非国民通信

ノーモア・コイズミ

有権者の目線

2014-11-29 11:20:22 | 政治・国際

 2010年の参院選の時、当時の首相であった菅直人は日産のカルロス・ゴーンに言及して「首切りのうまい経営者は優れた経営者であるはずだと言ってたくさんの給料をもらっている。国は国民をリストラすることはできない。国民全体を考えたら、リストラする経営者ほど立派だという考えは大間違い」などと宣いました。この辺が菅の頭の悪いところで、ゴーンが日産から給料をもらっている社員達をリストラしたのと同じように、菅もまた国から給与を受け取る国家の従業員たる公務員を標的に人件費削減を進めていたわけです。菅はカルロス・ゴーンと自分は違う思い込んでいたようですが、実際のところ菅はゴーンの劣化コピーが関の山であったと言えます。

 国民は国から給料をもらう立場ではありませんので、リストラの対象になどできようはずもありません。むしろ、国に対して出資する側ですから。それはすなわち民間企業における株主の立場に近い、出資額は少額でも国家の株主として票を投じる権利を持っているのが国民です。ゴーンが株主をリストラできないのと同じように、国が国民をリストラすることなんてできません。実際、リストラどころか「媚を売る」ことの方が一般的だったのではないでしょうか。無能な経営者が従業員をリストラして、その成果を株主にアピールするように、愚かな政治家は公務員の人件費を減らして、その成果を喧伝するわけです。

・・・・・

 「上」から見た場合と「下」から見た場合、あるいは「傍」から見た場合とで全く評価の異なる人も多いと思います。読者の皆様がお勤めの会社でもそうなのではないでしょうか? 「上」から評価されたからこそ高い地位に就いている人が「下」から見ればとんでもない害悪であったり等々、そんなことは普通にあるはずです。見る角度によって違ったモノが見えてくるのは致し方がないとしても、せめて人を評価する上では一方からだけではなく多面的に見ることが必要であろうと私は考えますが、往々にして「上」から見た場合の評価こそが絶対であり、「下」の人間がツケを払わされるわけです。

 かつて産業能率大によるアンケートで「新入社員の理想の男性上司」に大阪市長の橋下が選ばれたことがあります。コメントを求められた橋下は「市の職員に聞いたら、絶対にそんな順位にならない。同じ組織にいないから無責任に言えるんじゃないですか」語ったようで、これに関しては橋下の方が物事を正しく理解していると言うほかありません。実際に橋下を上司として、その「下」で働く職員達から見れば決して選ばれるはずのない人選であったはずです。しかし、産能大のアンケート回答者にとって橋下は紛れもない「理想の上司」であったのです。

・・・・・

 実のところ国民にとって政治家は権力を持った「上」であると同時に、自らが間接的に雇用する「下」の存在でもある、そしてしばしば株主が社長を査定するような感覚で政治家に票を投じてもいるのではないでしょうか。現場で働く人間からすればあり得ないレベルの愚か者が社長や役員の座を与えられていることは珍しくありません。しかし、株主や取締役会などの「上」から見れば、それは肯定的に評価されるべき人間だったのでしょう。それと同じように、とんでもない馬鹿が政治家として権力を与えられてしまうことも多々あるわけですが、一種の議決権を持った国家の株主という「上」から見れば、橋下の場合がそうであるように期待の持てる人選になってしまうのかも知れません。もっとも「上」に評価されるべく調子の良いことばかり言う人間は「下」に無理を押しつけるばかりで、「上」に評価される人ほど実際は役に立たないどころか組織の癌にしかならなかったりするものですが――それでも国民は「上」からの評価で政治家を選ぶわけです。

 

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「やればできる」は破滅の合い言葉

2014-11-26 23:45:42 | 雇用・経済

「新卒は女性の方が優秀」なのに なぜ10年後に活躍しているのは男性ばかりなのか(DIAMOND online)

 「入社時は女性のほうが積極的で優秀な人が多かったのに、10年経つと女性は大したことがないな。やっぱり優秀な仕事をするのは、男性だな」

 そんな声をよく耳にします。しかし、これこそが男性と女性の仕事を職務的、もしくは役割的に分けてしまった結果であり、女性は経験不足からうまくキャリアを築けないことにつながるのです。

 

 さて、「入社時は女性のほうが積極的で優秀な人が多かったのに~」とのこと、他の記事でも似たような話を聞いたものですが、お笑いダイヤモンドでは「これこそが男性と女性の仕事を職務的、もしくは役割的に分けてしまった結果」と主張しています。しかしまぁ、本当のところはどうなのでしょう。この辺もまた日本的採用の問題と言いますか、業務とは無関係な部分で評価を付けてきた結果であるようにも思われます。つまり就職の時点で求められるコミュニケーション能力においては優秀な女性が多かったのに、実際に仕事をさせてみたら違った、と。人事担当者の目論見とは違った結果が出るのは、いつものことですから。

 

 さらには、女性の特性も考慮しておく必要があります。男性は経験したことのない仕事に関しても「できる」と答える人が多い一方、女性は経験したことがない仕事は「できない」と考えがちです。これは男女の考え方の違いからくるものです。実際にその仕事をしたことがあるかどうかで判断するのが女性であり、その仕事の経験がなくても今までの経験から繋ぎ合わせてできるかどうかを判断するのが男性ということで、自信にも大きく影響します。

 しかし、会社側は、この女性の謙遜を鵜呑みにして、「できないなら仕方ない」とすぐ判断しがちです。そのため、男性は経験を積み重ねることができる一方、女性は限定的な仕事へ……とキャリアの格差が開いてしまうのです。

 

