非国民通信

ノーモア・コイズミ

経済誌が語らないこと

2009-01-31 13:25:34 | 編集雑記・小ネタ

 「会社と争ったら、仮に裁判で勝ったとしても労働者は無事ではいられない」とか、良く言われますね。まぁ決して好ましいことではないですが、現状としてはその通りだと思います。法廷に持ち込み、不当解雇であると認めさせたとしても、勝訴したはずの労働者に戻るべき場所が残されているかどうかは甚だ疑わしいものです。自身に法的な正当性があったとしても会社が本気で追い出しに掛かったら、一矢報いることが可能であるとしても無傷でいることは不可能でしょう。

 「労働者も無傷ではいられない」、この企業と労働者の力関係を強調するにも二通りの文脈があるような気がします。一つは、こうした企業側優位の現状を告発するためですね。しかるにもう一つは正反対、企業側の脅威を強調することで、労働者側に抵抗の無為を説く場合です。会社と争っても自分が傷つくばかりだから、会社と争うべきではない、会社と争わないよう会社から好かれる人間になれと、まぁ経済誌はこう繰り返すわけです。

 後者の典型例は、ここ2回ほど続けて取り上げた週刊ダイヤモンドだったりもするのですが、「会社と争っても自分が傷つくだけ(だから会社と争うな)」と説くメディアほど、その同じ口で「正社員は手厚く保護されている」と呪文のように繰り返す傾向にあります。何度も復唱していれば、実態のないものでもいずれ頭に刷り込まれるだろうと考えているのでしょうけれど、その自家撞着ぶりにはもう少し自覚的であるべきだとも思いますね。正社員が本当に手厚く保護されているのなら、どうして会社と争うことで社員が傷つくのでしょうか? 社員が無傷ではいられないのは、保護されていないからなのですが。

 先日のエントリを書いていたときに思いついたのですが、「正社員は手厚く保護されている」と連呼する御用学者と、単に御用学者の言説を鵜呑みにしているだけの素人の違いは、非正社員の「保護」に言及するかどうかにあるのかも知れません。御用学者は「正社員は手厚く保護されている」と語ることで、あたかも非正社員は保護されていない、正社員とは全く異なった制度が適用されているかのような印象を撒き散らします。あたかも「正社員は解雇できない」が「非正社員は自由に解雇できる」かのように匂わせるわけです。しかし、非正社員の処遇については匂わすだけで明言はしません。

 「非正社員は自由に解雇できる」というのは法律上は完全な誤りだから、でしょうか。弁護士といってもピンキリですが、一応は法律の専門家である弁護士が「非正社員は自由に解雇できる」などと嘘を吐くわけにはいかないのです。正社員の解雇には合理的な理由が必要だが非正規雇用の場合は不要、などと定めた法律は存在しません。だから彼らは、「非正社員は正社員と違って自由に解雇できる=正社員は非正社員と違って解雇できない」かのように 匂 わ す に留めるわけですね。嘘を吐かなくとも、誤解させることは出来ますから。

 法的には手厚く保護されている歩行者も、車に轢かれたら無事では済みません。正社員だろうが非正社員だろうが、会社が退職を強要するようになったら終りです。ただ法的には同レベルに保護されているはずの非正規社員が正社員よりも「守られていない」と映るのはどうしてでしょうか。たぶん、「守る」の意味が違うのでしょう。法的に保護されているという意味での「守られている」ではなく、労働者を守るための法律を雇用側が遵守しているかどうか、こちらの意味での「守る」意識に差があるのです。正社員に関しては、まぁ残業代の不払いなど違法行為は多々あるにせよ何割かは法律を守って処遇する、一方で非正社員に対しては「法律なんて糞喰らえ」とばかりに恣にする処遇が罷り通っている、その辺の意識の違いが影響しているような気がしますね。個人の犯罪には厳罰主義でも、企業の違法行為――とりわけ労務関係――には目を瞑るのが日本社会ですから、法律が守られないことで、法的には守られているが実際には守られていない、そういうポジションの人が増えているわけです。

 

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同一労働同一賃金にも2種類あるらしい

2009-01-29 22:55:52 | ニュース

いまさら出てきた「ワークシェアリング」論 7年間ぶりの“復活”に感じる違和感(DIAMOND Online)

 このようににわかに注目を集めている「ワークシェアリング」だが、これを考えるにあたっては、どこからどこまでがワークシェアリングなのかをまず考えなければならない。そこで、現在、日本で定義されている「ワークシェアリング」は、大きくいうと下記の2つである。

1)多様就業型ワークシェアリング(雇用創出型ワークシェアリング)
2)緊急対応型ワークシェアリング(雇用維持型ワークシェアリング)

 1)は、多様な業務の短時間労働を組み合わせることで雇用機会を増やす、というもの。オランダをはじめヨーロッパなどで普及している制度がこれにあたる。近年いわれている“ワークライフバランス”を実現するためのシステムとして、ヨーロッパでは一般的になってきている。

 2)は、不況などで企業業績が悪化したときに、1人あたりの労働時間を短縮する(その分、賃金を切り下げる場合もある)ことで全体の雇用を維持する、というもの。最近、自動車メーカーなどの製造業を中心に行なわれている、工場の操業停止と一部賃金カットなどのケースがこれにあたるとされている。

 今日も週刊ダイヤモンドからの引用です。先日の記事はジャーナリストによるものでしたが、今日のは弁護士が書いています。橋下徹や稲田朋美の同業者さんですね。まぁ、冒頭に引用した箇所は至って普通の現状分析でして、一口にワークシェアと言っても方向性が異なるものがある、雇用創出のためのワークシェアもあれば、雇用維持を名分に掲げつつ賃金カットを推し進めるようなワークシェアもあるわけです。その辺の意図を曖昧にしたまま、「雇用を守るため」を称して経営側主導でワークシェアが導入されると、オランダとはまるで別物の日本独自のワークシェアが出来上がるわけでもあります。

 というのも、「ワークシェアリング」を導入するためには、正社員の既得権益にメスを入れなければならないからだ。痛みを伴う改革であり、その前に「同一価値労働、同一賃金」という考え方を浸透させなければならない。

(中略)

 そして、評価によっては、その職務において正社員の付加価値が認められれば、その分賃金が高くなるということがあってもおかしい話ではない。いま一番問題なのは、ただ「正社員である」というだけで、非正規社員と比べて大幅な待遇格差が生じてしまっていることである。時代が、その格差是正を求めるのであれば、「整理解雇の4要件」とセットにして、正社員の既得権益を見直す議論をすべきではないだろうか。「ワークシェアリング」が本格導入されれば、派遣活用の必要もなくなるはずである。

