国全体のGDPで中国に抜かれた、今度はインドに追い越される云々と騒いでいる我が国の経済言論がどういったモデルを好むかは言うまでもありません。

 少子化が進むと同時に賃金水準の押し下げも進められてきた中、「国全体」のGDPを引き上げるためには個人の貧しさを補うべく労働人口を増やす必要に迫られる、その処方箋として移民の受け入れだったり、女性の活用や定年の延長など色々と出てくるわけです。そして大学進学率の上昇を否定的に見る向きもその延長線上にあるのではないでしょうか。労働人口を増やそうと駆り立てられるのは、当然ながら女性や高齢者だけではない、若年層だって同様なのです。少子化が進んでも労働人口は確保したい、そのためには早くから労働人口に組み込む必要があります。若年層を大学で遊ばせておくより、安価な労働力として日本企業に奉仕させたい、そういう思惑があると本来なら喜ばしいはずの進学率向上も苛立たしい現象に見えてしまうのでしょう。

 しかるに、将来が決まるタイミングだけではなく本格的な労働に従事する時期もまた、社会が成熟すればするほど遅くなるもののはずです。発展から取り残された国では児童労働が横行していますが、多少なりとも進歩すれば児童労働が禁止されるものですし、さらに社会が成熟していけば進学率も上昇、それに伴ってフルタイムで働き始める時期も遅くなるものです。貧しい国では義務教育機関を過ぎたら遠からず労働力として大人と一緒に働き始めるかも知れませんが、曲がりなりにも先進国であれば高校までは進学するのが当たり前になったり、あるいは大学に進む、時には大学院へも進学するなど、いずれにせよ日本で言う「社会人」になるタイミングは後方へとシフトしていくわけです。

 日本では「改革」を気取る人ほど保守的――より思い切って言えば退行志向であるように思えるのは、そういうところからです。むしろ改革を称する人ほど、賃金抑制=新興国と同じ土俵での競争に積極的であったり、進学率上昇に否定的で若年層を早期に労働市場に組み込みたがるなど、そうした時代に逆行する志向が目立つのではないでしょうか。「経済成長の時代は終わった」みたいな日本くらいにしかあてはまらない妄論が経済誌でも当たり前のように幅を利かせていますけれど、日本経済はまさにブリキの太鼓の主人公よろしく、成長すること、成熟することを止めてしまったかのようです。しかし、誰か他の「大人」が日本を養ってくれるわけでもありません……

 

この業界はどこもそうかもしれないけれど、長期勤続というのは歓迎されないんだ。それで会社も「三年くらいで辞めてもらった方が経費的には助かる。そうすれば、また元気のいい新人が入ってバリバリと稼いでくれるし……」と、公然といっているんだから。 (『ホームレスになった』金子雅臣、ちくま文庫)

 

 拡大を続ける非正規雇用を中心に、主として若年層を取っ替え引っ替えする雇用形態もまた随分と目立つようになりました。不当な解雇も相次ぐ昨今ではありますが、それでもなお、もっと社員を簡単に解雇できるようにせよと主張する声がまた喧しいところでもあります。雇用側に便宜を図ることを以て経済政策と勘違いしている人の好む「改革」の一つですね。もっとも、雇用主に自由を!雇用主を法律で縛るな!全ては主の御心のままに!などと率直に真情を吐露する人はいなくて(隠せていない人はいるにせよ)、大方は奇妙にも「若者のため」などと口にするのですから笑うしかありません。彼ら退行志向の改革論者に言わせれば、無能な中高年またの名を既得権益が社員として居座っているから若者にチャンスが回ってこないのだそうです。へー。

 雇用の面で改革と称して提唱されているものの多くは、近年「ブラック」と呼ばれるようになった類の企業であれば既に当たり前のように実践しているものばかりだったりします。たとえば「無能な」中高年を切り捨てて若者に雇用機会を提供するなど、ですね。決して長くは働けない、目立った成果を上げられなければ遠からず追い出される、そういう会社は必然的に社員も若い人ばかりになりがちです。では、このような企業は若者に優しいのでしょうか。改革論者のいうことを政治家が真に受けて日本中をブラック企業の巣窟にした場合はどうなるでしょう。今まで以上に中高年層はリストラされ、代わりに企業が雇うのは若者ばかり、若者の就業機会は飛躍的に増加……する可能性は高いのですが、そこで就業機会を得た若者の10年後、20年後、30年後がどうなるかも考える必要があります。若者もいずれ年を取ります、かつて中高年層に席を譲ることを強いた若者が中高年になったとき、今度は自分が若者に席を譲ることを迫られる、そこまで想像しなければなりません。