 引用の順番が前後するのですけれど、この辺はいかがなものでしょうか。占い師に言わせれば「女性の特性」として経験したことがない仕事は「できない」と考えがちなのだそうです。へー。そして「会社側は、この女性の謙遜を鵜呑みにして~女性は限定的な仕事へ……とキャリアの格差が開いてしまう」とのこと。ふーん。ダイヤモンドの断言する「女性の特性」という論理には全く納得できない――これもまた古くさい男女差別の発想にしか見えない――のですが、ただ何でも「できる」と回答する人と「できない」と判断する人とでキャリアの格差が生まれることは割とあるように思います。

 言うまでもなく「できる」と答える人の方が上からの評価は高くなる、それは男性女性を問うものではありません。むしろ「できない」という答えは「失格」として受け入れられない、そんな職場も多いのではないでしょうか。私の勤務先でも、「できない」と答えることはNGです。先日は他部署の馬鹿が無茶振りしてきて、「それは○○ですから無理ですよ」と説明してやったのですが、そいつは「でも社長に対して『できない』とは言えないじゃないですか」と宣い、こちら側が「できます」もしくは「やります」と言うまで同じ質問を繰り返すわけです。なるほど、こういう人だからこそ出世している、若いのに社内での評価が高いんだな、と痛感しました。

 ……で、この私の勤務先の経営状況がヤバイという話を先日は書きました。結局のところ社長や役員など経営層の思いつきに周りの人間は「できます」「やります」としか言わない、そういう人間にしか権限が与えられていない、その結果として会社の資金繰りが危うい状況に陥っていたりします。上の人間の甘い目論見が実現不可能であることをずっと早い段階で気づいていた人は、私を含め下っ端にはいくらでもいました。しかるに正しく先を見通す人の声に耳を傾けるような仕組みがなかったために、何の対策もないまま深刻な業績不振に直面してしまったわけです。

 上の――すなわち人事に影響力を行使できるような――人は、総じて自分の計画に対して「できます」「やります」と肯定的な反応を見せる人を好むものです。そして「無理です」「不可能です」と答える人を「矯正」するのが会社の教育だったりします。現実には「できない」という判断を下すことが将来への正しい予見であることがしばしばですが、これを受け入れられない人が会社の偉い人には多いのでしょう。何でも「できます」「やります」と部下に言わせて都合良く物事が進むことを前提にする、これもまた日本的経営なのかも知れません。引用元の自称経済誌で語られているような「女性の特性」なんて代物とは全く別の問題があるのではないでしょうかね。

 

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子供を盾にする人ほど気持ち悪いものはない

2014-11-24 21:31:10 | 社会

 来る衆院選に向けて盛り上がっているのか盛り上がっていないのか今一つ掴めない昨今ですが、どうしたものでしょう。自民党にも色々と駄目なところが目立つ反面、その対抗馬となりそうな野党第一党、第二党の主張は輪をかけて酷いなとか、その他の小政党はそもそも自分の住む選挙区に候補を出すかどうかも怪しいし似非科学べったりのところが多くて目眩がしてくるとか、加えて結果が半ば見えているところもあるだけに気乗りがしない人も多いのではとも思います。野田元首相が自民党との約束を律儀に守って己の所属政党の不利を厭わず解散に踏み切ったのに対し、現首相はキッチリ自政党の不利にならない時期を見計らったようで、後者の方が頭は良いのだろうなという気はしますが……

 そんな中で、小学4年生(自称)が作った「どうして解散するんですか?」なるサイトが、民主党のTwitterアカウントでの宣伝もあって話題を呼んだりもしたみたいです。そうした民主党の振る舞いが自作自演臭いとさらなる嫌疑を呼んだり、元より小学4年生が作ったというのが嘘くさかったりして、何ともムダに反感を買っている感じですね。実際のサイト制作者は色々と前科のあるNPO代表(辞任することになったとか云々)らしく、これまた炎上の元と言った風情でもあります。

 なぜ今、解散しなければならないのか、その辺は自民党支持層ですら疑問に思うところでしょう。そうした疑問を突きつけるのは至極もっともなことです。しかし、それを「子供を騙って」行うのは実に嫌らしいな、と思います。とかく子供を盾にすると言いますか、自分の主張を子供に代弁させたがる大人は多い、本当に真っ当な主張であるなら正々堂々と己の口から騙れば良いのに、それを子供に語らせたがる人は少なくないわけです。「子供」という日本社会における大正義を盾にして反論を封じたがる人、自らを正しいものと位置づけようとする人、こういう人々の存在には反吐が出ます。

 まぁ、「誰が語ったか」は、時に語られる内容以上にモノを言います。子供が語ったことにすれば、それを否定する側が悪者にされる、現役女子高生が著者であれば普通のオッサンが書いた本よりも格段に売り上げが伸びる、大学教授や講師、あるいは経営者なりコンサルタントなり箔が付く肩書きを出せば怪しげな主張も真に受ける人が後を絶たない、名高い現代美術の大家の作であれば、落書きやゴミでもとんでもない高値が付く、世の中はそういうものです。

 会社の偉い人がろくなことを言えないのは、こうした世の中に甘やかされてきた結果なのかな、とも思います。下っ端の言うことなら内容の理非にかかわらず退けられる、逆に偉い人の言うことならば周りの人間は(少なくとも表向きは)異議を唱えず頷くばかり、これでは「何を言うか」について頭を使う必要がありません。何を言おうが結果は一緒、要は自分が偉いかそうでないかが全てを決める、そんな組織では馬鹿しか育たないものなのでしょう。

 