 で、至って普通の現状分析の後は週刊ダイヤモンドらしい妄言が披露されます。この人はまるで呪文のように「既得権益」という言葉を連呼していますが、未だに小泉/竹中路線を信奉しているか、あるいは「新しい小泉」を待ち望んでいる人にありがちな傾向ですね。それはさておくにしても、随分とツッコミどころに満ちた文章です。なんでもワークシェア実現のためには「同一労働同一賃金」の浸透が必要だと説くわけですが、そこで言及されている「ワークシェア」とは①オランダ型と②日本型のどちらなのでしょうか。引用しなかった箇所を含めて何度読み返しても、その辺は明言されていません。目指すべき到達点を曖昧にぼかしたまま話が進められているわけです。

 まぁ「同一労働同一賃金」は良しとしましょう。しかるに同一労働同一賃金を実現させるためには、「正社員の既得権益にメスを入れなければならない」そうです。う~ん、一口にワークシェアと言っても、実は全く正反対の方向を向いた2種類のワークシェアがあるように、同一労働同一賃金にも正反対の方向を向いた2種類があるみたいですね。その片方は、日本にしか存在しないものかも知れませんが。

 問題なのは「正社員」というだけで、非正規社員との待遇格差が生じていることだと、そう引用元の論者は説くわけです。ふむ、なんだかんだ言って右翼層と小泉/竹中支持層が被る理由がわかるような気がします。彼らは自説を正当化するためなら、物事の順序を都合良く入れ替えることに躊躇いがない、考え方が似ているのでしょう。言うまでもなく、近年で顕在化したのは「非正規雇用」というだけで正社員とは異なった待遇、大きく「劣った」待遇を強いる動きであって、正社員を厚遇するようになったわけではないのですが。

 正社員と非正社員の格差を語っている点では同じかも知れませんが、事実認識に根本的な違いがあります。もし仮に、この10年で正社員の待遇が大幅に引き上げられた結果として非正社員との格差が拡大したなら、正社員の待遇にメスを入れるべきとする意見にも部分的な合理性はあります。しかし、正社員の待遇は横這い、というより漸減傾向にある中で、非正社員の待遇が急速に悪化して生じた格差にはどう対応すべきなのでしょうか? 言うまでもない、悪化した部分を回復させるしかないはずです。

 同一労働同一賃金を目指すなら、非正規というだけで劣悪な待遇におかれた人々の待遇を引き上げることが求められます。しかるに日本の御用学者の語る同一労働同一賃金とは、正社員の待遇を引き下げることで非正規との差をなくそうとするものです。たしかにそれでも「格差」は消えますが、代わりに「貧困」が増えます。そんなものを歓迎できるのは、まぁ親の金で暮らしていけるから低賃金は苦にならない、しかし自分より稼いでいる連中から見下されるのは我慢ならない云々とか考える人ぐらいでしょうか、若く貧しい小泉支持層には意外と多いタイプかも知れません。ともあれ、ワークシェアにもヨーロッパ型とは別の「日本型」があるように、同一労働同一賃金にも「日本型」があるようです。引用文の著者がその点に触れないのは、自覚がないからなのか、それとも読者を欺こうとしているからなのか……

 そもそも戦後最長の景気回復の結果、正社員の取り分は微減、非正規の取り分は激減しました。じゃぁお金はどこに消えたのかと言えば、それなりに増えた役員報酬であり、大幅に増えた株主配当であり、圧倒的に増えた内部留保です。メスを入れる余地があるとしたら、正社員の既得権益なる脳内仮想敵ではなく、こうした本物の権益者でしょう。ただこうした本物の権益者を守るために、別の「敵」を用意して矛先を逸らす、聖域を守ろうとする手口は小泉時代から全く衰えていません。「雇用維持」の美名を掲げて給与削減を図り、「格差解消」の美名を掲げて労働者全体の待遇引き下げを図る、そして「改革」を掲げて実は現状の上下関係をより強固に保とうとする、そうした動きは未だに健在です。

 

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会社社会における自己防衛

2009-01-27 23:14:16 | ニュース

嫌がらせの人事異動!? セクハラ上司を訴えた女性社員に対する「会社の報復」(DIAMOND online)

(前略)

 セクハラと闘ったせいで、会社から目を付けられ、嫌がらせを受けることになってしまった古嶋氏。彼女のケースから、自分の身を守るために学ぶべきものは、主に次のようなものだろう。

(中略)

2)配置転換をさせにくい人材になる
→古嶋は、第3者機関に話を持ち込んだ段階で、この会社でほかの人と同じような待遇(昇進など)を受けることは難しいと覚悟をするべきだった。そして、異動先の部署で、極力、自分にしかできない仕事をすることで、ほかの人と“代えがきかない人材”(配置転換をさせにくい人)を目指すべきであった。

 しかし、実際はいまの部署でほかの人と同じような仕事をしていた。(異動してわずか1年しか経っていないため、仕方のない部分もあるが・・・)これでは排除されやすくなってしまう。第3者に話を持ち込むことの意味をシビアにとらえていなかったのではないか、と思われる。

 産経新聞も相変わらず面白いのですが、ネタ度では決してヒケを取らないのが週刊ダイヤモンドです。短い間でも会社で働いた経験があれば、そんなものを真に受けるヤツはいないだろうとしか思えないスピリチュアルな香り漂うヨタ話が満載です。ヨタ話が満載ですが……そういうヨタを一緒に信じることで「社会人の常識」というフィクションが維持されているところもあるのかもしれません。

 (前略)の部分では、どのようなセクハラが行われ、それを告発した社員に対してどのような報復が行われたかが書かれています。もちろん、ダイヤモンド社ですからセクハラや報復人事を告発するようなことはせず、セクハラや報復を受ける社員サイドに対応を迫るわけです。靴が足に合わないのなら、靴を取り替えるのではなく足を靴に合わせるよう努力する必要があると説くわけですね。「自分の身を守るために学ぶべきものは」と。

 そして(中略)の部分では、セクハラを受けた女性側にも非があった、これこれこういう風に対応すべきだった、被害者サイドが色々と改める必要があると述べられています。あれですね、強姦事件が発生した際に、「被害者にも落ち度があった」と、呼ばれもしないのにわざわざ力説する輩と同じです。まぁダイヤモンド社ですから、これくらいは朝飯前です。

 さて漸く引用部分です。前フリが長くなりましたが、ここが本題です。何でもセクハラ被害や報復人事に遭わないための対策として「配置転換をさせにくい人材になる」ことが挙げられています。う~ん、会社で働いたことのない人が、想像で考えた防衛策みたいですね。ある時はアルバイト、ある時は正社員、またある時は派遣社員として結構な数の職場を渡り歩いてきましたが、そんな対策に意味があるとは到底、思えないのですが。

 だってねぇ、現場に必要な人材が管理部門の思惑一つで遠方の部署に異動させられてしまうことなんて、いくらでもあるでしょう? 私が働いたことのある会社だけの珍しい事例なんでしょうか? 管理部門は現場の仕事なんてわかっちゃいません。同じところで長く働かせるのは良くない、そろそろ転勤させようとばかりに、現場の都合など無視して異動を発令するものです。時には異動の発表が1週間前だったりして、現場が大混乱に陥ることもよくあります。個別対応が必要な大口顧客を専任で担当していた人だって突然の異動、課長は「まぁ何とかするしかないよ」と言ったものの何とか出来るはずもなく、事務処理のミスが大量に発生してお詫びに訪問する羽目になったりとか、それくらいのことではどこでもあるはずです。「自分にしかできない仕事をする」ぐらいで異動から免れることができると思ったら大間違いです。