 相対的に低賃金で済ませやすい若年層を、それこそ取っ替え引っ替えしながら使い捨てていけば人件費削減は容易、新興国と同じ土俵で競い合いたい人には好ましい世界と言えそうです。もっとも、働く人にとっては捨てられるリスクが高まる、とりわけ齢を重ねるほど危うくなってしまいます。「若者に雇用機会を提供するため」との美名の元にリストラされた親世代を、より低賃金の子世代が働いて支えるという、実に悪夢のような未来が待ち受けていることでしょう。自分が働いて親を養うんだという殊勝な孝行息子/娘にはそれでもいいのかも知れませんが、私は御免ですね。むしろ中高年層(=親世代)の雇用をきっちりと担保して、子世代をじっくり学ばせておく、その方が成熟した社会にはふさわしいと私は考えますけれど……

 平均寿命が延びたのなら、それに伴って人生の「重心」だって動かす必要があります。寿命がこれだけ長く伸びたのに、そう急いで働き始める必要があるのでしょうか。むしろ大人になるのは「ゆっくり」で良いように思います。人生が50年かそこらで終わってしまう国ならともかく、日本の場合は、大人になってから先が随分と長く伸びているのですから。しかるに進学率の上昇を好ましく思わない人々がいたり、あるいは中高年を追い出して若者に職をと説く人もいるわけです。こうした人々の志向しているのは、より「早く」若者を労働力に組み入れることと言えますが、率直に言ってそれは「退行」に他なりません。そうではなく、逆に若者を働かせる時期を、より「遅く」してこそ進歩です。

 とりあえず日本では、児童労働は概ね禁止です。芸能活動や家業の手伝いは別として、普通の会社勤めとかは表面上やってはいけないことになっています。アルバイトを始める子が珍しくなくなるような年齢でも、未成年であれば深夜労働などには制限がありますね。ならばこうした禁止や制限の課せられる年齢を、大きく引き上げてみるのもおもしろいかも知れません。極論するなら、20代のフルタイム労働を原則禁止してみるのはどうでしょう。さっさと学校を卒業させて、さっさと働かせたいという思惑の強い我が国ですけれど、それが行き詰まっているのも現状です。若者を就職戦争で摩耗させ、会社に縛り付けることこそ才能の浪費と言えます。それよりも、なるべく長く大学なりに通わせて、いわゆるモラトリアム期間を可能な限り長くした方がイノベーションも生まれるのではないでしょうか。決して就職を急がせる必要はありません。その代わり、子世代を支える親世代の雇用をきっちりと守っていくことです。一般に、知能の高い動物ほど親が子供を育てる期間は長くなります。ならば寿命も延びて60歳くらいではまだまだ元気な親世代が子世代を養う期間をもっと延ばしたって、それは進歩と呼べることでしょう。

 

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消費税についてのまとめ

2012-01-06 22:56:03 | 非国民通信社社説

 さて、野田内閣の下いよいよ消費税増税が現実味を帯びてきました。基本的に不況期の増税は極めてリスクの高い行動であり避けるべきものと思われますが、特に消費税の場合は不況でなくとも問題が多い、そこで今回は消費税特有の問題点について、整理してみましょう。

1,税が複雑化する

 税がシンプルであることを理想とするかは論者によるのかも知れませんが、一般論として税はシンプルであるべきとされています。そうした点からすると究極系は所得税/法人税など直接税への一本化が頭に浮かぶところで、余計な煩雑さを付け加えるばかりの消費税を筆頭とした間接税など止めてしまえと思わないでもありません。何も税は消費税だけではないのですから、これに固執する必然性はないわけで、シンプルに所得税の累進課税や法人税、社会保障費の企業負担といったところを引き上げれば済む話です。