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消費税増税の是非を問わない選挙

2014-11-22 10:58:25 | 政治・国際

 さて衆議院が解散され、12月に選挙ということになりました。「別にやらなくてもよくね?」と思う人も多いのではないでしょうか。今のままでも普通に自民党の一強であって、これを覆されるリスクを冒す必要など解散の決定権を持つ側にはどこにもないわけです。まぁ、勢力図が反転する可能性はゼロに近い、一方で何か不測の事態で逆風が吹いた時期に衆院の任期満了で時期を選べないまま総選挙という事態は避けたい、ならば今のうちに済ませておくのが得策と、そう判断されたのかも知れません。

 強いて言えば民主・みんな/結い・維新などの似た者同士が手を携えて自民党に対抗してくる事態は懸念された可能性がありますが、往々にして政策的な距離よりも感情的なしこりの方が政党同士の連携においては障害となるものです。民主やみんな、維新が政策面で合意することは難しくない、埋めるべき溝など微々たるものと言える一方で、感情的な対立――というより「好き嫌い」――には乗り越えがたいものがあるのではないでしょうか。かつては隆盛を誇ったみんなの党も、「どちらに付くか」を巡ってとうとう解党に至りました。どれほど方向性に一致があろうとも、民主と維新では主導権を争うばかりで連携して自民に当たるのは上手く行かないだろうと予測します。

 なお解散総選挙の口実としては、消費税増税の「延期」を巡って国民の信を問うみたいな話があるわけです。もっとも逆進課税派の最右翼にして最大野党の民主党が選挙のためのパフォーマンスとして「増税の先送りもやむを得ない」と心にもない嘘で国民を欺こうとしているだけに、安倍首相の語る大義名分は争点となっていないと言えます。どこかの党が強硬に消費税を増やして税の逆進性を強めるべしと主張しているならともかく、主立った党は逆進課税強化への欲望を選挙期間中は隠し通そうとしているのですから。朝日新聞や経済界に財務省が消費税増税を臆面もなく要求したところで選挙で戦うのは政党だけ、結局はどの党に投票したところで消費税増税に対する国民のメッセージは、ハッキリしないものになってしまいます。

 ただアベノミクスの失敗云々と民主など野党筋は強弁するところですが、消費税を上げる前までは「民主党政権時代とは違って」景気は上向いていたわけです。この辺を巡る態度で、各政党の真意はやはり分かれるかなと思います。消費税増税という世紀の愚策によって景気回復に水を差されたと認めているのか、それとも消費税増税の失敗を認めずに「アベノミクスの失敗だ」と言い募るのか、まぁ結局は消費税増税という民主党との約束を守ってしまった安倍内閣の過ちでもありますけれど、昨今の景気の旧失速の原因を何に求めるかで、その政党が現実に向き合えているかどうかは判断できるのではないでしょうかね。

 

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業務とは無関係なことを問うてこそ日本の採用というもの

2014-11-19 21:56:03 | 社会

教員採用:心理テスト、受験生ら募る不信(毎日新聞)

 教員本来の能力とは関係がないとみられる質問を含んだ心理テストが、一部自治体の教員採用試験の適性検査で行われていることが15日、明らかになった。精神疾患の有無を判定するための指標として、米国で約70年前に開発されたとされるテスト「MMPI」。受験した教員志望の学生や関係者からは、採用との因果関係が不明で人権侵害につながりかねない質問内容に、不信の声が相次いでいる。【藤沢美由紀】

(中略)

 受験した女子学生(22)は親や宗教、性別役割分担などに関する質問が含まれていたことに「プライバシーに関することであり、嫌な思いをする人がいるだろうと違和感を覚えた」と振り返る。別の男子学生(22)は一緒に受けた友人らと「宗教についての質問はおかしい、と後で話題になった」という。

 性的マイノリティー(LGBT)の自殺防止などに取り組む団体「いのちリスペクト。ホワイトリボン・キャンペーン」共同代表で、心と体の性が一致しない「トランスジェンダー」の遠藤まめたさん(27)は2010年、埼玉県の公務員採用試験でMMPIとみられる適性検査を受け、「同性にひかれるか」などの質問にショックを受けた。結果は不合格。ところが2年後、性同一性障害の診断のために通ったクリニックで同じ検査に出合った。

 

 日本人は占いが大好きですから、こういう性格診断みたいな類を採用試験で使いたがる人は多いのかも知れません。ともあれ本当に役に立つかどうかは疑わしい心理テストではありますけれど、受験者のプライバシーを探る性質の強い試験であり、問題視されるのは当然と言えるでしょう。この辺は採用される側ではなく採用する側に、しっかりと教育をしていく必要があるように思います。新人研修で人権だのコンプラだのと称して通り一遍の内容を申し訳程度に朗読している企業も少なくはなさそうですが、実際にその意味を理解している人は教える側にこそ希少でしょうから。

 しかしまぁ、こうした思想信条を問う試験を課しておきながら、ペドフィリアや似非科学の信奉者を排することはできていないとすれば、実に虚しいことです(むしろ反対にペドフィリア的傾向を教員への適正としてプラスに評価している可能性も微粒子レベルで存在している?)。そして宗教の中には、かの下村博文ですら匙を投げて大学開設にストップをかけるほどのアレな類もありますけれど、危険なのは決して宗教だけではありません。新聞報道でも好意的に報道される類の似非科学やニセ医療、経済誌の超理論を真に受けているような人が教育者として権力を持つのは大いに危ぶまれることです。

 心理テストで受験者の内心にまで踏み込もうとするのなら、せめてもう少し別のことを問うべきでもあったでしょう。まぁ、普通の民間企業でも研修と称して新人を自衛隊に体験入隊させたり、採用時に血液型を問うなど、実務とは無関係なことを重視してこそ日本的な雇用関係というものなのかも知れません。仕事そのものの能力よりも別の何かで評価したがる、そうした日本的評価の問題という観点からも、上で伝えられた事項は批判的に検証される必要があるようにも思います。

