非国民通信

ノーモア・コイズミ

生活保護「受給者」バッシングとその動機

2012-05-29 23:01:18 | 社会

生活保護支給引き下げ検討 厚労相、見直し表明(共同通信)

 小宮山洋子厚生労働相は25日午後の衆院社会保障と税の一体改革特別委員会で、生活保護費の支給水準引き下げを検討する考えを表明した。生活保護の受給開始後、親族が扶養できると判明した場合は積極的に返還を求める意向も示した。

 消費税の増税や年金額の切り下げなど、国民に痛みを強いる改革を進めているため、生活保護も聖域視せず、削減する必要があると判断したとみられる。

 過去最多の更新が続く生活保護をめぐっては、自民党が10%の引き下げを求めており、見直しの議論が加速するのは必至だ。

 

 この頃は芸人の河本氏の母親が受給していたとかで大騒ぎされている生活保護制度ですが、政府与党の見解は以上の通りです。伝えられるところでは「生活保護の受給開始後、親族が扶養できると判明した場合は積極的に返還を求める意向」とのことで、河本氏の個別事例を念頭に置いた発言と推測されます。ヨーロッパでも極右が議席を持ってしまうなど、良識を欠いた人間が当選してしまうことを防ぐのはなかなか難しいものですが、輪をかけて大きな問題と思われるのは、そうした議員としての見識に欠ける人間の騒ぎ立てる問題を、あろう事か現職の閣僚が大真面目に取り合ってしまうことですね。片山だの世耕だのが喚き立てる妄言など一喝して退けてしまえばいいだけの話なのに、これを政治に反映させようとしてしまうのが民主党クォリティーなのでしょう。その職責をも鑑みれば最も罪が重いのは小宮山厚労相であり、率直に言って問責に値すると思うのですが。

 まぁ、小宮山厚労相ひいては民主党政権にとっては「渡りに船」だったのかも知れません。社会保障費は削りたい、それもできれば公務員人件費のように、削ることによって世間の喝采を浴びることが期待できる分野こそ削りたい、こうした思惑を持った政治家にとって生活保護費は格好のターゲットなのではないでしょうか。特異な事例を持ち出しては生活保護受給者への偏見を植え付けようとするネット言論や報道は枚挙に暇がありませんが、ちょうど都合良く槍玉に挙げる機会が巡ってきたわけです。共同通信に言わせれば生活保護は「聖域」のようで、この「聖域」に切り込むとあらば世間のウケは決して悪くないことでしょう。それがどれほど国民の生活を悪化させることに繋がろうとも、「聖域なき」改革は常に有権者の歓迎するところですから。

 河本氏の個別事例については既に述べましたので繰り返しませんが、成人した子が親に頼るのを恥とし、親もまた子に負担をかけるのを避けたがる社会で扶養義務云々とは酷な話でもありますし、同居中ならいざ知らず世帯を別にしている場合はどうなのか、離れたところに住む親族の生活が行き詰まったときでも、親族である限りは扶養を求められる社会へと小宮山厚労相は舵を切ろうともしているわけです。自己責任を重んじる社会としては整合性がとれているのかも知れませんけれど、そういう社会に私は誇りを持てませんね。

 それはさておき、生活保護を必要とする経済的弱者を慮る風を装いつつ、その実は生活保護「受給者」叩きに明け暮れている人も多いように思います。件の河本氏の問題を焚きつけた片山や世耕には反対しているつもりなのかも知れませんが、口にすることはと言えば河本氏の母親と同じく生活保護を受給した人へのイメージを悪化させるようなことばっかりなんて人もいるわけです。生活保護を受けているのはヤクザだみたいなレッテル貼りは、社会保障に反対する人ばかりではなく社会保障を大切だと表向きは掲げている人でも珍しくないのではないでしょうか。生活保護制度の問題を論じるフリをして、生活保護受給者への偏見を広めようとする人々にもまた、対処が必要であると言えます。

参考、生活保護に対する偏見を煽る人への対策も必要です

 世論を生活保護「受給者」バッシングへと駆り立てる動機の一つとして、「勧善懲悪」の世界観が挙げられます。どこかに「悪い奴」がいて、それを打倒することで問題が解決する、魔王を倒せば世界が救われるとする世界観ですね。この場合の「悪い奴」としては公務員であったり電力会社社員であったり、官僚であったり「古い自民党」であったり、あるいは中高年社員であったり外国人であったりと多岐にわたるのですが、生活保護行政においてその役割を担わされるのは現時点で生活保護を受給している人だったりします。現時点での生活保護受給は専ら暴力団員や単なる怠け者による不正であり、そのせいで「本当に必要な人」に生活保護が行き渡らない、不正受給を正すことが必要だ――と。

 もちろん「本当に」生活保護の問題に関心がある人ならば、日本の生活保護の貧困補足率はせいぜい20%程度に過ぎない、補足された20%の内ですら0.3%程度にしかならない「不正」受給がなくなったところで貧困補足率には誤差の範囲でしか影響を与えられないことを理解していると思います。不正受給がなくなって、その分が「そっくりそのまま」別の人に回されたところで「本当に必要な人」の1%にすら満たないわけです。必要な人が生活保護を受給できない漏給の問題に、少なくとも予算面では不正受給は全く影響していないのですが、しかし勧善懲悪の世界に生きる人にとっては「それを打倒することで問題が解決する『悪』」を設定せずにはいられないのでしょう。その結果としてもたらされるのは、不正受給問題への歪な注目であり、漏給の問題から世間の目がそらされることだったりします。

 もう一つの生活保護「受給者」バッシングの動機は、ちょっと適切な言葉が見つかりませんが「死なばもろとも」とか「悪平等」の類でしょうか。時に生活保護「受給者」バッシングに明け暮れる人を批判して「自分が貧困に陥ったときのことを想像できないのか~」と言われることがありますけれど、これはたぶん、あまり正しくない。もちろん富裕層からの受給者批判の場合は当てはまるかも知れませんが、それは彼らの恵まれたポジションからすれば致し方のないところでもあります。ただ富裕層は頭数としては常に少数派です。受給者叩きに熱心なのは富裕層ばかりではなく、むしろ中流以下、さらに言えば貧困層の中にこそ多いように思います。「自分が貧困に陥ったときのこと」を想像できているけれど、それがゆえに生活保護受給者へのバッシングに情熱を注いでいる人も多いのではないかと。

 自分が貧困化する可能性を想像できないのではありません。そうではなく、自らが貧困化しても「生活保護を受けられないこと」を想像できるからこそ、幸いにして生活保護を受けられている人を不当な受益者であるかのごとく思い込むのです。実際問題として、生活保護はごく一部の「幸運な」弱者しか受けられていないのが現状です。貧困ラインにあったとしても「普通は」受けられないのが日本の生活保護です。私だっていつ職を失って生活に行き詰まるか分かったものではありませんけれど、そうなってもたぶん生活保護は認められないでしょう。どれほど民間企業から「働けない」と判断されようとも、役所の窓口では「働ける」と太鼓判を押されるだけの話です。それは本当に良くないことなのですが、悲しい現実として生活保護を受けられている貧困層は「例外的に恵まれた」人となっていることは否定できません。ここから生活保護を受けられない「普通の」人々との格差意識が生まれます。

 ほんの一握りだけでも救われるのが良いか、誰もが「平等に」救われないのが良いか、前者に不公平感を、後者に公正さを見出しているのが我々の社会なのではないでしょうか。いかに貧しかろうとも生活保護を受給できるのは一部の限られた人に止まっている中で、その一部だけが救われることに不平等との思いを募らせる人々がいる、こうした人々が生活保護「受給者」を「聖域」の住人として誹謗中傷を繰り返しているように思います。そして政府与党の閣僚が、この世界観に乗じるわけです。かくして世間の支持の元で社会保障費を削減できる、それによって弱者の支持も期待できるという倒錯した事態にもなってしまうのでしょう。社会保障が穴だらけであるが故に、「運良く」社会保障の恩恵に与ることができた人が不当な受益者であるかのごとくに扱われ、より一層の社会保障の削減が「改革」として待望される、負の連鎖ができあがっているのです。

 

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被災地と戦う人々

2012-05-27 11:14:07 | 社会

怒号が飛び混乱 北九州 震災がれき(朝日新聞)

 東日本大震災で発生した宮城県石巻市のがれきを積んだトラックは22日、反対派の市民らと警察の怒号が飛び交う混乱の末に、北九州市にたどり着いた。現場では、逮捕者も出るなど緊迫した雰囲気に包まれた。

 午前9時5分ごろ、同市小倉北区の焼却工場近くの積み出し基地の手前に、がれきを積んだトラック6台が到着。だが、反対派の市民らがトラック前に座り込みを開始。熊本県から駆けつけたという主婦(41)は「北九州市が受け入れれば、九州の他県もやりかねない」と話し、座り込みを見守った。

(中略)

 午後4時前、警官が「排除します」と告げると、座り込んでいた反対派を警官たちが抱え上げ、トラック前から引き離し始めた。「がきれを石巻に戻せ」と反対派。反対派の一部は警官に体当たりするなど衝突が繰り返された。

 

 さて、先週は宮城県石巻市のガレキが北九州市に運び込まれました。震災ガレキの受け入れと言うより、あくまで試験的な焼却のために過ぎないのですが、これにいきり立つ反対派の人々もいたわけです。写真にもあるように「放射能ガレキNO!」だとか。これが、栃木辺りのガレキだったらどうなのでしょうね。福島第一原発から宮城県石巻市までは結構な距離があるようにも思うのですけれど、その筋の人にとっては「東北は一つ」のようです。以前にも岩手は陸前高田市の松が送り返されるなんてこともありましたけれど、この辺で騒いでいる人たちにとって、東北の地理的な位置関係なんてものは完全に関心の域外なのでしょう。自治体にはいつだって説明責任が求められますが、宮城のガレキまで危険視するような不勉強な人への説明責任を問うのは酷な気がしてきます。

 

北九州で放射能汚染がれき試験焼却に大反撃、搬入実力阻止したぞ!