 それに、仕事は選べないんですよ。当たり前ですが。自分から望んで「自分にしかできない仕事をする」ことなど出来ません。個人事業主ではないのですから、組織として上から割り振られた範囲でしか動けないんです。セクハラと報復人事から身を守るためだからと言って「ほかの人と同じような仕事」はやりません、自分だけにできる仕事をさせてください、なんて言ったらそれこそクビが飛びます。それが許されるような会社だったら、報復人事だって簡単に撥ね付けられるでしょう。会社命令を拒めないから報復人事が力を持つ、会社命令を拒めないから「ほかの人と同じような仕事」をするしかないのです。その辺の事情を引用文の著者はまるで理解できていない!

 まぁ、これが事務部門ではなく営業部門だったら多少は違うのかも知れません。「ほかの人」では達成できないような営業成績を上げることは、会社の命令がなくとも可能です。ただし、自身の能力と顧客の協力が必要なわけで、本人がその気になりさえすればどうにかできるものではありません。言うまでもないことですが。

 百歩譲って、こうした自己防衛策が有効だとしましょう。よくよく考えれば、私も多少は実践しているような気がします。こうして考えてみると意外に、自分しか担当していない仕事が何種類か思い当たるものです。そこで「配置転換をさせにくい人材になる」ためには? そうです。自分が担当している仕事を他人に教えないことです。私に仕事を教えた前任者の中には異動済みの人も多いですから、少なくともこの事業所で○○のやり方を知っているのは私一人、なんて仕事がないこともありません。そこで仕事のやり方を私だけの秘密にしておけば、「配置転換をさせにくい人材」になれる……のでしょうか?

 仮にこの方法が有効だとしても、会社全体のことを考えるとどうでしょう? 情報の共有化を図るべくネットワーク上にマニュアルを作成する人もいる一方で、私物の手帳に手順を書き留めるだけで他人には公開しない人もいます、と言うか後者は私ですが、会社全体のことを考えたらどちらが推奨されるのでしょうか? 会社のことを考えるなら、前者でしょうね。しかるに今の会社社会――従業員を守らない、従業員に自己防衛を要求する社会――では、後者のようになることが求められているわけです。人件費を切り詰めることで個々の会社は利益を上げても、日本全体で見れば景気には悪影響を及ぼすように、個々の社員が自己防衛に走ることは会社に悪影響を及ぼします。ならば社員が自分を守るべく小細工を要せずとも済むようにすることが経営側の利益にも繋がってくるはずなのですが、やっていることは正反対なのです。

 

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風俗業界まで人材派遣?

2009-01-26 22:53:30 | ニュース

風俗店グループ、消費税逃れ 従業員を「派遣」と偽る(朝日新聞)

 京都市を拠点に神戸、横浜、熊本の各市で風俗店を展開する企業グループが国税当局の税務調査を受け、06年までの3年間で消費税約2億円を免れていたことがわかった。女性従業員をダミー会社からの派遣と偽り、納税額を不正に減額させていたという。こうした手口の消費税逃れは人材派遣業を中心に発覚していたが、風俗業でも明らかになった。国税当局は他の業種でも横行している恐れがあるとみて監視を強めている。

 消費税は、企業が顧客から受け取った分から、自社が仕入れの際に支払った分を差し引いて納める仕組み。本当は直接雇用だが派遣と偽装すれば、「派遣元」に支払う費用にかかる消費税の名目で、税負担を小さくできる。

 驚くところが違う、と思ったのは私だけなんでしょうか。この手の脱税、ゴマカシはよくあることです。企業グループの中に派遣会社を作って、グループ企業内部にのみ派遣する、「専ら派遣」などと呼ばれる形態は珍しくありません。わざわざ派遣会社を作ってグループ会社に派遣させるくらいならアルバイトか契約社員としてでも直接雇用すれば済みそうに見えますが、そうしないのは「トカゲの尻尾切り」のための備えだけではなく、税金逃れの目的もあるのでしょう。

 で、税金逃れは今さら驚くようなことでもない(感心は出来ませんが)わけですが、なぜか報道の眼目はそこにあるようです。共同や産経も同じネタを取り上げていますが、他紙も似たようなものです。私がこの業界に無知なだけなんでしょうか? 風俗業界にまで人材派遣ビジネスが進出していた――実態は直接雇用だったにせよ、摘発されるまでは人材派遣として認知されていた――ことの方に驚きを感じたのですが……

 まぁ、人材派遣に関する規制なんてあってないようなもの、雇用側は元より監督する側の機関だって、大騒ぎにでもならない限り違反など気に留めることはないでしょう。深夜労働や肉体労働、汚れ仕事にだってガンガン人が派遣されているのですから、風俗業界への人材派遣が実質的に解禁されていたとしても不思議ではないのかも知れません。でも、私は意外に感じたのです。私がウブなのかな?

 風俗店経営で女性を派遣社員として働かせていると聞いたら、少なからず引っ掛かると思うのですよね。本当かよ?と、私だったらそう思います。その割には不正が発覚するまで随分な年月を要している、監督する立場の機関は何も不審に思わなかったのでしょうか? 最低でも3年間は放置していた、不正を見つけたのだって労基署ではなく国税局ですから、「税金を取り立てる」というモチベーションがなければ永遠に放置されていたかも知れません。単に私が知らないだけで、風俗業界に人材派遣は当たり前なのでしょうか? 誰か実情を知っていたら教えてください。

 

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雇う側にはチャンスでも……

2009-01-25 12:08:49 | ニュース

10人の男と10人の女がいたとする。
まず、いちばんもてる男に、女が3人くらい寄っていく。
2番目にもてる男も、負けじと2人くらい持っていく。

  男 女  
1 ○ ○ 
したがって3番目の男は、6番目の女と一緒になる。
2 ○ × 以下、4番目の男は7番目の女と、
3 ○ × 5番は8番と、6番は9番とカップルになる。
4 ○ ○ しかし、残る7番目以降の男にもプライドだけはあるので、
5 ○ × 最後に余った10番目の女など誰も相手にしようとしない。
6 ○ ○ 
7 × ○ さて、上位の女を独占したNo.1&2のモテ男も、
8 × ○ 最終的には一人を選ばねばならないから、ここで3人の女があぶれる。
9 × ○ でも、すでにモテ男と付き合った経験のあるこの3人の女は、
10 × × いまさら下位の男と一緒になろうなどとは考えない。

こうして、互いに性質の異なる独身男と独身女が残る。

男女の独身比率は同じでも、階層が異なるんだな

 ……以上は、ただのコピペです。これを私が改編したものは、こちらのリンク先にあります。求人と求職者が同数であったとしても、失業と人手不足が同時に存在するわけですが、その理由は簡単ですよね?