 

性的マイノリティー:「授業で触れず」教員8割(毎日新聞)

 「LGBTについて授業に取り入れた経験」を聞くと、「ある」は約14%で、約78%は「ない」と回答。「授業に取り入れない理由」(複数回答)で最も多かったのは「教える必要性を感じる機会がなかった」(約42%)だった。

 一方で、性同一性障害の子供に関わった経験がある教員は約12%、同性愛が約8%。LGBTは「20人に1人はいる」とされ、教室に少なくとも1人はいると見られる。だが、LGBTの子供に教員が気付けないために、授業にも結びつかない様子がうかがえた。

 LGBTについて教育学部など出身養成機関で学んだ経験は、性同一性障害と同性愛が各約8%といずれも1割に満たなかった。同性愛について「本人の選択によるものだと思うか」という問いへの回答は「そう思う」が約39%、「分からない」は約33%。性的指向は個人の選択ではなく生まれ持つものだが、7割以上の教員が正しく理解していなかった。

 

 一方こちらは、少し前の報道ですが採用された後の教員の実態です。なるほど、採用する側が性的マイノリティの問題に無頓着になる理由の一端は、採用される教員の側にもありそうです。自分自身がLGBTの教員が多ければ多少は意識の持ちようも変わるのかも知れませんけれど、そういう人は採用の段階で排されてしまったり、あるいは養成課程で脱落させられてしまう、そうならずとも口を閉ざすようになってしまうことも多いのでしょうか。経緯はともかくとして、結果的に性的マイノリティについて語ろうとする学校教師は至って少数派のようです。

 そして引用した段落の3つめでは、「性的指向は個人の選択ではなく生まれ持つものだが、7割以上の教員が正しく理解していなかった」ことが伝えられています。ふむ、そもそも教員が教えないという以前に、養成課程において「教えられてすらいない」という問題もまた根が深そうです。まぁ何事も「本人の選択によるものだ」と自己責任論で片付けてしまうのもまた日本社会では広く受け入れられているわけです。イジメの問題と同じでマイノリティがマイノリティである限り、孤立した子を泣き寝入りさせてしまえば学校側はノーダメージみたいなところもあるのでしょう。学校なんてのは断じて、聖職者の居場所ではありませんから。

 

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「食」の修正主義

2014-11-16 23:23:33 | 社会

「餃子の王将」、なぜ本場中国で失敗したのか(東洋経済)

 しかし、日本に来ている中国人の多くが感じているように、「日本の中華」は中国人の味覚に合わない。味が濃すぎる。調理法が極端に「炒(いためる)」中心で「蒸(むす)」「烤(やく)」「燉(にこむ)」「炸(あげる)」などのバラエティに乏しいから、メニューが少ない。

 

 ここで挙げられている王将のような日本の中華料理チェーン店は元より、中国人が経営している街の中国料理店でもやっぱり中身は「日本の中華」になってることが多いですよね。決して「本場の味」ではなく、日本の客に合わせた味になっているのが普通です。そんな「日本の中華」を中国大陸に持ち込んで撤退する羽目になったのが王将で、引用元で触れられている以外にも日本的な労使関係が海外では通用しなかったとかもありそうな気がしますけれど、まぁ成功はしなかった、と。

 ……で、時には「日本人向け」の中華料理店ではなく、日本語ではない言葉を話す人々がたむろしている異境感漂う中国料理店にも行ってみたりするのですが、総じて「味が薄い」と感じるわけです。引用元、というより引用した箇所でも「日本の中華」は「味が濃すぎる」と指摘されています。昔から日本食は塩分が多すぎると言われてきたところ、基本的に日本の食文化は塩気が強いものであり、そこに慣れ親しんだ日本人の舌を基準とした「普通」は、ヨソの国の人間にとって塩辛すぎるのかも知れません。

 

生徒の約7割が給食を食べ残し…大阪市立中学校(読売新聞)

 仕出し弁当方式の中学校給食を本格導入したものの、「冷たい」「おいしくない」などと不満が相次いでいる大阪市で、生徒の約7割が日常的に給食を食べ残していることが、市教委の調査でわかった。健康に配慮したあっさりした味付けは、脂っこいファストフードなどに慣れ親しんだ世代には敬遠されがち。市教委は新レシピを導入するなど、対策に追われている。

(中略)

 調理施設などの整備にコストがかかることから、民間業者が調理、配送する方式を採用しており、おかずが約10度に冷やされていることが不評の一因。さらに、文部科学省の「学校給食摂取基準」に沿った塩分量などにするため、薄味になっていることも生徒には不満だという。

(中略)

 バスケット部の1年男子生徒は「味が薄い」ことを理由に給食を半分程度残すといい、母親(44)は「毎日帰ってくるなり『おなかが減った』と言い、夕食は山盛り食べる。給食を全部食べればいいのに」とあきれ顔だ。

 市教委幹部は「栄養バランスの改善も給食の目的の一つ。薄味に慣れるよう、家庭でも味付けに配慮してもらいたい」と話す。

 

 そして、こんな報道もあります。曰く「健康に配慮したあっさりした味付けは、脂っこいファストフードなどに慣れ親しんだ世代には敬遠されがち」云々との決まり文句じみた主張から始まるわけですが、どうなのでしょうか? 日本的な価値観からすれば、肉も魚も脂が多いものが上等とされるのが一般的、それはファストフード云々とは別のところから始まっていたはずです。そして日本食は元来、塩分の多い代物です。結構な高齢者であっても、「健康に配慮したあっさりした味付け」の病院食などには辟易しがち、もっと塩味の濃いものを好む人が多いように思います。断じて「ファストフードなどに慣れ親しんだ世代」の問題ではないでしょう。