 私は、5月22日、北九州市での放射能汚染がれき試験焼却阻止の闘いを先頭で闘いぬきました。
  私たちの仲間は、搬入が予定された5月22日の前夜から、「放射能ガレキNO」の横断幕をかかげ、焼却予定の日明(ひあがり)焼却工場前に陣取りました。午前9時。6台の汚染ガレキを載せたトラックが工場前に到着。トラックに体当たりをして止めるところから闘いの火ぶたを切り、さらにトラックの列の間に私たちの車を突入させ、トラックを完全にストップさせました。「やったぞ!」の歓声が上がり、これに市の環境局や警察はあわてふためいたことはいうまでもありません。
 
 長時間のにらみ合いが続いた午後4時すぎ。環境局が「業務妨害」の警告を行い、警察隊が一斉に襲いかかってきました。私たちは、トラックの前に座り込んでスクラムを組み闘いました。警察隊の暴行は容赦ないものでした。参加していた妊婦を押し倒し、足を踏みつける有様です。この暴挙に市の環境局職員も加わっていました。
  負けてたまるか! 若い女性は、排除されても泣きながら何度も舞い戻り、トラックにしがみついて抵抗しました。

 

 ……で、こちらは朝日新聞言うところの「反対派の市民」側のレポートです。結構、危ない橋を渡っているように見えます。しかしまぁ、宮城県のガレキを「放射能ガレキ」「汚染ガレキ」と呼んでは、あたかもそれが危険なものであるかのように言い張っているにも関わらず、その危険なはずのガレキを積んだトラックに躊躇なく突撃していける感覚は何なのでしょうか。まぁ、本気で宮城のガレキが危険だなどと思い込めるほどのバカではなかったのかも知れません。本当に関心がある人なら、宮城のガレキで放射「能」を気にする必要が無いことぐらい理解しているでしょうから。別にガレキに近づいたり接触したりしても大丈夫、ただなんとしてもガレキは阻止しなければならない、東北被災地の復興は阻止しなければならない、もっと住民を恐れさせなければならないと、そういう信念から行動したのであれば筋は通ります。

 しかしガレキの放射線は気にする必要がないにしても、警察への対応には注意が必要だったのではないでしょうか。それが正当性のある行為であったかどうかはさておき、自治体の要請を無視して居座りを続ければ、当然ながら警察との衝突は起こりうるものです。警察側の実力行使に問題が無かったとは言いませんが、ともあれ警察が強硬手段に出ることは予測できたはず、にも関わらず、そういう場面に妊婦まで連れ出した感覚は理解に苦しむところです。言うなれば空き巣が多発して警戒が呼びかけられているのに、わざと家に鍵をかけず、窓も開けっ放しで外出するような感覚でしょうか。そこで被害が生じたとして、確かに悪いのは空き巣かも知れませんけれど……

 原発や放射線「以外」の問題が著しく矮小化されがちな時代、関西を襲うであろう深刻な電力不足や福島周辺地域に向けられた差別意識や風評被害等々、より深刻な事態が招かれてもいるわけです。しかるに、放射「能」への恐れを言い訳にしたヘイトスピーチが横行する中でも、あくまで悪いのは原発であり電力会社だとばかりに、ヘイトスピーチを繰り広げる人々には無批判で、むしろヘイトスピーチを批判する側に対してこそ攻撃的な態度を取ったり、あるいは自らも積極的に憎悪扇動へと荷担する輩もいます。実に恥ずべき振る舞いですが――彼らに言わせればあくまで悪いのは原発である、ヘイトスピーチの横行もまた元を正せば原発が悪いのであって、責められるべきは原発なのだとヘイトスピーチに対しては全く反省する様子を見せません。

 そのような思考をする人にとっては、今回の座り込みで妊婦を含めた参加者に怪我人や逮捕者が出ようとも「悪いのは警察」で済まされてしまうものなのでしょう。悪いのは偏に警察であり、ガレキを受け入れようとする自治体であって、参加者の安全面に配慮しなかった主催者側の責任を問うのは筋違いだと、そう胸を張って言い切ってしまう人も少なくないのではという気がします。

 昨年の原発事故を過去の公害と並べて考える人もいます。しかし、まず先に健康被害があり、その後に原因探しが始まった公害問題と、まず先に原因として原発/放射「能」が設定され、その後に被害者探しが始められた原発事故とでは、根本的に様相が異なっている部分も目立つのではないでしょうか。健康被害を無くすために原因を探すのが公害への対処の仕方であるなら、原発を無くすために健康被害を探し出したのが原発事故への対処の仕方と、そうなっている人も多いように思います。諸悪の根源たる原発を糾弾するために、その犠牲者を欲している人の存在は決して否定できないはずです。

 「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある」だの、「今回の大震災と大津波、それに伴う原発事故は、低エネルギー社会への転換を促す天からの啓示」だの公然と言い放つ連中もいたものですが、他人の不幸を好機と捉えてしまうような人もいるわけです。ガレキ搬入への抗議行動で負傷者が出ないことが望ましいのか、それとも負傷者が出て欲しいのか、表向きは誰だって前者を選ぶでしょうけれど、その実は後者を願ってはいまいかと、とりわけ「反対派の市民」のレポートを見るに思うのです。ガレキ搬入の際に抗議する「市民」を負傷させたとあらば、ガレキを搬入する側のイメージは損なわれます。善悪を競うに当たっては、むしろ「貴い犠牲」が出てくれた方がやりやすい、自分たちを「弾圧される被害者」とアピールしやすいですから。

 ことによると、いまだに宮城のガレキが危険だなどと信じ込んだまま、それでも「危険を顧みず世のため人のために体を張る自分」という自己犠牲のヒロイズムに酔いしれている人もいたかも知れません。しかし、そうであるならば「ガレキを石巻に戻せ」との発言はあんまりですね。自分が危険だと思っているものを被災地に押しつけようというのですから。厄介なものなら尚更、幸いにして震災とは無縁でいられた地域が引き受けるべきものと思うのですが。

 実際のところ、放射「能」とは無関係にガレキは単に邪魔なだけではなく、放っておくと自然発火したりして、処理の追いつかない被災地に置いたままにしておくことは十分に危険なのですが、それはさておき自己犠牲のヒロイズムに酔いしれる人もまた危険です。とかく自己犠牲的なものが賛美される傾向がありますけれど、自己犠牲の賛美が広まれば、必ずや他人にも犠牲を強いることに繋がるのです。国政レベルでは何かと「身を切る改革」云々と、実際に切っているのは他人の身だというのは別にしても、誰かが自分を犠牲にしているのであれば、周りにそれを求められるのも致し方ないという雰囲気はないでしょうか。首相や首長、社長が自分の給与をカットしたのだから、公務員や従業員の給与カットも受け入れられるべき、逆進課税も受け入れられるべきみたいなノリはありますよね? 誰かが英雄的にも自らを犠牲にして、それが賛美されるのであれば、周りの人間にも後に続くことが求められるようになります。だから私は、自らを犠牲にする人、あるいはしているつもりの人を信用しません。

 

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未来を奪うもの

2012-05-24 23:25:26 | 雇用・経済

クルマがないと本当にモテない?甲斐性なし?
「若者のクルマ離れ」に警鐘鳴らす40代上司のウザさ(DIAMOND online)

 ソニー損保が発表した「新成人のカーライフ意識調査 2012」によると、新成人のうち普通自動車運転免許を持っている割合は56.7%。男女別では女性(51.2%)より男性(62.2%)の方が高く、地域別では都市部(44.3%)より地方(60.0%)の方が高いことが分かりました。今後、免許を取得予定とした人も少なからずおり、「取得する予定はない」は10.7%に留まっています。

 この結果からは、やはり今も潜在的には“クルマが欲しい・クルマに乗りたい”と考えている人が多いことが読み取れます。クルマへの興味・関心はさらに高く、全回答者のうち「クルマに興味がある」と答えたのは男性で64.2%、女性で48.2%。特に男性に至っては、2010年の前回調査より7ポイントも高くなっているそうです。

 

 よく言われる「若者のクルマ離れ」ですが、引用元では「実は世間が思う程、『若者のクルマ離れ』は起きてはいないかもしれない」等と書かれています。その理由としてソニー損保による「新成人のカーライフ意識調査 2012」が持ち出されているのですけれど、ちょっと説得力が弱いような気がしますね。まぁ掲載誌の水準からすれば、こんなものでも十分なのかも知れません。ともあれデータとして挙げられたのは「免許を持っている割合」です。それが一世代前に比べて多いのか少ないのか、例によって引用元では比較対象となるべきものが省かれているのはダイヤモンドだから仕方が無いとして、免許取得率と「若者のクルマ離れ」は、どこまで相関するものなのでしょう。