希望ミスマッチ…派遣切り救済雇用 応募サッパリ(産経新聞)

 全国の製造業で相次ぐ非正規社員の「派遣切り」。雇用対策として、さいたま市が発表した臨時職員100人の採用計画の応募が8人にとどまったことが明らかになったが、新規雇用を打ち出したほかの企業や自治体でも元派遣社員の応募が少数にすぎない実態が分かってきた。「派遣切り救済」と「人手不足解消」の一石二鳥を狙った企業や自治体は肩すかしを食った格好となっている。

 そもそも「救済雇用」という見出しが、報道する側の見解を表しています。あまりの低賃金ゆえに求職者から人気のない業界が俄に活気づいているようですが、派遣社員時代よりも手取りが下がるのであれば「救済」どころか「転落」でしょう。それ以上に「救済」とはどうも「善意で手を差し伸べている」かのようです。まぁ実際に善意で動いている人はいるのかも知れませんが、状況によってはこの「善意」が差別の温床にもなりうる気がします。

 例えば、店の前に一人のホームレスがいたとします。「これ、売れ残りですけど、良かったら食べてください」と食べ物を差し出すのは善意です。ホームレスに売れ残りを差し出す一方で、自分はもっと良いものを食べているかも知れませんが、それ自体は善意に違いありません。ところが、これが常態化するとなるとどうでしょうか? 善意を受ける立場の人間には「残り物」を与える、善意で救ってもらう立場なのだから、周りより低い扱いを受けてもありがたく思えと、そうなってしまうとどうでしょうか?

 新卒採用なら月給20万円、一方で「派遣切り被災者」を対象とした「救済雇用」の場合は月給12万円、こういう格差があったとします。不当でしょうか? もちろん、不当です。しかし善意がそれを覆い隠します。「あなた方を助けてやるために、特別に仕事を用意してあげたのだ」「無職から救ってやったのに、さらに欲張ろうとするのか」と、そういう見方も出てくるでしょう。「救済」を通じた支配もあり得るのです。

 急場を凌ぐための「救済」はありがたいものなのですが、それが永続することを望む人はいません。次の職場が見つかるまでの、応急処置的な働き口であれば「賃金は安くとも仕事があるだけで……」と思えるかも知れませんが、その仕事を続けるのであれば賃金が安くてもいいはずがありません。困っているときに誰かが1000円を恵んでくれたら、それは当然ありがたいことです。しかるに、ずっと1日1000円で過ごせと言われたらどうですか? 繰り返しますが、その場しのぎなら「余り物」でもありがたいものです。しかし、本気で長く働くつもりがあるのなら、職を選ぶのが当たり前です。本気だからこそ、職を選んでいるのです。

林業就業説明会に200人が行列 「不況で求職者増えた」(共同通信)

 担い手不足に悩む林業への就業説明会が23日から2日間の日程で、東京・外神田で始まった。全国森林組合連合会が主催、20都道県の林業関係者が元派遣労働者や転職希望の会社員らの相談に応じた。開場時には200人を超える行列ができた。事前に参加を登録した人は昨年の10倍以上の約500人。同連合会は「不景気で職を求める人は多く、良い機会」とし、参加者が昨年の約4000人を上回ると期待。

 しかるに、こういう記事もあります。産経新聞と共同通信では、強調したい部分が違うようですね。しかしまぁ、「不況の受け皿」と言えばつい最近まではタクシー業界でした。タクシー業界に「救済」された元失業者の今はどうなんでしょう。「不景気で職を求める人は多く、良い機会」などという森林組合連合会の見解は、まぁ雇用する側からすれば正直な気持ちなのでしょうけれど、求職者にとって「良い機会」でないことを失念しているようにも見えます。悪意はないかも知れませんが、無神経です。

 

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内需が回復しないワケ

2009-01-23 23:00:20 | 非国民通信社社説

 私が言うまでもなく方々で指摘されていることですが、内需が低迷を続けています。日本の貿易相手国が好景気で色々とモノを買ってくれたおかげで輸出企業は空前の利益を記録するに至りましたが、ちょっと海外景気が悪くなったらごらんの有様です。あくまで他国の景気次第、日本国内ではモノが売れず、企業業績と反比例するかのように漸減傾向が続いてきた給与所得もこの半年は企業業績と比例するようになりました。先行きは暗いです。そこで貿易相手国の景気回復を待つ以外に、もうちょっと主体的に何とかするには、つまり国内の需要を増やして自国主導で経済を活性化させるためには何が必要なのでしょうか。

 内需が冷え込む原因の一つに、改善されない雇用環境があります。いくら働いても給料が増えない、手取りが少ない、すなわち可処分所得が少ないから、それが消費に回ることもない、モノが売れなくなってしまうわけです。雀の涙の時給にぼったくりの寮費、いつ首を切られるかわからない派遣社員では車なんて買えませんよね? 私が子供の頃は「アフリカのカカオ農場で働いている人にとってチョコレートなど高級品で、現地の人は食べることが出来ない」なんて話を聞かされたものです。今がどうか知りませんが(世界で最も虫歯の少ない国はガーナだそうです)、翻ってトヨタの期間工はトヨタ車を買えるのでしょうか? トヨタの従業員にとってトヨタの新車が高嶺の花なら、車が売れなくなるのは当然ですね。

 もう一つ、甚だ頼りない社会保障があります。国民一人当りのGDPはOECD30カ国中19位まで落ち込んだ日本ですが、それでも尚、貯蓄額に関しては世界のトップを争っています。収入は少ないが貯金は多いのが日本なのですね。どうしてこうなるかというと、日本ではセーフティネットが機能していないから、いざというときは全て自己責任で何とかしなければならない、病気や失業、老後に備えて貯金を作っておかないと一気に路上生活に転落しかねない環境だからです(派遣切りにあった人を思い起こしてください、貯金を作っておかないと即座に路上生活へ転落です!)。最悪の事態を避けるために、お金は使わずに貯め込んでおかねばなりません。収入があっても使えない、節約して貯めておかねばならない、消費に回せない、だから当然、モノも売れないわけです。社会保障の乏しさから来る将来不安が消費を抑制しているのです。

 ここで上げた2つは、比較的シンプルです。トヨタの期間工にもトヨタ車を買えるだけの給料を支払うこと、十分な購買力に繋がるだけの給与を支払うこと、これをルール化(企業の「善意」や「社会的責任」に訴えるのではなく!)すれば一つめはクリアできますし、もう一つは欧州並に社会保障を引き上げること、国民が安心して収入を消費に回せる環境を作ることで解決できます。問題は、それをやる気があるかどうかです。左派政党が政権を握れば、この2つに改善の兆しは見られるでしょう。この国で左派政党が政権を取ることの絶望的な困難さはさておき、方法論としては単純、やるべきことは明確ですから。