 「バスケット部の1年男子生徒は『味が薄い』ことを理由に給食を半分程度残す」そうですが、家に帰れば「夕食は山盛り食べる」と伝えられています。母親はあきれ顔と伝えられていますけれど、私が疑問に思うのは「味が薄い」と言って給食を残す子供が、家では「山盛り食べる」のは何故なのかと言うことですね。それは要するに、家の食事が学校給食とは違って「味が濃い」からなのではないでしょうか。結局、ファストフード云々は言いがかりに過ぎない、日本の家庭の味は古来より塩味濃厚なのです。とかく健康的なイメージを捏造されがちな日本食ですけれど、そこまで良いものではありますまい。

 

完全米飯給食 - 三条市

日本人が長い時間かけて築いてきた、優れた食習慣が崩れかけています。
心身を元気にしてくれるはずの食が、病気の原因にもなっている…。

このような現状を何とかしたいと、三条市は食育を進め、中でも次世代を担う子どもたちへの食育には力を入れています。

 「子どもたちを変えることができれば、親になったときに三条市の食生活が変わり、市民の健康レベルは向上する!」
このような考えから、完全米飯給食を起点とした、食育に取り組んでいます。

 そして最後に、新潟県は三条市の公式から。なんと言いましょうか、この政策を訴え図まで作った人の食生活が気になります。もし米ばかり食べた結果がこんな調子なら、頭が悪くなるから米の摂取は控えましょうとでも警鐘を鳴らしたくなるレベルです。でもまぁ、こういう風が吹けば桶屋が儲かる系の論理は、経済誌とかなら普通に見られるものですよね。三条市ばかりが特別ではありません。

 歴史修正主義は、決して戦前戦中ばかりを対象としたものではないのだな、と思います。日本の「食」に関してもどうなのやら。三条市が公式に語る「日本人が長い時間かけて築いてきた、優れた食習慣」とは、いったい何なのでしょう。一見すると「左」と目されがちな論者でも、こと「食」に関しては日本食に対して排他的優越意識を隠さない人も少なくありません。そんなに日本食は健康的なのか、そもそも想定されている日本の食習慣とはいつの時代を指すのか、それとも古来から近世まで不変であるかのように勘違いされているのか、首を傾げたくなるところは多々あります。なにせ新潟の米は「鳥またぎ米」と呼ばれ、味の悪さで有名でした。新潟が米どころになったのはほんの半世紀前からのことでしかありません。鳥も食わないまずい米で悪名高かった新潟で「長い時間かけて築いてきた、優れた食習慣」とは?

 

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No, We Can't!

2014-11-13 22:54:53 | 雇用・経済

 アメリカの労働省が発表した10月の雇用統計によると、景気動向を反映する非農業部門の就業者数は季節調整済みで前月比21万4000人増となり、失業率は前月から0.1ポイント低下し6年3カ月ぶりの低水準となったそうです。9カ月連続で雇用の持続的改善に必要とされる20万人以上の伸びを維持したとも伝えられ、オバマ政権の経済運営は十分に上手く行っているように見えるのですが、アメリカ国民はオバマ政権を支える米民主党には投票したがらなかったわけで、まぁ皮肉な話です。もっとも日本も自国の経済的地位を失墜させ格差を急激に拡大させた総理が絶大な人気を誇り、朝日新聞などからは今なおヨイショされ続けているのですから、大事なのは実績ではなく別の何かということなのでしょう。

 一方で私の勤務先の会社はと言うと、ちょっと深刻な事態に陥っているようで毎日のように役員が各部課の管理職達を怒鳴りつけていたりします。末端の非正規社員にまで聞こえるような場所で会社の行く末が見え隠れするような話をするのはどうかと思うところ、どうせ私が真面目に働いてもろくな給料なんてもらえないのですから、どこかに会社の内部情報でも売りつけてやりたくもなりますね。掻い摘んで言えば、ここまで見込んでいたような利益が全く出ていない、当初の予測と実績があまりにも乖離していて会社の事業計画が根底から狂うレベルになってしまったわけです。やれやれ、こうなるのは「下」の人間にはわかりきっていたことなのですけれど。

 私の席から見える位置に、ある役員が座っていまして、この人が「馬だ」と言えば鹿でも馬になるくらい社内では権勢を振るっていたりします。で、この馬鹿が諸悪の根源と言いますか、むやみに営業目標を引き上げては、それに基づいて事業計画が策定されてきました。そんな非現実的な目標設定が実現されるはずもなく、昨季まで無理をして何事も前倒しで売り上げを作ってきた反動も重なり、今年は例年になく予定していた数値と実際に上がってきた数値がかけ離れ、ちょっと危険な領域に足を突っ込んでしまったわけです。もっと早い時期から実際の営業成績に合わせて手を打っておけば、もう少し将来の展望は開けたように思われるところですが、今となっては後の祭りですね。

 もっとも、その役員が一人で経営を揺るがしたわけではありません。その専横を許した社長もいれば、取り巻きの部長や課長達にも責任はあるでしょう。馬鹿が明らかに達成不可能な目標を掲げたときに、各部門の管理職達は軒並み「できます」「やります」と回答してきたわけです。そこで役員は自分の持ち出した数値が達成可能なものと思い込み、甘い夢を見ていたのかも知れません。それを社長に報告して、この役員に絶大な信頼を置く社長もまた甘い夢を見ていたのでしょう。夢の賞味期限は長いものではありませんでしたが……