 確かに日本の消費税は軽減税率なし、インボイス制度なしの手抜きっぽい制度となっているために諸外国の付加価値税に比べればシンプルではあります。ただこのシンプルな税をストレートに引き上げるともなれば、消費税による逆進性は洒落にならないものとなってしまうわけです(逆進性については後述します)。この逆進性を緩和すべく、「日本より消費税が高い」とされる国の多くは食料品などの生活必需品、書籍や新聞などの文化財、医療や福祉、公共交通機関といった類いには消費税が課せられなかったり、あるいは著しく低い率に止められていたりするものです。そこで日本でも、こうした軽減税率の設定が議論されていますが、軽減税率を設けることによって別の問題もまた発生してしまうのではないでしょうか。

 まず第一に逆進性を緩和できるだけの軽減税率を設けるとなると、必ずしも税収が増えるとは限らなくなってしまいます。嗜好品には高い税を課しても食料品は免税ともなれば、トータルでの税収はいかがなものでしょう。これでは何のための増税なのか、単に社会を混乱させるために税を弄んでいるだけなのではないかという世界です。そして品目によって課せられる税率を個別に設定するともなれば、当然ながら税は煩雑化します。そもそも日本では消費税導入と引き替えに廃止された「物品税」が、ヨーロッパにおける付加価値税よろしく生活必需品を避けての間接税として存在していたわけで「消費税に軽減税率を設ける」=「消費税導入前の物品税に戻す」という側面も否定できません。まったく、何のための消費税導入だったのかと今さらながらに呆れますね。

 他にも逆進性緩和措置としては各種控除や低所得者向けの現金給付も検討されているようですけれど、これもどうなのでしょうか。もちろん低所得者向けに社会保障を強化していくのは悪いことではありません。ただ、増税によって生じた逆進性緩和のためにそれが行われるとあらば、なんだか10mの穴を掘ってそれを埋めさせるような、果てしない無駄を感じさせてくれます。わざわざ新たに制度を作ってまで補償するくらいなら、初めから逆進性の強い増税プランは避ける、それがシンプルで無駄のない財政計画と言えるはずです。消費税の逆進性を緩和するためには新たな社会保障支出が発生しますが、その財源もまた消費税増税?

2,滞納が多い

 普通の人にとっては死語だと思いますけれど、その昔は「クロヨン」とか「トーゴーサン」という言葉がありました。すなわち「9/6/4」「10/5/3」、源泉徴収を受けるサラリーマンと、そうでない自営業者や農林水産業者の課税所得捕捉率を指したもので、少なからず誇張はありそうな気がしますが、自営業者や農業従事者は所得を隠して税金から逃れているといったイメージを形作るものだったわけです。サラリーマンは源泉徴収されて容赦なく税金を搾り取られているのに、自営業者や農業従事者は所得を誤魔化し、本来納めるべき税金を懐に入れている――そういうイメージを作って不公平感を煽り、誰でも支払わされる「公平」な税として消費税が紹介されることもありました。というか、時代錯誤の消費税増税論者の中には今尚そういうイメージを持ちだしてくる人もいるので笑うしかありません。

 所得が真ん中くらいで扶養家族のいるサラリーマンともなれば、実は最も控除が厚い層になるだけに所得税はそんなに払う必要がなく、本物の富豪は分離課税のおかげで課税から逃れ、実質的に所得税が重くのし掛かってくるのは大手テレビ局とか大手新聞社に勤める人くらいと言う気もしますが、それ以前に今さら自営業者や農業従事者を僻むような発想を持っている人の存在の方が不思議です。もう、自営や農業で儲かる時代ではない、そういう人のチンケな所得隠しぐらい放っておこうよと思うのですけれど、まぁ経済を語っているつもりでひたすら道徳を語り続ける人は数知れません。脱税(節税)する人がいるのはけしからん、それを防ぐためには消費税しかないのだと――

 ところが、実際の租税滞納状況はいかほどのものでしょうか。国税庁によると、平成22年度の新規発生滞納額は以下の通りです。

源泉所得税  333億円
申告所得税  558億円
法 人 税  548億円
消 費 税 1162億円

 はい、一つだけ桁が違いますね。桁違いに滞納が多い税、それが消費税なのです。別に脱税は所得税だけで発生するものではないわけです。むしろ、消費税でこそ滞納が発生しやすいことは統計からも明らかで、不法な税金逃れによって懐を暖めようとする輩を成敗しようというのなら、まず消費税なんか止めてしまいましょう。所得をごまかす悪徳個人事業主だったら、納めるべき消費税額だって同様にごまかすものなのです。それをケシカランと憤るのなら、滞納の温床たる消費税という欠陥税制を見直してみることも必要と思われます。