 ただそこで疑問に思うのですが、十分な可処分所得があって、かつ将来に不安を残さないだけの備えも出来ているとしましょう、この2つの条件さえ満たされていれば、人は消費に走るのでしょうか? 実際に、そうした人はいるはずです。たとえば経済が3%後退すると言っても、全ての人の取り分が3%減るのではなく、往々にして3%の人が全てを失い、残る97%の人に直接の影響はないわけで、運良く不況の波から免れている人は、そんなに少数派でもないでしょう。十分な可処分所得があり、将来への備えも出来ている人は減少傾向にあるかも知れませんが、まだ少数派ではないはずです。

 しかし、消費に回せるカネがあったからと、それが消費に回っているわけではないのが実状です。「欲しいものがないから」「今あるものでも十分に仕えるから」、そんな声も多いのではないでしょうか。「モッタイナイ」精神ですね。モノを大切にする、内需を沈滞させる悪徳です。日本ではカネがあっても使わない、節約が大好きで、無駄遣いを何よりも恐れますから。(麻生内閣がやろうとしている定額給付、国によっては成功例もありますが、日本ではどうでしょうか? せっかくカネを渡しても、相手が使いたがらないのなら?)

 とりわけ考え方の面で、日本経済は製造業至上主義の「ものづくり」国家です。国際金融の世界では日本企業などミジンコみたいなものですが、販売数世界一がほぼ確定したトヨタを筆頭に日本の製造業は世界を席巻しているわけでもあります。そして製造業の雇用情勢に右往左往するのが日本であり、昨今の金融危機への反動から、なおさら製造業至上主義への傾倒を深めようとしているのが日本です。それだけに「製造業を大切にして、金融は必要な分だけを『ほどほどに』やって行くのが生き残る道」などと、破綻している現状を追認するかのごとき言動が無反省に繰り返されています。しかし、こうした製造業中心の経済が発展していくためには、製造業が作り出した「モノ」が売れ続けなければなりません。すなわち、古いモノを捨てて、どんどん新しいモノを買い続ける、これを続けない限り製造業至上主義の社会が経済的に発展することは出来ないわけです。

 ところが、日本は「ものづくり」と同時に、それとは矛盾する「もったいない」を重んじる社会になってしまいました。こういう謎謎を聞いたことがありますか? 「飲めばどんな病気にもかからなくなる薬が発明されました。最初は爆発的に売れましたが、すぐに全く売れなくなりました。何故でしょう?」と。答えはわかりますね、みんなが薬を飲んでしまえば、次から薬は不要になるわけです。当然、需要もなくなります。製造業も同じで、品質が高く壊れにくいモノを作り、消費者が大事に長く使えば使うほど、買い換え需要は減る、モノが売れなくなるわけです。

 自動車で考えてみましょう、既に全世帯に自動車が普及しているとしたら、新たに自動車が売れるためには何が必要でしょうか? 言うまでもありません、必要以上の台数を保有してもらうか、あるいはまだ壊れていない既存の自動車を廃車にしてもらうか、そのどちらかが求められます。「贅沢は素敵だ」と、そう言える人ばかりならば自動車も売れ続けるでしょう。しかし「もったいない」を口にする人は、たとえ十分な購買能力があっても購入を控え、古い自動車を使い続けるでしょう。そして日本は圧倒的な「もったいない」精神に侵し抜かれた社会です。新しい自動車が国内で売れるはずがありません。内需が増えるはずもないのです。

 対処法としては、何通りか挙げられます。例えば日本は「もったいない」精神だけではなく「自立/独立至上主義」でもありますね。親族で資産を共有したり、親から子へと家財を受け継ぐよりも、とにかく子供は親から独立すべきなのだと、そう信じ切っている社会でもあるわけです。そこでは既に全世帯に自動車が行き渡っていたとしても、子供が親元から切り離されることで新たな世帯が作り出され、それによってまだ自動車を所有していない世帯が生み出されてきたのです。何はともあれ親元から自立しなきゃいけないんだ、そう信じて新たな世帯を作ることで、自動車を持たない世帯=新たな自動車購買層も作られてきました。ある年代までは国内でもモノが売れていたのは、こういう事情もあるからではないでしょうか。しかるに子供の数は大きく減り、親族と家財や世帯を共有する地球に優しい子供(通称パラサイト)も増えてきました。子供の独立をアテにしたビジネスモデルは既に頓挫しています。

 欧米では、裸一貫、一旗揚げにやってくる移民が内需を支えてくれるかもしれません。十分な家財を持たずにやってくる人は、それだけ新たにモノを買ってくれるお客様であり、内需を活性化させてくれます。しかし、国籍法の微修正でも大騒ぎ、国会議員ですらネット上の妄言に付き合い出す始末、ヨーロッパの極右が羨むような排外主義を掲げる日本では、移民に期待をかけることはできません。良心があるなら「日本はやめておけ」と言いたくなるのが現状ですから……

 新たな需要を作るのは、幾らか建設的な考えです。洗濯機が全世帯に行き渡っているなら、新たに洗濯機を売るのは難しくなります、当然ですよね? ならば、まだ普及していないモノを売ればいいわけです。パソコンにエアコン、オーディオや携帯電話、昔はこんなものがなくとも不自由を感じていなかったかもしれませんが、供給は需要を産みます。新たなモノが市場に投入されることで、新たな需要が産まれ、しばらくはモノが売れ続けるわけです。しかし、新製品もいずれ必要な世帯に行き渡る時が来ます。そうなったときはどうすべきでしょうか? 古いモノを使えなくしてしまうのも手です。テレビがそうですね。薄型テレビも普及しつつあります、ここは一つ旧来の地上波を使えなくして、新しく地上波デジタル対応機を買う必然性を作ってやる等々。モノが売れ続けるためには、旧世代のモノを捨ててもらわねばなりませんから。

 それがダメなら、既にモノが十分に普及した市場は諦め、モノがまだ普及していない新興国をターゲットにすることになります。日本市場を捨てて、まだモノの売れる海外に販路を見出すわけですね。日本国内でもモノが売れないのですから、日本の製造業がこちらを選ぶのも必然です、必然ですが、おかげで国内経済はズンドコです。それに現在の新興国が日本並みに発展し、モノを大切にし始めたらどうしましょう? この方法にも必ずや限界が訪れます。

 以上で述べたように、ものづくりを大切にしつつ、モノを大切にする、この矛盾した両方を追い求めている限り、国内需要は低迷を続けます。左派政党が政権を取っても、これを免れることは出来ません。「ものづくり」「モッタイナイ」「内需拡大」、この3つを同時に満たすことは出来ないのです。左派政権が誕生しても、やっぱり外需を待つしかない、左派でもダメじゃないか……という事態を避けるためにも、我儘は言わず、どれか一つは諦めてください!