 「君側の奸」という言葉もありますけれど、上述の役員がそれに該当するのでしょうか。ただ私が思うに、「君側の奸」を除けば済むというものではないな、とも。結局のところ、こうした馬鹿が高い地位に上り詰めてしまう、そういう評価の仕組みが残っている限りは、趙高なり十常侍なり黄皓なりを斬首したところで新たな馬鹿が権力を握るだけです。結局のところ会社で人事に影響力を及ぼしているような人に気に入られるのは「上」に対して「できます」「やります」「達成して見せます」という人ばかり、「上」のご機嫌を取ることに秀でた人ばかりなのですから。

 会社の掲げた目標が実現不可能であることは、社長と上述の馬鹿役員以外には、概ね最初から分かっていたことだと私は思っています。ただし、「無理です」「できません」と回答することは許されていませんでした。それこそが現状を正しく伝える声なのですけれど、権力を手にした馬鹿は自分の設定した目標を部下達が実現できないとしたら、それは怠慢だとぐらいにしか思っていなかったのでしょう。真実を伝える声に耳を塞ぎ、自分に阿った答えを鵜呑みにして事業計画を策定、それで会社を傾かせる、愚かな話です。まぁ、「不可能です」「やれません」「そんなに上手く行くはずがありません」――そう現状を正しく報告する人が重用されないようでは、どこの会社も遠からず頭を抱える事態に見舞われるのではないのでしょうかね。

 

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相変わらず酷すぎる神奈川新聞

2014-11-10 23:16:49 | 社会

【社説】文化の日に 萎縮する現状の打破を(神奈川新聞)

 現在の日本はどうだろうか。寛容さが失われ、閉じられているとはいえないか。

(中略)

 端的な例が、インターネットを通して全国に支持者を集めた「在日特権を許さない市民の会」であろう。日本社会で長い時間を生きてきた在日韓国・朝鮮人を他者として排除するヘイトスピーチを続けている。その動きに呼応するように、書店には「嫌韓」「嫌中」本が並ぶ。

 被ばくにまつわる表現が政治家までも巻き込む騒動を巻き起こした「美味しんぼ」の例は、タブーに触れれば社会から攻撃される、という現状を分かりやすく示した。さまざまな意見に向き合い、受け止め、建設的に議論を進めるという健全な動きが見られなかった。

 

 朝日新聞を筆頭に全国紙には酷い報道が目立つわけですが、地方紙がマトモかと言えばそんなことはなく、この神奈川新聞のような類も少なくありません。批判的に論じられる対象として全国紙が挙がるのは、あくまで有名税的なものであって地方紙も質の悪さでは変わらないのだなと思いました。

 ……で、ここで引用したのは神奈川新聞が明治天皇の誕生日に垂れ流していた社説です。なんと言いますかまぁ、桜井誠という通名で知られる在特会の会長やその辺の支持層も「(在日韓国・朝鮮人の)タブーに触れれば社会から攻撃される」と思っているのであろうと推測されるところです。ある意味、神奈川新聞と在特会は根底において通じ合っているような気がしますね。

 福島――の在住者や出身者、農産物や土地――を指して、何ら根拠もなく事実に反して「危険である」「避けるべきである」と主張することが神奈川新聞の言うように「さまざまな意見」であるならば、同様に在日韓国・朝鮮人を「危険な存在である」「有害である」と説くこともまた、「さまざまな意見」と扱われるべきでしょう。福島を「避けるべき危険」と見せかけるデマも多様な見解と正当化されるなら、在日韓国・朝鮮人の存在に警鐘を鳴らす人々の主張も同様ですから。

 全くの妄想に基づいた言論によって何かを排除の対象に仕向けようとする、それが許されるのかどうかは対象が福島であるのか、それとも在日韓国・朝鮮人であるのかによって左右される問題ではないはずです。福島に対するヘイトスピーチが許されるなら、在日韓国・朝鮮人に対するそれも言論の自由の範疇に入ってしまいます。もしどちらのヘイトスピーチも許容するというのなら、ある種のアナーキズムとして筋は通りますが、一方のヘイトスピーチは批判し、もう一方は言論の自由であると主張するのなら、これほどまでに見苦しい身贔屓はないなと感じるところです。

 神奈川新聞の世界観では、「美味しんぼ」は「タブーに触れ」たために「社会から攻撃され」たそうです。在特会の頭の中も、神奈川新聞と同じだと思います。自分たちが「社会から攻撃され」るのは「タブーに触れ」たからである、と。似た者同士ではあるのでしょう。ただ単に、自分たちの妄想によって危険視する対象、排除すべきだと主張する対象が異なっているだけです。

 まず身内を正せない人々は醜悪だな、と思います。隣国を非難するよりも前に、自国の歴史を直視するぐらいできない人は恥ずかしいなと感じるわけですが、今回の神奈川新聞の場合はどうなのでしょうか。福島に関して誤ったイメージを植え付けようとするような言説を否定できない人が、同様に在日韓国・朝鮮人の誤ったイメージを植え付けようとする言動を非難するというのも身勝手な話です。まずは自分の肩入れしている側が間違ったことを言ったときに、それを制止できないのであれば、その人の自浄能力は推して知るべしです。

 

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何が必要か考えられた結果

2014-11-08 11:26:33 | 社会

善意の寄贈本に苦慮する図書館 使えるのは1~2割「何が必要か考えて」(産経新聞)

  各地の図書館が、市民から善意で寄せられる「寄贈本」の対応に苦慮している。すでに所蔵しているものと重なったり、古い学術書などは研究が進んで内容が大きく変化したりと、図書館にとって活用しにくいものが多く、実際に棚に並べられるのは1、2割程度。専門家は「寄贈前に図書館にとって必要か考えてほしい」と訴えている。(横山由紀子)

