小宮山洋子厚生労働相は25日午後の衆院社会保障と税の一体改革特別委員会で、生活保護費の支給水準引き下げを検討する考えを表明した。生活保護の受給開始後、親族が扶養できると判明した場合は積極的に返還を求める意向も示した。
消費税の増税や年金額の切り下げなど、国民に痛みを強いる改革を進めているため、生活保護も聖域視せず、削減する必要があると判断したとみられる。
過去最多の更新が続く生活保護をめぐっては、自民党が10%の引き下げを求めており、見直しの議論が加速するのは必至だ。
この頃は芸人の河本氏の母親が受給していたとかで大騒ぎされている生活保護制度ですが、政府与党の見解は以上の通りです。伝えられるところでは「生活保護の受給開始後、親族が扶養できると判明した場合は積極的に返還を求める意向」とのことで、河本氏の個別事例を念頭に置いた発言と推測されます。ヨーロッパでも極右が議席を持ってしまうなど、良識を欠いた人間が当選してしまうことを防ぐのはなかなか難しいものですが、輪をかけて大きな問題と思われるのは、そうした議員としての見識に欠ける人間の騒ぎ立てる問題を、あろう事か現職の閣僚が大真面目に取り合ってしまうことですね。片山だの世耕だのが喚き立てる妄言など一喝して退けてしまえばいいだけの話なのに、これを政治に反映させようとしてしまうのが民主党クォリティーなのでしょう。その職責をも鑑みれば最も罪が重いのは小宮山厚労相であり、率直に言って問責に値すると思うのですが。
まぁ、小宮山厚労相ひいては民主党政権にとっては「渡りに船」だったのかも知れません。社会保障費は削りたい、それもできれば公務員人件費のように、削ることによって世間の喝采を浴びることが期待できる分野こそ削りたい、こうした思惑を持った政治家にとって生活保護費は格好のターゲットなのではないでしょうか。特異な事例を持ち出しては生活保護受給者への偏見を植え付けようとするネット言論や報道は枚挙に暇がありませんが、ちょうど都合良く槍玉に挙げる機会が巡ってきたわけです。共同通信に言わせれば生活保護は「聖域」のようで、この「聖域」に切り込むとあらば世間のウケは決して悪くないことでしょう。それがどれほど国民の生活を悪化させることに繋がろうとも、「聖域なき」改革は常に有権者の歓迎するところですから。
河本氏の個別事例については既に述べましたので繰り返しませんが、成人した子が親に頼るのを恥とし、親もまた子に負担をかけるのを避けたがる社会で扶養義務云々とは酷な話でもありますし、同居中ならいざ知らず世帯を別にしている場合はどうなのか、離れたところに住む親族の生活が行き詰まったときでも、親族である限りは扶養を求められる社会へと小宮山厚労相は舵を切ろうともしているわけです。自己責任を重んじる社会としては整合性がとれているのかも知れませんけれど、そういう社会に私は誇りを持てませんね。
それはさておき、生活保護を必要とする経済的弱者を慮る風を装いつつ、その実は生活保護「受給者」叩きに明け暮れている人も多いように思います。件の河本氏の問題を焚きつけた片山や世耕には反対しているつもりなのかも知れませんが、口にすることはと言えば河本氏の母親と同じく生活保護を受給した人へのイメージを悪化させるようなことばっかりなんて人もいるわけです。生活保護を受けているのはヤクザだみたいなレッテル貼りは、社会保障に反対する人ばかりではなく社会保障を大切だと表向きは掲げている人でも珍しくないのではないでしょうか。生活保護制度の問題を論じるフリをして、生活保護受給者への偏見を広めようとする人々にもまた、対処が必要であると言えます。
世論を生活保護「受給者」バッシングへと駆り立てる動機の一つとして、「勧善懲悪」の世界観が挙げられます。どこかに「悪い奴」がいて、それを打倒することで問題が解決する、魔王を倒せば世界が救われるとする世界観ですね。この場合の「悪い奴」としては公務員であったり電力会社社員であったり、官僚であったり「古い自民党」であったり、あるいは中高年社員であったり外国人であったりと多岐にわたるのですが、生活保護行政においてその役割を担わされるのは現時点で生活保護を受給している人だったりします。現時点での生活保護受給は専ら暴力団員や単なる怠け者による不正であり、そのせいで「本当に必要な人」に生活保護が行き渡らない、不正受給を正すことが必要だ――と。