「モッタイナイ」を諦める
 これはかなり、思い切った選択です。私自身は新しいものが好きで、必要が無くとも新しいパソコンを買ったりしていますが、これからの時代は「エコ」ですから、たぶん時代に逆行した選択になるはずです。行き過ぎた「モッタイナイ」精神はどうかとも思いますが、今後は新興国とも地球の資源を分け合わねばなりません。モノを次々と買い換えることで製造業と内需を支えるのは、国際的な非難を浴びる行為になります。ただ、「モノが売れる社会とはモノが買われる社会」だということは忘れないでください。国内でモノが売れ続けるためには、我々がモノを買い続けなければならないのです。

「ものづくり」を諦める
 ヨーロッパモデルです。私も前々から推奨しています。要するに「モノ」ではなく、モノとしての実態を持たない商品の流通へと意図的に軸足を移すわけです。モノとしての価値は乏しくとも、高い付加価値を持った商品、コンテンツ産業や金融、情報産業、そして公共サービスなど、モノとしての実態を持たない商品を経済の中心に据えるわけですね。極論するなら、パチンコや競馬などのギャンブルも含めていいでしょうか。いずれにせよ、モノではありませんから、資源を消費しない、新たな商品の購入のために古い商品を捨てる必要がない、ものづくりと違って持続可能な経済発展が可能なモデルと言えます。

「内需拡大/経済成長」を諦める
 今のままなら、これが選ばれてしまいそうな気がします。自分の財布を満たしてくれる候補よりも感情を満たしてくれる候補に票が集まるように、経済的に豊かになることよりも自分の思い通りの「道徳的/禁欲的な」スタイルを貫くことが選ばれるのではないでしょうか。現に経済的な豊かさを否定して精神的な豊かさの充実を訴えて憚らない人だっているわけです。日本は製造業を中心にしたものづくり国家であるべきとする「好み」と、モノを大切にしたい、既存のモノを使える以上は買い換えるべきではないとする「好み」、経済的な豊かさよりも、この2つの好みを満たすことを無自覚に望んでいる人が多いような気がします。

 今の生活に満ち足りている人やタンスにお金が眠っていれば幸せな人は、たぶんそれでもいいのでしょう。これ以上望むものはないから、これ以上の経済発展も必要ない、経済的豊かさは必要最低限で十分とばかりにスタイル面での「好み」に専念できるわけです。しかし、まだ満ち足りていない人、持つべきものを十分に持てないでいる人はどうなのでしょうか? 分配のパイを増やしてやらなければなりません。たしかに、昨今は労働分配率がおかしい、企業側の取り分だけが増えすぎている中では、この分配率を是正することで「今」の状況は改善できるでしょう。ただ、それはあくまで「戦後最長の景気回復」の結果として30兆を超える莫大な内部留保があるからこそ可能であるわけで、もしこの経済成長がなかったら、分配すべき富の蓄積もなかったはずです。

 そして計画経済が決して成功しなかったように、人の関わるところでは絶対にアクシデントが起きます。そうしたとき、禁欲趣味から必要最小限の経済的豊かさに留めおかれた社会は、どこまで対応することができるでしょうか? イレギュラーな事態に対応できる余力のある社会であるためには、経済発展を続ける必要があるのです。ムダを省くと称して最小限度まで人員を削減した企業が、危機に対応できない脆弱な企業に成り下がるように、欲を捨てるとばかりに経済発展を捨て、必要最低限の富しか持たない社会は危機に対応できない、「普通」の枠からはみ出た人を助ける余裕のない社会にしかなりません。そこに陥らないためには、経済的な豊かさを肯定できるようになる必要があります。経済面の貧しさを解決するためには、経済面の「ゆとり」が必要なのです。

 

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学校での運動時間が無視されています

2009-01-22 22:56:51 | ニュース

運動しない女子 中2、週1時間未満が3割 文科省調査(朝日新聞)

 文部科学省は21日、全国の小学5年と中学2年を対象に08年度に初めて一斉に実施した「全国体力・運動能力・運動習慣調査」の結果を発表した。子どもの体力がピークだったとされる1985年当時の抽出調査の成績と比べ、ほとんどの種目で下回った。運動をしない子は特に女子で目立ち、中2では1週間の運動時間が1時間未満の子が3割強に及ぶ。

 昨年10月の報道では「下げ止まり」とのことでしたが、今回の発表では通例に従い子供の体力低下を印象づける形で記事が書かれています。「子どもの体力がピークだったとされる1985年当時の抽出調査の成績と比べ、ほとんどの種目で下回った」そうですが、ピークだったと さ れ る という曖昧な表現が何か引っ掛かりますね。それはさておき、体力測定の結果を気にする人も多いようで、学力も体力も運も軒並み最下位を争った某所では知事が「結果を公表しろ」と吠えているとか。ふーん。

参考、体育会系社会だし

 細かいことは上のリンク先で書いたのですが、学力調査と体力調査、報道の仕方が似ているようでいて、実は決定的に異なる点があります。学力/体力の低下を印象づけて危機を煽るという面では一緒なのですが、学力は他国の子供と比較されるのに対し、体力は日本だけで話が完結してしまうのです。なぜでしょうか、他国の子供と比べて日本の子供の体力は~と話を進めた方が危機とノスタルジーを煽るためには好都合のはずです。学力テストでは常套手段なのに、体力テストではなぜ他所の国と比較しないのでしょうか?

 仮説其の一は、比較すべきデータがないから、ですね。日本みたいに体力を重視している国は他にない、国を挙げて体力テストを実施し、そのデータを揃えている国が少ないので、比較対象を確保できないのかもしれません。どなたか、データをお持ちでないですかね? その他の仮説にご興味があれば、上記リンク先のエントリをお読み下さい。

参考、必要とされていないから

 こちらのリンク先では、日本とロンドンの学校カリキュラムの違い、学校の外でどれだけ勉強しているかを扱っています。結論だけ言いますと、日本はいわゆる「勉強」の時間が短い、学力テストの対象になるような科目の授業時間が非常に短く、全授業時間の半分程度にしかなりません。一方でロンドンの小学校は日本で最重視されている体育などの時間が少なく、「勉強」に専念できるカリキュラムとなっているわけです。そして学校の外での勉強時間は日本の方が長く、ロンドンの子供は「勉強は学校だけですればいい」と回答する割合が高いのです。

 欧米の学校は「勉強するところ」という意識が強くて、学校での勉強時間が長い、そのせいか学校の外で勉強する意欲は薄いようです。しかるに日本の学校は「人間を育てる」という意識が強いのか、整列の練習やマスゲームを中心とした学校体育が盛んである一方、勉強する時間は短い、それを補う必要性を感じているのかは不明ですが、学校の外でも勉強すべきと考えられがちです。