3,負担者が曖昧

 間接税とは要するに、負担者が「直接」納税するのではなく、別の人が「間接」的に納める税のことです。つまり、AさんがB商店で105円の商品を買ったとして、これにかかる消費税5円を負担するのはAさんですが、実際に納税するのはB商店、そういう仕組みになっているわけです。ところで計算が簡単になるように「105円」という数値を例示しましたが、これが「98円」の商品だったらどうでしょう? 105円の商品ですと、本体価格100円に5円の消費税が上乗せされているイメージが強い、購入者であるAさんが5円の消費税を負担しているように見えると思います。しかし98円だったら? 約5円の消費税を負担しているのは、98円を払ったAさんでしょうか、それとも商品を98円で販売するB商店なのでしょうか?

 かつては「980円(税込1029円)」みたいな価格表示が主流であったことを覚えている人も多いと思います。この表示方式ですが、「総額表示」が義務付けされて以降は禁止されてしまいました。今では「1029円」と表示しなければならないことになっています。小売店にとっては、まさに悪夢のような制度改正でした。もちろん、値札の付け替えが地獄のような作業だったこともあります。しかし真の問題は、今まで「980円」で売っていたものを「1029円」と表示しなければならなくなったこと、これによって顧客に値上がりしたかのような印象を与えてしまうことだったのです。もちろん小売店の取り分は変わらないのですが、店頭で表示される金額は変わってしまいます。それでも売り上げに影響はないと、そう強気に構えていられた小売店は決して多くなかったはずです。

 結局のところ「980円(税込1029円)」で売られていた商品は総額表示義務付け後、専ら「980円(本体価格933円)」で売られることになりました。この辺も密かにデフレを進める要因になった気がしないでもありませんが、ともあれ小売店側が負担する形で「店頭表示価格」が維持されるケースも目立ったわけです。そしてこのとき、消費税を負担しているのは誰だったのでしょうか? 「980円(税込1029円)」であるなら、購入者が消費税を負担しているように見えます。しかし「980円(本体価格933円)」であれば、むしろ販売店側が負担しているように見えはしないでしょうか。そして「実際に」どちらが負担しているのかは永遠に曖昧なままです。

 制度として、「納税者」は決まっています。商品(サービス)を販売した側が納税します。しかし、納税すべき金額を販売側が価格に転嫁している/できているかどうかは把握する方法がありません。永遠のグレーゾーンです。果たして290円の牛丼に課せられる消費税を負担しているのは客なのでしょうか、それとも店なのでしょうか。過去の消費税導入時/引き上げ時には値上げした店もあれば、値上げ「できなかった」店もあったはずです。あるいは企業同士の取引でも「609万円、出精値引9万円(合計600万円)」みたいな形で時に端数を切ったりしますが、こういうケースでも例によって仕入れ側と納入側のどちらが消費税を負担しているのか曖昧です。結局のところ消費税とは、価格に転嫁するだけの立場の強さがない、「弱い」側が負担する税なのではないでしょうか。いずれにせよ、実際の負担者が曖昧であることは税の公平性という面から著しい欠陥であり、このような制度を存続させるべきではないと言えます。

4,立場の強い企業、とりわけ輸出企業にとっては益税になりがち

 上述の通り、消費税の負担者は曖昧である一方で、手続きとして納税する人は明確に定められています。そしてもう一つ、消費税の「還付」を受ける人もまた明確です。つまり、消費税は「仕入れにかかった消費税」の還付を受けることができるのですが、この還付金を受け取るのは「仕入れ側」と決まっています。以下は極限まで簡略化した例ですが――

A商店より1050円で砂糖玉を仕入れ、B社が2100円でレメディとして販売した場合
・A商店は消費税を「50円」納税
・B社は消費税を「100円」納税
・B社は仕入れにかかった消費税として「50円」の還付を受け取る

 ……大雑把に言えば、こういう仕組みになっているのです。これだと、あまり問題がなさそうに見えますね。では、次の場合はどうでしょうか?