もちろん「本当に」生活保護の問題に関心がある人ならば、日本の生活保護の貧困補足率はせいぜい20%程度に過ぎない、補足された20%の内ですら0.3%程度にしかならない「不正」受給がなくなったところで貧困補足率には誤差の範囲でしか影響を与えられないことを理解していると思います。不正受給がなくなって、その分が「そっくりそのまま」別の人に回されたところで「本当に必要な人」の1%にすら満たないわけです。必要な人が生活保護を受給できない漏給の問題に、少なくとも予算面では不正受給は全く影響していないのですが、しかし勧善懲悪の世界に生きる人にとっては「それを打倒することで問題が解決する『悪』」を設定せずにはいられないのでしょう。その結果としてもたらされるのは、不正受給問題への歪な注目であり、漏給の問題から世間の目がそらされることだったりします。
もう一つの生活保護「受給者」バッシングの動機は、ちょっと適切な言葉が見つかりませんが「死なばもろとも」とか「悪平等」の類でしょうか。時に生活保護「受給者」バッシングに明け暮れる人を批判して「自分が貧困に陥ったときのことを想像できないのか~」と言われることがありますけれど、これはたぶん、あまり正しくない。もちろん富裕層からの受給者批判の場合は当てはまるかも知れませんが、それは彼らの恵まれたポジションからすれば致し方のないところでもあります。ただ富裕層は頭数としては常に少数派です。受給者叩きに熱心なのは富裕層ばかりではなく、むしろ中流以下、さらに言えば貧困層の中にこそ多いように思います。「自分が貧困に陥ったときのこと」を想像できているけれど、それがゆえに生活保護受給者へのバッシングに情熱を注いでいる人も多いのではないかと。
自分が貧困化する可能性を想像できないのではありません。そうではなく、自らが貧困化しても「生活保護を受けられないこと」を想像できるからこそ、幸いにして生活保護を受けられている人を不当な受益者であるかのごとく思い込むのです。実際問題として、生活保護はごく一部の「幸運な」弱者しか受けられていないのが現状です。貧困ラインにあったとしても「普通は」受けられないのが日本の生活保護です。私だっていつ職を失って生活に行き詰まるか分かったものではありませんけれど、そうなってもたぶん生活保護は認められないでしょう。どれほど民間企業から「働けない」と判断されようとも、役所の窓口では「働ける」と太鼓判を押されるだけの話です。それは本当に良くないことなのですが、悲しい現実として生活保護を受けられている貧困層は「例外的に恵まれた」人となっていることは否定できません。ここから生活保護を受けられない「普通の」人々との格差意識が生まれます。
ほんの一握りだけでも救われるのが良いか、誰もが「平等に」救われないのが良いか、前者に不公平感を、後者に公正さを見出しているのが我々の社会なのではないでしょうか。いかに貧しかろうとも生活保護を受給できるのは一部の限られた人に止まっている中で、その一部だけが救われることに不平等との思いを募らせる人々がいる、こうした人々が生活保護「受給者」を「聖域」の住人として誹謗中傷を繰り返しているように思います。そして政府与党の閣僚が、この世界観に乗じるわけです。かくして世間の支持の元で社会保障費を削減できる、それによって弱者の支持も期待できるという倒錯した事態にもなってしまうのでしょう。社会保障が穴だらけであるが故に、「運良く」社会保障の恩恵に与ることができた人が不当な受益者であるかのごとくに扱われ、より一層の社会保障の削減が「改革」として待望される、負の連鎖ができあがっているのです。