 とりあえず、国内における自動車販売台数の減少を伝えるニュースは頻繁に目にします。世代別の購入台数の推移はさておくにしても、とりあえず日本全体で車が売れなくなっていることは間違いありません。しかし、免許取得者は少なくないとしたら、それは購入意欲もまた決して衰えているわけではないことを意味するのでしょうか? むしろ私には、車が好きだから免許を取るのではなく、就職活動で選択肢を狭めないために自動車免許を取得している人の存在が思い当たるところです。そんなに車を使う仕事には見えなくても「要普免」となっている求人は多いですから。免許さえあれば就職先も広がる、就職難に押されて自動車免許を取得した/取得しようとしている人の存在も考慮されるべきです。

 後はまぁ、都市部(44.3%)より地方(60.0%)の方が免許取得率が高い、これは当たり前のことですね。商業施設が密集し、公共交通機関も整備された都市部と、良くも悪くも土地の余った田舎であれば、どちらが車を必須とするかは一目瞭然です。歩きと電車やバスでどこにでも行ける都会と、車がなければどこにも行けない田舎、都市部に人が集中すれば集中するだけ、自動車の必要性は薄れます。「若者の田舎離れ」が進めば自然と車からも離れていくものと考えられるべきでしょう。そして自動車が必須の地方で免許取得率が高いわけですが、本当に自動車を必要とする世帯であれば、既に所有しているのが一般的でもあるはずです。新たに車を購入する必然性は過去に比べて薄れていると言っていい気がします。「若者のクルマ離れ」以前に、既に国内の自動車は十分に普及しており飽和状態なのです。それでも尚、国内で自動車を作り続ける、いかにモノが行き渡ろうとモノづくりに拘るのが日本流だったり。

 

 20代の若手社員は入社早々にクルマを買うことはできないかもしれません。ですが、いずれは購入して彼女や家族とドライブを楽しみたいと考えていることを、40代も理解しておきたいものです。

(中略)

 部長は、勝手にKさんをモテない部類に入れ、自分は若いときに無理して高級車を買って楽しい生活を送っていたという武勇伝を語り始めました。周囲の先輩達から部長の武勇伝について話には聞いていたのですが、実際に傍で聞いていて堪えられない状況に陥っていました。

(中略)

 「部長。プライベートのことまで口出ししないでください。クルマは30歳くらいになれば買いますよ。それに給料が上がる保証がない賃金制度になりましたよね。部長の時代のように右肩上がりを前提にした生活を考えるのは無理だと思いますが、いかがでしょうか?」

 

 そして若者の「買いたくても変えない」事情が語られています。この辺は概ね理解されていることかとも思いますが、車を買う金がないのは「現在」と言うより「将来」の問題であることには注意が必要です。まず、往年の20代よりも現代の20代の方が基本的には収入が多いわけです。戦後最長の景気回復が続いた中でも日本で働く人々の給与水準は下がり続けましたけれど、新入社員の給与は比較的安定していました。中高年のように派手に賃金を切り下げられるわけでもなく、むしろ僅かながらも増えたりもしていたはずです。牽引してきたのは専ら非正規雇用であったとは言え、若年者向けの雇用だって結構な増加に転じた時期がありました。昔の20代に比べて、今の20代の方が金に苦労していると言うことは考えにくいところです。あくまで「現在」に限れば。

 問題は、引用元で架空の20代が語るように「給料が上がる保証がない賃金制度」になったことであり、加えて日本「だけ」が経済成長を止めたことであり、そして正社員であってすら将来の雇用が保障されない社会になったことにあります。年功序列型賃金の恩恵に与ることができたのは一時期の大企業における男性正社員限定の限られたにせよ、中小企業勤めや女性社員でも経済成長に伴って自然と賃金は上がった、やはり大企業と中小企業で歴然とした差があったにせよ安易に解雇されない、将来的な雇用に期待が持てた、そういう時代であれば貧しい若者でも「将来の収入」を計算に入れることができたわけです。今の収入では車を買うのは難しくとも、いずれは収入が増えることが見込まれる、ならば今からローンを組んでも大丈夫と、そう踏み切ることができたのではないでしょうか。将来の収入に手を付けることができたからこそ、一世代前の20代は豊かだったのです。

 しかるに、昔年の20代よりも給与面では恵まれているはずの現代の若者は違います。雇用側が「最近の若者はすぐに辞める」と不平を託つ一方で、長期勤続へのインセンティヴを用意しようとしなくなった時代です。長く勤めても給料は増えない、しかも会社側から「辞められたら困る」と言われるのは若い内だけ、いざ中高年になったら「アイツらが居座っているせいで若者の雇用機会が増えないのだ、早く辞めてくれないか、もっと簡単に解雇できるように改革が必要ではないか云々」と、次世代の若者のために席を譲れと迫られることでしょう。恵まれているのは若い間だけ、将来はどうなるか分からない、将来的に収入が増える見通しが立たない、そのような状況では自動車に限らず高価な買い物が難しくなるのは当たり前です。将来の収入が確実でないがゆえに、現代の若者は貧しい、と。

 「将来にツケを残すな」みたいなフレーズが幅を利かせがちですけれど、将来の収入を当て込んで貧しい20代の内に無理をして車を購入した40代が日本の消費、引いては経済を支えてきた、資本が循環するサイクルを拡大させてきたわけです。これが将来のために貯金を作ろうと節約に励むようになったら国内経済は収束に向かうばかり、後は輸出先となる国の好景気の「おこぼれ」を期待するしかなくなってしまいます。経済が成長して日本で働く人の収入が右肩上がりであってこそ、国内経済を循環させることができる、持続可能にもなるのです。しかし成長することを止めてしまえば、「将来にツケを残すな」云々と支出の切り詰めや溜め込みに走る、国内経済の循環は途絶え、我々の社会は持続可能なものではなくなってしまうと言えます。

 賃金を抑制して海外に車(モノ)を売るか、賃金を増やして国内で金を循環させるか――日本が十数年来追い続けている「改革」モデルは前者であり、相対的に後者に近いのがバブル時代でしょうか。将来的な昇給の希望や雇用の保障が失われれば、国内で自動車に限らずモノが売れなくなる、それでも収益を上げるためには輸出を増やさなければならない、そして輸出を増やすためには国際競争力を高めること、新興国に負けない低コストを実現するためには人件費を抑え込む必要が出てくる、そして規制緩和でより労働者を安く買い叩けるようになればコストが下がって輸出には有利になりますが、当然のように働く人の取り分が減る、「これから」賃金の上がることが期待される新興国と違って、さらなるコスト削減のための人件費抑制が予測される日本では輪をかけて購買意欲も低下、国内でモノが売れなくなる、それでも収益を上げるためには……

 

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風力発電所の危険性も問われるべきだと思う

2012-05-22 23:03:35 | 社会

自然保護団体、風力発電所建設に反対 会津若松(読売新聞)

 会津若松市で計画されている風力発電所に対し、自然保護団体から反対の声が上がっている。鳥が風車の羽根に衝突する「バードストライク」や渡り鳥の飛行経路が遮断されるなど、鳥類の生息環境に影響を与えると懸念されるためだ。原発事故の教訓から、県では再生可能エネルギーへの転換を目指すが、事業者に配慮を求めている。

(中略)

 県は原発事故を受け、今年3月に見直した「県再生可能エネルギー推進ビジョン」で、2040年頃に県内のエネルギー需要量の100%以上に相当する量を再生可能エネルギーで生み出すことを目指す、としている。
 
 しかし、日本野鳥の会など3団体は16日に、背あぶり山には猛きん類で、環境省のレッドリストで絶滅危惧種のクマタカも確認され、希少な猛きん類が生息しているとし、県と同社に対し、環境影響評価の再度実施を求める要請書を提出した。
 
 同社の親会社のコスモ石油広報室は「再生可能エネルギーの推進を目指す福島県の施策に貢献したいと考えており、地元の理解を得たら事業化したい」と話している。

 

 再生可能エネルギーと言えば聞こえはいいですけれど、風がなくても発電できる技術とか暴風雨の中でも平常運転できる技術とか、あるいは常に需要に応じた風を吹かせる技術でも開発されない限り、風車で発電できるかどうかは運任せなわけです。特別に気候条件に恵まれているとか(一年中同じような風が吹く等)、広域で電力を融通できる仕組みができているとか(欧州全域など)、環境次第では一定の貢献が見込めても気候の変動が激しく国内ですら東と西に分断され電力は地産地消にならざるを得ない日本では、率直に言って風力発電は「向かない」ように思います。降雨量が多く高低差の多い日本に向いているのは水力発電くらいですね。もっとダム開発を進めましょう。スローガンは「DamNation Japan」とか。

 ともあれ、風任せの風力発電では風が吹かないときに備えて火力や原子力などの安定した発電設備を残すことが必須となるわけです。これが国境を越えた送電の容易なヨーロッパであれば隣国に残しておいてもらうという選択肢もありますが、日本ではそうも行きません。巨大風車の建設を進めれば「環境に配慮してますよ」というアピールには繋がるのでしょうけれど、既存の発電手段からの「転換」に繋がるとは考えにくいです。まぁ、風車を売り込むメーカーの口車に乗せられて、自治体側はすっかりその気になっているのかも知れません。営業の描いた青写真の通りに発電ができると、夢を膨らませているのでしょう。そして建設完了後、当初の見込みには全く届かない稼働率で採算は悪化するばかり、メーカーとの不毛な訴訟合戦に発展するとか――まぁ、既に他の地域でも見られることですね。家庭レベルでは悪質な業者による太陽光パネルの売り込みが問題になりがちですが、自治体レベルでは風力発電詐欺に注意して欲しいと思います。昨今の流行に乗じた、脱原発に依存する産業に金を出す前に、ちょっと頭を冷やしてみるべきでしょう。