(中略)

 兵庫県宝塚市の市立中央図書館では、ホームページで、「寄贈はベストセラーや新刊図書、郷土資料などに限る」と告知している。さらに、寄贈してほしい本として利用者からの予約の多い本のランキング表を掲載。同館司書の藤野高司さんは「ベストセラー本はありがたい」と話す。それでも寄贈本はあふれる一方で同館も、リサイクルコーナーを設けて対応している。

 常世田教授は、「寄贈本は本人の手元になくてもいい本であり、図書館が求める方向性と合わないのも当然といえる。寄贈前に、図書館が本当に必要とする本なのか考えてみてほしい」と話している。

 

 ……という報道ですが、「善意の寄贈本」とは何なんだろうな、とも思います。私の知る限りでは、学者が死んで、その遺族が故人の蔵書を処分するために「寄贈」しているケースが多い印象なのですけれど、流石にその辺の統計はないのでしょうか。できれば是非「寄贈」を受ける図書館側には、「これはあなたの蔵書ですか、それとも個人の遺品ですか?」と聞いてみて欲しいような気もします。まぁ難しいことではありますが、「寄贈」の実態をより正確につかむことは必要なはずですから。

 ただ寄贈される本は専ら、図書館側の要望に添うものでないことは今回に限らず前々から繰り返し言われているわけです。曰く「寄贈はベストセラーや新刊図書、郷土資料などに限る」「ベストセラー本はありがたい」と。確かに図書館需要の最大公約数的なものは、無料貸本屋としての役目なのでしょう。話題の新刊、ベストセラーを豊富に取りそろえて、購入することなく流行の本を読みたい市民の要望に応える、それが民意に合った図書館の在り方になっていると言えます。

 まぁ、行政も民意に媚びるのが一般的であるように、図書館もまた例外ではないのだと思います。学術書なんていらない、古い本なんていらない、利用者からの人気ランキング上位に位置する本を複数在庫しておけば、図書館に対する支持率も稼げるというものなのかも知れません。ただ私が思うに、今の図書館は「民業圧迫」になってもいるのではないでしょうか。一般書店の主力商品であるベストセラー本や新刊の書籍を無料で市民に貸し出してしまう、それは民間企業である各書店に不利益を与えるものです。

 民間にできることは民間で、という主張も古くから喧しいところです。そうした主張の中には「それを民間に委ねるのは無理がある」類も少なくありませんが、今の図書館が担っている貸本事業に関してはどうなのでしょう。話題の新刊、ベストセラーを読みたい人の手に届ける、こんな役割はよほどの過疎地でもない限り、民間企業(普通の書店)でも賄えることです。本屋の店頭でも買える書籍のために税金を投じて無料の貸し出しを行う、これは本にお金を使いたくない人の利益にこそなりますが、私は良いことだとは思いません。

 逆に図書館という非営利の公共施設でこそ可能なのは、書店にない本、市場からの需要を失って簡単には手に入らなくなってしまった本、そうした書籍の蓄積です。ただまぁ、それだと利用者が減ってしまうのでしょうね。文化の担い手、知の担い手であろうとすれば、これを利用する人の数は限られてしまう、利用者が減れば予算も削られ図書館の存続も怪しくなる、それを避けたければ民業圧迫など意に介さず、ベストセラーと新刊図書をかき集めて無料貸本屋として市民に尻尾を振る――結果として現状に辿り着いてしまうのでしょう。

 

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自分を守るためには、闘うしかない

2014-11-05 21:56:39 | 雇用・経済

マタハラで頼れぬ、「伝書バトのような」労働局(読売新聞)

 最高裁判決で注目されたマタニティー・ハラスメント(マタハラ)だが、問題解決のために全国の労働局で行われている「紛争解決援助」や「是正指導」の実績は低迷している。

 マタハラに対して罰則規定がなく、行政が企業を強く指導しづらい背景もある。被害者らは「妊娠や出産でハンデを負う女性の立場を理解してほしい」と訴えている。

 ◆「伝書バト」

 「働く女性の味方になってくれるはずの労働局が力になってくれなかった」

 東京都内の会社で働いていた30歳代の女性は振り返る。昨年、長男を出産。産休と育休を計6か月取得したところ、職場復帰1か月前に上司から呼び出された。

 「保育園の迎えや子どもの病気で仕事に穴が開くと困る」。退職の勧めだった。

 驚いた女性は、労働局が間に立って解決を図る紛争解決援助を申し立てた。だが、会社の話を聞いた労働局からは、「お互い譲り合ったらどうか」と、解雇を受け入れて金銭で解決するよう打診された。

 女性は援助手続きを打ち切り、裁判官らが事実関係を調べる労働審判を申請。すると、「解雇は無効」と判断された。

 結局、会社を辞めた女性は、「労働局は伝書バトのように私と会社の主張をそれぞれに伝えるだけで、解決に導いてくれなかった。諦めて会社の提案をのむ女性も多いのでは」と話す。

 

 これは企業名が明示されていませんけれど、似たような事例は多々あるのでしょうか。訴えを起こしたばかりの案件としては「たかの友梨」の従業員が会社を相手取った裁判が挙げられます。これは決して特異な事例ではなく、社会的な注目度が高まれば山のように見つけ出されるであろう問題なのかも知れません。

 

マタハラ被害者を叩く、日本の「現状」を考える(東洋経済)

別の事例をご紹介します。妊娠解雇に遭ったBさんです。Bさんは労働局にマタハラ被害を相談した際、会社側の味方をするような対応をされたといいます。Bさんと会社の間で退職条件が合わないと聞いた労働局は、Bさんのほうに会社側に歩み寄るよう勧めたのです。