 ……で、冒頭に取り上げた記事に戻ります。なんでも、運動しない子が目立つとか。他所の先進国の子供と比べてどうなのかは知りませんが、社会的には問題視されることのようです。でも、どうでしょうか? 欧米の子供は学校で勉強する時間が長い分、学校でしっかりやれば大丈夫と、家に帰ってから勉強する時間は短い、ならば学校で運動する時間が長い日本の子供はどうでしょう? 学校でしっかり運動しているのだから家に帰ってまで運動しなくても大丈夫と、そう思えないこともありません。学校体育のない国で「運動しない」となると多少の問題はあるのかも知れませんが、これだけ学校体育が盛んで、かつ体育会のクラブ活動への参加や休み時間を校庭で過ごすことなどが当たり前のように強制されている文化圏なのですから、学校の外でまで運動しなくても十分ではないでしょうか。「子供は外で運動するもの」というオトナの脳内子供像を押しつけたいのなら話は別ですが。

 

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食料品への増税です

2009-01-21 23:47:59 | ニュース

国民負担増1600億円以上=軽減関税期限切れで政府試算-輸入食品続々値上げも(時事通信)

 2009年度税制改正関連法案が今年度内に成立しない場合、関税の暫定軽減措置の期限切れで1600億円以上の国民負担が生じるとした政府の試算が18日、明らかになった。牛肉や小麦など415品目で、販売価格の値上げにつながる懸念があるためだ。同法案の年度内不成立の影響は関税以外の税目にも及ぶことから、国民負担はさらに膨らむ可能性もある。

 与党は国会審議の混乱で同法案が成立しない場合に備え、成立までの1、2月間暫定税率を延長する「つなぎ法案」の提出も検討する。

 関税軽減の暫定措置が切れると、例えば現在38.5%の牛肉の税率は50%に急上昇。100グラム当たり14円程度の値上げとなる。また、ウオツカは無税から16%、たばこは一箱12円程度の上乗せになる。

 食料品を中心に販売価格の値上がりが予想されているようです。困ったものですね。関税が上がれば保護主義者の心は満たされるかも知れませんが、私のような貧乏人の腹は満たされません。食品の値上がりは痛いです。どうせならもっと関税を引き下げて、国民の手元にもっと安く食料品が届くようにして欲しいところですが、良くて現状維持でしょうか。

 記事を読む限りでは、与党側は現状の関税を維持する、関税を引き上げない方針で法案を提出しているようです。しかるに、不成立の可能性が懸念されているとか。誰が反対しているのでしょうか? 野党? ある意味、面白い構図ですね。例えば日本の消費税の特徴は食料品などの生活必需品にも最高額が課税されていることで(消費税が日本より高いとされる国の大半は、生活必需品は消費税課税の対象外だったり、極めて低い率しか課税されていないわけです)、要するに食品だろうが容赦なく課税するのが政府与党の方針だったはず、ところが関税となると逆の立場に?

 排外主義者だったら、外国からの移民を「日本人の雇用を奪う~」などとして排除しようとします。保護主義者だったら、輸入食料品を「日本の農業を破壊する~」と言って門戸を閉ざすところでしょうか。互恵関係、パートナーシップといった発想は持たず、被害/禍害の関係でしか物事を捉えようとしない、そうした点では両者に大した違いはない、考え方は同じなのですが、必ずしも排外主義者=保護主義者とは限らないのが現状でもあります。ただ、無自覚に保護主義を掲げている人が、いつの間にか排外主義者と手を携えてしまうような、そんな懸念がないでもありません。

 これが食料品ではなく工業製品だったなら、もうちょっと冷静に物事を見られる人も増えるはずです。しかるに、食料品となると不思議とイデオロギー主導で物事が語られがちです。人はパンのみに生きるにあらず、ではありませんが健康で文化的に暮らしていくために必要なのは食料だけではありません。そして食料以外の面では、一国だけでは賄えないものをお互いに融通しながら、持ちつ持たれつで上手くやっているわけです。それなのに食料だけは門戸を閉ざして日本だけで完結しなければいけない、食糧問題に関して国際協調は有り得ないとばかりの論調をとる人も多い、困ったものです。

 スローフード、なんて言葉もあります。そこでスローフードとファストフード、頭に思い浮かべてください。貧乏暇無しの人が食べるのはどちらですか? 金と時間に余裕があれば話は別ですが、貧乏人にとってよりありがたみがあるのは、コダワリの地元食材なんかではなく、安価な大量生産の食品です。イデオロギーで腹が膨れれば何よりですが、保護主義を貫くために食料品が値上がりするのは、私のような貧乏人にはいい迷惑です。暮らし向きに余裕のある人なら、そんな事情は気にせず昔ながらの農業の維持を夢見ていられるのでしょうけれど、それでは食べられない人のこともたまには考えて欲しいと思います。

 

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私人のモラルは否定するのに

2009-01-20 23:39:54 | ニュース

企業着服など3億円 厚生年金納付漏れ3500件(共同通信)

 社会保険庁は16日、企業が従業員の給料から厚生年金の保険料を天引きしたのに着服や手続きミスなどで国に納付しなかったケースが07年6月-08年9月で約3500件判明したと発表した。計約3億円に上る。被害者を救済する厚生年金特例法の実施状況を同日、国会に報告した。311件、2190万円だった08年7月の公表に続き2回目。総務省の第三者委員会の認定作業が進めば、さらに増えそうだ。

 給与から天引きされたのに納付されなかった厚生年金保険料、すなわち会社の懐に入ってしまったお金の話です。前回調査で2190万円だったものが、半年後の調査ではなんと3億を上回るまでに至りました。今の時点では大きい金額ではありませんが、これから調査が進むにつれ激増していくことが予測されます。

 まぁ着服を含め、未納、滞納は多々あります。この滞納の主体が国民の場合ですと、つまり給食費や国民健康保険料などの滞納の場合ですと、大抵は道徳的な問題に還元されてきました。モラルの低さゆえに滞納が多いのだと、そう強弁するのが一般的な論調です。「生活苦から支払い能力に欠ける人もいるが」と、わざとらしく言い訳した上で、「未納者の中には、高級車に乗っている人も~」と繋げるのが定番ですね。

 かつて団塊世代が若者だった頃は、色々なものを切り詰めて、無理をしてでも車を買うのがステータスだったそうですが、時代は変わったようです。貧乏人が生活を切り詰めて、一点豪華主義で車にだけはお金をかける、昔の若者には珍しくない生活スタイルですが、今の社会でこれをやったら道徳的に断罪されるばかりです。そりゃ、車が売れなくなるわけだわ……って、違うかな?

 それはさておき、「高級車に乗っている人も~」という非難は定番中の定番です。貧乏人のクセして車なんて乗ってるんじゃねぇよ、車に使う金があるなら請求されたものを払えと、そんなノリなんでしょうか。よく飽きもせず、と思います。しかるにこの決まり文句、会社経営者には使われないみたいですね。給与から天引きした保険料を納付しなかったというこのニュースは他紙でも報じられていますが、かかる不心得な未納者を指して「保険料を納付しない一方、高級車に乗っている人も~」と語る新聞社は一つもありませんでした。扱いの違いはどこから出てくるのでしょうか?