 さて「環境に配慮してますよ」アピールには効果的なはずの風力発電であるにも関わらず、自然保護団体から反対の声が上がっていることが伝えられています。鳥が風車の羽に激突するケースが、割と頻繁にあるみたいですね。時には希少種の生息環境に影響を与えかねない可能性もあるとか。そうでなくとも、風力発電所近辺では騒音や低周波によって健康被害を訴える人も少なからずいるわけです。設置時は「影響がない」という範囲と考えられていたのでしょうけれど、いざ実際に稼働させてみたら周辺住民の中には体調を崩す人も出てきたと。原発のように初めからネガティヴなイメージの強いものであれば悪い意味でのプラセボ効果もあると推測されますが、風力発電のように「エコ」でポジティヴなイメージのあるものの場合は事情が異なります。原発への嫌悪感からストレスで体を悪くする人はいても(その原因となる原発への嫌悪感を高めようと、日々頑張っている人が少なくないのは困ったものですね)、風車でそういうことが起こりうるとは考えにくい、にも関わらず健康被害の訴えが続出しているのは「気のせい」では済まされない影響を巨大風車が日常的に発しているからではないでしょうか。

 総じて「自然」とか「天然」、「エコ」の類に我々の社会は無警戒に過ぎるように思います。例えば、小麦アレルギーを発症させ意識不明に陥る人まで出るほどの重篤な健康被害を撒き散らした「茶のしずく石鹸」を思い出してください。あれもまた「無農薬栽培」「天然成分」「自然のまま」等とお決まりの美辞麗句で宣伝されていますけれど、実際は大変に危険な代物だったわけです。遺伝子組み換え作物や食品添加物のように健康への影響を厳しく検査されて安全が確認されているものもあれば、一方で「自然」や「天然」という錦の御旗の元、安全性を問われることもなく流通しているものも少なくありません。何かにつれ「人工的なもの」は有害で「天然由来のもの」は健康的という思い込みが罷り通っていますが、天然由来でも危険なものは危険なのです。しかし、自然/天然であるが故に周りの目が甘くなってしまう、そのために危険性が見過ごされてしまうものもあるように思います。巨大風車もまた然り、原発など他の発電設備に比べて、ちょっと安全性の審査が緩すぎるのではないでしょうか。事故を起こしたわけでもない平常運転中であるにも関わらず健康被害を訴える人が出てくるような、そんな危険な代物は建てないでくれと言いたくもなります。少なくとも私は、風力発電所の近所に住むのは御免です。でも、「再生可能エネルギー推進」みたいな旗印には勝てないのでしょうね。下手をすれば風車建設に反対しただけで、環境保護団体でさえ原発推進派云々とレッテルを貼られかねない時代ですから。

 

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サラ金を紹介してやろう

2012-05-20 23:01:03 | 社会

入れ墨職員110人、橋下市長「民間に行け」(読売新聞)

 橋下徹大阪市長の指示で市が全職員を対象に入れ墨の有無を尋ねた調査で、市は16日、入れ墨をしている職員が13部局の計110人に上ったとする中間報告を発表した。

 市は同日、職員の不祥事根絶を図る「服務規律刷新プロジェクトチーム(PT)」の会合を開き、入れ墨禁止の内部ルールの策定や、服務研修の強化などを打ち出した。

 調査は教育委員会を除く約3万3500人を対象に記名方式で実施していた。110人のうち、腕や首、頭部など市民の目に触れる部分に入れていると回答し、配置転換の検討対象となる職員は98人に上った。

 橋下市長は市役所で報道陣に、「何をやっても許される甘い風潮があった。どうしても入れたいという職員は民間企業に移ったらいい」と語った。

 

 さて、報道ではなるべく読者が市職員に悪い印象を持つようにとの配慮なのか、概ねどこのメディアでも「入れ墨」と記されていますが多くは一般に「タトゥー」と言われる類の代物のようです。この辺、茶髪と一緒でいずれは市民権を得るのではないか、化粧の一部のようにむしろ常識化するのではないかという気がしないでもありませんが、ともあれ「入れ墨」があるという職員に向けて橋下市長は「何をやっても許される甘い風潮があった。どうしても入れたいという職員は民間企業に移ったらいい」等と述べています。私の知る限り民間企業は公務員の世界よりもずっと外見にはうるさい印象がありますけれど、橋下の出自であるサラ金業界であれば入れ墨をしていても簡単に採用されるのでしょうかね。

 

戸籍業務で女性に5300万脅し取られた市職員(読売新聞)

 戸籍証明書の発行を巡るトラブルで米国在住の女性(59)から約5300万円を脅し取られたとして、山口市の女性職員(46)が約5900万円の損害賠償を求めた訴訟を起こしていたことが分かった。

 山口地裁で15日に判決があり、内山孝一裁判官は被告女性に全額支払いを命じた。被告女性は一度も出廷しなかった。

 訴状によると、2009年11月に女性が山口市市民課に戸籍の証明書発行を請求。職員が本人確認などを行って証明書を送付したが、女性から「証明書の入手が遅れて予定通り日本に帰国できず、渡航費用など損害を受けた」と連絡があった。職員は「(トラブルが発覚すれば)職場に迷惑がかかる。解雇や退職に追い込まれるかもしれない」などと思い、09年12月~11年9月に計50回にわたって女性に現金や航空券など計5291万1822円相当を支払ったとしている。

 

 一方、こちらは山口市の事例ですが、部外者の思いとは裏腹に当の公務員自身は解雇や退職(強要)の可能性に怯えていたことが分かります。「何をやっても許される甘い風潮」とやらが実在していたのであれば、ここで伝えられているような事態には発展しなかったことでしょう。果たして山口市だけが特別にピリピリした役所なのか、それとも大阪市だけが特別に甘いのか、とかく誇張して伝えられる公務員の世界ですけれど、報道と内情は必ずしも一致するものではないように思います。まぁ公務員の内情は知らずとも民間企業のことが分かっている人なら、目に見える箇所に「入れ墨」をした人が民間企業に移れるかのようなことを宣う人間など信用しないはずですが。

 

よしもと「現在受給せず」河本親族生保受給問題(サンケイスポーツ)

 吉本興業は16日、自社のホームページに「河本準一に関する報道について」と題して、週刊誌やネットなどで報じられている、よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のお笑いコンビ、次長課長の河本準一(37)の親族の生活保護費受給について見解を発表した。

 それによると、生活保護費の受給については河本が無名の時代に始まったもので、現在は受給はしていないと明記。その上で「本件は個人の重大なプライバシー上の問題で、人権に配慮した対応を望む」としている。

 一連の報道では、河本に高額の収入がありながら親族が生活保護を受けていたのは「不正受給ではないか」と指摘。自民党の世耕弘成(49)、片山さつき(53)両参院議員がブログなどで批判している。

 

 さて、こちらも前二者と同じ日の報道なのですが、社会保障受給者にネガティヴなイメージを植え付けることに情熱を注いでいる人も少なからずいるもので、まぁ格好のネタともなっているわけです。たばこを吸いながら『この仕事は僕に合わないから』みたいな人は、大阪市から出て行ってくれ」とは、何故か橋下と対立していたことになっている前市長の平松氏の言葉ですけれど、こうしたケースにはどう対処したのでしょうね。ともあれ、今のところは人気芸人と呼べる河本準一氏の親族が生活保護を受給していたとかで、あろうことかこれに突っかかる国会議員まで出てくる始末です。政治家の役割って何なんだろうと、思い悩まずにはいられません。

 何はともあれ、吉本興業側の説明では生活保護受給は河本氏が無名の時代に始まったとのこと。売れない芸人なんて「本業」での収入は皆無、かろうじてバイトで食いつないでいる人ばっかりでしょうから、当然のことながら夢を追っている限り親族を扶養などできはしないであろうと容易に想像できます。だから親が生活保護を受けるのも不自然ではないですけれど、何とか顔が売れて稼げるようになったらどうなのか、親族の収入が増えたなら生活保護は辞退/打ち切りが当然というのが世間の認識のようです。まぁ、ほんの近い未来に河本氏が「あの人は今」状態になっているとも限らないのが芸人の世界だと言うことは、普通の人だって知っていると思うのですが……

 最高のベンゼマというサッカーのフランス代表選手がいます。年収は10億円以上と推定される選手ですが、祖母の扶養費支払いを巡って親族と法廷で争ったりもしていました。当然のことながら親戚筋の中では突出して収入の多いベンゼマには扶養費支払いが期待される一方、本人は「自分一人に責務があるとは考えていない」と親族にも扶養費を出すよう求めたそうです。まぁ、誰か身内に金を持っている人がいるならその人の支払いで暮らせと、そういう感覚は日本ならずともあるのだとは思います。しかし日本のように自立を重んじる社会では、親の援助を受ける子は恥ずかしいものとされ、親もまた子の援助を受けることを潔しとせず貧乏でもやせ我慢、みたいなケースもまた多いのではないでしょうか。子世代が中流家庭として不自由なく暮らしている一方で、離れたところに済む親は貧乏暮らし、という家庭だって決して珍しくないはずです。なるべく子供に負担はかけたくない、ましてや母親心からすれば、息子がようやく成功して稼げるようになったなら、その稼いだ金は好きに使わせてやりたい、自分は生活保護費だけで食いつないでいくから……みたいな思いがあったとしても不思議ではありますまい。