A商店より1050円で砂糖玉を仕入れ、B社が25ドルでレメディとして「輸出」した場合
・A商店は消費税を「50円」納税
・輸出には日本の消費税が課せられないので、B社は消費税を納めません
・B社は仕入れにかかった消費税として「50円」の還付を受け取る

 はい、この場合B社は消費税を「納めた」額よりも「受け取った」額の方が大きいわけです。輸出先での納税状況次第では消費税の分だけ余計に儲けている疑いがありますし、日本政府の税収にも繋がりません。A商店の販売額が「1050円」と、いかにも「消費税を転嫁した」かのような価格になっていると、B社が消費税を「負担」しているように見えるので問題ないものとして扱おうとする人もいるようですが、しかるにA商店からの仕入額が「980円」とか「1000円」であったならばどうでしょう? 実際のところ、消費税をどこが「負担」しているかは力関係次第、制度の仕組み上、常に曖昧なのです。にもかかわらず、消費税の還付を受ける対象は明確です……

 たとえば上で例に挙げた「609万円、出精値引9万円(合計600万円)」みたいな仕入額であっても、仕入れ側は約29万円の還付を受け取ることができます。実質的には仕入れ側と納入側で折半しているかに見えそうな金額ですが、還付を受けるのは片方だけです。ここで立場の強い側、すなわち弱い側に消費税負担を暗に押しつける側には儲ける機会が生じます。特に輸出が絡む時には「輸出戻し税」などとも呼ばれるものですが、トヨタとかキヤノンなど大手輸出企業は「消費税を納めた額」より「消費税の還付を受け取った額」の方が何倍も多い、消費税が上がれば上がるほど「受け取る」税が増えるようになっています。誰が消費税を負担しているかは定かでないのに、税金を受け取る人は決まっている、何とも不思議な税ですね。とりあえず、なぜ法人税には強い忌避感を示す財界筋が消費税には概ね肯定的なのか、なぜ同じ税金でも片方を負担と訴え、もう片方の増税を意に介さないのか、その理由は考えてみるべきでしょう。

5,逆進課税である

 子供にも外国人居住者にも一律に課せられる日本の消費税ですが、どれだけ納税するかは「どれだけ消費するか」にかかってきます。そして所得に占める消費の割合は、どうしたって低所得者の方が高くなるのが一般的です。収入が21万円で消費も21万円の世帯であれば納める消費税は1万円、一方で収入が63万円で消費が42万円の世帯であれば納める消費税は2万円となります。収入に占める課税比率は前者が5%であるのに対し、後者は約3%、すなわち低所得層の方に重く課税されていることになる、このようなケースが一般的であるが故に消費税は逆進課税となるのです。

 この逆進性に対応するためには何が必要なのか、デンマークなどでは最低賃金が2000円超となっており(マトモな為替レートの時代なら2500円超!)、これであれば最低賃金で働いても日本の中流相当の収入になりますから消費税が高くても大丈夫みたいな発想もありますが、10円にも満たない最低賃金の引き上げですら大騒ぎするような日本社会では真似できないでしょう。では次善の策として軽減税率を設けるとか現金給付を云々とした場合の問題点は冒頭で述べた通りです。どうあっても消費税は逆進的、弱いものいじめ、あるいは社会を混乱させるだけのものになってしまいます。そこで目くらましとして所得税(の累進課税)も強めるとのプランもあるようですが、はっきり言って民主党案では微増の範囲、高度経済成長期に比べて累進課税が著しく緩和された状況であることには変わりなく、例によって分離課税も放置とくれば誤魔化しも良いところです。

 ところが、さらなる誤魔化しとして「消費税は逆進的ではない」との主張もあります。たとえば「誰しも最終的には全ての所得を消費するので、誰にとっても税率は同じだ」などと言い出す人もいました。これは方々で失笑を買った奇妙な想定で、現実には相応の資産を残したまま人生を終える高所得者と、カツカツの収入を使い果たして死んでゆく貧乏人に分かれるわけです。当然ながら所得に占める消費税納税額の比率は貧乏人の方が高い、やはり消費税は逆進的と言うことになります。流石に本人も現実離れしたものと気づいたのか、改良型として「死んだときに残された分は相続税として重く課税されるから、決して逆進的ではない」という主張もあるのですが、ではこれのどこがおかしいのでしょう?