 血の通った人間に対してはモラルが低下していると決めつける一方で、法制度上の人格=企業に対しては、そのモラルに期待するのが日本式なのかも知れません。日本の社会保障制度にしたってそうです。中福祉中負担なんて大嘘、極めて貧弱な社会保障しかないところを、終身雇用型の日本企業が社員とその家族を丸抱えすることで補ってきたわけです。「会社が社員を守る」「会社が頑張ってくれること」に期待するのが日本式でした(そんな時代にもあぶれた人は少なくなかったのですが、それが可視化されることはなく……)。

 しかるに企業とはあくまで利潤を追求するもの、社員を家族ぐるみで抱え込むことが会社の利益にも適っていた頃ならいざ知らず、社員を使い捨てにした方が儲かるようになると、その企業が担っていた社会保障上の役割も当然のように放棄されます。それが今ですね。ところが政府与党はというと、「企業の社会的責任」などと言い出して、会社が労働者を切り捨てないことに「期待をかける」訳です。モラル溢れる日本企業なら、社会的責任を果たしてくれる、雇用を守ってくれるものと、そう考えているかのようです。

 そりゃ、道義心溢れる企業なら雇用を守ろうと頑張るかも知れませんが、企業はあくまで利潤を追求するものと考えておいた方がいいのではないでしょうか。日本の企業は溶けゆく日本人とは違ってモラルに溢れているから、「社会的責任」に訴えれば雇用を守るべく努力してくれるはず、なんて考えは完全な誤りです。個人のモラルを否定してルールで縛り上げようとする一方で、法人に対してはルールを緩めるばかりで、そのモラルを信じようとするとする、やり方が逆なのです。

 

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週刊朝日に見る政治への無理解と拒絶

2009-01-19 23:23:09 | 編集雑記・小ネタ

 今週の週刊朝日の看板記事は、<「金融不況」「派遣切り」で庶民が身を切りながら生活苦に耐える中… / 「特権」だらけの国会、地方議員>……だそうです。中身は読んでません。読むほどのこともないですよね? 週刊誌ってのは中吊り広告を見れば内容の90%は理解できる、読者に優しい作りになってますから。とりあえず今週の中吊り広告を載せておきますので、右側の部分だけ目を通してください。

 さて、ここで槍玉に上げられているのは国会議員の「高給優遇」です。普段こういう役回りは「公務員」が引き受けるもので、竹中平蔵とか赤木智弘とか御用学者とその追従者ですと「正社員」を代わりの非難対象とするケースもありますが、そうした生贄の常連ではなく国会議員がこういう扱いをされるのは、割と新しいかも知れません。これが流行るかどうかは微妙なところ、来週には忘れられている可能性も高いですけれど。

 で、国会議員が「高給優遇」だそうです。まぁ、平均的なサラリーマンより給料は高い、私みたいな派遣社員なんかよりはるかに高給には違い有りませんが、野球の一流選手やオーナー経営者から見れば微々たる額でもありますね。そんなに問題なのでしょうか。高給優遇に問題があるなら、真っ先に給与返上を実行した安倍晋三あたりが理想の政治家になりそうなんですが、週刊朝日の評価としてはどうなのでしょう? 天文学的な報酬を受け取るアメリカのCEOならいざ知らず、議員報酬ごときを削減したところで財政への影響など皆無でしょうし。

参考、日本的欺瞞

 そもそも、政府与党の中枢を担う世襲議員達には父祖伝来の資産があるわけで、生まれながらの特権階級である彼らには議員報酬のような給与所得はお飾りのようなものです。企業グループの実質的なオーナーだったり大株主だったり、親族が企業経営者だったりするのなら、議員報酬などあってもなくても構わない代物に過ぎません。むしろこの議員報酬を返上することで国民の歓心を買えるなら安いものでしょう。収入は他から得られるわけですから!

 逆に、経済的な地盤を持たない政治家にとって議員報酬は生命線です。議員報酬の減額は即座に政治活動の範囲の縮小に繋がります。国民は私財を投げ打つことを政治家に求めるかも知れませんが、それにも限度があります。政党丸抱えの議員ならいざ知らず、特別な収入源を持たない非資産家であれば、経済上の理由から政治活動を断念せざるを得なくなることもあるでしょう。議員報酬の切り下げは、既に地盤を有している議員及び政党には大した影響を与えませんが、これから政治の舞台に飛び込もうとする新参には深刻な影響を与えます。政治へのハードルを高くする行為ですね。

参考、そして有閑階級による独占へ

 「原資は全て血税から」とも書かれています。産経新聞が「派遣村」出の社会保障受給者を非難するために似たようなフレーズを使っていたような気がしますが、それを言うなら在日米軍のためにゴルフ場や住宅を建設するのも、企業誘致のために「助成金」を差し出すのも、鯨研のような天下り団体を支えているのも、国歌を起立して歌っているか監視するのも全て「血税」が原資ですけどね。そこで議員報酬を惜しむなら、累進課税を強化すれば元は取れる、何十億、何百億の資産にちょっと課税してやれば議員報酬分くらいはすぐに取り返せるわけですが、なぜかそういう選択肢はないようです。歳入と歳出のバランスを合わせることではなく、とにかく給与が高いことが許せないのでしょうか。

 現実問題として、政治にはお金がかかります。理想はあくまで「金のかからない政治」かも知れませんが、実際問題として政治には金がかかるわけです。そこで資産家でなくとも政治活動に専念できるように、テレビ出演などの副業で稼いだり収賄に手を染めたりせずとも、経済的な理由で政治活動に支障を来すことがないように議員報酬は高めに設定されているわけです。ボランティア精神抜きで活動するなら、今の水準では到底足りないくらいですが。しかるに、その政治活動の意義を認めないことで、それにかかる費用の必要性も認めないのが世論だとしたら?

 「政争を繰り返すだけ」と、週刊朝日には書いてあります。世間一般の政治認識としては、それに近いのではないでしょうか。まぁ中には無駄な審議があることを否定はしませんが、内容を知ろうともせずに政治を全否定するのが最大公約数的な態度だとしたらどうでしょう? 政治とはそもそもがムダである、ゆえに政治の規模は小さいほどよい、従って議員報酬も少ないほどよい、金をかけずボランティア精神で運営されるのが良い政治だと、そんな感覚が蔓延しているような気もします。

 ことによると我々の社会が政治に期待しているのは、具体的な政策ではなく禁欲趣味とでも呼ぶべきものなのかも知れません。「血税」はできるだけ使わずに節約に努め、議員は報酬を受け取らず清貧を貫く、週刊朝日に見られるような類型的な批判を裏返しにすることで見えてくるビジョンはそういうものです。もちろん、現状では金をかけない政治=掛け声だけで実効性のない政治です。政治に金がかかるのは好ましくないかも知れませんが、だからと言って「政治に金がかかるのが良くない」と政治に金をかけることを否定し、無為のままでいることを正当化するとしたら、日本は永遠に変われないでしょうね。

 

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