 それより橋下の父親はヤクザだったそうです。早くに死に別れてしまったとのことですが、生きていたらどうだったのでしょうか。案外、よろしくやっていたのではないかという気がしないでもありませんが、ことによると父親とは縁を切りたいと思うこともあったかも知れません。この河本氏の例から察するに、零落したヤクザであろうと肉親である以上は扶養義務があると世間的には扱われるのでしょうけれど、それが自分自身の場合だったらどう思いますか? つまり、あなたの親が反社会的勢力の一員で、親子関係は至って険悪、さっさと親元を離れて独立して成功したときに、落ちぶれた親の扶養を求められるとしたら? 親子関係が良好なら扶養義務を課せられるのも、脆弱極まりない社会保障を補うためには仕方がないことと言えますが、どこの家庭でも円満な親子関係、親族関係が築かれるとは限りません。法律的に意味のある絶縁関係には至らずとも、お互い独立して距離を取って暮らしたいケースもあるはずです。だから一律に親族に扶養義務を課すのはどうか、親族に収入があっても独立した世帯であればもっと柔軟に考えられるのが筋ではないかと、そう思います。

 

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がんばろう関西

2012-05-18 23:05:00 | 社会

電力需給:「節電」新料金で不足2.6%改善 関電提示(毎日新聞)

 関西電力は15日、新たな電気料金メニューによる節電効果と昨夏並みの節電の取り組みを織り込み、今夏の予想最大需要(2987万キロワット)を最大87・3万キロワット削減できるとの試算を明らかにした。今夏の供給力不足14・9%(445万キロワット)が単純計算で約2・6%分改善し、12・3%程度(約358万キロワット)に縮小する。同日午前の大阪府市エネルギー戦略会議で示した。【横山三加子】

 昨年夏の節電実績は190万キロワットだったが、これまでは今夏の需給見通しにLED(発光ダイオード)照明や冷房温度の調整などの「定着した節電効果」117万キロワットだけを盛り込んでいた。関電は確度の高い節電として、新たに企業の操業の工夫や家庭の節電努力などの取り組みの効果73万キロワットを計上。さらに、節電目標を達成した家庭に商品券などを贈ることによる4万〜7万キロワット以上▽昼夜の電気料金格差を拡大し昼間のピーク需要を抑制する家庭向けの新たな料金メニューの効果0・2万〜0・3万キロワット以上▽工場の操業シフトなどで料金を割り引く計画調整特約などの拡充3万〜7万キロワット以上−−の節電を見込んだ。

 

 1年ばかり前は関西を含めた西日本からの電力融通で夏を乗り切るとか、製造業の西日本への移転を進めるのが有効な解決策になるとか言われていたものですが、まさかこんなことになるとは誰が想像していたでしょうか。東日本の電力不足を見越して西日本に工場を移した企業なんかは涙目のはずです。日本人は総じて製造業が好きなようですけれど、その日本人が下す決断はしばしば製造業に優しくないものでもあります。ともあれ電力不足は震災と原発事故に伴う一過性のものと思われていたのは今は昔のこと、絶望的に無策な政府の元で震災直後よりも確実に事態は悪化しています。福島第一原発とは正反対ですね。私は電力会社みたいに公益性の高い企業は国営がの方が望ましいのではないかと普段は考えていますけれど、両者の能力の差を鑑みるに、国が電力会社を所有するより電力会社が国を所有した方が、少なくとも相対的には確実にマシと思えてきます。

 原発の比率が高い関西圏で致命的な電力不足に陥るのは前々から分かっていた話、その関西圏で大飯原発の再稼働すらおぼつかない、それに続く具体的な展望は皆無と、行政がもたらす人災は着々と迫っていますが対策が取られているとは言いがたいのが実情です。野党時代の民主党の財源論みたいなもので(無駄を省けば財源は足りる、増税は必要ない云々)、いざ現実に直面するそのときがくるまで国民もまた考えようとしないものなのかも知れません。ともあれ浜岡原発の停止は強引極まりないものでしたけれど、今は責任を電力会社に押しつけることしか考えていないのが行政ならば、電力会社としてはもう、自然災害への備えを一次棚上げにしてでも、足を引っ張る政府への対策に力を入れた方がいいんじゃないかという気がします。いずれにせよ、原発(事故)のリスクだけを考えてその他のリスクを完全に度外視するような倒錯したリスク評価の元、住民の「安心」を慮っては住民の安全が損なわれようとしています。夏の到来というタイムリミットが刻一刻と近づく中、安全さえ担保されていれば安心はこの際後回しにするなどの決断も求められるのですが……

 なお関西電力が色々と節電効果を見込んでいますけれど、挙げられた数値を見ると雀の涙といった印象も免れません。乾いた雑巾は絞れないと言ったところでしょうか。そもそも「定着した節電効果」は計算できるのか、「そんな猛暑にはならないから大丈夫」と言い張る生粋のギャンブラーに比べれば電力会社の見立てはまだしも確実性があるのかも知れませんが、それでも危うい印象はあります。それから火力発電所が故障する可能性も、もうちょっと高く見積もった方がいいと思います。その辺、電力会社の試算ではどうしても強気なところがありますが、私はそこまで電力会社を信用できないので、もっと火力発電所が故障するリスクを高く見積もるべき、もっと余力を確保すべきだと考えます。しかるに日頃は電力会社を批判している人ほど、火力発電所を永久機関か何かのように信じているようで、常に設備容量通りの発電が可能という前提で話を進めていたりするのですから救いようがありません。

 そして以前にも触れたことですけれど(参考、家庭だけで済むはずがない)、工場の操業シフトを進めるというのは節電に効果的な一方で、労働者への負担が重い最悪の計画でもあります。操業時間を平日の昼間から土日や夜間にシフトさせれば、当然のことながら工場で働く人の労働時間もまた土日や深夜に移ることになるわけです。日本人は製造業が好きでも、製造業の現場で働く人には優しくありませんね。まぁ、お気楽に脱原発を唱える人にとって工場勤務なんてのは「向こう側」の世界、自分たちとは異なる世界であって、想像力の働く範囲ではないのでしょう。だから、シフト操業で深夜労働を強いられるようになった人の痛みなんて気にならない、と。節電の「痛み」は偏在します。平日の昼間に安穏と働く人にとっては大したことではない一方で、昼夜逆転を余儀なくされるなど深刻なレベルで生活を狂わされる人だって出るわけです。悪いのは電力会社、脱原発の結果じゃないと平然としていられる連中は腹を切って死ぬべきであると思います。

 後はまぁ、家庭レベルに節電だって首を傾げます。私の場合、電力需給が逼迫する平日の昼間は常に会社にいるので節電の余地がありません(いつ失業するか知れたもんじゃないにせよ)。私に限らず、平日の昼間に働いている人はそういうもののはずです。ならば子供や専業主婦に頑張って節電してもらおうというのでしょうか。あるいは、既に定年を迎えて退職した高齢者とかが挙げられます。特に高齢者は温度変化を感じにくくなりがちですので、夏場にエアコンを止めても我慢できてしまいますから、まぁ節電の余地はあるのかも知れません。その結果がどうなろうとも悪いのは電力会社だと思えば気にならない人もいるのでしょう。それから最後に、深夜のシフトで働く人です。節電のため深夜の工場で働いて、家に帰ったら電力不足に対応するため電気をなるべく使わないで過ごせば、まぁ地球には優しいことですね!

 

 ◇「通報制度」など大阪府市独自策

 一方、大阪府市エネルギー戦略会議は15日、独自の節電策を提示した。照明が明るすぎるオフィスや店舗を住民が見つけて通報し、中小事業者に節電を促す「節電通報窓口」の設置や、真夏の午後に役所を閉めて節電するなど、家庭や事業者、官公庁などを対象に計約110万キロワットの節電を目指す。

 

 ……で、大阪府市エネルギー戦略会議のプランがこれです。戦前の灯火管制を思わせる雰囲気は昨年の段階でも感じたものですが(当時書いた記事)、本格的に制度化しようとする自治体が出てきたようです。これが日本の改革というものなのでしょう。元より健常者であれば「明るすぎる」と感じるレベルの照明でも視覚に障害がある人にはそうでもない、必要な照明だったりもすると聞きますが、障害者の排除ってのも脱原発論とは相性がいいのかも知れません。ともあれ、自治体が密告を奨励する制度を作ろうとしているわけです。ナチス政権下のゲシュタポは実は人手不足で、殺到する密告の真偽を検討している暇がなかったそうですけれど、公務員削減に血道を上げる大阪での管理体制はどんなものになるのか興味深いところです。まぁ、捕鯨とか国歌を歌っているかどうかの監視とか、国民の理解の得られる部門なら金に糸目を付けない政治家も多いですし。

 この「節電通報窓口」云々には戦前の隣組の活動を思わせるものもありますが(流石、飯田哲也や古賀茂明をブレインにする自治体は違いますね)、実際に戦争期間中を生き抜いた瀬戸内寂聴氏が「戦争中の方がマシ」と断言されていますので、たぶん隣組が電気を無駄遣いしていないかどうか見張っている社会の方が今よりマシなのでしょう。実際の経験者がそう言うのですから間違いありません。隣組活動を通して地域コミュニティも復活、脱原発を国民統合の象徴に、進め一億火の玉だ! 鬼畜電力! 贅沢は敵だ! 欲しがりません勝つまでは! 日本の思い通りの関係を築いてくれない国際社会に背を向けて、後は火力発電所の燃料を確保すべく南方に進出するだけです。