 相続税なんて、ごく一部の金持ち限定の話だろうというのはさておき、ローンを組むことの意味が理解できる人なら、それはおかしいと気づけると思います。つまり支払いを先送りにできるのかどうか、あるいは即座に支払わねばならないのか、トータルで払う金額は同じであっても、支払い側にとっての負担は同じではないわけです。上記の消費税公平論の発想は、昨今では原発のコスト計算に適用されることが多いでしょうか。つまり廃炉や廃棄物の保管など将来のコストを無限に高く見積もった挙げ句、そうしたコスト全てを一括して「原発は高い」と結論づける安易な見解が目立つのですが、とりわけ運転資金にも苦労するような財政状況になればなるほど、「将来のコスト」と「直近のコスト」の持つ意味は異なってくるのです。それが理解できないようでは、消費税の不公平制もまた理解できません。

 日々の生活にも事欠くようなギリギリの生活をしている人にとって「買い物の都度に支払わなければならない税金」と「自分が死んだ後に支払えば済む税金」、どちらが優しいでしょうか。トータルの支払金額が同じでも意味合いは全く異なることが、少なくともローンを組んだことがある人ならわかると思います。一生お金に不自由しない産まれながらの富裕層であれば、いつ支払いを求められても同じなのかも知れません。しかし貧しい人にとって、支払いを先にできるかどうかは人生を通して切実な問題であり続けます。誰にでも容赦なく即時の支払いを求める消費税が弱者に厳しい税制であることは言うまでもないことです。

6,消費を抑制する

 消費そのものに課税するのですから、これは当然のことですね。税金を払いたくて仕方ない奇特な人もいるのかも知れませんが、大多数の人はなるべく税金は払いたくないもの、それが消費の度に課税されるともなれば消費が抑制されるであろうことは考えるまでもありません。現に消費税が5%に引き上げられた結果、バブル崩壊後のショックから立ち直りつつあった日本経済は再びどん底に叩き落とされ、現在に至るも復興する様子を見せていないどころか輸出依存度を高めるばかりです。そして景気低迷の結果、消費税増税前よりも税収は減りました。消費税が引き上げられた1997年は他にもマイナス要因が少なくなかったにせよ、不況要因に事欠かない中での消費税増税がどれほど危険な愚行であるかは、絶対に忘れてはならないことです。消費税増税は、せめて消費を抑制する必要があるときにやってください。むしろ今は、消費されずに残った「余り」に課税することを考えるべきでしょう。

・・・・・・

 以上6点の他にも、色々と問題は出てくると思います。アリバイ作り的に提案された所得税増税案の貧弱ぶりがかえって証明するように、政権交代を経てもなお我が国の政府は消費税増税への固執を続けていますが、果たしてそれは賢明なことなのでしょうか。少なくともここで挙げた6点の問題に対して、消費税増税に固執する人たちは解決策を見いだしていないどころか、向き合うことすら拒んでいるかのようです。最も簡単な解決策は、消費税増税「以外」にも税収を増やす手段は存在しており、かつてはそれで成功していたことを思い出すことです。ギリシャは消費税率を引き上げましたが財政破綻しました。消費税「以外」にも視野を広げることができなければ、ただただ社会を混乱させ、低所得層を絞り上げるだけにしか繋がらないことでしょう。意図して後者を狙ってるんじゃないかと思えてくるフシがないでもありませんが!

 

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若者優遇はもう終わりにしよう

2011-09-07 23:17:33 | 非国民通信社社説

 ふと思うのですが、いわゆる「就職氷河期世代」の人って、自分がまだ若いと思っているのでしょうか。とかく氷河期世代を称する人が「若者が~」と語るのを見かけるわけですけれど、少なくとも「採用する側」の人間から見た氷河期世代は、もうとっくに若者のカテゴリーを過ぎているような気がします。自称氷河期世代だけではなく、若者気分な人々に媚びを売る経済誌(ダイヤモンドとか)でも、何かと若者に職を云々と説かれるわけですが、いざ若者に職をという流れで機会を与えられるのは、氷河期世代よりも一回り下の世代の人々です。

 イギリスで起こった大規模な暴動の一因として、若年層の失業問題を挙げる人もいます。日本における若年層の失業とヨーロッパのそれは性質が異なるところも多々あるように思いますが、ともあれ日本でも若者の雇用は大きな問題だと言われているわけです。でも考えてください、若者のための雇用って、そんなに不足しているのでしょうか? 少なくとも日本の場合、若者を対象にした求人は増えてきたはずです。若い内に限定される雇用かも知れませんけれど!