「(労働局の)担当者はこれを『譲り合い』と表現しました。とても驚き、傷つきました。また『解雇は無効と考えていない』という発言にも驚きました。

労働局は私の(裁判での会社側への)請求額が高いなどといったことは判断できるくせに、会社側の対応が違法であるとの判断はできないと言います。労働者の味方をしない労働局。こんなお粗末な対応なら、二度と産まないと思ったほどです。これまでを振り返っても、労働局に相談していた時期がいちばんつらかったです」

 

 これが同じケースを報道しているのか別の事例から引いているのかは不明ですが、必ずしも珍しい風景ではないのだと思われます。結局のところ、マタハラに限らず男性でも妊娠していない女性でも同様で、会社と従業員の間の争いにおいて「労働局は役に立たない、むしろ会社の味方」なのではないでしょうか。会社側が一方的に不当な解雇をしていた場合でも、常に中立を装って労働者側に歩み寄りを促す、日本の歪な労使の力関係を演出してきた一因として、労働局の立ち位置は大いに疑われるべきものです。労働局がマトモに仕事をしていれば、こうはならなかったはずですから。

 学校における「イジメ」の問題でも、被害者側が退学させられるケースは決して少なくありません。教師は学校を守るものであって、生徒を守るものではないですからね。学校教師の行動原理としては「喧嘩両成敗」的なものがあって、暴行を加えた生徒と暴行を加えられた生徒の双方に「歩み寄り」を求めるような対応が一般的なイメージが強いのですけれど、どうでしょう。ちょうど、労働局の対応と似ていますよね。中立の立場として双方の言い分を聞く――そして双方に「歩み寄り」を求める、それが学校教師にせよ労働局にせよ「偏りのない対応」として染みついているように思います。

 あるいは逆に、「こっちを黙らせた方が簡単だな」と判断されてしまうこともあるのではないでしょうか。警察とかを相手にしたときなど特に顕著ですが、そういうことはありますよね。つまり片方が弱そう、大人しそうで、もう片方がうるさそう、強そうであった場合、前者を黙らせた方が簡単に問題が片付くわけです。学校のいじめ問題でしばしば教師が加害者側に荷担しているのは、被害者に泣き寝入りさせる方が加害者を制するよりも簡単だからです。被害者が泣き寝入りしている限り、いじめ問題は顕在化しない、学校にとっては平穏が保たれますから。

 労働局が間に入るような類でも同様です。横暴な会社組織と、職を失って困窮する個人とでは、与しやすさが全く異なります。労働局としては、どっちを引き下がらせるのが簡単なのでしょうか。答えは言うまでもありません。会社に「譲らせる」のは容易なことではないですけれど、弱い立場に追い込まれて労働局に泣きついてきた人間に「譲る」ことを迫るのは、至って簡単なことです。そこで労働局にとって問題を解決する上での最善手がどうなるのか――その結果として出てきたのが、上で紹介されているような事例と言えます。

 我々の社会で平和的に物事を解決するためには、相手を威嚇できる能力が必要なんだな、と思います。冒頭の事例で原告となった女性が、労働局の職員が震え上がるような恐い人であったなら、対応はずっと違ったことでしょう。わざわざ裁判で争うこともナシに問題を穏便に片付けることができたような気すらします。しかし、弱い相手と思われたら残念ながら、闘うしかありません。痴漢に遭いやすいのは色っぽい女性ではなく、専ら大人しそうな女性です。せくしーなお姉様でも、ちょっと男が怯むような迫力をお持ちであれば、痴漢と争うこともない、しかし弱々しい女性ですと痴漢につけ込まれやすく、それを警察に突き出すなどして闘う必要が出てくるものなのではないでしょうか。もとより会社からも「コイツは敵に回すと厄介だな」と思われていれば解雇されなかった可能性がある、逆に「コイツは聞き分けが良さそうだ」と思われれば会社は遠慮がなくなるものです。

 

一般的にいって、アメリカ企業は日本企業よりダイバーシティマネジメントが進んでいます。グローバル経営しているとか、人権意識が高いといった前向きな理由もありますが、雇用差別が経営にデメリットをもたらす仕組みが、企業に規律をもたらしている側面もあります。そしてその仕組みを担保するのがEEOCなのです。

たとえば、性差別訴訟に関連して、モルガンスタンレーは2004年に5400万ドル、ボーイングは2010年に38万ドルの和解金を支払っています。どちらの事例もEEOCのサイト内で社名を検索すれば、関連情報をまとめたプレスリリースを見ることができ、会社側が性差別の事実をどのようにとらえているか(否定していることもあります)、詳しい背景を知ることができます。

対照的に、日本の労働局雇用均等室のサイト内で、過去に性差別賃金訴訟で負けた企業名を入力しても、このようにわかりやすくまとまった文書は出てきません。マタハラ被害者からは、自分と同じような経験をした人をインターネットで探したものの、情報が得られなかったという声も聞きました。過去の事例もわからない中、被害者自ら立ち上がらなくてはいけないのが、日本の現状なのです。

 

 差別的な理由による解雇が横行している、という点で日本はアメリカに比べて解雇規制が実質的に緩いと言えます。このような社会においては、「個人的に闘う」という選択肢を選ぶほかはありません。誰しも、自分を守らなければなりませんから。善良な市民であれば、会社にも労働局にも「与しやすい相手」と見なされて不利益を被る、そういう仕組みができあがっているのが日本社会なのではないでしょうか。そうである以上は、相手にとって「嫌な人間」になるしかありません。聞き分けの良い人間になってしまえば、結局は会社や労働行政にとって都合の良い人間にしかなれないのですから。

 

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