 まぁ、昨今のヘイトスピーチやデマに脅しを伴う脱原発論の盛り上がりは、かつて知識人と目されていた人々をも含めて、我々の社会がいかに戦争体制へと駆り立てられていったかを考える上では参考になるのかも知れません。あんまり、ありがたくないことではありますが。先の戦争で世論をリードする役割を担ったのは朝日新聞とも言われます。今回の原発事故後、煽りの先陣を切ったのは朝日新聞出版の週刊誌でした。何が問題であったのか、「敵」に見立てる相手が変わってしまえば、それが分からなくなってしまう人もいるのでしょう。例えば歴史認識のトンデモ(歴史修正主義)には憤る一方で原発や放射線の影響に関してはトンデモ信奉者であったり実質的に容認の立場を取っては、むしろトンデモを批判する人への攻撃に回ったりみたいな人も少なからず見受けられるわけです。そうした「知」に対する背信とでも言うべき態度は、たぶん戦争前夜にも見られたのではないでしょうかね。

 

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それは自爆だ

2012-05-16 23:08:42 | 社会

母の日、ゆっくり休んで…「家事は重労働」(読売新聞)

 主婦が日常生活で体を動かす活動量は、事務職の会社員に比べて2割以上も多いことが、国立健康・栄養研究所と桜美林大学の調査で分かった。

 日本体力医学会の学会誌に発表する。掃除や洗濯などで、こまめに体を動かしているためとみられ、育児をしている主婦はさらに活動量が増える。きょう13日は「母の日」。データからも「家事は重労働」が裏付けられた格好だ。

 同研究所の田中茂穂室長らは、上下左右などの細かな動きから、活動強度や活動量を評価する活動量計をメーカーと共同開発。専業主婦20人(平均年齢37歳)、事務職の男女31人(同42歳)に1週間装着してもらい、平均的な活動量を測定した。

 1日の平均歩数は、主婦が8424歩、事務職が8288歩でほぼ同じだったが、座って安静にしている時の活動強度を1とした場合、その3倍以上の強度の活動をしている時間が、歩行時を除くと主婦は59・5分。事務職の21・9分の3倍近かった。

 また、安静時の2~3倍の活動をしている時間も、歩行時を除き主婦は243・4分で事務職より99・5分多かった。

 イスに座った作業や会議の活動強度は安静時の1・1~1・8倍なのに対して、掃除機かけは3倍、皿洗い1・8倍、洗濯物干しは2・3倍。主婦は比較的強度の高い活動を長い時間行うため、体を動かす1日の活動量は基礎代謝の0・7日分に相当し、事務職の0・57日分より23%多かった。

 

 昨今の脱原発/反原発論の中には本当に酷いものが目立つわけです。原発事故直後のパニック状態の中でならまだしも、1年以上を経た今となっては脱原発論のカルトぶりに眉を顰める人も増えてきたのではないでしょうか。事故前から「マトモに」脱原発の立場を取ってきた人にとって俄に湧いて出た反原発論がどう映っているのか興味深いところでもあります。脱原発無罪とばかりに全ては原発と電力会社が悪いのだと差別発言や脅迫まがいの言動を繰り返し、平然とエセ科学を持ち上げてみせる、そうした振る舞いは一時期の熱狂を呼びこそすれ、結局は良識ある人々を遠ざけるばかりのはずです。むしろ脱原発に理解を広めたいのであれば、反原発を大義名分としたヘイトスピーチを批判し、科学的根拠に基づいてものを言う、そうやって自浄能力を発揮しなければならなかったように思います。原発や電力会社を全否定してさえいれば同志だとばかりに無批判になってしまえば、それが言論界の暴徒と化してしまうのは必然ですから。

 立場が同じでありさえすれば無批判になってしまうと、しばしば「自爆」を許すことになるような気がします。否定的に見る対象が同じであっても、その批判の仕方が無理に溢れたものであれば、それを批判する人の側の名誉をも傷つけることにもなるのではないでしょうか。例えば性表現規制への反対論で考えてみると、表現規制に反対する立場からは絶対に「止めてもらいたい」ことがあります。その一つが性犯罪「認知件数」の国際比較ですね。統計上、日本の「認知件数」は主立った国と比べて少ない、とりわけ性表現規制が厳しいとされる国に比べて圧倒的に少ないため、それを根拠に性表現規制はむしろ有害と説く人もいるわけです。だが、ちょっと待って欲しい。データが信用ならないとはいえイスラム教国は軒並み日本より性犯罪の「認知件数」が少ないではないかとか、元より性犯罪を「認知」する基準が国によって違うことを見落としているなどツッコミどころには事欠きません(参考、性表現規制を語る前段階として)。にも関わらず性犯罪「認知件数」の統計上の少なさを根拠に表現規制への反対論を唱えられてしまうと、むしろ反対論に「隙」を作ってしまうだけです。それどころか「性表現規制に反対している人」=「認知件数の意味が理解できない人」と思われかねません。

 例によって前振りばかりが長くなりましたが、今回引用した「家事は重労働」はどうでしょう。母の日に合わせて掲載された記事であり、家事労働の負担への理解を求める意図があってのものと推測されますけれど、内容を見ると首を傾げたくなるものばかりです。詳細はさておきトータルで見ると「主婦は比較的強度の高い活動を長い時間行うため、体を動かす1日の活動量は基礎代謝の0・7日分に相当し、事務職の0・57日分より23%多かった」そうです。でもこれ、通勤時の負担は除外されているように見えます。VDT作業で目などを痛めることもないでしょう。ましてや体力的には最も楽な部類に入る事務職との比較です。体力的な負担が事務職の2割増しと聞いて、サラリーマンの皆さんはどう思いますか? 肉体労働の人は元より、小売りや飲食の立ち仕事、そうでなくとも靴を磨り減らして客先を行脚する営業職の人から見れば、事務職の2割増しで済むなら楽なものだと、そう感じる人が多いような気がしてなりません。

 まぁ、主婦は主婦で色々と大変なこともあると思いますし、ましてやパートなりフルタイムなりで仕事をしつつ、帰宅してから家事が待っているともなれば負担は相応にあることでしょう。育児負担があまりにも母親の責任に帰せられすぎているきらいもあります。ただ、ここで紹介されたデータからでは、その大変さは率直に言って理解できません。体力面では事務職の2割増しでしかない、それに加えて客先や上司からのプレッシャーもなければ通勤地獄もないとあらば、むしろ楽に見えてしまうはずです。記事の意図とは裏腹に、家事労働の負担を軽く見せかけてしまう記事とすら言えるのではないでしょうか。これが「母の日」に発表された辺り、家事=母親の役割みたいな固定観念もあって、まぁ実際問題として家事は母親が一手に担うことが多いのが現実でもあるにせよ、色々と家事の担い手側から批判されるべき点が多い記事になっているように思われます。「母親の味方」のつもりで掲載された代物でも、結局は自爆にしかなっていませんから。どんなケースでも、味方を装ってボロを出すような人はいます。自分と同じ方向を向いていても、あまりにダメなことを言い出す人には批判的に見ることが必要なのではないでしょうかね。

 

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給与を上げるのは解決になり得るけれど

2012-05-14 22:59:20 | 雇用・経済

男女の給与 10対7から7対10に入れ替えるだけで景気は回復する(週刊朝日)

 不景気だと言われ続ける日本社会。しかし、東日本大震災などに見舞われた昨年でさえ、実は輸出額は63兆円と、高い国際競争力を維持している。その国際競争力をさらに上げるキーポイントは、感性を磨ける程度の給与増加だと、日本総研主席研究員の藻谷浩介氏は言う。

(中略)

「とくに重要なのは、男性の7割程度にとどまっているといわれる女性の給与を上げることだ」(藻谷氏)

 雑誌や洋服、化粧品、食事、旅行、どの市場をみても消費意欲が強く、モノに対する感性が鋭いのは女性とも言える。男女の給与を10対7から7対10に入れ替えるだけでも、消費が増加し確実に景気はよくなると藻谷氏は主張する。

 

 ここで引き合いに出されている藻谷浩介氏は自身を批判するブログ記事へ「早く死んで子供に財産でも残せ」と書き込み、損害賠償としてブログ主に10万円を支払うよう地裁の判決を受けたことで有名な人です。私のブログではその手の書き込みは全部消してますけれど、裁判に持ち込めば1件当たり10万円と考えれば結構儲かりそうだなぁと、藻谷氏への判決が下された当時は思いました。とかく反原発の人は、すぐ「死ね」とか「殺す」とか言いますので。訴訟費用を差し引いても、普通にブログの脅迫コメントを裁判所に持ち込むだけで生活できちゃいそうです。わぁい、明日から働かないで済むや。

 まぁ冗談はさておき、上記引用は週刊誌ということを差し引いても色々と酷い記事です。一見すると男女の給与格差是正を求める記事のように見えるかも知れませんが、「男女の給与を10対7から7対10に入れ替えるだけでも」云々はどうでしょうか。あくまで皮肉として、極論として持ち出しただけと見ることもできますけれど、敢えて字義通りに考えてみたいと思います。「男女の給与を10対7から7対10に入れ替え」た場合に何が起こるでしょう? 女性の給与は上がるのかも知れませんが、男性の給与は下がります。もちろん男性の給与を据え置いたままで女性の給与だけを上げることも理論上はあり得ますが、どうにも日本流の格差是正論、日本式ワークシェア論よろしく、社会全体としての給与を下げる方向に動くように思えてなりません。まぁ、そうやって給与が下がればコストが下がって国際競争力は増す、日本で働く人の購買力が落ちた分だけ他国に売りつけようとする傾向は高まるわけでもあります……