 つまり非正規雇用などの不安定雇用を「雇用」の枠組みに含めるのであれば、小泉や竹中が自画自賛したように規制緩和で雇用は増えました。ただ非正規雇用の場合、往々にしてそこで働けるのは若い間に絞られます。収入の問題を度外視したとしても年金受給年齢まで働き続けられる人となると例外中の例外でしょう。遠からずクビは切られる仕事、要するに「若い内に限定される雇用」ばかりが増えたのです。だから若い人であれば就職先はあるはず、あるはずなのですが――大半の若者は「年を取っても働けそうな仕事」に就きたがりますので、「若い内に限定される雇用」の増加とは無関係に就職競争は激化の一途を辿るわけです。

 企業というものは若い人が好きです。どこの会社でも中高年を切り捨てて、若者に置き換えたがっています。辞めさせるのは年齢の高い方から、採用するのはピチピチの新卒、それが日本という若者優遇社会の常識です。しかし、若者優遇であるが故に若年層が苦しめられているのもまた日本の実態であるように思われます。結局のところ、会社としては出来るだけ若い人を採りたい、中高年は幹部候補だけに絞り込みたいと、そういう思惑があるからこそ「若い内に限定される雇用」への置き換えも進むわけです。非正規雇用ならトウが立ってきたときに切り捨てるのも簡単、もっと若い人に入れ替えるのが簡単、だから企業側は非正規の割合を増やし、行政が背中を押す中で「若い内に限定される雇用」ばかりが増えて来たのではないでしょうか。

 「若い内だけ雇うことが出来る雇用形態」を企業が望んだのは、日本の雇用慣習が若者優遇だからです。だから日本の若者には雇用機会がありますが、しかるにどこの国の若者もいずれ年を取ります。その辺は日本の若者も普通は理解していますから、「若い内に限定される雇用」が幾ら増えたところで将来への希望など持てるはずがありません。そうではなく、「若くなくなっても働き続けられる仕事」をこそ増やさないと意味がないのです。若者の雇用を優先したい経営側にとって意に沿わないこととなろうとも、社会のバランスを取る上では、若者優遇を終わりにすることが必要な時期に来ているのです。

 ブラック企業を避けるためには、まず平均勤続年数を調べろと言われます。従業員の勤続年数が短いということは、すぐに辞めたくなる、あるいはすぐに辞めさせられる会社である可能性が非常に高いですから、勤続年数を指標として判断することの有効性は高いと思われます。ただ、平均勤続年数が公表されているか、もしくは採用担当者が教えてくれるかとなると甚だ心許ないわけです。じゃぁ、代わりになるものを考えましょう。平均勤続年数に準じるものとして、例えば社員の平均年齢はどうでしょうか? 面接の際に実地で会社の中を見回してみて、そこで働いている人に中高年が多ければ、おそらくその会社の平均勤続年数は長い、年を取っても働ける会社である公算が高いです。反対に働いているのが若者ばかりであるのなら要警戒です。社員の平均年齢が若い、すなわち働けるのは若い間だけ、年を取ったら辞めたくなるもしくは辞めさせられる社風であると覚悟しておく必要があります。

 頭が痛いのは、実際に就業しようとしている人からすれば明らかにダメな会社であるはずの「若い人ばっかり」の会社ほど、コンサルタントの類が語る理想を体現している辺りでしょうか。とかく無能な中高年を切って、若者に雇用機会を与えられるようにしろと叫ぶ人がいるものですが、まさに中高年には居場所のない、若い人ばかりの会社もまた少なくないのです。そして、こういう若い人ばかりの会社に就職希望者はブラック臭を感じて敬遠しているわけでもあります。辞めさせるのか辞めたくなるのかはいざ知らず、結果的にではあれ社員の平均年齢が妙に若い会社というものは少なくなく、社員が長く(=若くなくなるまで)在籍しないが故に絶えず人員補充の必要に迫られているのか採用に積極的な会社もまた珍しくありませんが、こういう会社が増えることに希望を感じる若者って、果たしてどれだけいるのでしょう?