 それよりも、「モノに対する感性が鋭いのは女性」みたいなステレオタイプが嫌ですね。こういうステレオタイプに寄りかかって持論を展開する人の言うことは、基本的に信用しない方がいいです。むしろステレオタイプに基づいて考えるなら、家計の財布を握っている主婦の方が締まり屋で、お父さんや独身貴族の方が消費傾向は強いんじゃないかとか、そういう風にも言えるわけですし。

 

「この仕事は合ってません!」と1カ月で辞める新人の“事情”(日経ビジネスONLINE)

 でも、つい先月に政府が開いた「雇用戦略対話」でも、2010年春に大学・専門学校を卒業し正規雇用で就職した56万9000人のうち、およそ35%に当たる19万9000人が、既に2年で辞めていることを明らかにした。
 
 若者が3年以内に仕事を辞める傾向が高まっていることは、ここ数年問題視されてきたが、「2年で35%」となったのだ。「このままいったら、3年以内で辞める大卒者の離職率は5割を超える」との憶測もある。

(中略)

 「彼はうちの会社に来る前に、大手の企業にいたんです。最初は何か問題でも起こして辞めさせられたんじゃないかって、疑いました。だって、賃金の面でも大手は何かと恵まれているのに、『なぜ、うちに?』と普通は思うでしょ。」
 
 「ところが、採用面接の時に、『もっと自分の力が目に見える会社で働きたいと思った』なんて言うものですから、『だったらうちに来い!』となりましてね。自慢じゃないですけど、我が社の若手はみんな元気がいいし、彼らが『働きがいがある』と言ってくれることだけが、私の自慢でもありましたから」

(中略)

 そんな自分と出会うには、ある程度の時間が必要なのだ。たった1カ月、たった1年、たった2年で、「合わない」と結論を出すのは早急すぎる。「石の上にも3年」なんて説教くさいことは言いたくないけれど、3年だけ仕事にひたすら向き合ってみてから、自分に合った仕事探しをしても遅くはない。

 

 で、これまた酷い記事です。要するに「今時の若者は辛抱が足りん」と言いたいようですが、これもまたステレオタイプに寄りかかった、信用に値しない駄文です。確かに、若年層の離職者は増えているのかも知れません(厚生労働省の統計pdfからは一概にそうも言えないように見えますが)。しかし、それは若年層だけの問題でしょうか? 社会全体の雇用情勢が悪化、意に反して仕事を失う人が珍しくなくなった時代です。そうした波から若年層が無縁でいられるはずがありません。引用したコラムでは、というより俗流若者論の文脈では「この仕事は合ってません!」みたいな、あくまで離職者側の都合に見えやすい理由がピックアップされますけれど、果たして離職した若者の内で「本当に」そういった理由が当てはまる人はどれだけいるのか、私は大いに疑問を感じるところです。

 結局のところ、規制緩和と超・買い手市場の結果として、あまりにも雇用側が強くなりすぎている、それが労働者側に無理を強いていることにも繋がっているわけです。そして押しつけられる無理難題に応えられないものは会社から追い出され、また新しい人が採用される、そうしたブラック企業型のサイクルが離職者を増やしてはいないでしょうか。若者の全員が「自発的に」離職しているのならいざ知らず、少なからぬ若者(若者だけに限りませんけれど)が意に沿わぬ形で職場を追われているとしたら、上記のコラムのような精神論へのすり替えほど悪質なものはないと言えます。

 また転職活動中の自分には常識としか思えないのですが、「前の会社を辞めた理由」が正直に語られることなど滅多にないものです。前の会社を辞めたからには何らかのネガティヴな理由があるのが実際のところで、しかるに面接でネガティヴなことを口にすれば敬遠されるのが常でもありますから。だから「もっと自分の力が目に見える会社で働きたいと思った」みたいな一見すると「前向きな」転職理由が述べられるわけです。それを額面通りに受け取る人がいるとしたらバカとしか言い様がありませんけれど、偉い人にはそれがわからんのですと言ったところでしょうか。ともあれ離職した人の述べる「表向き」の理由を鵜呑みにすべきではありません。

 もっと簡単に社員を解雇できるようにしろとの要求が喧しい一方で、早期退職者の数に眉をひそめる道徳論じみた声もまた目立つのは、ともすると矛盾したことに見えます。しかし「全ては雇用主の御心のままにあるべきなのだ」という観点からは首尾一貫したことなのでしょう。会社が社員をクビにしたいときは自由にクビに、しかし社員の側から自発的に辞めるのは許さない、そういう思惑があると上記の二つの主張が並び立つことになるわけです。だからこそ、若者の側に危機意識が募るのかも知れません。今は大丈夫でも、いずれ中高年に足を踏み入れたら会社から追い出されるのではないか、そうなったときにはもう転職先など見つかるはずがない、そういう危機感が真に迫ったものとして存在しているからこそ、まだやり直しの利く若い内に少しでもマシな会社をとの行動にも出るのでしょう。本当に若者を会社に引き留めたいなら、長年にわたって勤めた人に待遇面で報いるなどのニンジンが必要です。しかるに、これを放棄、否定してきたのが近年の日本社会でもあります。長く勤めることのメリットがなくなった、それで早期離職者が増えるとしたら当たり前のこと、必然的な結果として起こっていることを嘆くのはお門違いというものです。

 

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確実なことは分からなくても、だいたいのことは分かるのに

2012-05-12 22:57:10 | 社会

ある中学校の三年生の生徒100 人の身長を測り、その平均を計算すると163.5cmになりました。この結果から確実に正しいと言えることには○を、そうでないものには×を、左側の空欄に記入してください。

(2)100 人の生徒全員の身長をたすと、163.5 cm × 100 = 16350 cm になる。

 

 上記は日本数学会による「大学生数学基本調査」で設けられた問の一つで正解は「○」らしいのですが、それが「確実」なのかちょっと疑問を感じないでもありません。たとえば163.0cmの人が50人、164.0cmの人が49人、165.5cmの人が1人の場合を考えてみますと、合計は16350.5cmになります。この場合の算術平均は163.505です。100人の平均がジャスト163.5cmであれば話は単純なのですけれど、小数点以下第2位から先を四捨五入した結果であれば、もしかしたら厳密な平均は163.527とか、163.468かも知れないわけです。そうである場合、100人の合計はジャスト16350cmにはなりません。他にも有効数字4桁などと条件が明示されていれば、やはり100人全員の身長の和は16350cmに収まりますが、そのような条件は問題文に明記されていません。有効数字4桁と「推測」するのは概ね妥当と考えられますが、それが設問に示されたものではない以上、「確実」と言い切ることにはためらいがあります。100人の生徒全員の身長を足した場合が16350cmになるのかどうか、確実なことは分からないと言えなくもないのではないかと。

 16350cmになるかどうかはわからない、設問の条件からは絶対に確実と言えるものは導けません(とりあえず上記は前フリなので、そういう前提で進めてください)。では16350cmになるとは限らないからといって、100人全員の身長の和が65536cmになるかも知れないと主張する人がいたらどうでしょうか? それは確実に間違いですね。これは絶対の自信を持って誤っていると言えます。厳密に16350cmとなるかは不確かであっても、16350cmを中心に誤算の範囲、16345cm以上16355cm未満に収まることまでは導けるわけです。仮に16350cm「ではない」可能性が十分に考えられるとしても、だからといって16350cm以外の数値が「何でも正解でありえる」ことにはなりません。あくまで16350cm周辺から離れることはないのです。

 その辺は、普通に理解される範囲と思います。これは上記設問に限った頃ではありません。何かが確実ではないからといって、その確実ではないもの以外に「何だって起こりうる」と想定するのは、それ
は実に突飛な、自ら不正解になろうとする態度と言えるでしょう。確実に正しいものは滅多にないとしても概ね正しい範囲というものがありますし、逆に確実に誤っているものはたくさんあります。しかし、あるものが確実ではない、全てが明らかになってはいないという点を足がかりに「何だって起こりうる」と信じる動きも昨今は顕著ではないでしょうか。典型的、というよりまさに直球なのが、被曝の影響、低線量被曝の影響を巡る言論ですね。

 年間100ミリシーベルト未満の緩慢な被曝の影響については、しばしば「よく分かっていない」と言われます。仮に影響があったとしても小さすぎて有意な差としては表れないから、あるのかないのか分からないわけです。もしかしたら、影響はあるかも知れない、絶対にないとは言い切れない、しかし実際に計れるほどの影響は観測できない、すなわち「ほぼ0」です、ほぼ0ですが……厳密に「0」であるかどうかは不確実、それが被曝の影響について「分かっていること」です。ところが、一つでも「分かっていない」点があれば十分とばかりに、その不明な点を自分の好きなように拡大解釈し、好きなように色を付けたがる人たちもいたりします。

 原発構内でもない場所で被曝して人がバタバタ死んでいる云々とデマを飛ばしたり、もう人が住めない/住めなくなると脅しをかけたり、あるいは福島は元より宮城や岩手のガレキまで放射性物質が拡散するから危険だとか真顔で言っては被災地復興を妨害している人は、基本的にその類です。現状で考えられるレベルの放射線量で何かの影響があり得るのか、絶対確実に「0」であるかどうかは確かに「分かっていない」のかも知れません。しかし確実なことが「分かっていない」からといって「何でもアリ」にはならないわけです。それはあくまで「0」を中心として誤差の範囲と呼べる水準に収まるものであって、無尽蔵の危機が訪れる可能性を示すものでは断じてありません。0ではないかも知れない、というのが「あり得る」範囲であって、そのリスクを無限大に拡大して考えるのはあくまで「トンデモ」でしかないのです。

 ところが、社民党のようにあろう事か国会にまで議席を持つ政党ですら堂々とトンデモを信奉しているのですから呆れます。まぁ、政治家とは人気商売ですから「お客様」に喜んでもらえるような言動を繰り返すことこそ自分たちの責務とでも考えているのでしょう。しかし、こうした社民党が同調するような類のトンデモ危険説に国民が耳を傾けるようなことこそ「あってはならない」ものと思います。耳を傾ける「必要がない」のではなく、「あってはならない」と。

 いつだって、脅威を煽る輩は我々の社会に害を及ぼします。何であれ脅威を誇張する人はいつだって有害です。例えば、残念なことですが日本における外国人の犯罪は0ではありません。しかし、この外国人の犯罪をことさらに大きく見せかける輩には、どう向き合うべきでしょうか。彼らの掲げる「予防原則」のごときものに従って外国人を日本社会から排除しようとするのなら、まぁ愚かなことだと大半の人は分かってくれることと思います。しかし、扇動の主題となっているのが放射線/被曝の影響を、これまでに観測されてきたものよりも何万倍も大きく見積もることであったなら?

 私は同様に、こういう人にも立ち向かう必要があると思います。特定の何かが絶対的に危険視されるようになると、しばしば「その他の」問題から目が背けられがちですから。例えば(実際は減少している)凶悪犯罪のリスクを過大視して、一件の犯罪も許すまいと監視の目を張り巡らせようものなら、我々の市民生活は大いに侵害されること必至です。しかるに昨今の脱原発論も然り、原発のリスクを過大視、かつ絶対視した結果として、電力不足等のリスクは著しく蔑ろにされているものでもあります。放射線の影響ばかりが重視されるが故に、適正なリスク評価が妨げられ、それが我々の社会を蝕んでいるわけです。それを押しとどめるためには、危険神話とでも呼ぶべき原発/放射線に関するトンデモがしかるべく白眼視されるような社会を目指さなければならないでしょう。

 

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会社は友達付き合いの場ではありません

2012-05-10 23:03:40 | 雇用・経済

“5月病”は日本の文化!? 海外から見たニッポンの“病”事情(ハリウッドチャンネル)

 5月になるとやる気を失くす、いわゆる“5月病”。日本では一般に認知されているが、海外で同じような症状はあるのだろうか? また、日本の“5月病”は諸外国でどう捉えられているのか、外国人に質問してみた。

 大方の予想通り、「自分の国にも“5月病”が存在する」という外国人は皆無だった。

・「人それぞれ落ち込むことはあるけど、時期も理由も人それぞれ。みんな揃って5月病なんてことはない。日本人は共通病名をすぐつけたがるのが特徴だ」。(スリランカ:50代男性)

 

 4月に新卒が一斉に入社して、ちょうど一息つきたいところにまとまった連休があるという日本特有のスケジュールがあってこそ「5月病」というのは成り立つわけで、そうした事情の違いを無視して外国人に「5月病」を問うというのも随分と間が抜けた話です。まぁ何ですか、私のような転職の機会を窺う身からすれば5月病で新入社員が適度に脱落してくれないと困ったりします。新卒が採れるときは、どこの会社だって新卒を欲しがるもの、期の中途で誰かが辞めてくれないと、中途で新たに入り込むのは著しく困難ですから。もっとも中途で入社できる余地の大きい会社ほど、中途で辞めた人が多いことを意味する、すなわち辞めたくなるのも当たり前or成果が出ないと退職を強いられるブラック会社の可能性が高かったりするのですが。その辺はさておき、スリランカの50代男性からは「日本人は共通病名をすぐつけたがる」とたしなめられているようです。

 

友達との飲み会には行ける、海外旅行には行けるけど・・・会社には行けないという心の症状があるらしい(TOP BRAIN)

 これは4月29日(日)に放映されましたNHKスペシャルで私(代表 片桐)が知ったことです。こうした症状は20代~30代で急増しており、上場企業2200社に実施したアンケートの有効回答中、65%の会社にこうした症状の社員がいるという回答を得たそうです。

 特徴は症状は似ていても、原因不明、原因に共通性がなく、休職して復職しても再発を繰り返すそうです。このような社員の対応として就業規則に、「病気欠勤期間中に病気を治すことに専念しなければならない」という一文を盛り込んだ企業もあります。

 私の前職の同期も5年ほど前、一時期、休職しながらも、その最中にSNSで活き活きしていたことを目にしたことがあります。私はそのことを受け入れられずに、SNS上の友達になることはありませんでしたし、同じ会社の社員でないにも関わらず、むしろ不愉快に感じました。

 そうした休職社員の穴は残った社員が埋めなくてはならず、負担がかかります。「病気を治して、1日でも早く元気に復帰して欲しい」ことを願うからこそ、頑張れる訳で、治療専念していない姿を見れば、「俺達は会社を休んで遊ばせる為に働いてる訳じゃない」と今でも私は思います。このトピックスで取り上げたような症状を番組では「新型うつ」と呼び、番組には「職場を襲う"新型うつ"」という題名が付けられていました。

 

 さて、「日本人は共通病名をすぐつけたがる」という悪癖が端的に表れているものの一つとして、この「新型うつ」が挙げられるように思います。こんなくだらない言葉を作って喜んでいるような人こそ、大いに反省が求められると言えるでしょう。

 なお引用元の見出しにあるように「友達との飲み会には行ける、海外旅行には行けるけど/会社には行けないという」のが「新型うつ」の症状とされているわけです。う~ん、「○○が分からなかったらアスペルガー症候群の疑いが~」みたいな信憑性の微妙なテストもありますけれど、どうなんでしょうか、「友達との飲み会には行ける、海外旅行には行けるけど/会社には行けないという」ことを不思議に思ってしまう人がいるとしたら、その人は率直に言って、どこか抜けているとしか……

 バッティングマシーンの球は打てる、打撃投手の球は打てるけれど、公式戦で相手投手が投げてくる球は打てない、そういう野球選手はたくさんいます。まぁ、当たり前のことですよね。それを不思議だと思える人がいたら、その人の頭の中身の方が不思議です。そして友人との飲み会や旅行には行けても会社には行けないのもまた、当たり前のことでしょう。打ちやすいボールは打てても打ちにくいボールを打てないのは、別に本人が怠けているからでも八百長に荷担しているからでもありません。難しいボールが打てないのは平凡な打者にとって至って普通のことです。そしてプレッシャーのかからない行動はできても、プレッシャーのかかる場面では行動できなくなってしまうのも同様です。それぞれ難易度が違うのですから。

 より平明に言い換えるなら「簡単なことはできるのに、難しいことはできない」という状態を指して「新型うつ」と呼んでいるのではないでしょうか。ごく当たり前のことなのに「新型うつ」などと、あたかも珍現象であるかのごとく思い違いをしている人の方がむしろ、ちょっと病院で頭を診てもらった方がいいんじゃないかという気がしてきます。ちょっと精神的のバランスを崩した、というより脳という一種の臓器が機能不全に陥ったとき、簡単なことはできても、難しいことはできなくなる、どうしてこれが「新型」なのでしょうか。私など、それが「新型」に見える人の方が病んでいると言いたくもなります。ゆっくり歩くことはできても、速く走ることはできない、そういう人を指して「本当に足を怪我しているのか、怠けているだけではないのか」とか「これは新型の怪我である」などと言い出す人がいたとしたらどう思います?

 ただまぁ、「友達との飲み会」と「会社に行くこと」の違いを理解できない人もいるのかも知れません。私のように前者は簡単、後者は負担と感じる人間であれば、両者の難易度には雲泥の差があるように見えるのですけれど、そうでない人もいるはずです。選りすぐりの社畜であれば、会社に行くこととは息をすることと同じようなもので、気がつけば会社に足が向かっている、それが当たり前と何の疑問も感じないものなのでしょう。ましてや、近年のコミュニケーション能力偏重は、会社との関わりをビジネスライクなものから友人関係を擬したものに近づけているところもあるような気がしますし。

 何かと曖昧な「コミュニケーション能力」ですが、身もふたもない言い方をすれば「友達を作る能力」なのではないでしょうか。どこかの会社が、求職者のコミュニケーション能力を計るために友人の数を聞いてみる云々と述べていたのを見た記憶があります。要するに、応募者にコミュニケーション能力を要求する求人広告に書かれているのはこういうことなのです。


  も
    だ
      ち
        が
          ほ
            し
              い

 特定分野に限っては能力を発揮しても角があって付き合いづらい人間は避けたい、そうではなく自分たちと仲良くやっていける人、自分たちの気持ちを察して上手に合わせてくれる人、最も広範に求められているのは、こういう人なのでしょう。あくまで契約関係とビジネスライクに割り振った態度は職場で好まれないものです。会社で友達関係を築いてくれる人こそが好んで集められる、その結果として会社組織に適応した人=トモダチになっている側面もあるように思います。友達と遊ぶのは好きでも学校に行くのは嫌いな子供は、学校に友達がいない、少ないのかも知れません。逆に学校に友達が多い子供であれば、友達と遊ぶことと学校に行くことに差はないでしょう。だから友達と飲みに行くのも、会社に行くのも同列に見てしまう人というのは、会社=友達を作る場所になっている疑いがあります。会社をあくまで仕事の場所と捉えているのであれば、友達と飲みに行くのと会社に行くことの「難しさ」の違いは当然のこととして理解できるはずですから。

 

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