 巷で賑わう雇用流動化論が無視する現実の一つとして、経営側の「解雇したい人」と「採用したい人」は全く異なることが挙げられます。つまり企業は中高年を解雇したがる一方、いざ採用するとなると若い人を欲しがるもので、どこかの会社から「いらない」と言われた中高年は、当然ながら他の会社からも必要とされません。解雇規制の緩みが社会の不安定化にしか繋がってこなかったのも当然です。流動化云々が成り立つのは、ある会社にとっての「クビにしたい人」が、他の会社にとっての「採用したい人」に多少なりとも重なってこそですから。

 そこでアメリカの場合を考えてみましょう。アメリカでは、日本とは反対に若い人から解雇されると言われます。どこまで徹底しているかは微妙なところかも知れませんが、JALの場合でも顕著だったように一定の年齢「以上」をリストラ対象にするなど年齢が高い方から切ろうとする日本の慣習とは逆の傾向もまた見られるわけです。これはなぜかというと、アメリカでは差別的な理由による解雇が厳しく制限されているからです。解雇自由の国であるかのごとく伝えられるアメリカですが、実は差別に関しては日本より格段に厳しく、解雇事由が差別的な要因によるものと認められた場合は解雇もまた不当なものとの判決が下され、巨額の賠償金支払いが待ち受けています。

 アメリカは言うまでもなく訴訟大国であり、なんだかんだ言って差別には敏感なお国柄です。このような社会で「差別と疑われそうな」行為は必然的に高いリスクを伴います。ですから、差別を受けやすい人は解雇しづらいのです。一定の年齢以上の人ばかりを狙って解雇しようものなら、当然のように年齢差別との疑いが向けられ、訴訟が待ち受けることになります。ゆえにアメリカ社会では「差別を受けにくい人」ほど「解雇しやすい人」になるわけです。そして「差別を受けにくい人」というのは若かったり白人であったり男性であったり健常者であったり、要するに就職強者でもあります。「差別を受けにくい人」とは採用に当たっても差別を受ける恐れがない就職強者であり、だからこそ日本の中高年と違って再就職へのハードルも相対的に低く、流動化とやらが成り立つ余地も産まれてくるのです。

 もし日本でも本気で流動化云々を推し進めたいのであれば、差別的理由による解雇を厳しく禁じる必要があります。ましてや訴訟への敷居が高い日本である分だけ、公的機関が主体的に取り締まりに当たることも求められるところで、それが嫌なら流動化など最初から期待すべきではありません(まぁ、流動化云々は後付けで解雇規制緩和の方が目的なのかも知れません、雇用側優位の関係を強化することこそが、この十数年来の日本経済における「改革」ですから)。そもそも日本では労働力が大きく余っているわけで、この状態から無理に「若者へ」仕事を回そうとするとどうしたって無理が出ます。その若者のために「若い内だけ」の仕事を増やしたところで、若者は将来への希望を失うだけです。

 ならば発想を転換しましょう。だいたい「将来」に絶望している若者が少なくないとしても、「今」に困窮している若者は必ずしも多くないはずです(参考、若者は遊ばせておくべきだ)。ならば若い人ではなく、若い人を養う親世代の雇用を安定させ、親世代が定年を迎えるくらいの時期まで若者を遊ばせるなり勉強させるなりしておいて、もっと就業開始年齢を遅らせるよう対策を採っても良いのではないでしょうか。就職先は足りていないのですから、20かそこらの子供を就職戦線に駆り立てて競争を激化させる必要はありません。親世代の仕事を安定させつつ、親が定年を迎える頃合いの元・若者が就職できる環境を整えることも選択肢に含めてみましょう。高卒でも仕事に困らなかったバブル期まで、日本の大学進学率は実に低いものでした。今だって進学率はせいぜい5割で卒業する人となると4割程度ですけれど、ともあれバブル崩壊後の不況が深刻化するに伴って日本の大学進学率は急増したわけです。当然、「社会人」として仕事に就き始める年齢も上がってきました。それでもなお就職難が続くのですから、この雇用情勢に適応すべく、もっと就業開始年齢を高く考えた方が整合性のある社会の未来図が描けるように思います。

 

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